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「資本論」学習会;難点解説 (1)


第1部第1篇第1章第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)

問1:「資本論」を読破したいと思って読み始めるのに、いつも途中で挫折してしまいます。第1巻だけでも、自分にとっては、相当、量が多いと思いますが、それ以上に、読んでいると、途中で何が何だか分からなくなるのです。書いてあることがチンプンカンプンで、それで途中で止まってしまうのです。そこで、そういう分かりにくいところをわかりやすく説明してくれませんか。
答1:わかりました。あなたが難しいと感じた個所は、多くの人も同じように感じたでしょう。おそらく、最初はなんとなくわかったように思えるのでそのまま読んでいくと、途中からなにがなんだかわからなくなってしまい、元に戻って最初から読み返してみると、最初になんとなくわかったように思えた部分が、実はよくわかっていなかったということに気が付いたということではないでしょうか。
マルクスの文章は、論理学の本のように論理的にきっちりと構成されているので、慣れないとなかなか、理解が難しいのです。
どれだけやさしくできるかわかりませんが、できるだけ理解しやすいように説明しましょう。

問2:(第1段落)まず最初の文章の中の「商品」とは、「資本主義的生産が支配的に行われている社会」の中の商品ですから、今の社会の商品と考えていいのですね。
答2:その通りです。
あなたにとってはやや難しいとは思いますが、後で理解が進んでから読み返してもらうことを前提に、もう少し説明を付け加えておきます。
ここでマルクスが扱っている商品は、商品としての条件をすべて兼ね備えた、十分発展した商品として設定されています。未発達で商品として条件の不十分な商品、例えば、物々交換からそれほど経ていない商品とか、交換目的で生産されていない商品とかいうものではないということです。商品としての条件は、商品生産が一般的になった資本主義的社会において、全面的に開花されるのです。
また、論理的にきわめて抽象的な商品となっています。つまり、本の中で後に展開される特殊な商品、貨幣や資本や労働力商品などの特殊な商品から抽象して把握された商品という意味です。哲学者ヘーゲルは、学問を記述する最に、最も抽象的なものを最初に置いていますが、「資本論」の場合も、そういう最も抽象的なものを最初に持ってきているのです。

問3:(第4段落)「使用価値は交換価値の素材的担い手」というのは、どういう意味ですか。
答3:すぐ後に出てきますが、交換価値は、ある使用価値、例えば小麦が、他の使用価値、例えば靴墨と、交換できるという量的関係を表しています。関係を表すには、その関係を担っている実体、素材とか物質とか言ってもいいですが、そういうものがいります。
例えば、あなたには親がいますよね。親から見れば、あなたは子ですね。あなたとあなたの親とは、親子関係という関係で結ばれています。あなたがいなければ、あなたの親にとっては親子関係を取れないわけですから、あなたは、親子関係を担っている人間(という実体)というわけです。
物理学で法則と言われるものは、たいてい一つの関係を表しています。例えば、二つの物体はお互いに引き合うと言う関係を持っています。地球と月はお互いに引力で引き合っていますし、地球は太陽に引っ張られています。何も物体が存在しないところに、引力はありません。ですから、月と地球、地球と太陽は、引き合うと言う関係を担っている物体(=実体)なのです。
交換価値というのも、それに似ています。小麦と靴墨は、それぞれ互いに交換できるという関係にあるわけですから、そういう関係を担っている担い手なのです。
後ででてきますが、マルクスは、交換価値という表現に替えて「価値」という言葉を使っていますが、ともに関係を表す表現として使われています。使用価値というのは、商品が使用できるという属性ないし属性を持った実体を表していますが、「交換価値」「価値」というのは、実体を表すのではなく、関係自体を表す言葉なのです。

問4:(第6段落)「およそ交換価値は、ただ、それとは区別される或る実質の表現形式、『現象形態』でしかありえない」というのはどういう意味ですか。「現象形態」というのは、何を表しているのですか。
答4:第6段落から第9段落で表しているのは、「抽象」という思考の手順です。
抽象という思考法は、ある種の思考の飛躍です。例えば、今、私の机の上にエンピツとボールペンとサインペンがあります。それぞれ具体的なものは、それぞれ異なった性質(特殊性)を持っていますが、同時に、ある共通の性質(普遍性)を持っています。そこで、それぞれ個々のものから、それぞれの特殊性を捨て去り(捨象)、これらの共通する側面を取り上げ一つの概念にまとめて(抽象)、「筆記具」という言葉(抽象的概念)で表すことができます。消しゴムやノートなどを入れると、更に、「文房具」という「抽象」で纏めることもできます。スーパーやホームセンターなどでは、それぞれの商品は、そういう抽象のくくりでまとめて商品棚に陳列されています。
ここでは、それぞれの種類の物体=実体に対する名前について取りあげましたが、関係自体に対する名前にも、同じことが言えます。
例えば、あなたは、あなたの父母とは、親子関係にありますが、あなたが子を持っていれば、あなたの子とも親子関係になることになります。更にその子が子を持てば、あなたにとっては孫の関係になるでしょう。更に、あなたの兄弟姉妹、甥姪の関係まで含めて、それらをまとめて「抽象」(共通の性質を取り出す)すれば、血族の関係(血のつながり)といえるでしょう。こういう関係を表す場合には、抽象度の高い方を「本質」(実質ともいえます)、抽象度の低い方を「現象」といって区別します。親子関係というのは、それ以外の多くの血族の関係の中の一つですから、血族という「実質」(共通の性質)の表現形式、「現象形態」というわけです。
1クォーターの小麦は、x量の靴墨とか、y量の絹とかと交換できるわけですから、さまざまな特殊な交換関係(交換価値)にあるわけですが、その中にはなにか同じもの(共通の性質)が含まれているはずです。その同じものは、それぞれの交換関係を担っている、それぞれ異なった使用価値の抽象によって求められるものです。その抽象によって導かれた「実質」(本質)から見ると、それぞれの交換関係(交換価値)は、「現象形態」ということになるのです。
抽象という思考法は、極めて重要です。マルクスは、「序文」で、「経済的諸形態の分析では、顕微鏡も科学試薬も役には立たない。抽象力がこの両方の代わりをしなければならない。」と言って、読者に注意を呼び掛けています。

問5:(第8段落)ここで挙げている「幾何学上の一例」は、何を例えているのですか。わかったようでよくわかりません。「わかりやすくする」と書いてありますが、私にはわかりにくくなっています。例が不適切ではありませんか。
答5: ここで言っているのは、抽象という思考の一連の過程での一般的な手順です。複雑なものを抽象する場合には、まず、それらをできるだけ単純なものに変換して見やすくし、そのあとで具体的なものから抽象するという手順を取るということです。具体的なものから抽象すると言う手順は、答4ですでに説明しました。
直線形、例えば、さまざまな大きさの4角形、5角形、6角形・・・などから、面積という抽象を取り出す場合には、まずは、それぞれの複雑な直線形を最も単純な直線形である3角形に分解します。面積という抽象は、目に見える図形とは異なって、「その目に見える形とはまったく違った表現」ですが、どんな複雑な図形でも3角形にしてしまえば、その面積は「底辺×高さ÷2」で求められますから、その3角形の面積の和で全体の図形の面積が求められます。さまざまな大きさの直線形は、面積という共通の質の量的な違い、というより、質を持たない面積という量の単なる差に還元されます。
ここでは図形という実体を例として挙げていますが、実体ではなく、関係を取りあげる場合にも同じ手順を踏みます。
小麦と鉄を取りあげた場合、まず、それらを一つの等式:1クォーターの小麦=aトンの鉄という単純な関係の表現に還元します(第7段落)。その後で、その中に含まれる共通物を抽象する(第9段落)というわけです。
「例」というのは、抽象的なものを一つの具体的なもので表現して、わかりやすく理解してもらおうとしているのですが、やはり限界があります。仕方のない事です。

問6:(第12段落)その前の第11段落で、「これらの労働は・・・抽象的人間労働に還元されている」といっているのに、なぜ、また、第12段落で「これらの労働生産物に残っているものを考察」しなければならないのですか。また、「まぼろしのような対象性」とは、何を表しているのですか。
答6:ここでは、関係を担う実体と関係を形成する実体とを、明確に区別することが、理解する上で大切です。
使用価値を持つ商品は、人が労働を行って作り上げたもの(労働生産物)です。机や家や糸などの使用価値は、それを作り出した労働が、指物労働や建築労働や紡績労働というそれぞれ特殊性を持った労働であることを表してします。このことを、人間が労働を行って自然の素材(対象)を人間にとって有用なものに変えたという意味で、労働を対象化したと言います。それぞれの使用価値には、過去の、それぞれの特殊な労働の軌跡・痕跡が残っており、それぞれの使用価値は、それぞれの労働を対象化したという関係を担っている実体です。これに対し、それぞれの特殊な労働は、使用価値に労働が対象化されているという関係を形成した実体です。
第6段落から第9段落では、諸商品の交換関係(交換価値)を共通ものに還元すると言い、それは諸使用価値を捨象することになると言っています。このことは、諸使用価値に対象化されている労働の具体的な形態を捨象してしまうことを意味します。第11段落では、その結果得られた労働は、「すべてことごとく同じ人間労働、抽象的人間労働」というものです。それはちょうど、第8段落の例に挙げた、面積のような、質を持たない量です。
これに対して、第12段落では、労働自体(労働を対象化する関係を形成した実体)から、労働生産物(労働を対象化した関係を担っている実体)の方に視点を移動させています。
労働生産物に残っているものは、なんでしょうか。労働生産物には人間労働が、まるで封筒に貼ってある切手のように、貼りついているわけではありません。それは、労働を行ったと言う関係が残っているだけです。諸交換価値に対応する、抽象的人間労働を支出したという関係が、結びついているだけです。それを、抽象的な=まぼろしのような、対象化された=対象性、と表現したのです。労働生産物(使用価値)は、労働を対象化したという関係を担っていますから、価値を持っていますが、形成した実体である人間労働力自体は、価値を持っていません。つまり、第11段落から第12段落へは、説明する対象を移動させているのです。
ところで、関係を担っている実体と関係を形成する実体が一致する場合もあります。
先に、親子関係で血族の話をしましたが、その場合には、関係を担っている実体と関係を形成する実体は一致しています。
また、厳密に言えば「関係」ではありませんが、担う実体と形成する実体が一致しない例として、テレビに映る映像を取りあげてみましょう。
テレビで、野球中継をやっていました。テレビは、送られてくる電波を電気信号に変換して、野球中継の映像を映し出しているものです。誰も、テレビという機械の裏に野球中継が貼りついているとは、思わないでしょう。この場合、テレビモニターは、映像の担い手(担う実体)であり、映像を形成する実体は野球そのものです。ここでは、映像が、価値に相当します。(価値は、ある意味では「像」といっていいでしょう。)

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問7:(第14段落〜第15段落)第14段落では、価値は抽象的人間労働が対象化されたもので、それは労働時間で測られるといっています。それが第15段落では、社会的平均労働力という表現になっています。抽象的人間労働と社会的平均労働とは、同じものではないのですか。同じなら、なぜ抽象的という言葉を使わず、平均労働という表現になっているのですか。また、平均労働というのは、「怠惰または不熟練」を含めた数学的な平均と考えていいのですか。
答7:ここでは、価値を形成する実体と、実体そのものとを区別することが大切です。価値を形成する実体という場合、実体を、価値に表現される側面から、より正確には、抽象される過程を経て得られた側面から、取り上げています。すなわち、人間労働力という実体の抽象的側面が取り上げられています。人間労働をこの側面から取り上げると、対象化された労働の質的側面は完全に捨象され、量的側面だけが残ります。これが労働の継続時間です。時間で測られる抽象的人間労働は、質を持たない量であって、頭の中で抽象したものです。(答6で強調したように、対象化された労働(価値を形成する実体)は価値として結晶していますが、人間労働力(実体そのもの)は価値を持っていないと言う点に注意してください。)
人間労働力という実体そのものは、価値を形成する側面以外に、さまざまな側面を持っていますから、実体の方から価値を眺めてみると、価値に反映されるのは、人間労働力という実体の側の社会的平均的性格であり、それを社会的平均労働力と言っているのです。平均労働は、抽象という過程を経て得られたものではありませんし、価値を持っていません。
テレビの例で言えば、テレビに映る映像は、実際の野球の試合に対し、放送局の撮影機に映った場面を送信しているわけで、野球の試合の一側面を切り取って映しています。野球場に行って試合を見ているばあいには、試合そのものですから、それを映像(像)とは言わないでしょう。試合を観客になってみている場合、テレビの映像とは異なって、テレビに映る場面以外も見ることができます。この場合、実際の試合は実体そのもの(像に対する原型)ですが、テレビの映像は、実体そのものを、映像を形成する側面から取り上げた像ということになります。
社会的に必要な労働時間を「現存の社会的に正常な生産条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値を生産するために必要な労働時間」といっていますから、「怠惰または不熟練」は除外されていて、その社会にとって正常な生産条件と労働の熟練および強度の社会的平均度をもった労働時間の平均と取るのが、自然な解釈だと思います。

問8:(第17段落)「一商品の価値の大きさは、その商品に実現される労働の量に正比例し、その労働の生産力に反比例して変動する」とありますが、労働の生産力というのは、どういう意味ですか。
答8労働の生産力というのは、使用価値の量に表される人間労働力の側面です。労働の生産力が上がれば、生産される使用価値の量が増え、労働の生産力が下がれば、生産される使用価値の量が減少します。この段落には、労働の生産力を規定する要因が列挙されていますが、この段階では、あまり詳しく触れないでいきましょう。なぜなら、いずれ後で詳細に議論されるからです。
一人の人間が一日に支出する労働の量が社会的平均において、8時間分だとしましょう。そうすると、一人の人間が一日に対象化できる平均的労働時間は8時間で、価値量は社会的労働時間に比例しますから、一人の人間が一日に対象化できる商品の総価値量は、8時間分でいつも一定です。しかし、一人の人間が一日に生産できる使用価値の総量は、労働の生産力の高さによって変化します。したがって、その8時間の間に生産される使用価値の総量が以前より増加すると、一個当たりの使用価値に配分される価値量は減少しますし、逆に使用価値の総量が減少すると、使用価値一個に配分される価値量は増加します。一個の商品から見ると、価値は労働の量に比例し、労働の生産力に反比例することになるのです。
社会的平均労働時間8時間分の総価値量=(ある社会的平均労働者が生産する)ある使用価値の総量×ある使用価値の一個当たりの価値量

問9:(第18段落)「他人のための使用価値、社会的使用価値」というのは、何を意味しているのですか。また、エンゲルスの注は何を補足しているのですか。
答9:次の第2節でも取り上げますから、ここでは簡単に説明しておきましょう。
ここで言っているのは、使用価値が商品となるためには、物々交換とか、商品交換とか、そういう交換に出されなければならない、そういう交換に出されたものが商品になると言っているのです。その場合、使用価値(労働生産物)は、生産者にとっては使用の目的はありませんが、交換の相手にとっては、使用目的です。
ここでいう交換は、同じ価値同士を交換すると言う意味で、等価交換ですが、これを労働生産物の移動といった観点で見ると、相互移動ということになります。また、一方的な移動、例えば、一方的に取り上げられたり、最初から相手にあげる目的で生産したものを与えたり、といった場合もあります。エンゲルスの注は、一方的な移動の場合は、使用価値であり、労働生産物として労働が対象化されてしても、商品にはならない(価値を形成しない)といっているのです。

第1篇第1章第2節 商品に表される労働の二重性

問10:(第1段落)「商品に含まれている労働の二面的な性質」とは、何ですか。抽象的人間労働の事は出てきましたが、そのことですか。
また、いままでのところで、いろいろの言葉が出てきたので、やや混乱しています。特に、前節第11段落(問6)以降で、抽象的労働という言葉ができきてから、やや混乱気味です。そこのところを再度整理して、説明してください。
答10:最初は商品の話と思っていたら、途中から労働の話になり、それが抽象ということになって、理解が追いついていないのだと思います。やや繰り返しになるかもしれませんが、労をいとわず、説明しましょう。
使用価値に対象化された労働と価値に対象化された労働と、労働生産物自体は労働を対象化したと言う関係を担っている実体で同一ですが、形成する実体が異なっています。使用価値に結晶しているのは、労働の具体的な側面(第3段落では、これを有用労働と呼んでいます。)=リンネルや上着にそれぞれ対象化された織布労働や裁縫労働のような労働の具体的な性質(労働の特殊性)であり、価値に結晶しているのは、労働の抽象的な側面=リンネルや上着にそれぞれ対象化された紡績労働や裁縫労働から抽象される労働の抽象的な性質(労働の普遍性)です。これは、人間労働という同一のものの二面的な性質なのです。(弁証法(論理学)では、この労働の普遍性と特殊性を、矛盾として把握します。)
ところで、前節第7段落で、1クォーターの小麦=aトンの鉄という等式が急に出てきたので、びっくりしたのではないかと思います。等式は、例えば2+2=4のように、両辺に同じ量がくるのが当然だからです。ここで等式の両辺に、異なった使用価値を持ってきているのは、それが(物々)交換されるということが前提になっているからです。つまり、イコール=は、(物々)交換を表現しているのです。(答9参照)
小麦と鉄を交換するというのですから、そこには、一方に小麦を持った、もう一方の側に鉄を持った販売者(購入者)がいるはずです。商品の販売者が必ずしも所有者とは限りませんが、販売者に販売を委託するにせよ、所有者はいます。また、所有者が生産者とは限りませんが、それぞれの商品を作った生産者(労働者)がいます。販売者(購入者)、所有者、生産者は表舞台には出てきていませんが、等式の背後に、控えています。しかし、この控えている人達を抜きにしては、小麦と鉄の等式は、成立しません(この分析では、商品は作った人の物だと見做して、単純に、所有者と生産者(労働者)は同一としてもいいと思います。)
商品は、所有者以外の人の使用の目的のために生産されたものです。小麦は、小麦の所有者のためにではなく、鉄の所有者のために生産されたものです。ですから、小麦の使用価値は、鉄の所有者のための使用価値です。鉄においても、同様です。また、価値が等しいということで、交換できるのです。その価値というのが、対象化された抽象的人間労働です。抽象的人間労働は、鉄を作った労働と小麦を作った労働とを等式で表されるような関係において抽象したものですから、抽象的人間労働が等しいということは、1クォーターの小麦と、aトンの鉄とを作った労働時間が同じということです。
各商品は、所有者と、所有関係で結びついています。また、商品の生産者とは、一定時間労働して作り上げたものという関係で結びついています。各商品は、これらの人との関係の担い手として、記述されているのです。
異なった商品の交換というのは、異なった人の間の労働の交換を意味しています。作った人が違っても、同じ労働時間が対象化された労働生産物ならば、お互いに交換できるということですから。このことを、それぞれ異なる特殊性を持つ有用労働が、同時に、普遍的な、抽象的な側面をも持っていると表現しているのです。ややこしいかもしれませんが、抽象的人間労働というのは、等式の両辺におかれた、異なった人間同士の労働において共通の性質を持っていることを取りあげているのです。ですから、価値は、(一人の人間ではなく、異なった人間同士の関係と言う意味で「社会的」という言葉を用いれば、)社会的関係を表しています(これを労働の生産関係といいます。)。問3で「価値」を、関係自体を表す言葉と言ったのは、こういう意味だったのです。

