世にもHUSIGIなモノガタリ

 赤髪海賊団の船に、〔幽霊が出る〕なる噂が広まったのは、およそ幽霊にはそぐわぬ、春島の海域に近づきつつあるころだった。
 野放図極まりないグランドラインの海も天候も、島の一定した気候の影響下で安定し始め、昼はポカポカとした日差しが、夜は夜でホンワカとした暖かい微風が、引っ切りなしに眠気を誘うようになっていた。
 だから初めは、単調な夜の見張りに居眠りしかけた輩が、夢か幻でも見たのだろうと、一笑に付された話だった。けれど、1人が口を割るや、それまで沈黙を守っていた者も、実は俺も───と言い出した。
 その後も目撃者は増え続け、結局、最初の証言者が出て3日目には、乗組員の5人に1人は、幽霊の目撃者になってしまったのである。
 こうなると、幾ら何でも放置は出来ない。
 「───見た奴らの話は、一応共通している。複数人で目撃したのもいるしな。それによれば、相手さんは黒髪で、白い服を着た背の高い女。出現場所は、船尾楼から舳先まで………と言うか、当然ながら見張り台から見える範囲だ。甲板の上に居て見た奴も、居ないじゃあないが。目撃時間は、1度につき数秒から10数秒。移動するんで、その位の時間で死角に入っちまうらしい。ちなみに、一晩で2度以上出現した例は見当たらなかった」
聞き集めた船員たちの証言を要約したのは、副船長であるベン・ベックマン。聞き終わった船長のシャンクスは、右手でつるりと顔を撫でた。
「美人か?」
「さて、幽霊は美人と相場が決まっているようだがな」
夜目だし、遠いから、はっきり顔を確認した奴はいねえよ───と付け加えながら、ベックマンは取り出した煙草に火を点けた。
 「今ンとこ、出る───ってだけで、他に何があるって訳でも無ェんだが、気持ち良く思ってない奴も少なくねえし」
キャビンに集った幹部の中でも、年かさに属するヤソップが、苦笑半分の顔で言う。彼自身は、その幽霊を見ていないが、噂が醸す空気まで知らない訳では無い。
 そう言えば、夜間の見張り番は公平に務めているにも拘わらず、今、ここに顔を並べた幹部クラスの中に、誰ひとりとして目撃者が居ないのも不思議なことではあった。
「放っとくのもヤバい気はするぜ、お頭?」
「まあな。けど今まで、ここいらの海域で、幽霊って奴の噂なんぞ、聞いたことがねえよな?」
確認を取られ、海賊団きっての情報通であるベックマンは頷く。
「んじゃ、その幽霊さんは、海に属するモンじゃなくて、この船にくっついてる奴って訳だ」
「嫌な事言うなよ、お頭」
どう聞いても、面白がっているとしか取れない口調で返したのは、年がら年中、骨付き肉を手放さない巨漢のラッキー・ルゥだ。
「この船の底に、女の死体が転がってでもいるってか?」
 可能性として、考えられない事では無い。切羽詰まった事情による単独行動で、或いは船員の誰かとの共謀によって、この船に密航したは良いものの、隠れ場所から出るに出られず、餓死した輩が居るのでは無いか───との可能性は。
 けれど、言い出したラッキー・ルゥ本人ですら、それが机上の空論としての〔可能性〕であることは心得ていた。
 もしも。密航者が単独行動者であったなら、餓死する前に隠れ場所からはい出して来ずにはいられまい。そうなれば、水や食料が厳重に管理された狭い密閉空間で、誰の目にも止まらず動けはしない。それ以前に、乗組員以上に船の造りに精通していなければ、出港から半日とせずに発見されているだろう。
 一方、乗組員の誰かが、金尽く、情尽くで密航者の手引きをした場合。発覚による己への科を恐れ、密航者を監禁状態に置いたまま、餓死に至らせることは有り得る。
 ただし、こともあろうに〔赤髪のシャンクス〕の座艦に、そんな男が存在すると仮定するのは、幽霊の存在を語るより、尚、非現実的だと言い切る自信が、ここに顔を揃えた総員にあった。
 「そっちの方が、話は簡単かも知んねえけどなぁ」
何たって死体なら、動かないし消えもしない───と言いながら、シャンクスは一同を見渡した。
