「小沢書店」
実家の町内に、一件、本屋があった。僕が小学校の二、三年のときに突然出来た「小沢書店」だ。場所は、学習塾というか中学予備校でもある今の「作人館」?、もとの「白百合予備校」の並びだった。店舗の面積は六畳くらいしかないちっちゃい店だった。マンガと雑誌しかなかったと思う。僕が東京に住むようになってからの、いつだったかに帰省した時には、小沢書店は拡大改築して駐車場つきコンビニ併設書店になっていた。ところがその後帰省した時には、消滅して更地になっていた。その更地が今現在は、どうなっているのかは、記憶にない。あるいは、その後を見たことがないのかもしれない。なぜ消滅したのか、理由は諸説ある。もっともらしいのは、いつのまにか市議会議員になっていた小沢書店主のオヤジが、誰かの保証人なっており、その関係で破産したという説。噂の主は、僕の母親だ。母親の言うことなので、真偽のほどは定かではない。同じ町内といっても、最近は、隣の家ともほとんどつき合いのない状態になっている。気がついたら、僕の実家のように、老人だけが住んでいる家が町内には非常に多い。老人同士、あまりつき合いはないようだ。特に僕の父親なんかは、定年したら、友だちがほとんどいない人だったことがわかった。…小沢書店は、ちょっとでも立ち読みをしていると、店のおばさんが文句を言うので、どちらかというと嫌いな本屋だった。月刊の『冒険王』なんかを買っていた。秋田書店のサンデーコミックスもここで買っていた。しかし、中学や高校になってここで本を買った記憶がない。


「柏屋」
小沢書店のある通りを北上川に向かって夕顔瀬橋を渡ると、新田町通りの入り口角にも一件、書店があった。昔はその近辺に交番もあった。僕が幼稚園に入る前後のことだったか、交番があったのは。「柏屋」も、やはり六畳くらいの店舗面積で、文房具を売っていた。雑誌やマンガ本のスペースは、二畳くらいだった。サンコミックスがちょっと売っていたような気がする。小学生の僕は、ここで学習用ノートをよく買った。八十年代半ばに、建て直して三十坪くらいの大きな店になった。夕顔瀬橋を移動させる工事の数年前のことだったと思う。新しくなってからの方が、頻繁に入ったように思う。多分、帰省したときに、一番近い店だったからだろう。この店がなくなったことを、つい最近の母の電話で知った。


「佐藤模型店」
かつての新田町のメインストリートを太田橋の方向に向かうと、途中に「佐藤模型店」があった。僕がプラモデルを買いに通った店だ。僕は大体、設計図通りには作らない子供だった。というより設計図を見ない。なんか面倒だったのだ。戦艦大和と戦艦武蔵を合体させて、一つの戦艦を作ったりしていた。ガキの頃からひねくれた子供だった。佐藤模型店の並びには、僕が通った床屋もあった。材木町にあった店が移転したのだ。おそらく材木町にあったのは僕が幼稚園に入る前。新田町には幼稚園の時代。僕は坊ちゃん刈りにしていた。小学校に上がると僕は風呂屋の隣の床屋に通った。今は見る影もないが、新田町のこの通りは、僕が小さい頃は、立派な商店街だった。映画館だった建物もあったような気がする。酒屋やたばこ屋の店頭でマンガ雑誌を売っていた記憶がある。子供の僕にはそんなものも、立派な本屋だった。


「賞文堂」
柏屋の角を北上川沿いに館向かい方面へゆくと、館坂橋交差点のちょっと手前にも一件、書店があった。間口が二間ほどの店で、やはりここも半分文房具を売っていた。「賞文堂」とかいったような気がするが、思い違いの可能性もある。自信はさっぱりない。小学校高学年になってから立ち読みに通った店だ。ここで僕は何を買ったのか記憶にない。高校の頃に店舗を改装したような気もする。そうしたら半分、クリーニング屋になってしまった…。


「思い違いかもしれない本屋」
賞文堂から道を渡って、館坂橋を通って北上川を越えると、高松病院を通り越した最初の交差点の角あたりにも、一件、ちっちゃなやつがあったような気がする。四畳半くらいの本当にちびっちゃい本屋だ。向かいに洋菓子のルピナスのあるビル。「谷藤のお風呂屋」が「ルピナス」のビルに建て替わって、「千田の床屋」が引っ越してくる前までの数年間の間に、このちっちゃな本屋は出来たような記憶がある。もちろん自信はない。谷藤の風呂屋は、僕が小学校高学年になった時には既になかったと思う。この本屋は、二、三年ももたないで、すぐになくなってしまったと思う。直後、はす向かいに、一・五倍くらいの大きさの書店が出来たような気もする。千田の床屋の向かい辺りだ。これはもう、僕が高校生になった頃のことのような気がするし、これらの本屋はまったく存在せず、僕の記憶の捏造かもしれない。


「萩陶苑」
千田の床屋の並びに、萩焼きの陶器を売る店が、僕が中学生だった一時期、存在した。名前は「萩陶苑」といった。僕の母親が店番のパートをしていた。十畳ほどのスペースにトイレと洗面があった様な気がする。もしかしたら、畳み二畳くらいの上がりかまちもあったかもしれない。小遣いをせびりにいったり、トイレを借りにいったりした。


「畑」
館坂橋から盛岡体育館の方へ坂道を上る途中は、右手は岩手大学、左手には工藤ちゃんの家の畑が広がっていた。梨木町、西下台の田畑は壊滅し残らず住宅地になってしまったけれど、ここの畑は、今でも残っているだろうか。畑の端に須原産婦人科なんかもあったような気がする。右側は岩大の中には、昔は土手があり池があった。池には泥鰌とカラス貝やタニシがよくとれた。その土手から自転車で下ったS君が、転んだか何かして、足に大きな裂傷を負ったこともあった。道をさらに進むと、盛岡体育館の交差点に出る。


