室町時代とは?−室町時代史研究の現在−

 「室町時代」というと個々人によっていろんなイメージがあると思いますが、最近ではこんな研究がありますってことで、私が最近触れた著書類を紹介し、皆さんも当時についてさまざまな思いを馳せていただければ…と思います。
 ここの内容はあくまで私個人の見解に基づいたものであり、必ずしも著者各氏の意向と合致したものとは限りません。その点はご了承ください。

 浦長瀬隆著『中近世日本貨幣流通史』
 桜井英治著『室町人の精神』
 山田康弘著『戦国期室町幕府と将軍』
 鈴木敦子著『日本中世社会の流通構造』
 伊藤正敏著『日本の中世寺院』
 網野善彦著『古文書返却の旅』
 金谷匡人著『海賊たちの中世』
 鈴木公雄著『出土銭貨の研究』
 綿貫友子著『中世東国の太平洋海運』

 おまけ:戦国期の海賊衆について


浦長瀬隆著『中近世日本貨幣流通史─取引手段の変化と要因─』(勁草書房)2001年

 本書は16世紀から18世紀における貨幣流通の実態を実証的に明らかにし、貨幣使用の変化とその要因を考察するものである。
 その手法として、売券に見られる支払手段を集計することに注目している。
 構成は以下の通り。

 序章  課題と研究史
 第一章 一六世紀後半奈良における取引手段の変化─多聞院日記を中心として─
 第二章 一六世紀後半京都における取引手段の変化
 第三章 一六世紀後半近江国菅浦における取引手段の変化
 第四章 一六世紀〜一七世紀初期西日本各地における取引手段の変化
 第五章 一六世紀後半における諸制度の変化
 第六章 一六世紀後半奈良における米価・金利と悪銭流通─多聞院日記を中心として─
 第七章 取引手段の変化の要因
 第八章 中世および中近世移行期における貨幣流通
 第九章 一七世紀における米から銀への変化
 第十章 一七世紀〜一八世紀における金・銀の使用
 終章  近世貨幣流通史における諸問題


 本書は第八章までの16世紀後半を中心とした考察、そして第九章以降の、17〜18世紀を中心とした考察に大きく分けることができるが、浦長瀬氏の明らかにした最も重大な事実は、16世紀後半において、一部の地域を除いて、西日本全般にわたって銭による支払いから米による支払いへと変化している点である。細かく見れば、1560年代前半までは銭遣いであったものが、1568年頃から米遣いへと変化し、1580年代の一時的な銭遣いの後、1590年代に再び米遣い、もしくは銀遣いと変化していったというものである。

 その変化の理由について、まず米遣いへの変化の原因は、(1)中国からの粗悪銭の大量流入による悪銭流通の激化(2)諸勢力によって発布された撰銭禁令の強い拘束力により、銭に代替する貨幣が求められたこと、を挙げている。
 また1580年代の一時的な銭使用の復活は、この時激化した飢饉の影響により、米流通が停滞したためであるとする。

 また米遣いの登場により、納入年貢も銭納から米納へとシフトする動きが登場したことや、中世を通して維持された金利水準が崩壊したことなどを指摘している。

 ついで近世においては、17世紀の段階においては米遣いが残存していた地域もあったことを指摘した。また一般にイメージされる「東の金遣い・西の銀遣い」がいつ頃登場したのか、またその境界地域はどうであったのかなどについても検討を加え、その成立時期を17世紀前半とし、一旦その経済圏が成立するものの、境界地域においては徐々に併用されるようになっていた点を明らかにした。

 本書は、貨幣流通の中世から近世への移行が、渡来銭から幕府鋳造貨幣への移行をそのまま意味すると考えられてきた従来の見解を覆し、西日本においては米遣いの時期があったことを明らかにした画期的研究であり、初出以来現在においても貨幣流通史研究の基本文献として位置づけられている。しかし、論旨への疑問もいくつかある。

