ボンベイtoナゴヤ Bombay to Nagoya

監督:チャンチャル・クマール
出演:アニル・パクシー、プリヤンカ、原智彦

この映画は去年の東京ファンタスティック映画祭のオールナイトで観たのだが、何しろ
夜中の4時からの上映だったため、猛烈な眠気に襲われ、半分以上寝てしまった。時
間的にも眠たい時間帯だったことは確かだが、本当に面白い作品だったら寝ていない
はずだと、そのとき思い、ほとんど期待していなかった。しかし、改めて全編見直して
みると、これが案外面白かったりした。私が名古屋出身で、ロケ地の多くを実際知って
いたりすることもあるんだけど。

警察官のヴィジャイは正義感の強い青年。しかしその正義感の強さが仇となり、旅回
りのダンサーを助けたところギャングの恨みを買ってしまい、身代わりに両親が命を落
としてしまった。ヴィジャイは両親の仇を討つため、彼らを殺したダニーが逃れ、ギャング
の黒幕佐藤が住む名古屋へと飛ぶが、そこで、彼がかつて助けたダンサーのソーナが
いた。とまるで、インド版「ブラック・レイン」ばりのストーリーだ。悪役の名前も、同じ「佐
藤」だし。

何しろツッコミどころが満載の映画である。
1.なぜ日本人の佐藤が、ヒンディー語がペラペラなのか?
2.裏切り者とヴィジャイに突き出された警官は、何の尋問も証拠もなくあっさりと逮捕
されてしまう。
3.犬山市の日本モンキーセンターでなぜかインド舞踊ショーがあって、そこでヴィジャ
イはソーナに出会ってしまうというすごい偶然。
あ4.名古屋発東京行きの新幹線が到着した場所は、どう見ても名古屋だ。
5.ダニーは死んだ山田のパスポートを使って日本に入国したとのことだが、いくら変装
したといってもコテコテのインド人のダニーがどうやって入国できたのだろうか?
6.ラストのバイクチェイスは果たして日本なのかインドなのか?
7.長くなったり短くなったりするヴィジャイの髪型。
8.佐藤のコンピュータールームには、パソコンが一台しかなくて、使われているフロッピ
ーも3.5インチという懐かしいサイズ。

そして、日本人から見ると面白すぎる点がいっぱい。まず、日本に来ると流れてくるのは
ドロドロの演歌。いつも着物を着ている佐藤。佐藤がダニーに指つめをさせるのは、浴衣
姿の女性たちがいっぱいいる料亭。捕らえられたヴィジャイを助けるのは、アメリカ留学帰
りの「山田の娘」だが、山田の娘にしてはちょっと年を取りすぎている彼女も、着物姿。
そして、美味しい部分を持っていっているのが、極悪非道の悪役であるはずのダニー。
来日した当初の頃こそ、指を詰めさせられたりして災難に遭っているが、後半ではすっか
り日本の生活を楽しんでいる。クラブでホステスといちゃいちゃしたり、大変なときにディス
コ(このディスコがまたとてもシケている)で踊りまくったり、やたらパチンコ店から出てきた
り。笑ってしまうのが、自分が店長をやっているクラブにソーナがアルバイトしに来たとき、
「インド人は自分の国の美女に目がないから、ヴィジャイも必ずこの店にやってくる」という
無茶苦茶な理屈で、ヴィジャイを見つけることに自信を持つのだ。

そして、クライマックスは、名古屋で所構わず踊りまくるヴィジャイとソーナ。名古屋名物
100メートル道路の真ん中で、柳ケ瀬商店街で、地下街のクリスタル広場で、駅前で、
デパートの屋上で、明治村で、テレビ塔で、名鉄パノラマ電車内で踊る、踊る。ほとんど
がゲリラ撮影だったらしく、一体何が行われているのか理解できず呆気にとられて覗き
込む一般人や、涼しい顔をして団扇を扇ぐアベックやら、奇異の目でじっと観ているブテ
ィックの店員。彼らの表情を観ているだけで大笑いだ。

