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「経済学批判」ノート


第1篇第1章 商品

1.使用価値と交換価値

「批判」は、まず、使用価値の考察から、論を進める。
使用価値は、端的に言えば、生活資料(生活手段)である。「使用価値としての使用価値は、経済学の考察範囲外にある。」経済学的に見ると「直接には、使用価値は、一定の経済的関係である交換価値が、それでみずからを表示する素材的土台なのである。」(交換価値は、経済的関係であるから、関係概念として把握しなければならない。使用価値は、その関係を担う土台である。)
これに対し、「交換価値は、使用価値がたがいに交換されうる量的比率としてあらわれる。」だから、使用価値の差異を無視して、どんな使用価値とでも交換される。つまり、商品としてみるということは、目に見える使用価値の実在の上に、交換価値と言う目に見えないものを、二重写しに見ているということである。
では、この交換価値の実体はなにか。
「諸商品は、・・・等価物として通用し、・・・おなじひとつのものを表示しているのである。」この同じひとつのものは、「対象化された労働」以外ではない。
 この次に、交換価値を生み出す労働の性格が、議論されている。
異なった使用価値を生む出す労働は、「質的に違った、活動の差異」をもった労働である。金、鉄、小麦、絹を生み出す「金を掘り出すこと、鉄を鉱山から採掘すること、小麦を作ること、そして絹を織ることは、たがいに質的にちがった種類の労働」であり、それぞれ特殊な労働である。一方、交換価値を生み出す労働は、「同じ形の、無差別な、単純な労働」であり、「労働する者の個性の消え去っている労働」であり、一言で表せば、「抽象的一般労働」である。すなわち、それぞれ特殊な労働から抽象して把握した労働という意味である。言い換えれば、使用価値と交換価値の関係は、労働の特殊性と一般性の関係に還元されている。
「労働の量的定在は、労働時間である」から、「商品の使用価値のうちに対象化された労働時間は、その使用価値を交換価値たらしめ、したがって商品たらしめる実体であるとともに、その一定の価値の大きさをはかる。」交換価値は、「一定量の凝固した労働時間」である。 この労働時間が「価値を形成する実体」である。

次に、「交換価値が労働時間によって規定されている」ということを、更に3つの視点から詳論する。

@ 諸労働の、無差別な、一様な、単純労働への還元
特殊な労働の抽象によって把握される抽象的労働というのは、単に人間の頭脳によって把握された理論的なもので現実には起こっていないのではないのか、この問いに対する答えがここで議論される。「商品の交換価値を、そのうちに含まれている労働時間で測るためには、さまざまな労働自体が、無差別な、一様な、単純な労働に、要するに質的には同じで量的にだけ差異のある労働に還元されていなければならない」が、この理論的な還元過程が「社会的生産過程のうちで日々行われている」のであり、実際に現実の中にこの抽象過程が現れており、ブルジョア社会に現れていることを指摘している。
「交換価値で表示される労働は、一般的人間労働という表現を与えることができる」労働である。それは、「ある与えられた社会のすべての平均的個人がおこなうことのできる平均労働」「平均的個人の単純労働」であり、「どんな統計からでもたしかめうるように、ブルジョア社会のあらゆる労働のうちとびぬけて大きな部分をなしている」。
労働の特殊性が捨象されて、すべてが「一般的人間労働」として扱われ、「平均的個人の単純労働」のレベルから把握される。これが、「交換価値で表示される労働」である。「労働するさまざまの個人が、むしろ同じ労働の単なる諸器官としてあらわれる」のである。
更にその労働は「生産に必要な労働時間」である。

A 交換価値を生み出す労働の社会的諸規定
ここでは、特殊な労働相互の関係=労働の社会的関係ということが取り上げられている。
「各個人の労働は、交換価値で表示される限り、同質性というこの社会的な性格をも」ち、「更に交換価値にあっては、一人一人の労働時間が直接そのまま一般的労働時間として現われ、また、個別化された労働のこの一般的性格が、その社会的性格として現われる」。

ここでいう特殊な社会とは、「個人の労働が私的労働となること、および個人の労働の生産物が私的生産物となる」という社会である。一言で言えば、私的所有の社会である。
こういう社会では、個人の労働の生産物は、その労働した個人の所有物となる。農夫の作った小麦は農夫のものであり、パン屋の作ったパンはパン屋のものである。しかし、農夫はパンを食わなければ生きていけないし、パン屋は小麦がなければパンが作れない。そこで、小麦とパンの交換が必要となる。小麦とパンを商品として市場に出さなくてはならない。そこで、交換価値が生まれるわけである。
商品を交換し合うということは、交換価値に結晶化している労働を交換し合うということである。個々の人が行う労働は、それぞれ特殊な、異なった労働であるから、交換し合う労働というのは、それぞれ特殊な労働を抽象した労働の共通性である。商品を交換し合うというだけの個人のつながりを前提する社会関係の特殊性がこれである。

人は、場所を越え時代を超えて、例え何ら個人的な繋がりがないように見えても、労働を交換し合うし、交換し合わなければならない存在である。他人同士という対立物が、媒介関係を発展させて、お互いの(特殊な)労働を交換し合い、他人の労働を自己の中に取り込む関係といってもいいだろう(これは弁証法的論点からすれば、人間相互の相互浸透である。)。これは、どういう社会であっても変わらない。しかし、労働を交換し合う有り方(=生産様式)は、時代によって変わってきた
ここで、個人に割り振られる労働のあり方を、論理的に次のように分類してみよう。
 まず、一人の人間が、いくつかの異なった種類の労働を行い、その産物も自己消費する場合。これは自給自足の生活であり、島の中のロビンソンである。このような人間の集団を考えると、その集団の内部で、それぞれ人間同士が孤立していて、自給自足の生活を送っている。生産物は、交換されていない。
 次に、いくつかの異なった生産活動とその産物の消費が違った人間に割り振られているが、一方は生産のみを行い、もう一方は消費のみを行う場合。この場合、このような人間の集団の内部では、生産物が、生産する側の人間から、消費だけをする人間の側に、一方的に流れる。あるいは、生産する人間が消費する人間のところに直接行って、生産活動を行う。これは相互の交換ではなく、したがって生産物は商品とならない。
この集団の例として、中世を挙げている。中世は、同職組合のような団体的動産所有が存在する社会であるが、賦役や現物給付がある。賦役は、労働を一方的に提供させられることであり、現物給付とは、生産物を一方的に提供させられることである。生産物は行き先が決まっており、したがって、消費先が決まっている生産物は、商品ではない。
ここでは、「労働の一般性ではなく、特殊性が社会の紐帯となっている」。これは、分業が特殊な身分として固定されており、各人の労働は、身分として誰の目にも社会的に明らかになっている。生産物の交換も、自由になされているのではなく、身分から身分へと一方的に流れている。ここでは、社会的分業が発展しているが、交換価値は生み出していない、少なくとも、主要ではない。
次に、生産と消費が違った人間に割り振られているが、お互いに平等に生産と消費を行う場合。
この場合、更に原理的に二つに分かれる。一つは、それが計画的に行われる場合。もう一つは、無計画に行われる場合。
まず、計画的に行われる場合として、家族内分業が挙げられる。「農村的家父長制的な工業」=家族内分業。家族も小さな人間集団である。男と女との自然的な分業に基づいて、家族共同体という社会のなかでは、生産に自然発生的な計画性があり、生産された生産物は、すべて家族内で自給自足的に消費される。その家族社会の中では、糸やリンネルが家族内の「社会的生産物」である。しかし、その生産物は、例えば他の家族と交換される必要がなく、商品を店頭に並べるといったような必要がなく、したがって交換価値という性格を持っていない。「いわば、自家需要のために、家族のうちの女達は糸をつむぎ、男達は布を織っていた農村」では、紡績労働や織布労働は、生産物に労働を対象化しても、生産物の中に価値を形成してはいない。この場合の労働時間は、価値に結晶していない。つまり「上衣を、その交換価値を生産することなく生産していた。」
歴史のあけぼのに見られるような、自然発生的な形態での共同労働」。ここでは、おそらく部族社会が想定されているのであろうが、ここでも、家族内分業と同様に、各人の労働は、直接的な結びつきのなかにあり、交換価値は生まれていない。
最後に、無計画に行われる場合。無計画とは、各個人が生産者でもあり消費者でもあるという関係であり、各人はそれぞれ特殊な分業を割り当てられている集団でありながら、それぞれ勝手に生産を行い消費を行うという状況である。これが、商品生産の前提する社会であり、「職業選択の自由」が保障される社会である。
私的な多様な生産活動は、多様な商品を生み出す。商品の中に結晶化している労働は、商品が交換されるという事実がしめしているように、同質、一般的性格であり、それが社会的性格なのである。
最初のロビンソンと、この最後の人間の集団以外の集団では、生産と消費に関して集団的に何らかの調整と取り決め がなされているはずである。これが、集団すなわち共同体 の役割である。生産物が商品になるのは、労働が私的な労働であるからである。労働が私的でない、つまり、共同体的な労働であれば、生産物は商品とならない。その生産物は、共同体の所有する生産物であろう。共同体内部では、その生産物は、ある個人の所有にはならず、共同体外部でのみ、その共同体の商品となる。
以上のように、「生産の前提になっている共同体」の存在が「個人の労働が私的労働となること、および個人の労働生産物が私的生産物になることをさまたげ」ているのである。だから、こういう自然発生的な共同体がまったく存在しない社会では、私的労働のみがばらばらに存在し、すべての労働生産物は、商品として店頭に並べなければならないことになる。

「交換価値を生み出す労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関係が、いわばあべこべに、言い換えれば物と物との関係として表示されるという点である。」例えば、紡績工と職布工が、直接話し合って生産調整を約束して生産し、それぞれの生産物である100ポンドの亜麻糸と100エレのリンネルを約束したとおりに交換するとすれば、人と人との社会関係が、物と物との関係として表れるということはない。そうではなく、それぞれが勝手に生産し、自由に交換し合うという契機を通して初めて、紡績工と職布工が相対するからこそ、人と人との社会関係が、物と物との関係として表れるのである。
100ポンドの亜麻糸と100エレのリンネルは、それぞれ、紡績工と職布工の労働が固定化=対象化されたものである。交換価値は、私的な特殊な労働相互の関係から抽象的に把握した一般労働の側面(生産関係)が、それぞれの労働生産物の中に固定化=対象化されたものである。これに対し、使用価値は、それぞれの労働(力)の特殊性の側面が対象化されたものである。つまり、私的労働の社会での生産力と生産関係が労働生産物に対象化されたものが、使用価値と交換価値ということである。いいかえれば、私的所有の下での生産力と生産関係の矛盾の対象化が、商品の中の使用価値と交換価値の矛盾なのである。

B 使用価値と交換価値をうみだす労働の違い
「使用価値を生む出す労働は、形態と素材のことなるにしたがって無限にことなった労働様式にわかれる具体的な特定の労働である」。
それに対し、「交換価値を生み出す労働は、抽象的一般的かつ同質な労働」である。この「労働の特殊社会的な形態の対象的表現」が交換価値である。この特殊社会こそが、人と人との労働関係を、「抽象的一般的かつ同質な労働」としているということになる。
使用価値と交換価値の関係が、労働の特殊性と一般性の関係に還元されている。

人間は、そのままでは、自然に適合していない。人間は、自然に働きかけ、自然を人間に都合のよいように変え、変えられた自然を人間の生活に取り込むことによって、初めて自然に適合できる。ここでいう人間とは、過去から未来までのすべての人間を総括し抽象的なレベルで取り上げたものであって、自然も同じレベルで考えている。この自然と人間のあり方は、時代を超えて同じであり、その有様が時代を経るに深く発展してきたのである。この観点から労働を把握するなら、それが「人間と自然とのあいだの素材転換」としての労働である。自然と人間の相互浸透という論点からすれば、使用価値は、自然の一部を切り取ってそれに人間というレッテルを貼ったもの、自然の一部に人間の側面を加えたもの、自然の一部の中に自然と人間との矛盾を背負わせ定立させたもの、ということができる。

資本論は、商品の分析から出発する。商品というものに存在する矛盾、使用価値と価値(交換価値)の矛盾から出発する。
そもそも原点となる根本的矛盾は、生産力と生産関係の矛盾である。資本論は、使用価値と価値の矛盾から論を出発させるが、それは、生産力と生産関係の矛盾が、商品という形態の中へ形を変えて出現したものということができる。最初の矛盾が、ステージを変える毎に、異なった矛盾へと展開し、それを論理的に追っていく、これが弁証法論理である。

