友情の不思議。 皆様、イタリア人ってとっても正直で開けっぴろげ、だと思っていませんか? 多分それはその通り。 でも、だからってイタリアの友人関係が日本の友人関係よりも正直で大雑把なものであるというわけではありません。 っていうかさ、日本では、一緒に仕事をしている、とか一緒に学校にいっているとか、そういう外的要因がない限り、そうそう連絡を取り合ったり、逢ったりするものではなくない? わたくしは友情大好きで、かなり熱いと自覚しているのですが、それにしたって毎日連絡を取る相手というのは、本当に例外のケースです。大好きな、とても大切な、心からの親友であったとしても、連絡を取るのは一週間に一回くらい、しかもそれも不定期で、実際会うということになったら一ヶ月に一回くらいじゃないかなあ。平均しても。 たとえば一ヶ月連絡をとりあわない、ということもザラにある話で、だからといって友情が廃れたとか、不義理な感じがする、とはおもわないというか。 必要なときに呼んだら答えてくれる人、連絡をしなくてもわたくしのことを忘れたりしない人、というのが本当に大事な友達ということになるかなあ・・ 友情をメンテナンスするためにその人に連絡を取り続ける、なんてことは、めんどくさいし、友情そのものを信じていないような気がするから、かなあ。 ま、理由はともかく、お互い別々の人生を生きて、タイミングが合うときや必要なときに逢える人が友達なわけですよ。少なくてもわたくしにとっては。 まあ、特別な人というのはいるわけで、そういう人とはほぼ毎日のようにメールを交換したりするわけですが。(ねー、かのんさん。♪) しかしイタリア人の友情、というか「友達」というのは、そういうものでもないのです。 友達である以上、毎日とは言わないまでも、数日ごとに連絡をとりあい、週末の予定はお互い報告しあって、出来るだけ多くの時間を一緒にすごそうとする。お互いに恋人がいれば必ず報告するし、イベントの際には必ず声をかける。 とっても義理堅いし、とっても「優しい」。 たとえば、ちょっとしたお茶を飲みにいったときなんて「どっちがお金を払うか」で、すわ喧嘩か! と思うほどの大論争。 払いたくなくて喧嘩するならともかく、どっちも払いたくて喧嘩するって、若い子どうしだったらなかなか考えにくいよね? 友達からの無理なお願いも、喜んで聞いちゃう。 たとえば、「明日からキャンプに行くんだけどテントを貸してくれない?」などというお願いをされたら、わたくしなら、「じゃあ重いから、悪いけどうちまで取りに来てくれる?」って言うと思うのよ。わたくしが貸すんだから当然じゃない? でもイタリア人は、「ならアナタのいいところまで持っていくわ」となる。 もちろん相手も「いいよ、取りにいくよ」とは言うだろうけど、イタリア人の常識としては、「持っていってあげる」と主張するのが正解。 友達同士の間でも非常に礼儀正しくマメ、そしてやたらと親切にするのがイタリア人。 結構不思議なことだと思われません?? たとえば、常識的に考えて、日本人ほど「和」というものを大切にする国民というものはいないことになっているし、逆にイタリア人は「個性」が強くて、おのおのが好きなときに好きなことをしている、というのがウリ。「協調性」に満ちたはずの日本人の友情のほうがドライで、「協調性」に欠けているはずのイタリア人の友情のほうがディプロマティック。 どちらがいいとか、悪いとかということではないですが、この違いは結構面白い。 たとえば、「一ヶ月以上連絡を取り合わない、けれど仲のいい友達同士」というものを「お互いに信頼しあっている最高の友人」と見るか、「一ヶ月もお互いにほおって置けるなんて、友達とは言わない」というか、の違いといえば、ちょっと物事を単純化しすぎてるかもしれないけど。 日本というのはもともと曖昧さや、ぼかした表現の奥に「真実」があることを美しいとする文化があるから、過剰な表現を嫌う傾向にある、というのもあるでしょう。 イタリア人は、全てのことは話し合って、明るみに出して解決しなければ気がすまない人たちだから、常に連絡を取り合って、相手のことを思ったり、考えたりしていることを主張する。 