キリスト教に思うこと。

こう見えてもわたくし、キリスト教にはかなり詳しいんです。
洗礼も受けてないし、聖書もまともによんだことはないけど、小さい頃から教会に(英会話を習いに)通っていたし、青春はカトリック教会の総本山の御近所で過ごしているし、それになんと言っても人生のアイドルがローマ法王の息子であるということもあって、かなりキリスト教文化にも、思想にも、歴史にも触れてきております。
そして、もちろんそのカリスマや、歴史や、存在そのものにとても敬意を払っているし、教会にも信者の皆様にも最大限の好意と尊敬の念を寄せておりますわ。
と、前書きしたところで、キリスト教について思うこと。
今回は特別日本とイタリアのことではないので、「わたくし編」に入れさせていただきますわね。

さて、キリスト教というのは、2000年前におこった、当時としては新興宗教です。
ある日突然大工の息子が「自分は神の息子である」と言い出して、それに乗っかった近所の漁師の息子達が弟子となり、当時存在していた伝統ある宗教や権力構造に反抗しつつ信者を増やしていき、最後は権力によって処刑に送り込まれる、という、まあ新興宗教としてはモデルコースのような道筋をたどっているわけです。
もちろん、多くの信者を獲得するというのは誰にでも出来ることじゃないので、それが「凡百の新興宗教と同じ」といいたいわけではないですが、聖書に描かれるイエス・キリストのどこまでが真の姿かなんて今となっては確かめようもないし、天地創造にしろ人類の起源にしろ地動説にしろ、とにかく科学の進歩によってで「旧約聖書に書いてあることはデタラメ」ってことはもう明らかなわけだし、キリスト教が今現在これほどまでに世界を支配しているということはわたくしにとって凄い驚きであり、人類の神秘でもあるのです。

キリスト教が発展を遂げたのはローマ帝国との癒着(というのかな)の結果だし、今現在のローマ・カトリック教会に至るまでに、さまざまな紆余曲折がありました。
ローマ法王庁の歴史を辿っていくだけでも、それは決して崇高で聖なる歴史などではなく、泥臭く人間臭く血まみれ権力まみれの歴史であり、聖書の解釈そのものにしたって、歴史の中で何度となく開かれる「会議」で、「この言葉の意味はこういうものである」という風に、人間達が相談して決定しているわけです。
別にわたくしがいわなくても周知の事実ですが、キリスト教の母体となったのはユダヤ教であり、そしてイスラム教もユダヤ教を母体としている宗教です。
イスラム教とキリスト教は、同じものから枝分かれした兄弟であるのに、延々数百年も戦争を繰り返していますし、両者の母体であるユダヤ教が間に入るとコトはより一層ややこしくなったりしています。
実はわたくし、イスラムやユダヤにはあんまり詳しくないのでアレなんですが、これらの宗教に共通するのは「神様に言われたとおりにしていれば神様はあなたを愛してくれる、逆らえば地獄に落ちる」という、非常にシンプルで他力本願な構造のような気がするのです。
っていうかキリスト教はそうでしょう。確実に。

誰だって神様には愛されたいよね。神様がいつも守ってくれると思えたら、人生とはなんと安心で幸せなものでしょう。そしてその神様が死後の幸せまでを約束してくれるなら、なんと素晴らしいことでしょう。
でも、人生には辛く悲しいこともたくさんあって、そんなときに人間は「神はわたしを見放したのか!」と思ってしまう。そしてそんなときに「そんなことないよ、こうすれば神様はあなたを愛してくれるよ」といってくれるマニュアルがあるというのは、物凄く効率的で簡単な解決法でしょう。
神学というのが聖書の解釈であるならば、それは「神様に愛される方法」というマニュアル本を微にいり細にいり作りこんでいくという作業で、権力と結びついた巨大な「教会制度」がその正しさを裏付けるなら、そのマニュアル本の信用度は疑うべくもなく、神様に愛されたい人たちはこぞって言うことを聞くはずです。
そして、まあ当然といえば当然、そのマニュアル本に記される「意中のあの人(神様)を射止める方法」は、倫理や道徳に満ちたものであり、それは社会という構造を作り上げる中で何よりも素晴らしい教科書であるはずです。

あ、ちなみに仏教というのは全く違うアプローチの仕方で、お釈迦様は死後の世界についてなんて語っていないはずだし、「神様(仏様)に愛される方法」を説いているわけではないよね。
この苦しみにまみれた六道から抜け出して解脱することで魂の救済をといているわけで、そういう意味では仏教は誰かに愛されるためのマニュアルではないでしょう。自分の力でこの「涙の谷」から抜け出さなければならないし、またそれは自分自身のため、自分自身が苦しみから逃れるためのものだから。
個人的には、そういう「小宇宙」(コスモって読んでもいいわよん♪)内での哲学的宗教だからこそ、仏教圏内では所謂「宗教戦争」が勃発していないんじゃないかと思っているんですが。
キリスト教だったら、一つの解釈がまちがっていたら、それはキリスト教を信じる全ての人を地獄に落としてしまいかねない大変なことで、だから綿密に相談してマニュアルを製作するわけだけど、仏教では解釈が間違ってたら自分が解脱できないわけだし。解脱できなかったら何度でも六道をさまよって、いつか解脱するまで苦しめばいいんだから、わざわざ人と戦争するまでもない、というか。
仏教はあんまり知らないので違っていたらごめんあそばせ。