商品という観点から把握される場合、生産力は特殊性の範疇で把握され、生産関係は普遍性(一般性)の範疇で把握されている。
 生産力は、労働の生産力の意味で、それぞれ特殊な労働の生産力を指している。具体的な物品、例えば上着であれば上着という特殊な物品を生産する労働の能力であり、リンネルであれば、リンネルという特殊な物品を生産する労働の能力である。上着職人の生産力が発揮されて、上着が生産され、靴職人の生産力があって始めて、靴が市場に出回る。上着職人の生産力が上がれば、上着工房や上着生産工場の生産力が上がれば、市場に出る上着の量が増え、生産力が下がれば、市場に出回る上着の量が減る。
上着やリンネルや小麦等が商品となって市場に出る場合、これを使用価値と呼ぶ。従って、商品を取り上げる場合、それぞれの生産力の高低は、それぞれの使用価値としての商品の量の多少に表れてくる。上着の生産力は、その時の市場に出回る上着の量に表れてくる。そういう意味で、生産力自体は目に見えないが、商品の使用価値としての側面に、目に見える物品という形態で表される。一方、生産力の多様性は、使用価値の多様性に現れてくる。生産力は使用価値に対象化されている。

一方、生産関係は、労働の生産関係の意味で、それぞれ特殊な労働の相互の関係を指している。商品の中に現れる生産関係は、価値の形態を取っている。
上着の労働が上着を生み出し、リンネルの労働がリンネルを生み出す。その時の上着労働やリンネル労働の関係を普遍性(一般性)のレベルで把握すれば、それぞれ特殊な労働、上着労働や、小麦労働とか、そういう特殊な労働を捨象した「人間労働一般」「抽象的人間労働」が考えられる。上着労働もリンネル労働も、抽象的一般的人間労働という抽象のレベルでは、すべて同一である。職業や国や人種は違っても、人間労働としては、みな同じということである。これが、労働の生産関係である。
それぞれの特殊な労働によって、それぞれ特殊な商品が生み出されるが、それぞれ特殊な商品の中には、なにか同一なものがある。その同一なものが、価値(交換価値)であるが、それは、それぞれ特殊な労働の中にある同一性から起因したものである。すなわち抽象的一般的人間労働が、対象化されたもの、それが価値なのである。すなわち、生産関係の対象化である。
例えば、一着の上着と20エレのリンネルが価値としては同じとすると、一着の上着生産労働と20エレリンネル生産労働の労働時間は同じである、つまり、それぞれの特殊な労働の特殊性を捨象した抽象的一般的人間労働として同じ量だということである。これが、一着の上着と20エレのリンネルが、同じ価値を持つという意味である。従って、一着の上着と20エレのリンネルは、互いに交換できる。つまり、同じ交換価値を持つ。

2.価値と使用価値、生産関係と生産力との関係

生産力は、個々人の特定の労働として存在する。労働の生産力が増大すれば、同じ時間で、より多くの生産物(使用価値)を生産できるようになる。しかし、逆に、労働の生産力が減少すれば、同じ時間ならば、少ない使用価値しか生産できない。すなわち、生産力の大小は、対象化された形態では、使用価値の量の大小となって表れる。
一方、生産関係は、個々人の労働の相互の関係である。異なった労働の相互の関係は、抽象的一般労働という同質な労働の時間的差異となって表され、それは、対象化された形態では、異なった使用価値の相互の量的な差異、すなわち、交換価値の大小となって表れる。ただし、使用価値が交換されるという条件下において、すなわち、使用価値である生産物が生産者の私的所有であるという条件の成立する社会において、である。
生産関係と生産力とは、相対的に独立している。生産力が増大して小麦とリンネルが共に多く生産されても、生産の難易が両者に一様に作用すれば、生産関係である小麦とリンネル相互の価値の比率は変わらない。反対に、生産力が変わらなくても、価値関係、小麦とリンネル、コーヒーとリンネルの交換比率は、相互に異なっている。

この節では、生産力と生産関係の関係が、商品同士の中にどのように反映されるかが議論される。まず、一個の商品にどのように反映されるか、1商品の交換価値が生産力とどういう関係にあるかが取り上げられる。生産力の増減が、小麦とリンネルに別々に作用すれば、交換価値は「労働の生産力の増減に反比例して増減する。」

そこで、次に、1商品を、他の商品との媒介関係の中においてみる。すなわち、商品同志を等置する。そうすると、「一般的社会的労働時間の対象化」としての交換価値の規定が現われてくる。
「この商品の交換価値は、他の商品の使用価値のうちに自らを表現する。等価物というのは、実は、ほかの商品の使用価値で表現された1商品の交換価値のことである。」
交換価値というのは、もともと、諸商品をそれぞれが交換することができる一定の量で等置したところから、抽象して把握したものである。交換価値というものが、なにか使用価値のほかに別個に存在しているわけではない。あくまで、異なった商品同士の、使用価値同士の関係を言っているだけである。ある商品の交換価値は、その商品自身の使用価値と他の商品の使用価値の交換可能性を表現しているだけである。だから、ある商品の交換価値を表現しようとすると、あくまで、それ以外の商品の使用価値の一定量で表現することしか、できないのである。1エレのリンネルの交換価値は、2ポンドのコーヒーという使用価値の一定量でしか、表現できないのである。これが、等価物ということである。この等価物という表現のうちに、これが比率であるということが示されている。
更に、他の商品を考えに入れると、「この単一の商品の交換価値は、・・・あらゆる他の商品の使用価値がその等価物となる無限の多数の等式において、はじめてあますところなく表現される」ということになる。なぜなら、各商品とも、「一般的労働の対象化」としての価値を含んでいるからである。すなわち、この無限の比率においてはじめて、その商品の交換価値があますところなく表現される。
「1商品は、こうしてその交換価値をほかのあらゆる商品の使用価値ではかるとともに、逆にほかのあらゆる商品の交換価値は、みずからをそれによってはかったほうの1商品の使用価値ではかられる。」こうしてその1商品は、「価値の尺度」となる。すべてのリンネル以外の商品は、その交換価値をリンネルの一定量で表現されるのである。
ここには、交換価値の論理的な発展がある。量が比へ、比が尺度へ、展開されたのである。これはまた、使用価値と交換価値の矛盾の展開する運動の中で、尺度として貨幣がうまれてくる論理をあらかじめ示している。 「交換価値としては、どの商品もあらゆる他の商品の交換価値の共通な尺度の役をつとめる排他的な1商品であるとともに、他方では、他のそれぞれの商品が多くの商品の全範囲のなかで直接にその交換価値を表示する場合の、その多数の商品のうちのただひとつにすぎないのである。」

次に、先に取り上げた1商品の交換価値と生産力との関係が、他の商品との関係の中に置かれた場合にどういう関係にあるかが取り上げられている。特殊な生産力の多様さは、「その交換価値がみずからを実現している等式の系列が長いか短いか」に表現されている。
一方、「1商品の実現された交換価値、つまり他の商品の使用価値で表現された交換価値は、それ以外のすべての商品の生産に用いられる労働時間の変化する割合によっても左右されざるを得ない。」つまり、商品の交換価値は、他の商品の使用価値によって表現されるので、商品同士の交換価値は、媒介関係に置かれており、生産力の増減が個々の商品に別々に作用すれば、必要とする労働時間の大小も別々になり、「諸商品の価値は、それらが同じ労働時間で生産されうる比率によって、規定される」という結論が導き出される。
この後に、二つの商品AとBの交換価値が、労働時間の変化によって、どのように影響されるかが議論されている。こうして、生産力と生産関係が、使用価値と交換価値に転化される形態が示されたのである。

3.現実的な交流作用である交換過程

いままでは、使用価値と交換価値を「これらの側面のひとつひとつは、それ自身として考察」した。ここからは、「それらがたがいに関係しあう仕方、それらの交互作用」(エンゲルス「批判」書評)を扱うことになる。
「商品同士の現実的連関」である交換過程に入る。いままでは、理論的に商品の二つの側面を取り扱ってきただけである。この現実的な商品交換という過程において、人が商品を交換するということから生ずる問題に直面する。

ここで、商品所有者が「商品の定在」として、「交換過程の意識的な担い手」として現れることに注意しなければならない。意識的担い手とは、実体的人間が、商品の意識的な表現者として現れているということであり、彼の意識の内容は、商品の反映である。これは、「人間の社会的存在がその意識を規定する」という表現と通じている。
「これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの物にやどす人として、互いに相対しなければならない。・・・どちらもただ両者に共通な一つの意志行為を媒介にしてのみ、自分の商品を手放すことによって、他人の商品を自分のものにするのである。それゆえ、彼らは互いに相手を私的所有者として認め合わなければならない。契約・・・は、・・・経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である。・・・人々はこの経済的諸関係の担い手として互いに相対する・・・」(「資本論」)
「自分たちの意志をこれらの物に宿す」というのは、法的に所有権を持っているということであり、「彼らは互いに相手を私的所有者として」、商品所有者として認めるのである。そこで、互いの商品の交換は、互いの所有する商品の所有権の移転であり、商品交換の契約は、「経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である」。(ヘーゲルの法理論の物件、所有、譲渡を参照)

商品としては、まさに使用価値と交換価値との直接の統一である」。そこで、商品を直接に交換、すなわち、物々交換しようとすると、以下のような矛盾が生ずることになる。
商品は、「その所有者にとっては、それはむしろ非使用価値であり、・・・単なる交換手段である。」「だから、使用価値としては、それはまず、他の人にとっての使用価値にならなければならない。」しかし、
@「使用価値として実現されるためには、交換価値として実現されなければならない。」
 「商品は一定量の労働時間がそれに費やされている限り、したがってそれが対象化された労働時間である限り、確かに交換価値である。けれどもそれは直接そのままでは、特定の内容を持つ対象化された個人的労働時間であるにすぎないのであって、一般的労働時間ではない。だから商品は、・・・これからそれ(交換価値)にならなければならない。」
A「みずからを使用価値として証明することによってのみ、はじめて交換価値として実現されうる」。
 更にB「使用価値としての商品の全面的な脱却においては、その特殊な属性によって特定の欲望をみたす特定の物としてのその素材的差異におうじて、諸商品はたがいに関連しあう。」C「だが商品が交換されうるのはただ等価物としてだけであり、・・・商品の使用価値としての自然的な属性についてのいっさいの顧慮・・・はまったく消え去ってしまっている。」「だから同じ関連が、一方では本質的にひとしくただ量的にだけ異なる大きさとしての諸商品の関連でなければならず、・・同時に他方では質的に異なるものとしての・・・簡単にいえば諸商品を現実的な使用価値として区別する関連でなければならない。だが、この等置と区別とはたがいに排斥しあう。」

「諸商品の全面的脱却(譲渡)」や「止揚」という表現に注意しよう。これは、商品同士の交換を、商品同士の否定として把握した表現である。商品が交換されるためには、使用価値を否定して交換価値とならねばならず、そうしてはじめて交換が可能となる。しかし、その否定は、交換価値を否定して使用価値となってはじめて証明されるものである。この矛盾を、物々交換では解決できていないのである。
 「これらの矛盾は、・・・直接的交換関係の、つまり単純な交換取引の本性からうまれてくる困難を、すなわち、交換のこの最初の素朴な形態が必然的におちいる不可能を、反映している」(エンゲルス「批判」書評)。
 だから、交換過程の自然発生的な形態である直接的交換取引(物々交換)では、商品同士の否定は困難であるということになる。この否定の困難は、後に流通過程における否定の否定によって、解決される。交換過程から流通過程への発展は、この単純な否定から、否定の否定という二重否定の過程への展開である。それが、商品の矛盾から必然的に要請される展開として、述べられている。

「こうして一方の解決が他方の解決を前提とするところから、そこに問題の悪循環が生じてくるばかりでなく、ひとつの条件をみたすことが直ちにその反対条件を満たすこととむすびついているところから、矛盾しあう諸要求の全体があらわれるのである。」
 この二律背反は、「実際問題としては、自己を展開し、おそらくその解決を見出しているであろう。」(エンゲルス「批判」書評)「諸商品の交換過程は、これらの矛盾の展開であるとともにその解決でなければならない」
 矛盾の解決というと、矛盾を破壊することだと考え、矛盾を担うものを壊してしまうことも方法としては考えられる。しかし、使用価値と交換価値の矛盾を解決するために、商品自体を破壊しても、問題の解決とはならない。交換過程の中で現われるこの矛盾の解決=「矛盾の展開であるとともにその解決」では、矛盾を破壊するのではなく、矛盾を展開させて、矛盾の成立をもって解決するという方法を取っている。

