戦場のピアニスト  The Pianist

監督:ロマン・ポランスキー 出演:エイドリアン・ブロディ、トーマス・クレッチマン
戦争という狂気にあって、一体どうすることが一番正しいのか、尊いのか。現在起きているイラク紛争にあたって、為す術も無く、戦争を止めることに役立つかどうかもわからない反戦運動に協力すること位しか出来ない自分自身に激しく苛立つ毎日だ。あまりの自分の無力さに。

ところが、第二次世界大戦の当事者になり、戦争の被害が自分自身の身に振り被ってきたのに、何もすることが出来なかったときに感じる無力感というのは、私たちが感じている無力感とは桁外れの、果てしないものに違いない。この映画の主人公、ワディズワフ・シュピルマンがそうだった。

『The Pianist』の中では本当に多くの人たちが、理不尽にも死ぬ。ナチスの人間狩りの標的となり、突然夕食時に襲われて車椅子ごと突き落とされた老人とその家族。どこに連れて行かれるのか尋ねただけで射殺された女性。列の中から選ばれて頭を撃ち抜かれた男たち。ゲットーに転がる無数の死体。そして、ワルシャワ・ゲットーの蜂起で勇敢に戦い、散っていったユダヤ人反乱軍。映画の中では生死は明らかではないが、シュピルマンの家族も彼以外は全員強制収容所へと連れて行かれた。ナチスに対して強く反抗していた弟ヘンリクも、だ。隠れ家へ彼を導いてくれたヤニーナも捕らえられた。多くの人々が彼を助けようとし彼は生き残った。だが、最後に彼を救うドイツ軍人ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉もソ連の戦犯収容所で死んだ。

ワディスワフ・シュピルマンは、戦う男ではなかった。新聞も読んでいなかった世間知らずの男。彼は警察に捕らわれた弟ヘンリクを助け出すために、誇りを捨て同胞を殴るので非難を浴びていたユダヤ警察の知人に頭を下げた。そして運良く収容所行きの列車に乗らずに済んだ後は、ひたすら逃げて隠れるのみ。ゲットー内で労働させられていたときには、ピアニストゆえのひ弱さで長くは持たないと思われ、楽な仕事をあてがってもらっていた。もちろん、彼は戦いたかったのだ。蜂起を計画していた同胞の武器集めには協力していた。だが、ゲットーの壁のすぐそばにある隠れ家の窓から、彼は1ヶ月の間ワルシャワ蜂起で立ち上がった人々が果敢に抵抗しそして敗れ去っていくのを見つめるだけだった。「僕もゲットーの中に戻って戦うべきだったかな」と悲しそうに語ったけど、そうはしなかった。別の隠れ家に移ったときにも、ドイツ軍の病院の前での戦いを窓から見つめ、そして隠れ家が破壊されたときにはひたすら逃げた。静かに、悲しみを湛えた瞳で窓の外を見つめ続けている姿が非常に印象的だった。家族を、友人を、ピアノを彼から奪った、この暴虐な戦争を止めさせるために何かをした い、だけど何も出来ない、その彼の苦しみとはいかほどのことだっただろうか。

だが、彼は生き残った。破壊し尽くされたワルシャワの街。ほとんど全滅させられたポーランドのユダヤ人たち。生き残るということだけでも、いかに困難なことだったか。ピアニストを生業としている彼なのに、隠れ家にピアノがあっても弾くことは許されなかった。物音を立てることすなわち死であるからだ。ただただ息を潜め、窓の外で戦いがあっても戦うこともできずに、死んでいるかのように生き続けるだけ。食糧も底を尽き、支援してくれていた友人たちも捕らえられたり逃げたりしていなくなった。長い引きこもり生活と飢えで病気になった。隠れ家が戦争に巻き込まれ、破壊された。頭の中にはもはや、食べ物のことしか思い浮かばなくなった。そしてついにドイツ兵に見つかった。だが、彼はこの狂気の戦争を生き抜いたのである。

武器を持って戦うことだけが、戦いではないということをこの映画は語っている。シュピルマンが生き抜いたからこそ、この物語は語り継がれ、彼の生の裏に存在する無数の無名の死者たちの人生も明らかになったのだ。生き抜いたことだけでも、彼は称えられるべきなのだ。生き抜くこと、それが彼にとっての戦いだったのだ。