 中でも最も気になったのは、本書では16世紀前半までの検討がほとんど捨象されており、それゆえに、むしろ16世紀後半の特殊性が明確に打ち出せていない点である。米遣いへの移行の原因とする悪銭流通の激化は15世紀後半から既に「撰銭現象」として把握されているし、撰銭禁令についても、16世紀前半こそ最も頻繁に発布されている。しかしながら、16世紀前半までは基本的に銭遣いが維持されていた。また1580年代に激化したとする飢饉も、むしろ中世を通じて慢性的に発生していたとする見解が現在では有力である。
 一般に中近世移行期とされ、政治的にも激動の時代であったと言える16世紀後半は経済史的にどのような特殊性を有していたのか。今後はこの点の検討が必要であろう。その上で当該期の貨幣流通史の特質を探ることが求められる。とはいえ売券による支払い手段のみでは新たな進展は期待できない。浦長瀬氏の研究に学びつつも、氏とは異なる新たな手法により当時の貨幣流通の実態を探ることが必要である。


桜井英治著『室町人の精神』(日本の歴史12、講談社)2001年

 本書は講談社による日本通史のシリーズのひとつであり、対象とするのは15世紀の日本である。
 構成は以下の通り。

 はじめに─室町亭のもののけ
 第一章 神々の戦い
 第二章 「神慮」による政治
 第三章 「無為」と「外聞」
 第四章 徳政一揆
 第五章 酔狂の世紀
 第六章 下剋上の波
 第七章 京都開陣


 概説書なので要約は割愛して、読後の感想をば。
 これまで当該期の概説書として最も華々しく語られたのはとりわけ一揆に取材した「民衆闘争」の側面であった。これは1960〜70年代の日本社会の風潮、とりわけ実際に研究に寄与した研究者の思想的背景に負うところが大きかった。一方でそれと対峙する幕府の脆弱性が強固に見出される傾向も強かった。その結果、室町幕府は「日本史上最も弱々しい政治権力」というイメージが未だに根強く残っている。
 むろんこれは15〜16世紀における列島規模での戦乱状況をもたらした最大の原因が幕府の「失政」にあるという点からすれば、その責を負わねばならないだろう。しかしそのことと、幕府の権力構造について客観的な評価を下すこととはひとまず分けて考えるべきではないかと思う。
 また当時ひっきりなしに繰り返された徳政一揆について、果たして「権力の横暴に対する掣肘」としての「民衆の自立」という評価で満足して良いのだろうか。これは近年では研究者の間でも常々疑問に感じていたのではないだろうか。しかし今までの概説書ではかつての枠組みを見直すような意欲的なものはあまり無かったように思える。