「あんま、大袈裟な対策取るのも逆効果だろうし、ご苦労だが、この面子で夜の散歩の当番表でも作ろうや」
「妥当だな」
 シャンクスの提案に、ベックマンの同意がついたとなれば、特に反対の声も上がらない。その場で当番表を組み上げて、今夜から船内巡回を実施することで、皆の相談は纏まった。
 
 巡回が始まったその夜、噂の相手に、早速と遭遇したのは砲撃手のディンガーだった。
 「メインマスト辺りを歩いてた時に、船尾楼の上に見かけたんすよ」
すぐさま、シャンクスの元へ報告に駆けつけた男は、そう告げた。
「遠目だけど、確かに黒髪の女っす」
勿論ディンガーは、間髪入れずに船尾楼へ向かった。だが、ディンガーの到着より先に、女はひどく身軽に船尾楼の手摺りを乗り越えて、そのままその向こうへと姿を消してしまったのだと言う。
「あの位置からだと、海へ飛び込んだか、回廊(クォーターギャラリー)へ飛び降りたかしかねえんすけど、水音はしなかったし………」
回廊へ降りたとすれば、出入り口は船長室、即ちシャンクスの私室と、一般船員の居住区になっている中甲板へ向かう廊下しか無い。どちらにしても、誰にも悟られずに出入り出来る場所ではなかった。
「すんません、捕まえられなくって」
「間が悪かっただけだ、気にすんな」
それよりも───と、シャンクスは寝癖でボサボサの髪をかき回しつつ尋ねた。
「そいつ、お前の目にも幽霊に見えたか?」
「そうっすねえ」
目にした光景を思い起こすように、しばし沈黙し、やがて首を振ったディンガーである。
「正直言うと、幽霊よか人間に見えたっすよ。それも、こいつとは喧嘩したくねえなぁって人間に」
 それは、僅かな動きから相手の力量を見て取る、海賊としての勘が言わせることだろう。だったら、謎の侵入者が居るって事で、余計に事態は厄介だな───と、シャンクスは大きな欠伸をもらした。
「ディンガー、済まねえが、副船長に此処へ来るよう、伝言してくれ。それが終わったら、お前さん、寝ていいぜ」
一晩に、2度は姿を現さないと言う証言を信じれば、今夜の巡回は、もう無駄である。ディンガーも心得て、「へい」と返事一つで船長室を辞して行った。
 呼ばれたベックマンが、シャンクスを訪れたのは10分後。思いの外遅かったのは、ディンガー自身から報告を聞いていたせいだろう。ので、シャンクスは前置きなしに切り出した。
「どう思う?」
「俺たちに気付かれる事なく、この船を追跡している奴が居るとすりゃあ、不可能じゃねえだろうが………」
即座に応じたベックマンの頬に、薄い笑いが貼り付いている。
 外部から侵入し、外部へ逃げる。これなら日中、船内で発見されなくても不思議は無いし、煙のように消えて失せる手品の説明も立つ。
 説明は立つが、そんな困難な追跡の手段と、それほどの困難に見合うだけの行動の理由は、全く判らない。判らないと言うより、常識で考えれば馬鹿馬鹿しすぎると言うものだ。
「酔狂で、あんたに張り合おうと奮闘してる奴が居るってんなら、話は別だがな」
「ぬかしてやがれ」
ベックマンの軽口に悪態で答え、シャンクスはベッドの上にごろりと転がった。
 ただ転がった訳では無い。ついでとばかりに、反動で持ち上がった脚を傍らに立つベックマンの腰に巻き付け、体格の良い男を、苦もなく己の上に引き倒してのけていた。
「事態があんま、長引いて、お前とゆっくりする時間が無くなるのは、淋しいんだけどなあ」
「………あんたの酔狂極まる処だ」
喋る間にも、自分のシャツをたくしあげにかかるシャンクスの手を押さえ、ベックマンは躰を起こそうとする。今は、相手の脚に絡めた両足でそれを妨げ、シャンクスは器用に躰の上下を入れ替えた。
「そう言うなよ。せっかく、今夜は用無しだってことが宣言されてんだ。寸暇を惜しもうぜ?」
「同じ寸暇を惜しむなら、俺は眠りたい」
多忙な副船長にとって、睡眠時間は貴重である。
 けれどシャンクスは、素っ気ない言葉しか吐かない唇に、異なる役割を割り当てることで、男の理屈を封じた。
