文学史に見るボルジア。
 
2.ボルジア家とは。
ボルジア家というのはルネッサンスの時代、ローマにまさに流星のごとく現れ、そして消えた徒花のような存在である。
スペインのヴァレンシア出身だが、アルフォンソ・ボルジアがローマで大成功をおさめ、何と法皇カリスト三世になって以来、その一族もまたローマで勢力を持つようになる。アルフォンソ・ボルジアの法皇戴冠が1455年、ボルジア家が事実上権力の座から転落するのが1503年であるから、ほんの50年足らずの間に彼等は十分伝説に足るものを成し遂げたということになる。
しかも、1455年から1492年までの30数年は助走期間というか、潜伏期間のようなもので、実際に彼等が歴史と世界を手玉に取っての大勝負をしていたのはたかだか10年なのである。 私がここでボルジア家の最盛期として区切るのは、ボルジア家二人目にして最後の法皇アレッサンドロ六世がバチカンの玉座に座っていた時期のことである。
ロドリーゴ・ボルジアはカリスト三世の甥にあたる。スペイン育ちの陽気で官能的、そして天賦の頭脳に恵まれた青年は、叔父の援助を足掛かりに聖職者としての出世階段を駆けのぼった。聖職者、といってもそこはイタリアンルネッサンス、酒も女も何でもあり。
美しく才長けたロドリーゴは壮年になってますます女を引き付けたが、その中で彼が最も愛した女がヴァノッツァ・カッターネイ。彼女の素性についてベロンチはマントヴァかプレシアの出身、クルーラスとシャストネはローマ出身の金持ちの女、と真っ向から違った意見を述べているくらいで、全く定かではないが、のちに語られるように娼婦というわけではないらしい。骨太で金髪の美人というのはどうやら本当らしいが。
その彼女からロドリーゴは、四人(他にもいろいろ説があるが、取りあえずここでは四人とする。)の子供をもうけている。 チェーザレ、ファン、ルクレツィア、そしてホフレ。裕福で有力な枢機卿の息子、娘として四人は何不自由ない生活をおくっていた。 そして1492年、ロドリーゴはアレッサンドロ6世として法皇の冠を戴き、自分の野望と子供達の未来のために、彼は様々な計画をスタートさせることになる。
チェーザレは聖職者として父の跡継ぎに。実際、彼はこの直後にヴァレンシア大司教に任命され、翌年には枢機卿の位を与えられる。 ファンは、亡くなった腹違いの長兄、ペドロ・ルイスに約束されていた地位を与えられていた。
スペイン王の従妹であるマリア・エンリケスを妻に娶り、スペインのガンディア大公となる。 それ以前から縁組みの話が降り注いでいたルクレツィアには、すでに2人目となる婚約者がいたが、父親が法皇に選ばれてしまってはそれまでの相手では格がつり合わない。
結局このスペイン貴族ともほぼ不当な方法で婚約を解消し、ミラノに本拠地を置くスフォルツァ家の若者、ペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァとの結婚が決まる。 末弟のホフレは、スフォルツァに対抗する勢力、ナポリのアラゴン家から、庶出の王女サンチャ・ダラゴーナとの結婚が決まった。 こうしてボルジア一族は政情が不安定を極めるイタリアに着々と足掛かりを築いたわけだが、しかし、アレッサンドロ6世の書いた筋書きは、それ自体が完璧でも配役に大きな問題があったのである。
チェーザレは全く、聖職者に向いていなかった。戒律を守らない、などという問題ではなく、宗教的義務感と野心を持ち合わせていなかったのである。 ガンディア公という世俗の栄光に加えて、教会軍総司令官という地位まで与えられたファンは、教会軍を率いての戦でその無能ぶりを存分に見せつけた。
ルクレツィアは従順で理想的な妻ではあったが、相手のジョヴァンニはボルジア家の婿たるにはあまりに凡庸で、要求される才覚も、決断力も、覚悟さえも足りなかった。 11才のホフレの妻、サンチャは17才で、ナポリきっての美貌と奔放な態度でバチカンを引っ掻き回した。
しまいにはチェーザレとファンが、弟の嫁である彼女を巡って恋の鞘当てまでやってのける。
さらにここにアレッサンドロ6世とその若い愛人、ローマ一の美女と謳われるジュリア・ファルネーゼの痴話げんかと破局までがかさなる。
そうこうするうちにも、ボルジア家の痴情のもつれをしり目に政情はさらにもつれ、1494年ナポリの権利を主張するフランス王シャルル8世は、ナポリに対立するミラノ側の手引きによってイタリアに入り、なんとローマにフランス軍が押し寄せるという前代未聞の大事件が勃発してしまうのである。 ここは老練な外交政治家・アレッサンドロと若き枢機卿チェーザレの才覚によって何とか事なきを得るのだが。
