くじ引き将軍誕生(2)

6.「還俗将軍」へのとまどい

 勘解由小路在方の答申に従って、翌19日に義円義円に当選の旨が伝えられます。そこでの義円の態度はいかに?

応永35(1428)年1月19日条
十九日、晴れ。今朝早旦、管領以下の大名ことごとくかの門跡に参る。この子細申すところに、種々に御辞退と云々。しかりといえども面々に強く所存を申すの条、ご領掌す。よって大名等供奉せしめて裏松に入りおわんぬ。(中略)廿三日まではこの在所に御座あるべしと云々。

 当初にあっては義円は将軍職就任を辞退したようで、大名らの説得によって翻意した、と満済は伝え聞いています。
 しかしまぁ、これは多分にパフォーマンスの要素はあったような気がします(笑)。嬉々として受諾するのは浅薄だ…といった感覚が当時にも既にあったのかも知れません。
 そこで義円は前もって決まっていた仮御所の裏松義資邸宅に移ります。この後、義円の還俗・元服の段取りについて協議が重ねられることになります。

同年1月22日条
管領以下の大名、裏松に群集す。種々談合これあり。予、参るべき由申す間、そうなく帰るあたわずこの座に列しおわんぬ。所詮、御名字の事一ヶ条なり。御俗名においては御髪を裹(つつ)まるる後にこれあるべし。只今はいかさまに申すべけんや。明日(廿三日)御荼毘に付して施主の御名字を載せらるるべき事これあり。いかんと云々。予、計らい申す様、広橋儀同ならびに少納言入道浄宗等に相尋ねらるるべき由申しおわんぬ。よって管領より尋ね遣わすところに、准三宮義円と。この間御法名しかるべき由同様にこれを申しおわんぬ。予、この事不審の間、昨夕密々に万里小路大納言時房卿に相尋ぬるところ、申す様同前なり。よってこの儀に一定しおわんぬ。

 管領畠山満家以下、重臣の大名たちに満済が加わって協議が行われます。そこでの議題は義円の還俗後の名前についてでした。
 満済はそこで、「俗名については義円の髪が生えてきた頃(還俗の準備が整う頃)にまた協議したらよい。今はあれこれ言う時期ではない。」と意見したようです。
 しかし現実的な問題として、翌23日の義持の荼毘の際、次期室町殿としてその儀を執り行う義円はどういう名乗りにすべきかという点で議論が起こります。そこで満済は、「広橋儀同(兼宣)と少納言入道浄宗(清原良賢)に尋ねてみてはいかがか」と提案しています。そこで管領はこの二人に諮問したところ、「准三宮義円」が良いとの返答でした。

 広橋兼宣と清原良賢は当時において最も事情通であった人物だったようで、この後もしばしばこの両者に意見を求めるシーンがあります。またこの問題については、先立って満済は前日に万里小路時房の意見を求めており、その際の時房の意見と同じだったということで得心したようです。

 満済と時房とのやりとりについては、時房の日記にその様子を窺うことができます。

『建内記』同年1月21日条
廿一日、三宝院僧正(満済)より賢長法印をもって伝え示していわく、御仏事方につき、室町殿(義円)御名字を載せらるるべき事あり。童体に准ずるの儀、童名たるべきか、または御代官のごとく用いらるるべきか。密々に尋ね示すと云々。予、答えていわく、御仏事方につき御名字を載せらるるべき事、御作善中いまだ御髪を裹まるるべからずの由、承り及び候。しからばその間、御法名の条憚りあるべからざるかの由存じ候。(後略)

 これを見ると、確かに時房は「御法名の条憚りあるべからざるか」と述べています。

 翌日、義持の葬儀が執り行われました。


7.還俗へ向けて

 将軍後継の準備が進んでいきますが、義円の俗名や叙任の手順、さらには改元のことについても協議がはかられることになりました。ただし、これは『満済』には詳述されていないので、しばらくは万里小路時房の日記である『建内記』を中心にその様子を追ってみます。

(1)義円の叙任について

『建内記』同年3月某日条(一部判読不能な部分を意訳で補っています)
あるいは参議に任じ、かくの如くの直任、もしくはしかるべきか。准后は強いて官位の准無きか。僧正はすでに参議の礼に准ずるなり。しからば一段の御計らいもしくはよろしかるべきかいかん。かつうは花園左大臣[有仁公]元服の日、直に三位中将に叙す。先例無きにあらず。かつうは今般の儀をもってその計事有るべきか、あるいはこの儀を存ずるの輩有るか。