「高松書店」
交差点を渡って、NHKを越えると高松と上田商店街の交差点に出る。当時、ここには歩道橋があった。僕の記憶では、歩道橋を渡ったのは、ここぐらいではなかったか。今は地下道になっているらしい。交差点を越えると緩やかな坂になっている高松通りがある。その「高松書店」が出来たのはいつだったろうか。店主のオヤジが嫌な奴だったという記憶ばかりある。高松書店を僕はさっぱり利用しなかった。


「田中屋書店支店」
高松書店を一件挟んですぐ並びに、とってもちっちゃな「田中屋書店」の支店があった。四畳半に二畳くらいが出っ張ってくっついたような変な形の店内だった。この店には、中学時代、「ロッキング・オン」という雑誌を買いに、毎月通っていた。当時のロッキング・オンは、六〇ページくらしかない薄い雑誌で、隔月刊だった。もちろんカラーページもなかった。盛岡では、僕の知る限り、東山堂本店と田中屋書店本店、そして高松の支店の三つでしか売っていなかった。月刊になってから、他の書店でも売られるようになったから高松の田中屋書店には行かなくなった。この雑誌が月刊誌になるのは、一九七六年にデビッド・ボウイとイギー・ポップがニュー・アルバム(『ロウ』『イディオット』)のプロモーションで来日した時の特集号の次の号からだったから、一九七六年頃に、僕は高松の田中屋書店に通っていたことになる。田中屋書店では、文庫本を良く買った。記憶にあるのは、「ロイビーン」や「怪傑ゾロ」、「ロールスロイスに銀の銃」「ゲッタウェイ」「死刑台のエレベーター」とか映画の原作本なんかだ。


「伊藤書店支店」
高松の坂道を登って神社を右側に見ながらずうっとゆくと、盛岡三高があった。その向かいに「伊藤書店」の支店もが、いつだったか出来たような気がする。それは、僕が高校生になってからの頃だったか、結構、時代があとになってからだったような気がするが、一度も本を買ったことはなかった。


「大丸模型店」
高松通りを下って上田通りに入ると、すぐ左側に画材屋があった。文房具屋さんが、ちょっと油絵の道具も置いているといった感じで、実はあまり役に立たない店だった。美術部だった僕は買い物をしたことがない。その先の右側には「大丸模型店」(そんな名前だった気がする…)があり、小学校の高学年の頃に、モデルガンとか工作用板とかを買いに通った覚えがある。僕が買ったのはワルサーPPK(ジャームズ・ボンドが持っていた拳銃)と、モーゼルのでかい奴だ。上田通りは、現在はすっかり崩壊してしまったが、僕の子供の頃は一応、商店街だった気がする。大丸えを通り越えてさらに進むと、上中生御用達の「伊藤書店」があった。立ち読みしているとはたきを持ったオヤジが露骨に邪魔をしにきたのを今でも憶えている。学校帰りにしょっちゅう、立ち読みをしていた。ここでは文庫版の「ちばてつや全集」の何冊かなど、主に講談社コミックス、それから新潮文庫のヘッセとかジッドとかを買ったような憶えがある。


「八百屋書店」
「あまから」という子供向けの食堂の前のT字路を夕顔瀬橋方向に右に回ってすぐのところに、これまたちっちゃな本屋があった。小学校の頃のことだ。店の名前は覚えていない。本棚もテキトーで、段ボール箱に本を並べていたのが印象的な店だった。この店が面白かったのは、講談社コミックス(少年マガジン系)の新刊が、必ず並ぶことだった。当時は大きな本屋さんでないと、雑誌広告に出ている新刊が全部並ぶ店などなかった。なにしろみんな面積の小さい店だった。今思うと、よく経営が成り立っていたなと不思議な気持ちになる。特にここは凄くへんな店だった。他にどんな本を売っていたのか、さっぱり記憶にないというより、なんか八百屋にマンガ本を売るコーナーがあったような光景が、今、思い出していたら、浮かんできた。ちょうどオイルショックのあおりで、一冊二四〇〜六〇円だったコミックスの価格が、一気に最高三八〇円までに値上がりした頃、この店で三八〇円の白土三平の『ワタリ』を、僕は立ち読みしていた。汚い段ボール箱の本棚に並べられた新刊コミックは、とってもきれいに見えたし、印刷の匂いもすてきだった。この本屋はいつの間にかなくなってしまった。僕が高校生の頃に、だいたい同じ場所に、伊藤書店の二倍くらいの面積の書店が出来たが、前の店と関係あるのかはわからない。今度の店では、文房具となぜかレコードを売っていた。高校生の時、ジャパンのシングルを買ったような記憶がある。この書店の並びの盛岡一高入り口寄りには、僕が中学生の頃には、「クラムボン」の前進の「セロ引き」があった。正しくは「セロひきの小屋」だったかもしれない。確か入り口のドア付近でレコードを少しだけ売っていた。


「SONYの店」
この本屋の通りの向いには、一時期、電器屋というか、SONYの専門店があった。まだオープン・リールが健在で、カセット・テープが一戸一戸紙の箱に入って売られていた頃のことだ。その店で、僕はカセット・テープを買っていた。ということは、ラジカセを持っていたということだから、中学生にはなっていたはずだ。そのうち、SONYがオープン・リールをカセット化させたLカセットというものを開発発売した。その店には、Lカセットのデッキが、並んでいて、僕はそれがとても欲しかった。しかし、Lカセットは普及しなかった。その店も、いつの間にかなくなった、ような気がする。


