くじ引き将軍誕生(1)
応永35(1428)年1月7日条
室町殿、御座下御雑熱出来すと云々。今日御風炉においてかきやぶうらるる間、御傷これ在ると云々。ただし殊事にあらずと云々。畠山修理大夫入道来る。白太刀一振を献じおわんぬ。
同年1月9日条
医師三位方より申す。夜前より御所様いささか御風気たりて、または御雑熱も、または御傷興隆すと云々。ただし両条、更に苦無く、安平を見ゆる事どもなりと云々。珍重珍重。
義持は風呂に入ってお尻を怪我したようで、その傷がもとで腫物が出たようです。医者(胤能)は風邪だと診断しましたが、傷から入った雑菌によって発熱したからではないかと思われます。しかし腫物は化膿してどんどん膨れ上がったようです。さらに医者は「大したことはない」と言っており、満済はそれを聞いて安心しました。
ひとまずは小康状態となるようですが…、ところが病状が急変。重態に陥ることとなります。
2.右往左往する重臣たち
同年1月17日条
今日、管領・武衛・細河右京大夫・山名右衛門佐・畠山修理大夫等、壇所に来たりて、条々談合す。第一に御遺跡相続の御仁体の事、誰人といえども定め置かれ、おのおの案堵(安堵)の思いをなすべき事。ついで、御療治方の事。ついで御祈方の事などなり。所詮、今の御様、大略その御たのみ無しと云々。御相続の御仁体の事、簡要(肝要)となすべしと云々。なにように便宜を伺いて申し入るべき旨申す間、おのおのまかり帰りおわんぬ。管領また立ち帰りて申さるる様、「只今等持院、等持寺長老に参会するところ、御相続の事、両長老遮りて相尋ねらるる間、この門跡へ面々列参して申し入れ候き。しかりといえども、只今御参り候てもし御機嫌宜しかるべく候わば、申し入るる由つぶさに申し入らるるべき旨、申しおわんぬ。さだめて上聞にたっせらるるべきか。何篇といえども仰せ出さるる旨、御左右を申すべし」と云々。その旨、こころ得る由、返答しおわんぬ。
義持の容態は悪化し、もはやなすすべもない(「御たのみ無し」)状態に陥ってしまったようで、室町殿(将軍)後継者の擁立を急がねばならない事態となりました。義持は子の義量に先立たれ、その後は後継とすべき子に恵まれず、この時まで後継者の指名をしていませんでした。後継が決まらずに義持が死んでしまっては下手をすると後継を巡る争乱にまで発展する危険もあり、重臣たちは緊急の協議を満済が病気快癒の祈祷をしていた壇所で開きます。
主なメンバーは以下の通りです。
「管領」…畠山満家
「武衛」…斯波義淳
「細河右京大夫」…細川持元
「山名右衛門佐」…山名時煕
「畠山修理大夫」…畠山満則
これら各大名の協議の議長役とも言える存在が満済でした。
とにかくその協議においては、「なんとかして義持自身に後継者を指名してもらう」ことで意見が一致したようです。また、畠山満家は、等持院と等持寺の両長老に対しても義持の後継指名を働きかけるように要請しています。
同日条(続)
その後、管領ならびに山名禅門両人、壇所に来たりて申す様、「只今一ヶ条御相続の御仁体の事のみ申し入るるところに、上としては定めらるるべからざるなり。管領以下面々寄り合いて相計るべしと云々。所詮この御返事の上は、重ねて申し入れ難しといえども、天下重事たりてこれをあやまつるべからざるなり。まげて重ねて申し入るるべき」由、しきりに申さるる間、領掌(了承)せしめて御前に参るところ、近習以下御前に召し集められ、御酒を下さるる間、細河讃岐守かくに申し入るる事存知せしむる間、御前に参りて、「この門跡様ちと申し入らるるべき事候わるる」由申す間、御前の者共、おのおのまかり出でおわんぬ。
畠山満家と山名時煕が満済に次のように報告します。
「今、相続人を決めて欲しいということをのみ義持に申し入れたが、義持は、『自分が決めるのではなく、管領以下の面々が相談して決めるがよい』とのことである。この返事があったからには重ねて同じことを申し入れるのは困難だが、天下の大事なのでもたもたしてはいられない。重ねて相続人を決めるようにお願いして欲しい。」
義持は、跡取りについて自分で決めるつもりはまったくないことがここからわかりますね。これは管領以下の面々も困ったようで、満済になんとかして決めてもらうように説得してほしいと泣きついています。義持は「今生の別れ」として側近たちと酒を酌み交わしますが、その際に細川満久(讃岐守)が気を利かせて義持と満済が二人で話し合う場を作るように演出しました。
