監督:リサ・チョロデンコ
出演:アリー・シーディ、ラダ・ミッチェル、パトリシア・クラークソン
24歳のシドはニューヨークで「フレイム」というアート雑誌の編集アシスタントを
している。やっと手に入れた念願の仕事だが、雑用に追われて残業している
毎日だ。ボーイフレンドのジェームズと同棲しているアパートの上の階から水
漏れがしていて、シドは上の部屋を訪れる。そして、その部屋に飾られた写真
の数々に、彼女は釘付けとなる。上の階に住む女性こそは、10年前に姿を消し
た伝説の女性写真家ルーシーだった。コマーシャルな成功を捨てたルーシー
は、ドイツ人の元女優グレタと同棲し、毎日のようにリビングルームには仲間
たちがたむろし、ドラッグ漬けの毎日を送っていた。
仕事に燃え始めたシドは、ルーシーを再び表舞台に復帰させるため、「フレイ
ム」の編集長に掛け合う。受付嬢から今の地位に登り詰めた編集長も、伝説
の写真家ルーシーの復帰作を雑誌の表紙に使うことに決めた。表舞台に戻る
ことを嫌がっていたルーシーだったが、シドを担当の編集者としてくれるのなら、
と仕事を引き受ける。初の大仕事に張り切るシド。
ルーシーの才能に惹かれ彼女の部屋に出入りするようになったシド。しかし
ボーイフレンドのジョージはこのことを快く思っていない。また、ルーシーの
恋人グレタもシドに激しく嫉妬し、騒ぎを起こす。ルーシーが依頼された写真
とは、彼女の人生を振り返るものだという。だけど、自分の心から湧き出る感
情を写真にしてきたルーシーが、今撮りたいものとは、シドだった。気がつけ
ば、ふたりは愛し合うようになっていた。しかし、雑誌の仕事の締め切りが迫
り、何も作品はできてこない。
写真という表現の中で主流の一つとなっているのが、写真家の私生活をその
まま表現するという作法だ。代表的なのがナン・ゴールディンで、しばしば社
会における異端者であるところの友人たちとの日常を撮っている。荒木経惟
もその系統に近い。そして、ルーシーの被写体たちも、ジャンキーな毎日を
送りルーシーの部屋で乱痴気騒ぎを起こしている友人たち。そして、恋人の
ドイツ人女性グレタ。写真という表現は、まさにルーシーの心象風景の噴出
であった。写真を、コマーシャルベースで撮ることを要求され、絶えずプレッシ
ャーに脅かされてきたルーシーは、耐えきれず10年前に失踪した。そして、
再び表舞台に出るチャンスが到来したが、編集者たちは、彼女に10年前の
タッチで撮ることを要求し、現在の彼女の作風を否定する。それでも、シドとい
う女性が現れたことで、仕事を引き受けた彼女。愛し合っていても、編集者と
アーティストという関係。シドは、ルーシーがもはやそれなしでは生きられない
麻薬を忌み嫌っている。それに、ルーシーを追ってファスビンダーの映画に出
演していたというキャリアを捨ててきたグレタ。彼女を放り出すこともできない。
逃げ道をふさがれた形となったルーシーが選んだ道とは・・。
「ハイ・アート」というタイトル、そしてニューヨークの一見華やかなアートシーン
を舞台にした作品だが、決してスノッブな世界を描いたものではない。ここに
渦巻くのは、仕事で認められたいともがく若い女性の野心、そして虚栄の世界
に疲れ果てながらも、もう一度与えられたチャンスにしがみつこうとする写真家
の複雑な心の内。生々しい感情の奔流だ。アーティストの気持ちも知らずに陳
腐なコマーシャリズムを追求するマスコミ人たち。その中で、愛だけは気高い。
そして、愛する女性シドを撮ったルーシーの写真は、愛情がしたたり落ちそうな、
エモーションをたたえた美しい作品となっている。編集者として、一度はこの写
真を使うのをためらったが、ルーシーの気持ちを尊重し、自尊心を捨てて自らの