 そのためには、まず、「こうした困難が、解決されたものと仮定」する。Aが解決され、「社会的に有用な労働であるという素材的条件をみたしているものとする」。
しかし、それでも、まだ矛盾が生ずる。D「一方では商品は対象化された一般的労働時間として交換過程に入っていかなければならないのに、」E「他方では個人の労働時間が一般的労働時間として対象化することそのものが、交換過程の産物にほかならないということである。」
 その解決は、「商品が実在を二重化する」ということで解決される。
商品が実在を二重化する、つまり、商品が使用価値を否定して交換価値として実在化することとは、「商品が、直接に対象化された一般的労働時間として表示され」ることである。ところが、「交換過程で相対立するのは商品同志だけ」であるから、それは、特定の商品に、「対象化された一般労働」の役割を負わせればいいのである。ここでは、「この場合リンネルは、ほかのすべての商品のリンネルへの全面的なはたらきかけによって、一般的等価物となるのである。」「すべての商品がその交換価値を特定の1商品ではかることによって、この除外された1商品が交換価値の恰好な定在、一般的等価物としてのその定在となるのである。」「だから交換過程の内部では、いまや諸商品は、リンネルの形態をとった交換価値としてたがいに存在しあい、あるいはお互いに現われあうのである。」これは、「単なる抽象から交換過程そのものの社会的な結果となる」。
諸商品がリンネルという定在に現実に転化する過程は、「一般的等価物として除外された商品も、その使用価値を二重化する。」「ひとつの一般的使用価値を持つにいたる。」「いまや交換過程そのものから生ずるひとつの一般的欲望の対象であって、だれにとっても交換価値の担い手であり、一般的交換手段であるという同じ使用価値をもっている。こうしてこの1商品においては、商品が商品としてそのうちにもつ矛盾、特定の使用価値であるとともに一般的等価物であり、したがってだれにとってもの使用価値、一般的使用価値という矛盾が解決されている。
 「すべての商品の交換価値の恰好な定在を表示する特定の商品、あるいは、特定の排他的な1商品としての諸商品の交換価値、それが貨幣である。」

「資本論」では、この部分の展開が、個別−特殊−普遍という各段階を通って発展するという一般的な形式をもって、記述されている。
 しかし、ここでは、「1商品の交換価値が現実に表現されている等式の総和」から、「等式の無限の総和」へ、更に「等式の系列を単純に転倒することによって、・・・交換過程そのものの社会的な結果となる」という記述になっている。
この展開は、端的に言えば、量質転化の法則である。商品の交換価値を表現する等式は、商品の交換される領域を表現しているが、それが、次第に拡大し、遂には、無限の諸商品を捕らえるようになり、その結果、量が質に転化して、「諸商品の交換価値の結晶」が生ずるのである。

商品が使用価値と交換価値との直接的統一であるということから、交換過程での矛盾が、ある特定の商品を除外し、その特定の商品に一般的等価物と一般的使用価値(一般的交換手段)という矛盾を担わせ、こうして商品の世界と貨幣の世界の二つの世界への分裂が発生する。これは、商品の使用価値と交換価値との直接的統一が、諸商品と交換価値の結晶である貨幣という「媒介的統一」に発展したということでもある。商品の使用価値と交換価値との対立は、貨幣の一般的使用価値と一般的等価物という対立となって、貨幣の世界に持ち越された。これはまた、後に見るように、諸商品の側にも、(価格との)新たな直接的統一をも生み出すのである。
諸商品は、貨幣を媒介にして、交換される。まず、諸商品は、自己を否定し、貨幣となる。更に、貨幣は、再び自己を否定して、別の商品となる。この否定の否定の法則により、商品交換の運動が可能になるのである。

 貨幣の物理的属性も、「交換価値の本性から」論理的に導かれる。「任意に分割しうること、各部分が一様であること、この商品のひとつひとつが無差別であること」。また、「交換過程の内部につねにとどまらなければならないから」という理由で、耐久性が要求される。従って、貴金属が貨幣として採用される。諸商品の交換価値の結晶としての貨幣の性格が、貨幣の役割を担っている特定の商品である土台に浸透するのである。

4.物々交換から商品交換への歴史

ここから後の文章では、論理と歴史の関係が問題となっている。
「交換過程の自然発生的な形態である直接的交換取引(物々交換)」は、「使用価値の商品への転化が始まっていることをしめす」。
 「諸商品の交換過程は、もともと自然発生的な共同体の胎内にあらわれるものではなくて、こういう共同体がつきるところで、その境界で、それがほかの共同体と接触する少数の地点であらわれるものである。この地点で交換取引が始まり、そしてそこから共同体の内部に反作用し、これを解体するような作用をおよぼす。」
唯物史観に寄れば、人間の歴史の初期の共同体といえば、部族社会であるから、異なった部族共同体が「生産が消費のために必要とされる程度を超えること」になったとき、その部族の周辺で物々交換が始まり、「奴隷、家畜、金属等」が最初の貨幣として用いられていく。「交換取引がだんだんとひろがり、交換が増加し、そして交換取引にはいってくる商品が多様になるにつれ、商品は交換価値として発展し、貨幣を形成するまでになり、こうして直接交換取引にそれを分解させるような作用をおよぼすようになる。」
逆に、単独で孤立している部族社会では、他の部族社会と接触することがないから、部族内部で分業が発展し物物交換はあっても貨幣にまで発展しないことになる。「ペルーのように、何の貨幣も実在しないのに、たとえば協業や発展した分業等々のような経済の最高の諸形態がみられる、きわめて発展した、しかし、歴史的には未成熟な社会諸形態がある」(「序説」)
部族社会の解体は、共同体所有から私的所有への移行である。これは、共同体から私的家族への移行でもある。
発展した分業によって、分業の種類だけ異なった使用価値を持つ商品が生産され、人は労働を交換せざるをえない存在であるから、商品を交換せざるを得ず、お互い顔も知らず面識もない人と人との関係が、商品を交換するという関係でだけ保たれている。これが商品世界である。
「商品同志の過程的連関は、一般的等価物のさまざまな諸規定となって結晶し、こうして交換過程は、同時に貨幣の形成過程でもある。」「この過程の全体が、流通である。」
直接的交換関係つまり物々交換は、貨幣の形成で終了し、貨幣のない物々交換から、貨幣を媒介とした流通への展開が、次の章でなされる。

第1篇第2章 貨幣または単純流通

1 価値の尺度(貨幣の矛盾する一側面としての価値の尺度の展開)

「流通の最初の過程は、いわば現実の流通のための理論的準備過程である。」
ここでは、貨幣の運動としての、交換と区別された流通に関して、対立する2側面のうち、価値の尺度の側面が、展開される。もう一方の側面は、実際の流通を展開する中で、「流通手段」の項で、説明される。
ここで、論理展開を、先取りして記述する。
「価値の尺度」では、二重化によって生み出された貨幣の世界に、まず、価値尺度としての側面を確立する。次に、貨幣が生み出されたことによって、商品の方にも反作用を及ぼし、商品に価格という新たな規定を付与する。「自然弁証法 4 対立物の相互浸透の法則」の図式を使って確認しておくと、商品の使用価値Aの中の潜在的交換価値Bが顕在的B=貨幣となって諸商品の外に現われ、直接的統一であったAとBの関係が、媒介的に商品Aと貨幣Bの対立となり、逆に貨幣の価値尺度Bによって商品Aの中の潜在的BがB’=価格として顕在化し、商品は使用価値Aと価格B’の新たな直接的統一となる。
更に価値尺度Bが、実体としての金に存在していることから、価格B´の度量標準に転化するという展開がなされる。

まず、「使用価値として実在する諸商品は、まず、それらが互いに観念の上で交換価値として、対象化された一般的労働時間の一定量として現われるような形態を自分で創造する。」つまり、各商品は、実在する使用価値の上に、自身の交換価値から媒介された何らかの表現形態を獲得するという。これが、どうして可能となるのか。
個々の商品が「互いに交換価値として表示しあうのと同じ過程的関連が、金に含まれている労働時間を一般的労働時間として表示し、この一般的労働時間の一定量が、・・・・要するにすべての商品の使用価値で、自分を表わし、あるいは直接に商品等価物の無限の系列として自分を展開する。諸商品がそれらの交換価値を全面的にで表現することによって、金は直接その交換価値をすべての商品で表現する。諸商品は互いに交換価値の形態を与え合うことによって、金に一般的等価物の形態、すなわち貨幣の形態を与えるのである。
 すべての商品がその交換価値を金で、一定量の金と一定量の商品とが等しい労働時間をふくむような割合で持ってはかるので、金は価値の尺度となる。・・・価値の尺度としての金自身の価値は、直接に商品等価物の範囲全体ではかられるのである。他方、いまやすべての商品の交換価値は、金で自分を表現する。・・・このように、商品の交換価値が、一般的等価物として、同時にまたこの等価の度盛りとして、特殊な1商品で、または諸商品と特殊な1商品との間のただ一つの等式で、表現されたものが、価格である。価格とは、商品の交換価値が流通過程のなかであらわれる転化された形態である。」

 「尺度」という概念の理解のために、温度を取り上げて見る。あらゆる物体は、熱を持っている。しかし、熱は目には見えない。そこで、物体の熱的な性質を表わすのが、温度であり、それを測定するのが、温度計である。温度は、温度目盛で表示する。絶対的に定義されている熱力学的温度では、ケルビン温度目盛(°K)で表示する。氷点は、273.15°Kである。それに対し、通常使用するのは、セルシウス温度目盛(°C)である。これは、0度を氷点に、100度を水の沸点に定めたものである。欧米では、今でも、ファーレンハイト温度目盛(°F)が使われているが、これは、0度を水と塩の混合物(寒剤)に、96度を人の体温に取ったものといわれている。
 交換価値は、熱に、価値の尺度は、温度に、価格は、それぞれの温度目盛に比せられる。商品に価値が内在し、その価値を、金を価値尺度としてはかったものが、金価格であり、銅を価値尺度としてはかると、銅価格となる。物体に内在する熱を、熱力学を使って計ったものがケルビン温度目盛であり、水の性質に結び付けてはかったものが、セルシウス温度目盛である。ここでは温度を例にとっただが、「資本論」では、「重さ」の例を挙げている。

 「使用価値として実在する諸商品は、まず、それらが互いに観念の上で交換価値として、対象化された一般的労働時間の一定量として現われるような形態を自分で創造する。」この表現は擬人的で、まるで、商品に魂が宿っているかのようである。これは、商品を扱うすべての場合にいえることであるが、背後に人間の意志を宿しているからである。商品を扱う場合には、背後に商品所有者が存在する。その意志の存在は、商品に対しては、形式的には否定されており目には見えないが、内容的に保存されている。「諸観念、諸表象の生産、意識の生産はさしあたりはじかに人間達の物質的活動と物質的交通−現実的生活の言葉―のうちへ編みこまれている。」(「ドイツ・イデオロギー」)。物質的活動である商品交換も、精神的交通から切り離して把握してはならない。

「金の価値変動については、まえに展開した交換価値の法則があてはまる。」これは、以前に展開された二つの商品AとBの価値変動を扱った部分の法則が、商品Aと貨幣Bとの関係にも妥当することを示している。

「商品の価格規定は、商品がただ観念のうえで一般的等価物に転化したものにすぎず、これからなお実現されなくてはならない、金との等置なのである。だが商品は、その価格において、ただ観念の上で金に、つまり表象されたにすぎない金に転化されているだけであって、・・・まだ金は、ただ観念的な貨幣に、ただ価値の尺度に転化されているにすぎない、そして一定量の金は、事実上なおまだ、一定量の労働時間にたいするよび名として機能しているにすぎない。」
「商品は、いまや二重の実在として、すなわち現実的には使用価値として、観念的には交換価値として、互いに対立しあっている。商品は今や、その中にふくまれている労働の二重形態をたがいに表示しあう。つまり、特定の現実の労働が商品の使用価値として現実に存在する一方、一般的抽象的労働時間は、商品の価格の中に表象された定在をうる。」
 価格規定は、使用価値の労働の特殊性と交換価値の労働の一般性とを結びつけた規定であり、労働の特殊性と一般性の矛盾を定立した規定=表象である。

