なんちゃって読書記

隣の家の少女 ジャック・ケッチャム

コロンバイン・ハイスクール・ダイアリー ブルックス・ブラウン, ロブ・メリット

グリーンリバー・ライジング ティム・ウィロックス

悪趣味大百科 ジェーン・スターン、ハワード・スターン

シネマの快楽に酔いしれて 加納とも枝
永遠の仔 天童荒太
湾岸ラプソディ 盛田隆二
ハイ・フィデリティ ニック・ホーンビィ
ジェイムズ・エルロイを語る
メイプルソープ(伝記)
ブラック・ムービー 井上一馬
鬼が来た!撮影日記 香川照之
昭和の劇 映画脚本家笠原和夫
悪者見参−ユーゴスラビアサッカー戦記   木村元彦

隣の家の少女

扶桑社
ジャック・ケッチャム作、 金子 浩訳

1958年、12歳の少年デヴィッドの隣の家に、2歳年上の美しい少女メグと、体の不自由な妹スーザンが引っ越してくる。両親を交通事故で失った彼女たちは、叔母ルースに引き取られたのだった。デヴィッドはたちまちメグに心惹かれ、ルースの息子たちと遊び仲間ということもあって彼女たちの住む家に出入りする。しかしあるときからルースは姉妹にひどい折檻を加え、さらにはルースの息子たちや近所の子供たちも“ゲーム”と称してメグを地下室に監禁し、いたぶり始めるのであった…。

50年代のアメリカ、少年たち、そして初恋。ノスタルジックでみずみずしい描写で始まったこの物語。しかし−
読んでいてつらくてつらくて、何回も読むのをやめてしまおうかと思った。異様な迫力のある文章でやめることができない。ヒロインのメグは無垢で美しい少女で、何も悪いことはしていないのに、言葉にするのも憚られるようなこの上なくむごい目に遭う。生きていく意味や希望も叩き潰されるような。特に同性から見るとあまりにもむごたらしい虐待の数々。さらに虐待の主導権を握って少年たちをけしかけたのは実の叔母であったということ。叔母ルースの徹底的な男性への憎悪、そして自らの性への憎悪と絶望がこのような鬼畜で異常な行動を引き起こさせたのだろうが。

主人公の少年はメグに恋心を抱きながらも傍観するばかりでほとんど手を差し伸べることすらできなかった。その歯痒さ。どこか色っぽいルースに好意すら抱いていて、そのうち終わりが来るだろうと思っていた、でも終わりは来なくて残虐行為は限りなくエスカレートする。何もできなかったことは、共犯者であることと同じ、もしくはもっと罪深いことだろう。そのことに残りの人生の間中苦しめられるのはある意味当然だったと言える。でも彼にこれ以上何ができたというのだろう…。
そんなデヴィッドの叫びが行間に凝縮されたような、巧みな改行の使い方が目を引く。訳もうまい。一行だけで構成された一つの章には、心の底から戦慄させられた。

メグに加えられた陵辱がむごたらしければむごたらしいほど、生き地獄に突き落とされた彼女の存在は美しく光り輝く。

でも、こんなことは現実に決して起きてはならない。日本人だったらみんなあの女子高生コンクリ詰め殺人事件を連想するだろうし、実際には世界では同じことが起きているのだろうけど。悲しいことに、人間にはこういう面もあるのだということなのか。


コロンバイン・ハイスクール・ダイアリー

太田出版
ブルックス・ブラウン, ロブ・メリット著, 西本 美由紀 訳

コロンバイン高校襲撃事件の犯人二人とは友人関係、中でもその片方ディランとは小学校時代からの親友というブルックスによる手記。ブルックスはもう一人の犯人であるエリックに、事件の直前「おまえのことは嫌いじゃないからここから離れろ」と警告をされていた…。(ガス・ヴァン・サントの映画「エレファント」にはその「最後の警告」から着想を得たシーンが登場する)

体育会系のJOCKS(運動バカ)が幅を利かせるコロンバインで、犯人二人も、ブルックスも陰湿ないじめを受けていて居場所がなかった…というわけで、一歩間違えれば犯人になっていたかもしれない(事実、ブルックスは事件への関与を疑われた)少年による等身大の心情が綴られている。ブルックスは彼らと同じようにいじめられていても、現実と虚構の世界を混同しなかった。でも、彼らを止めることはできなかった事実に苦しめられたし、同じ疎外感を感じてきたわけだ。

