ライフ・イズ・ビューティフル La Vita E Bella

監督:ロベルト・ベニーニ
出演:ロベルト・ベニーニ、ニコレッタ・ブラスキ、ジョルジオ・カンタリーニ

ファシズムの影が少しずつ色を濃くしていった1930年代のイタリア。本屋を開く
という夢を持って、叔父の住むアレッツォの街に出てきたグィド。途中立ち寄っ
た場所で、美しい女性が空から降ってきて、「こんにちは、お姫様」と彼は呼び
かけた。アレッツォに到着後も、自転車のブレーキが止まらずぶつかった先は、
同じ女性。彼女は小学校の教師をしている、お嬢様育ちのドーラ。ファシストの
官吏である婚約者がいたが、グィドは持ち前のユーモアのセンスと頭の回転の
良さで、彼女のハートをつかまえる。ホテルの給仕をしていたグィドはドーラの
婚約披露パーティで「ユダヤ人の馬」とファシストに落書きされた白馬に乗って
彼女を連れ出し、二人は結婚する。

二人の間にはかわいい息子ジョズエも生まれ、念願の書店も開店した。しかし
幸せな時代は長く続かなかった。ジョズエの5歳の誕生日、ユダヤ人であるグィド
とジョズエは連行され、強制収容所行きの列車に乗せられる。ユダヤ人ではない
ドーラも自ら収容所行きを希望する。死の影が漂い、魂の抜け殻のようになった
同胞を見て、グィドはジョズエとドーラを生きて収容所から出られるようにするこ
とが自分の使命だと感じる。そして、ジョズエには、この収容所での生活はゲー
ムであると言い聞かせ、彼を守り抜こうとするのだった。

前半はまるでおとぎ話のように軽やかにストーリーが進んでいく。あこがれの美
女ドーラを「お姫様」と呼び、運命を自分の手でたぐり寄せたグィド。オペラの夜、
いろんな仕掛けと、偶然が味方してドーラの愛を手にしたファンタスティックで
美しいシーン。赤い布が絨毯のように階段の上に広がり、座布団を傘のようにして
持ってジーン・ケリーのように?踊るグィド。とても素敵だ。こんなふうに、グィド
が一途でしかも頭が良く、ユーモアのセンスが抜群であることが描かれているので、
息子に嘘をつき通すことができたのだという説得力が与えられるのだ。

愛する家族を守り抜くために、命を張り、恐ろしい強制収容所の中でも息子が笑
顔を絶やさないようにったグィド。ほかのユダヤ人達の死んだような表情と違い、
ジョズエの愛らしい顔はときにパッと明るく輝く。悪夢としか思えない収容所の
生活の中で、この物語がさほど陰惨に思われないのも、ジョズエの笑顔と、グィ
ドの捨て身のギャグがあったからだ。なかでも、ドイツ人の看守が収容所の規則を
説明するとき、ドイツ語のわからないグィドが通訳を買って出て、あたかも本当に
収容所でおこなれていることはゲームだと思わせるため、ゲームの規則を説明する
ところは、笑いながらも、切ない部分だった。

この映画は収容所の悲惨さが描かれていないという批判がかなりあったようだが、
それはちょっと違うと思う。実際に虐殺が行われた場面などは描かれていない。だ
けど働けないと言う理由で年寄り(グィドの叔父も含まれる)や子供は皆最初にガ
ス室に送られてしまったということ。収容所のバスの中でおびえていた他の子供達
だってみんな殺されてしまったのだ。あのかわいいジョズエだって、見つかればガ
ス室行きの運命。「ぼくたちは石鹸やボタンにされてしまうの?」なんて怖がって
いる。いつ何時、グィドとジョズエは殺されてしまうのかわからず、ずっとハラハ
ラしながら見ていた。それゆえ、場内放送でドーラに「君の夢を一晩中見たよ」と
放送するシーンや、ナチスに給仕したときに女子収容棟に向けてオペラを流したシ
ーンがかけがえのない美しい場面に思われる。この映画は、ファンタジーなのだ。

ラスト近く、絶望的な状況の中でグィドはおどけながら行進する。この場面こそ、
暗殺者を待つばかりであったトロツキーが遺した言葉「人生は美しい」を象徴する
ものだったと思う。どんなに悲惨な目にあっても、それでも命を賭けて愛するもの
を守ろうとすることが出来た、そんなグィドの誇り高さを感じるのである。

そして、奇跡が起こった。ゲームの「上がり」を意味する1000点をジョズエが獲得
したとき、ご褒美が与えられたのだ。そう、グィド、ジョズエそしてドーラは「勝
った」のだ。どんなひどい時代になろうとも、平凡な人間が愛の力で戦い抜くこと
が出来るということをファンタスティックに、見事に描いている映画だ。
あまりにも巧く作られているので、感想を書くのが難しい。涙や感情が押し寄せて
くるような映画ではない。だけど、深く心に残る映画だ。賞をたくさん取ったことは、
この映画を評価するにはかえってじゃまくさい気がする。