 以上の点を踏まえるならば、本書は「意欲的な概説書」という評価に値するのではないかと思う。著者は以上の「違和感」を解きほぐす糸口を読者に提示したと感じた。確かに一揆が幕府の失政を発端としたとする視点については受け継がれたが、それだけではなく、人々の精神構造といったメンタルな部分にまで踏み込んだ指摘は著者の面目躍如と言えるだろう。
 これまでの概説書ではあまり触れられなかった宗教的側面、とりわけ唯一神道に関する記述に多く割かれていたのは目を見張った。近年の日本史研究において仏教思想はもはや大きな柱の一つであるが、一方で神道(神祇)思想研究については振るわない。いろいろと現実的な問題点もあろうが、これはかかる研究分野の歴史的経緯の問題もあるのだろう。そろそろ乗り越えねばならない時期にあるような気もする。
 ところで著者は時折当時の世相を現代社会に投影する。そのなかで吉田兼倶をまさに新興宗教の教祖と見立てて叙述している点は面白かった。こうした叙述は少なからず主観的になりがちとはいえ、概説書であるからにはとりあえず読者にとっては爽快感をもって受容できれば充分である。著者は読者を惹きつける装置を所々に埋め込んでいる。当時の歴史において決して重要なことではない事であっても、季瓊真蘂の湯治行の際の珍事のような、笑いを誘うようなエピソードを意図的に配置している。こうした細やかな配慮は評価したい。
 ただし時折「研究者らしさ」もあったような気がする。史料引用は読み下すなどの配慮があったものの、現代語訳が省略されていることもあって必ずしも平易な書籍とは言えない。紙幅の問題や読みやすさを追求した関係もあろうが、とにかく多数登場する「よく似た名前の人物たち」についてどこかで一括して概略を紹介するなどの配慮もあってもいいかなぁと感じた。
 これがとりわけ気に掛かったのはやはり応仁・文明の乱の記述である。この争乱は目まぐるしく状況が変化するなどまさしく複雑怪奇な様相を呈しており、読者も当時の人間関係について深い理解がないとまず混乱する。本書でももちろん配慮は見られたが、あともう一歩踏み込んで欲しかった。
 ところでこの争乱に際してかつては日野富子を主役的立場に据えた叙述が多かった。ところが本書では日野富子が登場することは少なく、「富子の視線」を採らないばかりか、意図的に排除していた印象を持った(「細川勝元の視線」を重視していたように思われる)。まさにこの争乱は「理由なき大乱」と著者が評価するように、争乱の規模に相反して相応の根拠に欠けた要素が大きい。とはいえ研究者はその理由を探し求めねばならない悲しい存在であって(笑)、その際にクローズアップされたのが日野富子であった。贅沢な要求かもしれないが、こうした研究史の経緯をいかに乗り越えるのか、もう少し著者の意見を聞きたかった。
 ともあれ感想を一言で言えば「面白かった」。読む楽しさを維持しつつ当該時代史研究の到達点をほぼ余すところ無く網羅している点では、大きく評価できる業績ではないかと思う。


山田康弘著『戦国期室町幕府と将軍』(吉川弘文館)2000年

 本書は以下のように構成されている。

 序にかえて
 
第一章 明応の政変直後の幕府内体制
  はじめに/第一節 政変での御台富子と伊勢氏/第二節 明応年間の幕府内体制/第三節 明応の政変の意義/おわりに
 
第二章 山城国衆弾圧事件とその背景
  はじめに/第一節 国一揆と守護伊勢氏の関係/第二節 明応の政変直後の伊勢氏と国衆/第三節 国衆弾圧と伊勢氏・京兆家/おわりに
 
第三章 文亀・永正期の将軍義澄の動向
  はじめに/第一節 将軍義澄の諸政策/第二節 将軍義澄を補佐した人々/第三節 将軍義澄の限界/おわりに
 
第四章 戦国期の政所沙汰
  はじめに/第一節 政所沙汰の案件処理方式/第二節 裁決指示奉書の機能/第三節 御前沙汰と政所沙汰の「賦」/第四節 戦国期の糺明指示奉書/おわりに−頭人伊勢氏の没落−
 
第五章 戦国期の御前沙汰
  はじめに/第一節 御前沙汰の案件処理方式/第二節 内談衆と手日記/第三節 奉行衆の意見状/おわりに
 
終章−補足と課題−
 あとがき


 標題や目次を見てもわかるように、本書は明応2(1493)年に細川政元が将軍足利義材(義稙)を失脚に追い込み政権を握った「明応の政変」やその後の幕府政治の姿を詳細に検討したものである。著者も触れているように、この時期の将軍といえば「傀儡」「無能」といったイメージが付きまといがちであるが、かといって将軍の実像が必ずしも明らかになっているわけではなく、イメージ先行の感が強い。著者本人もそれに「後ろめたさ」のようなものを感じておられたそうで、それが研究の出発点となっている。具体的には足利義澄〜義晴執政期が念頭に置かれている。

