赤松家内紛事件
応永34(1427)年9月21日条
廿一日。晴。(中略)赤松入道死去すと云々。春秋七十歳なり。
同年10月26日条
廿六日。晴。今暁赤松左京大夫下国す。宿所自焼す。父・性松入道去月廿一日死去す。東山竜徳寺において中陰その沙汰致す。今日丗五日に相当するか。(中略)播磨国の事、御料国となし、しばらく赤松越後守に仰せ付けらるべし。さるべくまいらすと云々。(中略)寅刻初ばかりに、細河右馬助方より、使者・河西大井入道をもって申す様、只今赤松左京大夫、下国仕り
候。よって路次を塞ぎ候べき由、仰せ出され候間、とりあえず只今馳せ下り候。御意を得るため、申し入るるなりと云々。この使者の時、彼の下国の事も存知せしめおわんぬ。
応永34年9月21日に播磨・美作・備前守護の赤松義則(性松入道)が70歳で死去しました。播磨国は幕府の直轄領とされ、足利義持の寵愛を受けたとされる赤松持貞(越後守)が事実上の支配者とされました。当然の如く、父の守護職を相続すると考えていた赤松満祐(左京大夫)はこの対応に怒り、京の宿所を焼いて播磨に下国しました。このような不穏な事態が発生したことに満済は「天下重事珍事珍事。消肝計也。」と述べています。
足利義持は満祐追討を目論むことになります。まず細川持元(右馬助)に退路を塞ぐように命じて丹波へ軍勢を向かわせました。満済がこの事態を知ったのは持元の使者がやってきてそれを知らされた時だったようです。
同年10月27日条
廿七日。晴。今朝辰終、清和院に参る。この事申し入るるところに。短慮の至りの由、仰せられおわんぬ。今、二ヶ国備前・美作これ残されおわんぬ。かの二ヶ国をもって奉公致し、堪忍すべきところ、短慮、正体なきの由、仰せなり。よって備前国をば赤松美作守、美作をば同伊豆守に宛行わらるるべき由、御物語これ在り。もってのほかの楚忽の御成敗か。山名・一色等、退治をなし、これに向かわるるべき由、同じく仰せられき。播磨国拝領、珍重の由、教源法橋をもって赤松越後守方へこれを賀し遣わしおわんぬ。
赤松満祐が播磨へ下向した翌日、早速その翌朝に満済は清和院に赴き、この事態について義持に報告しました。満祐は播磨守護にはなれずとも、備前と美作の2国の守護になっているのだからそれで我慢すべきであるのに、このような行動に出たことはあさはかである、と義持は怒っています。しかし満祐にとっては、播磨の守護職はその2国に代え難いものであったということなのでしょう。
結局これによって満祐は両国の守護も失い、備前は赤松美作守、美作は赤松伊豆守に宛行われました。次いで満祐追討を山名と一色に命じた、と書かれています。また、満済は播磨守護となった赤松持貞に祝賀のための使者を送っています。
これで実質的に3国は持貞のものとなり、満祐は幕府に追討を受ける立場になることとなりました。その追討には持元の他に山名時煕(宗全の父)と一色義貫が当たることとなるのですが・・・・。
同年11月3日条
三日。晴。(中略)管領、内々に子細を申すこと有るによるなり。今日、御所に参る。御対面。管領申し入るる旨、遮りて尋ね仰せらるる間、委細申し入れおわんぬ。赤松左京大夫、書状をもって管領へ進退の事歎き申す子細これ在り。よって無為の儀をもって、三ヶ国中一ヶ国をば(割注:播州)残し置かれ、御免有るべきの条、かたがたもって宜旨すべきなり。次いで、御陣立の事、凌爾(りょうじ)の至りなり。楚忽の儀、かえすがえす勿体なきと云々。その外、今一、二ヶ条これ在り。御返事の趣、左京大夫の事は只今となり御免有るべきの条、大いに御本意にあらざる間、閣(さしお)かれがたきと云々。御陣立の事は、誠に楚忽の儀に有るべからずと云々。この由、すなわち管領へ申し遣しおわんぬ。力無しと云々。
管領畠山満家に赤松満祐の書状が届いた、ということでその中身を聞いたところ、3国のうち播磨だけは残してほしい、というものでした。また、義持が満祐の追討を命じたことについて、満祐は早まった行為であると非難し、また遺憾であると言っています。
ほかにもいくつか要求があったようですが、しかし義持の返事は、今更許すわけにはいかない、というものでした。追討は当然のことであるとしています。勝手な行動をして下国してしまったことは、義持としては許し難いものでありました。
同年11月4日条
四日。晴。今日、山名右衛門佐入道常煕、赤松退治のため重ねて発向す。まず分国但馬に罷り下る。勢を相随えて浅五群より責め入るべしと云々。一色左京大夫、同じく罷り立つべきところ、去夜、にわかにこれを止めらると云々。
さて、満祐追討のために山名時煕(右衛門佐入道常煕)が但馬に下って軍勢を整え、朝来郡(あさご。現:兵庫県)から攻め入ろうとしました。そしてもう一人の一色義貫(左京大夫)は同じく立とうとしたのですが、昨夜になって急にそれをやめた、とされています。
山名と一色で態度を異にしております。一色義貫はどうも乗り気ではないようですね?
