監督:ロウ・イエ
出演:ジョウ・シュン、ジア・ホンシュン
上海に住むビデオ撮影を生業とする<私>。結婚式からセックスまで金を払われれば何
でも撮影する。彼はバーで人魚ショーに出演する女性メイメイを愛していた。しかし、ある
日、彼女は忽然といなくなった…。彼のもとにやってきた運び屋の男マーダーは、恋人を
誘拐した罪で服役し出所したばかり。彼は、「今度会うときには人魚になっているわ」と言
い残し川に身を投げた恋人ムーダンと、メイメイは同一人物だと言うのだ。そして、ムーダ
ンとの不思議な物語を語るのであった。
語り手の<私>は画面に一度も登場しない。マーダーによって語られるメイメイとの物語
の間も、すべての事柄は<私>の目を通して映像化されているのである。そして、<私>
は奇しくも、ビデオのカメラマンだ。つまり、ナレーター=<私>=監督自身、なのである。
オープニングの<私>によるナレーションが非常に印象的だ。上海を流れる蘇州河と、そ
の周りで暮らす人々の営みを、ぐらぐらゆれるカメラと大胆なジャンプ・カットで映しながら、
こう語る。
「よく蘇州河でビデオカメラを回す。都市の吐き出すゴミで河はひどく汚い。多くの人が暮ら
し、河で生計を立て、ここで一生を終える。河はすべてを見せてくれる──人々の労働、友
情、家族愛、孤独…。僕の窓辺に近い橋から少女が河に飛び込むのも見た。若い恋人たち
の遺体も見た。愛といえば…。僕は以前、人魚を見たことがある。河辺で金色の髪をとかし
ていた。でもこれは僕の嘘かもしれない…」当然のことながら、この映画は、再び蘇州河の
映像と<私>のナレーションで終わる。
全編を、狂おしい情熱が支配している儚く浮遊感ある愛の物語。「私がいなくなったら、マ
ーダーみたいにあなたも私を死ぬまで探すかしら」というメイメイの声がオープニングのブラ
ックアウトに重なる。河に身を投げたムーダンを求め、出所したマーダーはあらゆる場所を
歩き回る。ようやく見つけたのは、人魚の姿をした瓜二つの娘メイメイだったのだ。
<私>が語るメイメイの物語はいつのまにかマーダーが語るムーダンとの物語となり、ふ
たつの物語は入れ子の構造となっていながら、やがて後者が前者に影響され、鏡に映っ
た像のように似てくるのだ。そして、結局ムーダンとは別人だったメイメイも、土砂降りの雨
の中、どこかへ消えてしまった。出逢ったことのないふたりのそっくりの娘たちの関係は「ふ
たりのベロニカ」を嫌でも思い起こさせる。
愛というものは、儚い。確かなものなんて、何一つ無い。あんなに愛し合っていたマーダーと
ムーダンも、ひとつの事件で引き裂かれ、再会した後も運命のいたずらで永遠の別れとなる。
突然いなくなってしまったメイメイと<私>との関係もまた然り。やっと手に入れた愛しい人
は、するりと腕の中をすり抜けていってしまう。唯一確かなのは、上海を流れる汚濁、蘇州
河だけ。この<物語>というものだって、果たして確かなものなのか。この映画の中で<私>
とマーダーの人称が混乱し、ムーダンとメイメイがそっくりに見えたように、これは虚構であり
現実が捻じ曲げられているのかもしれない。消えたメイメイを探すのをやめ、「今はただ目を
閉じて次の物語を待つ」という言葉で暗転することから、これはひとつの寓話ということなの
かもしれない。だけど、閉じた目の裏には、<私>が廻したビデオテープに映る、笑い、踊
り、歌い、歩き、ふざけるメイメイの姿がいつまでも残像のように残っているに違いない。
汚れた上海の町を洗い流す土砂降りの雨。ずぶ濡れになったメイメイ。人魚ショーの店のきら
びやかなネオンの裏の更衣室。金髪のカツラをかぶり水槽で泳ぐメイメイ。怒ったような表情
を見せるムーダン。マーダーの遠くを見るような憂いを含んだ目。執拗に、幼さの残るムーダ
ン、倦怠感とデカタンな雰囲気のメイメイ、二役を演じるジョウ・シュンのアップが繰り返され、
その美しさをフェティッシュにスクリーンに刻み付ける。けだるいブルースのような音楽。<私
>の目に残ったメイメイの姿のように、この映画の残像がいつまでも脳裏に漂い続けるので
あった。
監督:フィリップ・カウフマン
出演:ジェフリー・ラッシュ、ケイト・ウィンスレット、ホアキン・フェニックス、マイケル・ケイン
フランス革命の数年後。数々の不品行を働き、残酷で扇情的、不道徳な小説を書いたことで
シャラントン精神病院に収容されたマルキ・ド・サド。彼の本は発禁処分となる。が、精神病院
の院長ド・クルミエ神父は人道主義者で、サドが独房で執筆活動をしたり、ワインを飲んだり
比較的自由な生活を送ることを許していた。邪悪な考えを紙の上に吐き出させれば、サドの
人格も矯正されると考えたのである。しかしながら、サドの著作は、病院の小間使いであるマ
ドレーヌの手により出版社に手渡され、闇ルートで匿名にて出版されたのである。時の皇帝
ナポレオンは、サドの書物が出版されたことに激怒し、手荒い治療で知られるコラール博士を
