「日本国王良懐」と足利義満

1.朝貢を求める洪武帝の決意

 中国の国家間交渉は「華夷思想」が原則となっていました。つまり、中国が世界の中心に君臨し、周辺諸国は臣下として「朝貢」するという外交体制です。「倭の五王」の遣使以来、日本はこの体制での交易には応じてきませんでした。
 皇帝に即位した洪武帝(朱元璋)も、この思想に基づいた外交システムの構築を目指していたため、どうしても日本に朝貢をさせる必要がありました。しかし日本では「中国とは対等」という思想が一般的であったため、中国と日本との正式外交が簡単に成立しなかったのは必然的であったと言えます。

 しかし明としては倭寇の禁圧にどうしても日本を従える必要があったと考えました。歴史的には長きに渡って途絶えていた日本との正式外交を成立させるべく、建国の年・1368年に早速日本へ使節を派遣します。
 ところがこの使節、途上の五島周辺で「賊」に襲われたようで、交渉相手に辿り着くことさえもできなかったようです。だが洪武帝はへこたれません。翌年に楊載らの使節を再度派遣しました。以下が『明太祖実録』に掲載されている国書です。

 上帝は生を好み不仁なる者をにくむ。さきには我が中国、趙宋の馭(ぎょ)を失いてより、北夷入りてこれに拠り、胡俗を播いてもって中土を腥羶(せいせん)し、華風競わず(中略)辛卯(紅巾党蜂起の年・1351年)より以来中原擾々す。彼の倭来たりて山東に寇するは、胡元の衰に乗じたるに過ぎざるのみ。朕もと中国の旧家にして、前王の辱を恥じ、師を興し旅を振るい、胡番を掃蕩す。(中略)去歳より以来、北夷を殄絶(てんぜつ)してもって中国の主たるも、ただ四夷には未だ報ぜず。ちかごろ山東来たり奏するに、倭兵しばしば海辺に寇し、人の妻子を生離し、物命を損傷すと。故に書を修めて特に正統の事を報じ、かねて倭兵越海せるの由を諭す。詔書到れるの日、臣たるが如くんば表を奉じて来庭せよ。臣たらずんばすなわち兵を修めて自ら固め、永く境土を安じてもって天体に応えん。必ず寇盗を為すが如くんば、朕まさに舟師に命じて諸島に揚帆せしめ、その徒を捕絶し、ただちにその国に抵(至?)りその王を縛るべし。(後略)

朱色は倭寇に関する文言、紫色は華夷思想が窺える文言です。

 国書としては異例中の異例と言えるほどの威圧的な内容です。それだけ倭寇に悩まされていたことの裏返しと言えるでしょう。最後では「倭寇を放っておくのなら自ら日本に攻め込んで滅ぼし、その王を縛る」という脅し文句まで付いています。
 倭寇は1350年頃に朝鮮半島で活発化し、中国沿岸部にも進出して暴れていました。元王朝が朱元璋によって中国を逐われた一因にもなったとされており、それはこの国書からも窺えます。


 さて、この国書を携えた一行は、いったい日本の誰に持っていったのでしょうか。京都の義満? いえ、中国の史書では「良懐」とされる人物でした。
 良懐…? 日本の史書にはこのような人物はいませんね。しかし、よく似た名前の人物が当時の北九州を支配していました。その人物は南朝方の征西将軍として大宰府にいた後醍醐天皇の皇子・懐良親王です。「良懐」=懐良という解釈は確実とは言い切れないかも知れませんが、おそらく間違いないのではないかと思われます。倭寇の本拠地は対馬・壱岐・松浦地方の「三島(さんとう)」であったと考えるのが当時の常識でした。これらはすべて北九州に位置し、そこを支配する懐良が「倭寇の頭目」であったと見なされた可能性は十分にあります。「倭寇の頭目」に対する書状なら、このような強い調子になるのも頷けます。
 さて、この国書を見た懐良はどのような態度を取ったのでしょうか?


