文学史に見るボルジア。
 
3.ボルジア家をとりまくうわさ。

ここまでは、ボルジア家の関係者をできるだけ描写を抜いて、 客観的に事実だけを書いてきたが、もちろんそれでは面白くな い。
ボルジア家の特異さのせいか、イタリア・ルネッサンスの民衆 の底力か、ボルジア家の周囲は過激なうわさに事欠かない。
娯楽の少なかった当時、有力者は凱旋や祭事、その他様々な理 由で頻繁にパレードを行っていた。
 貴婦人もパレードでの馬 上やバルコニーから姿を晒し、人々はその美貌や服装を話題に したし、貴族や聖職者達のスキャンダルは一昼夜でローマ全体 に広まったのである。 今でいう社交界、もっといえば芸能界のような感覚で、庶民達 は上流階級を眺めていたと思われる。
そんな中で、当時最有力の一族だったボルジア家の人々はずば ぬけてお洒落で、浪費家で、陽気だった。ボルジア家の宴とい えば、後述するが、乱交パーティーまがいの奔放さだったらし い。
そしてまた囁かれるうわさを、彼等はあっさりと笑い飛ば した。 ボルジア家に関するうわさが、盛大な誇張を含んでいることは 間違いない。
うわさされるべくしてうわさされた人々である。
しかし、この余りにとっぴょうしもないうわさの数々は余りに も興味深く、そして確かにボルジア家のある種の真実を伝えて くれるのである。

ルクレツィアと男達の近親相姦
最もポピュラーなものとして(!)ルクレツィアと法皇、チェ ーザレとファンの近親相姦がある。当時、ローマの街ではルク レツィアは「法皇の娘で嫁で愛人」と囁かれていた。
確かに、彼等は非常に仲の良い家族であり、法皇はところかま わずルクレツィアへの溺愛を披露していたし、チェーザレとフ ァンは幼い頃、美しい妹を取り合って喧嘩ばかりしていたらし い。
しかし、このうわさのでどころははっきりしている。 ルクレツィアの最初の夫、ジョヴァンニ・スフォルツァである。
彼は性的不能の汚名を着せられたことで怒り狂い、復讐のため に暴言を吐いた。「ルクレツィア(の身体)を知ったのは数え きれない程であり、法皇が彼女を私から取り上げようとするの は彼女を自分のために使うためである」 (「Anzi haver
conosciuta infinente volte, ma chel papa non se l'ha tolta per altro se non per usare con lei」)。
怒りに任せた暴言にしても、過激な発言である。のちに、ジョ ヴァンニ自身が撤回しているこの言葉だが、ある程度の根拠は あると思っていいだろう。
確かにバチカンで彼が目にした法皇 と息女の関係は、彼の想定する父娘関係をはるかに親密で、ス キンシップにとんでいたものと思われる。実際、ルクレツィア はかなり大きくなっても父の膝に座っていた、という記録もあ るのだ。 ジョヴァンニの発言に続いて、近親相姦にあるのは父娘だけで はなく兄妹もだ、と囁かれはじめた。チェーザレとファンとル クレツィアは文字どおり三角関係にあり、この嫉妬がもとでチ ェーザレがファンを暗殺したのだ、というもっともらしい説は、 この後何世紀にも渡ってなかば真実として語られている。
美貌の兄二人と絶世の美女である妹の三角関係、しかも嫉妬に 狂った兄がもう一人の兄を殺してしまうという想像は、それぞ れの性格を象徴するような出来事でもあるし、確かに魅力的で ある。しかし、根拠は薄い。
チェーザレがファンを暗殺するの なら、他に理由が幾らでもあるし、もしも本当に近親相姦の事 実があるなら、チェーザレの業病であるヴィーナスの病、梅毒 がルクレツィアにうつっていたはずである。 ただし、この件に関してはたくさんの尾ひれがついている。 曰く、ローマでチェーザレが囲っていたフィアンメッタという 娼婦は、法皇の御息女にそっくりである。
曰く、ルクレツィアの初めての息子インファンテ・ロマーノの 父親はチェーザレか、もしくは父法皇である(このうわさにつ いては根拠がある。
ルクレツィアが従者との火遊びのさいに孕 んでしまったこの子を、法皇はまずはチェーザレの庶子として、 のちには法皇自身の庶子として認める書類を作成しているので ある。ルクレツィアの不貞を隠すための処置であることは明ら かなのだが)。
そして、そのあまりの格調高さに驚かされるうわさとは、「バ チカンのボルジアの部屋の壁画には、エジプトの兄妹神、太陽 の神オシリスと月の女神イシスの近親相姦の図が、チェーザレ とルクレツィアをモデルに描かれている」というものである。
実際に行ってみれば、ボルジアの部屋の壁画はたしかにボルジ ア家総出演ではあるが、聖カタリーナの問答を模したもので、 近親相姦などの気配はかけらもない。
むしろ、残念なことに。