義持が後継者を決めなかった理由について、「義持は義量の死後は厭世的になって跡継ぎを決めようとしなかった」、とか、「宿老の権力が並々ならぬものであった」証左であるとされてきました。“義持の本心”は『満済』には記載がないのですが、『建内記』には、「宿老の同意がなければ指名しても意味がない」と義持が心情を吐露したことが記載されています。
ただし、「将軍権力は脆弱であった」とするのはやや性急ではないかと思います。
「平和と秩序の維持を保障するものは、将軍にあっては有力大名、守護以下にあってはその一族家人の支持であるという認定に立てば、義持のケースも一貫した説明が与えられる。」【佐藤進一「室町幕府論」(『岩波講座日本歴史』7、岩波書店)1963年】
「単純な従者の力の優越ではなく、彼らの『協議決定』の優越であった点にあったと私は考える。いいかえれば、元来主人と個々に結ばれていた従者のある部分が、一種の横の連帯をとげ、その総体として主人と対応する関係が、社会的認知をうけたことを意味する。」【笠松宏至『法と言葉の中世史』(平凡社)1984年】
つまりは、「下の者が上の者を凌ぐ」という「下剋上」の論理によるものではなく、主人と所従との協議を重視した政治形態がこの時期において主流であった…ということになります。
3.義持の神だのみに乗じて…
同日条(続)
よって御前に参りて申す様、「管領以下の面々一同に申し入れらるる御相続御仁体の事。以前、等持院・等持寺をもって申し入るるところ、分明に仰せらるる旨無き間、おのおの計会ただこの一事に候。早々に仰せ出ださるるべき」由と云々。御返事に云わく、「たとい御実子御座有るといえども、仰せ定むるべからざる御心中なり。いわんやその儀無きをや。ただ兎も角も面々相計らひて然るべき様定め置くべきのみ」と云々。又申して云わく、「仰せの通りをば何様申し聞かすべく候。さりながら何度もこの面々は歎じ申し入るるべき心中に候。幸いに御連枝御座候えば、その内御器用について仰せ出ださるるべく候。それ又、げにげに時宜に叶うべからず候はば、御兄弟四人御名字を八幡神前において御鬮をめされ、定めらるるべきか」の由、申し入るるところ、「然らば御鬮たるべき」由、仰せ出だされおわんぬ。
さてここでは義持と満済の緊迫したやりとりが描かれていますね。
満済
「管領以下の面々が申し入れているご相続のことについてですが、以前、等持院・等持寺の両長老を通じて申し入れましたが、明確なご指名を頂戴していませんので、みなこのことばかりを心配しております。早々に指名していただきたい。」
義持
「たとえ実子がいても後継を指名するつもりはなかった。しかも実際は実子がいないのだから言うまでもなく指名などしない。とにかく重臣の面々が相談して後継者を決めなさい。」
満済
「仰せの通りに伝えましょう。しかし、重臣の面々は何度も後継指名を嘆願するつもりのようです。幸いにご兄弟もいらっしゃいますので、その中から後継にふさわしい器量を持つ方を指名してください。それでもなおご同意を得られないのであれば、ご兄弟の4人の名前を書いた鬮(くじ)を作り、それを八幡の神前で引いてその結果で決めるのはどうでしょうか。」
義持
「ならば神籤で決めよう。」
後継者を指名してそれが大名たちに受け入れられなかった場合に起こる騒擾を義持は懸念した一方、満済や大名たちは彼ら同士での後継者を巡る紛争をなんとしても避けたかったので、義持が後継を指名することでその危険を防ごうと考えたようです。また、鎌倉公方の足利持氏が将軍の椅子を狙っていたことは有名ですが、後継争いの発生が幕府と鎌倉府との全面戦争にもなりかねないという懸念もちらついていたのでしょう。
しかしどうしても義持は指名を拒みました。そこで満済がくじでの選定を提案しました。これは普段から義持が“神懸かり”的なものへの信仰が深いことを知っていたためのものなのでしょう。結局、義持はそれを受け入れました。
さて、候補に上がったのは次の4人です。
青蓮院 義円(ぎえん)
大覚寺 義昭(ぎしょう)
相国寺 永隆(えいりゅう)
梶井 義承(ぎじょう)
いずれも義満の子で、幼少の頃から寺院の門跡として入寺していました。
くじ引きによって決められることととなり、重臣たちはその手順について早急に協議することとなりました。