ボルジア家の軌道修正は、1497年に一気に行われる。 ミス・キャストで狂ってしまった筋書きなら、配役を交代すればいい。 まずは、ルクレツィアの夫ジョヴァンニが、性的不能の烙印を押され、ボルジア家から排除された。カトリック教義において離婚が許されるのは、死別かもしくはその結婚が履行されていない時に限るのである。 もちろん、強く抵抗したジョヴァンニだったがミラノの本家の援助も得られず、ボルジア家の勢力の前には沈黙するしかなかった。ただし、彼がこの時腹いせに流した無責任なうわさは、のちのちボルジア家の伝説となって広く知られることになるのだから皮肉なものである。 そして次にその役を降ろされたのは、偶然か必然か、父の大のお気に入りである次男のファンだった。
ある夏の夜、ガンディア公ファンは剣でめったづきにされ、テーヴェレ川に浮かぶ。
結果だけ見れば、チェーザレは兼ねてからの希望だった還俗を果たし、弟ファンの代わりに世俗での栄光、軍人としての未来を与えられることになったのである。
ルクレツィアにはナポリの公子、美しく陽気なアルフォンソ・ダラゴーナが夫として選ばれ、アルフォンソの姉にあたるサンチャとホフレも加わって彼等はバチカンで幸せな日々をおくるようになった。 配役と筋書きが、うまく噛み合い出していた。
政策は、親スペインから親フランスへと変わっていく。
離婚を強く望んでいた当時のフランス王ルイ12世からチェーザレは、法皇の離婚許可証とひきかえに国王の従妹にあたる妻、シャルロット・ダルブレと、ヴァレンティノワ公爵の地位を与えられる。
イタリア語でヴァレンティーノ公爵、この後、畏怖と憎悪、感嘆と敬意をもって、この名は何度となく叫ばれることになる。
この時期のチェーザレは、フランス王と法皇という世界最強の後ろ楯をもって、エミリア・ロマーニャの都市を次々攻略していた。 
法皇からの溢れんばかりの軍資金援助フランス王の認可、卓越した軍才の前には、敵もいなかったのである。 しかし、フランスよりの政策が押し進められていけば当然、ナポリは邪魔になる。フランスがナポリ王位の権利を主張している以上、ボルジア家は公然とナポリを援助することなどできない。
ルクレツィアの二番目の夫は、今度も政情の変化によって悲惨な運命を辿ることになる。
1500年7月、チェーザレの指図と、チェーザレの腹心にして親友のスペイン人、ミケーレ・ダ・コレーリアの実行によって、ビシュリエ公アルフォンソ・ダラゴーナはその短い生涯を終える。
ルクレツィアは悲嘆に暮れ、父親や兄とも断絶状態に陥るが、結局は三度目の結婚を承諾してフェッラーラのエステ家に嫁ぐことになる。妹を野心のための道具としながらチェーザレは快進撃を続けていく。
1501年、ロマーニャ統一を果たした彼は、父親によってロマーニャ大公 に処せられるのである。
1502年、あまりにも大きくなり過ぎたチェーザレを恐れて、配下の傭兵隊長達が反逆をおこす。絶体絶命の危機に陥ったものの、フィレンツェの外交使節として訪れていたマキャヴェリを驚嘆させる手腕であっさりと立場を逆転し、鮮やかな復讐劇をやってのけたチェーザレは、まさにイタリアの台風の目となっていた。
彼の通り過ぎ、征服しなかった都市はないというくらいに。

このままいっていればチェーザレはイタリアを統一し、その初代国王となっただろうし、またそれが彼の野望の完成でもあっただろう。
ところが1503年、今までの因果が巡ってきたかのように、ボルジア家はいきなりその終焉を迎えることになる。
法皇の突然の崩御、そしてチェーザレは同時に重病に伏し、すべてを失った。 ここから4年、チェーザレは逃亡と脱獄をくり返し、あまりに悲惨な、自殺に近い死に到るのである。
残ったルクレツィアはルクレツィア・ボルジアではなくルクレツィア・デステとなり、フェッラーラ公妃として静かな生活をおくり、39才の時産褥熱でこの世を去る。こうしてボルジア家は、歴史の表舞台から消える。
わずか5年で、イタリア国王にも手が届きそうだった孤高の英雄も、底抜けの器の大きさと外交手腕で他国を欺きつづけた「官能的な」法王も、何度も夫を変えながらあくまでも純真可憐でありつづけた絶世の美女も、まるではじめから存在しなかったように。
最後に残ったボルジアはが聖人として除せられるというのは、また別の話しである。
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