目標達成の百話目

 正直に言うとネタが無い。正確に言えば、書きたいことはあるが結論しかなく、数行で終わってしまうネタばかりである。それでも何とか目標の百話まで続けられた。一週間に一話のペースを保ち、毎週日曜日という締め切りを設けたことが良かったのだろうか。とにかく百話まで続けることができた。少し驚いている。そして少しほっとした。
 私が書き続けてきたものは「エッセイ」と呼んで良いのだろうか。実はジャンルの分け方がよく分かっていない。広辞苑第四版の「エッセー」の所に『自由な形式で書かれた個性的色彩の濃い散文』と書いてある。私の文章も「エッセイ」と呼んで良さそうである。他人のエッセイを読むと日常生活の出来事が具体的に綴られているような気がする。全部ではないだろうが、筆者が見聞きしたことや何をしたかが分かる文章が多いような気がする。それに対して私のエッセイには私の具体的な日常生活がほとんど書かれていなかったのではないだろうか。だから「エッセイ」と読んではいけないような気がした。
 私はほとんど自分の部屋にいて、毎日ほとんど同じことを繰り返している。新しい出来事はテレビやインターネットの向こう側だけである。正確に言えば私の周りも毎日変化している。何かが起こっている。天気は毎日変わり、庭の様子も変化している。家族もいろいろな事をして、いろいろなお客さんが訪れる。それらを細かく記述すれば幾らでも書けるだろう。百話では足りないくらいの出来事が起こっているだろう。しかし私にはそれらを上手に表現する能力が足りない。だから私生活の出来事はほとんど書けなかった。書く努力が足りなかっただけかもしれないが…。
 私が文章を書く理由は誰かに何かを伝えたいからである。何を伝えたいか。私生活を伝えたいとは思わない。私の文章を読んだ人の役に立つことを伝えたい。私生活の出来事は他人の役に立たないが、私が考えたことは誰かの役に立つかもしれない。そう思いながら私は私が考えたことを文章にしている。役に立ってないかもしれないが…。考えるきっかけは私生活の出来事ではなくテレビやインターネットなどが伝えてくれる会ったことのない人の言動であることが多く、それで私生活の出来事を書くことが少なくなる。
 自分の意見を伝えるときにその意見に至った経緯を書けば長い文章になるはずである。ところがその経緯を忘れているから文章にできない。いろいろな出来事があり、いろいろ考えて自分の意見が作られたはずである。ところがそれらの出来事や思考過程は忘れてしまって結論だけが残っている。文章にしたら数行分しか残っていない。結論だけを述べても説得力がないから何とか思い出そうとするのだが思い出せない。40年近く生きてきた結果の結論だろうから当然かもしれない。それで結論を基にして文章を作ることになる。結論は最後に得られるものであるはずだが、私の文章は最初に結論がある。文章を書いているうちに結論が変わることがあるが、たいていは最初の結論が結論らしくなるように文章を作っている。新しい出来事について考えているわけではないからそれで良いのかもしれないが、反省しなければいけないかもしれない。数行にしかならない結論を基にして長い文章を作ろうとするから苦労する。結論だけ書いて終わりにしたくなる。それでも私のエッセイでは一話の文章の長さを決めていたから、何とか膨らませてきた。大変だった。定期的に楽しいエッセイを書いているプロはすごいと思った。結論が先にある文章ではなく、日常生活の出来事を書いているのかもしれないが、それでもやはりプロはすごい。
 とにかくこれで百話目である。定期的に書くのはやめにする。今後は整理せずに放って置いた放浪日記をまとめようかと思っている。いつ公開できるか分からないが…。

2004年1月30日 正己