2.「日本国王良懐」誕生

 当時の日本は南北朝時代。既に後醍醐天皇や足利尊氏は世を去っていましたが、その遺志を受け継いだ子たちが激しく対立していました。とはいえ、義満が将軍となった頃になると畿内における南朝勢力は目に見えて衰えていきました。ところが九州だけは事情が違っていました。
 後醍醐天皇がまだ存命の頃、当時はまだ赤子の懐良を九州の統治者となすべく、側近の五条頼元らを付けて九州へと向かわせました。南朝方の瀬戸内海賊に匿われながら、懐良は九州へ上陸。その後肥後の豪族菊池氏の援助を得て勢力を広げていきます。“征西将軍”懐良が成人する頃には畿内の南朝天皇からも独立した権力を握り、全国的に苦戦する南朝方の中にあって、九州の懐良だけは強大な政権の構築に成功します。

 ところが義満を頂点とする北朝・幕府は黙っていません。南朝が最後の拠り所とする九州の制圧は急務となりました。
 幕府は足利一門の渋川氏を九州探題として九州の制圧を目論みますが、九州に上陸することもできない体たらくでした。そこで、1371年に管領細川頼之の推挙によって今川了俊(貞世)を九州探題とし、大軍を率いて西へと向かわせます。


 さて、少し時間を戻して1369年。楊載らの使節が大宰府の懐良のもとを訪れました。上記の国書を読んだ懐良は、次のような態度に出ました。

 五人を殺死せられ、楊載・呉文華、覊留(きりゅう)すること三月、(「明国書并明使仲猷・無逸尺牘」)

 使者は7人いましたが、そのうち5人は殺され、残りの2人は3ヶ月の拘留の後にようやく解放されるといった有様でした。懐良は朝貢をはっきりと拒絶したということになります。天皇の子である懐良が中国に臣下の礼を取ることなど絶対に許されない、という思いもあったのかも知れません。また、倭寇と関係があったとすれば、「倭寇の禁圧」という要求も受け入れがたいものであったでしょう。

 この懐良の態度に洪武帝は激怒したことでしょう。しかし、すぐさま日本への侵攻に踏み切ることはせず、翌年の1370年3月、今度は趙秩という人物を筆頭とし、楊載も再度加えた使節を日本に派遣しました。国書の内容は前回のものとほとんど同じですが、新たに「他の諸国は既に朝貢に応じている」ことが書き加えられていました。明帝国の強大さを強調する意図があったのでしょう。

 さて、懐良は「何度来ても同じだ」という態度をはじめは見せたようです。

 あに昔の蒙古の使者の雲仍(「一族」という意味であると思われる)か。また、まさに好語をもってのべ、我を襲うべきなり。左右に命じてまさにこれを刃せんとす。(『明太祖実録』)

 「趙秩」という名前に反応したようです。元寇の直前に元朝から日本に朝貢を要求する使者がやってくるのですが、この使者に「趙良弼」という人物がいました。同姓であったので「また蒙古(元)の使者がやってきた」と懐良は勘違いしたのです。前回の国書と同様、「蒙古を追い払って立てた王朝の使者」であることを告げているのですが、これも「方便」だと思いこみました。懐良は使者を斬り捨てるように命じます。
 それに対して、趙秩は…、

 「私は蒙古の使者ではない。中華の皇帝(明皇帝)の使者として来たのだ。信用できないのなら殺すがよい。しかし、私を殺せば皇帝は黙っていない。きっと日本に遠征することになるだろう。我が王朝の軍は蒙古を蹴散らした『天兵』だ。ひとたび戦争になれば天命がどちらにあるかははっきりしている。我が王朝は蒙古とは違い礼を重んじているつもりだから、あなたも礼をもって対応していただきたい。」(『明太祖実録』より要約)

 中国側の史料『明太祖実録』では、これを聞いた懐良は感動して趙秩の手を取り、礼を尽くして応対し、さらには朝貢を決意した…ということになっています。しかし、なんだか出来過ぎのような気が…(笑)。
 ただし、懐良がこの後に朝貢の使節を派遣したことはほぼ間違いないと見て良さそうです。1371年10月、「日本国王良懐」の使者として祖来という僧侶が、馬と方物(献上物)を携え、留学僧9人や「明州(寧波)・台州の被虜男女70余人」(倭寇の捕虜になった人たち)を引き連れて訪れたことが『明太祖実録』に記録されています。
 しかし、趙秩が懐良と会見してから1年半も経っての使節というのは、いくらなんでも時間がかかりすぎと言えます。当時でも、日本から中国に到達するまでこれほどの時間はかかりません。趙秩の説得が懐良に朝貢を決意させたのではなく、もっと別の理由があったのではないか…?という疑問が生じることになります。

