A.I.  Artificial Intelligence

監督:スティーブン・スピルバーグ
出演:ハーレイ・ジョエル・オスメント、ジュード・ロウ、フランシス・オコナー
   ウィリアム・ハート

地球の温度が上昇し、資源が乏しくなった近未来。子供を持つことは許可制
となった。親を愛することをプログラムされた子供型ロボットが開発され、息子
が重い病気にかかって人工的に冬眠させている夫妻が、そのロボット「デイヴ
ィッド」を家族として迎え入れることになる。しかし、夫妻の子供マーティンは奇
跡的に回復し、デイヴィッドを愛することができなくなった母親モニカは彼を森
に捨てに行く。ロボット狩りに捕まったデイヴィッドは、ジゴロ型ロボットのジョー
と知り合い、二人はデイヴィッドが、彼を人間に変えることができるという「ピノ
キオ」に出てくる青い妖精を求めて旅をする。人間の男の子になれば、デイヴ
ィッドはママに愛されると思ったからだった…。


「愛すること、愛されること」そして「人間」についての映画だ。デイヴィッドを開
発したホビー博士は、学会で発表したときに「愛することができるロボットを、
果たして人間は愛することができるのか?」と聞かれて答えに窮する。愛をプ
ログラムされたデイヴィッドは、ただ一途に母親を愛する。彼の願いはただ一
つ、ママに愛されることだ。人間の男の子になりたい。人間の男の子になれ
ば、ママは愛してくれる。彼の一途な想いは絶えることはない。

SFファンタジーの皮をかぶっているけど、とてもダークで残酷な映画のように
思える。デイヴィッドの「ママに愛されたい」という願いは、二千年もの時を経
てようやく叶えられるからだ。しかも、その願いが叶えられたと言っても、ママ
は本物のママではなく、人間が死に絶えたのちに地球に生きる謎の生物が
作り上げた、一つの幻影のようなものだからだ。しかも、二千年というとてつ
もない時間の間ただママを思いつづけるデイヴィッドの愛は、人工的にプログ
ラムされたもの。果たして、本当の愛と言えるものなのだろうか。しかも、た
だ愛することだけでは満足せず、愛されることを求めるものである。見返りを
求めているという時点で、「無償の愛」とは言い切れないものだ。2千年もの
長きにわたって、愛されれることを求めるというそれは、「歪んだ、いびつな、
よこしまな愛」である。
「愛」を他者に分け与えるが決して自分には愛を求めないジゴロロボットのほ
うが、本来の愛に近い存在だと感じられる。しかも、たった一度、デイヴィッド
に本当の愛を与えるのだから!

ある意味「よこしまな愛」ではあるけれども、二千年も愛を求め続けるデイヴィ
ッドは健気なように見える。しかし、その姿にこそ、「愛の不在」を私は見て
しまうのだった。「愛」をプログラムされたばかりに、彼は二千年の時を越え、
ロボットとして存在していたにもかかわらず、後に地球に暮らす謎の知的生物
(それはロボットの末裔なのかもしれない)に、人類という生命体がかつて存
在し、人類には「愛」というものがあったという証人となるのだ。その「愛」なる
ものがどんなものであったかを彼らに見せるために、デヴィッドのママは一日
だけ生き返らせられ、デイヴィッドはこの上なく幸せな一日を過ごす。
これまでどんなに求めようとも得られなかった「愛」を一日だけ手に入れること
ができたのだ。しかし、普通の人間の親子にとっては、あたりまえのように存
在する「愛」を得るのに、これほどまでの長く苦難に満ちた道を歩かなければ
ならないとは。(しかも、それは本物のモニカではなく、彼女の髪の毛から作
り出されたクローンである)デイヴィッドは最後に幸福な一日を味わうことがで
きるが、果たして、それはハッピーエンドといえるものなのだろうか?

モニカが一日だけ甦り、この上なくかけがえのない幸せな一日を二人で過ご
す。デイヴィッドの記憶から取り出されて作り上げられたモニカの家は、少し
輪郭がぼんやりとしている、セピア色の世界。夕日が窓から射し込み、黄昏
時のハチミツ色に染まる室内の懐かしい美しさ。しかし、一日で失われてし
まうこの愛が去ってしまったあと、たった一人この世界に取り残されたディヴ
ィッドはどうなってしまうのだろうか?ラストシーンで思わず涙がこぼれてしま
ったのは、デイヴィッドの健気さに感動したのではなく、こんな少しの幸せに
打ち震えて眠りにつく彼の、これから先の孤独を思いやってしまったからだ。


いきなりラストに言及してしまったが、この物語には全体的に、非常にダーク
なトーンが流れている。人間の残酷さが容赦なく描かれているからだ。デイヴ
ィッドのパパもママも決して悪い人間ではない。ママであるモニカは、夫に言
われてデイヴィッドを捨てに行くのであり、捨てに行くときにも彼の身を案じ、
涙ながらに走り去っていく。しかし、どんなにデイヴィッドが車にすがりつこうと
も、彼を再び家に迎え入れることはなかった。どんなに善良そうな人間でも、
そのように最終的には利己的に走ってしまうものなのだと描いている。重い
病気から回復した夫妻の息子マーティンは、デイヴィッドをからかったりいじ
めたりするが、それは、彼が特別に邪悪な子供だからということではなく、た
だ単に子供特有の残酷さを持っているだけのことである。しかし、普通の善
良な人間の持つ小さな悪意というものが、一番人を傷つけ、この世界を憎し
みで満たしてしまうものなのである。

その悪意の集積の産物が、人間がロボットに向ける憎悪の結晶体であるとこ
ろの「生の祭典」なのだ。こんなにも、大衆の醜さがストレートに悪意を持って
描かれている場面を見て、正直辟易してしまったが、見る者にそのような感
情を呼び覚ますのが、このシーンの目的であるように思える。人間にしか「愛」
はないと考えられているが、「愛」と同等、いや、それ以上に「悪意」や「憎しみ」
は人間の中に存在していることを描いていて、実にダークな味を加えている。


この映画が良くできているか、それともダメな映画なのか、なんとも判定しにく
い作品だ。スピルバーグという映画作家のいびつさというのが溢れ出していて、
キューブリックのクールな神の視点とミスマッチを起こしている、奇形児のよう
な映画に思える。幼い頃両親が離婚したというスピルバーグのトラウマが、母
親を絶望的に求めるデイヴィッドの姿に露骨に現れている。その上、ユダヤ人
である彼らしく、ロボットたちが「生の祭典」に追い立てられ、残酷に処刑される
場面は思いっきりホロコーストそのものである。だけど、水没したニューヨークの
美しい破滅後の世界や、2000年後の世界のダークな世界観は、キューブリック
的だ。(しかし、あの謎の生命体たちの姿には思いっきり萎えたが)
そして、ひたすらに愛を求めるデイヴィッドの姿も、人間離れした完璧な演技の
ハーレイ・ジョエル・オスメントの演技も相まって、非常に鬱陶しくかつ不気味で
あるというのも、とても歪んでいて、ダークな陰影を与えている。

その奇形的な、いびつで奇妙な構造が、非常に不気味だけども、バロックパー
ルのような美しさがある映画だと私は感じた。どう考えても、一般受けする内容
でなく、日本でこれだけヒットしたのは非常に謎であるが、個人的には気に入っ
てしまったのである。