ラストシーンでシュピルマンは、逃亡生活のときのボロボロのやせ衰えたみすぼらしい姿から一変した整った姿で、美しいコンサートホールでオーケストラをバックにし、着飾った男女を前に演奏する。だが、彼の表情は冒頭のワルシャワのラジオ局でピアノを弾いているときとは全く違う。深い悲しみを秘めているのだ。無数の死者たちの上に、彼の生が存在している。何も出来なかった自分に対する後悔の念も付きまとっているが、そのように生かされた自分の人生は決して無駄にはせず、精一杯素晴らしい人生にしなければならない。そのためには、彼に出来るただ一つのこと、人々の魂を揺り動かす音楽を全身全霊傾けて生み続けなければならない、それを死者への償いとするしかないという静かだが厳かな覚悟が、その演奏の中に感じられるのだ。この音楽は、戦争の中で失われた無数の命へのレクイエムだ。無数の名もなき死者たちの屍の上に美しく咲く花だ。その妖しい美しさは、ホーゼンフェルト大尉の前で、最後の演奏とする覚悟の元で弾かれた月光の中でのショパンでも、咲き誇った。寒気がするほど、戦場の真っ只中にいることを忘れるほど、だけど死の匂いがむせかえるほど濃厚に漂う 美しさだった。



実際に母親をアウシュヴィッツで失ったポランスキーは、声高にナチスドイツの暴虐を叫んだりはしない。この映画の中では、多くのユダヤ人が死ぬが、ことさらドラマチックな演出はない。何気なく死体が転がっていたり、ニュース映像を見ているかのように罪なき人が淡々と撃ち殺されるだけ。あたりまえのようにさりげなく人が死んでいくことのほうが、よほど怖い。新聞を読んでいて、イラクの市民がアメリカ兵によって殺されたという記事がさりげなく載っているのと同じように。そしてシュピルマンを演じるエイドリアン・ブロディの演技もまた、静かで淡々としていて、あまりにも残酷な所業を目の当たりにするところでも、涙を流す場面だってそれほど多くはない。しかし廃墟となった街を前に呆然と立ちすくむその姿、ずっと食べ物の入った缶を抱えて放さないその姿、骸骨のようにやせ衰え、大きな瞳だけになったその姿。その瞳が悲しみや恐怖を深く表現していて、何気ないのに凄みがあるのだ。

戦争というのは、人間性を奪う行為だ。この映画の中でも、戦時中とはいえつつましく暮らしていたユダヤ人一家が、少しずつ持てるものを奪われていく。カフェで恋する女性とお茶したり、公園のベンチで語り合う自由。舗道を歩く自由。お金を貯める自由。ユダヤ人であることを示す腕章をつけなくてはならなくなり、ゲットー内に住まなくてはならなくなり、やがて飢えていき、いつ何時殺されるか、さらわれるかの恐怖に囚われ、そしてついに収容所に送られて命すら奪われていく。少しずつ持てるものをじわじわ奪われていく気持ちとはどんなものだろう。

だが、ユダヤ人だから善良だ、ドイツ人だから悪だという決め付けをしていないこの映画は潔い。なんてたって、この映画の主人公であるシュピルマンだって英雄ではなく、多くの人に運良く助けられて生き延びただけの臆病な一人の無力な人間に過ぎなかったのだから。音楽を愛するナチスドイツの兵士が彼の命を助け、そしてその男、ホーゼンフェルト大尉の命をシュピルマンは助けることができなかった。ユダヤ人の中にも、同胞を殴ったりする男がいたし、そしてその同胞を殴る、卑劣とされていた男にシュピルマンは助けられた。良い人間も悪い人間も、どちらの側にもいるし、悪い人間に見えてもその人の中に良い部分があったりする。そのことは、決して忘れてはいけない。



そしてもう一つ忘れていけないのは、第二次世界大戦で、ナチスドイツに信じられないような、神の存在すら疑ってしまうようなとてつもなく残虐な目に遭わされたユダヤ人が、パレスチナで、ここまでひどいことではないにしても、似たような仕打ちをパレスチナ人にしているということ。人間は歴史から学ばなくてはならない。歴史から学ぶことで、幾万という死者たちの魂に報いることが出来るからだ。世の中には、神様が本当に存在しているとは思えないほどのひどい出来事が毎日たくさん起きている。だからといって、罪もない人間を殺していいということにはならないのだ。昨日まで家族と幸せに過ごしていた人間の生を突然理由もなく奪うのが戦争であるとこの映画も訴えているではないか。そんなことがこれからも起きてしまうなんて、もう考えたくない。