結婚は女の夢か、女の墓場か。

かなり微妙なお年頃であるわたくしが結婚について語ると言うのも非常に微妙な感じですが、微妙なお年頃だから感じる日伊結婚事情。微妙な気分の人は読まずにやり過ごしてくださいませね♪

それにしても、世代と言うのは、確実に移り変わってきているのでしょう。
相次ぐ「30歳代の独身女性」と言うものをターゲットにしたマーケティングの数々には、目を見張るものがあります。
漠然と思うことはあっても、実際に意識することは稀ですが、時間と言うのは確実に移り変わり、自分も年老いるけど、世間は前のままで自分だけが年老いているのではなくて、世間もまた、一緒に年老いる、という言葉が間違いなら、年を経ていっているわけです。確実に、世の中と言うものも動いてる。
わたくしが一歳年をとると言うことは、世の中のわたくし以外の全ての人たちも一歳ずつ年を取るということです。
そして、わたくしたちは常に、「自分の近い将来」と言うものを想定して、自分よりちょっと年上の人たちを見つめ、その人たちと同じようになっていく自分と言うのも思い浮かべるわけですが、自分だけが年を取るわけではない以上、「今現在、ちょっと年上の人たちが置かれている状況」と、「近い将来自分が実際その年になった時に置かれる状況」というのは当然変わっているわけです。当たり前のことを何を長々と語っているのかと思うかもしれませんが、意識しないでいると、意識しないままに終ってしまうことだと思うので。

三十代の独身女性、というカテゴリーは、まさにわたくしにとって「近い将来」の自分が属するであろうカテゴリーで、今、その三十歳の独身女性という人たちを、世間はかなり乗せようとしているようです。
おそらく、「三十越えても十分美しい、いやむしろ女盛りはまだまだこれから。充実した生活を楽しむ大人の美女達の価値観」というものができあがりつつあるのでしょう。
それは、数年前にはこんなに広まっていなかった価値観で、しかし、「今三十歳」の人は、1974年生まれ前後の人たちしかいないわけで、1964年生まれの人たちの「わたしが三十歳になった頃」は10年前のことなんだから、同じ「今三十歳」として比べること自体無意味なわけです。
ああ、なんだかきっとうまく説明できてませんね。
つまりわたくしは、二十代、三十代、四十代という年齢での「こうあるべき、こうであるだろ、こうであらまほしき姿」などというものは年とともに移り変わるもので、一般論なんてあるはずがない、ということを言いたいわけです。
2004年に30歳であるという世代は、その人たちだけのものであって、もう繰り返すことのない、「世界は2004歳、自分は30歳」という配置の中で規定される「30歳」は、普遍性はないということです。
「世界も年老いていく(あるいは進んでいく)という感覚」が、現代人には希薄だと思うのですが、宗教の信仰上では重大な意味を持つし、時代が下がるということは「進化」ではなく「滅び」へ近づいているということなのですが、それを語りだすと話が終らないからまあおいとくとして、とにかく、世界自体も移り変わり、自分も年をとる中、その関係性を客観的に見つめるというのは結構難しいものがありますわね。

まあそういうことはおいといて(これだけ引っ張っておいておいておくのか!)このままでいけば、三十代の独身女性の地位は、多分上がる。
「三十代独身は負け犬」という一時期世間を覆いかけた風潮は、「三十代・四十代、あるいはそれ以上の結婚した主婦達」という多数派に心地よい価値観だったからで、それは単純な数の論理だし、確実に独身女性が増え、ゴージャスに仕事をこなしていく女性が増え、十年二十年たって、「多数派」がどちらで、「多数派にとって心地よい価値観」が何になっているかを考えれば、恐らく、「結婚に縛られず、自由な時間と自由なお金を使って生活を楽しむ女性達」になっている気がします。

それが現在のイタリアの価値観に近い。

イタリアって、わりと「結婚」に対する価値観は厳格な国で、ちょっと前までは「イタリア人の男は、自分の母親と嫁さんだけは何があっても大切にする」と言われたものですが、現在のイタリアの結婚状況は惨憺たるものがあります。カトリックを戴く国にあるまじき離婚の嵐。どうせ離婚するなら結婚なんて無駄無駄、とばかり、誰も結婚したがらない。
少子化も進み、しかも平均寿命は世界トップクラス(つまり高齢化一直線)、となんだかとっても日本と似た状況にありますが、女性が「結婚という圧力」から自由である点においては、それがいいか悪いかはおいておいて、日本よりもだいぶ先に行っていて、しかし恐らく、日本はそこに追いついていくのではないかな、という気がするのです。