問11:(第5段落、第6段落)この二つの段落に書いてあることは、いま一つイメージできません。特に、「独立に行われていて互いに依存しあっていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対する」、「社会の生産物が一般的に商品という形態をとっている社会では、・・・独立生産者の私事として互いに独立に営まれるいろいろな有用労働のこのような質的相違が、一つの多肢的体制にすなわち社会的分業に、発展するのである。」と書いてありますが、どういう状態をいっているのですか。
答11:「独立に行われていて互いに依存しあっていない私的労働」「独立生産者の私事として互いに独立に営まれるいろいろな有用労働」という労働(簡単に「独立型労働」)と、反対の労働を考えてみましょう。それは、「独立に行われておらず互いに依存しあっている公的労働」「依存生産者の公事として互いに依存して営まれるいろいろな有用労働」(簡単に「依存型労働」)ということになるでしょう。そこで、次のような社会をイメージしてみてください。
ある社会が、ある一定の多くの労働者とその家族からなるとします。労働者は、その社会生活を維持するために、全員が何等かの労働に従事せねばならないとします。その労働者の大部分は、何らかの生活手段を生産する労働に従事することになるでしょうが、生活手段を生産する以外の、社会にとって必要な労働に従事する労働者もいるでしょう。話を単純にするために、社会全体で社会的分業を採用していて、一人の労働者が担う労働は、一種類だけとし、それぞれの種類の分業部門には、何人かの労働者が従事しており、各人は平均的に8時間労働とし、全員で社会的分業の各部門を分担するとします。こうして、日々、生活手段が生産され消費され、そうして社会全体で、自給自足の生活が成り立っているとします。これが前提です。
次に、一定の期間、例えば、一年間で、すべての労働者とその家族が生活する上で必要な生活手段のすべてをリストアップします。むろん、生活手段以外の消耗する労働手段や消費する労働対象など、また、共同で使用するものとか、不測の事態の保証とか、何かの理由で労働できない労働者のための分も、そのリストに加えます。その生活手段の全部を生産するために、1年間の生産計画を立て、それをすべての労働者に分担して生産してもらうことにします。誰がどのように分担するかは、その生産計画の中で決定することにします。こうして1年間で見ると、自給自足で生活できているはずです。それが前提ですから。
こういう社会の場合、各労働者の労働は、どういう関係にあるでしょうか。各労働者の労働は、各人で独立していません。全体計画の中で、過不足なく生活手段を生産するために、分担する分業部門(有用労働)に従事する労働者数を増減されますから、相互に依存する関係に置かれています。年間計画に応じて、労働者の配置換えを行っているからです。
このような社会のモデルが、「依存型労働」の社会なのです。
この社会では、生産物は交換されません。なぜなら、生産される前に、生産物(必要生活手段)の分配先が決まっているからです。個々の労働者の家族は、配送されてきた生産物を消費する段階ではじめて個人(家族)の所有物になりますが、それまでは、個人の所有物ではありません。生産物には、確かに、労働が対象化されていますが、対象化された労働は価値を形成していません。商品になっていないのです。それは、相互に交換する必要がないからです。
では、この反対の「独立型労働」の社会を考えてみましょう。
社会の前提は、「依存型労働」の社会と同じです。しかし、違うのは、社会全体の1年間の生産計画を立てないということです。各労働者は、自由に社会的分業の各部門を自ら選択し、その労働に従事します。各労働者の年間の生産計画は、各人の配慮と裁量に委ねられています。その計画内容は、お互いに知りません。何人の労働者が裁縫労働に従事し、その結果、何着の上着が仕立てられるのか、何人の労働者が織布労働に従事し、その結果、何エレのリンネルが供給されるのか、誰も知りません。それでも社会全体では自給自足で生活できているのが前提です。
こういう社会では、各労働者は、お互いに独立して干渉せずに労働しています。生産された生活手段がすべての労働者の家族の需要を満たすものかどうかは、生産物が生産された後でなければ、わかりません。生産される前には、生産物の分配先は決まっていないからです。また、個々の労働者にとって、労働生産物は、生産される段階から労働者(生産者)の所有物です。これを私的所有といいます。各労働者が分担しているのは社会的分業の一部門だけですから、自分で生産するのは、たった一種類の生活手段だけです。それ以外の、自分の家族にとって必要な生活手段を手に入れるためには、相互に生産物を交換することになるでしょう。各労働者は、それぞれ自分の所有する労働生産物を持って、生産物の相互交換に臨みます。その際、商談が行われるでしょう。その結果、商談がまとまれば、相互に生産物の交換が行われ、それを通して、自分の生産した生産物以外の生産物を手に入れることになるでしょう。その結果、おそらく、社会全体としては、ある種の生活手段は不足しているが、他の種の生活手段は余っているという状況が生まれるでしょう。その場合、生産物の価値の変動を通じて、生産物の調整がなされ、最後には、何人かの労働者が、社会にとって余分な生産物を生産したために、次の年には、分担した労働の分業部門以外に転職するという形で、生活手段の供給が調整されることになるでしょう。
こういう社会が、「独立型労働」であり、商品生産の社会なのです。
商品生産の社会では、労働生産物は、抽象的人間労働の関係を担っていますが、「依存型労働」の社会では、労働生産物は、抽象的人間労働の関係を担っていません。では、そこでは、抽象的人間労働の関係は、どこにいってしまったのでしょうか。
「依存型労働」の社会で、ある種の労働生産物が、誰かれの要求に基づいて生産され、供給された生産物が質・量共に必要にして十分であるならば、その労働生産物は、各家族に消費のために配分されるまでは、公的なもの(社会全体に属するもの)として扱われます。その社会では、労働生産物は、常に普遍的労働の関係を担っている、あるいは、労働の普遍的性質を帯びているのです。それは、労働生産物の生産計画に合わせて労働者を配置していますから、そもそも労働が普遍的性質を帯びているからです。社会全体の必要のために必要分だけ生産されていると言うことが、誰の目にも明らかになっているので、誰も労働が「依存しあっている」ということを疑わないでしょう。つまり、「独立型労働」の社会では、労働の私的性質の中に隠れていて、抽象的人間労働という表現でしか表されなかった労働の普遍的性質が、「依存型労働」の社会では、そのまま表に現れているので、抽象的人間労働という表現を借りる必要がないのです。
それは、この二つの社会の仕組み、端的には「物の管理」の違いを考えると、よりはっきりします。
社会の前提として、全員の労働者に8時間労働を義務付けましたが、各家族が生活する上で必要な共同物、例えば、道路や橋や公園や公民館など、や、将来のために取っておく、あるいは地震などの不測の事態に対処するための予備的な生活資料などは、全員の8時間労働の分から、例えば、1時間に相当する分だけ、取り除いてそれにあてねばなりません。また、働きたくても働けない人たち、例えば、一時的に失業したり、あるいは、何らかの理由で障害を負ってしまい、障害者として健常者の8時間労働が出来なくなってしまった場合、そういう人達も同じ人間ですから、普通の労働者の家族が必要とする生活手段が必要です。そういう人達のためにも、各労働者から取り除いた1時間に相当する分を、充てなければならないでしょう。「依存型労働」の社会では、それらは最初から生産計画に入っていますから、「物の管理」の中で都合すればいいことになります。ところが、「独立型労働」の社会では、そうはいきません。各労働者は8労働時間が対象化した分は自分の家族の私有ですから、彼らから1時間に相当する分を強制的に取りあげねばなりません。やっかいなのは、1時間に相当する分といっても、誰もそれを知らないことです。その取り上げる量は、商品の価値に基づいて決めねばなりません。それしか頼るべき共通基準がないのですから。また、各労働者の家族から取り上げる強制力は、経済的力ではありません。別の力、「物の管理」に政治力が必要です。労働の普遍的性質と、抽象的人間労働の違いが、なんとなくおわかりでしょうか。
「依存型労働」の社会でも、労働生産物を、社会的に必要な平均労働時間で評価しているでしょうが、これは生産計画にフィードバックされ反映されるために、行われるでしょう。(以上の二つの異なった労働のあり方は、労働の生産関係が異なっているということです。)
以上の例では、社会的分業をおこなっている社会を前提にして、そこに、「独立型労働」を当てはめましたが、マルクスは、歴史的には逆で、独立に営まれる有用労働の質的相違、すなわち、独立した私的労働が、社会的分業に発展するといっています。ですから、労働が独立した私的労働に変化したときから、商品生産が始まるわけです。
商品生産が始まる以前の社会では、「依存型労働」が一般的と考えられています。唯物史観の社会的分類でいえば、資本主義的、封建的、古代的生産様式以前の、アジア的生産様式です。「古代的インドの共同体」というのは、その分類に入ります。むろん、共同体全体の生産計画は、意識的に練り上げられたものではなく、共同体の永年の慣習によってもたらされたものでしょうが。
ところで、ここでは、二つの社会を仮想しましたが、このような比較はいろいろな視点を与えてくれます。第二次世界大戦のあと、社会主義といわれている国が誕生しました。今では大部分が消滅しましたが、社会主義の国家は、「依存型労働」の社会の実現を目指しました。それらを壮大な社会実験と捉えれば、今までのところ、人類はそうした実験に失敗しているわけです。例えば、北朝鮮ですが、社会主義を標榜していますから、「依存型労働」の社会のはずです。その平等社会のはずの国で、一部の特権階級が贅沢な生活を送り、必要のないミサイルや大陸弾道弾などを作り、一方、一般庶民は貧しい生活を送っているというのは、どういうわけでしょうか。それは「物の管理」が一部の人間に独占的に握られ、恣意的に左右されていると言うことではないでしょうか。拉致問題も問題ではありますが、北朝鮮という国をどう変えればいいのか、各自、自分の問題として考えてみればいかがでしょうか。

問12:(第7段落)「労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間のすべての社会形態から独立した存在条件であり、人間と自然との間の物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。」とありますが、どういうことを意味しているのですか。
答12:いままでは、商品の中に対象化されている労働を、具体的な有用労働という側面と抽象的人間労働という側面と、二つの側面として相互に比較しながら把握してきましたが、具体的有用労働を、それ自体として、他と比較せずに、切り離して取り上げてみましょう。
そうすると、そこに違った共通の性質があるのが見えてきます。それは、どの種類の有用労働も取り換えがきかないという性質、どれも人間にとって必要不可欠という性質です。
異なった使用目的を持つ使用価値は、「交換」(取り換え)できません。小麦の代わりに鉄を持ってきても、パンやピザは作れません。この場合には、等式は成り立ちません。それは、どれも生活に必要なものだからです。
人は、サルから進化したと言う意味で自然の一部ですが、サルと違って、取り巻く自然に働きかけ、それを人に取って都合のいいように変化させながら生活の中に取り込み、生活を豊かにしてきました。それは、太古の昔から現代に至るまで、変わりません。考古学博物館に行くと、石器時代の遺跡から出土した多数の土器がそれを証明していますし、今私たちの身近にあるプラスチック類も、地下に埋蔵していた石油から化学コンビナートで作られたものです。これらは皆、人の労働によって作られたものです。コンビナートでは、多くの労働者が働いていますし、石器時代の土器も、古代人の労働によって作られたものでしょう。
答6で、労働の対象化ということを取りあげましたが、人間が労働を行って自然の素材を人間にとって有用なものに変えると言う意味だと説明しました。労働を人間と自然を媒介するものと把握しているのです。使用価値というのは、こういう視点から有用性を持ったものとして取り上げたものです(問3参照)。こういう視点で把握すれば、この人間と自然の関係は、人間が生まれて以来、歴史上変わっていない側面といえるでしょう。それをマルクスは、問12のなかで「永遠の自然必然性」と表現したのです。
もうお分かりと思いますが、答8で説明した労働の生産力というのは、こういう視点から労働力を取りあげたもので、価値という視点から取り上げるのと、取り上げた側面が異なっているのです。
ところで、使用価値を生む出す有用労働に対して、物質的でない、精神的な労働は、労働でないのでしょうか。
実は、「資本論」では、使用価値を形成せず、価値も形成しないので、特別には議論していません。確かに、芸術作品や希少物、例えば絵画や宝石類などは、高価な値段がついています。が、それは必ずしも生活に必要な生活手段ではなく、衣食住といった一般的な生活資料からすると例外的存在なので、取り上げていないだけです。
しかし、使用価値を形成しない労働は、社会に取って必ずしも不必要というわけではありません。「資本論」の中でずっとあとで出てきますが、資本主義の中、例えば、会社の中で必要でも価値を形成していない、管理部門の労働やサービス労働もあります。また、社会の中でも、価値を形成していない労働としては、公務員の労働などがあるでしょう。むろん、政治的な活動の中には、客観的にみて不必要な労働も含まれているでしょうが、それは社会にとって必ずしも必要ないということではありません。しかし、そういう労働は「資本論」で扱う対象からは外れているのです。ただし、教育や保育、医療や看護、主婦の家事などの労働は、労働者という労働力商品(特殊な商品)の労働力を育成する、ないし修理・回復させる労働ですから、労働力商品の価値を形成する労働になります。ただこういう特殊な労働まで入れてしまうと複雑になりすぎるので、この段階での議論からは除外されています。(唯物史観の社会分類における労働の種類の違いは、いずれその箇所で説明します。)

問13:(第10段落)「より複雑な労働は、ただ単純な労働が数乗されたもの、またはむしろ数倍されたものとみなされる」とありますが、具体的には、どういう労働を言っているのですか。
答13:例えば、有田などの有名な陶磁器の生産地では、定期的に陶器市が開かれていますね。店頭には、大概、一般向けの、比較的安価で手頃の値段の品が、所狭しと置かれているでしょう。一方、店の奥の棚には、値の張る高価な品が、鎮座しているはずです。店頭の品は、誰が見ても日常品で、ま、中には掘り出し物もあるかもしれませんが、あまり手をかけていない、比較的単純な労働によって、大量に生産されたものでしょう。一方、奥の品は、看板の店主が手によりをかけて、自分の技術・技能を駆使して精魂かけて作ったものでしょう。店頭の品が、より単純な労働で作られた物、奥の品が、より複雑な労働で作られた物といっていいでしょう。今のところ、この程度の理解でいいのではないかと思います。こういう場合、それぞれの品物の値段は、店側で決める(生産者が決める)のでしょうから、「生産者の背後で確定され」(生産者とは関係のないところで決められる)ているわけではありませんが。
ただ、一般客にとって、日常に使用するものとしては、奥の品より店頭の品がより重要でしょう。同じように、社会全体の日常生活にとっては、単純な労働の方がより重要なのです。

問14:(第15段落)ここでは、答8で説明されたことが、また、でてきているようです。ただここでは、「素材的富の量の増大にその価値量の同時的低下が対応することがありうる」として、やや例外と思えるようなケースを挙げていますが、何か意味があるのでしょうか。
答14:直接的には、おそらく、労働の二面性と、生産力と価値(これは生産関係を意味する)の関係について、読者の理解を深めるためでしょう。 ここでは、本文の意味をより深く理解してもらうために、やや難しいかもしれませんが、もう少し説明を加えておきます。
問8で、一つの式を挙げました。
社会的平均労働時間8時間分の総価値量=(ある社会的平均労働者が生産する)ある使用価値の総量×ある使用価値の一個当たりの価値量
これに労働の生産力に関する次の式を加えましょう。
労働の生産力∝ある使用価値の総量(∝は比例を意味する)
一人の人間が一日に支出する労働の量は、時代が変わってあまり変化しません。それは一人の人間の単純労働が対象化する労働時間はあまり変わらないからです。しかし、生産力の方は、様々な事情で、大きく変化していきます。例えば、農業で片手間にやる手工業と、近代工業では、同じような使用価値を生産する場合、近代工業の方が、使用価値の総量は比較にならないほど増大します。その結果、近代工業が供給する使用価値の価値が極端に低下します。これはまた、同じ使用価値の量を生産するために従事する労働者の数を減らせることができることを意味します。「この増大した使用価値総量の価値量を減少させる」のです。これがきっかけの一つとなって、社会を支えていたメインの産業が、それまでの農業から工業へと移動し、こうして、社会全体が、唯物史観の社会分類からする、封建的生産様式から、資本主義的様式へと変化していったのです。
答10で、労働の具体的側面と抽象的側面を、それぞれ労働の特殊性と普遍性として把握し直し、それを矛盾として理解するとしました。この矛盾というのは、敵対しているという意味ではなく、人間労働という同一のものが持っている異なった二つの性質と言う意味です。それが、社会全体で見ると、それぞれ労働の生産力と生産関係に対応するので、唯物史観では、これを同じく矛盾として理解します。