簡単に銃を手に入れられるアメリカの銃社会は確かに悪い。犯人たちは暴力的なゲームや暴力を歌ったロックやインターネットのサイトに夢中になっていたけど、それが悪いというわけではない。暴力的な音楽やゲームは暴力的な社会を反映しているし、ミュージシャン自信は暴力を礼賛しているわけではない。異端である彼らをのけ者にするコロンバイン高校という場所は、アメリカ社会の縮図であるということが感じられるし、”恐怖”が心を破壊していくプロセスが手にとるように見えてくる。

友人が13人もの学校の仲間を殺し、犯人として疑われ、学校には来るなと教師に言われて生活をめちゃくちゃにされたブルックスが、それでも戦い抜き次第に癒され立ち直っていくところは静かな感動を呼ぶ。犠牲者の一人であるレイチェルのエピソードも胸を打つ。犯人たちが襲撃前に残した遺書代わりのビデオのメッセージの内容には戦慄を覚えるともに、ここまで彼らが追い詰められてしまっていたということに胸が潰れる思いがする。

そして、コロンバイン高校で起こったことは今の日本とも決して無縁ではない。恐怖が恐怖を呼び、暴力性を加速していく今の世の中において、多くの人に読んでもらいたい本である。どんなひどい世の中でもあきらめなければ、報われるのではという希望が感じられる。

グリーンリバー・ライジング 

ティム・ウィロックス著、東江一紀訳
角川文庫

「大天使のごとき風貌をして、悪魔のごとく書く」とイギリスでの版元の惹句に謳われたティム・ウィロックス。長い赤毛の、古典絵画に登場するような退廃的で病的な美貌の持ち主だ。

舞台はテキサス州にあるグリーンリバー刑務所。まず序章での、刑務所の禍禍しくも邪悪で神聖な描写と、ここの王であるカリスマ刑務所長ホッブスの不遜な演説に圧倒される。さしずめホッブスは大聖堂であり同時に生き地獄でもあるこの煉獄の王なのである。
「グリーンリバーとは、光の懲治力をたたえる賛美歌なのだ」「ガラス屋根から、すべてを見通す神という名の光が注ぎ込んでいる」と記述されている通り、囚人にはほぼプライバシーはなく光による統制の下にある。序章を丸ごと割いての、最後の審判の場所にも似た刑務所の描写には身震いさせられる。
「諸君のすべてが、同じ倣岸で非道な不条理さの犠牲者であるということを、わたしは認める。それこそが、諸君がここにいる理由なのだ」とホッブスは演説する。刑務所に収容されるということは、この世で自身の存在をもっとも否定されるということにほかならない。たとえ冤罪であっても、収監されるには及ばないほどの微罪であっても。

この不潔で悪徳に満ちた刑務所で、美しい情夫をめぐる痴情のもつれから邪悪な暴動が勃発する。その中でたった一人、仮釈放を翌日に控えた囚人クラインは生き抜こうと戦う。クライン、この男の心理描写こそがノワールの主人公たるものだろう。愛した女に訴えられて強姦罪で服役中の元整形外科医。「刑務所が血液の中に送り込む憤怒の澱を」空手で自らを鍛錬することで吐き出す日々。それでも、このような場所に送り込まれた自分の愚かさを呪う日々。この仄暗さを背負った負け犬クラインを紹介するくだりで、この作品の成功は約束されたも同然である。しかも、脇役キャラクターの一人一人にいたるまで、どろりとしたラムのごとく濃厚かつ執拗な人物描写がふるっている。クラインを導く啓示を語る統合失調症の巨漢アボット。クラインの忠実なパートナー、老模範囚コーリー。精悍な女豹を思わせるクールな精神科医デヴリン。あるときは絶世の美女クローディーンに変身する美しい男娼。看守のガリンテス。心の襞の一つ一つまで描きこまれた彼らを愛さずにはいられない。人物描写だけでなく、グリーンリバー刑務所の腐敗臭漂う狂気の世界の澱みの暗黒さには惹きつけられずにはいられ ない。暴動は奔流のようにすべてを呑みこんで、黙示録へと突き進む。

いちばん狂っているのはどいつか?序章のリプライズとなっている見事な幕切れは胸に突き上げてくる。どんな最低なやつにも、輝ける瞬間があり、その一瞬の美を求めることが生きる意味なのだと思う。