 
武家伝奏であった万里小路時房は、公家側の窓口として義円の叙任に向けて公家側の見解の取りまとめを行っています。
 上記によれば、義円が既に准后の称号を得ていることに触れ、「僧正は参議に准ずるので、准后もそれに合わせるのはいかがだろうか」と時房は述べています。また、源有仁(輔仁親王息、白河院の甥)が元服と同時に三位中将に叙任されたことに触れ、その先例を採用すればいいのではないかという意見を持っている者もいることから、このことについて広橋宣光が関白(執柄)二条持基に諮問しています。

(続き)
右大弁宰相宣光朝臣、今日執柄にこの事を申し出ずるところ、執柄いわく、「鹿苑院殿以来御昇進等、これ摂家の儀に模せらる。しかるに摂関家においてあるいは正下五位中将に直任し、あるいは従五位下侍従等に叙するものなり。そのほか直に高位高官に昇る先例無きか。花園左府の如き例は先例と云い難し。今すでに准后なり。たとい参議・納言に昇るといえども、准后の崇班(すうはん)に対すべからざるの上は、すでに日ごろを棄てらるるの儀勿論なり。しからばかの家の佳例に就き次第の昇進を経られての条、もっともなおしかるべきの由、相存ずるものなり。」 この趣返答有り。

 二条持基は以下のように返答しています。

 「鹿苑院殿(足利義満)以来、将軍家の昇進は摂関家になぞらえられている。摂関家は最初に正五位下中将か従五位下侍従に叙せられる。高位高官にいきなり昇る先例は無いようである。源有仁の例は(天皇家の臣籍降下であるため?)先例とは言い難い。たとえ(公卿である)参議や納言に昇るとしても、その地位であっても准后という高い地位になぞらえることはできないのであり、いずれにせよこれまでの高い地位を棄てることになる。そうであるならば将軍家の先例に従って次第に昇進を経るのが最善であろう。」

 時房はこの意見に「甘心」と述べ、賛意を表明しています。結局、義円の官職は五位相当の左馬頭とすることで意見がまとまっています。
 余談ながら、将軍家の昇進は義満期を先例としていることがわかります。現在では「義満の先例打破」というイメージを持たれる義持期を経ていてもなお、いかに義満の影響力が大きかったかが窺えます。むしろ後の義教期のイメージとしてある「父義満の積極的継承」は、義教のパーソナリティではなく将軍家が連綿と守ってきた既定路線であったとも言えるのかも知れません。


(2)義円の俗名について

 応永35年3月の『建内記』は錯簡が激しくて前後関係を汲み取るのが難しいのですが、その中には義円の俗名を決める協議が事細かに記されていて興味深いです。

『建内記』同年3月6日条
御名字の事示す。上の字は義字代々御用うの間、左右するあたわず。下の字は、あるいは御一流すでに同訓を用いらるなり。あるいは御一族先祖等同名なり。また摂関・大臣等名字同訓ははばかりあり。よって下の一字は得難きなり。

 将軍家で代々使用している上の「義」の字は当然の既定路線であるので議論の余地はありませんでしたが、下の字をどうするかについての協議が始まります。一族や先祖、そして摂関や大臣と同じ名前になることは避けるべしとの前提があるので、字を決めるのは難儀が予想されました。

 候補はたくさん挙がります。義綱義豊義尚義益義秀義順義英義雅義規等々…。その中で重視されたのが、「反音」というシステムです。

『建内記』同年3月某日条
常宗(清原良賢)いわく、「改元の字ならびに名字、上古さらに反音の沙汰に及ばず。しかるに韻鏡渡朝以来この沙汰あり。正しく悪字を得るの時、いずくんぞ用うべけんやの由、斟酌なり。無形の時は沙汰に及ばざるなり。(後略)

 「韻鏡」というものが日本に伝わった後は、これに基づいて名字を選定していました。
 「韻鏡」は中国の音韻組織図で、12世紀に南宋の張麟之が刊行したものです。これは中国では定着しなかったようですが、日本に伝わった後は、日本ではよく用いられたようです。
 反音はある字の音を示すために別の字を用いて表現する方法(反切とも言います)で、この「韻鏡」においてそれぞれ候補に挙がっている字の「反音」に、どの字が使用されているかが問題となっていたようです。字によっては反音が記されていない字もあったようで、その場合は「特に問題なし」と判断されています。例えば「豊」の場合、反音に「悪獣」の字が使用されているのでふさわしくない、と却下されています。
 また字を分解してみるなどといったこともされており、例えば「綱」の字にある「岡」の字が「罔(くらい)」に繋がるのではないかと懸念されたりしています。