第1篇第1章第3節 価値形態または交換価値 前文

問15:(第1段落、第2段落)またまた、違った言葉が出てきました。表題の「価値形態」です。
本文にも、現物形態、価値対象性、価値物、貨幣形態、などがでてきます。どういう意味ですか。
答15:普通、科学では、用語は、最初に定義されて使用されます。ですから、「資本論」でも、定義してから使ってほしいものですが、そうなっているものもあり、そうなっていないものもあります。ですから、そうなっていない場合には、この「答」の中で、説明をすることにしています。
最初に出てきた使用価値、交換価値という言葉もそうです。普通は、価値というと、いい性質とか高価なものとかを意味しますから、使用価値というのは、ややそういう意味に近い気がしますが、時には、性質ではなく、性質を持った物という意味で使っているので、答3で、使用価値というのは、「商品が使用できるという属性ないし属性を持った実体」と、説明しました。ここで、実体というのは、表面的な変化を受けても何も変わらない担体という意味でつかっています。物理学で、質量という言葉がありますが、それに相当するものです。質量を持つ物体は、地球上では地球に引っ張られて重さを持っていますが、同じ質量の物でも、引力の小さい月では地球ほど重さを感じないでしょう。でも、質量は変わりません。または、山から転げ落ちた岩は、川を下るにつれ、次第に小さく丸くなっていきますが、成分は変わりません。実体というのも、そういう意味合いです
しかし、交換価値は、そういう物を指す言葉ではありません。「異なった種類の商品が交換できるという関係」を表しています。更に、異なる商品の交換価値から抽象した共通物は、価値であり、それは交換可能な商品であればどの商品にも対象化されている、抽象的人間労働というものでした。(答4、答5)
この抽象的人間労働は、商品の中に、まるで饅頭の中のあんのように詰まっているのでも、また、封筒の切手のように貼りついているのでもありません。答10で、異なった商品の背後には、それぞれの商品の所有者・生産者(労働者)が控えていると説明しました。抽象的人間労働というものの起源は、この背後の生産者の労働の共通の性質を抽象したものにあり、それをそれぞれの商品の中に、まるで建物の表面に映し出されたプロジェクトマッピングのように、投影しているのです。ややこしいのは、その映像が抽象的である点にあります。人間労働の具体的側面(有用労働)は、商品の有用性=使用価値に映し出されているので、誰にでもわかりますが、人間労働の抽象的側面は抽象的な映像ですから、まるで霧か雲のように、とらえどころがありません。そこで、それぞれの具体的な商品(使用価値)は、対象化された抽象的人間労働を担っていると言う意味で、「まぼろしのような対象性」と表現したと言うことを、問6で説明しました。
そのような労働産物に結びついた、対象化された抽象的労働を、商品に内在する一つの実体として捉え返したのが、価値(実体)という表現です。饅頭のあんに相当するものです。すると、饅頭の皮に当たるのは使用価値ですから、具体的な商品を、内在する価値の表現形態と言う意味で、価値形態と言うことができます。(これに相当する言葉として、商品が価値を持っているもの、あるいは価値を体現しているものという意味で、価値物とか価値体とか表現されています。)答4で、抽象の例を挙げ、エンピツとボールペンとサインペンの共通の性質を取り出して、筆記具という抽象にまとめました。筆記具から見ると、エンピツやボールペンやサインペンは、筆記具形態です(筆記具を本質とすると、エンピツなどは、筆記具の現象形態です)。消しゴムやノートなどは、筆記具形態ではありません。でも、いずれも、文房具形態です。また、親子関係、兄弟関係などの共通の性質を取り出し、血族という抽象にまとめました。そこで、血族からみると、親子・兄弟は、血族形態ということです。
また、「社会的」という言葉は、一人ではなく多くの人の関係という意味で使って、価値が、商品の背後に控えている二人の所有者・生産者の関係を表現していると言う意味で、「商品の価値対象性は純粋に社会的である」といわれています。
貨幣形態は、いずれ本文が展開していく中で、わかると思います。

第1篇第1章第3節A.1 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態

問16:(第2段落)「20エレのリンネル=1着の上着」を、「20エレのリンネルは、1着の上着に値する」と言い換えていますが、どうしてこういえるのですか。リンネルは、自分の価値を上着で表している、上着はこの価値表現の材料として役立っている、能動的、受動的、相対的価値形態、等価形態、こういう説明は、チンプンカンプンです。どういう意味ですか。
答16:抽象的に説明すれば難しく感ずる(「固有な困難」)でしょうから、誤解を恐れず、できるだけ具体的に説明してみましょう。
まず、ここでは、物々交換を行うものとしてください(答10)。販売者同士が、互いに相手の欲するものを交換すると考えて、リンネルと上着を互いに差し出すという状況です。あなたは、リンネルの販売者になったと思ってください。
販売者は、所有者・生産者から販売を委託されていますから、所有者・生産者の意向に沿って販売しなくてはなりません。当然、お互いに商品を差し出した段階で、それを交換したいと言うことは理解できますが、それらをどれだけの比率で交換したらよいものかはすぐにはわかりません。そこで、商談が行われるでしょう。その結果、お互いに納得できる交換比率を見つけたとしましょう。それがリンネル20エレ=上着1着というわけです(答11の「独立型労働」の社会)。
そこで、あなたは、真っ先に、あなたのスマートフォンのカメラで、相手が所有している一枚の上着の写真を撮ります。次に、その写真をいくつかコピーします。また、あなたに販売委託されているリンネルを20エレずつ束にして紐でくくり、その束ごとにそれぞれ荷札を括り付け、それに先ほどコピーした上着の写真を貼りつけます。そうすれば、持っているリンネルをどれも同じ比率で上着と交換できるようになります。ここまで来て初めて、物々交換が実際に行われる準備が整ったわけです。
さて、ここで、1個の上着の写真は、何を表しているのでしょうか、考えてみましょう。
上着の写真は、実際の上着と関連付けられていますが、上着の使用目的を表しているのではなく、単に交換可能な比率のみを表しています。比率というのは、二つの比較する対象がなにか同じものを持っているか同じものとの関係を保っている場合のみ、導き出せるものです。この同じものというのが、価値なのです。つまり、1個の上着の写真は、リンネル20エレが上着1着と同じ価値を持っていることを表しているのです。リンネル20エレ=上着1着という等式は、そういう等式なのです。リンネルの中に内在する価値は、抽象的です。抽象的なものを表現するには、具体的な形態が必要です。上着(の写真)は、その役割を担わせられたのです(答15)。
「ある抽象的な特性が、具体的な姿をとって現れたかのように思える人や物」を「権化」といったりします(「デジタル大辞泉」)が、リンネルにとって上着(の写真)は、「価値の権化」と見なせるわけです。
あなたはリンネル自身ではありませんが、リンネル所有者・生産者になり替わって、まるでリンネル自身であるように振る舞っています。あなたは、リンネルの価値を上着(の写真)で表しています。上着(の写真)は、この価値表現の材料として役立っています。あなたは、能動的な役割を、上着(の委託販売者)は、受動的な役割を演じています。価値形態というレベルで考えると、リンネルの価値は、上着の写真がなければ表せない、自分で自分を表せない、つまり、相対的である(自分を他の物で表す)と言う意味で、相対的価値形態であり、上着は、リンネルと価値が等しいという意味で、等価形態にあるわけです。
反対に、もしあなたが上着の販売者であっても、同じことをするでしょうが、その場合、立場が逆になります。今度は、スマホのカメラで撮るのはリンネル20エレで、その写真のコピーを上着1着に括り付けます。上着の価値をリンネルで表すことになり、リンネル(の写真)は、この価値表現の材料として役立つことになります。それは、あなたが上着の販売者として、能動的な役割を演ずるからです。
以後、本文を読み進む際に、以上の状況を忘れないでください。

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問17:(第3段落)具体的な状況を説明していただいたので、「20エレのリンネルは、1着の上着に値する」ということの意味が、わかりました。次の段落の冒頭に、その関係がまとめられているようですが、やや難しい表現で分かりにくいので、説明を補足してください。
また、「20エレのリンネル=20エレのリンネルはけっして価値表現ではない。20エレのリンネルは20エレのリンネルに、すなわち一定量の使用対象リンネルに、ほかならないということである。」というのは、どういう意味ですか。
答17:次の文章ですね。
「相対的価値形態と等価形態とは、互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機であるが、同時にまた、同じ価値表現の、互いに排除しあう、または対立する両端、すなわち両極である。この両極は、つねに、価値表現によって互いに関係させられる別々の商品の上に分かれている。」
ここで両極と言っているのは、例えば磁石のN極とS極のように、まったく反対の性質でありながら、切っても切り離せない関係を言っています。磁石を真ん中から切り離しても、N極だけとS極だけにならず、N極だった方にもS極が、S極だった方にもN極ができるでしょう。お互いに反対の性質を持っていることを、「互いに排除しあう、または対立する両端」といい、「切っても切り離せない関係」のことを、「互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機」と表現しているのです。
このような例は、電気のプラスとマイナスのように、いくらでもあげることができます。マルクスの盟友であり、ヘーゲルの「論理学」の研究者でもあるエンゲルスは、「自然の弁証法」と呼ばれる遺稿の中で、次のように書いています。
「一切の両極的な諸対立一般が相対して置かれた両極相互の相交流する活動によって条件付けられているということ、これら両極の分離と対置とはただこれら両極が組をなして互いに所属し合っているという共属性と両極の合一との内部でだけ成り立つこと、そして逆にそれらの両極の合一はただそれらの分離においてだけ、それらの共属性はただそれらの対置においてだけ、成り立つということ」(エンゲルス「自然弁証法」)
これを、弁証法論理学(以後、簡単に弁証法)で、矛盾する対立物の相互浸透(弁証法の第2定理)の基礎構造といいます。
相対的価値形態と等価形態は、この両極の例の一つです。このような両極的な対立というのは、両極の一方だけを切り離して取りあげても意味をなしません。あくまで両極の対立の中だけで、意味をもってくる性質なのです。
これは、弁証法で言う矛盾する両側面に関して、一般的に当てはまります。具体と抽象、特殊性と普遍性、現象と本質(答4)、使用価値と価値、労働の生産力と労働の生産関係、すべてそういう関係に相当します。
「20エレのリンネル=1着の上着」を書き換えると、「相対的価値形態のリンネル=等価形態の上着」という等式になります。以前の等号=は、物々交換を表していました(答10)が、ここでの等号=は、それとは意味が異なっていて、左辺と右辺が同等ということを表しているのではありません。この第3節全体は、生産物同士の交換を課題にしているのではなく、リンネルの中の価値が、どのように表現されるのかという課題(価値の表現形態論)を取り挙げているからです。そこを間違えてはいけません。生産物の交換自体は、第2章で扱われます。ですから、主体は左辺の方にあり、右辺は、左辺と右辺が持つ共通の性質(ここでは価値が等しいということです)を表しているのです。
ところで、あなたがある商品を買うとしましょう。その商品には、価格を表示してある値札以外に、いろいろなタグがつけられていると思います。例えば、メーカーのロゴであったり、サイズを表示していたり、取り扱い方を示していたりするものです。これらは、商品の使用目的に関する、ある種の取扱説明書です。もし、20エレのリンネルの束に、20エレのリンネルの写真が貼り付けてあったとしたら、同じ理屈で、それはリンネルの使用目的に関する取説のためであり、「この等式が意味しているのは」「一定量の使用対象リンネルにほかならない」ことを表してあるはずです。
20エレのリンネルの束に貼り付けられた1着の上着の写真は、商品に付けられた値札に相当するのですが、この生産物交換の段階では、ただ等しい価値が含まれているということを表しているだけで、どのくらいの価値が含まれているかということは表していないことに注意してください。価値は対象化された労働時間によって規定されているので、労働時間が等しいということはいえますが、どのくらいの継続時間がかかったのかはわかっていないのです。

第1篇第1章第3節A.2.a 相対的価値形態の内実

問18:(第3段落)ここでは、リンネルと上着の等価関係を、量から離れてみてみると言うことですね。答16で、イコールの状況を説明していただいたので、ここの段落の意味がおぼろげながらわかりますが、「価値の存在形態」「価値存在が・・・独立な表現を与えられる」など、いまいちよくわかりません。また、酪酸と蟻酸プロピルを等置するというのは、化学式が同じということを言っているだけのように思えます。その前の文章と、どういう関係があるのですか。
答18:マルクスの説明は、論理学の解説のように理路整然として、まるでベートーベンの交響曲を聞いているようで、壮大でありながら実に細かく組み立てられているのですが、何度も言うようですが、慣れていないと理解が難しいと思います。実のところ、「資本論」が出版された当時、ドイツの多くの支持する労働者が買ったと言うことですが、はたして彼らがほんとに読んで理解できたのかどうか、疑いたいところです。ともあれ、説明を続けましょう。
答16の説明の中で、お互いに商品を差し出した段階までもどりましょう。その時のあなたが直面する困難は、リンネルに内在する価値が、どこにも表されていないということです。もし、価値が目に見えるようになれば、容易に商品交換の商談が進むでしょう。そこで、あなたは、積極的に動きます。まず、上着に、上着自身の価値(価値実体)の表現形式を与えます(@)。これは、抽象的な・そのままでは目に見えない価値の可視化(見える化)のつもりです。あなたにとって、上着は「価値の権化」です。あなたは、使用価値でしかない上着と、価値の表現形態であるという上着と、上着を二重写しに見ています。このことが可能なのは、あなたが、「等しい価値が、リンネルと上着と表現形式の異なった二つの物体に共に表現されている」ことを知っているからですが。必要なのは、使用価値の上着ではなく、価値の可視化としての上着です。そのつもりで、スマホで上着の写真を撮ったのです。こうしておいて、あなたは、上着の写真のコピーを、リンネルの荷札に張り付けたのです。こうすれば、リンネルも価値を持っているということを表現できます(A)。こうして、リンネルも、間接的(相対的)ながら、自分の価値を可視化した(使用価値と価値形態と自分の存在を二重化した)のです。もし、誰かが、リンネルはほんとうは価値を持っていないのではないか、と言っても、商談相手の上着の販売者は、自分の上着が価値を体現していると認めてもらったのですから、文句は出ないでしょう。
ここでのポイントは、一つの商品・リンネルの中に内在している価値が、リンネルから離れて分離し、別の商品・上着という形式を借用して表現されたということです。すなわち、価値(実体)とその表現が、独立した二つの物体に割り振られたのです。
答17で、ここでの等号=においては、主役は左辺の方にあり、右辺の役割は、左辺と右辺が持つ共通の性質(価値が等しいということ)を表しているといいました。リンネルと上着と物体形態が異なっているがゆえに、この二つを等値することによって、逆にそれが両者に含まれている価値(実体)の同一性を際立たせることになり、その結果、等号の右辺の上着に、価値(実体)の表現形態を専任させることによって、左辺のリンネルは、リンネルという使用価値と、自分の価値とを同時に表すことができたのです。
酪酸と蟻酸プロピルの例を挙げ、「酪酸に蟻酸プロピルが等置されることによって、酪酸の化学的実体がその物体形態とは区別されて表現されている」と言っています。酪酸は汗臭い悪臭物質で、蟻酸プロピルはエステルですから、嗅いだことはありませんが、気持ちのいい匂いがするはずです。ですから、同じ無色透明の液体でも、あのあまりにも臭い酪酸に、いい匂いの蟻酸プロピルが等しいと言われると、どこが等しいのだろうと思わずにいられないでしょう。その場合、最初に、蟻酸プロピルが、その「化学的実体」(この場合、分子式で表現される)の典型的な表現形態である(@)と気づかされ、次に、酪酸も同じ化学的実体を持っている(A)と気づかされるということでしょう。酪酸の化学的実体が、その匂いという「物体形態」とは全く区別されて表現されているということです。
ダイヤモンドは、誰でも知っている高価な宝石です。これが真っ黒な炭と同じだと言われると、一瞬、ドキッとするでしょう。でも、すぐ気が付くのは、炭は炭素Cから成っているという典型的なイメージとぴったりなので、炭は炭素Cのモデルと見なされ(@)、「そうか、ダイヤモンドも同じ炭素Cから成っている(A)、そこが同じだ」と理解できるでしょう。ダイヤモンドの「化学的実体」が、その、光り輝く「物体形態」とは区別されて表現されているでしょう。
あるいは、雷に対して、電気の現象であることを証明するのに、ライデン瓶の実験を行ったベンジャミン・フランクリンを思い出してください。雷に、それまで静電気現象であることがわかっていたライデン瓶を等置することによって、雷の「物理的実体」=電気が、その雨空にとどろく「物体形態」とは区別されて、その同一性が証明されたのです。

問19:(第5段落)この段落では、前の段落の商品から、背後に控えている所有者・生産者の労働に視点を移動しているのがわかりますが、「還元」とはどういう意味ですか。また、「回り道」とは、どういう意味ですか。
答19:ここでは、「還元」というのは、具体から抽象へ移動する、抽象度を上げる、登るという意味で使っています(答4)。第1節第7、8、11段落でも、「還元」という言葉が、同じ意味で使われていました。特殊性を捨象し、普遍性を取りあげる操作の事です。「裁縫を・・・人間労働という両者に共通な性格に、還元する」と言う風に使われています。
「回り道」というのは、リンネルが自分自身の価値を表す道筋が直線的でなく、他者を媒介にして、一旦他者へ行く道筋を辿ってから再び元に引き返すという道筋を通って現わすという回り道のことを言っています。
リンネルは自分自身の価値を可視化したいのですが、直接はできません。そこで、まず、自分にとって他者である上着のところへ行きます。そこで、上着に上着自身の価値の表現形式を与えました。これは同時に、上着の背後に結びついている裁縫労働を抽象的人間労働に還元することを意味しました。こういう操作を上着のところで行ってのち、再びリンネルのところに引き返して、リンネルの背後に結びついている織布労働も上着の物と同じ抽象的人間労働であると宣言したのです。これが、回り道です。