 今までは目には見えなかった交換価値が、ここでは目に見える形で表されている。二重写しに見ていた、目に見えなかったものが、ここでは目に見える二重写しになっている。すなわち、商品の中の矛盾が、表面化、表出化しているのである。しかし、「そこにはむしろ現実の流通過程で商品をおびやかすあらゆる暴風雨が集中しているのである。」「商品はそのものとしては交換価値であり、それは価格をもっている。」「交換価値の価格としての定在、または価値尺度としての金の定在のなかには、商品が山吹色の金に向かって脱却されなければならないという必然性と、その商品が譲渡できないかもしれないという可能性とが、要するに生産物が商品であるということから生ずる、あるいは、私的個人の特定の労働が社会的効果を持つためにはその直接の反対物として、抽象的一般労働として表示されなければならないということから生じる、あらゆる矛盾が潜在的に含まれているのである。」商品は価格という矛盾した規定を持つことによって、必然性と可能性との矛盾を背負い、自ら自己の存在を否定しうる運動しうる存在となったということでもある。

価値の尺度としての金は、「商品を度量単位としての金の一定量に関連させられる必然性が技術的に発展し」、更に度量単位は、「度量標準にまで発展させられる。だが金量そのものは、重さによってはかられる。そこでこの度量標準は、金属の一般的な重量尺度の形で、すでにできあがったものとして存在しており、したがってまたこの重量尺度は、すべての金属流通において、もともと価格の度量標準としても役立っているのである。・・・金は価値の尺度から価格の度量標準に転化する。」
価値尺度としての金は、貨幣であり、二重化した世界の住人であるが、幽霊でない以上、なんらかの実体の上に乗っていなければならない。それが、実体としての金である。実体としての金と価値尺度としての金は、矛盾した存在=直接的同一である。そこで、すでに存在する金の実体としての側面である重量尺度が、価値尺度の側面を媒介にして、価格の度量標準に関係が結び付けられ延長・転化されるのである。
価値の尺度としての金と、価格の度量標準としての金は、まったく違った形態規定性をもつ」。「金は対象化された労働時間としては価値の尺度であり、一定の金属重量としては価格の度量標準である。」価値の尺度としての金は、金の交換価値としての側面であり、度量標準は、交換価値とはまったく関係のない金の金属としての属性の側面である。「金が価値尺度であるのは、金の価値が変わりうるからであり、金が価格の度量標準であるのは、それが不変の重量単位として固定されるからである。」ここに新たな矛盾がある。「金価値がどう変動しようとも、いろいろな金量は、いつもたがいに同じ価値比率を表示する。・・・そして価格においては、ただいろいろの金量同志の比例だけが問題なのである。」
 更に、「貴金属が価格の度量標準として機能する際にその重さがたえず変動し減少しても、これにたいして同じ重量名がそのままつかわれるという結果をもたらした。」「金属重量の貨幣名は、その一般的な重量名から歴史的に分離」し、更に「流通の中で一般性と必然性という性格を持たなければならないから、それらは法律的に規定されねばなら」ず、「運用は、政府の仕事に」なっていった。唯物史観が示すように、である。「したがって1商品の価格・・・は、いまや金の度量標準の貨幣名で表現される。」「こうしてすべての価格は同じ呼び名で表現される。商品がその交換価値に与える固有の形態は、貨幣名に転化されており、・・・貨幣の方では計算貨幣となるのである。」
 これによって、価格は、貨幣名に転化し、貨幣の方は、計算貨幣となる。
 「頭の中や、紙の上や、言葉の上での商品の計算貨幣への転化は、なんらかの種類の富が交換価値の視点の下に固定されれば、いつでもすぐ行われる。この転化のためには金という材料が必要であるが、それはただ表象された金として必要であるにすぎない。」
 ここでマルクスは、「金の鋳貨価格」と呼ばれた現象を挙げている。「価格の度量標準としての金は、商品価格と同じ計算名をもってあらわれるから、・・・金のこの計算名は金の鋳貨価格と呼ばれてきた。」「金は、それが価格規定の要素として、したがってまた計算貨幣としての役割を果たす場合には、単になんらの固定した価格をもたないばかりでなく、総じて価格という物をまったくもたない。」
 「貨幣の度量単位についての諸学説」はとばして、次の「流通手段」に入ろう。

2 流通手段(貨幣の矛盾する1側面としての「流通手段」の確立)

「商品が価格付与の過程において流通できる形態を得、金が貨幣の性格をえたのちには、流通が商品の交換過程の内包していた矛盾を表示し、同時に又それを解決するであろう。」
 ここでいう矛盾とは、「3.現実的な交流作用である交換過程」で示した矛盾である。商品の矛盾の展開としての運動形態が、流通である。「流通は、全面的な交換行為とその更新のたえまない流れとを前提するものである。第二の前提は、商品が価格のきめられた商品として交換過程にはいりこむということ、または、交換過程の内部ではたがいに二重の存在として、現実には使用価値として、観念のうえでは−価格では−交換価値としてあらわれるということである。」ここからは、単なる商品交換ではなく、その発展形態である流通の全面的な運動を論理的に追跡していくことになる。運動の中から、貨幣のもう一つの性格が、浮き彫りになる。

a 商品の変態(商品の運動における否定の否定の運動)

「商品流通の直接的形態」では、「商品をW、貨幣をGと名づけるならば、」「W−G−W」が現われる。これは、商品から貨幣への第一の変換(販売)と貨幣から商品への第二の変換(購買)の統一である。この交換は、商品を否定して貨幣となり貨幣を否定して商品となるという、弁証法の否定の否定の法則の出現である。物々交換、すなわち「W−W、商品と商品との交換」である単なる否定の困難が、否定の否定という形態をとることによって、解決されるのである。
 商品同士の交換が、貨幣の媒介による商品交換に取って代わった。前者が直接的交換取引(物々交換)であり、後者が流通である。前者から後者が発展してきた。前者では、二つの極にある異なった商品が同時に動くが、後者では、それぞれの商品が別々に動く。物々交換としては販売も購買もなく両者は溶け合っているが、流通では、貨幣を媒介にした販売(第一の否定)と購買(第二の否定)とに分離され、両者は媒介関係にある。すなわち、第一の否定と第二の否定は、媒介関係にある。
「流通の全体W−G−Wは、なによりもまず、個々の商品がその所有者にとって直接の使用価値となるために通過する変態の全系列である。」 価値尺度としての金は、今まではただ考えられただけの、理論的にすぎない金であった。しかし、この運動の中では、金が現実の貨幣として、二重化した世界の主人として、姿を現すのである。

W−Gすなわち販売。」例えば、「1オンスの金という価格をもった使用価値」である「1トンの鉄」の第一の否定である販売において、「この困難、商品の「命がけの飛躍」は、販売が、この単純流通の分析で想定されているように、実際に行われるならば克服される。」「販売W−Gによって、価格という形で観念上金に転化されていた商品が、現実に金に転化されるばかりでなく、その同じ過程によって、価値の尺度としては単に観念上の貨幣にすぎず、実際には商品そのものの貨幣名として機能しているに過ぎなかった金が、現実の貨幣に転化される」。この過程によって、「いまや金は・・・絶対的に譲渡することのできる商品、つまり現実の貨幣となるのである。」
 「商品がこのように商品と金とへ二重化することによってのみ、しかも、どの極をとってみても、その相手の極が現実的であるものは観念的であり、その相手の極が観念的であるものは現実的であるという、やはり二重の、対立した関連によってのみ、従って商品を二面的に対極的な対立として表示することによってのみ、商品の交換過程に含まれているもろもろの矛盾は解決されるのである。」
商品の否定の否定の運動は、商品の世界と貨幣の世界とへの二重化した世界を、行ったり来たりして行う運動である。ここに、矛盾の直接的形態から媒介的形態へ、相互浸透の構造化から両極の対立へ、相互転化へ、否定の否定へ、そして矛盾の解決へという矛盾の一般的な展開の論理が表されている。

販売は、ある側面では、購買としても把握される。「販売は、必然的に同時にその反対物である購買であって、一方はその過程をひとつのがわから見る場合、他方はそれをほかのがわからみるばあいである。」これは、販売と購買の直接的同一である。いいかえると、第一の否定と第二の否定の直接的同一ということである。
「だからわれわれは、商品の第一の変態である商品の貨幣への転化を、第一の流通段階W−Gを通過した結果として表示することによって、同時にほかの一商品がすでに貨幣に転化しており、したがってすでに第二の流通段階G−Wにあることを想定しているわけである。そこでわれわれは、前提の悪循環におちいる。流通そのものがこうした悪循環なのである。」第一の否定は、別の過程の第二の否定であり、第一の否定と結びついた(媒介された)の第二の否定は、また別の過程の第一の否定でもある。つまり、この直接的同一によって、否定の否定から、否定の否定の連鎖という運動が論理的に発生する。これが流通である。

「流通の第一の過程である販売の結果として、第二の過程の出発点である貨幣が生じる。第一の形態における商品にかわって、その金等価物が登場しているわけである。この第二の形態における商品は、独自の永続的な実在をもっているのだから、この結果は、さしあたってはひとつの休止点をなすことができる。」運動は、その対立物である休止を含む。休止と運動との統一が、循環である。これは、貨幣の新たな性質の出現である。
 「商品が金というさなぎになることは、商品の生涯において、短いか長いかともかくとして、商品がそこにとどまることができる独自の一時期をなしているのである。・・・交換価値を生み出す労働の一般的性格は、購買および販売という行為が分離しているということ、しかもそれがたがいにばらばらであるということにあらわれている。」
一般的等価物としての貨幣が、販売と購買の過程を媒介関係に置いたのであり、単なる否定を引き裂き、第一の否定と第二の否定の媒介関係を生ぜしめたのである。

購買G−Wは、「商品の第二の変態、または最後の変態である。」「商品の譲渡の一般的産物は、絶対に譲渡できる商品である。金の商品への転化にとっては質的制限はすこしもなく、ただ、量的制限、つまりそれ自身の量または価値の大きさの制限があるだけである。」「商品は・・・その再転化によって、金を商品そのものの単に一時的な貨幣定在に転化する。商品流通は、発達した分業を前提とし、したがって個人の生産物の一面性に反比例するかれの欲望の多面性を前提とするものだから、購買G−Wは、あるときはひとつの商品等価物との1等式で表現され、あるときは買手の欲望の範囲とかれの貨幣総額の大きさによって限定された1系列の商品等価物に分裂する。」
すなわち、一般的等価物たる金は、再転化の際には、単に1商品に限らず、多くの商品に再転化する可能性を持っている。

 「総流通W−G−W」を全体としてみると、第一の否定と第二の否定の媒介的及び直接的統一により、多くの二重否定の連鎖が形成されることがわかる。「ひとつの商品の総変態としての総流通W−G−Wは、つねに第二の商品の総変態の終わりであるとともに第三の商品の総変態の始めでもあり、したがって始めも終わりもない1系列なのである。」「商品世界の流通過程は、あらゆる個々の商品が流通W−G−Wを通過するのであるから、無限で異なった点で終了しつつも、またたえずあらたに始まってゆく、こうした無限にもつれあった連鎖のからみあいとして表示されるわけである。」だが、この運動は、統一されているだけでなく、分裂している。「だが、同時に又、個々の販売や購買はいずれも、相互に無関係でしかも孤立的な行為として存立しており、それを補完する行為は、時間的にも空間的にもそれから離れることができ、従ってその継続として直接にそれに結びつく必要はない。」「実際の流通過程では、W−G−Wは、さまざまの総変態の雑多にいりくんだ環の、限りもない偶然的な並存ならびに継起として表示される。だから実際の流通過程は、商品の総変態としてではなく、また、対立する局面を通過する商品の運動としてではなく、偶然にならびあったり、つぎつぎに起こったりする多数の購買や販売の単なる集合として現れる。」
 個々の商品の総変態の連鎖は、その連鎖のが重なることによって、流通のを変化させる。このように、商品世界の変態の運動が、流通過程の総運動に反映することは、次節で議論される。
 この商品の総変態W−G−Wを、(ヘーゲルの)推論の形式である特殊性−一般性−個別性に対応させている。まず、特殊な商品を一般的商品である貨幣に変え、一般的等価物たる貨幣は、どのような商品とも交換できるので、任意の商品に交換される。従って、最後に変換された個別の商品は、論理的には、一般性と特殊性の矛盾を商品の中に実現しているわけである。