喫茶店で、実際問題その場でどちらがお金をだすにしろ、たとえば一度ご馳走してもらったら次はこっちがご馳走しなければならないことは明らかなわけで、だったら(そういうことを覚 えておいたり、忘れて恥をかいたりしないように)最初から割り勘にしておけばいいじゃん、というのも確かに本当だし、「割り勘なんてみっともない、今日は僕が、明日は君が」みたいなスマートさというのが出来るんならそれはそれでいいんだけど。 でも友情というものに対して使う「エネルギー」が、日本人よりイタリア人のほうが大きいことは確かな気がします。 わたくしは個人的には、友情というのはエネルギーを使わなくても保つことの出来る信頼感とか、安心感の上に成り立っているので、日本人的美意識の友情のほうがいいと思うんだけどね。 人生という舞台の上では、かなりの部分がギブ・アンド・テイクで動いていることを、否定するつもりはないのです。というか、それを否定したら人間関係が立ち行かない。 悪い意味での、打算的だったり金銭的だったりする意味でのギブ・アンド・テイクではなくて、プラス方向の感情の問題、ですが。 わたくしが誰かから、「わたしはヤヨイちゃんのことが大好き!!ヤヨイちゃんのためなら何でもしてあげる!」というプラスの感情をもっているとしたら、その人はそれに見合う何かを、わたくしから受け取っているからだ、と思うのね。それが、「わたしもあなたが大好きよ! あなたのためなら何でもしてあげる!!」という形でなかったとしても、その彼女が、「ヤヨイちゃんを好きでいてよかった」と思える何か、というのがあってこそ、その関係は成り立つのであって、友情に片思いなんてないし、片思いだったら成り立たない。 と、思っているわたくしにしてみれば、成り立っている以上、そこに意識的な外交術は必要ない、というのが本筋かしら。 もちろん、親しき仲にも礼儀は必要だし、何でもかんでも好き勝手しているというわけではなくて・・礼儀は必要、でも外交手腕で友達を作っても、楽しくないでしょ?と思っちゃうし。 素の状態でギブ・アンド・テイクが成り立つ素晴らしい関係が友情だと思うから、毎日連絡をとったり、凄く気を使ったりしてエネルギーを消費する必要はないんじゃないかな、と思っちゃう。 そこで、とても優しくしたりされたり、とても気を使ったり使われたり、という、表面上でのギブ・アンド・テイクを重ねることは、しかし、イタリア人にとってはとても大切なことなのですわ。きっと。 逆に言えば、わたくしのよう「信頼」というものを前提とし、それに寄りかかる形での放置プレイ的友情というのは、「信頼感」とか「和」が前提にある日本社会のぬるま湯の中にだけ存在する形で、個々の個性が強く、そういう「共同体の中にある信頼感」というものが薄そうなイタリアでは、関係を現実世界の中でより強固にしていくことが必要なのかも。 「和の世界」の中だからこそ、その世界の中の個人と個人の関係はある程度希薄であってもいいし、「和の世界」の外では、個人と個人の関係がより一層強くならざるを得ない?とか。 もっともらしいことを言ってますが、要するに、「アナタはわたしの友達よ(あなたが大事よ)」といい続けることが友情の示し方かどうか、っていうことよね。 なんでも表明し、主張することが大前提のイタリアではそれもまあ、当然か。 というわけで、こういう都合のいいところだけはべったり日本人のわたくしとしては、イタリア人的友情の示し方は苦手なのですが、しかし、いくら「察してください」の文化でも、「ありがとう」と「ごめんなさい」だけは、察する察さないの問題ではなくてさ、いうべきだと思うんですわ。 日本人って結構それを言うのを恥ずかしがる人が多くない? 照れくさいのかめんどくさいのか億劫なのかわからないけど、友情の間で必要な言葉があるとすればありがとうとごめんなさい、でしょう。 わたくしは、大切な友達の為ならたいていのことはしますが、それで「ありがとう」とか「ごめんなさい」の一言もなかったらいやだわ・・そればっかりは、「アナタに察して欲しい言葉」ではなくて、「わたくしが表現したい言葉」のはずだもん。 違うかしら。 |
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