問20:(第6段落)「課題はすでに解決されている。」という文章が出てきますが、どういう意味ですか。
答20:このすぐ前の文章は、リンネル価値を人間労働の凝固として表現するためには、リンネルと違っているがリンネルと同じ「対象性」として表現しなければならない、とあります。この表現の対象は、上着です。
流動状態の人間労働、すなわち、リンネルの背後に控える生産者の抽象的人間労働は、価値ではありません。それは対象的形態において、すなわち、リンネルや上着の上に「像」を投影させた段階(より正確には、その像が実体化する段階(答15))で、価値になるのです。それは、この段階が、商品の交換段階であるからです(答16、18)。
答11で、仮想的な「独立型労働」の社会を仮定しましたが、そこでは各労働者同士が接する接点は、生産物の交換にあります。それ以外では、接点を仮定していません。生産物の交換により、はじめて生産物は価値を持つようになるのです。その交換の価値関係の表現が、相対的価値形態と等価形態です。リンネルと違っていて、リンネルと同じ共通な「対象性」を表現するのは、上着しかありません。この「課題」は、すでに最初に与えられているので、解決されていると言ったのです。

問21:(第7段落)「上着がリンネルとの価値関係のなかではそのそとでより多くを意味している」として、人が金モールのついた上着を着るという比喩を挙げています。人は、身なりによって、普段着の時より、身分や所属などのようなことまでよくわかるようになると言う意味でしょうか。
答21:この本では、いろいろな比喩が用いられていますが、「資本論」が出版された当時には通用する比喩でも、今ではよくわからなくなっているものもあります。
金モールのついた上着を着ているのは、おそらく貴族か、ナポレオンのような将軍でしょう。人は、外見を剥ぎ取ると、皆同じに見えますが、服装・身なりを整えることで、社会的地位・身分を判断されます。上着は、単独では、単なる使用価値としての上着でしかありませんが、リンネルの価値関係の中では、答18で記したように、使用価値の上に重ねて、価値の表現形態を持っているのです。それを例えたのでしょう。

問22:(第9段落)「キリスト教徒の羊的性質が神の仔羊とその同等性に現れる」というのは、どういう意味ですか。キリスト教徒の従順な、何でも言うことを聞く性質が、神の仔羊であるイエスの性質に写し出されているという意味ですか。
答22:「リンネルの価値存在が上着とのその同等性に現れる」ということの比喩として用いられていますが、キリスト教の伝統のないわが国では、説明が難しいでしょう。わからなければ、この比喩を無視してもいいと思います。
神の仔羊というのはイエスのことで、神がこの世に下された唯一の存在とされており、死刑に処せられて再び復活したイエスは、人間でありながら神的性格を持っているとされています。上着がそのままの形で価値の表現形態であるように、イエスはそのままの形で神の意志の表現形態なのです。リンネルが、自分の価値を、上着を用いて表現したように、キリスト教徒は、キリスト教徒であること(イエスをキリストとして信仰しているという精神的内面、これをキリスト教徒の羊的性質と言っている)を、人間としてのイエスを仲介にして信仰することで、それを証明するのです。上着とリンネルが、その存在を二重化した(答18)ように、イエスもキリスト教徒も、頭の中で、神的存在と現実的存在と、その存在を二重化させているわけです。

問23:(第10段落)「リンネルは、自分の思想をリンネルだけに通ずる言葉で、つまり商品語で言い表すだけである。」とはなんですか。商品語などと、変な言い方をしていますが。
答23:日本語は、同じ日本人なら理解できますが、イギリス人やドイツ人には、理解できないでしょう。同じように、リンネルが自分のことを表現するのに、自分自身でしか理解できない言葉で表現するというところを、「商品語で言い表す」と言っているようです。
リンネルと上着と、役者は二人にみえますが、二人ではありません。役者はリンネルのみで、リンネルが一人芝居を演じているようなものです。上着は、リンネルの価値を表現する材料であって、リンネルに、上着という仮装を貸しているようなものです。
「労働は人間労働という抽象的属性においてリンネル自身の価値を形成するということを言うために、リンネルは・・・価値である限り、上着はリンネルと同じ労働から成っている」といい、「リンネルは、価値は上着に見え、したがってリンネル自身も価値物としては上着にそっくりそのままである、というのである。」これは、リンネルの独白ですが、リンネルが個別の商品として登場しているのに対し、上着はそのリンネルとの共通の性質、すなわち価値という普遍性を表しているのであって、上着は自分自身の価値を表しているのではありません。ドイツ語とロマン語の「値する」という動詞を比較して、ロマン語の方が適切であるといっていますが、ドイツ語では、主語のリンネルの価値を表すはずの上着が、まるで上着の価値を表しているかのように見えるところを「適切ではない」と言っているようです。

問24:(第11段落、注)この段落中の、価値鏡という文のところで、注がつけられています。この注で言っていることは、なんですか。
答24:「価値鏡」というのは、価値を写し出す物、リンネルが自分の価値を写し出している(表現している)上着の身体(使用価値)を意味しています。
この注を無視しても、11段落が理解できていればかまいませんが、マルクスらしい、皮肉で面白い批判が語られているので、説明しておきましょう。
ここには、近代哲学がテーマにしてきた自我の問題が解かれているのです。フィヒテは、ドイツ観念論を代表する哲学者ですが、彼は自我を第一原理と見なしました。それは、人間の本質を、肉体に内在する精神=自我として、天賦のものとして認めることに基づいています。
「人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのではない」というのは、鏡は、自分自身を映し出す手段ですから、人は、自我を認識する手段を生まれつき持っているのではないという意味です。「私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもない」というのは、私は私であるというのが自我の認識ですから、人は自我(の認識)を生まれつき持っているのではないという意味です。マルクスは、観念論哲学が、自我を、最初から与えられたように考えるのは誤りであるとし、それは生まれてから後で形成されるものだと批判しているのです。
では、どうして自我の認識を持つことができるのでしょうか。
答4で、抽象という思考の手順を説明しました。エンピツという具体的なものから、特殊性を捨て去り、筆記具という普遍性を取り出す操作です。それを、人間を対象に行ってみます。個々の人間、この場合、パウロですが、そのパウロから人間の共通性(普遍性)を取り出します。それは、人間の自発性・活動の主体としての人間の性質です。誰も自らの判断によって決定し、自ら意志を持って実行することができます。この活動性を抽象化し、それを実体化してパウロの中に置き、パウロをその現象形態として把握します。上着がそのままの形で価値形態として認められたように、「パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種族の現象形態として認められ」るわけです。
一方、ペテロは、パウロの中に、自分との同等性を見出すことによって、自分の主体的な活動性を表現できます。リンネルの価値存在が上着とその同等性に現れたように、「人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめてに人間としての自分自身に関係する」、それが観念論でいう自我です。商品Bが「人間労働の物質化」であるように、人間パウロは、人間の活動性の実体化です。それは、商品Bの身体が商品Aの価値鏡であるように、「人間は最初はまず他の人間の中に自分を映してみる」、すなわち、パウロを人間鏡とすることが、ペテロの自我の認識の起源というわけです。 あなたも、いままで、いろいろな人達を「鏡」として成長してきたのではありませんか。最初はあなたの親が、次に学校の先生が、時に先輩が、鏡になったのはありませんか。また、「人の振り見て我が振り直せ」という諺も、他人を自分の鏡としているのです。
唯物論の立場では、人間の認識は、究極のところ、私たちを取り巻く外界からの映像であると考えます。観念論でいう自我というのは、他人を媒介して認識された人間の抽象的活動性の映像を実体化したものです。それはちょうど、商品の価値が、他の有用労働を媒介して抽象された抽象的人間労働の対象化であるようなものです。まさに、「人間も商品と同じことである。」
この批判は、ただ、観念論に向けられているだけではありません。「それゆえ能動的側面は唯物論に対して観念論によって展開されることになった。しかしただ抽象的にのみである。」(フォイエルバッハに関するテーゼ)というのは、従来の唯物論が、人間の能動的側面を正面切って取りあげられなかったことに対する批判です。ここの注は、マルクスの弁証法的唯物論からする根本的批判なのです。

第1篇第1章第3節A.2.b 相対的価値形態の量的規定性

第1篇第1章第3節A.3 等価形態

問25:(第1段落)直接的交換可能性の形態というのは、どういう意味ですか。この段落の後半部分もよく意味がわかりませんが。
答25:ここでは、直接的交換可能というのを、物々交換の可能性という意味で使っています。
もっとはっきりさせるためには、この反対の事を考えてみると、いいかもしれません。
直接的」の反対は、「媒介的」ということです(弁証法の用語です)。だから、ここは、媒介的交換可能性の形態ではない、なにか第3者を媒介にして交換するのではない、という意味です。後に貨幣が出現して、この物々交換の形態は貨幣を媒介にして行われる形態に変わっていきます。
答16で、あなたはリンネルの販売者でした。しかし、同時に、上着の購買者でもあります。つまり、今のあなたは、販売者でもあり購買者でもあるわけです(直接的同一)。それは物々交換だからです。貨幣が出現すると、販売者と購買者が分離します(媒介的統一)。その時は、あなたは販売者か購買者かどちらかです。販売者=購買者ではありません。その場合には、直接的交換が媒介的交換に変わるからです。
そのときは、「上着はその物体形態とは違った価値形態をと」り、そうして「リンネル商品に等しいとされ」ます。したがって、そのときは、「1商品の等価形態は、その商品の他の商品との」媒介的交換可能性の形態になるのです。このことは、貨幣の出現によって明らかになるので、それまで待っていてください。
この段落で重要なのは、リンネルがそれ自身の価値存在を顕わにしてくるやり方が、上着に等価物を言う形態を押し付けるというやり方であるということです。すなわち、リンネル自身に内在する価値が、上着という使用価値に付着するということです。このリンネル価値の可視化によって、直接交換(物々交換)が可能になるのです。(答18)

問26:(第5段落)「取り換え」というのは、何を意味しているのですか。「現物の皮」という表現が出てきましたが、変な言い方ですが、どうしてこう言う言い方をしているのですか。
答26:「取り換え」というのは、使用価値=現物形態が、価値の現象形態=価値形態になるということを言っているのですが、使用価値と価値形態とは性格が全く反対であり、商品Bが等価形態の位置に置かれたことによって、その使用価値に、性格が全く反対の価値形態が押し付けられるので、こういう表現をとっているのです。
さて、ここで、弁証法に慣れて行きましょう。
一つの物(者)の中に二つの異なった性質が共存していること、一つの物が二つの異なった性格のものから成り立っていること、一つの物の中に二つの違ったものが混在していること。これらの二つの性質、二つの性格、二つの違ったものは、お互いに異なっているのですが、それでも分かれずに共存している、それはお互いがお互いを必要としているからですし、そうでないと、一つの物(者)として、なりえないからです。このような状態を、二つの対立=矛盾と、表わします。
これは、必ずしも、喧嘩や戦争のような敵対的な対立を意味するのではありません。単に共存しているだけでも結構です。しかし、そのことが原因で問題が発生し、さまざまな課題の解決に迫られてきます。その課題を解決するために、さまざまな工夫をしていくこと、その対立する局面を穏やかになだめて調和させたり、なんとか共存させようと新たな仕組みを作り出したり、どうしようもなくなったら対立そのものを消滅させたり、そういうことを筋道立ててどこまでも追及していくこと、これが弁証法という方法の役割なのです。
一つの商品は、使用価値という性質を持っていると同時に、価値という性質も併せ持っています。その二つを持っていないと、商品ではありません。しかし、使用価値と価値は、お互いの性質が全く反対です(答10、答14)。つまり、内的な対立を抱えている、矛盾を背負っています。
答18で、あなたは自分のリンネルを、上着と交換しようとしました。その時、リンネルの価値がどこにも表されていないことに気が付き、それを可視化すればよいと考え、上着の写真をコピーして、リンネルの束に括り付けました。これは、リンネルの使用価値は見えているのに、その価値が見えていないと言う矛盾を解決しようとしたわけです。それは、リンネルという使用価値に、上着に価値物という任務を負わせたうえで、その写真コピーを貼り付けるという新たな結びつきを工夫することでした。この新たな結びつきは、リンネル・使用価値に、上着・価値物を結びつけるという矛盾を作り出したことです。ここで、上着は、価値の表現形態を与えられましたが、このことは二重写しという矛盾を上着に背負い込ませたことを意味します。ただし、リンネルでは、リンネルとその価値は、表面と内面(内部)にそれぞれ振り分けられていますが、上着では、表面に視覚化した価値、その下に使用価値と、その位置が反対になっています。「取り換え」というのは、この矛盾をするどく表現したもので、「現物の皮」とは、現物形態=使用価値そのものを、まるでリンゴのような果物の皮に例えて、表現したものです。

問27:(第6段落)ここで、尺度の例として「鉄片」を取りあげていますが、わかりやすく説明してください。
答27:重さを測ると言う例を挙げて、尺度のことを説明しているのです。やや難しく感じるのは、時代が違うからでしょう。
今の秤は、ほとんどが電子天秤で、ディスプレイにデジタルで重さが表示されますので、分銅を持ち出すのはやや時代がかっているかもしれませんが、一昔前までは、秤と言えば天秤計り、一方に分銅を乗せ、他方に測ろうとするものを乗せ、釣り合わせておいてその重さをはかるものでした。ここでの「その重量があらかじめ確定されているいろいろな鉄片」、「鉄は、重さ以外のなにものをも表わしていない物体」とは、この分銅のことを指しています。
金属製の分銅は、その重さが表示されており、永久に重さが変わらないように錆びない工夫などがされ、使用する時以外は、箱に保管されています。ですから、分銅は、「砂糖の重量尺度として役立ち、砂糖体に対して単なる重さの姿、重さの現象形態を代表するのである。」砂糖の重さは、分銅が、キログラムで表現されていれば、砂糖もキログラムで、ポンドで表現されていれば、ポンドで表現されるでしょう。もし、分銅の重さの基準に不安があれば、砂糖のキログラムを表したあとで、括弧書きで、どこそこの分銅によれば、という但し書きをつければいいでしょう。つまり、砂糖の重さは、分銅の重さを借りて、表現されるのです。「鉄は、棒砂糖の重量表現では、両方の物体に共通な自然的属性、それらの重さを代表している」のです。
分銅が重量尺度になるように、ここでは、上着が価値尺度になっています。分銅が、棒砂糖と鉄体の共通の性質を代表しているように、上着は、リンネルと上着の共通の性質を代表しています。ただ異なるのは、分銅は、棒砂糖との関係を離れて、それ自体で重さを持っていますが、上着は、リンネルとの関係の中だけで価値を代表しているのであって、リンネルとの関係を離れてしまえば、価値を代表していると言うことにならないだけです。あくまで、リンネルと上着の等式は、リンネルの価値の表現の仕方を議論しているだけだと言うことを忘れないでください(答16、答17、答18)。

