映画『L.A.コンフィデンシャル』と「暗黒のL.A.四部作」を通して
ジェイムズ・エルロイを語る


ジェイムズ・エルロイ。一部に熱狂的なファンを持つ作家である。このような作家
について私が語るのはいささか役不足だと思うが、しかし語り始めたら止まらな
い作家でもある。ということでしばしおつきあいをお願いしたい。

今回のお題目は『L.A.コンフィデンシャル』の原作と小説との比較だ。ところが、
『L.A.コンフィデンシャル』について語るには、原作の『L.A.コンフィデンシャル』だ
けでなく、この小説も含んだジェームズ・エルロイの「暗黒のL.A.四部作」(『ブラ
ック・ダリア』『ビッグ・ノーウェア』『ホワイト・ジャズ』)についても言及しなければ
ならない。

<呪われた血の繋がりこそが、エルロイである>

映画の『L.A.コンフィデンシャル』では、バド・ホワイト、エド・エクスリー、
そしてジャック・ヴィンセンスの3人の刑事が登場する。ジャックは映画の途中で
退散するので置いておいて、バドとエドという二人の対照的な刑事の葛藤が多
く描かれていて、ややバドに重きを置いているものの、ほぼ同じくらいの比重が
置かれているのであった。
ところが、原作を読むと、ジェイムズ・エルロイの思い入れはバド一辺倒であるこ
とがよくわかる。その理由は?バドが子供の頃母親が父親によって目の前で殺
されるところを目撃したというエピソードがある。エルロイもまた、幼いときに母親
を何者かに殺されていて、それが彼の大きなトラウマになったことから、自分自
身がこのバドというキャラクターに投影されているのであった。
そして、他の3作でも、登場する犯罪者はみな、近親相姦、父殺し、子殺し等々…
血にまつわる忌まわしい因縁によって狂気の犯罪に駆り立てられている。


<濃厚な情念のジュース>

「暗黒のL.A.四部作」4作とも、主人公は刑事である。しかし刑事といっても清廉
潔白な正義の味方ではなく、その手は血で汚れている。彼らはみな、体の芯か
らわき上がってくる一つの衝動に突き動かされ、理性では説明できないものに取
り憑かれ、そして破滅へと突き進んでいくのであった。
4作品に共通するのは、狂気に満ちた文体である。短く切られ、句読点を多用し
て、語り手の魂の叫びをたたきつけている。初期の『ブラック・ダリア』そして『L.A.
コンフィデンシャル』ではそれほどその傾向は顕著ではないが、最後の作品『ホ
ワイト・ジャズ』にいたっては、文体そのものに暴力の衝動が満ちあふれ、ピクピ
ク脈打って爆発しそうになっている。そして暴発する凄まじいバイオレンス。目を
覆うばかりの残虐な光景が目に浮かび、魂に取り憑く。

「暗黒のL.A.四部作」を覆っているのは、深い、深い、そして濃厚な情念の塊だ。

このようにどこまでも濃厚な情念のジュースとなっている原作に対して、映画は
極めて淡泊な仕上がりとなっている。確かに、この時代(50年代)の虚飾に満
ちたきらびやかな映画の都ハリウッドと、その美しい顔の下の汚濁にまみれた世
界の対比は鮮やかだし、3人の男たちの間に流れる複雑な感情もうまく描かれて
いる。最初のクライマックスである「ナイト・アウル事件」のダークな怪しさ漂う事件
現場と血の匂いは、いかにもエルロイらしさが出ている。しかしそこまでだ。映画
は原作のエキスを見事にすくい取っているけれども、別物である。

小説『L.A.コンフィデンシャル』は上下巻で789ページという大長編である。
この小説の要素をすべて映画の中に入れるなんてことは到底不可能だ。それを
考えると、映画は本当に良くできていると言える。ただし、原作と映画はまったく
別であると考えた方がいい。