こうやって書いているととんでもなくバカな映画のようだけど、多分作っている側は大まじ
めなんだと思う。この映画の制作に当たったのが、主演男優のアニル・パクシーの兄なの
だが、名古屋でインド料理店を経営している。彼の、名古屋という街への愛情があふれる
作品となっているのだ。そう考えると、名古屋出身者にとってはちょっと胸が熱くなる作品。
それに、編集やフィルムの色調はちょっとダメだけど、撮影はしっかりしているし、爆発の
シーンやスタントは本格的。オリジナル・バージョンより1時間以上カットされたらしくて、話
が繋がらないところがたくさんあるけど、単純なストーリーなので一応話にはついていける。
インドでは一応ヒットしたらしい。しかし名古屋という場所を知っている人には、やっぱり笑
える映画なのだ。

ちなみに、この作品が撮影されたのは1991年。そして、去年のファンタスティック映画祭
の舞台挨拶には、アニル・パクシー、チャンチャル・クマール監督、そして原智彦が立った
のだが、アニル・パクシーは映画の中よりも1.5倍くらい恰幅が良くなっていた…。

サマー・オブ・ザム Summer of Sam

監督・共同脚本:スパイク・リー
出演:ジョン・レグイザモ、ミラ・ソルヴィーノ、エイドリアン・ブロディ、ベン・ギャザラ

ニューヨーク、1977年の夏。記録的な猛暑と共に、人々を苛立たせるものがあった。それ
は「サムの息子」(Son of Sam)と名乗る連続殺人鬼。サムの息子は、暑い夜に出歩く若い
女性やアベックを襲撃して殺し、すでに7人の犠牲者が出ていた。なかなか捕まらない犯
人に業を煮やし、イタリア移民の住む地区では、マフィアの呼びかけで、自警団が組織され
る。この地区に住む美容師のヴィニーは近所で発生したこの事件の犠牲者の死体を見て、
犯人に顔を見られた気がして精神不安定になる。そんなところへ帰ってきたのが、ヴィニー
の親友リッチー。彼はその頃イギリスで起きたパンク・ムーヴメントに影響されて、自分も髪
をツンツンに立ててパンクロックを演奏する。保守的なこの地区の人間たちは、リッチーのこ
とを快く思わないばかりか、彼こそがサムの息子ではないかと疑うようになる。

有名な連続殺人事件「サムの息子」が背景になっているが、この映画は事件そのものを扱
った作品ではない。事件がきっかけで表面化した偏見と憎悪、狂気そしてそれに対抗でき
ない人間の弱い心を描いた作品だ。

ヴィニーたちが住むブロンクスのイタリア移民街は、保守的な地区だ。パンクファッションで
きめたリッチーに対して、街の人々は冷たく、レストランに入っても追い出されるくらい。彼の
味方は、「尻軽女」と疎んじられていた彼の恋人ルビーと、ヴィニー。しかし信念を貫くリッチ
ーに対し、ヴィニーは脆かった。サムの息子に顔を見られたと思いこんだことで情緒不安定
になり、麻薬に手を出す。妻のディオナを愛しているにもかかわらず、浮気がやめられない。
彼はリッチーの味方であるつもりだったが、仲間たちに責め立てられるうちに、ついにリッチ
ーを裏切ってしまう。新聞に載ったサムの息子の似顔絵の髪を逆立てると、リッチーに似て
いると錯覚した彼は狂気と錯乱の縁にまで追い込まれるのだった。

サムの息子だと勘違いされ、自警団の連中にリンチされるリッチーだったが、この作品で一
番哀れなのはいうまでもなくヴィニーだ。リッチーは例え怪我を負ったとしても、恋人のルビ
ーがいるし、信念を持って打ち込むパンクロックがある。一種殉教者のようにカッコいい。だ
けど、リッチーは妻にも去られ、職を失い、そして親友を裏切り、後には何も残らなかった。
単にカッコつけ屋の気のいい男だったのが、連続殺人事件の恐怖、夏の暑さ、そして狭い
コミュニティの閉鎖性から狂気に駆り立てられていく姿を、ジョン・レグイザモが好演してい
る。また繊細で品格のある、どこか受難のキリストを思わせるようなパンクスを演じたエイド
リアン・ブロディも忘れられない魅力がある。