 交わし合う吐息の合間に、穏やかにノックして来るシャンクスの舌に、ベックマンもついに諦め、軽く唇を開く。すかさず潜り込んだ熱い舌が繰り返す悪戯に、手と指の動きも負けてはいない。
 重ねられた時間の中で探り出され、目覚めさせられた感覚が、腰から背筋を緩やかに這い上って、ベックマンの全身に戦闘の始まりを告げた。少しずつ、少しずつ、痺れを増して行く指先を、覆いかぶさる躰に食い込ませ、黒髪の男は、相方の髪の色ほどにも苛烈な炎に焼かれ尽くした。
 
 ディンガーの目撃から2日。〔幽霊〕は姿を現さなかった。元から、出現にはムラがあったようなので、特に不思議では無かったが、このままでは真相解明の前に、船が島に到着してしまいそうである。
 「───っんとにもお、何かやらかしてえんなら、とっととやらかして、ちゃっちゃと物事を締めろよな」
その日の巡回当番に当たっていたシャンクスは、膠着状態と言う奴に、余り忍耐力が無い。それでも、役目を放棄する訳には行くまいと、渋々船長室を出た、途端。
 目の前を、白くて黒い影がよぎった。
 考えるより早く躰は動いて、シャンクスはその影を、かっさらうように船長室の中へ引き込んだ。
 ドアを閉め、鍵までかけた上で改めて眺めてみれば、捕まえたのは、シャンクスよりやや上背がある黒髪の女。肌は白く、微かに波打って肩を過ぎる髪は鴉の濡れ羽色。顔付きはいささかきついものの、十二分に美人でとおる造作だ。
「……お頭………シャン、クス?」
とうとう捕獲された〔幽霊〕は、悪びれた風も恐れた風も無く、むしろ無邪気な驚きに、睫の長い眼を瞠っていた。あまつさえ、掴まれたのとは逆の手をもたげ、ペタペタとシャンクスに触れて来る。
「夢、にしてはリアルね」
「夢じゃねえよ」
予想外の反応に、シャンクスも何となく楽しくなって笑う。女の腕を握ったままの手に、少しだけ力を込めた。
「ほらな」
「───そのようね」
軽い痛みに嘆息し、女はシャンクスに触れていた手を降ろした。
「驚いたわ」
「驚かされてんのは、こっちさ。あんた、誰だ?」
「判らない?」
不思議な微笑みを浮かべた女は、再びもたげた腕で、シャンクスの頭を自分の胸元に引き寄せた。
 その動きに不穏なものは感じなかったし、ふくよかな谷間に顔を埋める機会を捨てるのも勿体ない。シャンクスは大人しく、女のするに任せておいた。
 着衣の感触は、やや粗い。古風な服を着ていると思っていたら、女が身にまとっているのは、実はシーツであるようだ。浮き気味の襟元から覗いたその下は、見える範囲においては、全くの素肌である。
 何とも素敵な眺めと暖かさ、加えて魅惑的な弾力に、思わず深呼吸したシャンクスは、そこで一つの事実に気が付いて、硬直した。
 鼻先にある滑らかな肌から香るのは、香水の匂いでも、女の体臭でもない。余りにも嗅ぎ慣れた独特の刺激臭………身近に過ぎて、ここに至るまで気にも止めていなかった、黒髪の男の嗜好品が醸す匂い、だった。
「ふ、副船長〜っ!?」
シャンクスの声が裏返る。呼ばわると同時に悟っていた。〔幽霊〕を、捕らえるより、むしろ庇い込むようにして船長室へ入れたのは、この匂いに無意識に反応していたからなのだと。
「お、お前、いつから女になった!?」
「あら。私を〔女〕にしたのは何処のどなた?」
男の身であれば、死んでも口にしないであろう戯れ言をさらりと吐いて、女は酷く婀娜っぽい瞳でシャンクスを捕らえた。
「それとも、女の私ではお気に召さない?」
「お前がベックマンなら、女でも男でも、別に構いやしねえが………」
早くも衝撃から立ち直り、シャンクスはしげしげと女を観察した。
「でもお前、ベックマンだけどベックマンじゃねえだろ?」
 世に言う多重人格なるものとは、別次元の問題であることは判った。その内に、いかに多くの人格を抱え込んだ多重人格者であろうとも、こうも鮮やかに、器そのものを変格出来はしないだろう。
