
なんだか特に意味のないこととか、思いついたこととか適当に書くページです。
このホームページ自体そういうもんだという噂もありますが・・・。
まあ、気にしない、気にしない。
キネマ旬報ベストテン 1998年度第1位映画鑑賞会&表彰式レポート
第71回アカデミー賞雑感
(日記とだぶりがありますがご容赦下さい)
5月2日、東京都現代美術館の荒木経惟回顧展「センチメンタルな写真、人生」に行ってきた。
アラーキーの写真というのは、以前から好きで写真集も何点か持っているし、1997年の原美術館での回顧展にも行っている。今回は、いろいろ新しい試みも見ることができて興味深かった。中でも上海、台北、バンコクで花の写真のカラーコピーを壁に貼ってまわり、ごみごみとした街の風景を変えた上で道を行くスナップを撮るというのはわけわかんないけど面白い。一般的には芸術写真の被写体としては一番考えにくいサラリーマンのおじさんたちのポートレートや、近作の、有名人・一般人をとりまぜたしあわせそうな人たちの写真というのも良い感じだ。
アラーキーといえばヌード写真をはずして考えられないのだけど、これだけいろんな人のヌードを見ると、あたりまえだけどいろんなハダカというものがあるんだな、というのが一つ。おっぱい一つとってもいろんな形がある。普段は自分のカラダくらいしかみていないから、ふーんこんな人もいるんだなって発見。それから、完璧に整ったプロポーションの人のハダカより、ちょっとバランスを崩していような人のヌードのほうがずっとエッチな感じがするのだ、という発見。ちょっとどころか、極端に痩せている人とか、太っている人とか、その人らしさが感じられて淫蕩な印象が与えられる。生活感のあるハダカというのもエッチだ。カラダにパンティやストッキング、ブラジャーの跡がついていたり。たぶん、そうやって、いろんな形状をしていて個人差が大きくて、さらに生活感があるというのは、
「生きている」って証拠で、だからエロティシズムなんだろうな。彼女たちの肉体からは、プライバシーの一端が匂い立つようだ。。人の顔というのも、そうやって見ていくとちょっとエロティックなものに見えてくるから面白い。下手したらハダカよりエッチかもしれない。さらに、花というのもやたらにエロティックだ。なにしろ生殖器を剥き出しにしているわけだから。
その上、モデルを使った写真というのは、多くが視線がこちらに向いている。向いていなくても、カメラのこちら側の人物を意識しているのがわかるのが、いかにも「男と女の間には写真機がある」と言ったアラーキーらしい。彼の写真には、必ず被写体以外の他者の存在が感じられるのだ。それはカメラマン(=荒木さん)だったり、第三者だったりいろいろなのだけど、人と人との繋がり、息づかいが感じられたりして、見ていて癒されるような気がする。
人間の「生」(ということは、その裏返しとしての「死」もある)の全てが、彼の写真には感じられる。生きるという営みの全てがにじみ出ている。「エロス」というのは「タナトゥス」(死)と表裏一体で、「生きている」ということそのものがエロティシズムなのだ。ヌード写真に限らず、サラリーマンのおじさんの顔というのも、荒木さん撮影のものに関しては一人ひとり個性がある。エロスとは無縁に思える中年男性にも、官能が感じられてしまうのが不思議と言えば不思議なのだが、考えてみたら、当然のことだったりするのだ。普段接しているおじさんにエロスが感じられないのは、みんな同じ風に見えるからだろう。
荒木さんの写真は、全部が全部美しいものとして撮られてはいない。しかし、撮る人の優しい心、温かさがにじみでている。特に愛猫や愛妻故陽子さんへの写真には、飾り気のないまっすぐな愛が感じられている。「センチメンタルな旅 冬の旅」の写真集を見て涙ぐんでしまったことを思い出した。