 話は日本の情勢に戻ります。1371年2月、九州探題となった今川了俊はついに九州征伐の軍を動かしました。もちろんその対象は懐良とそれを支援する菊池氏・少弐氏でした。これに島津氏をはじめとする九州の諸豪族や大勢力を持つ大内氏も連携の動きを見せ始めます。
 これは懐良にとって自己の権力を揺るがす相当な脅威となりました。「このままでは負ける…。」、しかし丁度中国から使節が来ている…。懐良には、蒙古だろうとそうでなかろうと、臣下の礼を取れば援軍をよこしてくれるのではないかという思いがよぎったことでしょう。この間、趙秩らはどうしていたのかははっきりしませんが、おそらく拘留されていたと思われます。迫り来る大軍を前に、明への援軍を期待することで自身の権力基盤の維持を目指し、中国への朝貢に踏み切ったのではないか…と考えられています。

 そのような懐良の思いを知ったかどうかはともかく、「蒙古でもなし得なかった日本の朝貢」を洪武帝は大いに喜んだようです。日本が蒙古軍を撃退したことはもちろん知れ渡っており、それだけに、日本を臣下に加えることは、洪武帝の権威を絶対化するにあたっての最重要課題の一つであったわけです。洪武帝は返答使として、仲猷祖闡(ちゅうゆうそせん)・無逸克勤(むいつこくごん)という2人の禅僧に大統暦などを持たせて日本に派遣しました。
 しかし九州では、風雲急を告げます。


3.懐良の没落と義満の遣使

 「九州制圧」を目指す今川了俊は、1371年の末に関門海峡を渡り、九州に入りました。了俊と懐良との間で激戦が繰り広げられますが、既に懐良の勢力は翳りを見せていたこともあり、了俊の侵攻を退けることができませんでした。懐良は1372年4月に博多の支配権を失い、さらに8月には大宰府が陥落。筑後の山奥・矢部に五条氏を頼って落ちていきました。

 そのさなか、1372年5月に「日本国王良懐」への国書を携えた仲猷と無逸の2人が博多に到着しました。ところがこの時には既に博多は了俊の支配下にあったため、了俊側に拘束されて博多の聖福寺に置かれました。懐良を日本国王とする中国の使者がやってきた…という事実は了俊や京都の義満に衝撃を与えたことでしょう。「中国は南朝を支援している」とも考えたかも知れません。しかし、この時は懐良と激戦を繰り広げていた時でもあり、突然の外国からの使者到来に即座に対応する状況にはありませんでした。勿論解放して懐良の元に向かわせることなどできないので、約1年程、拘束される状態が続いたようです。この間、僧侶であることもあり、使者の2人は比叡山と書簡を交わしていたようです。その際、比叡山には北朝へのとりなしを依頼しています。

 1373年6月、2人は京都に上洛することとなりました。京都での行動についてははっきりしていないのですが、義満と会見したことは間違いないでしょう。ただし、「詔書(国書)を持っていない」ことが不信感を呼びました。もともと持っていた国書は懐良宛であったわけですから、情勢を察知した明使は当然なんらかの形で処分したと思われます。

 「一般的には詔書を携えるが、詔書を携えていなくてもその内容を使者が口頭で伝えることもしばしばあるから、詔書を持っていなくても不思議ではない。」

と明使は弁明したんですが、もともと対外交流に消極的な管領の細川頼之はそれでも不信感を拭えなかったようです。頼之は、使者の仲猷を「禅僧」として受け入れ、対立する春屋妙葩に替えて天龍寺の住持にしよう…ということも考えていました。「明の使者」として対処するのではなく、「宗教界の交流の一環」ということで済ませてしまおう…という考え方です。

 そして8月、結局使者の2人は義満に帰国を命じられます。この間、義満との直接交渉を示す文献は残されていないのですが、先述の通り、会見はしたでしょう。その際、義満に中国への使者の派遣を要請したと思われます。元来、中国文化に大きな興味を寄せていた義満としては、中国との交渉で中国の文物が入手できることに魅力を感じたに違いありません。また、貿易による利益を得ることが出来る、ということも魅力的であったことでしょう。
 しかし、それには「壁」がありました。それはやはり「伝統的な外交観念」です。中国の外交体制においては、「陪臣」の地位(日本国王たる天皇の家臣)に過ぎない義満が使節を派遣しても拒否されてしまうということ、また、中国に臣下の礼を取ることはできないという伝統的な外交体制のしがらみです。
 それでも義満は、1374年6月に使者を派遣しました。ところが…。

 時に日本国は持明と良懐と争立し、宣聞渓等、その国臣の書をもたらす。(中略)表文なく、上命してその貢を却す。(中略)さきには、国王良懐、表を奉じて来貢す。朕、もって日本正君と為す。(『明太祖実録』)