同年11月6日条
六日。晴。(中略)細河典厩の陣より、使者飯尾備中入道上洛す。今夜来るべき由、内々に申し入るる間、罷り留めおわんぬ。飯尾備中入道、夜陰に及びて来たり申す。典厩よりの書状これ在り。御旗申し出すべき由、細河讃岐守方へ申し入るるなり。内々に其意を得べし。次に、播州の事、もってのほか猛勢。すでに大儀に及び候。方々より同時に責めらるるべき条、宜しかるべし。当方もってのほか無勢。四国はいまだ一人も上洛せざる間、彼らを相待ちて、海上・陸地より同時に責め入るべき支度なり。しかるを合戦遅々たる由、連日御切諫。不便の次第なり。便宜の時をもって申し入るるべしと云々。
満祐追討に参加していたと見られる細川典厩(摂津・讃岐守護細川持元か?)からの使者、飯尾備中入道が上洛して、満済のもとに典厩からの書状を持ってきました。わざわざ夜になってやってきたのは、密使のようなものだったのかも知れません。
その内容は、阿波守護の細川満久(讃岐守)に義持から“御旗”をよこしてもらえるように頼むという提案をして、満済に内々にその御旗の下賜を義持に願い出て貰いたい、というものでした。つまり、味方が「正規軍」であることを誇示し、敵方の赤松軍を「賊軍」であることを明確にして士気を高めようとしたのでしょう。
この申し出が出たのも、満祐の軍が意外に強く、幕府軍の軍勢もかなり脆弱なものであるために相当てこずっているためであることが窺えます。また、細川持元は方々から攻め入るようにも要請しています。
さらには、四国からの援軍を待って陸上・海上より同時に攻め入るように支度をしている、と言っています。しかし、合戦に遅参しているようですね。幕府軍の足並みはまったく揃っていないようです。
どうやら、その気になっている守護と、やる気のない守護がそれぞれいるようです。義持自ら追討を命令しているのにこうまで足並みが揃わないというのは、おおむね諸大名は満祐に同情的であったことが考えられます。
「四国の軍勢」ですが、以下のような文書があります。
播州の事について、早々に馳せ参じ候。神妙に候。向後においていよいよ忠節をぬきんずるべきなり。
(応永三十四年)十二月十一日 (花押:義持)
村上備中入道(吉資)殿
(「因島村上文書」)
当時の備後国守護であった山名時煕の催促を受けて因島村上水軍がこの討伐に参加したようです。その功を義持に賞されています。
この文書では「早々に馳せ参じ」とありますが、『満済』の記述を見ると遅参をしているようですねぇ(笑)。このように、瀬戸内の海賊衆も動員していたことがわかります。
3.「直訴」の謎
幕府軍は播磨に下った赤松満祐を追討すべく徹底抗戦の構えを見せますが、ここで事態は急変しました。
同年11月11日条
十一日。晴。(中略)赤松越後守方より申す子細これ在り。昨日、御所様、畠山修理大夫入道亭へ入御す。還御の時、路次において、越後守身上の悪事、庭中すと云々。よって生涯に及ぶ事なり。
赤松持貞方からなにやら満済のもとに連絡があったようです。昨日義持(御所)が能登守護の畠山満則(修理大夫入道)邸を訪ねて、その帰りに、持貞の悪事を直訴する者があらわれました。その直訴を受け入れたようで、義持は持貞に自害を命じたようです。
満祐の政敵で、この騒擾の原因となった人物とも言える持貞が突然自害させられることになってしまいました。この出来事に満済も驚きが隠せないようです。
さて、この「直訴」をしたのは誰だったのでしょう? また、その内容は?