しかし一番恐ろしいのは、罪もない人間、ただパンクロックが好きで、金がないのでストリッ
プや売春はしているけど、大して悪いことはしていない青年リッチーをスケープゴートにして
やっつけようとする自警団の心理である。リッチーのような異分子は、彼らにとっては「ホモ、
ヘンタイ、パンク、オカマ」であって、この街から追い出してしまえと抹殺しようとしてしまう人
間の心は、現在も大量に発生している「ヘイト・クライム」(憎悪による犯罪)につながってい
く。だから、この作品は、1977年に発生したできごとを描いているのだが、現代の深刻な
社会問題に対する問いかけとなっているのだ。リッチーに対する根拠のない憎悪は、見て
いる側が目をそむけたくなるほどひどいが、それだけ鋭く観るものの感情を刺激するパワフ
ルな表現だったのではないかと思う。自警団が、目つきが悪いとか、ベトナム帰りであると
か、背番号が44番だからといった下らない理由で人々を「犯人リスト」に挙げていく場面が
あるが、これこそがいわれなき偏見に基づく憎悪のばかばかしさを象徴している。

深刻なテーマを扱った作品だが、スパイク・リー作品らしく洒脱な面もある。テレビ局のレポ
ーターにスパイク・リー本人が扮しているのだが、彼が黒人居住区で行った街頭インタビュ
ーの内容のおかしいこと!「白人が白人を殺している事件だからまだましね、黒人が白人を
殺したら大暴動になるだろうけど」という黒人のおばちゃんのコメントはふるっている。また、
タブロイド新聞の見出しをもじったエンドクレジットは文句なく格好いい。ザ・フー、マーヴィン
・ゲイ、トーキング・ヘッズ、アバ、エモーションズなど選曲も素晴らしいし、「54」や「CBGB」
などの人気クラブのシーンも出てきて、当時の風俗が伺える。ヴィニーとその妻がディスコで
踊るシーンには思わず酔いしれてしまうほどの格好良さがある。

ただ、2時間22分はちょっと長すぎるのに、結果があまりにも見え過ぎて意外性がないとい
う欠点がある。そして、1977年は記録的な暑さの夏だったということだが、その暑さが映像
から伝わってこない。同じスパイク・リーの「ドゥ・ザ・ライト・シング」のうだるような暑さの表現
の方がずっと優れていた気がする。そういう点に目をつぶれば、この作品は、とても野心的で
巧く作られた映画だと思う。

アメリカン・ビューティ American Beauty

監督:サム・メンデス
出演:ケヴィン・スペイシー、アネット・ベニング、ソーラ・バーチ、ミーナ・スヴァリ、クリス・クーパー

郊外の瀟洒な家に住む3人家族。出版社に勤めるレスター、やり手の不動産ブローカーであ
る妻のキャロリン、そして高校生の娘ジェーン。一見幸せそうな家庭であったが、リストラ寸前
のレスター、上昇志向が強く見栄っ張りのキャロリン、そしてレスターとはろくに口を利かない
ジェーンと、それぞれ問題を抱えていた。死んだように生きていたレスターを生き返らせた出
来事。それは、娘の友人である美少女アンジェラに出会ったこと。彼女に惚れ込んだレスター
は会社を辞め、体を鍛え始める。そんな父を軽蔑するジェーンは、彼女を盗み撮りする隣に越
してきた青年の存在に気がつく。