シネマの快楽に酔いしれて

加納とも枝著
清流出版

今は故人となってしまった、ジャズ喫茶のママをしておられた加納とも枝さんの著作で、「話の特集」などに掲載されていた映画にまつわるエッセイ。これが、純粋な映画ファンならではの愛情あふれる、率直でみずみずしい文章の数々で、思わず胸を打たれずに入られない。評論家とは違っていて、好きなものは好きで嫌いなものは嫌いと潔く断言。彼女ならではの言葉で語っておられて本当に素敵な本。生きていらっしゃったら是非お会いしたい方だったのに…。

自分のように、映画を仕事をしてしまって、純粋な、曇りのない目で映画を観られなくなっている人間にとっては、目から鱗が落ちる思い。中学生の頃から浴びるように映画をご覧になっておられるので、知らない作品もたくさん出てくるのだが、それらの作品群も思わず観たくなってしまう。彼女の飾らない人間性が行間にあふれているので、どれほど多くの人々に彼女が愛されたのか、よくわかる。こういう方に、私も憧れる。

悪趣味百科

ジェーン・スターン、ハワード・スターン共著
伴田良輔 監訳
新潮社

ベルボトム、ボディビル、巨乳、キャデラック、チワワ、有名人のデス・カー、ディスコ、ヘヴィ・メタル、
豹皮、ジェーン・マンスフィールド、ヌーディズム、ポリエステル、刺青、蝋人形館・・・・。
主にアメリカで生まれた、「悪趣味」といわれるものの一部である。この本は、これら悪趣味と
考えられる様々なものをひとつひとつ解説し、なぜそのようなものが生まれたか考察している。
しかし、これら「悪趣味」と言われるもののなんと魅惑的なことか!その魅力ゆえに、多くのもの
は現代にも生き残り、人を惹きつけてやまないのだ。そして、私自身も、これら悪趣味な文化が
好きだったりするのだ。

この本のねらいは、悪趣味の目録を作り、代表的なものを取り上げて誰もが愛した「失敗作」の
年代記を作ることだそうだ。そして、見事に成功した本である。「嫌悪感からなのか魅了されてな
のか、人がそれに接したとき不本意ながらも思わずうめき声をあげてしまうガラクタ」という表現が
ぴったりである。

そして、アメリカの戦後の文化を考察するに欠かせない本であるように思える。アメリカの文化っ
て、大部分が結局「悪趣味性」が遺憾なく発揮されたものではないか、と考えてしまう。
そうだ、悪趣味ばんさい!だ。悪趣味そのものの装丁も素晴らしい。「う」と「ん」と「こ」という文字
だけが強調文字になっているのも、馬鹿馬鹿しくて下品だけど好きなセンス。


永遠の仔  天童荒太

幻冬舎

犯罪者の多くは、幼児期に親との関係で精神にダメージを負った者であるという、悲しい事実がある。
優希、笙一郎、梁平の 3人は、親による性的虐待を含む虐待を受けて四国にある双海病院の小児精神科に入院し、出会った。患者の子供たちが動物扱いされる病棟のなかで 3人は強い絆で結ばれる。そして彼らは17年後に、仕組まれた偶然によって再会する。優希は老人病棟の看護婦、笙一郎は気鋭の弁護士、そして梁平は警察官。彼らの傷ついた心、救いを求める心が引き起こした17年前の父親殺し。そして、新たな殺人へ・・。

子供たちの心がどのように傷ついていったかが、少しずつひも解かれていくが、どのような悲惨な状態であったかが描かれていく様子には戦慄を覚える。しかも、本当に悪い人は誰もいないのだ。虐待した大人たちですら、本当には悪くないのかもしれない。大人たちにだって、そうせずに入られなかった理由があった。そして、子供たちが一人一人が過去の記憶を必死に断ち切ろうと生きているのに、離れてはくれない忌まわしい記憶は、彼らだけではなく周囲の人間たちも巻き込んでカタストロフィへと突き進んでいく。

幼児虐待の話といえば、映画になった「愛を乞うひと」を思い出す。ただ、この作品では、母親にひどい虐待を受けた主人公照恵が普通の大人の女性として成長し、そんな母を今でも求めているという話なのだが、「永遠の仔」は似ているようで違う。断ち切ろうとしても断ち切れない親子の絆という意味では同じなのだが、甘い感情が起こる余地はまったくない。一つの絶望に彩られている物語なのだ。それでも、家族だから、親によって育てられたから、どんなひどい目に遭わされたとしても、子供たちは彼らの影響を受け、遺伝子を引き継ぎ、親の呪縛から逃れられないでいるのだ。