「浅沼書店」
この通りを北上川方向に下って来ると、山田線をまたぐ陸橋の登り口と交差する。その左側たもとに、四畳半規模の古本屋「浅沼書店」が出来たのは、僕が高校生の後半の頃だ。ろくな本がなかったが、ここで店番のバイトを何度かしたことがある。当時、僕は岩手日報の夕刊配達をしていたから、古本屋の店番は、日曜日だったと思う。店番をしている時に持ち込まれた本の買い取りもしたことがある。文学書なら、初版で見かけのきれいなものは、定価の三割。再版もの以降と専門書は二割。クズ本は五厘。マンガは一割で買えと店主から言われていた。本を売りに来た人がいると、僕は「今日は店主が留守をしているので、ちゃんと価格をつけられません。できれば出直ししていただきたいのですが…。僕の場合、最低買い取り価格でしか引き取れません。それでもよければお売り下さい。」とかなんとか言って、どんな本でも一律、定価の一割以下で買いたたいたものだった。大体、古本屋に本を持ってくる人は、その場で現金が欲しい人たちばかりだから、結局、言いなり本を置いていくことになる。我ながら、嫌な店番だったと思う。僕は自分が本を売るときは、浅沼書店に持っていった。僕の本は、浅沼さんは相場より高く買ってくれた。浅沼書店の本を買うときも、安くしてくれた。浅沼書店で買っていらなくなった本は、他の古本屋に売りにいった。その後、浅沼書店は本町に移転した。何年か前、帰省したときに、一回だけ、本町の焼鳥屋で浅沼さんに遭ったことがある。その時、浅沼さんは、相当に酔っぱらっていて、挨拶した僕が誰だか解らなかった。僕もヒゲヅラになっていたから、昔と顔つきが変わっていたから、解らなかったのかも知れない。浅沼さんは、今でも元気にお過ごしだろうか。


「雀楽書房」
その浅沼書店の横に、「雀楽」とかいう古本屋も出来た。それもやはり僕が高校生の頃だったと思う。店構えは盛岡の古書店の中では、唯一凝った作りだったけれど、中身の本には、ろくなものがなかった。顔色の悪い優男と、目つきの悪い色白の男のオヤジ二人で始めた古書店だった。顔色の悪い優男は、すぐに駆逐されたのか、目つきの悪い色白の男が一人になった。とにかく店主の好みによって本のランク付けと値つけがされているので、実は新刊本屋でまだ売っている本でも、異常に高い値段がついて売られていたりした。一冊一冊ハトロン紙でカバーして、見てくれにはこだわっていた。営業努力の方向が違っているように思えた。ここで僕は別役実の戯曲の本なんかを買ったような気がする。今もあるかどうかわからないけど、すぐに潰れると思った割には長続きした。


「石川文房具」
雀楽からまた戻って道を梨の木町方面に向かうと、岩大植物園裏門入り口角に石川文房具店があった。丸ペンやガラスペン、カブラペンなど、小学校時代にマンガを描く道具は、ほとんどここで買った。文房具屋さんだけれど、店頭にスタンドが一つあり、そこでマンガ雑誌を売っていた。しかし同級生の家で顔見知りだったから、立ち読みは難しかった。


「プレハブマンガ古書店」
その先の道なりに、山田線の踏切の方向へ坂を下る途中、一九八〇年代の前半だろうか、プレハブ小屋のようなところでマンガの古本を売っていたことがある。あれはなんだったのだろうか。細長い店舗で道路面の外壁も本棚になっていて、日焼けしたマンガの背表紙が並んでいた。ここでは買い物をしたことがない。


「謎の冷麺屋」
この道をさらに下って、踏切前。岩大植物園正門につながるポプラ並木(確か颱風で倒れて民家の屋根を直撃、一本残らず切られてしまって、現在は銀杏はなくなっている)に入ると、この道を横切って、梨木町、西下台町に住んでいる生徒が通学用に使っていた細い路地がある。その梨木町側の、狭い三角形の空き地に、粗雑なプレハブで出来た冷麺屋が、一九八〇年代の半ばに、一時期だけ出現したことがある。冷麺のスープがドロッとしていて、異様においしかった記憶がある。すぐに消滅したのだが、一体、あの店も何だったのだろうか。


「赤沢号」
ぐるりと一回りして、梨木町に戻ってきた。今度は夕顔瀬橋手前から左に折れて材木町に入る。僕が小学校の頃は、すぐ左手に「赤沢号」という文房具店があった。さわや書店の親戚筋の店だ。ここに少しだけ本と雑誌が置いてあったので、よく立ち読みにいった。幼稚園、小学校低学年の頃、一番雑誌を買った店だ。でも当時、マンガを自分で買えるほど小遣いを持っていたかは、疑問だ。立ち読みだけだったかもしれない。月刊「ぼくら」なんかの輪ゴムを外して「タイガーマスク」なんかを読んでいて店の人に叱られた憶えがある。小太りで禿げて、キューピーみたいな丸顔髪型のジジイが店にいつもいた。材木町は、家から近いのと親戚の家が多かったので、僕には遊び場だった。僕が通ったのは仁王幼稚園だったから、通園路でもあった。