一見幸せそうな家庭が、あるきっかけによってその病巣を露わにし、崩壊していくという物語は、
これまで散々やり尽くされてきた。この映画が新しいのは、「美」について問いかけている作品
であるということ。それぞれの登場人物が、それぞれ「美」について明確な考えを持っている。
レスターにとっては、若くて美しい少女アンジェラ。そして、仮面をかぶった生活を捨てて、自分
の生きたいように生きることこそが、美しい人生だと考えている。キャロリンにとっては、庭で丹
精されている薔薇の花々と、完璧にコーディネートされたインテリア。リッチでゴージャスでサク
セスした人生。ジェーンは、表面的な美には全く関心がなく、わざと野暮ったい服装をしている。
アンジェラは、自分の美しさに自信を持っていて、どれだけ男性にモテるかということが最大の
関心事。そして隣の青年リッキーは、動物の死体や風に舞うビニール袋に、美を発見する。彼
は女性をルックスで判断せず、アンジェラには目もくれず(それどころか醜いとすら評する)、い
つも不機嫌な顔をしているマイペースなジェーンこそが美しいと考えている。元海兵隊大佐で
あるリッキーの父は、男らしさこそが美しいと考え、銃をコレクションしたり、ナチスの晩餐会で
使われた皿を大切にしている。「男らしくない」リッキーを入院させてしまうほどのマッチョ嗜好の
父親だ。「美」とはかくのごとく、人によってまったく違うものなのである。

彼らの「美」に対する考え方が、ぶつかり合って、そして一つの事件へと発展していく物語であ
る。彼らはお互いに違った考えを持っていながらも、今までは気持ちをさらけ出してこなかった
ために、何事もなく過ぎていった。それが、レスターがアンジェラに夢中になったことで、微妙な
バランスを保っていた家族が崩壊し始める。

ラスト近くのシークエンスで、この「美」についての問いかけが明確に為される。リッキーが、ア
ンジェラに向かってお前は醜いと言い放ち、親友だったはずのジェーンまでもがアンジェラに「あ
んたのように平凡で空っぽな女の自慢話には飽き飽きした、と追い打ちをかける。美しさだけが
自慢だったアンジェラには、アイデンティティの危機が訪れる。そんなときに、レスターが「君より
も美しい女性はいない」と言って彼女を慰める。しかし、客観的に見れば、リッキーやジェーンの
生き方が美しいと言えるかどうか。リッキーは麻薬を売買し、のぞき見が趣味のちょっと変態っぽ
い少年だし、ジェーンはいつも不機嫌そうで、人生における目的の一つ持っているわけではない。
典型的なアメリカ美女であるアンジェラが「醜い」と言われるくらいだから、「美」というのは、かくも
個人的な事柄で、相対化するのが難しいものなのに、人間はそれに振り回されるのだ。

この映画は徹底的にシニカルな作品である。「美」に対する考え方について、特定の誰かに感情
移入することはできない。その上、登場人物たちの行動も感情移入を否定するものばかりである。
とにかく滑稽なのがレスターとキャロリンの夫婦。レスターはアンジェラへの妄想を抱きつつベッド
でオナニーし、キャロリンに発見される始末。その格好悪いこと!アンジェラが筋肉質の男性が好
きだと聞いてレスターはだぶついたお腹を気にし、家のガレージでせっせとトレーニングに励み、
近所のゲイのカップルと一緒にジョギング。それ以上にオーバーなのがキャロリン。高価な家具を
買い込みお洒落なスーツに身を包み、取り憑かれたように「私は今日この家を売る」と唱えて自己
暗示をかけている。夫のオナニーを見て呆れ返った彼女は、バブリーな不動産王と浮気。(二人と
も、あまりにも類型的なキャラクターであることで、さらに滑稽さを増幅させている)他の登場人物
にしても、好きになれないような変人ばかり。唯一まともなのが、近所に住むゲイのカップルという
のがとても皮肉だ。

様々な価値観が行き交うアメリカという国はとても素晴らしいのかも知れない。しかし、これだけ
多くの価値観が存在し、それらが交わりあうことのない、コミュニケーションの不在。この映画で
描かれているこの地域社会には、閉塞感が感じられる。一見何の不自由もないような人たちな
のに、誰かを殺したり、この街から出ていくことしか、この閉塞感からは逃れられないのではない
かと思わせる。
「美」というファクターを軸にこの閉塞感を描いていることを考えると、実に良くできた映画なので
はないか。ものすごく意地悪な作品だけど。