裸体の写真を編集長に提出したシド。
シドを撮った写真は大きな反響を呼んだが、その後のシドはどうなったのか、
この映画では語られていない。ルーシーをある意味で踏み台に使い、野心の
赴くまま成功を求めていくのか、虚栄に満ちたこの世界を捨てるのか。しかし
その中で、ふたりの愛の記憶だけは美しく、雑誌の紙面に残されている。
もはやビジネスと化したアート。アーティスト自身の持った感情の発露としての
アートが生きていくのは難しい。だけど、心を持った芸術こそが人の心を動かす
のだ。
若くて、一流編集者というにはあまりにもセンシティブで純朴なシド。酸いも甘
いも味わい尽くし、自堕落な生活から抜けきれないルーシー。そして、強烈な
インパクトを残すのは、麻薬漬けの生活で廃人に近くなっているグレタのデカ
ダンス。若い頃、ファスビンダーの映画に出てきた頃はさぞかし美しかっただろ
うと思わせる容姿と、低くてしわがれた声には何とも言えぬ迫力がある。なる
ほど、ルーシーには彼女は捨てられないだろうと思わせる。
監督:ツアン・ミン(章 明)
三峡ダム工事で水没することになっている街。信号守の男マイチャンは、人里
離れた、長江の交通を支える信号所に勤めている。無口で堅物、友人が若い
女性を差し向けても指一本触れない。未亡人のチェンチンはこの街に押し寄せ
る観光客相手の旅館のフロントとして働いている。再婚を考えているが、旅館
の番頭と愛人関係にある。平穏な毎日が淡々と過ぎて行くが、マイチャンがチェ
ンチンを強姦したと旅館の番頭が訴え、結婚を控えた若い警官が捜査にあた
り、それぞれの人物の言い分が語られる。
マイチャンとチェンチンの間に何があったのかは、この映画では語られていない。
それどころか、マイチャンとチェンチンが同じ場面に登場するのは、ラストシーン
だけ。登場人物の語る話は、一つ一つ異なっていて、まるで「藪の中」のようだ。
しかし、このふたりの間には、間違いなく感情の奔流があった。信号所から長江
を泳いで渡ったマイチャンの体からはポタポタ水が滴り落ちるが、まさにこれは
彼の気持ちを象徴するものだ。
巨大なダムの着工式が、マイチャンの信号所のテレビからも中継されている。
やがてこの街は水の底に沈む。でも、人々の間に動揺はない。街が沈むという
事実を淡々と受け止め、ある種の諦念が支配している。警官は、目前に控えた
結婚と、新居に入れる冷蔵庫のことばかりを考えている。長江と、それを囲む
巫山の渓谷の美しい風景。この悠久の自然を前にして、人々の営みはほんの
些細なものに感じられる。信号を発信するマイチャン。客引きをするチェンチン。
うんざりするような平穏な毎日。魚を捌くマイチャン、チェンチン。腹を切り裂かれ
た魚から、腸がはみ出る。この日常の描写が実に細やかだ。そして、少しずつ
生活に入り込んでくるテクノロジー。テレビから流れるロックの音。変わらない
ように見えて、確実に人々の暮らしは変わっていき、元に戻ることはない。
マイチャンの友人マービンが差し向けた若い女性が、漆黒の闇の中に沈む長
江の中で水遊びをし、行き交う船に手を振るシーンは幻想的な美しさ。薄いカ
ーテン越しに透けるチェンチンの裸体のシルエット。マイチャンを殴るチェンチン
を見つめる幼い息子の、きょとんとした表情。時々はっとする力のある映像を
目の当たりにする。
こうやって書くと、退屈な文芸作品のように思えるが、まったくそんなところが
ないのがいい。それどころか、意外にも声をあげて笑ってしまうようなユーモラ
スな演出も多く見られる。「間」の取り方が絶妙で、当人が大真面目になれば
なるほどそこはかとなくおかしいのだ。強姦を告発した番頭など、本人にすれ
ばまったく面白くない事態になっているのに、一挙一動が笑える。大いなる悲