繰り返しになるけど。子供たちの傷の深さには本当に涙が出てくる。なぜ梁平の病院での呼び名は「ジラフ」なのか。優希はなぜ、決してプライベートではスカートを穿かないのか。美しく優しく有能な看護婦である優希が、なぜ自分が汚れた存在であると感じ、血が出るまで自分の手を洗いつづけるのか。
自分は彼らよりも数十倍幸せな人生を送ってきたと思う。虐待されたこともない。だけども、彼らの心象風景というのは理解できる。自分が汚れた存在であると思ったことだってある。この物語は、彼らだけの物語ではなく、親のいる人間すべてに思い当たる何かを突きつけるものだ。

この物語は、悲劇だ。救いを求めて起こした事件が、17年後の別の事件につながっていく。そんな中でも、彼らが生きていく支えとした言葉があった。あの夜があったから、ここまで生きてこられた。そして、これからも、その言葉を支えにして彼らは生きていくだろう。この言葉は、真っ暗な闇の中の、白い光なのだ。

そう、どんなに自分が汚された存在であり、親や周囲から否定されるような存在だったとしても、人間は生きていていいのだ。生きていていけない人間なんていない。彼らにひどい心の傷を与えた親たちでさえも・・。この言葉を聞いたとき、自分さえも救われる気がした。

「生きていても、いいんだよ。おまえは・・・生きていても、いいんだ。本当に、生きていても、いいんだよ」

湾岸ラプソディ  盛田隆二

角川書店 1600円

物語のはじめに、「失踪宣告申立書」の記述がある。1998年9月1日、
札幌に住む夫が妻の失踪宣告の申し立てを行った。1999年3月1日、
涌井裕里子は買い物に行くと言ったきり、家に戻らず7年以上が経過
し、帰ってくる見込みもないため、夫が彼女との婚姻生活の解消をする
ために申し立てた。

しかし、この物語の本筋は1990年3月に始まり、1991年2月28日に
終わる。つまりは、冒頭の出来事の序曲にすぎないと言うことだ。この
構成の巧みさには舌を巻く。

不倫の恋の話だ。21歳の北大生俊介と、33歳のラーメン屋の奥さん
裕里子。俊介がアルバイトをするコンビニで土曜日の夜、M&Mのチョコ
レートを必ず万引きする女性。彼女との出会いで、俊介の人生は狂う。
一流大学の学生で、地元の新聞社の内定を取っていた彼が、人妻との
恋に狂って北海道を後にし、東京へと逃げる。逃げた先は海岸通りの
殺風景なアパート。俊介は返本整理のバイトを始めるが、やがてスリ
の夫婦と知り合って犯罪の片棒を担ぐことになる。

どこにでもいるような若者が、青臭い感傷と恋に狂って人生を棒に振り、ま
わりの人間を巻き込んで濁流のように飲み込んでいく様が描かれている。
心を病んだ前妻の世話を焼き続ける裕里子の夫。俊介が家庭教師を務
めた、裕里子の血の繋がらない息子正太は少しずつぐれ始める。元過激
派の男工藤と、その上品な妻はスリの夫婦。彼らのキャラクター、そして
俊介との関係がリアリティを持って描かれている。そして、俊介が魅せら
れたのは、裕里子の心の闇の深さ。不幸な過去を持ち、今も前妻と夫と
の関係に悩まされる彼女。まだ十分若くて美しいのに、人生を半分あきら
めたように生きている彼女に、まだ人生経験の浅い俊介は魅入られてし
まったのだ。しかし、「道を踏み外すこと」とは、必ずしも不幸なことではない。

物語が終わった1991年2月28日と、失踪宣告が申し立てられた1998
年の間に何が起こったのかは何も書かれていない。1991年3月1日の
正午すぎに電話が一本かかってきて、その電話を取った彼女が夕刻から
いなくなったと言うことしか。ただ、同じく戸籍を抹消された工藤夫人と同
じような人生をたどっていったのかもしれないと匂わせるにとどまっている。

