NO FUTURE : A SEX PISTOLS FILM

監督:ジュリアン・テンプル
出演:ジョン・ライドン、スティーブ・ジョーンズ、シド・ヴィシャス

パンク・ムーブメントの中心バンド、伝説的なセックス・ピストルズ。『シド・アンド・ナンシー』『グレ
ート・ロックンロール・スウィンドル』など何本も彼らに関する映画は作られてきたが、本当に彼ら
の真実の姿に迫った作品はこれが初めてである。無名時代からピストルズを撮り続けたジュリア
ン・テンプルによる記録、当時の彼らのライヴ、テレビ映像がベース。それに加えて、当時の社会
情勢を報道するニュース番組からのフッテージや、アニメ、さらにはローレンス・オリビエ主演の『
ハムレット』『リチャード3世』からの映像もコラージュされていて、時代の雰囲気を伝えている。そ
して、現在のジョン・ライドンやスティーブ・ジョーンズら元メンバーのインタビュー。このインタビュ
ーが非常に重要なのである。これまで散々映画や本などメディアで彼らの誤ったイメージが伝え
られてきたが、彼ら元メンバーが真実を伝える時が来たのだ。

ピストルズが解散してから22年。すっかり中年となってしまった元メンバーたちの老いた姿は映
らない。しかし、影としてフィルムに姿を現す彼らの言葉には、胸をかきむしるものがある。この映
画は実に悲痛な作品だ。親友であったシド・ヴィシャスがジャンキーとなり、破滅していく姿を目の
当たりにしながらそれを止められなかったことを悔いるジョニー・ロットン。「シドは友だちだったか
らジャンキーにはしたくなかった。あいつはクソのために死んだ。やつらはそれを金に換えた。オ
レは永遠にやつらを憎む
」「シドのことだけは胸が痛む。真剣にそのことを話したら涙があふれる
だろうよ
」。永遠の悪ガキという印象が一人歩きしているジョニー・ロットンの口から、これほどまで
に悲しく、そして愛にあふれた言葉が出てくるとは…。観ているこちらまで涙が出てくる。

曲は大ヒットしても、その過激さゆえにライブもできない、レコード会社からも契約を切られる、マル
コムにも裏切られる、マスコミからは叩かれる。メンバーの仲も険悪になる。そんな最悪の状況の
中でジャンキーになってしまったシド・ヴィシャス。狂気じみた最期を迎えることになってしまった彼
も、この映画の中のインタビューでは愛嬌があって、幼さを残した表情で無邪気に微笑んで、しか
もとても明晰でクレバーな受け答えをしている。そんな彼の末路を知っているだけに、さらに悲しい
思いにとらわれるのだ。

パンク・ムーブメントは一つの革命であった。小学生だった私も、ちょうどその頃ロンドンに住んで
いたので強く記憶に残っている。ピストルズのマネージャーだったマルコム・マクラレンは、ピスト
ルズは自分が作ったものだと騙っていた。ジュリアン・テンプルが監督した『グレート・ロックンロ
ール・スウィンドル』は、マルコムの言い分で作った作品なのであるが、今回ジュリアン・テンプル
はあいその落とし前をつけるように、この映画でバンドの真実を伝えようとしている。

ピストルズはまず思想ありき、とか商業主義のバンドではなかった。思想性云々はマルコムが後
付けしたものである。ピストルズはただ、まったく新しい音楽を作り、そして英国の現状を批判した
曲を歌い、若者の共感を得たバンドなのである。彼らのイメージにあるセックス、ドラッグ、スキャン
ダルはバンドを売り出すためにはどんなことでもしたマルコムが伝えた偽りの姿であり、メンバーた
ちは真面目にロックンロールを愛していたのだった。自分たちの音楽を愛した結果、彼らは世界を
変えた。世間から非難を受けても、そしてその結果バンドがバラバラになっても、大事な仲間が心
を壊しそして死んでしまったが、彼らは真剣で前向きだったのであり、そしてその結果音楽の歴史
が変わったのだ。

この映画を通して彼らの本当の姿を知ることで、なぜ、彼らが世界を変えることができたのかが見
えてくる。実にエモーショナルで、魂を揺すぶる悲痛なドキュメンタリー。シド・ヴィシャス、そしてピ
ストルズへの鎮魂歌なのである。