ボルジア家の毒薬
これもまた、非常にメジャーな噂である。 カンタレッラとよばれる白い粉は、全くといっていい程歴史的 な裏づけがないにも関わらず、その製造法からディテールまで が詳しく語られている。
この毒は、味も匂いも感じさせないばかりかワインに入れれば むしろ、安酒を一級品にかえてしまう。製造方も、解毒剤も、 作り方を知っているのはボルジア家の身内だけで、しかも、殺 したい相手を一日で殺すのか、一ヶ月か、それとも一年かけて 殺すのかまで自由に決められる、というのである。
こんなに都合のいい毒がルネッサンス時代に存在したというの は、とても無理な仮定である。そんな都合よく人が殺せるのな ら、あっさり殺されていたであろう人物があまりにもたくさん 出てきてしまう。
ファンやアルフォンソ・ダラゴーナに関して も、チェーザレが暗殺しようと思ったのならカンタレッラでや った方がよほど確実だっただろう。 しかしボルジアの政敵、誰よりも最大の政敵であるジュリアー ノ・デッラ・ローヴェレなどはアレッサンドロ6世とチェーザ レなき後法皇にまでなっているし、ファンやアルフォンソも剣 で切り殺されるという、非常に原始的な方法で暗殺されている のである。
確かに、チェーザレとアレッサンドロは毒薬を使っていたとは 思われる。
当時の権力者にとって、政敵が毒殺できればこんなに楽なこと はない。
当然研究もされていただろうし、実際に使われたこと もあっただろう。
これは、なにもボルジア家に限ったことでは ない。それを裏付けるだけの行動を、彼らはとっている。
例えばアルフォンソは一度目に暗殺されそうになった際、奇跡 的に命を取り留めた。この後、妻のルクレツィアと姉のサンチ ャはアルフォンソとともにひと部屋に引きこもり、自ら料理を してアルフォンソに食べさせていたのである。
もちろん、これ は毒を恐れての事だろう。 しかし、もしもカンタレッラの伝説くらい便利な毒を持ってい るなら、チェーザレは最初から毒を盛ったはずである。
彼女達 が警戒さえしていなければ、義理の弟に毒を盛ることくらいそ う難しいとは思えない。結局アルフォンソの息の根をとめたの は毒などではなく、剣の一付きだった。
そして、多分ボルジア家の毒薬のイメージを決定したのは、ア レッサンドロ6世の劇的な死に様だろう。
法皇とチェーザレが 参加した野外夕食会の数日後、二人ともが異常な高熱と嘔吐に 襲われたのである。
チェーザレは一命を取り留めるが抜け殻同 然、法皇はそのまま死んだ。真夏の出来事ということもあって、 法皇の死体は醜く膨れ上がり、棺桶におさまりきれない程だっ た、という。
見たこともない壁画にオシリスとイシスの近親相姦の図を想像 できる人物なら、このエピソードから「法皇とその息子は、誰 か他の人物を暗殺しようとして用意してきたワインを過って飲 んでしまった」、くらいの想像は平気ででてくるだろう。
実際 これは、ボルジア家にとってあまりに突然の破滅であり、チェ ーザレにとっては実質上のゲーム・オーヴァーとなる悲劇だっ たのである。
ドラマティックな想像は理解できる。 ただし、これが起こったのは真夏の夜、屋外での夕食会後のこ とである。
しかも、この食事会に参加した客達のほとんどが、 同時期に病に伏している。
全員が誤って毒入りワインを飲んで しまった、とするよりは、全員が何らかの食中毒か伝染病に冒 された、とするほうが余程自然である。
しかしカンタレッラという名前のどこか優美な響きと魔術の香 りのする雰囲気は、確かにボルジア家によく似合っている。
毒などには全く関係のなかったルクレツィアが、のちのち「見 知らぬ男と関係しては一晩の後に毒殺した」希代の悪女になっ てしまうのも、頷けないでもない。