なんか言いたいコトが激しくずれてきましたが、つまるところ、キリスト教というのは、新興宗教の教祖様の行動をいちいちもっともらしく解釈するという作業を2000年もかけて積み上げてきた、その努力と執念と思いの歴史そのものだと思うのです。
そしてこの2000年の間にそれを信じてきた、そのために命を落としてきた人も含めた、数限りない人たちの「思念」の集大成。
そしてこれはわたくしの基本的な人生に対する考え方でもありますが、「思い込みは世界を揺るがす」。
思い込みというのは好き勝手な思い込みという意味ではなく、「信念」「信仰」「確信」、全ての「信じる」と言う行為、それは必ずそれぞれの人にとっての世界そのものに影響を及ぼしていものであり、2000年かけたこれだけ多くの人の信じたことは、それ自体が一つの大きな「真実」になっているはずだと思うのです。

だから、わたくしはイエス・キリスト様に、というよりもそれを信じてきた人たちの膨大な思いと歴史としてのキリスト教に兜を脱ぐし、わたくしに出来る限りの敬意を捧げます。
もちろん、同じように他の伝統ある宗教にも同じだけの敬意を捧げているわけではありますが。
ただ、「世界観」として宗教観念の薄い日本人であるわたくしには、キリスト教の世界観というのはとてもおもしろいものではあります。
日本って言うのは本当に特殊な、「神道」という古代神話時代の宗教が生き延びている不思議の国だから、「倫理を規定」するような宗教の収まりが悪いのですわね。
キリスト教にしろ、多分アジアの一部の国にとっての仏教のように、その国の「世界観」を支配する宗教があるというのはある意味とても幸せなことで、みんなが一つの「世界観」を持っているということは確かに、一定の「倫理」と「道徳」を形作るものではあるのでしょう。
今の日本が「仏教がなくなったから乱れている」というのは多分間違っていて、日本には全国民の世界観を統一するような「宗教」はなかったのではないかしらね。だいたい仏教と神道が混在してるってとこからして特殊なんだから。普通は、どちらかがどちらかを吸収合併する形で(キリスト教が、世界各地の大地母神信仰を聖母マリアに吸収していったように)どちらかは消えていく運命にあるはずなのに、日本は仏教伝来以来1500年近く、「並存」を許しちゃってる。
その時点で「世界観の統一」が図れていないし、日本人の「倫理」や「道徳」なんてたかだか江戸時代くらいからの「儒教」の影響のほうが多いような気がするし、お江戸の200年間を除いては、非常に薄い倫理・道徳観念を持ち続けつつ、しかし根本的に農耕民族の島国育ち(楽園育ちとも言う)なことが幸いしてそれなりの美意識を保ってきた、というのが最近のわたくしの研究テーマ(どこに発表するんだ。ここにか。)ですが、それはまた激しく話がずれてますすみません。

とにかく、キリスト教というのはヨーロッパ・北アメリカ・南アメリカという三大大陸の倫理観を規定する世界観そのものであり、そういう意味では仏教は先ほどの「小宇宙」であるという理由もあって、それほど倫理や世界観を規定はしていないので、わたくしの知っている唯一で、しかも世界最大のの「マニュアル的宗教」であり、そういう宗教的マニュアルのきわめて希薄な日本の現状を考えると、「2000年練りに練られた末、かなり現実との折り合いをつけてきた伝統ある宗教って羨ましいな」と思うことも事実。
そういう確固たるものがあれば、新興宗教の乱立という事態は避けられると思うんだけど。
いや別に何を信じるのも人それぞれですけれども。

個人的にはわたくしは「運命」というものの信者ですし、いちいち「運命様」と呼ぶのもなんかよそよそしいので便宜的に我がアイドルの名前をあだ名として使っておりますが(いえそんなもったいぶった言い方をしなくてもチェーザレですけどね。)、わたくしのそういう自分勝手な信じ方においても、「運命に見放されるようなことはしない」というわたくしなりの教義はあるし、それである程度のモラルも美意識もおさえているつもりなのです。
つまりわたくしのなかで完全に自給自足が叶っているし、他の宗教に頼る必要も理由もないのです。
多くの宗教の主眼である「神様との相思相愛」が自分の世界観の中で完結してるんだもの。これ以上幸せなことはないのですわ。
それは別に全てを「運命のせいにして逃げてる」のではないのよ。そのへん、わかってくれない人が多くてすぐ喧嘩になっちゃうんですが。

宗教なんて信じててもいいし、信じてなくてもいいけど、皆様がそれぞれの「神様、もしくは運命」と、相思相愛であることをお祈りしておりますわ。

(今回は御代が御題なだけに、いつもよりより一層不快な気分の方がいらっしゃるかもしれませんが、あくまでわたくしの個人的な意見ですの。ご了承くださいませね。)


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