 こうして公家の知識人が集まって協議がなされた結果、関白二条持基の推す「義宣」が良いのだろうと決まり、清原良賢に相談します。

『建内記』同年3月11日(ヵ)条
ついで予(時房)・勧中(勧修寺経興)、少納言入道(良賢)のもとへ同道す。御沙汰の趣を示し、(良賢が言うには)「『益』の事は無形につき無難、よって挙げ申しおわんぬ。義宣の事は元来無難。ただ曾孫と同名の謂われをもって挙げ申すに及ばざるのみなり。『宣』の字を勘文に載せらるるべきの条珍重なり。かくのごとく仰せ下さるるの条、家の面目光華なり」。種々畏まり申す。

 なんか都合のいいことを言ってますが(笑)、良賢が推していた「益」はあっさり取り下げ、「曾孫(清原良宣)と同じ名前なのであえて推さなかった」という「宣」の字は喜ばしいことだ、と感想を述べています。

 さて、公家の協議によって内定した「義宣」を最終決定とするよう、称光天皇に勘申し、宸筆を乞うことになります。その使者を誰にするかで一悶着がありますが、使者は勧修寺経興に決まりました。

 翌日12日、宸筆が下されました。そこには高檀紙に「勅筆ただ義宣二字」が書かれていました。二条持基は返礼として太刀と馬を進上しています。
 これによって俗名が決定し、叙爵が行われました。義宣は、勧修寺経興を通じて後小松院に太刀と馬を進上、落着となりました。


8.将軍宣下をめぐって

応永35年4月5日条
今日執柄(二条殿)より経康をもって承る条々。
(中略)
一、征夷将軍宣下の事。先度計らい申し入る分、御着冠以前は御童形の准拠たるべきか。よって先例も未だ見及ばざる間、御着冠以後に宣旨すべく内々に申し候いおわんぬ。しかりといえども当時の御儀、御年齢は既に三十に御余るなり。また御腰物等を帯びらるの上は、将軍の事はあながち先規に拠るべからざるかの間、早速申し沙汰の条、珍重たるべき由。かつがつ常宗入道
(清原良賢)等意見の通りこの分なり。先度御一級御一官宣下の時、仙洞として尋ね下さるる様、将軍宣下の事、只今は沙汰に及ぶべかざるかいかん。もし執柄忘却せらるる事もやとて、かの両条宣下は陳儀(ママ。「陣議」)を押され尋ね仰せらるる由なり。仙洞時宜また最前より思し食し寄せらるかの間、かれこれ今度御一級(四品)、ついで同じく申し沙汰すべき条はいかん。

 関白二条良基から満済のもとに尋ね事があったようです。そのうちの一つが義宣の将軍宣下に関してでした。
 良基は、将軍宣下を元服以前にやるのは前例がないので、元服後にすべきであるという意見を内々に伝えていたようですが、義宣は既に30余歳にもなっていて、既に腰物も持っていて実質的には元服を済ませているも同然ということで、元服後という原則を貫く必要はないだろうという意見に変わったようです。

 ただ清原良賢の意見は、先の義宣の叙爵は後小松院の意思という形を取ったのであるから、将軍宣下の時期も、公家の陣議を経たのちに院に伺いを立ててから決めるべきだ、というものでした。このように意見が食い違っていたため満済に意見を求めたようで、満済は以下のように返答しています。

同日条(抜粋)
御四品ならびに将軍宣下の事、只今承る如くはまことにむべに存ずるなり。早々に申し沙汰有るべきか。(中略)以前御一級・将軍宣下等の事はまづかくの如く申し御沙汰有るべき旨、御使をもって管領に仰せ遣わさるるべき条、宣旨すべく申しおわんぬ。ただし将軍宣下の事なお御思慮有るべきか。御着冠以前の事いかん。

 満済もどうも悩んでいるようです。ともかくも早々に結論を出すことを歓迎しているものの、将軍宣下を元服以前に行うことについては意外と慎重のようで、結論を出しあぐねているようです。
 ただまぁ院に結論を委ねる姿勢はやんわりと拒否しているようにも見えますね。真意のほどはわかりませんが…。ともあれ背後に後小松院と幕府との対立を見出す見解もあります。

 一方同じ日に改元の期日についても協議され、4月17日と27日のどちらかが良いかということになったようですが、後小松院の意見の通りすんなり27日に決まったようです。


続く…
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