商品の交換過程には、商品所有者という社会的性格で、入り込んだ。「この過程の内部では、彼らは、買い手と売り手という対立した形態で、・・・あいたいする。」「買い手と売り手というこの経済的、ブルジョア的性格・・は、・・・・社会的生産過程の一定段階を基礎とした個性の必然的な表示なのである。」
物々交換では単なる商品所有者であった人格が、この流通段階では、売り手と買い手の二つに分裂し、定立する。

W−G−Wだけを見ると、結局はW−Wに帰着する。否定の否定といっても、回り道をしただけであり、単なる否定と結論は同じである。貨幣は、ここでは「交換手段一般としてではなく、流通過程によって特徴づけられた交換手段、すなわち流通手段としてあらわれ」ている。この流通手段が、貨幣Bの使用価値A´であり、ここにおいて貨幣は、価値尺度Bと流通手段A´の統一であることが示されたのである。これはまた、貨幣が、非流通手段としての可能性も持つことになる。

 流通過程の中での販売と購買の分裂は、「商業恐慌の一般的可能性」を表している。「販売と購買の分離は、本来の商業とともに、商品生産者と商品消費者とのあいだの最終的交換にさきだっておこなわれる多くの空取引を可能にする。・・・さらにまた、ブルジョア的労働の一般的形態としての貨幣とともに、この労働の諸矛盾の発展の可能性があたえられることを意味する」。諸商品の流通の量的増加は、その流通自体の質を変化させていく。

b 貨幣の通流(貨幣の運動の法則)

 次に、貨幣の側に立った運動が記述される。それは、商品世界の変態の運動の反映であるが、連鎖の量質転化の結果、独自の運動を持ち、それ独自の法則を生み出す。これは、商品世界の運動の反映として媒介的に貨幣世界の運動を観察することであり、商品価値の運動の現象形態である。
商品価値=貨幣の理論は、価値尺度Bと流通手段A´の統一を確立することによって、実体論から現象論へと移行し始める。これ以降に展開される現象論は、次の「資本論」第2編の資本の本質論へと媒介される。
それでは、貨幣は、商品の運動をどのように反映しているだろうか。

 貨幣は、買い手の側にいて、「流通手段としての貨幣はいつも購買手段としてあらわれ」る。
「貨幣は、商品が買手の手にうつるその同じ行為において売手の手にうつる。だから、商品と貨幣とは、反対の方向に進む」。「商品は・・・一気に、一回の位置転換で、流通から消費に脱落する。流通は商品のたえまない運動である。しかしつねにちがった商品の運動であって、どの商品もただ一度だけしか運動しない。・・・変態をとげた商品の運動は、金の運動である。・・・だから商品の形態運動、その貨幣への転化と貨幣からの再転化、つまり商品の総変態の運動は、ふたつの違った商品と二度位置を変える同じ貨幣片の外面的運動として現われる。・・・このように何回となくくりかえされる位置転換という形で、貨幣は商品の変態の連鎖を表現するのである。こうして同じ貨幣片は、運動した商品とはいつも反対の方向に、あるものはかなりひんぱんに、あるものはそれほどひんぱんにではなく、・・・・流通曲線を描くのである。」これが、購買手段としての貨幣の運動である。

 「商品の形態転換が貨幣の単なる位置転換としてあらわれ、かつ流通運動の継続性がまったく貨幣の側に帰するというのも・・・・そうなると全運動は貨幣から出発するようにみえるのである」「さらにまた貨幣は、つねに購買手段という同じ関連で商品にあいたいするのであるが・・・・貨幣は、商品の価格を実現することによって商品を流通させているようにみえる。」「流通手段としては、貨幣はそれ独自の流通を持つ。・・・従って、商品の流通過程の運動は、流通手段としての貨幣の運動という形で、−貨幣通流という形であらわれる。」

 「いまやかれら」(商品所有者たち)「の労働の素材転換を媒介するかれら自身の全面的運動は、ひとつのものの独特の運動として、金の通流として、かれらにあいたいするのである。・・・流通手段としての貨幣の使用価値はそれが流通することそれ自体である。・・・流通のなかでやすみなくうごきまわることが貨幣の機能となる。流通過程の内部におけるこの貨幣独特の機能は、流通手段としての貨幣にあたらしい形態規定性をあたえる」。
 こうして、商品の矛盾が商品の運動を生み出し、それが、貨幣の世界で貨幣の運動に反映し、貨幣の運動の独自性、すなわち貨幣運動の法則が論理的に導き出され明らかになっていく。それが、貨幣の形態を規定していく。矛盾の論理的段階的発展である。

「まず明らかなのは、貨幣通流がかぎりなく分裂した運動であるということである」「すでにみたように、貨幣は空間的に雑然とならんでおこなわれる購買と販売において、あるあたえられた数量の価格を同時に実現し、ただ一度だけ商品と位置を転換する。けれども他方、・・・同じ貨幣片がさまざまな商品の価格を実現し、こうして多かれ少なかれ何回かの通流を遂げる。だからあるあたえられた期間、たとえば一日間のある国の流通過程をとってみれば、価格の実現のために、したがって商品の流通のために必要とされる金量は、一方ではこれらの価格の総額、他方では同じ金片の通流の平均回数という、二重の要因によって規定されている。」「流通手段としての金の定在は、・・・動いている商品世界における金の動的な定在によって規定されているのである。つまり、その位置転換で商品の形態転換をあらわし、したがってその位置転換の速度によって商品の形態転換の速度をあらわす金の機能によって規定されている。・・・流通している金の実際の量は、いまや総過程そのものにおける金の機能的定在によって規定されている」。
 「流通のために必要な金の量は、まずもって実現されなければならない商品価格の総額によって規定される。」だから、「流通させられる商品の総量が、価格総額の増大よりさらに大きな割合で減少すれば、価格の騰貴にもかかわらず、商品流通のために必要な金の量は減少しうるし、また反対に、流通させられる商品の総量が減少しても、その価格総額がそれよりも大きな割合で増大するならば、流通手段の総量は増大しうるということになる。」
「同時に貨幣が通流する速度、つまりあたえられた期間内にこの実現の仕事をなしとげる速度によっても規定される。」
「流通する商品の総価格が騰貴しても、その騰貴の割合が貨幣通流の速度の増大よりも小さければ、流通手段の総量は減少するであろう。逆に、流通速度が、流通する商品総量の総価格よりも大きな割合で減少すれば、流通手段の総量は増加するであろう。」
以上の二つの法則が、現実に起こっている現象を説明できることが、例として、その後の文章のなかに与えられている。
 「貨幣の通流速度があたえられ、かつ商品の価格総額があたえられていれば、流通する媒介物の量は一定である、という法則は、またこれを、商品の交換価値とそれらの変態の平均速度とがあたえられていれば、流通する金の量はそれ自身の価値に依存する、と表現することもできる。」これから「金属の流通手段の総量は、収縮と膨張のできるものでなければならない・・・という結論が生ずる。」

c 鋳貨。価値表章(流通手段としての貨幣のそれに相応しい形態の取得)

「金は、流通手段として機能するさいには、独特な身なりをとり、鋳貨となる。金は、その通流を技術上の障碍によってさまたげられないように、計算貨幣の度量標準にしたがって鋳造される。」「1 価値の尺度」の節で説明したように、金は、価値尺度の側面を持つ金属実体という矛盾した存在である。この金属実体という側面を利用して、各商品の価格が、金の重量尺度を使って表現される結果、金は価格の度量標準に転化した。この金の度量標準の貨幣名をもつ流通手段=計算貨幣が鋳貨である。従って、金の価値尺度の側面と、価格の度量標準として現実化した流通手段という側面とは統一=矛盾しているのである。「貨幣の計算名であるポンド、シリング等々で表現された金の重量部分をふくんでいることをその刻印と形状で示す金片、これが鋳貨である。」
この段階での金地金と金鋳貨との間には乖離がなく、相互に転化できる。つまり、金地金と金鋳貨は、直接的関係にある。
この鋳貨の管理は、国家の役割である。「貨幣は、・・・鋳貨としても地域的で政治的な性格を帯び・・・。・・・貨幣が鋳貨として通流する領域は、国内的な、共同社会の境界によってかこまれた商品流通として、商品世界の一般的な流通から区別されるのである。」 「一つの時代の全市民社会はその形態の中でまとまるものである以上、あらゆる共通の制度は国家の手を介してとりきめられ、なんらかの政治的な形態をもたせられることになる。」(「ドイツ・イデオロギー」)二重化した鋳貨(貨幣)の世界は、同じく二重化した国家(政治)の世界から媒介され成立するのであり、その流通が国家の範囲に限定されるとき、国家から鋳貨としての保証を担保されるのである

この鋳貨に先の法則を適用すると、「流通過程のなかにおける鋳貨の定在は、それにふくまれている金量にその通流の回数を掛けたものに等しい。だから鋳貨は、一定の重さを持った個々の金片としてのその実際の定在のほかに、その機能から生ずる観念的な定在をうけとる。」数式で表すと、ほかの商品の価格の総額=金量×金の通流速度ということになろうか。
価値尺度としての金は、観念的な存在であってもよかった。しかし、流通手段としての貨幣の存在は、現実的でなければならない。それは、鋳貨としての存在理由は、ほかの商品の価格の総額を実現するという機能によって媒介されているからである。鋳貨とは、金片としての存在自体は、あくまでただ直接的=物質的であるにすぎず、その本質は、商品価格の実現という媒介関係を持つ実存である。その実存の規定法則が、上の数式である。
ところで、鋳貨は、通流の中で、物理的に磨耗し、その中に含まれる金の量が、少なくなっていく。しかし、たとえ軽くなっても、「どの購買や販売でも、最初の金量として通用し続けていく。・・・うわべだけの金として、適法な金片の機能をはたしつづけていく。」「流通過程そのものによってなされる金属貨幣のこのような第二の観念化、つまり、名目的内容と実質的内容との分離」は、金地金と金鋳貨との直接的関係の、媒介関係への転化である。

「金の機能の内部におけるそのうわべだけの定在は、そのほんとうの定在と衝突するようになる。」
直接的であったものが、分離し、媒介的関係に転化していく。論理的に言えば、金片の形式は、鋳貨としての形式と直接一致しているが、金片の内容を形成する実体は金としての物理的存在であるのに対し、鋳貨としての内容は、示したように媒介的に規定されている。ここに、金片としての内容と鋳貨としての内容に乖離が生まれる根拠がある。金地金が、鋳貨としての機能を担っている実体であるということから来る矛盾である。鋳貨として機能するためには、物理的実質を必要とするが、物理的実質は何であってもよいということになる根拠がある。金の上には、鋳貨(貨幣)の世界が、いわば二重写しになって乗っているが、いまや、その乗り手を変えるのである。
「金の市場価格は、その鋳貨価格以上に騰貴するであろう。・・・鋳貨の計算名は同じままであるだろうが、しかもそれ以後はより少ない金量をさししめすことになるであろう。いいかえれば、貨幣の度量標準がかえられて、金はそれ以後はこの新しい度量標準に従って鋳造されるであろう。・・・そうなれば金は、価格の度量標準としての機能においても、流通手段としての機能においても、たえまない変動をこうむるわけであり、こうしてまえの形態での変動はのちの形態での変動をもたらし・・・。このことは、・・・あらゆる近代国家の歴史においては、金属実質がたえず減少してきたのに、おなじ貨幣名が残ってきたという現象を説明するものである。」
ここにも、量質転化の例が見られる。金量の減少という金片としての内容である物理的実質の量的変化が、ある点まで来ると、鋳貨としての内容と決定的に乖離し、その結果、貨幣の度量標準という質的変化を引き起こすのである。
これは、「鋳貨としての金と価格の度量標準としての金のあいだの矛盾」「鋳貨としての金と一般的等価物としての金の間の矛盾」に基づく。鋳貨は、あくまで一国内でしか通用しないからである。