 肝心の場所は確認していないが、見事な曲線で構成された肢体は、絶対に男の持ち物ではない。肌の色も、肌理(きめ)も、常のベックマンとは程遠い。面立ちには、そう思って見ればそれなりの共通点───兄弟や親子間の相似程の───があるが、同一人物と即断するのは、まず無理だ。
 それでも多分、シャンクスの勘に拠れば間違いなく、その躰は彼の副船長のものだった。問題は、現在その躰を支配している精神の方で………
「ベックマンも其処に、居る、よな」
「起こしてあげましょうか?」
女は口元に手を当て、コロコロと上品な笑声をたてた。
「この状態で目覚めたら、ショック死するかどうか賭けてみる?」
女の問いかけに、俺を残して死ぬ方が度胸が要るだろうよと嘯いて、シャンクスはベッドに腰を降ろした。一応、椅子は女に譲ったのだ。
「そう言うからには、あいつも、自分のこの頓狂な癖のことは知らないんだな?」
「私の存在を、女装癖か何かと同レベルにしないでもらいたいわ」
「質問に答えてねえ」
「知っているけれど、知らないわ」
真剣味を加えたシャンクスの声に、女は椅子の中で肩を竦めた。
「こうしている間にも、夢を見ている程度の朧な意識はあるようよ。でも、目覚めた時に覚えている夢が少ないように、日常的には忘れているわ。夢の中でも、〔私の目〕で見て、〔私の耳〕で聞いて、〔私の感じるもの〕を感じていても、その私が〔女〕だなんてこと、明確に意識はしていないでしょうね」
豊かな胸を強調するするように腕を組み、女は続けた。
「けれど私だって、器ごとこんな事になっているだなんて、今日初めて気づいたのよ。てっきり、精神体だけで動き回っているのだと思っていたわ」
「それで? 〔あんた〕は誰なんだ?」
「そうね。ベックマンの姉、ないしは妹だと答えるのが、一番妥当かしら?」
首を傾げる女の動きに連れて、長い黒髪が肩を滑る。
「生まれる前に、母親の胎内でベックマンに吸収されてしまった、幻の姉妹、だけれど」
 多産児の場合、妊娠と出産による母体への負担軽減のため、月齢が早い段階で、1つの個体が他の個体に栄養源として吸収され、消滅してしまう事がある。自分もその例の1つなのだと、冷静な口調で女は言う。
「だからベックマンは、私の存在を全く知らないわ。ちなみに私も、躰が無くなってしまった私が、どうしてこんな奇妙な状態で存在しているのか、知らないの。ベックマンの知識を私のものにすることは出来るけれど、ベックマンの意識に働きかけて、私の知りたいことを調べさせることは出来ないんですもの」
女の語り口は、あくまでも淡々としたものだ。
「ただ、人は精神的に、誰にでも両性具有(アンドロギュヌス)な部分があるものでしょう? ベックマンが精神的に女性に傾けば、私は結構出て来易くなって………一時的になら器を離れて、それこそ幽霊みたいに、そこらを彷徨うことも出来るのよ」
そこまで聞いた瞬間、シャンクスはえらく真面目な顔をして考え込んだ。
 〔ベックマン〕、〔女性に傾く〕のキーワードで、反射的に頭の中に広がったのは、純白の花嫁衣装に身を包んだ相棒の姿だ。
 ドレスの材質は最高級の総レース。でも、形はシンプルな方が良い。肌はきっちりと包んで、ヴェールもたっぷりと贅沢に垂らして。一筋だけ乱した黒髪は、その白にさぞや映えることだろう………像が具体的になって行くに従がって、自然と頬が緩むのを止められない。
「───それって、あいつを俺の嫁さんにしても、差し支えねえってことかな?」
 「どう言う発想よ、それ」
目の前の美女より、あんなむくつけき男を花嫁にする方に気が向くなんて───と額を押さえる女の仕草は、皮肉にもベックマンそのままである。
「言わせてもらえば、私が知る限りにおいて、私が最も出現しやすかったのは、ベックマンが貴方と寝ている最中、或いは後よ。あんまり頻繁になったものだから、私の方もコツを覚えて、最近では、自分で意図して器から遊離出来るようになっていたくらい。お判り? この事態は、まず間違いなく、その延長線上にあるわ」