ワイルド・パーティ Beyond The Valley of the Dolls

監督:ラス・メイヤー
出演:ドリー・リード、シンシア・マイヤーズ、ジョン・ラザール

巨乳映画の巨匠ラス・メイヤーのメジャー・デビュー作品。しかしながら、期待
通り?バカ映画に仕上がっている。思わず呆然としてしまうようなぶっちぎりの
結末には驚かされたが、楽しめる作品になっている。

ケリー、ケイシー、そしてペトロネラは3人組のガールズロックバンド。成功し
た実業家であるケリーの叔母スーザンを訪ねて、彼女たちとマネージャーのハ
リスはLAにやってくる。スーザンが彼女達を紹介したショウビジネス界の大物
Zマンのプッシュもあって、たちまち彼女達は売れっ子に。彼女達を待ってい
たのは、まさにセックス&ドラッグ&ロックンロールの世界。無軌道なセック
スに溺れ、乱痴気騒ぎに明け暮れるハリウッド・バビロンの日々だった。本当
に自分達にとって大切なものとは何だったのか、見失ってしまう彼女達。そし
て、たたみかけるような悲劇の数々と、血みどろの惨劇が起きる。

という筋書きはまともそうだが、この映画はとんでもない代物だ。当たり前だ
けど登場する女優達は胸が巨大だ。その美しくゴージャスな肢体を惜しげも無
く見せてくれる。これは美しい女性達への賛歌である。常に女達がすべてをリ
ードする。女性達にかなわないと感じたZマンはついにキレてしまうのだった。
チャールズ・マンソンによる女優シャロン・テート事件を思わせるクライマッ
クスの後には、なぜかハッピーエンドになだれこんでしまう。この展開には大
笑い。さらには、なにやら教訓めいたナレーションまで付け加わった日にはも
うどうしましょうって感じ。なんともオリジナリティにあふれて、想像を絶す
るアホさ加減に感動してしまう。

メジャー作品でもこんなんだから、ラス・メイヤーの他の作品がどんな感じな
のかは推して知るべし。でも、楽しい映画ではある。

マトリックス The Matrix

監督・脚本:ラリー&アンディ・ウォシャウスキー
出演:キアヌ・リーブス、キャリー・アン・モス、ローレンス・フィッシュバーン
ヒューゴ・ウィービング、ジョー・パントリアーノ

スタイリッシュで官能的なノワール傑作「バウンド」のウォシャウスキー兄弟
による新作ということで、多いに期待していた映画だった。そして、その期待
は裏切られるどころか、それ以上の凄い作品であったことに興奮を隠し切れな
い。

「ダーク・シティ」の暗黒の美学。「ブレードランナー」のサイバーパンク世
界。「2001年宇宙の旅」の哲学性。香港アクション映画の、東洋思想に基づい
たしなやかで切れ味の良い、独創的なアクション。オルタナティブでハードコ
アな音楽。加えて、スタイリッシュなファッションとメーンキャラクター3人
の硬質な美しさ。荒唐無稽だが、まぎれもない傑作だ。

ソフト会社のプログラマーであるネオは、同時に凄腕のハッカーであった。夢
とも現実ともつかぬ悪夢に悩まされていた彼は、コンピュータの画面に現れた
文字に呼び出されて謎の美女トリニティに出会う。警察に追われる身となった
彼は、トリニティに導かれ、彼を捜し求めていた男モーフィアズの元へ行く。

現実を直視することを選んだネオは、恐るべき真実を目の当たりにする。実は
今は1999年ではなく2199年であり、彼が見ている現実とは、コンピュータによ
って見せつけられていた幻想に過ぎなかった。人間はコンピュータに支配され、
人間の発するエネルギーを元にコンピュータは動いていた。このエネルギーを
得るために、人間はカプセルの中で羊水に浸かり栽培され、一度も自分の目で
見たことがなく、毎日の生活とはプログラムされた幻だったのである。太陽の
光は奪われ、地上は破壊し尽くされていたのだ。モーフィアスやトリニティは、
コンピュータによって構築された支配システム「マトリックス」に戦いを挑む
人間たちだった。そして、モーフィアスは、ネオこそが救世主であると信じて
いた。

タイトルバックは、雨のように降り注ぐコンピュータの緑色の文字。
漆黒に沈む夜の街からのオープニング、しなやかな筋肉で疾走するトリニティ
の強さと美しさにまず引き寄せられる。マトリックスに戦いを挑む人間達の住
処のゴシックな内装。彼らの「船」やマトリックス側のイカ型戦闘機の有機的
な造形美。真実を直視しようとしたネオがガラスを触ると、ガラスが粘液のよ
うに銀色に広がり彼の体を覆おうとするなどの独特の特撮効果。この暗黒の美
というべき映像の魔力と、対極に位置するようだが、実は密接に結びついてい
るのが華麗なアクション。