本の表表紙は東京湾にたたずむ若者と女性、そして、裏表紙は、1998
年に完成した東京湾横断道路(アクアライン)である。

ハイ・フィデルティ  ニック・ホーンビィ

新潮文庫 森田義信訳
主人公のロブは、絵に描いたような情けない35歳の男だ。失恋のショックで
大学を辞めた彼はロンドンの外れで小さな中古レコード店を経営している。
マニアックなレコードばかり扱っているのであんまり儲かっていない。ガール
フレンドのローラは高給取りの弁護士だが、ある日、隣人イアンとできてしま
い出ていった。失った恋愛に取り憑かれ、すがりつくロブ。いじいじとしてい
て情けない。
そもそも、大学を中退してしけた生活を送っている時点で、彼はすでに挫折
感を背負っている。歴代、彼に心の傷を負わせた元ガールフレンドたちひと
りひとりに会いに行っては、さらに失望を重ね、ローラへの思いを募らせる。
ひとりぼっちの誕生日に耐えられなくて、大して仲の良くない友人たちを集
めては飲んでいる。据え膳の素敵な女の子にだって、上手にアプローチで
きない。そして、ローラへの想いは一体どうやって片が付くのだろうか。

情けないけど、そのへんにいそうなくらいリアリティがあって、愛すべき男と
いう気もする。失恋する、というのは一体どんな気持ちになるのか、そのへん
が見事に描かれている。ひとすらユーモラスなんだけど、せつない面が見え
隠れしている。

マニアックなレコード店を経営するくらいだから、彼は相当な音楽好きという
よりは、音楽のない人生なんて考えられないくらいだ。もちろん、恋人には
とっておきの曲を集めたテープを編集して贈り、いつでも、ベスト5の曲は何
かなんて考えている。だけど、音楽の趣味を彼女に押しつけたということが、
失敗の一つだった。
この本の特徴の一つは、主に音楽(ときに映画やテレビ番組も登場する)に
関する膨大な注解だ。この注解を読んでいるだけでも、音楽好きにはたまら
ない。彼の音楽の趣味を見ると、なんとなく彼がどんな人物かわかってくる
のがまたすごい。ちなみに、彼の決定版トップ・ファイブはマーヴィン・ゲイの
「レッツ・ゲット・イット・オン」、アレサ・フランクリンの「サ・ハウス・ザット・ジャ
ック・ビルト」、チャック・ベリーの「バック・イン・ザ・USA」、クラッシュの「ハマ
ースミス宮殿の白人」、アル・グリーンの「ソー・タイアード・オブ・ビーイング・
アローン」だ。なかなかいい趣味と言える。音楽の趣味の合わない人とは
友達になれないような狭量なヤツなんだが、そこがまたかわいいというか・・。

ブラック・ムービー(井上一馬著、講談社現代新書)


アメリカでの映画の歴史を、黒人映画人を通してひもといたもの。
新書本だし、文章の量が決して多くないのであまり掘り下げて書いてはいないが、どのような
歴史を経て、現代、デンゼル・ワシントンやスパイク・リー、ウィル・スミスなどの黒人スターが活
躍するようになったのか鳥瞰している。映画を通して、現代、同じ黒人社会の中でも、中流〜上
流階級と下層階級に分かれていってしまったのかが見て取れる。今は、黒人ばかりの登場人
物で普通の恋愛映画が撮れたり、かつては白人同士が演じていた役を黒人スターが代わりに
出演してリメイクできる、という幸せな時代なのだ。が、一方で、黒人の下層階級の中での厳し
い現実に目を向けたリアリズムの映画も作られていて、相変わらずそのような現状もあると言う
ことがわかる。それに、スパイク・リーのように著名な映画監督でも、撮りたいと思っている伝記
映画の資金が集まらなくて相当苦労しているようだ。

「ジャッキー・ブラウン」のヒロインを演じたパム・グリアーが活躍した70年代のブラック・スプロ
イテーション・ムービー(黒人が活躍するB級アクション映画)の記述もあって興味深い。これを
きっかけにアメリカでの黒人(スパイク・リー言うところの「アフリカ系アメリカ人」)の歴史につい
て勉強してみるのも面白いだろう、と思った。

そう、映画というのは社会の動きを如実に表すものである。どんなにくだらない映画でも、世の中
の流れ、時代、風俗が描かれていたりすると、それだけで許せてしまうものがある。

「鬼が来た!」撮影日記 中国魅録 (香川照之著、キネマ旬報社)