倦怠 L'Ennui

監督:セドリック・カーン
出演:シャルル・ベルリング、ソフィ・ギルマン、アリエル・ドンバール

哲学教授のマルタンは妻ソフィと別居中。執筆中の本も進まずすべてに行き詰まっていた。バー
で知り合った老いた画家の死をきっかけに、モデルをしていた若い娘セシリアと知り合う。画家は
セシリアとのセックスの最中に死んだのだった。マルタンはセシリアと愛し合う日々を送るようにな
る。しかし、セックスが終わってしまえば素っ気ない彼女の態度に苛立ち、彼は彼女に対する独
占欲に囚われ、ストーカーのように彼女の後をつけ、奇怪な行動をとるようになるのであった…。

セシリアを演じるソフィ・ギルマンが強烈。彼女はルノワールの絵に登場するような豊満な肉体を
持っている。ハッキリ言ってしまえば、デブなのである。こんな体型をした若い女性は、映画や雑
誌やテレビでは見ることはできない。冒頭に登場するマルタンの妻ソフィは洗練されて知的な美
人である。見てくれだけだったら、普通はこっちを選ぶだろう。しかし、セシリアの肉体は彼女の生
きる力の強さを体現している。17歳という設定であり、青臭く、土臭く、そして雄弁な肉体を持っ
ている。セシリアは、独特の存在である。愛しているという言葉を発することもないし、知的な会話
一つしない。マルタンが彼女の気を引こうとしてプレゼントをしても、感動するわけでもない。彼女
の父は病気で余命幾ばくもないのだが、そのことについても特別感慨を持っているわけでもない。
マルタンの部屋にやってきては、何の恥じらいもなく服を脱ぎ捨てセックスをする。彼女には、善
悪という概念も存在しないし、物事について深く考えることもない。男を滅ぼす魔性の女、という
存在ではないし媚びも売らなければ悪意もない。ただ、気持ちいいことをしたい、生きたい、面白
おかしく過ごしたいといった本能だけで生きている。

哲学の教授という大変知性的なマルタンは、彼女のことを「つまらない女。どうやって別れようか
と考えている」だと妻に言う。だけど、いつしかこの小娘に溺れ、翻弄される。その姿は滑稽とし
かいいようがない。彼女の部屋に何回も電話をかけ、ついには苛立って電話機を壊してしまう。
彼女につきまとう。彼女と親しい若い俳優に嫉妬する。彼女は大した女ではないと思いこむため
に、女中扱いしようとしたり、援助交際だと思いこむために金を渡したり、かと思ったら結婚しよう
なんて言い出したり。彼は嫉妬を募らせるあまり、彼女を質問責めにするのだが、期待した返事
が得られずにイライラするばかりだ。マルタンとセシリアの会話も気持もずっと平行線で、永遠に
かみ合うことはない。肉体的には触れあっているけれど、マルタンはセシリアを思うとおりにでき
ないことで倦怠感に襲われる。セシリアは、この男がなぜこんなにイライラしているのか全然理
解できないのだけど、まあいっか、別にそんなことどうでもいいんだしぃ、という感じなのだ。

大体彼が最初に小娘に関わろうとしたのって、近所の噂好きそうなおばさんから「あの画家はセ
ックスをしている最中に死んだのよ」なんてひそひそ話を聞いて、そんなすごいセックスをするな
んてどういう女なんだろう、というやらしい想像からだ。彼は「セシリアのあそこは口よりも雄弁だ」
なんてことを公衆の面前で切々と妻に語ったりしちゃう、まあいやだわ〜という情けない男なのだ。
もともと、頭でっかちなあまりドツボにはまったりする人が、セシリアみたいにな〜んにも考えてい
ない、だけど生命力の塊みたいな娘に会ったもんだから、もう大変。彼の滑稽ぶりには、大笑い
するしかない。彼が狂気の淵にまで追い込まれ、別居中の妻に泣きついてはさらに嫌われたり、
ソフィに「実は俳優とも付き合っているの」と言われてガーンとなったりするたびに、私は笑いをこ
らえるのに大変な思いをすることになる。

所詮、人間の知性なんて、圧倒的な生命力の前ではまったく無力なもんだ。マルタンはセックス
の力にひれ伏したわけでもない。ベッドシーンは多い映画だが、描写は極めて即物的で情緒も
何もあったものじゃない。R−18という指定に惹かれて、中年オヤジ一人客が目立った観客層
であるが、トドのようなソフィ・ギルマンの肉体、乾いた性描写にあてが外れたことだろう。モラヴ
ィアの原作はだいぶ昔に読んだのだが、映画よりもずっと深刻で「倦怠とは何か」について考え
させられる小説だった。映画の方がずっと軽やかでコミカル。だけど、マルタンの苦悩はしっかり
とスクリーンに刻みつけられている。彼女の存在に取り憑かれ、すっかり頭がヘンになってしまっ
て目の下に隈を深く刻んだ幽鬼のようなマルタンを演じるシャルル・ベルリングが実にうまい。