同日条(続)
「ただし御存命中はこの御鬮の事、叶ふべからざるなり。その故は、先年故御方御所早世の後、宝篋院(ほうきょういん)殿以来の御剣(鬼神大夫作と云々)、この御剣を、もし御子孫在らざらば、神殿に奉納せらるべし、もし御子孫有るべきならば奉篭せらるべからざる由の御鬮を二つ遊ばされ、八幡宮神前においてこれを取らるるところに、奉篭せらるべからざる由の御鬮を召されおわんぬ。その夜の御夢に、男子を御出生有る由を御覧ぜらるる間、今に深くこの御夢を御たのみて、御猶子等の事も定められざりき。よってこの御鬮も御没後に取るべき」由、仰せ出ださると云々。この子細つぶさに管領以下の大名に仰せ聞かするところに、おのおのかしこまり申しおわんぬ。
ただし義持は次のようにも述べます。
「自分の存命中は神籤を引いてはならない。そのわけは、先年(1425=応永32年)に子の義量(「御所御方」)が早世した後、また子が誕生するかどうかの神籤を引いたところ、「宝篋院殿(足利義詮)以来伝わる剣を奉納しなくてもよい=子が生まれる」というくじを引いたからである。その夜、男子をが生まれる夢も見たので、今までこの夢を深く信じて、猶子なども決めなかったのだ。だから、後継指名の神籤も自分の死後に引くように。」
ここから、通説でいわれるように、義持は死ぬ間際になっても実子の誕生を信じていたことが窺われます。けなげな姿にも見えますが、これが結局周囲を困らせる要因として働いていたことになりますね。跡継ぎの指名をしたくなかったのは実子の誕生を期待していたからということのようですが、先に表明していた「実子がいてもいなくても指名しない」という態度とは少々矛盾します(笑)。
ただ、死の床についてまでも実子の誕生を信じているとはいえ、さすがにあきらめの感もあったようで、せめて神籤の意向に反しないためにも、「自分の死後にくじを引くようにしろ」と厳命しています。
実子の早世は、やはり相当無念だったようですねぇ。
4.くじ引きは生前に
同日条(続)
その後、管領以下、又相談する様、御没後には神前においてさうなくこの御鬮取り難かるべし。早速に御定め何篇たりといえども、宜しくすべき間、所詮、今日(十七日)、まず密々にこの鬮を給いて開く事をば御没後に沙汰すべき由、評定しおわんぬ。よって御鬮書の事をば面々予に申す間、再三辞退すといえども、しきりに申す間、力無くこれを書きおわんぬ。続飯(そくい)をもって堅くこれを封ず。その上に山名右衛門佐入道、書封しおわんぬ。管領一人、八幡へば参詣せしめ、これを給うべき由、申し定めおわんぬ。よって管領、戌終に参詣す。神前において御鬮を給いて亥終に罷り帰ると云々。酉半ばかりかに、すでに御悪名出来の由、医師三位告げ申しき。仰天せしめて御前に参るところに、もってのほかの御体、なかなか申す限り無し。長老達三・四人祗候す。それ以来は一向に御言語通ぜず、人をも御覧知せられざる御体なり。諸人悲涙に咽(むせ)ぶばかりなり。よって京中猥雑、申すばかりなし。公家・武家・僧俗群参するはもってのほかの事なり。よって御修法、初夜より一向にこれを略す。壇所において密々に祈念するばかりなり。今夜は終宵、同じき御体なり。壇所雑具ならびに本尊仏具等、ことごとく夜中に本坊に返し渡す。十三日より、方々の御祈、同前か。
義持は「死後に籤を引くように」との意向でしたが、管領以下の面々は、「死後だと混乱するであろうから籤取りは難しい」と難渋します。義持が死んだ後では、籤の結果に不満を持った相続権所有者が蜂起する危険性も視野に入れていたのでしょう。
しかし義持は意向を変えず、結局、意向に反して「こっそりと生前に籤を引いておく」ことになりました。
籤に名前を書く役は満済が推挙されます。満済は嫌がったようですが、仕方なく受け入れました。封をした後、山名時煕が書き封を施します。不正が行われないように、また、不正が行われていないことを示すための措置であったようです。
さて、その籤を持って管領の畠山満家が八幡で籤を引くという段取りに決定しました。早速満家は戌刻の終わり頃(午後9時半頃)に参詣し、亥刻の終わり頃(午後11時半頃)に籤を引いて帰ってきました。
「八幡」については、『建内記』によれば石清水八幡宮のようですが、洛中から2時間で往復するというのはなかなか大変で、「生前に籤を引くため」にかなり急いだようです。