チアン・ウェン(姜文)監督の映画「鬼が来た!」の凄まじさというのはこの映画を観た人だった
ら誰だって感じるものだと思うけど、この本を読むと、撮影現場がどんなにとんでもないものだっ
たかというのが、痛いほど良くわかる。「鬼が来た!」はとてつもなく面白い映画であるのだが、
この本は映画以上に面白い。この映画を気に入った人には、必読の本である。
日本兵を演じた香川照之の文章が非常に上手いのはいうまでもない。物事を形容する語彙の
豊かさと観察眼の鋭さには舌を巻く。で、この書物の面白さは、3つの要素より形成されている
のだ。一つには、姜文という人物の狂った天才ぶり。二つには、中国人というのはいかに想像を
絶するとんでもない人たちが揃っているか、そしてそんな中国人によって撮影されている映画の
現場というのがいかに凄まじいものであるかが綴られていること。そして三つには、そのような
狂った天才監督と、狂った中国人たちによって極限状態に追い込まれた香川照之という日本人
俳優が、罵詈雑言を尽くして表現しているにもかかわらず、映画作りを苦しみながらも楽しんで
いる様子が生き生きと、手にとるように書かれているということだ。

それにしても、中国ってとんでもない国だ。映画の撮影現場で写真を撮って現像に出すと、写真
屋が勝手にその写真を見るだけでなく、他の客も写真を廻し見し、さらには気に入った写真は他
人の写真だというのに勝手に抜いていく。消えモノ(映画の中で使う食べ物)を持ち出しては売っ
てしまう人々、それをまた行列を作って買う人々。若い女性がぺっぺと所構わず唾を吐くし、ホテ
ルのシャオジェ(女中)たちは人の持ち物を勝手に覗き取っていき、指摘されてもまったく悪びれ
ることはない。衣装係は衣装を持ち去ってしまうし…。ホント凄いところだ。撮影中のエピソードが
また凄い。まずは何週間も軍事訓練と称して、ひたすら気をつけ、をさせられる。脚本は勿論即
興で変わっていくし、姜文は「天皇」と呼ばれるほどの独裁ぶりだ。しかしその天才性は行動の
端々に発揮されているし、飲まず食わず、全く寝ないで撮影は進められていく。香川演じる花屋
が麻袋に詰められているシーンでは、麻袋に入れられたまま放置されて忘れ去られてしまうし
…。その上、香川が腹膜炎と膵臓炎と胃潰瘍と十二指腸潰瘍を併発したときの大騒動といった
ら…。命があったことですら奇跡的なほどだ。
日本の映画撮影の現場がどうなっているかはよく知らないけれども、少なくとも、こんなことは絶
対ありえないだろう。しかも、贅沢なことに撮りたい時に撮りたいカットを撮っていた結果、600
本以上もフィルムが廻されたということだ!

本文中に挿入されている香川の日記も、なぜ自分がこんなひどい目に遭うのか憤りっぱなしの
生々しい肉声が満ち満ちているのであるが、しかしその中でも、姜文の演出家としてのとてつも
ない才能に対する敬意と、こんなにも凄まじい傑作にかかわることの出来た喜びが感じられて
いるのだ。この本は、映画以上に映画的な書物だといえる。映画がどのように作られるかに興
味がある人にとっては、必ず読んでおくべき本であると断言しよう。

「昭和の劇 映画脚本家笠原和夫」 笠原和夫、荒井晴彦、?(スガ)秀実著、太田出版


600ページ、4500円で膨大な資料(全フィルモグラフィと、シナリオの抜粋など)と特に登場人物に関しての詳しい注釈がついていて、これだけで昭和史のかなりの部分が見えてきます。読破するのに時間はかかるものの、主に笠原氏と荒井晴彦、絓秀実両氏による対談形式であるため、読みやすくなっています。