 まず第一章では、明応の政変の後、細川政元が専制を敷いたと考えられている(「京兆専制」)幕府政治の実像を再検討している。そもそも実際に明応の政変とは「細川政元のクーデター」であったのか?という疑問について著者が新視点を呈示する。つまり、足利義政御台でありながら幕府の事実上の最高権力者たる日野富子と、義政期に確立した将軍直臣衆主導の幕府政治のトップに君臨する政所頭人伊勢氏の意向がこの政変の「黒幕」的な役割を担っていたのではないか…ということである
 富子らは当初は義稙を支持していたものの、政変の直前にあっては義澄を支持したことで(「公方御座之在所」を富子が義澄に譲ろうとしたことが火種となる)、幕府を牛耳る直臣団が一斉に義澄派に寝返ったことが政変の要因となったことを、当時の情勢を詳細に紹介されながら論じている。また、政変後の幕府は細川政元の傀儡に甘んじたわけではなく、政所頭人伊勢貞宗を中心として実際に政務をこなしていたことが指摘されている。政元はむしろ「専制」化への志向が薄かったのではないか、としている。

 第二章では、政変後にあって幕府の事実上の「ナンバー2」であった伊勢貞宗(山城国守護)が国一揆と細川京兆家との闘争に関して大きな位置を占めていたことを指摘する上で、山城国一揆をめぐる情勢を取り上げている。この時期の幕府にあって、膝下に位置する山城国は重要な財源であったが、この時期には有名な国一揆が勃発していた。かつては国一揆の“自治”と幕府とは対立関係にあったと考えられてきたが、政変前は“自治”地域にも「守護役」が賦課され、それが徴発されていたことが明らかになっている。それが政変後になぜ「反幕府・反守護伊勢氏」となっていったのか。本章ではこの点について再検討を試みている。
 政変前は、国一揆を構成していた国衆が細川京兆家や伊勢氏と被官契約を結び、守護の徴発に特段の反発を見せなかったために衝突が生じなかった、とされている。しかし、政変直後に伊勢氏が守護になると、国一揆と深刻な対立が生じ、武力衝突が発生している。これについて著者は、本来は寺社本所領であった所領にまで伊勢氏が介入たことに対して国衆が強硬に反発し、さらには守護代として大和の豪族古市澄胤を起用したことで対立が深まった、と指摘している。
 結局、国一揆は武力弾圧によって崩壊へと至るのであるが、これについては、国衆の多くが被官関係を結んでいた細川京兆家が目立った援助をしなかったことにあるとされている。しかし、京兆家内部でも深刻な内訌が見え始めることによって充分な対策を取ることが出来なかったのであった。また、富子に近い重臣伊勢氏に対する「遠慮」も働いたのではないかと推測している。ところが一方で、結局は守護代に京兆家内衆を起用する体制となる。義稙派の巻き返しが懸念され、山城国に外部勢力が頻繁に侵入する事態になったことで、伊勢氏側は京兆家の武力を頼らざるをえなくなったためであった、とする。

 第三章では、義澄が細川政元と激しく対立する時期の情勢を追っている。義澄が成長するに随い、自らの意志を強く主張しはじめ、また、直臣団の重用の姿勢を見せるようになった。数々の政策方針を巡って政元と対立が生じるようになった、とされている。しかも義澄は京兆家を抑圧するような政策も取り始めたことで、政元は剃髪や諸国漫遊をほのめかすなどと、数々の恫喝を行うまでになった。この時期の義澄の政策は、「将軍としての地位の安定化と基盤の整備」「京兆家に対する抑圧」という二つの意義を持っていた、と著者は指摘する。しかし、義澄は政元の数々の恫喝を無視することは出来なかったし、政元も義澄と手を切ることはしなかった。それは、政権は京兆家の武力的保護があってこそ維持されるものであり、また、政元にとっても、義澄を支えることによってこそ畿内での権力基盤を維持できるという相互依存の関係にあったからである。
 しかし、京兆家の内訌は熾烈を極めるようになり、結局永正4(1507)年に政元は養子の澄之一派に暗殺された。これで大混乱となり、足利義稙がそれに乗じて大内義興とともに上洛。京兆家新家督の細川高国も義稙を支持する始末となり、義澄は出奔を余儀なくされて義澄政権は崩壊する。出奔に相伴した直臣衆や公家衆にどのような人物がいたのかが考察されているが、以上の検討から、義澄に限らずこの時期の幕府は、有力守護との協調があってこそ維持されるものであった、と著者は指摘している。著者は、「抑圧する対象である京兆家に一方では支えられなければならないという矛盾を抱えて」いる点にこの時期の幕府の限界があったとする。