「すべての金鋳貨は流通過程そのものを通して多かれ少なかれその実体のただの表章または象徴に転化される。だが、どんなものでも自分自身の象徴になることはできない。・・・金は、自分自身の象徴となるが、しかも自分自身の象徴としてのはたらきをすることはできない、そこで、金がもっともはやく摩滅する流通の範囲、つまり購買と販売がごく小さな割合でたえずくりかえされる範囲では、金は、金としての定在から分離された象徴的な、銀なり銅なりの定在をえるようになる。・・・これらの補助的な流通手段、たとえば銀徴標や銅徴標は、流通の内部で金鋳貨の一定の部分を代表する。だからそれらの鋳貨自身の銀実質や銅実質は、・・・法律によって勝手に決定されるのである。これらの徴標は、・・・たえず通流するだろうと見られる量にかぎって発行されうるにすぎない。・・・・金鋳貨は、それから貨幣たる資格をうばう金属滅失を法律で規定することによって、いつまでも鋳貨として機能することのないようにされているのであるが、逆に銀徴標や銅徴標は、それらが法律上実現できる価格の限度が規定されており、・・・」
 金鋳貨は、「金の重量部分をふくんでいることをその刻印と形状で示す金片」であった。逆に言えば、鋳貨の形状と刻印は、一定重量の金と比較することによってそれと同量がふくまれているという一般性を表現している。しかし、その個別の金鋳貨が、それに示された重量部分を含んでいないにもかかわらず、実際にはそれを含んでいる金鋳貨と同じ機能を果たしているとすれば、それは偽者である。この偽者を排除するためには、二つの方法しかない。一つは、個々の金鋳貨が、いつも一定の重量範囲の金含有量を保つように監視することであり、もう一つは、金を用いずに鋳貨をつくることである。その場合、金以外で作られた鋳貨の形状と刻印は、金鋳貨と同様、一定重量の金を代表しており同量の金といつでも交換可能であるという一般性を表現していなければならない。そこで、銀や銅の鋳貨がつくられるとすれば、個別の銀鋳貨・銅鋳貨は、一定重量の金との一般的関係を持っている特殊な実体ということになる。これが象徴・表章・徴標としての鋳貨である。これは、ちょうど、平和とは何の関係もない白鳩を、平和の象徴として、扱うようなものである。

「銀徴標と銅徴標とは、法定の銀実質や銅実質をもってはいるが、流通にまきこまれると、金鋳貨と同じように摩滅し、かつ観念化され、その流通がはやくてたえまないだけに、いっそうはやく単なる影のからだとなる。・・・だから流通の発達したすべての国々では、貨幣流通の必要そのものから、銀徴標や銅徴標の鋳貨たる性格は、それらの徴標の金属滅失の程度とはまったく関係がないものとせざるをえないのである。・・・こうして紙券のように相対的に無価値なものが、金貨の象徴として機能することができるのである。・・・通流する鋳貨の数量がそれ以下にはけっしてさがらないという水準は、どの国でも経験的に与えられている。そこで、金属鋳貨の名目的内容と金属実質とのあいだの最初は目立たない相違が、絶対的分離にまですすむことができるのである。・・・金貨は、・・・単なる価値表章の形態を取るのである。」

   「商品がその総変態の過程を通過するかぎり、商品がその交換価値を・・・貨幣の形で展開するのは、すぐにこの形態を再び止揚して、再び商品に、あるいはむしろ使用価値になるためである。だから商品のめざすことは、ただその交換価値をうわべだけ独立化することにすぎない。・・・金は、ただ鋳貨として機能するかぎり、・・・ただ商品の変態の連鎖と商品の単に一時的な貨幣定在とをあらわすだけであり、・・・どこにも交換価値の休止的な定在として、ないしそれ自身休止した商品としてあらわれることはない。・・・金は、・・・ただうわべだけの金として機能するにすぎず、またそれだからこそこの機能においては、自分自身の表章によっておきかえられうるのである。」
   「鋳貨として機能する価値表章、たとえば紙券は、その鋳貨名に表現されている量の金の表章、従って、金表章である。・・・価値表章は、諸商品にたいしては、それらの価格の実在性を表示しているのであって、価格の表章である。・・・過程W−G−Wは、それがふたつの変態の過程的統一ないし直接の相互転形としてあらわれるかぎり、・・・商品の交換価値は、価格ではただ観念的な実在だけを、貨幣ではただ表象された象徴的な実在をうけとる。・・・価値表章は、直接にはただ価格表章であり、したがって金表章であって、ただまわり道をすることによってのみ商品の価値の表章であるにすぎない。・・・価値表章は、過程の内部で1商品の価格をほかの商品にたいして表示し、あるいはおのおのの商品所有者にたいして金を表示するかぎりにおいてのみ作用するにすぎない。相対的に無価値な或る一定の物・・・は、まず習慣によって貨幣材料の表章となるのであるが、・・・ただその象徴としての定在が商品所有者たちの一般的意思によって保証されるからに他ならず、つまりそれが法律上慣習的な定在を、したがって強制通用力をもつからにほかならない。強制通用力をもつ国家紙幣は、価値表章の完成された形態であり、・・・。・・・国内流通が一般的商品流通からはっきり分離・・・は、鋳貨の価値表章への発展によって完成される。」
以上が、あくまで国内流通の範囲内で、金鋳貨が、無価値な紙幣という価値表章によって置き換えられうる理由である。銅鋳貨や紙幣は、あくまで、諸商品の価格を実現するためであるから、それは価格表章であり、こういう媒介によって、金表章なのであって、直接的に価値を表章しているのではない。「金の実体そのものからはなれた価値表章としての金の鋳貨定在は、流通過程そのものから発生するのであって・・・」。マルクスは、その後に、適切な実例を挙げている。

「無価値の徴標が価値表章であるのは、ただそれが流通過程の内部で金を代理するかぎりにおいてであり、しかもそれが金を代理するのは、ただ金そのものが鋳貨として流通過程にはいりこむであろうかぎりにおいて、・・・ただ、金自身の価値で規定される量を限度としてのことである。」貨幣の通流の法則は、ここでは紙幣の通流の法則へと変形される。「こうして紙幣の量はそれが流通の中で代理する金貨の量によって規定され、しかも紙幣は金貨を代理するかぎりでだけ価値表章なのだから、紙幣の量は単にその量によって規定されることになる。だから流通する金の量は商品価格にかかるのに、流通する紙幣の価値はもっぱらそれ自身の量にかかることになる。」
「強制通用力をもった紙幣・・・これを発行する国家の干渉は、経済法則を止揚するかのように見える。・・・紙幣は強制通用力をもっているから、国家が勝手に多量の紙幣を流通におしつけ・・・だれもさまたげることはできない。ひとたび流通に投げ入れられた紙幣を、そこからなげだすことは不可能である。・・・流通にまきこまれると、価値表章または紙幣は、それに内在する諸法則に支配されるのである。」
「紙幣にせよ悪鋳された金や銀にせよ、価値表章が、鋳貨価格にしたがって計算された金や銀の重さを代理する比率は、それ自身の材料によってきまるのではなくて、流通にあるその量によって決まるのである。だからこの関係を理解することが困難なのは、貨幣が価値の尺度および流通手段という二つの機能をはたすにあたって、単にあべこべであるばかりでなく、この二つの機能と一見矛盾するような法則にしたがっていることによるものである。貨幣がただ計算貨幣としてだけ役立ち、金がただ観念的な金としてだけ役立つにすぎない価値の尺度としての貨幣の機能にとっては、すべてがその自然材料にかかっている。・・・逆に、貨幣が単に表象されているだけでなく、現実のものとしてほかの商品とならんで存在しなければならない流通手段としての貨幣の機能においては、その材料はどうでもよいのであって、すべてはその量にかかっている。・・・ただ考えられただけの貨幣にあってはすべてがその物質的な実体にかかり、感覚的に現存する鋳貨にあってはすべてが観念的な数的関係にかかる」。

「従って紙幣総量の増減−ただし紙幣が唯一の流通手段であるばあいのそれ−にともなう商品価格の騰落は、流通する金の量は商品の価格によって規定され、流通する価値表章の量はそれが代理する金鋳貨の量によって規定されるという法則が、外部から機械的にやぶられた場合に、流通過程によってむりやりになしとげられたこの法則の貫徹にほかならない。・・・価値表章は、・・・流通過程の内部では・・・それにかわって流通できるはずの金量の表章にまで圧縮される・・。価値表章の流通では、真実の貨幣流通のすべての法則が、あべこべに、さかだちをしてあらわれる。・・・なぜならば、紙幣は、正しい量で発行されるときには、価値表章としての紙幣に特有のものでない運動をする一方、紙幣に特有な運動は、商品の変態からは直接生ぜずに、金に対する紙幣の正しい割合がやぶられることから生ずるものだからである。」
 価値表章としての紙幣の運動は、本来の貨幣の現象形態から見ると、あべこべの仮象を示す。このマルクスの表現は、まるで、価値表章の流通法則を、観念論にみたてているようにみえる。精神の能動性を頭の中から外部に持ち出し、物質の「魂」として能動的実体に転化させたところに観念論がうまれたが、究極の観念論であるヘーゲルでは、すべての法則がさかだちをして現われた。貨幣の流通から媒介された価値表章の流通は、鋳貨がその機能から受け取る観念的な定在から生じたものであり、この観念化が絶対的に分離したとき、すべての法則がさかだちをして現われる。

3.貨幣(価値尺度と流通手段の統一としての貨幣)

さて、貨幣の二つの対立する側面、商品の使用価値と交換価値に相当する、貨幣の価値尺度と流通手段としてのそれぞれの側面とその発展形態が取り上げられたので、これからは、対立する側面の統一としての貨幣の全体像の中からその発展形態が論じられる。
 さて、「W−W、商品と商品との交換」である単なる否定の困難が、「W−G−W」という否定の否定という形態をとることによって、解決された。直接的交換取引(物々交換)という単なる否定が、販売W−G(第一の否定)と購買G−W(第二の否定)とに分離された。このことは、第一の否定と第二の否定とを入れ替えて、第二の否定から第一の否定が媒介されるという形態の可能性を表している。これが、G−W−Gという別の二重否定である。 W−G−Wという否定の否定の構造と、G−W−Gという否定の否定の構造とは、同じ運動の両側面である。しかし、後に「資本論」で展開されるように、前者から後者が分離し、独立化するとともに独自の展開を遂げることになる。ここにも二重否定が、直接的統一から媒介的統一へという論理構造が展開されている。

ここでは、「鋳貨と区別したばあいの貨幣」すなわち、価値尺度であり、同時に流通手段でもある実体としての金、すなわち金貨が「G−W−Gの出発点」から考察される。
 G−W−Gの特徴は、「商品を貨幣と交換するために貨幣を商品と交換するという形態」であり、「貨幣が貨幣になるのを商品が媒介」しており、貨幣は「流通の終局目的」、商品は「ただの手段」である。「その両極は金であり、しかも同じ大きさの価値の金である。」「売るために買うという公式に翻訳するならば、ただちにブルジョア的生産の支配的形態が認められるであろう。」つまり、もうすぐそこに、資本が待ち構えている。
しかし、この分離されたG−Gは、「貨幣が商品と交換されるのは、この同じ商品をふたたびもっと大きな量の貨幣と交換するためであるから、両極のGとGは、質的にはちがっていなくても量的には違っている」のであり「非等価物の交換を前提している」。単なる流通は、等価交換を前提している。従って、非等価交換が可能となるためには、新たな生産諸関係の展開がなくてはかなわない。二種類の否定の否定は、その達成する目的が異なり、内容が異なっている。等価交換から出発した商品交換が、非等価交換を生み出すということが、どうして可能なのか。ここからは、「流通手段とは区別される貨幣を、商品流通の直接の形態であるW−G−Wから展開しなくてはならない。」
金商品は、「まず、価値尺度と流通手段の統一として貨幣になる」が、「金は、価値の尺度としては、ただ観念的な貨幣であり、・・・単なる流通手段としては、・・・象徴的な金」である。しかし、金は、価値尺度と流通手段の統一としての貨幣として、「これらふたつの機能におけるその定在とは違った、独立の実在をもっている。」
 まず、「休止している商品たる金すなわち貨幣を、ほかの商品との関係で考察」する。「金は、抽象的富の物質的な定在である。」「貨幣自身の使用価値は、その等価物を形作る諸使用価値の無限の系列という形で実現されている。」「金は、その使用価値でもって、あらゆる商品の使用価値を代表しているのである。したがって金は、素材的富の物質的代表者なのである」。

a. 貨幣蓄蔵(非流通手段としての貨幣の側面、その1)

