†記憶喪失・別モノ†(書き掛け)

 

 半年前に突然離婚してくれと言い出した結婚六年目の妻の美砂が、半年間宥め罵り怒った俺の女々しい罵詈雑言に耐えて俺を説得することに成功し、嬉々としてずっと以前から用意してあった離婚届を手に出掛けて行ったのは今日。
 いつまで経っても帰って来ないからまあ浮気相手に報告にでも行ったのだろうと思っていたら、夕方になって事故に遭って記憶喪失になったと病院から連絡が来た。
 免許も持っていない美砂だが、バッグに入っていた離婚届けから身元が解り我が家に連絡が入ったのだ。なんとも皮肉な話だまったく。
 慌てて出掛けてみると美砂は不思議なものを見るかのように俺を見て、わたしはあなたの妻ですか、と聞いたので取りあえずうん、と答えておいた。
 医者の話はよく解らなかったが、理解した範囲で言えば美砂は常識的な記憶一般は持っているが個人的な記憶はすべて失っているとのことのようだった。
 つまり箸の使い方や野菜の名前や年号や徳川家康が誰かや自転車の乗り方や男女の違いや犬には飼い犬と野良犬がいることや車の運転には免許が必要で信号の赤は止まれだなどは解るものの、自分がどこの誰で親が誰かとか俺が誰かとかどこの学校を卒業したかとか今日が何日かとか今からどこに何をしに行く予定だったのかとか浮気の相手が誰だったのかなんてことはすっかり、すべて、綺麗さっぱり忘れてしまったのだった。
 
 医者は離婚届を俺に渡してくれた。
 奥様には見せていません、と医者は言ったが、どうしろというのだ。ちょうどいいからよりを戻せとでも。そんな下世話なことを医者が勧めていいのか。
 いやそれはどうやら被害妄想だった。
「今の奥様が帰る家が必要です。怪我の方は頭の瘤だけで脳波に異常は見られませんが、しばらくは安静にしてください。身体だけではなく心も。ですから、あまり奥様を混乱させないように」
 なるほどそれはその通り。
 
 だから今、俺は二階の自室の引き出しの奥深くに判までついた離婚届をしまい込んで、美砂の携帯電話と睨み合っている。
 電話帳か履歴か解らないが、きっとこれの中に浮気相手の電話番号が潜んでいるのだ。
 
 
 
 
 睨み合いに疲れて階下に降りると、ソファに座ったままの美砂がこちらを見上げた。うっすらと茶を帯びた瞳が真っ直ぐに見つめているが、眼病の子供のように少し曇ったような視線には威圧感はない。だが俺はあからさまに動揺した。
 去年三十歳を越えたはずの妻がまるで少女のように見えたからだ。
 
 美砂は記憶と一緒に表情も失くしたかのようだった。
 笑わないし、泣かない。癇癪を起こすこともしない。
 ただおそろしく静かで、脳波に異常はないと医者は言ったが俺は少し不安だった。
 頭の線がどっか一本切れたんじゃないか。
「…桂さん」
「啓介」
 反射的に言い返して俺は再び失語した。
「啓介さん。…敬称も要りませんか?」
「敬称も敬語も要らないと思うけど、お前が言いやすい方でいい。でも桂はお前も桂なんだから、なんか変だ」
 美砂は小さく頷いた。
「わたし、あなたのことなんて呼んでいたのかしら」
「名前で呼び捨てかおとうさん」
「…子供がいるの?」
「いない。俺子供出来ないから。無精子性」
「ああ…」
 ごめんなさい、と失言を詫びた美砂になんだか力が抜けた。
「いいよ別に。お前それでも良いって言って結婚してくれたんだし」
「わたしはあなたが好きだったの?」
 俺は美砂の隣に座り、背もたれに肘をついて少し笑った。
「もちろん。大恋愛。お前の親もうちの親も大反対。親戚中大騒ぎ」
「……ほんとに?」
「いや、ちょっと嘘。でも親はどっちも反対したのはほんと。でもお前がどっちも説き伏ちゃった。…いやごめんまたちょっと嘘。お前の親は未だにお前のこと勘当中」
 美砂はそうなの、と呟いて少し首を傾げた。髪が流れてうなじが覗く。この女の首はまだこんなに白くて綺麗だったのか、と俺は変なところで感心した。
「じゃあ、わたしの両親にはこのこと知らせなくていいのね?」
「…知らせるのが普通かな、とは思うけど、うちの場合普通とはちょっと言い難い事情だからな。…知らせたい?」
 美砂はかぶりを振る。
「知らないひとが急に増えるのは嫌」
「…じゃあ、うちの親にも黙っとこう。どうせイギリス行っちゃってるから滅多に会えないし、電話もほとんど来ないから、大丈夫」
「イギリス?」
「うん。隠居してイギリス行っちゃった。金持ちなの、うちの親」
「会社とかやってたの?」
「いや、父親が学者。特許とかとってたし印税とかもそれなりで、結構な収入になってたみたい。俺はよく知らないけど」
 美砂は天井を見上げた。
「…でも、この家って持ち家よね」
「うん」
「お義父さんに建ててもらったんじゃないの?」
「俺とお前で頑張って建てたんだよ」
「わたし働いてたの…」
「今は辞めてるけどね。一昨年まで売れっ子デザイナーでした」
「どうして辞めたの?」
「さあ…理由は話してくれなかったよ」
 そうなの、どうしてかしら、と呟いて長考に入ってしまった美砂をそのままに、俺はコーヒーを淹れるために立ち上がった。美砂はそれにも気付いていない。こういうところは記憶を失っていても同じらしい。
 