ロドリーゴ・ボルジアは悪魔と契約を結んだか

法皇アレッサンドロ6世の死に様は、あまりにもおぞましいも のであった。
最も信頼のおけるボルジア記録を残したブルカルドによれば、 「(法皇の死体は膨れ上がって黒ずみ、まるでムーア人のよう であった。
唇は手のひら程に膨張し、異様な大きさになった舌 がはみ出ていた」らしい。 しかもこの死体は慣例に従ってサン・ピエトロに安置され、参 拝客に公開されていたのである。
悪名高い法皇のおぞましい死体は、人々に様々な想像をさせる に十分だった。 ルクレツィアの義理の兄にあたるフランチェスコ・ゴンザーガ、 彼女と後に愛を囁くようになる彼までが、妻にあてた手紙にこ う書いている。
「法皇の最期の言葉はこうでした。『今行く、お前のいう通り だ、後ほんの少し待ってくれ。』彼の秘密に詳しいものたちに よると、アレッサンドロ6世はインノチェンツォ崩御のあとの 法皇選出選挙で、悪魔に魂を売るのとひきかえに法皇の座を手 にしたということです。(中略)法皇が息を引き取る瞬間に、 7人の悪魔を見たというものもいます。
息を引き取ると、身体 が膨れはじめ、口からは火のように熱い泡を吹きました。そし て死体はどんどん膨れ上がり、その横幅も長さも、とても人間 のものとは思われないようになりました。」
実際には、数々の悪行にもかかわらず、アレッサンドロ6世は 天に召されることを信じていたらしい。その死はとても安らか で、静かなものであった。しかも死因そのものは卒中で、これ では喋っている暇などなかっただろう。
おまけにアレッサンドロ6世は、神を信じていた。
法皇聖下なのだから当たり前と言えば当たり前の話だが、しか し、神をも恐れぬような行為を平気でやりながらその一方で神 の代理人としての自分の立場を信じることができるというのは、 まさにイタリアン・ルネサンス人の底力としか言い様がない。
むしろ、神など全く信じず、キリスト教になんの感慨もなかっ た男が法皇の座を手に入れてしまい、それを徹底的に利用し尽 くした、という方が自然に聞こえるというものである。
おそらくはチェーザレ・ボルジアは神など信じず、キリスト教 を利用し尽くしていたに違いない。聖職者時代の怠慢さを見れ ばそれも頷ける。
しかし、アレッサンドロ6世は、実に純粋に神の加護とキリス ト教徒の首長としての自分を信じていた。逆に、どんなに悪い ことをしても法皇という位を持っていることで差引ゼロ、ぐら いには思っていたかも知れない。
そんな彼が、もちろん悪魔と契約などするはずもないし、考え もしなかっただろう。 多分彼は自信満々で天国にのぼっていった。 「今行く、待っていてくれ」と言ったとすれば、相手はイエス ・キリストだったかも知れない。