「露店」
材木町も昔は夜市などなかった。夕顔瀬橋のたもとに野菜の行商の人がたくさん並んでいた。当時は「スーパー」という言葉はあったかどうかわからないが、材木町には、スーパーのような「ハチヤ」と「マルイチ」というマーケットが二件あった。ハチヤは、赤沢号の先に並んであった。肉とか野菜とか売っていたと思うがあまり覚えていない。店の奥の従業員用スペースを通り抜け、裏口から外に抜けると、そこはちょうど親戚の店の倉庫の裏口と合流していた。その向こうはエンショウインの墓地だった。お墓が、無造作にたくさん並んでいた。ちっとも整理されてなくて、傾いたりまだ岩手国体の前で中央通りが整備される以前のことだったから、材木町と岩校の間は、田圃と墓場だった。ヤエポンの家も、現在ある合作社の隣ではなく、もっと梨木町寄りにあって、瓦屋根の縁側のある建物だった記憶がある。ハチヤはその後、館坂橋手前の「賞文堂」向かいに移転した。今もあるかは知らない。マルイチは、材木町の朝日橋たもとのビルの一階にあったが、今はどうなったか。


「ごばんしょ」
夕顔瀬橋の手前、梨木町の南西のはじっこに「ごばんしょ」があった。赤飯とか串団子とかお茶餅とか、アイスクリームなんかを売っている間口が一間半くらいの狭い店だ。我が家では時々ここでお茶餅や醤油団子を買っていた。ここの醤油団子は、みたらし団子ではなく、団子の表面に醤油味が染めたように着いているのだ。結構d最近まで営業していたようだ。


「材木町の病院」
材木町には、病院も結構あった。梨の木町寄りから、「佐々木眼科」「浅利歯科」。その向かい側に「ヤマヤ産婦人科」。長田町寄りに「村井眼科」。向井の今はマルイチのビルになっているが、昔はそこに同級生の家の「塩屋」と「本間内科」があった。本間内科の待合室で僕は少年マガジンを読んでいた。本間内科は、移転して、今でも上田二丁目にあるはずだ。佐々木眼科は僕が小学生の頃に廃業、浅利歯科は僕の小学校の校医だったが、通学の頃にどこかに移転、バブル景気の始まる前後に親戚の傾いた旅館の保証人になったとかで夜逃げして、行方は杳として知れない。ヤマヤは今でもある。村井眼科も校医だったがいつの間にか無くなっていた。


「平野自転車」
材木町といえば「平野自転車」にもよく遊びにいった。幼稚園が一緒の同い年の女の子がいたし、自転車の修理を見るのが面白かった。彼女とは小学校も一緒だった。今では考えられないが、小学校一年に上がってからは、梨木町の「八百六」という八百屋の娘とも仲がよく、よく一緒に、平野自転車店に遊びに行っていた。父が交通事故で入院し母が病院に看病で泊まり込み、僕と兄が材木町の親戚の家に預けられたとき、小学校までは自転車屋の娘と一緒に通った。通ったといっても、直線距離で100メートルくらいだろうか。小学校高学年の時、自転車屋のお父さんが亡くなった。そのとき僕は蜘蛛膜下出血という言葉を知った。中学は別々になった。その後彼女は看護婦さんになったと聞いた。


「鍛冶屋」
もう一つよく覗いたのが「鍛冶屋」だ。平野自転車屋の並びにあった。包丁を打ち出したり、ノコギリの刃の目立てをしていたのを憶えている。はす向かいにもう一件、自転車屋がありその店舗の中に鍛冶屋がもう一つあったような気がするが、記憶違いかもしれない。 「竹花精肉店」というのもあった。よく店内を通過して、裏口から抜けて、近道にして遊んだものだった。そういえば、僕の実家が梨木町に建つ前、一年間くらい材木町の親戚の家の二階に住んでいたことがある。実家が建ったのが昭和三九年の年末だ。材木町の二階の生活の断片が、かすかに残っているから、その頃が、僕の一番古い記憶ということになる。3才になったからならない頃のことだ。僕の記憶の中の中にある昔の道路は、たいてい舗装されていない。盛岡の道路という道路が舗装され、道幅が広くなったりしたのは、岩手国体の前だ。その一二年で一挙に道路が変わって、町の風景も変わった。エンショウインの墓地も整理された。僕の実家の前の道路もアスファルトに固められた。昔のアスファルトは粗雑で夏になるとコールタールが溶け出して、靴や手足にこびりついたものだった。


「鹿島建設の寮」
私の家の前も国体が来る前までは舗装されていなかった。雨が降ると随分とぬかるんだが、しかし道路の左右にはコンクリの蓋つきの側溝があって下水道になっていた。家の右斜め向いには、鉄枠と木肌の壁で出来た大きな建物があった。鹿島建設の寮だった。トタン張りのプレハブが出現する前のタイプだろうか。恐ろしく安普請な作りだった。食堂の棟が一つと、小部屋のある棟が二つほどあった。食堂の前には大きな柿の木があり、旦那さんのいないまかないさんがいて、毎年樽柿にしていた。僕はそれをもらってよく食べていた。まかないさんの一人息子は僕より6つくらい年上で、マンガのうまいお兄さんだった。この寮の奥には二部屋くらいの間取りの平屋が何件があり、やはり社員が住んでいた。その一つは同級生の家だった。掘っ立て小屋も二、三あり、その中には測量道具だとか、建設現場で使うものから、なぜか布張りのソファとか、いろんなものが仕舞ってあった。最高の遊び場だった。この寮の裏手にはおいなりさんがあって、時々鹿島建設の人たちが参拝?に来たりしていた。この敷地にずーとむかし創立者の鹿島せいさくの家があったとか伝えられていたが、本当かどうか確かめたことはない。そういえば盛岡を見下ろす岩山にある展望台は、鹿島せいさくを記念して建てられたものだったか。僕が高校の頃だったか、寮が撤退し更地になった。今でも更地のままだ。