<悪い白人の暗躍−陰の主人公>

「暗黒のL.A.四部作」は4冊を全部読むと、一つの大河ドラマになっていることが
わかる。それぞれの作品には主人公がいて、その主人公は最後には破滅し、他
の作品には登場しない。ところが、主人公以外のキャラクターの多くは、他の作
品には登場するのだ。映画『L.A.コンフィデンシャル』では主人公の一人であった
エド・エクスリーも四部作最後の『ホワイト・ジャズ』にまで登場し、下院議員、州
副知事、そして州知事に立候補するまでの大物となる。そして、「暗黒のL.A.四
部作」には陰の主人公がいた。それは誰かというと、悪の権化、ダドリー・スミス
警部である。


映画『L.A.コンフィデンシャル』では、最後にはバドとエドが力を合わせることによ
ってダドリー・スミスは倒される。ところが、小説では、ダドリーは死なない。四部
作の最後まで行っても死なない。エルロイには、勧善懲悪的な甘い結末は考え
られないのである。エルロイにとって「暗黒のL.A.四部作」は「権力の名の下に悪
い白人が暗躍する物語」なのであって、悪はそう簡単には滅びるものではないの
だ。ダドリー・スミスは黒人に犯罪をなすりつけ、黒人に麻薬を売るのを容認し、
そして赤狩りも行う、まさに50年代のアメリカが生んだ悪い白人の典型なのだ。
そう、エルロイが本当に描きたかったのは、50年代のアメリカを襲った「悪」とは
一体何だったのか、ということだと私は思うのだ。


<人物造形の違い>

『L.A.コンフィデンシャル』の小説と映画は、他にもかなり違う部分がある。中でも、
エドの人物造形はかなり異なっているのだ。ナイト・アウル事件の犯人であると
濡れ衣を着せられていた黒人たち。小説では、彼らに陵辱されていた娘イネス・
ソトとエドは長きに渡って爛れた関係を続けていた。そして、映画ではほとんど登
場しないが、エドも元名刑事であった父親に対して非常に複雑な感情を持ち、そ
れが一つの悲劇的な事件を生む。ここにも、エルロイ特有の血の絆による呪いが
現れるのであった。エドもまた、単なる正義漢のエリート警官ではなく、弱いところ、
卑劣なところをももった一人のエルロイ的キャラクターなのだ。また、映画ではエ
ドはバドの恋人リンを思わず押し倒す場面があるが、小説の中では、リンとエドは
ある程度の期間、関係を続けている。映画の中のマグダラのマリアのような女性
ではなく、リンもまた弱いところのある女だったのだ。

<これからエルロイの小説を読むあなたに>

ジェイムズ・エルロイの小説は決して読みやすいものではない。登場人物が非常
に多い上、会話文の応酬が続いて、どちらの台詞を誰が言っているのかもわから
なくなっている。勢いで、血をまき散らすように、たたきつけるように魂の叫びを書
き殴っている部分もあり、短い文章が畳みかけるように重ねられている。それなの
に、プロットは極めて精緻であり、伏線がそこら中に張り巡らされているのだ。慣れ
るまではとても取っつきにくいけれども、我慢して読んでいるうちに、夢中になる。
最後の100ページほどは時も忘れてページを繰ることになる。そして、ついには中
毒患者となり、『ホワイト・ジャズ』で四部作を読み終えた後、もう一度『ブラック・ダ
リア』を最初から読みたくなる衝動に駆られてしまうに違いない。文庫本がボロボ
ロになるまで…。

でも、映画『L.A.コンフィデンシャル』のダークな側面、「ナイト・アウルの虐殺」の
場面に現れるタナトゥスに惹かれた方だったら、ぜひとも原作を手に取っていただ
きたいと思う。夢中にさせるものとの出会いとなるかもしれないからだ。

『ブラック・ダリア』の映画化権を持っているのはデビッド・フィンチャー、そして
『ホワイト・ジャズ』はエルロイの親友でもあるニック・ノルティが映画化権を手
にしているという話だ。彼の狂気の何分の一かでも、映像にすることができた
ら凄いと思う。


この文章は映画館主Fさんの「DAY FOR NIGHT」の特集「映画を読む」に掲載した文章を再収録したものです。