「春だったし」
頑張ってたからな、俺───とかえって胸を張ったシャンクスに、女のこめかみにビシリと青筋が立ったようだった。
「そ〜お。自分が原因であることは認めるのね。だったら、責任を取ることも考えては如何?」
「ベックマンなら、幾らでも嫁にするぞ」
 俺の相方は、後にも先にも、何が起きようと変わろうと、あいつ一人だ───堂々と言い放ったシャンクスと、しばし睨み合い………やがて、女の唇に既視感のある苦笑が刻まれた。
 「…ったく、あんたって人は…」
呟いた躰がゆっくりと前にのめり、差し伸べたシャンクスの腕の中で再び顔が上げられた時には、彼の唯一無二の副船長が、何の違和感も無く、そこに存在していた。
 「………お頭?」
訝しげに眼を細め、顔の前に零れた髪を掻き上げる男にそれ以上を言わせず、シャンクスは彼の息を奪った。
 「おか…、シャ、ン……クス」
苦しさに、首を振って口づけから逃れた男の顔を引き戻し、シャンクスは満面の笑みを浴びせかける。
「愛してるぞ、ベン」
「なっ………」
「嫁に来いっ!!」
「ふざけてんじゃねえっ!!」
「ふざけてねえよ」
怒鳴る男の躰を力一杯抱き締めて、シャンクスはその心臓の上に囁いた。
「お前と俺の間に、証や束縛が必要だなんて思わない。けど、あっちゃいけないとも思ってない。俺がお前を選んだんだって、このまんまのお前だから選んだんだって、お前が納得するんなら、どんな事だってやって良いさ」
 自分と肌を合わせているベックマンの精神が女性に傾き易い、と女は言った。だが、その言葉がネガティヴな意味で発せられたものだとは、シャンクスには思えない。
 たとえばそれは、理性や理屈を踏み越えた柔らかな受容や忍耐───と言った形で顕現するものだろう。そうしたものは、ベックマンの人格を深く豊かにしこそすれ、負の方向へねじ曲げるものでは無いはずだ。
 女が言ったとおり、それは、ベックマンほど極端な形を取らずとも、誰の心の内でも、日常的に展開されているであろうこと。人の心の中に、善なるものと悪なるものが並び立ち、ひしぎ合うことがあるように、それぞれの性の特徴が、その人物なりの均衡を保ちつつ共存することこそが、重要なのだ。
 それに、極端な形───とは言いながら、女の存在も、ベックマンのままでは持ち得ぬ視点から世界を見つめ、彼の精神世界の幅を広げるのに一役買っていると解すれば、忌避するようなことではない。
 女が、世界に対して、シャンクスに対して、ああも毅然と笑っていたのは、それを知っていたからだろうと、シャンクスは思う。たとえ記憶に残らずとも、有ったことを、無かったことには出来ないのだから。
 ただ、女がチラリともらした、シャンクスの横に(つがい)として立たせるのならば女性の方が───との思いは、おそらく、ベックマンの心に潜む本音の一部。
 総てでは無いにせよ、そんな考えが優秀な頭蓋の内に存在することが、シャンクスにとって面白かろうはずはない。
「な、だから嫁に来いよ〜」
「………あんたが楽しめるのなら、の間違いだろうが」
頭の上に御定まりの溜め息───後ろ向きでは決して無い───が落ち、男の腕がシャンクスを抱き返した。密着した肌が、耳の下の鼓動が、言葉以上の気持ちを伝える。
「そう言うことにしといても、良いか」
気持ち良さそうに囁いて、シャンクスは馴染んだ肌に手を滑らせた。
 
 翌日。春島エリュシオンにたどり着き、(おか)での生の喜びを満喫した赤髪海賊団一同の脳裏から、幽霊のことなど、奇麗さっぱり吹き飛んだことは言うまでもない。
 最後まで疑問を残した1人も、目まぐるしい日常の中で、再び噂になることの無かった幽霊に、何時迄も関心を残しておくことは無かった。赤髪の相棒として生き抜くには、それもまた、一つの知恵ではあったから。
 〔幽霊〕の去就は、それ自身の意志が知るばかり………。



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