「黒松」
その隣は医者家だった。道路側に広い庭があり、住居はその奥にあった。庭といってもなんの手入れもしていないから、草木が生い茂って、日が差さず昼間でも鬱蒼としていた。その庭の角に大きな黒松の木があった。根本には大きなほこらが出来ており、子供なら一人くらい余裕で入ることができた。とにかく背が高く、遠出をしてもこの木を目指して歩いてくれば家にたどり着くことができた。この木は僕が中学生になった頃に伐採された。家主の医者が病院を建てたので、ここの庭も整理され小さな駐車場になった。


「ヤクルト工場」
北上川を背に突き当たりには山田線の線路に沿ってヤクルト工場があった。そのころは牛乳のようにビン入りだった。僕は時々忍び込んで紙の蓋をくすねてきた。何でそんなもの集めていたのか理由は覚えていないけれど、ヤクルトの蓋を集めていたのは事実だ。工場が移転して更地になった後、蓋のないマンホールが何カ所が残って危険な遊び場になった。


「田圃」
僕が幼稚園の頃の梨木町は面積の四分の一以上、田圃だった。現在のロッキーとかいうスーパーやその向かいにある駐車場はみんな田圃だった。田圃の真ん中に道が通っていたのだった。田圃には上田から流れてくる用水があり、そこには泥鰌も住んでいたし、季節になると買えるの卵もよく見つけた。この用水は北上川に流れていた。どこから流れてきたのだろうか。遡っていくと、大平医院と河北小学校の間を通って、その先は、上田の陸橋の下にあった田圃までつながるのか? そうするとその先は、長田町、あるいは高松の池辺りまでつながるのだろうか。


「北上川の赤錆びた色の水」
北上川の水が透明になったのは、小学校の高学年の頃だった。上流に四十四田ダムができ、水量の調節が始まり、松尾銅山が閉山し、それまで垂れ流されていた真っ赤な汚水がなくなった。ちっちゃな頃、北上川には生き物がいなかった。水は赤く河原の石には赤さびのようなぬるぬるがこびりついていた。川で遊んで家に帰ると、臭いが染みついているから、母親にすぐにばれるのだった。


「わき水」
夕顔瀬橋と山田線の鉄橋までの間に、四〜五カ所、湧き水があった。それぞれ水をためる木製と石畳が設置され、利用しやすくなっていた。夏はこの桝にスイカを浮かべて冷やしている家もあった。また、洗濯をする近所の人も多かった。家から大きな金盥やバケツに洗濯物を入れてやってくるのだ。私の家でも毎年秋口につける漬け物の大根や白菜をそこで洗った。遊んでいて喉が渇くと河原にいった。水はおいしかった。湧き水は北上川の河岸段丘からしみ出しているのだった。


「東山堂材木町支店」
さて、本屋の話に戻ろう。材木町には唯一の書店「東山堂書店」の材木町支店があった。僕の家では、本を注文したり配達してもらうのは、いつもここだった。細長い、ウナギの寝床のような店で、僕が中学の頃に改築されたが、それ以前はとっても薄暗い店だった。どこの本屋さんもそうだが、改築前は木製の本棚しかなかった。体外改築するとスティール製に取り変わるのだった。昔は入り口の左に新刊書を見せる本棚があり、真ん中に雑誌の棚、両側に本棚、真ん中から奥にレジを囲むように平台があり、店員が二、三人いた。マンガ雑誌やコミックスは、レジ周りの平台にあったので、立ち読みは難しかった。子供の頃の僕は、この本屋で一番買い物をしたのではないか。『ガロ』や『コム』なんかを立ち読みしたのもこの本屋だ。手塚治虫の「ライオンブックス」や「タイガーブックス」「火の鳥」を立ち読みしたのもここだ。当時のは、B5サイズで雑誌と同じ紙だった。その少し前、我が家で、僕と兄用に、週刊のマンガ雑誌を定期購読したことがある。講談社の「ぼくらマガジン」という、二年間しか続かなかった雑誌だ。もともと「月刊ぼくら」が週刊化したもので、その後「少年マガジン」に合併吸収された。「ぼくら」から引継、その後、少年マガジンへと連載された「タイガーマスク」。「仮面ライダー」もあった。坂口尚画、原作平井和正の「ウルフガイ」、永井豪の「魔王ダンテ」なんかもあったから、今思うと、そうそうたる内容の雑誌だった。


「長町書店」
材木町を抜けて、長田町の通りとの交差点にも、昔は交番があったうな気がする。そこを左に曲がって少し行くと長町書店がある。ご夫婦が二人でやっている小さな書店だ。入って入り口すぐの左側のレジがあり、その隣の本棚の下半分がマンガのコミックスだった。朝日ソノラマのサンコミックスが充実していた。当時マンガのスペースはどこの本屋さんでもそれくらいだった。本棚一個丸ごとマンガというような店は滅多になかった。ここは、小学生の僕が一番通い、立ち読みをした店だ。コミックスの注文もした。当時は二週間以上かかったから、お小遣いをキープしておく自信がない僕は、前金で支払ったりしていた。小学校当時、僕が収拾したマンガのコミックスは、ほとんどこの書店で購入したものだ。サンコミックスの石森正太郎はたいていここで買った。永井豪の「デビルマン」はここで買った。


「長町角のマンガ古書店」
長町書店のを通り越して中央通りとの交差点、今は東日本ハウスの本社が建っているが、以前は「銀映座」という、成人映画専門の映画館が建っていた。小学生の僕は、エッチな看板にドキドキしながら前を通っていた。そのはす向かいの角に、八〇年代の後半に、マンガの古本屋が一時期、存在していた気がする。すぐに消滅して占いの館かなんかに変身した気がする。今は、どうなっているのだろうか。


「啄木新婚の家」
ここのブロックの裏に入ると、今は観光名所の一つになっている「啄木新婚の家」がある。茅葺き屋根でこきたない建物だった。僕が子供の頃は、誰か家族が住んでいた。父の知り合いの一家も、家を建て替える際、一時期、この家に住んでいたことがある。現在はトタン屋根に改修され、人も住んでいない。観光名所にふさわしい作りと扱いにはなっているようだ。