香港映画界からカンフー振付家ユアン・ウー・ピンを招き、これまでのハリウ
ッド映画では見られなかった驚異的なアクションが見られる。俳優達はみな
ノースタントでこなしたそうだが、本当に凄い。ワイヤーを使った空中アクシ
ョンはまるでリー・リンチェイのようだ。2丁拳銃やスローモーションを多用
したヴァイオレンスシーンはジョン・ウーばりで、アクションの前に風で新聞
紙が飛ぶなんて効果も振るっている。アクションをする俳優のまわりをカメラ
が高速でぐるぐる回っているようすは、まるでアニメかプレステのゲームを見
ているかのよう。あの動きを生身の人間が演じているというから、驚異的。
畳と障子の部屋で、柔道着を着たネオとモーフィアスがブルース・リーばりの
カンフーの訓練をするところは笑ってしまうけど。

ここでのアクションがユニークなのは、実際に登場人物が自分で体を動かして
いるのではなく、意志の力で自分の肉体を操りマトリックスの中に入り込んで戦
っているという点だ。自分を信じ、自分を縛っている既成概念を解き放つことに
よって、本来自分が持っている力が発揮され、不可能と思われる動きも可能と
なる。コンピュータが人間の本来の能力を奪い幻想を見せ付けていることに対
し、反乱する者たちは意志の力で戦うのだ。そしてネオも、モーフィアスに
出会い、予言者に出会うことで、自分の限界というものは自分自身で作ってい
たものであったことに気づく。救世主になれなかったのは、自分が救世主では
ないと思い込んでいたから。それは、目を覆うサングラスのようなものである。
現実を直視しないということは、簡単にマトリックスに取りこまれてしまうと
いうことなのだ・・・。

この映画の魅力は、とても言葉では語り尽くすことができない。映画のキャッ
チコピーのように、聞いた話ではなく、体験することでこの凄さを実感して欲
しい。引き締まって惚れ惚れするほど美しくナイーブなキアヌ・リーブス、強
く優しく、しなやかな肉体と意志的な青い目とショートヘアが魅力的なキャリ
ー・アン・モス、哲学者のような叡智を感じさせるカリスマ性を持つローレン
ス・フィッシュバーンとキャストもこれ以上を望めないほどだ。


 タンゴ Tango

監督:カウロス・サウラ
出演:ミゲル・アンヘル・ソラ、セシリア・ナロバ、ミア・マエストロ

演出家のマリオはタンゴのトップダンサーである妻ラウラに去られて失意のど
ん底にあった。なかなか妻を忘れられず、彼女の余韻が染み付いた部屋を出
てブエノスアイレス郊外にある巨大なセットに住みつく。ここで、彼はタンゴに
ついての映画を撮っている。映画は、タンゴを通してアルゼンチンの歴史を描
くという壮大なものだった。
ある日、タンゴ・バーで食事をしていたマリオは、この店のオーナーであるア
ンヘロに話があるともちかけられる。彼はマリオの映画に出資しているが、マ
フィアともつながりがあると言われる危険な男だった。話とは、彼がパトロン
をしている若く野心的なダンサーに、オーディションを受けさせて欲しいとの
こと。
翌朝、オーディションを受けに来たこの若い女性エレーナの才能と美しさに
マリオは心を奪われ、ようやく妻のことを忘れることができるのであった。
恋におち、スタジオの中で暮らし始めた二人だが、アンヘロの影にいつもお
びえる毎日だった。そして、映画は完成へと向かう。

圧倒的な踊りの素晴らしさ。中でも、ラウラを演じるセシリア・ナロバのタ
ンゴは官能的で情熱的、言葉を失うほどのものだ。彼女に比べれば、エレー
ナ役のミア・マエストロはまだまだ見劣りする。そして、踊りを引き立てる
のがヴィットリオ・ストラーロによる撮影。光と影を巧みに操る魔術師のよ
うだ。踊りの場面での、シルエットを使った演出も美しく、影と影が重なる
場面もドキッとするほどの官能の香りを放つが、自然の光を使ったときの逆
光の表現は息を呑むほど。鏡を使った空間の広がりや、移民達のシーンの
夕日も美しい。もちろん、音楽が素晴らしいのは言うまでもない。音楽を担当
したラロ・シフリンはアストル・ピアソラのピアニストを務めた人でもある。
踊り、音楽、撮影が三位一体となったときの陶酔には、すっかり時を忘れて
しまう。

ただ、あまりにもこれらの場面が圧倒的に美しいため、ドラマ部分はどうし
ても弱く感じられてしまう。ミア・マエストロは小悪魔的だし魅力的なのだ
が若いゆえ、二人の中年の男を惑わす魔性に欠ける気がする。しかしなが
ら、映画の中に映画を作るという設定、カメラが堂々と画面に映り音楽、演
出が練られ形作られていく過程はとても面白いし、批評性もあって野心的な
作品といえる。