同年11月12日条
十二日。晴。早旦出京す。赤松越後守方より波多野をもって申し入るる旨、「もっとも参り申すべきところ、今時分かたがた憚り存する間、狼藉ながら使者をもって申し入るるなり。去る十日、(畠山)匠作禅門亭より還御の時、御所門前において遁世者一人書状を持参す。高橋殿よりの御文に候とてこれをまいらす間。畠山七郎これを取り、上覧に備うと云々。その後、この遁世者、行方知らずと云々。所詮、この状の中に越後守行儀三ヶ条、共に女事をもってすと云々。訴え申し入るる間、昨日、賀阿弥をもって条々尋ね下さるるの間、告文(ごうもん)をもって申し入るるべきの由、申し入れ候おわんぬ。その後に又、仰せ下さるる様、ことごとく分明をもってたしかな事どもなり。今更の告文なかなか無益の由、仰せ下さる。すでに宿所を罷り出づべき由、仰せらるる間、生涯はこの事なり。ひらに扶(たす)け置く様に申し沙汰すべしと云々。只今もすでに切腹せらるるべきの由風聞す。片時も早々に参り申すべし」と云々。
波多野某という人物が赤松持貞邸から使者として満済のもとにやってきたようです。持貞は本人ではなく使者とした無礼をわびた上で、例の直訴と自害を命じられたことについて顛末と意見を述べています。
「義持が畠山満則(匠作)邸から還る時、御所門の前に書状を持った遁世者が一人いました。高橋殿の書状であると言って進上したので、畠山七郎がこれを取って義持に見せた。その後遁世者は姿を消した。この書状には、持貞の悪事が3つ、女性関係のことが書いてあった。これについて訴え出たが、改めてちゃんとした弁明書をもって申し入れることを義持の伝えた。その後、義持が言うには、『直訴の中身はことごとく明白であり、今更弁明書を提出しても無駄である。宿所を出る(切腹するためか)ように。』とのことであった。なにとぞ助けてもらえるように働きかけて欲しい。もう既に切腹させられたという噂まで広がっている。なんとか早く対処して欲しい。」
「高橋殿」は足利義満の側室で、義持の信頼あつい人でありました。 また、才幹のある人物としての評価も受けていたようです。また、受け取った「畠山七郎」もなんだか怪しげですが、義持が訪問した畠山満則の子・持幸であるとされています。畠山満則は管領であった畠山満家の弟であり、能登守護畠山家(匠作家)の祖でもありますが、権勢を振るう赤松持貞とは対抗関係にもあったとされ、今回の直訴は持貞を陥れるための“陰謀”であったとすれば、この七郎の役回りはとても重要なものであったと言えます。
「女事」ですが、どうやら持貞が義持の側室と密通していた、ということのようです。義持はこれについて調査をさせたようですが、どうやらその結果、それは本当であったという結論を下したようです。実際に調査をさせてその上で真実であったということならば、陰謀の線は薄いかも知れませんが、この「直訴」のタイミングはあまりに良すぎますねぇ。これも高橋殿の“機転”なのかも知れません。
さて、満済は持貞の要請を受けてなんとか取り持とうとするのですが…。
4.満済の取りなし虚しく
同日条(続き)
よって醍醐より罷り出で、また御所へ参り申し入り候おわんぬ。条々不便の次第、かつがつ虚実の間も又不分明か。何編といえどもまず究明せられ、追って御沙汰有るべきの条、もっとも宜しかるべき旨、種々申し入るるところ、仰せの旨、「いずれもいずれも分明の事なり。更に陳べ申す限りにあらず。女中へすでに相尋ねられ、究明せられ候おわんぬ。この上は越後守の空起請、かえってその身のためも不便か。所詮、この事相綺(いろ)うべからざる」由、仰せ下されおわんぬ。
満済は「決断が早すぎる。何度も調査してちゃんと究明し、その後に沙汰するのが良い。」と意見したのですが、義持は受け入れませんでした。「もう女中にも尋問して調査している。もうこれ以上関わるのはやめろ。」としています。持貞の弁明をやめさせたのも、「ウソをつかせて神の怒りに触れるのもかわいそうだ」という義持の神懸かり的な“思いやり”からであったようです。
もはや持貞の無罪を取り付けることは不可能だと悟った満済は、切腹だけはさせまいと代案を提示するのですが…。
同年11月13日条