「キリン書房」
その近所に、それこそ四畳半規模の古本屋が出来たのは、やはり八〇年代の半ばだ。僕は帰省したおりに見つけて、ここでは角川ノベルスを何冊か買った記憶がある。たしか「キリン書房」あるいは「駱駝書房」とかいう名前だったような気がするが確かではない。とにかく盛岡には「キリン書房」と「駱駝書房」という名前の古書店がそれぞれ存在していたような記憶がある。この店はすぐにどこかに移転したような気がする。


「普通の本屋」
さて、中央通りを市役所方面に向かって少し進むと、共催会館の黒い建物がある。その角を左に折れて、少しいくとやはり左側に、書店が一個、あった。僕が高校生の頃に出来た店だ。エロ本とマンガと雑誌しかない店で、本の整理が下手で、ただただ積み上げてあったのを憶えている。白泉社のコミックスが充実していて、僕はここで大島弓子の「綿の国星」シリーズなんかを買った憶えがある。


「仁王書店?」
この道を直進すると医大の敷地にぶつかる。右に曲がって本町方面へ向う。右側角に教会のある交差点を左に曲がって、何番目かの路地をまた左に曲がると、仁王小学校の校庭の前の通りになる。ここにも一件、書店があった。名前は「仁王書店」だったようが気がしたが忘れた。なぜか「ワイルド7」が揃っていたので、よく買いに行ったのを覚えている。そのはす向かいに、上田の陸橋たもとにあった古書店の浅沼書店が引っ越したのはいつだったか。今でも存在しているだろうか。 この道をずっと上中方面に戻って、村上スーパー(今もあるのだろうか)の前の通りには、移転する前の「クラムボン」があったのだっけか。高校を過ぎた辺りから、僕の記憶は、どんどん曖昧になっていく。通りの一本、二本、間違えているかもしれない。僕の場合、ちっちゃな頃のことの方が、よく憶えているのだ。なんでだろうか。


「はたや?」
本町通に戻ろう。中津川に向かって直進しよう。いや、その前に、一件、短歌とか俳句専門の「はたや」とかいう名前の古書店が一時期あった気がする。ちょうど、郵便局の裏手あたりの界隈か、一つ向こうの医大病院との間か。確か、喫茶店か骨董品屋かなにかの二階にあって、事前に予約しないと、見せてもらえない店で、僕は結局、一度も行かなかった。


「坂本書店」
本町通を上の橋に向かって直進して、しばらくいくと、今は拡張されて太くなった寺町方面に向かう道と交差する。その右角に、化粧品も売っている坂本書店がある。これはいまでも健在だと思う。以前は本当にちっちゃい店で、化粧品屋の一角で本も売っていたという感じだった。道路の拡張と一緒に建物ごと改築されて、ちょっと立派になった。


「運動系書店」
坂本書店を右に曲がって、三つ目くらいのビルの階段を上がった真ん中に、ほんの短期間、本屋があった。労働組合系の小雑誌と、創価学会系の著作が並んだ、おかしな本屋だった。目つきの悪い不健康そうなオヤジが店主をやっていたが、すぐに消滅した。ここでは何も買ったことがない。


「東書店」
本町通りに戻って再び、上の橋方面へ歩くと、左側にしょう油があった。しょう油屋は、今は移転して、川合村に工場がある。少し歩くと、今度は映画館SY内丸のあったT字路に出る。右に曲がったすぐ左側に、東書店という本屋さんがあった。ここでは、奥に入った突き当たりの木製の本棚の真ん中二段に、マンガのコミックスが並んでいた。僕がマンガ本を探して通ったのは小学生の頃さから、東書店も改築する前のことだ。


「マンガ古書店?」
また本町の戻って少し前進。上の橋を渡る前に、第一勧銀(今でもあるのだろうか? あるとしたら名前はみずほ銀行だ)の角を左に折れてしばらく進むと、右側にマンガを専門にした古本屋が一件誕生した。この店が登場したのは、八〇年代の半ばのことだ。この店には、二度しかいっていない。その後、どうなったか見当もつかない。今となっては記憶も曖昧だ。本当にこの店があったのかも実は自信がない。


「上の橋の老舗古書店」
本町通りに戻って上の橋を渡った左手に、昔からある古書店が一件。僕はここに一番本を売った。買うよりも、売った冊数の方が圧倒的に多い。どうしてだったか覚えていないが、望月三起也のコミックス数十冊はここに売った。いらなくなった文庫本もみんなここに売った。本を売るときは、少ない冊数をちまちま持っていった方が、割がいい。この古本屋はまだあるのだろうか。


「彩園子、一茶寮」
さらに直進すると土蔵を改造したパン屋、「正食パン普及会」がある。昔の井筒屋、井弥商店だ。その裏に、享保年間の土蔵を改造した「ギャラリー彩園子」がある。一階が貸し画廊と画材屋、二階が靴を脱いで上がる喫茶店「一茶寮」だ。ここに、地方出版物のコーナーがある。高校時代、僕は画材をここで買った。その何年後かに、僕は一年半の間、ここに勤めていたことがある。時々、喫茶店でコンサートなんかもやった。あがた森魚とか、トム・コラとか。お陰で色んな人に知り合えた。奇人も多かった。ここは今でもある。パン屋は同級生が継いでいる筈だ。


「???」
この道を盛岡二高の方向へ進むと左側すぐに本屋がある。名前は忘れてしまった。僕が小学校頃、ここが盛岡で一番、マンガのコミックスを多く置いていた店だった。当時、木製の天井まで届く本棚、二つにマンガが詰まっていた。それはわくわくしたものだった。でもあんまり買い物をした記憶はない。何を買ったのだろうか。