 俺がコーヒーを淹れ終わり、マグカップを美砂の前に置いて隣に座って自分のマグカップから三分の一ほど啜った頃に彼女はようやくコーヒーに気付いた。
「わたしは会社の話とか、した?」
 コーヒーに気付きはしたもののマグカップを手にすることなく、美砂はそう訊いてきた。それが熟考した果ての質問か。
「次の納期がいついつだとか、営業の田中さんがセクハラして事務の子にぶん殴られたとか、そういう話はね」
「誰か仲がよかったひとはいないのかしら…」
「んー、特定の名前ばっかり毎日話すってことはなかったよ。女の子たちとはそれなりに仲良かったみたいだけど。それにね、俺とお前、同じ会社にいたし」
 美砂は少し驚いたようだった。
「そうなの? …社内恋愛?」
「大学から一緒でそのときから付き合ってたから社内恋愛とは違うかな」
「…同じ会社に入ったの?」
「いや、別々んとこにいたんだよ最初は。でも先輩が会社興すときに俺もお前も誘われたの。どっちかってーと俺が餌で、お前が本命だったみたいだけど」
 美砂は首を傾げた。その仕種が可愛くて、俺はちょっと笑ってしまった。
「言っただろ、売れっ子デザイナーだったって。先輩はお前のデザインが欲しかったみたいだけど金で釣れるか解んなくて、先に俺を確保したの」
 美砂が少し俯いた。
 もしかして無神経な言い種だったか、と慌ててフォローの言葉を探した俺の手元をじっと見て、美砂はぽつりと言った。
「…そんなに望まれたのに、わたしはどうして辞めたのかしら…」
 なんだ、そっちか。
「…さあ、俺には解んないけど」
「全然解らない?」
「うん。仕事は楽しそうだったから、辞めるって言われたときは俺も吃驚した」
 そう、と呟いていただきます、とマグカップを手にとった美砂の視線は俺を見ていない。どこか遠くを見ているかのようだ。しかし目の色に誤魔化されがちだが、夢を見ているのとは違うらしい。
 
 
 
 美砂は可愛い女だった。
 執着したもののためには情熱も労力も惜しまなかったが、基本的に誰かとつるんでいることがほとんどで、俺と付き合い始めてからはずっと俺にべったりだった。
 友達同士でいてもやはり誰かにべったりで、一人でいることはほとんどなかった。
 一人でいられない人間なのだろう、と、俺だけでなく誰しもが思っていた。そしてそれが皆嬉しかった。
 美砂は甘え上手で、彼女に甘えてもらうと相手は保護欲を刺激されていい気分になる。それがまた絶妙に保護欲の強い者ばかりと仲良くなるのだ。
 故意に選んでいるわけではないだろう。しかし無意識に選んでいるのだ。
 かく言う俺も保護欲は相当に強い。
 気の強い女は平気だが、自立した女とは付き合えないし飼うのは猫でなく犬だ。それも小型の室内犬ばかり。
 大学のサークルで美砂と出会い付き合い始めてからもう十年以上経つが、今までずっと彼女を愛してこれたのはひとえにそのためだと言っていい。可愛くて我侭で甘えたででもどこか遠慮がちな彼女は、俺の支配欲までほどよく刺激した。
 古風な好みの男にとってはあつらえたかのような女。
 
 けれどそれが『作り物』だったのだ、と気付かされたのが半年前だ。
 
 
 
 一度も俺に浮気を悟らせることなくずっと浮気を続けていた美砂は、凛々しい面持ちで俺に離婚を宣言した。可愛い仕種や夢見るようなその目はそのままに、同じ声で、同じ口調で、けれど明らかに意志を漲らせて俺を説得した。
 それは俺の苦手な独りで生きて行ける女そのものだったけれど、俺はずっと美砂を愛していたから今更そんなことでは嫌いになれず、相当感情的に喚き怒鳴り哀願し、恥も外聞もかなぐり捨てて彼女を引き止めに掛かった。
 美砂は一度も声を荒げることも泣くこともしなかったが、その態度で彼女が今まで周囲の人間を喜ばせるためだけに可愛い女を演じていたことを見せつけてくれた。
 美砂の背はぴんと伸びていて、どこにも恥じることはないと言わんばかりだった。その視線は常に真直ぐに俺を見た。
 まるで今と同じに。
 これが美砂の本性なのだな、となんだか少し悲しくなった。
 笑わないし、泣かない。きっと甘えてもくれないだろう。
 全身で愛してほしいと表現していた小犬のような彼女は戻らないし、戻ったときは浮気相手の元へ去ってしまうだろう。
 もう何もかも俺の手からは離れた。
 ───でも。
 このまま記憶が戻らなければ、と嫌なことを考え掛けて俺は慌ててぬるくなったコーヒーをがぶりと飲んだ。途端にむせた俺の背中を美砂の手がそっとさする。
「大丈夫?」
「う、うん、ちょっとむせちゃって」
 思わずどきまぎとして何を緊張してるんだガキでもあるまいしと内心自分にツッコミを入れ、俺はうすら笑いを浮かべた。無気味だと自分でも思う。
 美砂は何も言わずにただ俺を見た。俺は空咳をして会話を探す。
「あー、どうしようか、メシ。お腹空いた?」
「ああ…そうだね。作ったほうがいいのかしら」
「え、作れんの?」
「解らないけど…」
 俺は苦笑した。
「外食しようか」
「…でも」
「大丈夫。このあたりで知り合いにばったりなんてことはまずないから」
 美砂はちょっとほっとして、ようやく少しだけ微笑んだ。

 


続く?

 
 
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