問28:(第8段落)中頃に出てくる「ただ実証されるだけなのだから」というのは、どういう意味ですか。また、注の「反省規定」というのはなんのことですか。
答28:物の性質(属性)というのは、物が本来持っている性質であって、例えば、エンピツの芯の硬さ(硬度)、HとかHBとか3Bとかいう性質は、実際に紙に書いてみればわかるように、「ただ実証されるだけ」、つまり、その性質がよくわからなければ、いろいろな手段で確かめればよいだけです。ある物と他の物との関係で決まるようなものではありません。
ところが、ここで取り上げている「反省規定」というのは、ある物(者)と他の物(者)との関係で決まるような性質であって、答17の両極的な対立における関係を指しています。
王は、臣下がいてこそ王です。臣下がいなくなれば、たった一人になりますから、もう、王ではありません。「王であるのは、ただ、他の人々が彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。」反対に、臣下は、王がいてこそ臣下です。王がいなくなれば、もう臣下ではありません。
王と臣下という性質は、一方を他方と切り離して取り上げると意味をなさない性質なのです。しかし、普通の意識では、そういう両極の関係の中だけで意味を持っている性質とは考えず、物の性質と同じように、本来、物(者)が持っている性質と考えがちです。臣下の立場から考えると、王というのは、自分たち臣下が臣下として振る舞っているから、王なのだと考えず、彼が生まれつき王だから、自分たちは臣下なのだと思いがちです。同じように、等価形態というのは、この価値関係の中だけで意味を持つ性質であって、リンネルが自分の価値を表現するために、上着に等価形態を与えたのにも関わらず、リンネルの立場から見ると、上着の持つ等価形態が、まるで上着が本来持っている属性のように感じられるというのです。
エンピツの芯の硬さは、製造された時に決まっているので、その性質を取り消すことはできません。しかし、王と臣下というのは、共有の性質、すなわち、同じ王国に住んでいるという性質から外れて、国外に逃亡してしまえば、臣下という性質を失うことができます。上着の等価形態という性質も、リンネルと上着との共通の性質を表しているだけですから、生産物の交換に出さなければ、価値が意味を持たないのですから、等価形態という性質もなくなってしまいます。
王と臣下、等価形態と相対的価値形態の例を重ね合わせて思い出すのは、第二次世界大戦中の天皇と国民の関係です。
人間としての天皇が「天皇」であるのは、国民が臣民として振る舞うからでしかありません。それは、そのままでは、例えば、総理大臣と国民との関係との同じようなものでしかありません。それでは、政治的関係を離れてしまえば、国民は天皇との関係を離れて自由に振る舞うでしょうから、戦争に自ら進んで飛び込むなどという心理は、国民の中に作り出せません。そこで、時の指導者は、大戦争を目前にして、国民が自然に受け入れ、自主的に、むしろ喜んで、天皇の指示に従うように、さまざまなイデオロギー教育を行いました。それは、天皇が「天皇」だから、天皇という神的性格を備えているから、自分たちは臣民なのだと思うように、誘導することでした。
天皇は神であり、天孫降臨の子孫の現人神である、人間天皇そのままの形で、それを神と二重写しに見るように、徹底的に叩き込みました。それは天皇が神としての性質を兼ね備えているということを強制的に信じ込ませることでした。
まさに、それは、等価形態である上着が、「このあるがままの姿の物が、価値を表現しており、したがって生まれながらに価値形態をもっているということ、まさにこのことによって成り立っている」と同じことです。「等価形態の不可解さ」です。
一方、国民は天皇の赤子(せきし)である、天皇の忠義に殉ずることこそ、御恩に報いることである、これは、天皇が神としての性質を持っていることに対応する、神の子としての国民側の義務を信じさせるものでした。
これは、「リンネルの相対的価値形態は、リンネルの価値存在を、リンネルの身体やその諸属性とはまったく違ったものとして、たとえば上着に等しいものとして表現する」ものでした。赤子として天皇のために命を投げ出す、このことこそ、国民の側にも自分たちを二重写しに見ることを強制するものでした。
八紘一宇の理想世界(今の若い人には理解しがたいでしょうが、天皇を父に世界皆家族というものです)、現人神を盟主とする大東亜共栄圏、そのための神国日本の聖戦、天皇だからこそのイデオロギー宣伝です。
それは、すべての国民に、あらゆる日常生活を通じてなされましたが、なかんずく学校教育に集中的に表れました。学徒動員こそ、戦争を担う世代を速成する急務の政策でしたから。
教育現場では、皇紀2600年の合唱、教育勅語の一斉暗唱の行事から始まり、授業初めの精神訓話、竹槍訓練等々。聞くところによると、天皇がシッコをするのかという質問さえ、「一罰百戒」の対象ということでした。天皇が行幸の際には沿道の庶民は最敬礼、「お顔を見たら目がつぶれる」と信じ込まされていたものでした。
この施策は、まさに「正しい」論理に基づいています。はたして庶民は、このような論理から逃れられるでしょうか。そのときは自分はそうは思っていなかったという知識人の告白を時々見ますが、果たして当時本当にそうだったか疑問に思います。 でも、これは、戦前の話だけではありません。障碍者、同和地区、韓国人に対するヘイトスピーチ・・・あらゆる社会的差別は、彼らが生まれながらにそういう性質を帯びているという論理に基づいています。あなたは、そういう論理を正しく批判できていますか。そうでなければ、戦前の庶民を笑う資格などありませんよ。

問29:(第9段落、第10段落)「裁縫そのものは、人間労働であるというその抽象的属性のほかにはなにも反映してはならないのである。」という表現や、「商品の表現では、事柄が捻じ曲げられてしまうのである。」という表現に、なにか引っかかるのですが。
答29:おそらく今までも気になっていて、なんとなくわかったような、わからないような、そういうところではないかと思われますので、今度は、別の角度から、説明してみましょう。
例えば、エンピツと消しゴムと、その共通性として文房具という抽象(普遍性)で把握するというのは、何の不思議もないでしょう。抽象的なものは、具体的なものからの抽象であって、具体的なものの属性ということなら、普通に理解できるでしょう(答4)。「裁縫の形態でも織布の形態でも、・・・どちらも人間労働という一般的属性を持っている・・・ということは、なにも神秘的なことではない。」ところが、ボールペンという具体的なものが、文房具という抽象的なものの「表現」「単なる実現形態」であり、そういう「抽象的属性のほかにはなにも反映してはならない」といわれると、おかしく感ずるのではありませんか。「実際に上着に実現される裁縫は抽象的人間労働の単なる実現形態として認められる」「織布に対して、裁縫が、すなわちリンネルの等価物を生産する具体的労働が、抽象的人間労働の手でつかめる実現形態として対置されるのである。」だから、「事柄が捻じ曲げられてしまう」のです。
抽象的なものは、手でつかめるようなものではなく、まぼろしのような、透明なものでしょう。文房具という抽象(普遍性)は、文字を書くために必要な道具とでもいう以外ありません。例えば、売り場の棚の上に、プレートが掲げてあって、そこに「文房具」という文字が大書してあれば、文房具売り場ということがわかりますが、消しゴムの写真が貼り付けてあれば、消しゴムが売ってあることはわかりますが、その他のエンピツやボールペンや定規などの文房具まで売っていると言うのは、ややわかりにくいでしょう。文房具という抽象を表現するために、具体的なものを使用するというのならば、典型的な・それ一つで代表できるようなもの、例えばエンピツの写真を掲げるか、そうでなければ、いくつかのそれに属する具体的なもの、例えばエンピツと消しゴムと定規の写真を掲げるか、そういう工夫が必要でしょう。たった一つの消しゴムだけで、文房具を表現するというのは、消しゴムが文房具という普遍性だけでなく、「文字を消す」という特殊性を持っているので、その特殊性に遮られて、難しいのです。
抽象的なものというのは、具体性を欠いた・いわば透明なものであって、目で見て手で触ってわかるような・感性的なものではありません。ところで、私たちは、そういう抽象的なものを目に見えるようにする必要に迫られて、それを視覚化して、日常生活のさまざまな場面で利用しています。その中に、さまざまな記号があります。道路上の交通のルールを示す道路標識も、その一つです。一方通行、一時停止、通行止めなどの抽象的な規制を表す標識には、それぞれの規制に対応した、わかりやすい抽象的なデザインが使われています。また、地図に使われる学校や病院や役所などの地図記号は、それぞれの建物などを記号で表しています。
現実の個々の小中学校の建物は、それぞれ立地条件や建築法などが異なっていてそれぞれ特殊性をもっていますが、どれも小中学校という抽象(普遍性)で纏められます。そこで、地域を鳥瞰する地図上では、その抽象物を、という具体的形象を持った記号で表しています。地図記号は、「文」という漢字を記号化したものですが、学校で学ぶ国語を想像させて、容易に学校を連想できることから、学校の地図記号としてふさわしいといえるでしょう。このように、地図では、それぞれの抽象物に対応した地図記号が、国土地理院によって定められて、使われています。
この地図記号の「身体」は、具体的な建物などの抽象物の「表現」であり、「単なる実現形態」「手でつかめる実現形態」であり、「鏡」であり、「その抽象的属性の他にはなにも反映しては」いません。この地図記号の代わりに、例えば、ある実際の学校の写真を縮小して貼ってあるとしたら、その個別の学校だけを表現するには支障はありませんが、その他の学校を表すことはできないでしょう。地図記号が、学校という抽象を表現できるのは、むしろ、それが個々の小中学校の具体性を一切持っていないからなのです。
ところで、地図記号の中には、一目でそれを推定できるものもありますが、ちょっと見ただけではわかりづらいものもあります。それは、それぞれの地図記号が、具体的な事物の抽象に対応しているとはいえ、記号の具体的な形象と対応する抽象物との間には、直接的な対応関係がないところにあります。記号は、記号同士が相互に異なっておればよく、いわば、自由に決められるからです。それは、外国の地図を見ればわかります。外国の地図では、例えば学校は、その国の特殊性に応じて、Schで表されたりしています。一般的に、このような社会的に使用される記号とそれが表す抽象物との対応は、法律等の社会的規範に定められているのが普通です。
上着という個別的・具体的なものが、その特殊性を伴ったまま、抽象的な価値や抽象的人間労働の表現になると言うのですから、それは、もう、人が着る衣服・使用価値としての上着ではなく、価値物・抽象的人間労働を表す単なる記号としての上着ということです。見かけは依然として使用価値としての上着であり裁縫労働ですが、内実は内在する価値および抽象的労働の記号化した表現形態でしかありません。
第6段落(答27)で、重量表現として分銅の例を取りあげましたが、分銅は、より正確には、重量ではなく、より抽象的な質量を測る基準として用いられるものです。それ自体は金属塊という、質量を持った多くの個別の中の一つでありながら、質量の現象形態として、質量以外の物理的・化学的影響による特殊性が反映しないように、製造においても保管においても、工夫がなされています。すなわち、分銅という個別でありながら、質量という普遍性のみの現象形態を保てるようにするには、このような工夫が欠かせないのです。普遍性というのは、特殊性と対になって使われます。特殊性がなくなれば、普遍性もありません。ですからそれは、いわば、抽象的な質量という実体が、そのまま、浮き出てきたようなもので、そのような状態を保つようにしているわけです。
上着の「身体」・裁縫という「この具体的な労働」が、抽象的な価値や「抽象的人間労働」の「表現」「単なる実現形態」「手でつかめる実現形態」人間労働の表現になるのですから、分銅の例に見るように、記号としての上着の上に、価値や抽象的人間労働が、実体化して浮かび上がってきたようなものなのです(それが、価値の可視化です)。
ではなぜ、個別の上着を、価値や抽象的労働の表現として、使用しなくてはならないのでしょうか。それは、この段階では、リンネルと上着という二つの商品しか、存在していないからです。その一方であるリンネルの内在する価値および抽象的人間労働を表現しようとすれば、それは、他方の上着の「身体」を材料とするしかなく、そのため、上着をその使用価値と同時に価値および抽象的人間労働の実現形態として、二重写しに見るしかないからです。
この場合、上着の身体と、それで表現される価値および抽象的人間労働の結びつきを保障するものは、なんでしょうか。学校という抽象に対し、それに相応する抽象的な表現形式である学校の地図記号との結びつきを保障するのは、国土地理院の規則であり、多くの場合、社会的に使用される記号は、法律や慣習などの社会規範にきめられていますし、そうでなければ、地図や天気図のように凡例として片隅に示してあるのが普通です。ですから、個別の上着の場合も、一体化・固定化することを、凡例として最初に断っておくことしかありません。それが、リンネルと上着との等値=価値が等しい、ということなのです。
等価物である上着の身体は、有用な裁縫労働の産物ですが、それが同時に、価値および抽象的人間労働の「鏡」「単なる実現形態」になっています。ここに、抽象の表現・実現形態としてふさわしいのは、抽象的で記号的な形態か、典型的な限定例か、そうでなければ分銅のように特殊性を排除できるようなものであるはずなのに、個別的な上着という使用価値を材料として使用せざるを得ないと言う矛盾があります。この矛盾が、あなたに「何か引っかかる」という感じを起こさせたのです。ただ、マルクスの意図は、「諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展をその最も単純な最も目立たない姿から光まばゆい貨幣形態に至るまで追跡すること」ですから、最後のところで納得していただければ、それでよいのですが。
この上着における矛盾は、リンネルが押し付けたものです。リンネルは、自分に内在する価値を自ら表すことができませんから、上着に上着自身の価値の表現を与え、その上で、リンネル自身の価値を上着との同等性を以て表したのです。ですから、リンネルの価値と、上着の価値表現とは、媒介関係に置かれています(媒介的統一)。いいかえれば、リンネルと上着の媒介関係(等値)が、上着の二重化(直接的同一)を引き起こしたのです。

問30:(第12段落)「直接に社会的な形態にある労働」の意味が、はっきり掴めません。説明してください。
答30:ここでは、「私的」という言葉と、「直接に社会的」という言葉が、対になって使われています。
答15でも説明しましたが、なかなか理解が難しいのが、この言葉です。
まず、「社会的」という言葉の意味ですが、これは、二人以上の人間同士の関係のことです。答4の筆記具の例で行けば、エンピツとボールペンとサインペンの道具同士の「社会的」関係は、筆記道具の関係になります。筆記道具というのは、エンピツとボールペンとサインペンという3個から抽象した共通性だからです。と同様に、裁縫(労働)と織布(労働)の「社会的」関係は、抽象的人間労働の関係になります。つまり、裁縫と織布という二種の異なった労働に従事する労働者が、少なくとも一人ずつはいないと抽象できませんから、抽象的人間労働というのは労働者同士の労働の「社会的」関係を表しています。前段落で示されているように、等価形態は、具体的労働が抽象的人間労働の現象形態になるわけですから、私的労働が、「社会的」な形態にある労働になるわけです。(答10)
次に「直接」という言葉ですが、答25でも書きましたが、「媒介的ではない」という意味で、直接的交換の意味で用いられています。
「私的」労働というのは、答11で書いたように、「独立型労働」という意味です。より具体的にイメージしていただくために、エンゲルスの「反デューリング論」から引用しましょう。エンゲルスは、その中で、封建的生産様式について、次のように書いています。
「資本主義的生産以前には、すなわち中世には、労働する者が自分の生産手段を私有することに基礎をおく小経営が、ひろく存在していた。自由なまたは隷農的な小農民の農耕、都市の手工業がそれである。労働手段―土地、農具、仕事場、手工用道具―は、個々人の労働手段であり、もっぱら個人的な使用を目あてとしたものであった。だから、必然的にちっぽけな、倭小な、制限されたものであった。だが、そうであればこそ、それらはまた通例、生産者自身のものになっていた。」
「中世に発展していたような商品生産のもとでは、労働の生産物はだれのものであるべきか、という問題は全然起こりようがなかった。通例、個人的生産者は、自分のものである原料、しばしば自分で生産した原料で、自分の労働手段を使って、自分またはその家族の手労働でそれを生産した。彼はその生産物をあらためてわがものにするまでもなかった。それは、まったくおのずから彼のものであった。こうして、生産物の所有は自己労働にもとづいていたのである。他人の助力を借りた場合でさえ、その助力は、通例、副次的なものにとどまり、また、賃金のほかになお別の謝礼を受けることが多かった。ツンフトの徒弟や職人は、賄いと賃金のためというよりは、むしろ自分で親方となる修業のために働いたのである。」
「中世にはこういうふうであった。たとえば、農民は農産物を手工業者に売り、そのかわりに後者から手工業製品を買った。」
現代では、さしずめ、コメや野菜を生産する専業農家か、陶磁器を作る窯元か、伝統工芸などに従事する家族といったところでしょうか。
このような農民や手工業者の労働は、私的労働であり、直接に社会的形態にある労働ではありません。農産物と手工業製品の交換を通してはじめて社会的な労働になります。ところが、等価形態では、その私的労働が直接に社会的形態にある労働として扱われるのです。

問31:(第17段落)ここではアリストテレスの例を挙げて、「ギリシャの社会が奴隷労働を基礎とし、したがって人間やその労働力の不等性を自然的基礎としていた」と書いてありますが、どういう社会状況を言っているのですか。
答31:奴隷労働が支配的になるのは、古代ギリシャというより、古代ローマの時代です。
「土地の総有制をもつ古代の自然生的な共同体では、奴隷制はぜんぜん生じないか、もしくはきわめて従属的な役割しか演じていない。農民都市であった原初のローマでもそうであった。ところが、ローマが「世界都市」になり、イタリアの土地所有が少数のとほうもなく富んだ所有者の階級の手にますますにぎられていったとき、農民人口は奴隷人口によって駆逐された。」(「反デューリング論」)
「奴隷を使用することができるためには、二とおりのものをもちあわせていなければならない。すなわち、第一には、奴隷の労働のための道具と対象、第二には、奴隷がやっと命をつないでゆけるだけの生活手段である。」
奴隷は、その労働手段も生活するための生活手段も、奴隷の物ではありません。すべて奴隷所有者の所有物です。したがって、奴隷の労働も、奴隷自身と同じく、奴隷所有者のものであり、奴隷は生産者ではなく、労働手段・生活手段の一部とみられているのです。それはちょうど、家庭の主婦の家事労働が、そのように見られているのと同じことです。奴隷労働は、「人間やその労働力の不等性を自然的基礎としていた」からです。
マルクスの弁証法的唯物論では、人間の意識は、物質的生活の反映として捉えますが、それは、まるで鏡のようにそっくりそのまま反映するのではありません。ぼんやりだったり、途中で遮られたり、時にはひっくり返ったり。更に、他人の意識を受け取って、それをいままでの反映したものと合成し、新たな像として使用します。また、人は、反映したものを、さまざまに加工します。抽象という過程も、その加工の一つです。
奴隷労働に基礎を置く社会では、労働は人間の所業とはみなされていません。ですから、さまざまな奴隷労働を、人間労働に抽象するということは、民衆の意識の中に反映されなかったのです。ましてや、社会的に認知された労働と見なすということは、考えられなかったでしょう。アリストテレスの意識も、民衆の意識のレベル以上に出ることはなく、まさに、当時の労働の生産関係を反映したものでした。