「レジャーセンター?」
通りを少し上の橋に戻って、正食パン屋の向かいに、僕が小学校の頃は、夏は温水プール、冬はスケートの出来る施設があった。名前をなんといったか、確かレジャーセンターと僕らは呼んでいたと思う。僕が彩園子に勤めていたときには、既に駐車場と間口の狭い店が顔を並べた長屋のような貸店舗になっていた。


「クラムボン」
通りを少し上の橋寄りに戻ったT字路を、中津川に平行に中の橋方面に向かうとすぐ右側に、喫茶店のクラムボンがある。昔、上田にあったセロひきが、本町を経て、移転した店だ。今でも自家焙煎のコーヒー店だ。


「東山堂本店」
その道をどんどん進んで中の橋通りに出る。一本ずれて肴町のアーケードの中に、東山堂本店がある。昔は木造二階建てだったが、僕が小学校の四年の頃に、五、六階建てのビルに建て変わった。盛岡では一番の老舗で大きな書店だ。オープン初日に、S君と一緒に行って、記念品に文庫本のカバーをもらって帰ってきたことがある。コットン地の布のカバーだ。数年前、帰省した時に下村君の家に遊びにいくと、その時のカバーが出てきたと見せてくれたことがある。物持ちのいいやつだ。僕も家に帰って、ずいぶんと使っていない机の中を探したら、ちゃんとあった。今、そのカバーは、三鷹の僕の机の中にある。でも使っていない。ここでは実はあんまり本を買ったことがない。小学生の頃、偕成社やポプラ社の子供向けの「ルパン」や「ホームズ」のシリーズを買ってもらったのがここだ。当時の値段は二九〇円くらいだった。建て直す前のことだ。オイルショック後は、三八〇円に値上がりしたのを憶えている。


「田中屋書店」
東山堂の前を通って、最初の交差点を左に曲がると「田中屋書店」の本店があった。ここはマンガのコミックスが、本棚三つ分あった。青年誌の少し大きめのコミックスの品揃えが充実していて、小学生の僕には買いたいマンガがすくなかった。しかし小学生時分、僕が知る限りでは盛岡で一番、マンガの店頭在庫量が多かった書店だ。だから捜し物があると、ここまで見に来た。見に来たけれど、たいてい空振りだった。


「昔貸本屋だった店」
なだらかな坂になったこの通りを中津川を背に直進すると、八幡神社に至る。登りつめた右脇にも、小さな本屋があった。ここは元貸本屋だったのか、マンガの品揃えが独特だった。貸本当時のものも、適当な値段をつけて売っていた。小学生だった僕には解らなかったが、今思うと、掘り出し物もたくさんあったに違いない。僕は数冊、貸本ものを買ったはずだ。貸本の中には、数人の漫画家の連載が載った雑誌のような形式のものもあった。僕がそこで買って持っているのは、確か、さいとうたかをのギャングものが、連載されていた奴だ。


「帳場のある本屋」
東山堂本店のある通りと中津川の流れとの間に、もう一本通りがあった。大通りの交差点から入って、この通りを下の橋方面に向かうと、しばらくして右側に、間口の大きな、とても古い書店があった。奥には、上がりかまちがあり、帳場もあった。真ん中に平台がいくつもあり、本も雑誌も表紙が見えるように並べられてあった。左右の壁にある本棚には、本が半分も並んでいなかった。それも、星一つ七十円の岩波文庫だったりした。春陽文庫もあったような気がする。それらはみんな何年も前の売れ残りで、背表紙が日に焼けて、すっかり色褪せていた。僕が小学生の時既にそんな状態だったから、いつから置いてある本だったのだろうか。この本屋は、気がついたら、建物ごと跡形もなくなっていた。


「古い古本屋」
そのはす向かいに、小汚い骨董品屋があった。そしてその隣、同じ建物に並んで、四畳半くらいの狭い古本屋あった。店の奥には、畳の部屋があって真ん中に炬燵におじさんとおばあさんが座って店番をしていた。そこは生活の場所で、時々、ご飯も食べていたから、店の中には、おかずの匂いが充満していることもあった。本もろくなものがなかった。とにかく変色して黴の臭いのする本しかなかった。それでも新潮社のヘンリー・ミラー全集の何冊かを、単発で、すごく安い値段で買ったことがある。その本を買ったくらいだから、高校生のころまでは、存在していたのだと思う。気がついたときにはやはり建物ごと消滅していた。


「キリスト教書店」
この通りと直角に交差している何本目かの通りに、つまりその界隈のどこかに、キリスト教専門書店があったような気がする。名前が「善隣館」とかそういう本屋。でも用事がないので、入ったことがない。でもそんな本屋、なかったのかもしれない。


「お堀の近くの古書店」
中の橋に戻って中津川を渡り、大通りを進むと、岩手日報社の先に昔の闇市の後に出来た一角が広がる。通りの左沿いは城跡のお堀に、右沿いは小さな店が並んでいる。その中に一件、古本屋が進出したのは、九〇年頃か。移転した「キリン書房」か、あるいは「駱駝書房」とかいったと思う。最近のことなのでそこで本を買ったことはない。


「東山堂サンビル店」
そのまま大通りを駅の方向へ進むと、はす向かいにサンビルがある。サンビルの二階には、昔、食堂があったものだが、ある時からフロア全体が東山堂の大きな店舗になっていた。僕が高校の時にはなかったと思う。出来た時は盛岡で一番面積の広い書店だった。これは近々撤退するらしい。もしかしたら既に撤退したのかもしれない。