劇は、他人から見ると大いなる喜劇ということか。私たちの平凡に見える生活
の中でも、実は、こんなにも笑いの種が転がっているということか。
驚きべきことというか、出演者は全員素人とのこと。すべてを淡々と受け入れ
る静かなマイチャンの繊細な表情は、とても素人とは思えない。素人なだけに
感情の奔流が豊かに映っている、というべきか。
監督:スティーブン・ソマーズ
出演:ブレンダン・フレイザー、レイチェル・ワイズ、ジョン・ハンナ、ケビン・J・オコナー
紀元前1290年、エジプトはセティ1世が支配していた。王家の墓、死者の都
ハムナプトラを守る高僧イムホテップはセティ1世の愛妾アナクスナムンと禁じ
られた恋をしていた。ふたりの許されない恋が露見したとき、イムホテップは王
を殺害し、アナクスナムンは永遠の愛を誓って自らの命を絶つ。彼女を愛する
あまりイムホテップはハムナプトラにアナクスナムンを甦らせる儀式を執り行う
が途中で捕らえられた。イムホテップは生きながらミイラにされ、永遠に死を迎
える前の状態で苦痛を味わいながら生き続けるという究極の刑罰「ホムダイ」
に処せられ、地中深く埋められた。
そして長い年月が過ぎ、1927年、カイロの博物館で働く学者のエヴリンは、
彼女の兄ジョナサンが見つけてきた地図に、ハムナプトラの場所が書いてある
ことを発見する。そしてその地図のもともとの持ち主、刑務所に収容されて処刑
を待つばかりの傭兵、オコンネルを釈放し、ともにハムナプトラに向かう。しかし
財宝が隠されていると噂されていたハムナプトラを目指すのは彼らだけではな
かった。しかも、彼らがハムナプトラから発掘した死者の書には、イムテホップを
甦らせ、エジプトに大いなる災厄をもたらす恐ろしい呪文が書いてあったのであ
る・・。
なんてあらすじを書くと、まるで歴史ロマンのような物語だが、実は活劇+SFX
+ホラー+コメディである。愛するがゆえに3000年もの間、苦しみ抜いた
イムホテップはミイラといえども高僧であり、高い品格を持ちながら哀れな存在
だ。それに対し、ハムナプトラの財宝を狙う人間は欲に目の眩んだ下品な連中
である。エジプトオタクのエヴリンは「アムン・ラーの書」を見たいがために危険
に身を投じ、恐るべき封印を解いてしまうし、オコンネルは脳味噌が筋肉ででき
ているような、「気のいいバカ」だ。全編、笑える箇所がふんだんに用意されて
いる。ちょっと間が抜けているエヴリンが博物館の本棚を全部倒してしまったり、
ラクダに乗ってハムナプトラに乗り込む場面も、勇壮なはずなのにどこか笑える。
ミイラたちには銃弾は効かないのが証明されているのに二丁拳銃で撃ちまくる
オコンネル、欲深いけど憎めないジョナサンが、ミイラに操られている人々に
襲われないように一緒になって「イムホテップ!イムホテップ!」と行進して難を
逃れる場面などなど・・・。クライマックスのミイラ戦士たちとの決戦でさえ、腹を
抱えて笑ってしまう動きが見られる。
SFXに関しては、かのILMが担当しているので、目を見張るばかりに素晴らしい。
3000年の時の流れを、遺跡が風化していく様子で再現するところは出色。
イムホテップが葬られた砂漠に浮かび上がる砂でできた彼の顔。砂漠に蜃気楼
のように浮かび上がるハムナプトラの遺跡。オコンネルたちが乗った飛行機を追
いかける砂嵐もイムホテップの顔の形になって追い続ける。各キャラクターも十分
深みを持って描かれているし(オコンネル以外)、役者も奮闘している。これまで
の役柄では見られなかったコミカルな演技も魅力的なレイチェル・ワイズ、イムホ
テップの悲しみをたたえた品格を体現していたアーノルド・ボスルーは素敵。