運動は矛盾である。運動は、瞬間瞬間でみれば、止まっており、しかし、動いている。そういう矛盾が運動である。貨幣の通流も、運動の特殊な形態であるから、この運動の一般性を持つ。
「商品がその変態の過程を中断し、金のさなぎになったままでいることによって、金はまず貨幣として流通手段から分離した。・・・だから金が貨幣として独立化するということは、なりよりもまず、流通過程または商品の変態が、ふたつの分離された、たがいに無関係に並存する行為に分裂しているということの明白な表現である。・・・ひとはいずれも、かれが生産するある一種類の商品の売手であるが、しかもまた、彼が社会的生存のために必要とするほかのすべての商品の買手でもある。」私的生産者の社会が前提されているので、商品所有者は、売り手としては、ただ一種類の商品を売るだけであるが、買い手としては、あらゆる多種類の日常品を買わねばならない。そこで、買手の中にある鋳貨は、時間的に分裂してその手を離れていく。従って、一時的に停滞するわけである。
「貨幣が鋳貨としてたえず流れるためには、鋳貨はたえず貨幣に凝結しなければならない。鋳貨のたえまない通流の条件をなすものは、鋳貨が、流通の中のいたるところで発生しながら流通を制約する鋳貨準備金という形をとって、大なり小なりの割合でたえず停滞することであるが、・・・。この場合貨幣は、事実上、停止させられた鋳貨にほかならず、・・・このような流通手段の貨幣への第一の転化は、貨幣通流そのものの単に技術的な要因を表わしているだけなのである。」

また、運動は、大きな流れという時間軸で見ても、矛盾である。流通は、時に速くなったり遅くなったりするところがあるために、その絶え間ない流れを維持しようとすると、どこかに緩衝地帯、すなわち停滞や滞留がなければならないはずである。この対立物との統一によって、はじめて運動が維持されるはずである。この長期の滞留は、富の出現である。
貨幣をもって、富が自然に発生するというのは、貧富の発生という意味で、貨幣の重要な機能である。ここから、持てる者と持たざる者との差が、生まれてくるからである。貨幣の発生以前には、商品交換者は存在するが、販売者と購買者の分裂と貧者と富者とへの発展は、論理的には存在しない。富の源泉としての貨幣が、必然的に、経済的に豊かな階級を生み出す。これも、非流通手段としての貨幣の機能である。
「貨幣としての金の使用価値は、それが交換価値の担い手であることであり、形態のない素材として一般的労働時間の体化物であることである。・・・このように貨幣として不動化された金または銀が、蓄蔵貨幣なのである。古代人のばあいのように、純粋な金属流通がおこなわれていた民族にあっては、貨幣蓄蔵は、個々人から国家に至るまですべてのものによってなされたことであり、国家は自己の蓄蔵貨幣の番をしていたのである。もっと古い時代には、アジアやエジプトでは、国王や僧侶が保管していたこのような蓄蔵貨幣は、それこそかれらの権力の証拠とみられていた。ギリシャやローマでは、過剰生産のつねに安全でいつでも好きなときに使える形態として国有の蓄蔵貨幣を作ることが、その政策となっていた。」
 自由平等な私的所有者の結合である古代都市国家における貨幣経済では、貨幣も国家所有の形態を維持するというわけである。
「金は、一般的労働時間の体化物であるから、この金が交換価値としていつでも作用することが、流通過程によって保証されているのである・・・商品を金という転化された姿で回収、保蔵するためにこれを交換することが、流通の独自の動機となる。・・・金銀は、非流通手段として貨幣となる。」

 「商品所有者は、・・・たえず売ることが、・・・貨幣蓄蔵の第一の条件である。他方、・・・貨幣が購買手段としての機能をはたすのをさまたげ・・・なければならない。・・・一般的形態における富を獲得するためには、素材的現実性における富をすてることが条件となる。・・・貨幣を流通の流れからひきはなして、社会的な素材転換からまぬかれさせることはまた、外面的には、埋蔵という形であらわれる。」

 「貨幣、つまり独立化した交換価値は、その質からみれば抽象的な富の定在であるが、他方、それぞれの与えられた貨幣額は量的にかぎられた大きさの価値である。交換価値の量的限界は、その質的一般性と矛盾する、そこで、貨幣蓄蔵者は、この限界を、実際には同時に質的な障碍に転化する障碍、いいかえれば、蓄蔵貨幣を素材的な富の単なる制限された代表物とする障碍として感ずるのである。」つまり、一定の量として実際に存在する貨幣は、蓄蔵者の意識の中に、貨幣の抽象的な一般的性質と矛盾しているように感ぜられるというわけである。「貨幣がどこまで近似的にこういう無限の系列として実現されるか、つまり交換価値としてのその概念にどこまで近似的に対応するかは、交換価値の大きさにかかっている。交換価値としての、みずから動くものとしての交換価値の運動は、一般的にはただ、その量的な制限をのりこえようとする運動でありうるだけである。」量的増加が質的障壁を突破する。蓄蔵貨幣は、無限の量に向かっていく強度の傾向をもつ。

  この蓄蔵貨幣の人格化、貨幣蓄蔵者の意識への反映が、「致福欲」である。「貨幣はただ致福欲の一つの対象であるだけではない、貨幣こそはその唯一の対象である。」

「蓄蔵貨幣をつくりだす活動は、一方ではたえず販売をくりかえすことによって貨幣を流通から引き上げることであり、他方ではただためこむこと、蓄積することである。富としての富の蓄積がおこなわれるのは、実際にはただ単純流通の領域内だけのことであり、それも貨幣蓄蔵の形態でだけである、・・・商品の形態をとった富は、もうひとつには、交換価値としてためこまれる、そしてこのばあいには、ためこみは、商人的な作業、つまり特殊な経済的作業としてあらわれる。この作業の主体は、穀物商人、家畜商人等々となる。」

 「わが貨幣蓄蔵者は、交換価値の殉教者として、金属柱の頂上にすわった神聖な苦行者としてあらわれる。・・・しかし、実際には、貨幣のために貨幣をためこむ事は、生産のために生産の、つまり社会的労働の生産諸力が伝来の欲望の制限をこえてすすむ発展の、粗野な形態である。商品生産が未発達であればあるほど、交換価値を貨幣として独立化する最初のもの、つまり貨幣蓄蔵は、それだけいっそう重要である。だから貨幣蓄蔵は、古代諸民族にあっては大きな役割を演じており、アジアでは現在に至るまでそうである、また、交換価値がまだすべての生産諸関係をとらえるにいたっていない近代の農業諸民族にあってもやはりそうである。」
 蓄蔵貨幣としての特殊な形態として、「奢侈対象としての金銀の使用」を挙げている。
「金銀でつくられた商品は、・・・それを構成する材料が貨幣の材料である限り、貨幣に転形することができる、・・。・・・富が増加するにつれて奢侈対象としての金銀の使用が増加する・・・」。

非流通手段としての貨幣は、流通から分離しているが、一方、流通と媒介的に統一されてもいる。貨幣蓄蔵の社会的機能といってもよい。
「貨幣通流は、・・・一方では流通する諸商品の価値総額の変動、・・・他方では、それら諸商品の形態転換のそのときどきの速度に応じて、流通する金の総量は、たえず膨張したり収縮したりしなければならない、しかしそれは、一国にある貨幣の総量の、流通にある貨幣の量に対する比率が、たえず変動するという条件のもとで、はじめておこりうることである。この条件は貨幣蓄蔵によってみたされる。」流通の変動を補完するのが、貨幣の蓄蔵という安定であるというのも、一つの矛盾である。蓄蔵貨幣は、貯水池に例えられる。「こうして蓄蔵貨幣は、流通している貨幣の流入、排出の水路としてあらわれ、その結果、流通そのものに直接必要とされる分量の貨幣だけが、つねに鋳貨として流通することになる。」
 

b. 支払手段(非流通手段としての貨幣の側面、その2)

いままで論じた非流通手段との貨幣は、鋳貨準備金と蓄蔵貨幣である。
 鋳貨準備金=「流通を停止した鋳貨の形態」は、「購買G−Wが、一定の流通領域の内部では、必然的に一連のつぎつぎにおこなわれる購買に分裂するということを、反映していた。」「蓄蔵貨幣の形態」は、「単にW−Gという行為が、G−Wにすすまないで孤立するということにもとづくもの」「あらゆる商品の脱却した定在として生成した貨幣」である。
 いままでは、「流通手段としては、貨幣は常に購買手段であった」。非流通手段として機能する可能性としては、非購買手段としての可能性がある。
 「貨幣は、それが貨幣蓄蔵によって、抽象的社会的富の定在、および素材的富の代表物として発展するや否や、貨幣としてのこの規定性において、流通過程の内部で特有の機能をもつようになる。」「国内流通の内部では、貨幣は観念化され、ただの紙切れが金の代表物として貨幣の機能をはたすのであるが、それと同時に、この同じ過程は、貨幣なり商品なりの単なる代表者として流通にはいってくるところの、つまり、将来の貨幣なり将来の商品なりを代表するところの買手または売手に、現実の売手または買手としての能力をあたえるのである。」
 「売手は商品を実際に譲渡するが、さしあたってはその価格を、またもやただ観念的に実現するにすぎない。かれは商品をその価格で売ってしまうのだが、その価格は将来のある決められた時期にはじめて実現される。売手は現在の商品の所有者として売るのに、買手は将来の貨幣の代表者として買うのである。・・・前には価値表章が貨幣を象徴的に代理したのであるが、ここでは貨幣を象徴的に代理するものは買手自身である。しかも、前には価値表章の一般的象徴性が国家の保証と通用強制とをよびおこしたように、ここでは、買手の人格的象徴性が、商品所有者の法律的強制力をもつ私的契約をよびおこすのである。」
 買手は、貨幣の支払という一般性を約束するが、それが実現するのは将来の或る時であるという特殊性を担保せねばならない。それを買手という経済的人格において行うのである。この一般性と特殊性の矛盾を定立させるものが、法的強制力を持つ私的契約なのである。
 ここでは、販売と購買が分裂する、購買なしの販売と、販売なしの購買である。「流通のうちに直接あらわれる場合にはただ頭の中で考えられたものにすぎない購買と販売との違いが、いまや現実的な違いになるということ、そしてそれは、一方の形態では商品だけが、他方の形態では貨幣だけが現存しており、しかもそのどちらの形態においても、過程をはじめる極だけが現存していることによるものだということ、これである。」前述した販売と購買の直接的統一が、ここでは媒介的統一に変えられている。
 「売手と買手は、債権者と債務者になる。

  「変化した形態W-Gでは、貨幣は、まず価値の尺度として機能する。商品の交換価値は、その尺度としての貨幣で評価される、だが価格は、契約上はかられた交換価値として単に売手の頭の中に実在するばかりでなく、同時にまた買手の義務の尺度としても実在する。第二に、この場合貨幣は、・・・購買手段として機能する。すなわち、貨幣は、商品をその場所から、つまり売手の手からひきだして買手の手にわたす。一旦、契約を履行する時期が来れば、貨幣は流通にはいっていく、・・・。・・・商品にとっての唯一の適当な等価物として、交換価値の絶対的な定在として、交換価値の最後の言葉として、要するに貨幣として、しかも一般的支払手段としての一定の機能における貨幣として、流通にはいるのである。・・・購買手段と支払手段との区別は、商業恐慌の時期には、はなはだ不愉快にめだってくる。」
 契約を履行する場合、私的契約として担保した、支払手段としての一般性と、支払する状況の特殊性とが、姿を現すのである。

 「契約期限に支払うためには、かれはまえもって商品を売っていなければならない。だから販売は、かれの個人的欲望とはまったく無関係に、流通過程の運動をとおしてかれにとってひとつの社会的必然となっている。かれは、・・・支払手段としての貨幣、交換価値の絶対的形態としての貨幣を手に入れるために、むりやりほかの商品の売手にされるのである。・・・支払のためにするという販売の動機と内容とは、流通過程そのものの形態から発生する販売の内容である。」
「販売の両極が時間的にはなれて実在するこのような掛売りが、単純な商品流通から自然発生的に生じる・・・。」「こうして商品所有者たちのあいだに債権者と債務者との関係が成立する、この関係はなるほど信用制度の自然発生的な基礎をなすものではあるが、・・・けれども、信用制度の成熟・・とともに、支払手段としての貨幣の機能が、購買手段としての貨幣の機能を犠牲にして、またそれにもまして貨幣蓄蔵の要素としてのその機能を犠牲にして、拡張されるということはあきらかである。」