そもそも、「結婚(つまり一人の男に対して一人の女がその永遠の配偶として定められること)」という価値観は、キリスト教に顕著だし、「男女の恋愛(ていうかむしろセックス)というのは子供を作るためだけにするものであり、それ以外は罪にあたる」というのもキリスト教。仏教や神道はその辺に関してかなり大らかだし、一夫一妻制は儒教あたりが影響する、高々ここ数百年の借り物の文化。千年前から、キリスト教の神様に結婚を誓い、どんなに偉い王様だろうと、離婚するには神様の許可(法王庁の許可)が必要だったヨーロッパとはちがって、日本の結婚は別に神様に願い出ているというわけでもなく、だからキリスト教でもないくせにチャペルで結婚するという不条理がまかり通るわけですが、こういう「結婚に対する宗教的縛り」が激しいはずのイタリアでさえ、この状況なんだから、宗教的にも伝統的にも、縛りなどがないに等しい我らが日本で、あと何世代もの間、結婚が神聖視されることはあまり考えられないと思う。
現在の「結婚という制度」を強固に支えているのは、幸せなりに、不幸せなりに、その結婚制度を全うしているご夫婦が多数派であるからで、多数決がくずれれば、(あるいは、それをくずすほうがお金になる、と判断する人が増えれば)そんな価値観はすぐ覆される。
このとりとめもないほどの変わり身の早さは、付和雷同な腰の弱い国民性を表すと同時に、猛スピードで全てを消化していく洗練された国民性でもあると思うのだけど(日本はとにかく、早い。情報もブームもその浸透も、そして飽きるのも、他の国の数倍のスピードで文化が消化され、情報量は数倍に及び、だから日本は常にせわしなくあせって、流行に敏感で、でも傍から見ると腰の定まらない変な国、と言う感じがする。)、ま、結婚は「既得権の確保」が絡んでいるだけに、そんなにすぐには消えないと思うけど、既得権を持っている人が減っていけば、そして「逆の権利」を持つ人が増えれば、当然のごとく意味が薄れていくでしょう。

考えてみればイタリア人女性が日本女性よりも「結婚という圧力」から自由であるのは、結構前から、「女も働くものである」という体勢が整っているから。というより、結婚しても、経済的な問題で、共働きを続けるのが通常の状態である彼女達にとっては「結婚したからにはずっと家にいて夫の留守を守る(三食昼寝つきの優雅な生活)」という夢はそもそも存在しないし、それがないんだったら結婚する理由って、あんまりないよねえ・・
と言ってもイタリアだって、ほんの一、二世代前までは、結婚したら主婦になるのが世の常で、だからみんな結婚して、子沢山なマンマ・イタリアーナになっていたわけよね。結婚しても働く女性が増えたのはほんのちょっと前のことで、それでも日本よりは数十年早いかな、という程度のもの。この数十年の差が、その差はそのまま、日本にも遅れてやってくるような気がするのです。

結婚の一番の理由としては子供がほしい、というのがあるだろうけど、日本もイタリアも本当に少子化になっているし、ああ、そういう意味では子供がいないのは大変困ったことで、どうにかしなくちゃいけないなあ、とは思うけどさ。
恐らくは、恋愛の勢いの場合はおいといて、頭で考えてする結婚の理由って「経済的な安定」「子供」「老い先の相方として」とか、そういうものだと思うんだけど、そもそも「どっちにしろ家計を全てまかなうための経済力はない」という前提を持った男と、「結婚しても仕事は続ける、子供が出来たら、育児をしながらそれでも仕事を続ける」という前提で結婚する女性って、日本でもそれほど多くはないと思うんですが、いかがな物でしょうか。
日本の男たちは、まだ、「家族を一人で養っていけるだけの経済力」を持っている場合が多く、日本の女たちは、まだ、「一生仕事をつづけるなんてしんどい、誰かに扶養してもらって支えてもらいたい。たとえ自由を犠牲にしても」と思っている場合が多く、だからまだ、結婚は「社会的圧力」としてこの世に存在し続けるけど。

男たちが「やっぱり共働きのほうが生活が楽だ(もしかしたら都内にマイホームも!)」ということに気付き、女たちが「仕事はしんどいけど、社会というものと一緒に遊び、勝負している、という実感は悪いものではない」という感覚にシフトしていくのは、そう遠い将来ではない気がします。
確実に時代は動き、結婚適齢期といわれる女たちは、確実に後に生まれた世代の女たちになっていき、後に生まれた世代は新しい価値観を容易に受け入れられるからこそ、若いんだから。

ああなんだか自分が結婚していないことを正当化しているようにみえるかしら・・
わたくしは結婚している女友達を心底羨ましいものと思っているし、何が何でも結婚をしたくないなんて思っているわけではなく、ただ、価値観というのは一つにとどまるものではもちろんなく、特にこういう世代別の感覚が絡むものは、その移り変わりも速い。イタリアはその例だ、といいたいだけなのですわ。
どうか誤解なさらないでね。ダーリン。


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