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中国の万里の長城
 
万里の長城は中国とモンゴルの境界線に沿って築かれた大城壁です。東端は河北省山海関,西端は甘粛省嘉ヨク関まで,全長2750キロにおよびます。月からでも確認できる唯一の建造物と言われています。歴代の中国王朝は北方からの遊牧民の侵入に悩まされており,その侵入を防ぐため長城の建設を熱心におこないました。現在では1955年に改修された北京郊外の八達嶺付近の長城が観光地として整備されています。
 

長城の誕生は,春秋戦国時代に燕,趙,秦によりキョウドに対抗するための城壁が作られたのが始まりとされています。その後,中国を統一した秦朝の始皇帝がバラバラだった城壁をひとつに連結し遼寧省遼陽から甘粛省ミン県に至る大城壁を成立させました。
 
このような経過から,始皇帝が空飛ぶ馬に乗って長城建設のルートを示したという言い伝えもあります。この最初の長城は現在の長城よりもかなり北方に位置しています。
 
その後の長城の歴史は北方民族の侵入の歴史と同じように推移します。前漢の武帝はキョウドを討ち,長城を西方の玉門関まで延ばしました。しかし五胡十六国時代に北方民族の南進が激化し、南北朝時代の北魏は従来の長城を放棄し,より南側に2本の新しい長城を建設しています。このラインが現在の長城の基礎となりました。
 
随は長城増築をおこない防衛体制を強化しましたが,その後の唐は融和策をとったので長城は放置されていました。宋,元の時代は北方民族が中国北部を占領していたので長城は何の意味もありませんでした。
 
元を中国から追い払った明は北辺警備のための長城の大改修をおこない、九つの基地を建設し多くの兵隊を配備しました。私たちがイメージするレンガ積みの長城は明代のものです。しかし明の疲弊につれて防衛力も弱まり,北方より侵入した女真族が明を滅ぼし清を建国します。北方民族の王朝に長城は不要となり,以後放棄されたままとなっています。
 

明を破って女真族王朝の清が中国を支配してから270年あまり,長城は放棄されていました。そして中華民国,中華人民共和国と時代は流れて現代に至ります。いまでは長城は防壁としての役目は終えていますが、観光資源として新たな役目をはたしています。
 
 
長城の構造
 
漢代の長城は柳や葦を束ねたものと粘土を交互に積み重ねて作ったモノで,土塁のような感じでした。明代に改修された時にはかなり立派になっていて,外壁は焼いて作ったレンガによって覆われており,狼煙台や銃眼がそなえられていました。しかし辺境へ行くとかなり雑な作りで,日干しレンガなどが使われていたそうです。
   
 
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