荒削りで穴もあり、上映時間もちょっと長すぎる気もするが、ドキドキしつつ笑え
るので楽しめる娯楽作品になっている。ただ、ホラーの要素もあるので、気持ち
悪いもの、あと虫(特にゴキブリ系)に弱い人には勧められないけれど。
監督・脚本:北野 武
出演:ビートたけし、関口雄介、岸本加世子、吉行和子、麿赤児、グレート義太夫、井手らっきょ
夏休みがやってきた。しかし浅草に住む小学生正男の表情は浮かない。サッカー
教室も終わってしまったし、正男にはお父さんもお母さんもいない。父はすでに
亡くなり、母は遠くへ働きに行ってしまい、会った記憶すらない。おばあちゃん
とふたりで暮らしているのだが、彼女も昼間は仕事をしている。さみしがる正男
は悪ガキどもにお金をカツアゲされそうになったところを、祖母の知人で近所の
きっぷのいいおばさんに助けられる。母に会いたがっている正男を見て、彼女は
ぶらぶらしている旦那の菊次郎に、彼を豊橋の母の所まで連れていくように頼む。
最初は渋っていた菊次郎だったが、彼女が渡した旅費の5万円に釣られて、引き
受ける。しかし、菊次郎が直行したのは競輪場。そこで有り金をほとんどすって
しまったふたりは、果たして正男の母に会えるのだろうか?
なんて書くと、中年男と少年の心温まるロードムービーで、旅を通してふたりは
成長しました、みたいな感動押しつけ型映画のようだが、それとはちょっと違う。
まず菊次郎は現代の価値基準で行くとどうしようもない大人である。ぐうたらで
乱暴者、しかも我が儘。そんな「変なおじさん」の彼が奇特にも、ほとんど知ら
ない少年の、母を捜す旅に同行していったのはなぜだろうか?その答えが、この
映画の中に描かれている。
こんな菊次郎と正男の旅だから、ハプニングが続く。無一文に近いふたりは、怖
い思いをしたり、心細くなったり。道行く車をパンクさせたり、盲人のふりをし
たりいろんな知恵を絞りながら、どうにかヒッチハイクさせてくれる車を探し、
様々な人々と出会いながらようやく目的地に着くことができた。が、ふたりがそ
こで見たものとは・・・。
これまでのたけしの映画で見られた芸術性は一見影をひそめている。代わって現
れてているのは、一種の遊び心。正男や菊次郎の住んでいる浅草という場所から
しても、「和モノ」を全面に出している。菊次郎の背中の彫り物におびえた正男。
その夜の悪夢には、彼にいたずらをしようとした変態おじさん(麿赤児が本領を
発揮していてすごい!)が地獄にて閻魔様の扮装で踊り狂い、正男を責め立てる。
祭りの終わった神社では、青年二人が天狗に変身してまたもや奇妙な踊りを見せ、
正男をおびえさせる。
帰り道、豊橋で菊次郎に天使の鈴を奪われたバイカーの二人、それから全国をワ
ゴン車で放浪する青年に帰り道で再会し、菊次郎は様々な遊びを彼らとする。
たけし本来のナンセンスで下品なギャグがここで炸裂する。井手らっきょが演じ
させられたタコや宇宙人には大笑い。「だるまさんが転んだ」やスイカ割りなどの
古典的な遊びを通じて、菊次郎も少年に還り、正男も笑顔を取り戻す。お互いに
名前すら知らない二人が、どこか同じ悲しみを共有していることがわかってくる。
そう、正男の母を捜す旅というのは、実は菊次郎の母を捜す旅でもあったのだ。
だから、タイトルが「菊次郎の夏」なのである。
正男の描いた絵日記が物語を少しずつ先取りして語っていくという手法はなかな
か新鮮。独特の連続性の欠けたカット割りも健在。後半のギャグ満載の演出は
賛否両論分かれるところではあるだろうが、そこで見られる少年のような菊次
郎の笑顔は忘れがたいものがある。ラストの、天使の羽のリュックを背負って
駆け抜けていく正男の後ろ姿に覆い被さる「バカヤロウ、菊次郎だ!」の声。
ひとつの旅立ちを感じさせる