第1篇第1章第3節A.4 単純な価値形態の全体

問32:(第3段落)「内的な対立は、一つの外的な対立によって」と書いてありますが、対立してはいないのではないですか。
答32:マルクスは、弁証法(論理)の用語を使っています。
答26でも書きましたが、これは大事なことなので、重複しますが、再度取りあげます。
一般に弁証法は、まず、一つの内的な対立から出発します。この内的な対立というのは、喧嘩や戦争のような敵対的な対立を意味するのではありません。一つの物(者)の中に、二つの異なった性質が共存していること、二つの異なった性格のものから成り立っていること、二つの違ったものが混在していること、そういう状態を指して、内的な対立と言っています。二つの性質、二つの性格、二つの違ったものは、お互いに異なっているのですが、それでも分かれずに共存している、それはお互いがお互いを必要としているからです。そうでないと、一つの物(者)として、なりえないからです。このような状態を、対立=矛盾と、表現するのです。
一つの商品は、使用価値という性質を持っていると同時に、価値という性質も併せ持っています。その二つを持っていないと、商品ではありません(一つの商品は、使用価値と価値の直接的同一)。しかし、使用価値と価値は、お互いの性質が全く反対です(答10、答14)。つまり、内的な対立を抱えている、矛盾を背負っているというわけです。
リンネルは、それ自体は使用価値のままですが、上着に等価物という形態を押し付けることによって(上着は、使用価値と価値物の直接的同一)、自分の価値を表現できるようになりました。リンネルの価値が上着の使用価値で表現されることによって(リンネルの価値と上着の価値物との媒介的統一)、相対的価値形態と等価形態へ分裂したのです(答16、答18、答26、答29)。内的な対立が、一つの外的な対立によって表されたのです。
ただこれは、弁証法の発展の第一段階にすぎません。リンネルと上着だけの物々交換であれば、これだけでいいかもしれませんが、それでも交換のたびごとに、リンネルに上着の写真のコピーを貼り付けるのは、面倒です。更に別の商品を交換する時には、同様に、別の商品の写真のコピーを、リンネルに貼り付けねばなりません。これでは極めて不便です。
こうして、次に外的な対立が、その後、相互浸透の構造を構成するようになり、相互浸透→相互移行→否定の否定の構造へという道筋を辿ります。そうして、物々交換が、貨幣を媒介とした商品交換へと発展していくのです。

第1篇第1章第3節B.1 展開された相対的価値形態

問33:(第2段落)「偶然的事実でありうる」「二人の個人的商品所有者の偶然的な関係」とはどういうことを言っているのですか。
答33:答16、答18で、あなたは、リンネルの束の荷札に、1着の上着の写真のコピーを貼り付けました。しかし、これは、上着やリンネルの価値が変わるだけでなく、その他の偶然的な諸事情によっても、1着の上着が2着になったり、半分になったり、いろいろ変わってきます。ですから、あなたは、これがどういう理由で変わるのか、よくつかめません。なぜなら、上着としか交換していないからです。
しかし、もう一つの10ポンドの茶との交換もするようになると、上着の写真のコピーと同じ荷札に、10ポンドの茶の写真のコピーも貼り付けることになります。そうすると、今度は、20エレのリンネルの束は、1着の上着と10ポンドの茶と、その価値が同じ価値量を表しているということが一目瞭然です。「交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる。」のです。偶然的事実、偶然的関係に対して、価値量が交換割合を決定するという必然性(法則)が明らかになると言うわけです。

第1篇第1章第3節B.2 特殊的等価形態

問34:(第1段落)「一つの特殊的等価形態」とありますが、上着や小麦などの個別的等価形態ではないですか。以前は、単に、「等価形態」というだけだったのに、なぜ急に、「特殊的」という言葉が付いたのですか。個別、特殊、一般の違いを説明してください。
答34:それは、取り上げる範囲が違ってきたからです。
いままでは、リンネルの相手は、上着だけでした。ところが、この段階では、上着に加えて、茶も、コーヒーも、加わってきます。
答4の例で言えば、エンピツに加え、ボールペンと消しゴムとノートが加わりました。ここで、エンピツに注目すると、エンピツは、ボールペンとの関係では、その共通性は筆記具ですが、消しゴムとの関係では、その共通性は文房具です。この場合、エンピツを個別、筆記具を特殊、文房具を普遍(一般と同じ意味で使用します)として区別します。それぞれの個別のエンピツ、ボールペン、サインペン、消しゴム、ノートは、エンピツやボールペンが文字を書く物(筆記具)、消しゴムは文字を消すもの、ノートは文字を写すものという特殊性を持っていますが、同時に、文房具という普遍性を持っているというわけです。つまり、個別、特殊、普遍というのは、抽象の度合いの違いなのです。
抽象の度合いは、カバーする範囲の違いでもあります。スーパーに行ってみましょう。スーパーに入って、まず目につくところから挙げれば、リンゴ、ミカン、バナナは果物ですが、隣の棚のキャベツ、キューリの野菜まで含めれば食用植物といったところでしょうか、次の肉や魚のコーナーまで含めれば、生鮮食品となるでしょうか、リンゴの棚に並んだ各種のリンゴをひっくるめて個別と取れば、果物が特殊、食用植物が普遍となるでしょうが、果物の棚のすべてをひっくるめて個別ととれば、食用植物が特殊、生鮮食品が普遍になるでしょう。ですから、どれを取るか、どこまで含めるか、によって変わってくるのです。
特殊と普遍というのは、対になって使われる言葉です。特殊だけ、普遍だけという言葉の使われ方はしません。そういう場合、個別という言葉も、その中に入ってくるのです。
答18で、あなたは、リンネルの束に、上着の写真のコピーを貼り付けました。そこでは、リンネルと上着しかでてきていません。ところが、答33では、あなたは、リンネルの束に、上着の写真のコピーと、10ポンドの茶の写真のコピーとの二つを貼り付けました。これで等価形態の商品は2つになりました。2つの個別的等価形態には、それぞれ異なった特殊的等価形態、上着と茶が対応しますが、同時に、同じ一般性(普遍性)の側面が存在するはずです。そこで、次の段階で普遍(一般)のレベルに達することを前提にして、このレベルを特殊としたのです。

nantenkaisetu1答34

第1篇第1章第3節B.3 全体的な、または展開された価値形態の欠陥

問35:(第4段落)「列を逆にすれば」というのは、答18、答33のやり方で行くと、どういうことになるのですか。
答35:答33で、あなたは、リンネルの束の荷札に、1着の上着の写真のコピーと10ポンドの茶の写真のコピーとを貼り付けました。更に、交換の範囲が広がるに応じて、さまざまな物品の写真のコピーを貼り付けねばならなくなります。極めて不便な状況が発生します。
ところで、あなたは、ひょっと頭をあげて、交換する上着の販売者の手元に目をやります。そうするとどうでしょう。そこには、自分の手元にあるリンネルの20エレの束の写真が、1着の上着の荷札に貼ってあるではありませんか。気が付いて、茶の販売者の手元も見てみると、そこにも、自分の手元にあるリンネルの20エレの束の写真が、茶の10ポンドの束の荷札に貼ってあるではありませんか。あなたが答18でやっていたことを、あなたの交換相手も、やっていたのです。そこで、あなたは、それぞれの商談を別々にやっていたことに気が付きました。まとめて商談すれば、もうあなたは自分のリンネル20エレの束に相手の物品の写真のコピーを張らなくても、よいことになります。あなたは、20エレのリンネルの束を店頭に置いておきさえすればよいのです。そうすれば、相手がその写真をとって、リンネルと交換しようとする物品の束に写真のコピーを貼り付けて持ってきてくれるでしょう。あなたの商品の交換相手の協力によって、あなたのリンネルは、相対的価値形態から、特殊的等価形態に、立場が逆転したのです。
この立場の逆転は、単なる立場の移動ではなく、同時に、飛躍でもあります。特殊(的等価形態)から一般(的等価物)への飛躍です。
あなたのリンネルは、もう、特殊的等価形態ではありません。特殊的等価物は、あくまで、個々の物品の交換の際に押し付けられる個別的等価形態の中の特殊的側面ですから、いわば、個別的等価形態の単なる延長、単純な足し算でした。ですから、あなたは、リンネルの束に、交換しようとする多くの物品の写真のコピーを貼り付けたのでした。しかし、これでは、物品の数が増すにつれ、写真のコピーも増加していきます。その結果、これ以上写真のコピーを貼り付けるのは事実上無理という時点が、必ずやってきます。これに対し、ここで到達したのは、それぞれのリンネル以外の物品の販売者は、たくさんの物品の写真のコピーを貼り付けるのではなく、リンネル20エレの写真のコピーをたった一枚だけ貼り付ければ良いという段階です。リンネル以外の物品の販売者にとって、リンネルは、見かけは、個別的等価形態のようですが、内実はそうではなく、個別的等価形態の中にある、もう一つの側面、普遍性(一般性)を表現しているのです。特殊性の段階から、もう一段上の抽象レベルである一般(普遍)に引き上げられています。ですから、等価形態は、たった一つ(単純)になり、しかも、リンネル以外のどの物品に対しても同じ表現(統一、共通)になったのです。これなら、交換しようとする物品に、制限はかかりません。そればかりか、リンネルは、今ある商品だけでなく、将来目の前に現れる商品の、無限の商品の等価形態をも表現できます。リンネルは、特殊的等価形態から一般的等価形態へ脱皮したのです。(ここで脱皮という言葉を使いましたが、マルクスは後で、蛹化という言葉を使っています。弁証法の用語では、止揚といいます。形式的には否定するが、内容的に保存するという意味です。)
問34で、特殊と普遍を対立させて考えました。両者には、決定的な違いがあります。それは特殊は有限、つまり限度(限り)がある領域を表しますが、特殊と対立させられた普遍は、無限、限度がない領域を表せるということです。実際、特殊の領域を極限まで広げれば、それはもう特殊ではなく、普遍になってしまいます。特殊がなくなれば、普遍もなくなるからです。特殊と普遍は、次元の違いであり、単に数えられるかといった量だけの問題ではありません。答17の対立する両極なのです。飛躍と言った意味が、理解していただけたでしょうか。
ところで、あなたのリンネルは、一般的等価物になりましたが、リンネルの束の荷札に、さまざまな交換相手の物品の写真のコピーを貼り付けているという状況は、変わっていません。見かけ上は、特殊的等価形態にあったときと変わっていませんが、その内容は変わりました。あなたのリンネルは、一般的等価物になりましたから、今度は、あなたの等価物の等式が、リンネル独自の相対的価値形態の表現になって、現れてきたのです。

nantenkaisetu1答35

第1篇第1章第3節C.1 価値形態の変化した性格

問36:(第3段落、第4段落)「ただ、労働生産物が偶然な時折の交換によって・・・最初の時期だけの事である。」「たとえば、家畜がもはや例外的にではなくすでに慣習的に・・・交換されるようになったときのことである。」として、歴史的な事柄と対応させています。いままでもずっと気になっていたのですが、いままでの商品の論理の展開の過程と、歴史的な事柄との対応は、どうなっているのですか。答11で、唯物史観の社会分類が出てきましたが、それとの対応はどうなっているのですか。
答36:これは、なかなか一言で答えられない問題です。ただ、「資本論」を読み進むにつれ、次第に明らかになってきますが、ここでは大まかに説明しておきましょう。
マルクスは、この「資本論」において、経済学を科学として確立しました。科学ということは、それが何回も繰り返し起こるか、それとも一回限りであるかは別として、事実を目の前にして、それから抽出して把握した法則によって、現象を統一的・合理的に説明することができるということです。それぞれの個々の現象には、それを成り立たせる特殊性がありますが、同時に、それらの現象を貫く普遍性があります。その普遍性を掬い取って定式化したのが法則ですから、法則も、そのカバーできる現象の範囲が広がれば広がるほど、より普遍的な、より一般的な、より基本的な法則に纏められていきます(答34)。
マルクスは、資本主義社会の経済的構造を研究して、そこから、賃労働・資本の関係の法則を発見しました。また、その法則が、資本主義社会ではむしろ脇役であった貨幣流通の法則の特殊性として位置付けられ、更にそれは商品交換の・より一般的な法則に纏められることを見出しました。このことによって、資本主義以前の社会の経済構造にまで、研究範囲を拡大することが可能になりました。その結果明らかになったのは、単に資本主義だけでなく、歴史上に起こった人間社会の経済的構造における、生産物の生産と交換、その結果としての分配の様式の法則でした。
それによれば、貨幣による労働産物の交換が規則的になる以前の社会は、自然発生的な原初的共同体であって、その内部は、農業と素朴な手工業の未分化とある種の役割分担に基づく分業体制が取られているということ、更に、その体制は、外部からの攪乱がなければ相当長く続き、インカ帝国のように高度な分業と協業の体制に発展したり、また、東洋的専制政治に変形したりするということでした(アジア的生産様式)。
その原初的共同体が崩壊するのは、異なった共同体同士の生産物の交換を端緒とする、共同体間の社会的分業とその内部における反作用としての私的所有の浸透でした。こうして共同体の農耕が、それぞれの家族による分割地農耕に席を譲り、その結果、最初に繁栄を謳歌したのは、古代ギリシャ・ローマの古代的社会でした。そこでは、農業と手工業のある程度の分業と交換が行われていましたが、後に、共同体同士の戦争によって捕虜となった奴隷による労働が一般化するに及び、次第に崩壊していきました(古代的生産様式)。
振り出しに戻った分割地農耕を引き継いだのが、次の封建的社会でした。そこでは、経済の基本は古代社会と同じでしたが、役割分担のやり方が違っていました。農耕に基づく土地所有制度の上に立つ身分制度という方法を採用したのでした(封建的生産様式、答30)。この封建的社会の地域経済を掘り崩していったのは、私的所有と手工業の発展における交換の拡大でした。その結果、資本主義的経済が浸透していくのですが、それは、後に、「資本論」で詳細に学ぶようになります。
先に答11で、「独立型労働」と「依存型労働」のモデルを示して説明しましたが、このモデルは、アジア的社会の経済と古代的・封建的・資本主義的社会の経済から、抽象したものです。実際の歴史では、こういうモデルそのままはありえません。むしろ、「独立型労働」、つまり、私的所有と社会的分業の仕組みは、「依存型労働」、つまり、原初的な共同所有からの分離として発生し、次第に少しずつ歴史的に形成されたものだからです。ですから、「第1章商品」で論じられている「商品」(答2)も、使用価値と価値の矛盾を背負って最初から生まれてくるのではなく、最初は使用価値として普及したものが、次第に物々交換に供されるようになって、(交換)価値を持つようになり、商品として通用するようになっていったはずです。すなわち、商品における使用価値と価値との矛盾も、次第に形成されてきたはずです。その結果、貨幣も生まれてきたはずです。しかし、私たちは、その経過を見ることはできません。なぜなら、古代社会以前に生まれたと考えられる貨幣という証拠品は、歴史博物館に置けば見ることができますが、生成過程はどこにも残っていないからです。科学は、事実を目の前にしてそこから抽出したものということからすれば、歴史上の事実であっても、目の前には置けないことになります。そこで、それまでに得られた結論から、推論によって明らかにしたのが、この第1章なのです。
ですから、第一の「形態が実際にはっきりと現れるのは、ただ、労働生産物が偶然的な時折の交換によって商品にされるような最初の時期だけのことである。」、第二の「形態がはじめて実際に現れるのは、ある労働生産物、たとえば家畜がもはや例外的にではなくすでに慣習的にいろいろ他の商品と交換されるようになったときのことである。」として商品の価値形態の展開と歴史上の展開との一致を推論しているのです。

問37:(第6段落)「社会的な定在」という言葉が、カッコに入っています。いままでのところで、社会的という意味は分かりますが、定在というのはどういう意味ですか。
答37:「社会的な定在」とは、社会的「関係を担っていることを表現している存在」という意味です。これを「実存」と言ったりもします。
答15(答10)の「商品の価値対象性は純粋に社会的である」で説明したように、商品の販売者の背後には、商品を作った生産者(労働者)が控えています。しかし、商品の販売だけを見ている限りは、生産者のことは表面に出てきません。それでも、商品の価値は、生産者の労働によって決まるわけですから、商品は、実際に、背後の生産者の労働を担っており、価値は、そのことを表現しています(抽象的人間労働は、価値を形成した実体(答6))。背後の生産者の労働同士の隠れた関係が、商品の関係になって、表に、店頭に現れてきているわけです。それを「社会的な定在」と表現したのです。
生産者の労働の関係を、労働の生産関係と言います。それが、商品同士の関係になって現れるのが、「独立型労働」(答11)の社会の特徴です。ですから、それぞれの生産者の労働同士の関係は、「諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうる」のです。

問38:(第8段落)「リンネルの物体形態は、いっさいの人間労働の目に見える化身、その一般的な社会的な蛹化」とは、何の例えですか。
「消極的に表されているだけではない。この労働自身の積極的な性質がはっきりと現れてくる。」と消極的、積極的と言い表されていますが、具体的にはどういった意味ですか。
答38:答18では、リンネルの販売者であるあなたは、上着の価値を可視化(見える化)し、使用価値の上着と、価値表現である上着と、二重写しに見えるようにしました。価値表現である上着は、同時に、抽象的人間労働の現象形態でした(答20)。ただ、この個別的な段階では、それはリンネルと上着という、二つの商品の関係だけでしたから、抽象的労働といっても、実際は、裁縫労働と織布労働との二つの共通性を抽象しただけでした。
次の全体的な段階では、リンネルの等価物は、上着や10ポンドの茶や40ポンドのコーヒーなどの商品に増え、それぞれの商品の具体的な有用労働も、その分だけ、共通性の抽象化に寄与するようになり、人間労働の抽象度が高まってきました。それを、展開された相対的価値形態および特殊的等価形態としました。
今の一般的な段階では、多くの異なった商品の販売者の協力によって、リンネルの上には、多くの異なった有用労働の総和としてではなく、それらを止揚した抽象的人間労働そのものが映し出されています。等価物リンネルは、特殊的等価形態から、一般的等価物へ飛躍したのです(答35)。答29で分銅の例を挙げましたが、一般的等価物こそ、まさに、単なる抽象であるはずの質量という概念が、あたかも質量という実体として浮かび上がってきたようなものです。「一般的な社会的な蛹化」という表現は、この飛躍・実体化を、表現したのでしょう。
それは、相対的価値形態にある上着や10ポンドの茶や40ポンドのコーヒーなどにおける価値に反射し、諸商品の価値を相互に比較できるようにしました。相対的価値形態も、一般的な相対的価値形態に止揚したのです。
そのような相対的価値形態と等価物の両方の人間労働の抽象化の飛躍を、「消極的」から「積極的」という表現で指しているのです。答29で取り上げた抽象物とその表現としての具体物の矛盾を思い出してください。その矛盾が解決されていく方向に向かっています。商品における二重化が、個別・特殊・一般という過程を経て、完成されていくわけです。
一つの商品は、使用価値と価値という矛盾を抱えています(一つの商品は、使用価値と価値の直接的同一)。この段階では、まだです。リンネルは、上着に等価物という形態を押し付けることによって(上着は、使用価値と価値物の直接的同一)、自分の価値を表現できるようになりました。リンネルの価値が上着の使用価値で表現されることによって(リンネルの価値と上着の価値物との媒介的統一)、相対的価値形態と等価形態へ分裂し、内的な対立が、一つの外的な対立によって表されました。卵がかえって、幼虫になったのです。その後、個別的な価値形態から展開された価値形態へ進行し、今ここで、一般的な価値形態へ止揚しました。幼虫が脱皮してになったわけです。あとは、貨幣へ移行します。つまり、になるということです。そうして、物々交換が、貨幣を媒介とした商品交換へと発展していくのです。蛹化というのは、マルクスらしい、実に見事な表現です。

