
田舎での夏休みも終わりに近づき、さて明日は家に帰るという日の夜、弟と地元の居酒屋に行った。
カウンターの奥では、マスターがいつもどおりの笑顔を浮かべ、焼き台にはいつもどおりの焼き鳥が煙を上げているが、まぁ、この辺の詳しい話は「呑兵衛日記」にまかせることにしよう。
マスターにこの夏の鮎の情報を聞いた。
「今年は鮎が小さい。解禁の時に釣れたくらいで後はだめだよ」とのこと。
その代わりカジカを大量に釣って来たらしい。
マスターとそんな釣り談義をしていると弟も乗ってきた。
いつ、なんとかいう沢に入って尺岩魚を何匹釣ったとか、この沢ではどんな事件が起こったなど、大笑いするような話から、やはり釣りと言うのは自然と隣り合わせで危険なんだな、というようなことまでいろんな話をしてくれた。
田舎を離れて都会(の近く)で暮らす身としてはうらやましい限りである。
その中で、爆笑し自然の厳しさを感じさせてくれた一話を紹介しよう。
弟の古くからの友人にコバヤシケンちゃんという青年がいる。
彼はボクもよく知っているし、昔、何度か飲んだことがある。
明るく優しい気立てのよい青年である。
弟と彼はよく共に釣行する機会が多いようで、事はある沢に仲間と岩魚を狙いに行ったときの話しである。
弟とコバヤシケンちゃんを含めた釣仲間は、ある沢に岩魚を狙いに出かけた。
渓流の釣りは、下流から釣りのぼり、上流の水源近くまで行くことがある。
途中、どんな岩が立ちふさがろうが、どんな滝が現れようが、その上流に求める魚がいる限りは、とことん追い求めていくのが渓流マンの美学なのだ。
ところが実際はそんなにカッコイイもんじゃない。
ボクなんか、立ちふさがる岩があらわれたら、乗り越えようといったん努力するものの無駄だと分かったら、むははは、と誰にともなく笑ってごまかし、おもむろに缶ビールなんぞを取り出し、釣ったばかりの岩魚(があれば)を数匹炙ってかっくらい、気分がよくなったところで下山してしまうのだが、彼らはそんなことはしなかったようだ。
そこは通称「ケンちゃん返し」と言われる難所らしい。
当然「ケンちゃん」とは「コバヤシケンちゃん」のことで、その難所の名称は彼らだけに通じる暗号のようなものだ。
「ケンちゃん返し」の情景を描写すると、このようなものであるらしい。
川はいきなり狭く流れは早急になり、左右の岸は足場がほとんどない大きな岩だらけ。
そこを通り抜けるには、岩場をへずって(ロッククライミングのように、岩の突起を手がかり足がかりとして目的の場所に到達すること)いくしかない。
しかも、へずるにもかなりの難所となっているらしく、右手、左手、右足、左足のうち3つを岩場に固定し、もう片方を移動する方向にもっていき、それを繰り返して移動していくようだ。ロッククライミングだか山登りの専門用語で三点確保というそうだ。
さらに「ケンちゃん返し」は手がかり・足がかりをする場所がきちんと決まっていて、右手用の手がかりに左手を持ってきてしまうと、最後のポイントでどうしようもなくなり、後退するか川にダイブして仕切りなおすしかないという。
「ケンちゃん返し」では常にケンちゃんが先頭にたってへずり始める。
ところが、手かがり・足がかりを必ず左右間違えるのだそうだ。
弟たちが教えてあげても、いかんせん果敢に立ち向かっていく。
ケンちゃんの後ろには弟以下釣仲間が続く。
三点確保を基本に大のオトナがデカイ岩をへずっている様は、まるで梅雨時期の窓ガラスに雨蛙がへばりついているような感じであろうが、本人たちは必死なのでちょいと黙っておこう。
ケンちゃんが「ケンちゃん返し」の最後のポイントに来たとたん、へずりがピタッと止まった。
左手が探している岩は、すでに左足が踏んでいる。本来左足が踏むべき岩はそのさらに下にあるのだが、とき既に遅し。
後にひこうも、後続の釣仲間の渋滞にはばまれ引くことも出来ない。
さんざん迷ったケンちゃんは、後続の仲間を振り向いた。
引きつった顔が、いきなり笑顔に変わる。
その表情を理解した仲間たちの顔が逆にひきつる。
「おい、ケンちゃん、やめろ!!」
ケンちゃんはその笑顔のまま、岩場からフッとダイブすると、激流の中に消えていった。
釣り仲間たちは心配し「ケンちゃん返し」を抜けたあたりでしばらくケンちゃんを待っていた。
するとずぶぬれになったケンちゃんが、一生懸命「ケンちゃん返し」をへずってくる。
「もう少しだ。がんばれ!」仲間が必死に応援するが、やはり最終ポイント地点で立ち止まってしまう。
逡巡した厳しい表情がが、いきなり仲間のほうに向き「ニッ!」と笑う。
仲間たちが引き止めるまもなく、ケンちゃんの姿は再度急流の彼方に消えてゆくのであった。
酎ハイがなくなっていることを忘れるほど、ボクと弟は爆笑しながら話し、時のたつのも忘れていた。
「今度、俺もケンちゃんと一緒に連れて行ってくれよ」と頼み込むと
「いいけどよぉ、兄ちゃん返しにならないように気を付けろよ」と、弟は唇の片方だけで笑った。
そういうのを「ホクソエム」というんだろうな、と心の中で思った。