笠原和夫氏は、東映で美空ひばり映画から始まり、藤純子モノなどの仁侠映画、「仁義なき戦い」などの実録路線、「大日本帝国」「二百三高地」などの戦争映画を経て、日本映画界の衰退に伴い「愛・旅立ち」というマッチ明菜競演のトンデモ映画とかの脚本までも書いた人。彼は軍国少年で海軍入りするものの戦争に行くことはなかったが、テロリズムと昭和天皇が終生のテーマでした。226事件の生き残り、軍人、日本共産党員、右翼、政治家、「仁義なき戦い」のモデルとなった広島のやくざたちなど膨大な人数の人たちに綿密な取材をして、リアリズムを追求した作品を書きつつも、会社や監督たちと徹底的に戦ってきました。このあたりの熱さは、読んでいる者の魂をも熱くするほどの凄絶な戦いで、彼はストレスのあまり胃を失い苦しみながらも、傑作を数多く世に送り出したわけです。
226事件の将校たちに強い共感を覚えたり、日本を勝ち目のない戦争に追いやったエリート将校たちや、戦争責任を果たそうとしなかった昭和天皇に対して忸怩たる思いを抱いたり、映画会社の人たちの無責任さに悔し涙を飲んだり、口調はあくまでも穏やかでありながら、こんなにも凄まじくアナーキーな情熱を映画に注ぎ込んだ男がいたとは。
偶然にも、この本を読んでいる最中に、昭和2年に生まれた笠原和夫氏の訃報を聞くことになった。間違いなく、ひとつの時代が終わったことを感じたのでした。まさに、昭和という時代への鎮魂歌となっている本。すべての映画ファン必読!映画ファンでなくても、昭和史を読み解くには非常に良い本。

悪者見参−ユーゴスラビアサッカー戦記   木村元彦著、集英社文庫

旧ユーゴスラビアという国とセルビア人は、国際社会の中では圧倒的に悪役扱いであった。かの悪名高き独裁者ミロシェビッチ大統領を擁し、ユーゴ紛争では諸悪の根源扱いをされた。実際には、ユーゴ紛争の中で悪者はいったい誰なのか、と言われてもひとつの国だけを悪と断定できないと言う事実があったにもかかわらず、アメリカのPR代理店を雇って世論を有利に運ばせたボスニア政府の動きもその理由の一つである。(このあたりは「戦争広告代理店」に詳しい。“民族浄化”という表現も、PR代理店の知恵により発明され広がった)この本は、悪者は最初からいるのではなく、作られるものだと主張している。

ユーゴスラビアのサッカー選手たちがユーゴ紛争以降いかに戦ったか、というルポルタージュだ。サッカーにさほど詳しくない者も夢中にさせる、力のこもった本だ。サッカーと政治は本来別であるべきなのに、いつしか政治にサッカーは巻き込まれ、ユーゴスラビアは国際試合もできなくなる。劣悪な条件の中で人一倍情熱を傾ける選手たち。ヨーロッパのクラブチームでの高額の報酬を蹴ってNATOに空襲される故国に戻ってくる彼ら。複雑な民族問題、ゆがめられた西側の報道、宣戦布告なしのNATOによる空爆や劣化ウラン弾。地雷原を走り回り、砲撃を避け放射能を浴びながらユーゴスラビア全土で取材を続ける筆者の情熱、それ以上に凄いのが、ボロボロになったグラウンドで必死にプレイする選手たち。面白いといったら語弊があるが、下手な映画よりもよほど燃えてくる事実。だが、西側では決して映画にはできまい。西側ではユーゴ=悪の図式が出来上がっているからだ。

この本の中で最も登場する選手の一人が、ドラガン・ストイコビッチ。そう、名古屋グランパスでプレイし“ピクシー”(妖精)の名で親しまれた名選手だ。彼はユーゴ代表チーム(プラーヴィ)のキャプテンとして国民的な人気を誇った選手だったが、NATOの空爆が開始されたときには、グランパスのユニフォームの下に「NATOは空爆を止めろ」と手書きのメッセージをアンダーシャツに書き、イエローカードを食らった。そして彼は他のユーゴ出身のJリーグ選手たちとともに、平和を訴える記者会見も開いたのである。一昨年引退した彼だが、引退試合でさえも、目を思わず奪われる華麗なボール運びが美しく、いつまでも頭に焼き付いている。

そして、2003年2月4日、ユーゴスラビア連邦の上下両院は4日、現在の連邦にかわる連合国家「セルビア・モンテネグロ」の憲法案を承認、新国家の成立を宣言した。これにより「ユーゴスラビア」の国名は、73年の歴史を経て消滅したのだった。ユーゴスラビアの名前は国際社会の悪役として人々には記憶されてやがて忘れ去られるだろうが、ストイコビッチやユーゴ代表による美しく、望郷の念のこめられたサッカーはずっと語り継がれるだろう。