問39:(第9段落)「労働の一般的な人間的性格が労働の独自な社会的性格となっている」というのは、どういう意味でしょうか。
答39:この答は、第4節で出てきますから、ここで説明する必要もないかもしれませんが、一応説明しておきましょう。
「労働の一般的な人間的性格が労働の独自な社会的性格」になっていない世界を挙げてみればわかるでしょう。例えば、封建的生産様式の社会を考えてみましょう。そこでは、労働は賦役として、労働生産物は貢納物として、農奴と領主という身分制度によって決められた・特殊な人的従属関係をその身に直接帯びており、したがって、農奴から領主へと、その行く先が一方的に決められています。そこでは、労働の一般的な人間的性格ではなく、労働の特殊的な人間的性格=農奴が、労働の独自な社会的性格=賦役になっています。ですから、「労働の一般的な人間的性格が労働の独自な社会的性格」になっている「この世界」というのは、商品社会(答11)のことなのです。

第1篇第1章第3節C.2 相対的価値形態と等価形態との発展関係

第1篇第1章第3節C.3 一般的価値形態から貨幣形態への移行

問40:(第1段落)「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。」とありますが、「価値一般の一つの形態」とはどういう意味ですか。
答40:答34で、個別・特殊・普遍の区別と連関を示し、それは、抽象の度合いの違いであると説明しました。エンピツ、ボールペン、サインペン、消しゴム、ノートを比較して、エンピツを個別とすると、筆記具を特殊、文房具を普遍とすることができました。この場合、特殊である筆記具を、同時に普遍として把握し直すと、エンピツは、ボールペンやサインペンと並んで特殊性として把握することになり、個別性は、黒のエンピツ、赤鉛筆、HBのエンピツなどということになります。また、普遍として把握した文房具を特殊として把握し直すと、文房具は文字を書くための道具ですから、道具という抽象物(普遍)の中の一つということになります。特殊性は、普遍性と媒介関係にあると同時に、特殊性が普遍性でもあると言う直接性でも捉えなくてはならないのです。特殊性と普遍性を対立物として捉えると、媒介関係を媒介的統一、特殊性が同時に普遍性でもあると言うのを直接的同一といいます。
一般的等価形態は、普遍性ですが、これを同時に特殊性として把握すると、価値一般(文字通り、商品に内在する価値)というのが普遍性(一般性)になり、一般的等価形態は、その特殊の中の一つということになるのです。リンネルは、一般的等価形態になりましたが、リンネルを一つの特殊性と把握すると、上着も茶もコーヒーも、それぞれ特殊性ですから、リンネルだけが一般的等価形態に縛られるわけではなく、上着も茶も一般的等価形態となりうるというわけです。

問41:(第2段落)「現物形態に等価形態が社会的に合生する」と「合生」という表現を使っています。直接的同一という意味でしょうか。
答41:そのとおりですが、もうすこし説明を加えましょう。
答29で、個別的な等価形態を取りあげた時に、次のような矛盾を指摘しました。
「等価物である上着の身体は、有用な裁縫労働の産物ですが、それが同時に、価値および抽象的人間労働の「鏡」「単なる実現形態」になっています。ここに、抽象の表現・実現形態としてふさわしいのは、抽象的で記号的な形態か、典型的な限定例か、そうでなければ分銅のように特殊性を排除できるようなものであるはずなのに、個別的な上着という使用価値を材料として使用せざるを得ないと言う矛盾があります。」
この段階では、上着は、使用価値と等価物の直接的同一でした。ただ、等価物は、個別的等価形態でした。その等価物が、個別→特殊→一般へと展開され、一般的等価形態となりました。しかし、最初の上着は、最後にはリンネルになっていますが、個々の商品であるには変わりありません。つまり、一般的等価物にふさわしい使用価値になっていないのです。
一般的等価物にふさわしい使用価値というのは、たった一つに限定され、しかも、分銅のように、特殊性の表現を排除された形態です。この最終的に一つの独自な商品種類、その商品の独自な社会的機能、その商品の社会的独占が、貨幣商品としての金です。この段階ではじめて、使用価値と等価物の二重化という矛盾(直接的同一)が定立し、それが同時に矛盾の解決なのです。蛹は蝶に脱皮したわけです。
ところで、次の段落には、「社会的慣習によって最終的に商品金の独自な現物形態と合生している」して、社会的慣習という言葉が使われています。これは、問29で、記号について説明した際に、社会的に使用される記号とそれが表す抽象物との対応は、法律等の社会規範によって定められているということを言いましたが、金が貨幣となるのも、社会的慣習が社会的規範に代わり、最終的には国家が法でそれを規定するのです。

nantenkaisetu1答41

第1篇第1章第3節D 貨幣形態

問42:(第3段落)価格形態という言葉が出てきました。これは、答35の例で行くと、「リンネルの20エレの束の写真」ということですね。
答42:そのとおりです。
この議論は、第3章に繋がっていくので、ここでは、到達段階を確認しておきます。
リンネルは、使用価値(A)と内在する価値(B)の矛盾(直接的同一)を抱えた存在でした。それがこの段階では、内在する価値が価格形態(B)となって可視化しています。一方、貨幣商品の金は、使用価値金(A´)と一般的等価物=貨幣(B´)の矛盾(直接的同一)を抱えるようになりました。
リンネルに代表される一般商品と貨幣商品の金を外的に対比させると、双方に使用価値と価値が割り振られており(媒介的統一)、貨幣商品は、一般商品から排除され独占されています。つまり、一般商品の世界と貨幣の世界と、世界が二重化したのです。この構造を矛盾する対立物の相互浸透(弁証法の第2定理)の基礎構造といいます(答17)。今までの議論は、この構造を構築することにありました。これは、矛盾する対立物の発展形態の典型例なのです。これから、否定の否定(弁証法の第3定理)へと展開され、さらに相互浸透が進行していきます。

nantenkaisetu1答42

第1篇第1章第4節 商品の呪物的性格とその秘密

問43:(第1段落)「商品の呪物的性格」とは何ですか。また、商品とは「形而上学的な小理屈や神学的な小言でいっぱいなもの」というのは、どういうことを言っているのですか。机は、「他のすべての商品にたいして頭で立っており云々」というのは、机の持っている超感覚的なものを表わしていると思いますが、なぜ、頭で立っているのですか。また、「その木頭からは、机が自分勝手に踊りだすよりもはるかに奇怪な妄想を繰り広げる」とは、何のことですか。
答43:この節では、商品の持っている価値というものの不思議さが、取り上げられていますが、実はこの節は、マルクスやエンゲルスの唯物史観の基本的な性格が述べられているので、重要なところです。
商品に内在する価値というものは、実に不思議なものです。TVの番組で、なんとか鑑定団というのがありますね。たとえば、ある人が、数百円で買った茶碗があったとしましょう。それを高名な鑑定師のところへ持っていって鑑定してもらったところ、骨董品として、数百万円という値段がついたとしましょう。その持ち主は、それ以後、その茶碗の扱い方を変えるでしょう。家の隅に押しやっていた存在から、床の間の真ん中へ。そればかりか、それを売れば、実際に鑑定額通りの金が手に入りますから、新車を買うなり、旅行に行くなりできるようになるでしょう。実に商品価値というのは、不可思議なものです。
ところで、このような価値と似たような性質を持つものがあります。それを「呪物」と言っています。
あなたは、お正月の初詣に、近くの神社にお参りに行きませんか。その時、社務所でお札やお守りを買ったりしませんか。あるいは、受験生を抱える家族の親は、学問の神様である天神様(菅原道真)を祭ってある天満宮に行って、合格祈願の御守りを買ってきてやったりするでしょう。お守りは、「使用価値」としては、外側の刺繍のある袋を取り払えば、単なる文字や絵が書かれた小さな紙や板にしかすぎません。しかし、誰もただの紙や板とは思いません。それに神様が宿っていると思っています。お守りを持っていると、神様が護ってくれていると思っています。
お守りやお札は、表面的には字・絵が書かれた紙片・木片ですが、その中に神様が宿っているという意味で「呪物」であり、その「頭」は神様(御霊)です。ただ、その「頭」は表面に出てきておらず、隠されています。それはちょうど、商品の価値が、表面的な使用価値の中に隠されているのと同様です。それを「頭で立っている」、つまり、逆立ちしていると表現しているのです。
お守りと価値には、共通点があります。それは、所有者である私達には、それを左右することはできないということです。お守りと同じものを私たちが作っても、それはお守りとはなりません。神社で、神主が御霊入(みたまいれ)という儀式を行い、御霊が宿るから、お守りなのです。商品も、鑑定士が鑑定するか、いわゆる市場に持って行って同じ種類の商品を見比べてしか、価値がわかりません。
この価値という概念を巡って、経済学者はさまざまに意見を戦わせてきました。マルクスは、第1節および第2節で、いとも簡単に価値の中身を解き明かしていますが、それまではその正体を明らかにできなかったのです。そういう議論の経過を、「形而上学的な小理屈や神学的な小言でいっぱいなもの」また、「はるかに奇怪な妄想」と表現したものと思います。
「机が自分勝手に踊りだす」というのは、当時はやっていた心霊術のことを言っているようです。エンゲルスの「自然弁証法」の中に、「心霊界における自然研究」という項目があって、そこで、ウォーレスが熱帯旅行からの帰国後、「机が踊りだす諸実験が彼を様々の「霊媒」の会に引張りこんだ」とあります。興味があれば、読んでみてください。ちなみに、一流の科学者が、この手の「心霊現象」に入り込むことについての、エンゲルスの的確な批判は、昔も今もぴったりと当てはまっています。
ところで、この段落で述べられている使用価値の規定は、答12で取り上げたように、人間と自然を媒介する有用労働としての側面です。このことを押さえておいてください。

問44:(第2段落)ここで「価値規定の内容」として取りあげている第一と第二の内容は、答6・答7で説明された「価値を形成する実体」、つまり抽象的人間労働のことと考えていいのですか。
答44:その通りです。
「いろいろな有用労働または生産活動がどんなに違っていようとも、それらが人間有機体の諸機能だということ、また、このような機能は、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出だということ」というのは、裁縫労働や織布労働などの諸有用労働の共通する性質ですから、抽象的(一般的)人間労働ということです(第2節第10段落参照)。「価値量の規定の根底にあるもの、すなわち前述の支出の継続時間、または労働の量」というのは、抽象的(一般的)人間労働の労働時間ということです(第2節第12段落)。
商品の不思議さは、使用価値からも、抽象的人間労働の規定からも、出てこないということです。

問45:(第3段落、第4段落)第3段落の内容を受けて、「商品形態は人間に対して人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ・・・」と反映という言葉を使い、これを置き換えという言葉で言い換えて、「労働生産物は・・・社会的なものになる」と言っています。言っていることはわかるような気がしますが、なにか釈然としません。また、「同様に、物が視神経に与える光の印象は」云々といっていますが、何が同様なのですか。
また、「幻影的な形態」に対して、「宗教的世界の夢幻境」「人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間との間でも関係を結ぶ独立した姿に見える」というのは、どういう意味ですか。
答45:商品の不思議さは、使用価値からも、抽象的人間労働の規定からも出てこない。とすれば、それは、商品そのものの中に内在する価値から出てくると言うのは、今まで「資本論」を学んできた皆さんには、理解できると思います。
ここでは、価値を形成する実体である人間労働と、商品に内在する価値との関係を取りあげています。両者の関係は、労働の対象化という関係です(問6)。「いろいろな人間労働の同等性」つまり、抽象的人間労働は、対象化された形態では、「いろいろな労働生産物の同等な価値対象性という物的形態」つまり、価値になり、「その継続時間による人間労働の支出の尺度は、労働生産物の価値量という形態」となり、「生産者たちの労働の・・・諸関係は、いろいろな労働生産物の社会的関係という形態」となるのです。
生産者たちの諸労働の関係は、特殊及び普遍という観点から把握されます。諸労働の特殊性(有用労働)は、使用価値に、諸労働の普遍性=抽象的人間労働は、価値に、それぞれ対象化されています(答10)。ですから、対象化によって、「人間自身の労働の社会的性格」が、「労働生産物そのものの対象的性格」となって反映し、「総労働に対する生産者たちの社会的関係」つまり社会的分業が、「諸対象の彼らの外に存在する社会的関係」つまり商品の社会的関係(答10、答30)となって反映するということです。
ここで「社会的」というのは、「多数個人の」という意味です(答30)。「反映」というのは、まるで霊魂のように、抽象的人間労働が人間から抜け出して労働生産物の中に移動したのではなく、ちょうどテレビモニターが野球中継の映像を映し出しているように、労働生産物に関係として結びついていることを表しています(問6)。
ところで、人が物を見る時は、物理的過程としては、対象から発せられた光が目に届いて視神経を刺激し、その刺激が脳に伝わって、脳に描かれた像が主観的に認識されたものでしかありません。ですから、白い物が周りの赤い光の加減で、赤い物と誤って認識されることもあるのですが、私たちは通常、そういう視神経の刺激とは考えず、目に映った印象から「物が赤い、赤いという性質を持った物がそこにある」と認識します。これが、目の前の物に対して人の頭脳への「反映」という日常の習慣です。論理的に言うならば、例え、生産物に結びついた関係であったとしても、日常の習慣から、その関係を物の属性として実体化して把握すると言うことです(答15)。ここで「置き換え」と言っているのは、こういう「反映」と同じ論理であるといっているのです。弁証法の言葉を使えば、疎外止揚と言えます。ここで止揚というのは、形式は否定するが内容は保存すると言う意味です(答35)。
ですから、商品の不思議さは、対象化によって、生産者たちの諸労働の社会的性格が反映することから発生するということになります。この社会性については、更に段落を追って議論されていきます。
ところで、マルクスは、このような関係の類例として、宗教の世界を挙げています。
問43で、お守りと価値には共通点があり、所有者にはそれを左右することはできないといいました。お守りが単なる紙片・木片と違うのは、そこに神(霊)が宿っていると信じているからで、そういう信仰から一歩引きさがって宗教の外からそれを眺めてみると、神というのは、人間が作り出した空想物、すなわち「人間の頭の産物」ですから、それがお守りに宿っている、すなわち「それ自身の生命を与えられて」おり、所有者がお守りを持つことによって神の加護があると信仰している、すなわち「人間とのあいだで」信仰という「関係を結ぶ独立した姿」を呈しています。
お守りには、人間の頭の中にしか存在しない神(霊)という抽象物が、頭の中から抜け出して、お守りの紙片・木片に対象化(観念的対象化)されています。このことが理解できるのは、私たちが神を信じていないからです。神を信じていない私達にはそう認識できても、信じている所有者にとっては、単なる紙片・木片にすぎないものが、神主が行う御霊入(みたまいれ)の儀式によって御霊が宿るようになり、それが紙片・木片が持っている対象的な性質として感じられるので、単なる紙片・木片がお守りになるのです。
「商品世界の人間の手の生産物」すなわち商品も、人間の労働の中にしか存在しない抽象物が、商品の中の価値として対象化(物質的対象化)されています。しかし、ここまで学んできた私達にはそう認識できても、生産物を交換しようとしている所有者にとっては、生産者自身の労働の社会的性格など自覚できませんから、それは、日常の習慣から、「労働生産物そのものの対象的な性格」として、価値という実体化された形態で感ぜられます。その結果、お守りが呪物になったように、商品も呪物になったというわけです。人間の労働の中にしか存在しない抽象物こそ、答10で説明したように、商品社会において、労働の社会的関係を表現しているのです。