さて、義持の病状はいよいよ悪化したと医師三位(允能)が告げてきます。満済が急いで駆けつけた頃にはもう会話もできないほどの危篤状態だったようです。周囲も既に死が迫ったことを悟り、嗚咽が聞こえてきます。「いよいよ」の雰囲気の中、諸寺の行事はすべて延引され、どこも快癒の祈祷を行っていたようです。
5.義持逝去とくじの開封
同年1月18日条
十八日、晴れ。今日巳半ばかりか、御事切れおわんぬ。御年四十三なり。御沐浴等の事、一向に禅僧これを沙汰す。その後床上に安置し奉る。諸人その時これを拝見す。おのおの焼香し申しおわんぬ。おのおの退出す。管領以下諸大名、おのおの一所に参会して、昨日神前において取るところの御鬮、これを開きおわんぬ。管領これを開くなり。青蓮院殿たるべき由御鬮なり。諸人、珍重の由、一同にこれを申す。この御くじの事、今日かの門跡に申し入るるべきかいかんの由、評議する間、予申して云わく、「在方卿に仰せて、吉日を撰ばれ、今明間に申さるるべきか」と云々。その儀むべなるべき由、面々これを申す。すなわち在方卿を召して吉日を撰ぶところに、明日(十九日)、最上の吉日なりと云々。よって、明旦管領以下、かの門跡に参り、まず裏松亭に入れ奉るべき由、定め申しておのおの退出しおわんぬ。故御所御追号の事、勝定院たるべき由、長老達計らい申しおわんぬ。
この日の巳の半刻頃(午前11時頃)についに義持は死去しました。享年43。
遺体の沐浴は禅僧が行います。密教系がこれに携わることは無く、真言宗の満済はこれを行うことはできませんでした。
さて、早速管領以下の諸大名が集まって籤の開封が行われました。満家が開いたところ、「青蓮院殿」の名が書いてありました。青蓮院門跡の義円が後継将軍に決定します。
さて、義円への通知ですが、陰陽道に通ずる勘解由小路家の賀茂在方に占わせ、明日(19日)が良いとの回答を得ます。早速、明日にでも義円を青蓮院から裏松亭(裏松[日野]義資の邸宅)に移すことも決まります。義持の追号は「勝定院」と決まりました。
さて、このくじ引きの経緯ですが、「実ははじめから義円にするためにインチキされていた」という説もあります。
「思うにこれ満家等が満済と協同して仕組めるものか。それは持氏が頻りに義持の猶子を以て自ら擬し、義持之を拒めば戦となり、許せば京都幕府を奪わるる事となるが故に、決せずして義持の薨去に及びしならん。もし義持の存生中に義円と継嗣とすれば、持氏は直ちにこれを口実として攻め来るは必然なれば、満家等相談してかく仕組める歟。而して義円を立つる事は、恐らくは始より義持の同意ありし事にて、籤の如きは満済等が初より当り籤を作り置きしものならん。当事者の日記といえども軽々しく信ずべからざるなり。」【田中義成『足利時代史』(講談社学術文庫341),1979年(初出1923年)p.133】
確かに持氏対策として、鎌倉公方の足利持氏を排除した形でくじ引きがなされたと言えるかも知れませんが、ただ、それをもって「義円を継嗣にするつもりであった」とするにはやや飛躍があります。
そうであれば、別に義円ではなくとも、候補に上がった他の3人でも別に構わない(持氏が継嗣にさえならねばよい)わけですから、なぜ神慮をないがしろにし、インチキをしてまで義円を後継に据える必要があるのか。むしろインチキをするということになれば、その理由は、持氏との関係ではなく、落選した3人との関係で語られるべきでしょう。
また、後継を決めていなかったことについては、「常識では考えられない」とするのみで、これを否定するにはやや根拠が薄弱です。ここは素直に正当な手続きにおいてくじ引きがなされ、義円が当選したと考えておくのが無難でしょう。
さて、裏松義資がここで登場します。
義資は足利義満の家司をつとめ、それによって将軍家との関係を深めました。義満正室・康子や義持正室・栄子の甥でもあります。さらに、後に義教の正室となった日野重子の実兄で、のちに権勢を振るう日野勝光、そして日野富子の祖父にあたります。のちの将軍義勝・義政の実の伯父にもなります。
義円の「仮の御所」として裏松亭が選ばれたのは、こうした将軍家との浅からぬ関係(母系ではもっとも近い家になります)と、「准三宮」義円が滞在するには武家ではなく公家の裏松家の方が良いという判断があったのではないかと思われます。