と、あっさり拒否されました。「表文(朝貢の際に提出する挨拶文のような上表文)を携えていない」ことが主な理由でした。また、「その国臣の書をもたらす」ということから、義満が「日本国王の臣下=明の陪臣」という地位であることも理由として考えられます。
 銭などの品物を得ることは出来たのですが、この義満の遣使は“失敗”に終わりました。この後しばらくは、消極派の管領細川頼之への遠慮からか、使節の派遣は断念します。

 1379年、幕府で「康暦の政変」が発生します。頼之と対立する斯波義将が義満邸を取り囲み、頼之の解任と討伐を要求しました。義満はこれに屈し、幼少の砌から義満を助けた頼之を失脚へと追い込み、かわって斯波義将を管領につけました。この義将は外交面では“積極的推進派”であったため、翌年の1380年、義満は誰にも反対されることなく明との貿易を目指して使者を派遣しました。
 ただし、明に“朝貢”することにはまだ抵抗があったのでしょう。この時は、旧来のように、国家間交渉を行わずに民間貿易の形で関係を築こうとしたようです。

 表無く、ただその征夷将軍源義満の丞相に奉ずる書を持つのみ。辞意倨慢にして、上命してその貢を却す。(『明太祖実録』)

 「征夷大将軍の義満」がいくら使者を送ってきても、明としては受け入れるわけにはいきません。義満の目論見はあっさり否定され、またも失敗に終わりました。
 義満は、今までの形式では中国と貿易することは不可能であることを悟ったでしょう。名実ともに日本の頂点に君臨しないと貿易も満足に出来ない…、そう考えた義満は、それを実現すべく、国内における自己の権力の絶対化を目指すようになっていきました。


4.「日本国王良懐」の遣使

 中国側の史料には、「日本国王良懐」の使者と称して入貢した例が見られます。

年次 派遣者 使者 備考
1371.10
(洪武4、応安4、建徳2)
懐良親王 祖来 僧9人、台州被虜70余人同行。大統暦等を下賜(冊封成る)。答礼使仲猷祖闡・無逸克勤ら8人を派遣。
1376.4
(洪武9、永和2、天授2)
後円融院? 圭庭用(廷用文珪か?)等 表文、馬、方物を奉じて“謝罪”。洪武帝、「良懐所上表詞語不誠」とし、倭寇禁圧の滞りを非難する。使者廷用文珪は山城宝福寺僧。→「後円融院の意を受けた」(村井1999)
1379.閏5
(洪武12、康暦1、天授5)
島津氏久? 劉宗秩、尤虔、兪豊等 表文、馬、刀甲、硫黄等を奉ず。通事(通訳)尤虔はさきの島津氏久の遣使にも加わっていることから、この遣使も氏久によるものか?(村井1999)
1380.5
(洪武13、康暦2、天授6)
不詳 慶有等 馬、硫黄、刀、扇等を奉ず。表文無く、不誠として却下。失敗
1381.7
(洪武14、永徳1、弘和1)
不詳 如遙等 馬、方物を奉ず。洪武帝、却下する。倭寇禁圧をしないことに強く抗議。失敗
使者の「如」という字から、別源円旨(曹洞僧で、越前朝倉氏と交流があった)の門弟であり、北朝側の人間か?(橋本1998)
1386.11
(洪武19、至徳3、元中3)
不詳 宗嗣亮 表文、方物を奉ずが却下。失敗
この使節には絶海中津の弟子鄂隠が加わっており(『仏恵正統国師鄂隠和尚行録』の入明年代と符合)、北朝側の遣使か。(橋本1998)
懐良がかつて頼った肥後八代の名和氏が派遣した、とする見解もあり。(栗林1979)

 とあるように、懐良本人が確実に派遣したと思われるのは最初の遣使のみで、あとの「日本国王良懐」名義の遣使はすべて別人が派遣したことになります。
 特に北朝側の人間が関わっていたことが明らかになってきていますが、必ずしも幕府(義満)との関係は明らかにはなっていません。ただ、少なくとも、没落した懐良にはもはや明まで使者を派遣するほどの勢力は残っていなかったということになります。懐良自身は、1383年に矢部で没したとされています。

 実は『明史』にはもう一つ別に、1381年に使者がやってきて倭寇禁圧をしないことを非難する洪武帝に堂々と抗議するものがあるのですが、それについてはまたの機会に…。