「映画館通りの書店」
大通りを下って、映画館通りとの交差点を右に折れ、中央通りの方向へ進むと、ピカデリーという地下の映画館の入り口の横に、面積が六畳くらいの小さな書店があった。マンガと雑誌とエロ本の店だ。捜し物があった時に覗くのだが、ここで欲しい本が見つかったことはなく、おそらく一冊も本を買ったことはなかったと思う。


「マンガ古書専門店」
映画館通りを出て中央通りの向こう岸、ピカデリーのはす向かいに、マンガ専門の古本屋が、八〇年代の半ばに出来た。安い値段でマンガの全巻揃いという買い方が出来るようになったのだが、その頃には、僕はマンガ本を集める趣味をなくしていたので、あまり利用しなかった。この本屋は今でもあるのだろうか。 そのまま郵便局の方向へ通りを進むと、昔の白百合女子高校のあった場所の一角に、規模を縮小した第一書店の新店舗が出来たというが、また目にしたことがない。


「かわとく、第一書店」
さて、映画館通りに戻って、大通りを渡って直進。菜園の通りの角の川徳デパートがある。ここの三階に、第一書店の支店があった。八〇年代の半ばのことだ。ここの本の人文系の品揃えが、一時期、一番充実していたように思う。現在ここは「丸善」になっているというが、僕は行ったことがない。


「さわや書店」「第一書店」
再び大通りに戻って駅方向へ進むと、左右に「さわや書店」と「第一書店」がある。しかし、今は第一書店がなくなったという。二階に美術書が結構あり、喫茶店とその上に第一画廊があった。画廊は結構前に、新築されたテレビ岩手の一階に移転していたか…。第一書店は、最初、平屋だっただろうか。昔の店舗を僕は憶えていない。反対側のさわやは、ビルになる前は、一階だけが店舗の細長い店だった。ビルに建て変わったのは、東山堂本店が建て替えたより、少し後だったような気がする。書店部分は一階と二階だけで、三階には、小さな店舗がいくつもはいっていた。最奥にあったレコード倶楽部の支店には、中学、高校時代には、ずいぶんとお世話になった。さわやは、いつの間にか、隣に絵本の専門館も出来ていた。


「東山堂書店の支店」
大通りをそのまま東日本ホテルのある方向へ抜ける寸前、右側に東山堂の支店が出来ていたことがある。どこかのビルの一階だ。面積は、そう、やわやの絵本館くらいだったか。すぐになくなって、洋服屋かなんかになってしまった。


「斗が澤書店」
大通り商店街を抜けて、海運橋に向かう途中、左側に「斗が澤書店」があった。十二畳くらいの大きさの書店だ。マンガと雑誌、文庫本が中心の店だった。高校時代、結構、ここには立ち読みにいった。何でだろうか。今もあるだろうか。


「東山堂のまたしても支店」
さて、海運橋を渡る寸前の五叉路の一角に、昔はミドリヤといった地上三、四階建てのショッピングビルがある。ここの地下のフロアにも、一時期、東山堂の支店が出来ていたことがある。僕が帰省する時に何回か入ったことがあるが、いつの間にかなくなっていた。何か買ったのか記憶にない。確か三角形の店舗だった。


「駅B1」「フェザンの書店」
海運橋渡って北上川を越えると盛岡駅に出る。地下一階に書店があるが、一度も利用したことがない。地下はステーションデパートと言ったっけか? 駅に隣接したショッピングビル「フェザン」の三階にもちょっと大きめの書店がある。この駅ビルは新幹線が開通した時に出来たものだ。僕が盛岡に住まなくなってからできた書店なので、あまり利用したことがないから、想い出はほとんどない。今でもあるのかも確認していない。


「おばあちゃんの本屋さん」
駅を出て夕顔瀬方面に歩くとすぐに朝日橋の交差点に出る。この橋は僕が大学生の頃に出来た橋だ。この交差点を越えてさらに進むと、右側に小さな本屋があった。お婆ちゃんがやっていた、マンガ雑誌とエロ本の店だ。マンガのコミックスもほとんど置いていなかった。この辺り一帯は、再開発される前は、車も入れないような細い道と崩れ落ちそうな建物とが林立しておいた。掘っ立て小屋のような焼鳥屋とか、民家の玄関を改造されその奥にある庭が有料の自転車置き場だったりした。本当にごちゃごちゃしていた。おばあちゃんの書店もビルに建て変わる前は、八百屋のようなしもた屋だった。本も平台に並べられてあり、壁川の本棚はほとんどりんご箱を重ねたみたいな感じだった。しかも本などほとんどなくって空きが目だった。再開発に伴って、三階建てくらいのビルになった。一階に本屋もそのまま残ったが、中身は同じだった。お婆ちゃんは、多分、もう生きていないのだろうな。いや、お店そのものがあるかどうかもわからないな…。お婆ちゃんの本屋を出て、橋市ビルの方へ抜けて北上すると、振り出しの夕顔瀬橋に戻る。


※変な子供だったな…今もか…
これで僕の知っている盛岡の本屋は、ほとんど書き尽くした。僕が東京に出てくる前の記憶に頼っているから、今現在、どうなっているかは解らない。ベースとなっている記憶は小学生の頃の本屋巡りだ。僕は月に一回くらい、日曜日の午前中から欲しいマンガ本を探しに歩き回る子供だった。書き忘れもあるだろうし、山岸とか青山町とか仙北町とか、雫石川の向こう側とか、松園とか都南のことは、僕は知らない。いつの間にか盛岡は大きくなって、郊外に広がっている。最近は郊外型の書店が増えたと聞くが、僕はあんまり帰省しないから、見たことも一度も利用したこともない。


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