 第四、五章はこの時期にあっても裁決を幕府は行っており、そのシステムの解明を試みるものである。「政所沙汰」では、訴人はまず政所代に訴状を提出し、その後政所頭人が糺明許可を出した場合、訴人が担当奉行人に提出して受理、審議される。この手続きを「賦(くばり)」と言うが、審議を奉行人の「内談」によって行われる場合、政所頭人はそれに対する「意見」をすることになる。ただし、この「意見」が判決を必ずしも左右したわけではなかったようである。しかし、「内談」は開催回数が限られていたため、それだけでは案件処理が滞る懸念があったため、政所頭人が独自に裁決を行う事例もあったことを著者は指摘する。このように、この時期における政所頭人(伊勢氏)の権力は並々ならぬものであった。しかし、そのためにかえって足利義輝期になると頭人伊勢貞孝は義輝と激しく対立するようになった。また、伊勢貞孝と裏で支えていた三好方(松永久秀)との同盟関係も突如として破綻し、永禄5(1562)年に貞孝は坂本で敗死。これによって伊勢氏の没落となった。その後政所沙汰を掌中にした義輝の権力伸張によって三好方と対立、義輝もまた暗殺されたのであった。
 最後は義晴による御前沙汰についてである。政所沙汰では売買地や金銭貸借関係の案件が処理されていたが、それ以外は将軍自ら決裁を行う御前沙汰で処理されていた。その際の手続きやそこで登場する「手日記」と呼ばれる文書の性格について検討を加えられている。その中で、側近からなる内談衆による案件の将軍への上申を経る件について、将軍は必ずしもそれを鵜呑みにするわけではなく、時として内談衆の結論を却下する場合もあったことが指摘されている。
 ところが、このような内談衆の上申とは別に、幕府奉行衆からも「意見」という形で上申されていたことが知られているが、この「意見」については将軍も無闇に却下はしなかったことが指摘されている。これについて著者は、凋落傾向にある幕府の維持のためには「上意の濫発」を制約する必要があるという思想が上層部には存在しており、世襲法曹官僚である奉行衆が導出した見解=「意見」を尊重することが肝要であるという認識が幕府内に広がっていたのではないか、としている。

 以上、長きに亘って本書の内容を紹介した。ともあれ、この時期の本格的な政治史研究はあまり多くはないので、それだけにかえってイメージ先行の風潮があることは否めない。本書がそのイメージを打破するだけのインパクトを有するかどうかを断ずることはできないが、少なくとも実証的手続きを経た研究に触れた上でこの時代の将軍を評価する必要があるのではないだろうか。まだまだ一般レベルにこうした成果が浸透することは先のことかも知れないが、本書の成果はきっと無駄にはならないだろうと思う。
 …ただ、本書を通して読んでみての感想としては、この時期の政治史を実証的に探ることには少なからぬ困難があることを実感した。実に論理的・説得的に見解を表明しておられるのではあるが、特に第一章〜第三章ではもっとも核となる結論部分を明確に裏付ける史料が乏しく、「押し」が弱いような印象はあった。

ニしては、この時期の政治史を実証的に探ることには少なからぬ困難があることを実感した。実に論理的・説得的に見解を表明しておられるのではあるが、特に第一章〜第三章ではもっとも核となる結論部分を明確に裏付ける史料が乏しく、「押し」が弱いような印象はあった。