精神病院に向かわせた…。
『悪徳の栄え』などの著書で知られるマルキ・ド・サドをめぐる物語だが、話の内容はほとんど
創作。でも映画の中で死んでしまうのは、いくらフィクションとはいえ実際の人物を使っている
んだからやめて欲しかった。それが気にならなければ、大変面白く悪趣味な娯楽映画として
楽しめる。
ここでのマルキ・ド・サドは、表現の自由を求め、戦う闘士なんて美しく高邁な存在ではない。
彼は一流のトリックスターなのである。はっきり言って、他人の表現の自由なんて彼にとって
はどうでもいい。ただ、自分が書きたいものを書けなくなるのが嫌なだけで、書くためには何で
もする、それだけである。しかも、創作にあたって苦悩するわけでもない。彼がその怪物的な
イマジネーションで綴る小説を書くための羽根ペン(クイルズ)を取り上げられた後は、ワインで
シーツに、ワインを禁じられてからは指先を切って血で服に、衣服を奪われてからは伝言ゲー
ム、さらには喋る手段まで奪われて自らの排泄物で書きなぐるというその情熱は、天晴れとい
うしかない。そして、その姿をくどいまでに熱演するジェフリー・ラッシュ。この役は彼にしかでき
ない、というほどのはまり具合だ。
サドはトリックスターであるがゆえに、さまざまな挑発行為を行う。書く手段をひとつずつ奪われ
ても、奪う側をまるであざ笑うかのように、思いも寄らない方法で書きつづけるのだ。さらに、病
院に派遣されたコラールと幼な妻との倒錯した夫婦生活まで戯曲にして上演してしまうのだか
ら根性が座っているというかなんというか。
ナポレオンも、コラールも、サドの文章の影響力を極度に恐れる。小間使いマドレーヌが、危険
を冒したり見つかって鞭打たれても、サドの文章を世に出そうとするのは、「あなたの文章は病
院でのつらい毎日に光を与えてくれた。あなたの小説の中で私は悪女、貞淑な女、貴婦人、淫
らな女、誰になることもできた」からなのである。しかし、時としてペンは両刀の刃として働くの
だ。サドのささやいた不道徳な物語は精神病院の患者を挑発し、マドレーヌの命を奪ってしまう
のだから。表現の自由とは何か、芸術というものにはどんな力があって、それに対して為すべ
きことは何か、がこの作品のテーマであり、サドは狂言回しに過ぎない。
その芸術の扱いに明快な信念を持って行動した挙句、破滅するのが病院の院長、クルミエ神
父である。彼は人道主義者で、サドの執筆活動を認め、精神病院の患者たちを使った劇の上
演を指揮していた。ところが、その結果つけあがったマルキ・ド・サドはクルミエの顔をつぶすよ
うなことばかり行う。そしてクルミエに成り代わって病院の運営にあたるコラールは、クルミエと
は反対に、得意の拷問器具を駆使して、サドの小説並にサディスティックにサドを責め立てて、
無理矢理彼の人格を矯正しようとするのだった。マドレーヌへの欲望を抑えきれなくなったクル
ミエは、サドに創造意欲を掻き立てさせた結果殺されることになった彼女の死体を犯し、狂気
へと追いやられる。その狂気の中で、彼はサドが乗り移ったかのように執筆欲に取り憑かれる
というのが実に皮肉だ。しかも、彼に羽根ペンとインクを手渡しするのが、マドレーヌの盲目の
母親であると言うのもブラック。命を奪い、狂気をもたらすほどの恐ろしい力を持つのが文章で
あるが、その恐ろしいモノはそれでもなお、重要なものであると言っているのである。
サドやコラールのような「とんでもない人たち」に翻弄される善良な人間の苦悩を演じるホア
キン・フェニックスのストイックで美しさには思わずメロメロ。理想主義者の中に隠されたダーク
な欲望と戦う姿はもうたまらなく色っぽいのだ。
サドを弾圧する側のコラールが、サド以上にサディスティックであり、拷問が大好きで、孫娘く
らいの幼い処女を無理矢理妻にしてしまうほどのロリコン変態であるという構図。サドとコラー
ルの立場が、変態度というフィールドで、見事に入れ替わっているのである。さらに、幼い処女
であったコラールの妻が、サドの『ジュスティーヌ』をこっそり読むうちに性的に刺激され、コラー
ルの財産を蕩尽した後若い男を誘惑して逃げるという、「騙したつもりが騙される」もうひとつの
立場の逆転も巧みに機能している。
全体的に漂う、刺激的で淫靡で悪趣味な空気。精神病院の狂人たちの宴、その間をひらひら
と踊り狂うジェフリー・ラッシュの、金玉やペニスまで見せての熱演。美しい少女がギロチンの
露となり、耳年増の小間使いがサドの著作を読みながら欲情する。(彼と会話するうちに妖しく
ギラギラ瞳を輝かせるケイト・ウィンスレットのエッチなこと!)この独特の妖しく悪趣味な雰囲
気は確かに魅力的だし、物語の構造も非常に巧み。ただし、名優を揃えるあまり胸焼けしそう
なほどの熱演合戦にはお腹いっぱいになってしまうし、面白いお話ではあるけど、深く考えさせ
られるような作品ではない。