十三日。晴。今朝、重ねて又、御所に参る。越後守の事、種々にこれを歎じ申し入る。「所詮、今度の三ヶ条、ことごとくもって実犯たるといえども、まず田舎へ追い下され、一命をば扶け置かるるべき」由、返す返す申し入れおわんぬ。仰せの趣、「すでに生涯御対面有るべからざる由、神をもって御誓約たるなり。御身にいかにして御誓文の御罰をばあて申すべきをや。この上は速やかに進退さわさわと沙汰すべき」由、仰せられおわんぬ。予、申していわく、「この仰せにおいては、愚身更に申し遣わしがたく候。昨日より切腹たるべき由、しきりに申し入るるといえども、ひらにと申して今に抑え留め仕りおわんぬ。返す返す不便たる」由、申し入れて退出す。
満済は持貞の処遇について、切腹ではなく、まず地方へ追放して、命だけは助けてやって欲しい、と言っていますが、義持は「既に神と誓約して決めたことであって、それに反対すれば神罰が当たる」と言っていますね。義持は、もはや神との誓約を済ませているのであるから、持貞の切腹をはやく行うように、とも言っています。
それに対して満済は、「本人はもう切腹したいと言っているのを制止した上で義持に申し入れているのに、その自分が切腹の命令を伝達することなどできない。」と言っています。
神との誓約(起請文)を持ち出されながらも一顧だにせず、また、「本人は切腹しようとしている」といった方便を持ち出してまで持貞の助命を引きだそうとしていますが、うまくいきません。ついに万策が尽きました。
同日条(続き)
(中略)いくばくせずして切腹しおわんぬ。内者波多野・稲田・首藤二人・青津・河島以下十人ばかりか、同時に切腹すと云々。稲田は最結句に一身自害す。自身の家に火を懸くと云々。事様、諸人褒美すと云々。京中猥雑、申す限りなし。管領以下の諸大名勢、ひた甲(直甲)にて御所辺へ馳せ集む。この軍勢共が罷り出づるに、誦経鐘とて、六角堂・因幡堂・祇陀林・誓願寺等の方々金(鐘)をつきたるをとな(唱)い、一向、早鐘なり。
満済の助命嘆願虚しく、持貞は従者とともに切腹しました。そのうち最後に自害した稲田某という人物は自身の家に火を懸けたようですね。鐘が鳴り響くなど京中は騒然となったようで、管領や守護大名は軍勢を従えて御所に集まり、万一に備えたようです。
5.エピローグ−満祐帰京
同年11月14日条
(前略)今日、播州凶徒御退治のため、御幡、これを下さる。御使飯尾加賀守、御所より一色亭へ持ち込むと云々。細川典厩方より、明日請け取るべしと云々。御幡加持の事。
持貞が切腹したとはいえ、幕府に反旗を翻した満祐を許すわけにはいきません。満祐追討のため、先日要請のあった「御旗」の下賜が行われます。まずは奉行人の飯尾加賀守(為行)がそれを受け取り、翌日に御旗奉行であった一色義貫亭に持ち込むまでに、満済のもとで旗への加持祈祷が行われました。
同年11月25日条
(前略)今日、赤松左京大夫歎じ申す条々、起請文をもって両使参洛す。浦上三郎左衛門上京すと云々。 管領種々に執り申し入るる間、御免たりと云々。よって細川右馬助、赤松を相伴い、罷り上るべき由、仰せ出さると云々。珍重々々。
御旗下賜後の10日間のいきさつは『満済』からはわからないのですが、戦況不利を悟ったためなのか、もしくは反抗の原因となった持貞が既に死去したためなのか、満祐は白旗を挙げて、起請文を2人の使者に持たせて上洛させました。管領の畠山満家が義持にとりなしたようで、満祐は赦免となりました。満家が赦免にむけて取りなした理由についてはいろいろ考えられますが、持貞が死んだ上はもはや無駄な戦争を続けるのは不毛であるという思いもあったでしょう。
戦後処理や満祐の相伴には細川持元にその役目を命じています。現地での総指揮は持元が取り仕切っていたようで、その処理にも当たることになりました。
赤松家相続を巡っての争乱は、相続を認められた持貞がスキャンダルで切腹に追い込まれ、幕府に反抗した満祐が許されて相続するという“大どんでん返し”で幕を閉じました。ご存知の通り、満祐は14年後の1441年に将軍・義教を暗殺するに至るわけですが、この時の満祐の反抗も、赤松家正嫡としての自負と、幕府への反抗も辞さない武骨ぶりが発揮されています。一度決めたら信念を枉げない性格を持っていたのかも知れません。
しかし、この争乱は領国播磨に確実に疲弊をもたらしたようで、この後、守護赤松家追放を掲げた一揆も発生しました。満祐はしばらく領国支配の安定化に苦慮することとなりました。
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