乱交パーティー
ボルジア家の宴と言えば、乱交パーティーである。
そもそもアレッサンドロ6世は、まだ枢機卿だった頃、シエナ の貴婦人達を邸に招き、仲間の枢機卿達と文字どおり乱交した として当時の法皇ピオ2世に手酷く叱責されている。
その彼か 権力の頂点につき、誰からも叱責される心配もなくなったのだ から、結果は知れている。
最も有名なのはルクレツィアの三度目の結婚前、チェーザレが 催した宴だろう。 これには法皇も結婚をまぢかに控えたルクレツィアも招かれ、 参加していた。この宴については、最も信頼のおけるボルジア 記録を残したブルカルドの記述があるので引用しよう。
「その宴には、50人の宮廷の貴婦人達(娼婦)が呼ばれてい た。食事の後で彼女達は従僕や、宴の参列者とともに踊り出し た。はじめは着衣、後には全裸で。食事が完全に終わると蝋燭 の燭台がすべて床に置かれ、その間に焼き栗がばらまかれた。 裸の娼婦達は四つん這いになって、栗を拾いはじめた。
法皇、 (チェーザレ)公爵、そしてルクレツィアは宴に出席し、その 様子をみていた」 有名な「栗のダンス」と呼ばれるものである。
これは、他の噂と違って間違いのない事実であり、ルクレツィ ア・ボルジア像にも大きく影響をおよぼしている。 しかも、この話には尾ひれがついていて、彼の想像力には諸説 あるものの、中田耕治はその著書「ルクレツィア・ボルジア」 のなかでこう書いている。
「宴席が酣になった時、ルクレツィアは、女達の中に忍び込ん でいった。彼女は男達の視線を受け止めながら、来ているもの を次々脱ぎ捨てて、惜しみなく男達の目に裸身を晒した。
彼女 自身が娼婦と混じって、栗の身広いに熱中しはじめ、並みいる 男達の喝采が鳴りやまなかった。」 中田氏がどこにこの情報を見つけたのは定かではないが、当時 の記録にこうした記述は見当たらない。その後、おそらくチェ ーザレの部下達、そしてチェーザレ自身や法皇も入り交じって の乱交が実際に行われたことを考えると、ルクレツィアがその 身を供するというのはありえない。
まして、彼女は熱望し、また父や兄から強く望まれたエステ公 爵家との婚姻を控えた身である。
エステ家の使節に対し常に貞淑で、美徳に満ちた姿を見せつけ ることに余念がなかった彼女が、なぜこのような狂宴に出席し たのか、それだけで十分スキャンダラスなことであり、ほとん どの歴史家にとって話題の焦点はここである。
ただし、これも多くのボルジア研究家がいっている通り、ルネ サンスという奔放な時代にあってルクレツィアがこうした見せ 物をおもしろがったとしても何の不思議もない。
この翌日にも、法皇とその息女が、雄馬と牝馬の交尾をバチカ ンの窓から面白そうに見守る様が報告されているが、冷静に考 えて、これがめくじらをたてるほどのことだろうか? ルクレツィアは二十歳過ぎの、二人の夫と二人の子供を持つ身 である。ちょっと手の込んだストリップや馬の交尾ごときで目 をおおうほど世間知らずではないし、ルネッサンス文化も、ボ ルジア家の家風も、性的に非常におおらかだった。
ルクレツィ アはこうした催しをごく自然に、現代の女性達がちょっと刺激 的な映画を見る程度の興味とともに見ていたとしても全く不思 議はない。
エステ家の使節がこれに対して反感を抱かなかったのが、その 何よりの証拠ではないだろうか。 どちらにしても、この程度の狂宴はこの時代のバチカンでは日 常茶飯事だったと思われる。
キリスト教の総本山、バチカン宮 殿で法皇の出席のもとに行われた、という事実がやや特異なだ けで、古今東西権力者のすることなんて大抵決まっているので ある。

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