   「一般的支払手段として、貨幣は、契約上の一般的商品となる、・・・。・・・貨幣のこうした機能が発展するにつれて、他のすべての支払の形態は、だんだん貨幣支払に解消していく。」

 「支払手段として流通する貨幣の量は、まず、支払の総額、つまり譲渡された商品の価格総額によって規定される・・・。だが、こうして規定された総額は、二重に修正される。第一には、同じ貨幣片が同じ機能をくりかえす速度によって、・・・他方では、さまざまな支払期日間の時の長さに依存している。」
 「同時になされるべき諸支払がひとつの場所に集中すること・・・になれば、諸支払は、・・・プラスとマイナスの大きさとして相殺される。だから、支払手段として必要な貨幣の額は、・・・諸支払の集中の程度と、それらがプラス及びマイナスの大きさとして相殺されたあとにのこる差額の大きさとによって規定されることになる。この相殺のための特有な施設は、たとえば古代ローマでのように、信用制度がすこしも発達していなくてもできてくる。」
「もろもろの支払がプラス、およびマイナスの大きさとして相殺される限り、実際の貨幣の介入はまったくおこらない。・・・貨幣は、ただ観念的な計算貨幣となるにすぎないのである。こうして、支払手段としての貨幣の機能は、つぎのような矛盾をふくんでいる。すなわち貨幣は、一方では、諸支払が相殺されるかぎりでただ観念的に尺度として作用するに過ぎないが、他方では、支払が実際におこなわれなければならないかぎり、一時的な流通手段としてではなく、・・・貨幣として流通に入っていくという矛盾がこれである。だから、諸支払の連鎖とそれらを相殺する人為的制度がすでに発達しているところでは、支払の流れをむりやりにせきとめてそれらの相殺の機構をかきみだすような激動が生じると、貨幣は、突然、価値の尺度としてそのかすみのような、まぼろしのような姿から、硬貨つまり支払手段に急変するのである。・・・それらの富が実際に価値を減少し、価値を喪失するときである。これこそは、貨幣恐慌とよばれる世界市場恐慌の特別の契機である。」
 支払手段としての貨幣の発展は、観念的に尺度として機能するが、或る期日が来ると実際の流通に姿を現すという矛盾を生む。

 「支払は、それとしてまた、準備金を、つまり支払手段としての貨幣の蓄積を必要とする。・・・むしろ貨幣は、将来の一定の支払期日に手元にあるように、だんだんに蓄積されなければならない。・・・一般に商品流通の領域内で形成される蓄蔵貨幣の一部分が、支払手段の準備金として吸収される。」ここに新たな貨幣の滞留地域が発生する。

「単純な貨幣通流の考察から生じた、流通する貨幣の量についての法則は、支払手段の通流によって根本的に修正される。もし貨幣の通流速度があたえられていれば、・・・あるあたえられた期間内に流通する貨幣の総額は、実現されるはずの商品価格の総額プラスその同じ期間中に満期になる支払の総額マイナス相殺によっておたがいになくなる支払の総額、によって規定される。」
「金銀の価値の変動は、価値の尺度または計算貨幣としてのそれらの機能に影響するものではない。しかしこの変動は、蓄蔵貨幣としての貨幣にとっては決定的に重要になる・・・。支払手段としての貨幣にとってはさらにいっそう重要になる。・・・貨幣は、ふたつの異なる時期にふたつのことなる機能で、まず価値の尺度として、つぎにはこの測定に照応する支払手段として作用する。もしこのふたつの時期のあいだに、貴金属の価値・・・が変動するならば、おなじ量の金銀は、支払手段としてあらわれるときには、・・・契約のむすばれときに比して、より大きいか、またはより小さい価値をもつことになろう。この場合は、金銀のような特定の1商品の、貨幣つまり独立した交換価値としての機能が、その特定の商品としての、つまり価値の大きさが生産費の変動にかかっている商品としての本性と衝突するのである。」
 以上、あまり説明を加えず、支払手段としての貨幣の発展を引用してきたが、それだけで、十分明らかであろう。

c. 世界貨幣(国内流通の範囲外の貨幣)

「商品の世界で一般的等価物として機能するために国内の制限をつきやぶること」によって、「金は世界貨幣となる。」ここでは、国家の制限が消えてしまう。この場合には、「世界鋳貨としての貴金属は、形状と刻印とをふたたびぬぎすてて、そういうことにかかわりのない地金形態に逆戻りする。・・・最後に貴金属は、国際的貨幣として、ふたたび、交換手段としてのその本来の機能を、すなわち商品交換そのものと同じように、・・・異なった共同体の接触点で発生した機能を、はたす。こうして貨幣は、世界貨幣として、その自然発生的な、最初の形態をとりもどすのである。」世界貨幣としての金は、「流通手段の原始的形態」へ逆戻りする。
「一国の国内流通では、ただひとつの商品だけが価値の尺度として役立つ」が、「ある国では金が、ほかの国では銀がこの機能をはたしているから、世界市場では二重の価値尺度が通用し、貨幣は、ほかのあらゆる機能においても、二重の実在をもつようになる。」
 「国際的商品流通では、金銀は、流通手段としてではなく一般的交換手段としてあらわれる。けれども、一般的交換手段は、購買手段と支払手段というふたつの発展した形態においてのみ機能し、しかもこれら両者の関係は、世界市場では逆になる。・・・ここでは金銀は、素材転換がただ一方的で、そのために販売と購買が分離しているばあいに、購買手段としてあらわれるのである。・・・さらにまた貴金属は、たとえば不作のために一方の国が異常に多量のものを買わなければならなくなるというように、二国間の素材転換のこれまでの均衡が突然やぶられるやいなや、国際的購買手段として機能する。最後に貴金属は、金銀を生産する国々の手中では国際的購買手段である、・・・。さまざまな国民的流通領域のあいだでの商品交換が発展すればするほど、国際収支決済のための支払手段としての世界貨幣の機能は、ますます発展する。」
 「国内流通と同じように国際流通も、たえず変動する量の金銀を必要とする。だからどの国民のもとでも、蓄積された蓄蔵貨幣の一部分が世界貨幣の準備金としてのはたらきをし、それが、商品交換の振動に応じて、あるいは空になったり、あるいはふたたび充たされたりする。世界貨幣は、国民的流通領域のあいだを往復する特定の運動のほかに、ひとつの一般的運動をもっている、この運動の出発点は金銀の生産源にあり、金銀の流れは、そこをでてさまざまな方向をとりつつ世界市場をかけめぐるのである。このばあい金銀は、商品として世界流通にはいり、等価物として、それらに含まれている労働時間に比例してもろもろの商品等価物と交換され、そのうえで国内的流通領域におちつくのである。」

   「金銀は、・・・世界貨幣においては、普遍的商品というそれに適応した実在形態をえる。・・・世界貨幣としての金銀は、一般的商品流通の産物であると同時に、その範囲をさらに拡張するための手段でもある。・・・商品所有者が魔法にかけられた姿の商品を追いまわしているうちに、いつか世界産業と世界商業との泉が湧き出したのである。金銀は、その貨幣概念のうちに世界市場の定在を予想しており、それによって、世界市場の形成をたすける。」
「貨幣が世界貨幣に発展するように、商品所有者はコスモポリタンに発展する。人間同志のあいだのコスモポリタン的関連は、もともと、ただかれらの商品所有者としての関連にすぎない。」
 この世界貨幣の節には、商品において最初に論じた観点が、再びあらわれている。

4. 貴金属(貨幣に適している理由)

最後に、貴金属が論じてある。これは「資本論」では、注にふれてあるだけで本文にはでてこない。
 ここでの問題は、「なぜ、ほかの商品でなく金銀が、貨幣の材料としての働きをするのかという問題」であるが、それは「ブルジョア的体制の限界の外にある問題である。」
つまり、金銀が、価値尺度と一般的交換手段としての貨幣の担うべき実体として性質を備えているということである。
「一般的労働時間そのものは、ただ量的な区別を許すにすぎないから、それの特殊な化身として通用すべき対象物は、純粋に量的な区別を表わす事ができなければならず、したがって、質の同一性、一様性を前提としている。これこそは、一つの商品が価値尺度として機能するための第一条件である。・・・金銀は、単一体として常に相互に等しく、したがってそれらの等しい量は、等しい大きさの価値を表わしている。一般的等価物として働きをすべき商品にとっての、もう一つの、純粋に量的な区別を表わすという機能から直接に生ずる条件は、それが任意の諸部分に細分でき、しかも各部分が再び結合できるということであり、・・・金銀はこれらの属性を高度に備えている。」

  「流通手段として、金と銀は、・・・その比重が大きく、・・・それに応じてその経済的比重も大きく、・・・大きな交換価値を、小さな容量のうちに包むことができるということ・・である。この長所によって、・・・流通過程の永久運動としての働きをすべき商品の必須条件である物質的な可動性が保証されている」。
「貴金属の高い価値比重、耐久力を持ち、相対的意味では破壊されず、空気に触れても酸化しないという性質、・・・こうした一切の自然的属性が、貴金属を貨幣蓄蔵の自然的材料たらしめている。」
「金銀は、・・・はるかにやわらかく、そのことが、金銀を生産用具として利用することを不可能にし、・・・。金銀は、・・・生活資料として、・・・なければなくてすむものである。・・・金銀に特有の使用価値が、それらの経済的機能と矛盾することはない。・・・金銀の美的な諸属性は、・・・余剰と富の積極的な形態たらしめるのである。」
「最後に、金銀が、鋳貨の形態から地金形態に、地金形態から奢侈品の形態に、また、その逆の方向に転化されうること、それゆえ一度与えられた一定の使用形態にしばられないという・・・点を持っていること、このことは、金銀を、貨幣というたえず一つの形態規定性から他の形態規定性に転じなければならないものの自然的な材料たらしめる」。
「金銀は本来貨幣ではないが、貨幣は本来金銀である。」

「金銀は、・・・ほかの商品を平均したものよりも、はるかに長い期間変わらない大きさの価値を持っている。・・・こういう価値変動の純経済的な根拠は、これらの金属の生産に必要な労働時間の変動に帰せられなければならない、・・・。・・・この労働時間そのものは、それらの金属の相対的な自然的希少性、及び純粋な金属状態で採取することの難易によって左右されるであろう。」
このあとの「流通手段と貨幣についての諸学説」をのぞけば、これで「批判」は終わりである。


まとめ

最後に、経済学批判の弁証法論理をまとめておこう。
まず、根本的な矛盾は、生産力と生産関係の矛盾である。私的所有の下での生産物の交換が、生産物に商品という形態を押し付ける。そこで、生産力と生産関係の矛盾が、商品の中に、使用価値と交換価値となって、対象化される。
 使用価値と交換価値の矛盾は、商品の交換過程の矛盾となって反映する。そこで、まず、交換価値は、特殊な商品である金に、価値尺度の役割を与える。また、交換過程から、金に、流通手段の役割が生ずる。こうして、商品の世界が二重化し、貨幣の世界が生まれ、価値尺度と流通手段の矛盾を背負った貨幣が生ずる。
 商品の交換過程という運動の中に、貨幣が生まれることによって、交換過程は、商品の流通過程となって、交換過程の矛盾を解決する否定の否定の運動として表れる。
 価値尺度としての貨幣は、他の商品の交換価値に、価格という表現を与える。そこで、逆に、金は、価格の度量標準という形態を与えられる。これが、金の重量尺度の形を借りて、金属重量の貨幣名となる。これが、計算貨幣である。
 一方、流通手段としての貨幣は、流通過程の中で、まず、購買手段として表れる。そこで、貨幣は、計算貨幣の度量標準に従って、鋳貨という形態を取る。しかし、流通手段としての貨幣の現実の運動から、金鋳貨は、銅貨や紙幣のような価値表象の形態となる。
 現実の運動から、貨幣は、非流通手段としての側面を展開させ、貨幣蓄蔵、支払手段としての性質が発展する。これは、私的契約をよび起す。
 非流通手段としての貨幣の役割は、流通過程の運動の分裂から生ずるもう一つの否定の否定の運動を生み出す契機となるが、これは、次の資本論の中へ引き継がれる。
 ところで、これは、一国内でおこることで、国外に出れば、金は、世界貨幣として、発展以前の形態にもどる。
 弁証法論理という観点で見るならば、基本的な矛盾が、段階を上げる毎に、別の矛盾へと転化される。一方、段階を上げる毎に、本質から現象へと近づいていく。
以上が、商品から貨幣への論理的展開である。

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