問46:(第7段落)「有用物と価値物とへの労働生産物の分裂」というのは、第3節で出てきたような、20エレのリンネル=1着の上着という個別的価値形態のことを指しているのですか。この形態は、偶然的な関係(答33)ということでしたから、「交換がすでに十分な広がりと重要さをもつようになり」という表現とは違うような気がしますが。
答46:そうとってもいいとは思います。というのは、「交換がすでに十分な広がりと重要さをもつようになり、したがって有用な諸物が交換のために生産され、したがって諸物の価値性格がすでにそれらの生産そのものにさいして考慮されるようになる」というのは、物々交換としての等価交換が社会に定着し始めたことを指しているからです。第3節で示されたように、等価交換は貨幣の出現を促しますから、ここで言っている価値物は貨幣のことだと深読みしてもいいとは思いますが、そうでなくても、等価交換の定着ということは、労働生産物が価値を持つようになった、すなわち商品になったことを意味しています。
答30で、エンゲルスの「反デューリング論」から引用しましたが、理解を助けるために、またここで、別の個所から引用しましょう。
「中世の社会では、ことにはじめの数世紀には、生産は本質的に自家消費を目あてとしていた。それはおもに生産者とその家族の欲望をみたしただけであった。農村のように、人身的な隷属関係があったところでは、生産はまた封建領主の欲望をみたすことにも役たった。だから、この場合には、交換はおこなわれなかったし、したがって、生産物が商品の性格をとることもなかった。農民の家族は、食料だけでなく、家具でも衣服でも、自分たちに必要なものはほとんどなんでも生産した。彼らが、自分たち自身の需要と、さらに封建領主におさめる現物貢租とをこえて、ある余剰を生産するようになったときに、はじめて彼らは商品をも生産するようになった。つまり、この余剰が社会的交換のなかに投げこまれ、売りに出されて、商品になったのである。なるほど都市の手工業者は、そもそものはじめからすでに交換めあてに生産しなければならなかった。だが、彼らもまた、自家需要品の大部分を自分の労働によって手に入れていた。彼らは菜園と小さな畑をもっていた。彼らは、自分の家畜を共同体の林に放し、そのうえこの林から用材や燃料を得ていた。また、女たちは麻や羊毛などを紡いだ。交換を目的とする生産、商品生産はようやく発生しかけたばかりであった。だから、交換は限られており、市場は限られており、生産様式は安定していて、外に向かっては地方的閉鎖性が、内に向かっては地方的団結があった。農村にはマルクがあり、都市にはツンフトがあった。」
ここで、明確に書かれているように、商品生産は、労働生産物が自家消費ではなく、交換を目的として生産されるようになったことを意味しています。つまり、「有用物と価値物とへの労働生産物の分裂」というのは、自家消費のための生産物と交換目的の生産物と労働生産物自体が分裂し、そのため労働の生産目的が実際に二つに分裂したことを意味しているのです。商品の生産は、自家消費のためではなく、あくまで交換目的です。
「私的労働」というのは、「互いに独立に営まれる」生産者の配慮と判断において、本来は、自分の家族の消費のために生産物を生産するのですから、私的なのであって、非社会的です。ところが、生産物が交換目的で生産され、その交換が定着すると、生産物を他人の消費のために生産せねばならず、しかも、他の異なった種類の労働生産物と交換せねばなりません。生産物が社会的性格を帯びてきたのです。私的労働の生産物が社会的になった、すなわち私的でありながら社会的でもあると言う矛盾を生産物が抱え込んだということです。しかし、「私的生産者たちの頭脳」には、そういう労働生産物の社会性は、自覚されません。なぜなら、生産物は、今まで通り、私的所有物であって、生産者が配慮しなければならないのは、ただ交換目的であるということだけです。生産物の交換が成立するかどうかは、生産者が関与できないところでの出来事のように見え、自分では左右できない様相を呈しています。そこで、労働生産物の相互の交換が一定の比率に収まっていき、最終的に20エレのリンネル=1着の上着という等式が成立して実際に交換が行われれば、これは、「私的生産者たちの頭脳」には、生産物が魔法にかかった呪物のように見え、生産物が価値を持ったものとして物として二重化して映し出され、こうして、商品が使用価値と価値の直接的同一となったというわけです。
生産物の社会的性格は、労働の社会的性格の反映です。「私的諸労働の社会的に有用な性格を、労働生産物が・・・他人のために有用でなければならないという形態」つまり、社会的使用価値という形態(第1節第18段落)で反映させ、「異種の諸労働の同等性という社会的性格を、これらの物質的に違った諸物の、諸労働生産物の、共通の価値性格という形態で反映させる」ことになったのです。これが、「私的諸労働の社会的性格」という矛盾した表現に表されています。前答でも言いましたが、労働の社会的性格は、生産者のあずかり知らぬことですから、「私的生産者たちの頭脳」には、そういうものとしては自覚されていません。自覚しているのは、ただ、生産物が価値を持つようになったということだけです。

問47:(第8段落)「価値は、むしろ、それぞれの労働生産物を一つの社会的な象形文字にする」とは、どういうことですか。また、「労働生産物は、それが価値であるかぎりでは、・・・後世の科学的発見は」以降の文章は、意味がよくつかめません。説明してください。
答47: マルクスは、ここで、価値を持った労働生産物を、象形文字に例えています。
ヒエログリフまで辿らなくても、私たちが使う漢字にも、象形文字の起源のものがあります。例えば、は、立ち木の形を象(かたど)っており、上が枝、下が根であるといわれています。象形文字は絵文字から発達したと言われていますが、単なる絵とは違います。答29で、記号を取りあげ、それは抽象(普遍)を具体的形象で表したものと説明しました。絵や写真に写った木は、個々の具体的な木を表現していますが、という漢字(象形)は、個別の木から特殊性を取り去った共通性(抽象)としての木を表現しています。それはちょうど、労働生産物(使用価値)を価値の表現形態にしたようなものです。「価値は、むしろ、それぞれの労働生産物を一つの社会的象形文字にするのである。」
象形文字は、コミュニケーションツール、つまり伝達手段です。伝達するのは、人の認識(内容)です。人は、木という抽象をという漢字で紙・石・木などの媒体に表現して、それを相手に送って、相手がそのという漢字(象形)を目で見ることによって、頭の中に抽象物の木を映し出します。象形文字、一般に言語は、人の感情・思想・意志などの認識を表現していますが、それは相互にお互いの認識を交換する、端的に言えば、相互理解のためのものです。同じように、労働生産物に内在する価値は、抽象的人間労働の労働時間を表現していますが、それは物々交換することで、相互の労働時間を交換するためです。人々は、それぞれの専門とする労働に特化することによって、自然発生的に社会的分業のなかに組み込まれます。そのため、それぞれの労働生産物を交換することによって、実は、それぞれの労働時間を交換しているのです。「使用対象の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的産物だからである。」
ところでここで、マルクスやエンゲルスとヘーゲルを繋ぐフォイエルバッハについて、説明させてください。すでに学んでいるかもしれませんが、フォイエルバッハは、「キリスト教の本質」という本で宗教批判を行い、マルクスらに多大な影響を与えました。
雷が電気の現象であることは、今の私達には常識ですが、昔は、そうではありませんでした。雷を、神の仕業として、雷神の怒りとして、擬人化して解釈しました。農業を基礎としている社会にとって、農作物に被害を与える自然現象は、絶対的なものを持っていました。人はそれを恐れ、それに支配されていましたから、多くの自然現象が多くの神々となっていきました。また、自然現象だけでなく、例えば、疫病や飢饉なども、神の祟りとして恐れられましたが、偉大な業績を残した人、例えば菅原道真には、偉大な魂が宿っていると考えられ、死後に、天神様などの神々になっていきました。こうして多くの神々が信仰の対象となっていきましたが、一方で、特にヨーロッパでは、それらが次第に纏められ、抽象化されて、普遍的な神として一神教が成立しました。それは、ちょうど、価値形態が個別→特殊→普遍と展開され、最後に一般的等価物の貨幣が成立したようなものでした。
神というのは、人間を抽象したもの(人類という抽象)が、空想的に、頭の中から外に対象化された物であって、一神教であるキリスト教の世界というのは、神がその子であるキリストや精霊と関係を結び、神が人々に信仰されているが、それは「人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれら自身の間でも人間との間でも関係を結ぶ独立した姿」であると喝破した哲学者がいました。それがフォイエルバッハです。このことは、宗教の秘密を白日の下に晒すことであり、哲学者ヘーゲルの絶対精神の批判でもありました。
宗教の世界では、神が絶対であり、人は神に服従せねばなりません。それは、キリスト教のように、神が「愛」であっても変わりません。
マルクスは、このフォイエルバッハの批判を支持しましたが、同時に、その不十分さを指摘しました。
「フォイエルバッハは、宗教的自己疎外の事実、世界が宗教的、空想的世界と現実の世界とへ二重化されているという事実から出発する。彼の仕事は、宗教的な世界をその現実的な基礎に解消させることにある。かれは、この仕事がなしとげられてからも、なお主なことがしのこされているということを見落としている。というのは、現実的な基礎が自分自身から浮き上がって、一つの独立の王国を雲の中に確立すると言う事実は、まさにこの現実的基礎の自己分裂と自己矛盾とからのみ説明されなければならないからである。」(「フォイエルバッハに関するテーゼ」)
マルクスは、フォイエルバッハの宗教批判を、社会の経済的土台の分析に適用しました。
お守りと同じように、商品の価値も、所有者には価値を高めることも低めることもできません。商品というのは、人間が作り出した産物ですが、作り出した人間自身が振り回されています。その支配力は、価値が貨幣に結晶化すると、よりはっきりしてきます。
マルクスは、商品という「人間の手の生産物」が「呪物」と同様の論理を持っていることを見抜き、商品の価値を、価値を形成する実体である抽象的人間労働にまで還元(解消)させました。それが、第1節・第2節です。また、商品の世界と貨幣の世界との世界の二重化は、商品の価値の発展した形態であることを証明しました。それが、第3節です。ここまでが、フォイエルバッハの仕事に相当します。
「労働生産物は、それが価値であるかぎりでは、その生産に支出された人間労働の単に物的な表現でしかないという後世の科学的発見は、人類の発展史上に一時代を画するものではある」、「互いに独立な私的諸労働の独自な社会的性格はそれらの労働の人間労働としての同等性にあるのであってこの社会的性格が労働生産物の価値性格の形態をとるのだと言うことが、商品生産の諸関係のなかにとらわれている人々には、かの発見の前にも後にも、最終的なものに見える」というのは、フォイエルバッハに相当するところまできたということを宣言しています。
その理論的な到達点を、マルクスは当時の空気の科学的理解に例えています。
マルクスがこの「資本論」を書いた当時は、「科学によって空気がその諸要素に分解され」、酸素や窒素などの混合気体であるという理解が得られていました。ただ、「空気形態は一つの物理的な物体形態として存続して」いました。それは、雷や台風が気象現象であることが解明され、昔のように、雷神や風神として擬人化して説明する必要がなくなったものの、「物理的な物体形態」にとどまったままのようなものです。
ところで、空気の方は、今では、それぞれの成分ごとに分離され、その物体形態を変え、例えば液体酸素や液体窒素にして低温冷却に利用したり、圧縮してボンベに詰めて人が海底探査に利用したり宇宙へ持っていったりしています。一方、雷や台風の方は、まだ、それを人が操って、例えばそのエネルギーを電気エネルギーに変換するというようなことまではできません。それはちょうど、空気の科学的成分が理解されても、それを操るところまで行っていないようなものです。
マルクスは、フォイエルバッハの仕事には、まだし残されている仕事があるといっています。それは、「現実的基礎の自己分裂と自己矛盾」から、「自分自身から浮き上がって、一つの独立の王国を雲の中に確立すると言う事実」を説明することです。つまり、抽象的人間労働の対象化が、なぜ価値という形態を取るのか、それを「現実的基礎の矛盾」から説明することです。これが、この第4章の内容であり、フォイエルバッハのできなかった仕事です。それは、フォイエルバッハの立場を離れ、超えた立場からなしえません。商品世界の諸関係のなかにとらわれない立場からしかなしえません。それができれば、「現実的基礎の自己分裂と自己矛盾」を解消するための科学的理論ができ、それを実行に移せれば、「労働の社会的性格の対象的外観を追い払う」ことができるでしょう。それは、まさに、雷や台風の気象現象を、私たちが操れるようになるようなものなのです。

問48:(第9段落)「交換者たち自身の社会的運動が彼らにとっては諸物の運動の形態をもつのであって、彼らはこの運動を制御するのではなく、これによって制御されるのである」という文の「交換者たち自身の社会的運動」とは、何をいっているのですか。
答48:この文は、すぐ後の文「互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に互いに依存しあう私的諸労働が、絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合を通じて、それらの生産物の生産に社会的に必要な労働時間が、・・・規則的な自然法則として協力に貫かれる」が言い換えています。
第1節の第17段落(答8)を思い出してください。「それらの生産物の生産に社会的に必要な労働時間」というのは、その生産物の価値量です。その「生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合」、交換割合が変動するのは、その生産物の価値量(対象化された労働時間)が変動するからですから、例えば、豊作で生産力が上がれば、小麦の価値は下がり(対象化された労働時間は減り)、凶作で生産力が下がれば、小麦の価値は上がります(対象化された労働時間は上がります)。つまり、「絶えず変動する交換割合」を通して「それらの生産物の生産に必要な労働時間」が「強力に貫かれる」のです。
小麦の需要が一定だとすると、豊作が長く続けば、いくつかの小麦農家は転作や廃業を迫られるでしょう。逆に、凶作が続けば、新たに小麦の作付面積を拡大するか、新規に小麦を生産する農家が現れることにもなるでしょう。「私的諸労働が」「社会的に均衡のとれた限度に還元される」のです。このことを、「彼らにとっては諸物の運動の形態」によって「交換者たち自身の社会的運動」が制御されるといっているのです。つまり、小麦農家の生産調整が、小麦という商品の価値変動を通して、行われるのです。逆に言えば、商品生産の社会では、そういう生産調整は、自然発生的な生産物交換を通してしか、達成されないのです。だからこそ、1商品の価値表現は、労働時間ではなく、他の1商品の使用価値でしか、表現されないともいえるでしょう。しかも、他の多くの商品との交換でありながらも、他の多くの商品の価値表現を個別に借りるのではなく、見かけは個別的等価形態であっても、その実は、一般的等価形態であるような表現形態を取ることによって、できるだけその交換経路を短縮するようになっていくのです。
互いに独立に営まれる私的諸労働の当事者には、「社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に互いに依存しあう」という関係は、自覚されていません。自覚されていませんが、もし、「自然発生的な諸環」の中に組み込まれなければ、そこから脱落するしかないのですから、客観的にみると、そういう社会的関係=労働の生産関係に置かれています。それが、私的生産物に価値量という形で反映するのです。ですから、労働生産物の等価交換は、お互いの労働時間の交換を意味しているのです。「相対的な商品価値の現象的な運動」というのは、価値法則のことを指しており、「労働時間による価値量の規定は」、価値法則の「下に隠れている秘密」なのです。

問49:(第12段落)第11段落で、「他の生産形態に逃げ込めば」と書いてありますが、ロビンソン物語は空想の物語ですから、「他の生産形態」ではないのではないですか。
また、この最後の文「しかもなおそのうちには価値のすべての本質的な規定が含まれているのである。」とは、どういう意味ですか。
答49:確かに、ロビンソン物語は、空想の物語であり、実在のものではありません。しかし、まず、頭の中で考えた物語、つまり思考実験として考えましょう。これ以下の段落で説明しているのは、生産物を交換しない生産形態です。
ロビンソンは、島の中で、自分の命を維持するために、衣食住を整えなくてはなりません。それを自分一人で行うのですから、彼は、いろいろな必要生活手段を生産するために、自分の労働をいろいろな有用労働に時間を区切って配分し、計画的に労働します。そうして労働の結果得られた生産物を消費して、自給自足の生活を送ります。このような生活手段の生産と消費による人間の生活の側面は、人類が生まれてこのかた、その有り方は変わっても、必要性は変わりません。答12で説明したように、「労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間のすべての社会形態から独立した存在条件であり、人間と自然との間の物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。」このような人間の生活を、「物質的な生活の生産」といいます。「物質的」というのは、「観念的でない、つまり、人間の頭の中の感情・思考・意志からは相対的に独立している」という意味です。相対的に独立しているというのは、関係がないと言う意味ではありません。また、「生活の生産」というのは変な言い方ですが、生活手段を生産し消費して人の生活を再生産すると言う意味を表現しています。
「価値のすべての本質的規定」というのは、例えば、第2段落(答44)の抽象的人間労働と労働時間を指しています。これが、ロビンソンの労働にすべて含まれているということです。しかし、ロビンソンの労働は、価値を形成していません。その理由は、ロビンソンが一人で孤島に住んでいるからです。そして、彼自身がいろいろな有用労働の配分を決めているからです。論理的に言えば、ロビンソンの行うさまざまな有用労働の特殊性は、彼自身の生活を維持する労働と言う普遍性の中で意識的計画的に位置づけを与えられています。例えば、ロビンソンが小麦を作るとしましょう。小麦が出来すぎれば無駄になりますし、足りなければ生活に支障を来します。適切な生産量を確保するためには、島の自然と季節に合わせて、年間を通して、自分の労働時間を適切に配分せねばなりません。この特殊性と普遍性の直接的結合のあり方が、重要なのです。

問50:(第13段落)労働の「特殊性」が、「労働の直接に社会的な形態」とありますが、この特殊性とはどういう意味ですか。
答50:ロビンソンは、島の中に一人で住んでいますが、これは例外で、普通は人は多くの人に囲まれて生活しています。物質的な生活の生産において、多くの人との労働の生産関係が形成されます。ロビンソンに欠けていたのは、この社会性=多数個人の協働ということです。ロビンソンは、生活手段の生産において、さまざまな有用労働を一人でこなしていました。一人で何役も演じていたわけです。それを多数の個人が社会的な分業体制を取って、役割分担することを考えてください。しかし、生活手段の生産において各人が役割分担したとしても、各人の生活の再生産を維持するためには、消費において、すべての種類の有用労働によって生産された生活手段が各人ごとに必要になります。そこで、生産と消費を結び付ける生産物の移動が必要になります。それが、生産物の相互交換という形態を取るのか、それとも一方的な移動で終わるのかは、意識的か自然発生的かにかかわらず、個人の協働の形態によります。労働の生産関係とは、そういう関連のすべてを含めているのです。例えば、この段落で取り上げた中世の封建領主は、農奴から取り上げた生産物を消費するだけですが、そういう一方的に消費するだけの関係も、それらの人々の生活の再生産を支えるわけですから、生産関係に入ります。労働の生産関係というのは、物質的生活の生産における、生産物の生産と消費に関する・人と人との労働の分担の関係と言った方が、適切かもしれません。
「社会の総労働が、全員がかつがつ生きてゆくのに必要なものをほんのわずか上まわるだけの生産物しかもたらさないあいだは、したがって、大多数の社会成員の時間の全部またはほとんど全部が労働にとられているあいだは、社会は必然的にいろいろな階級に分かれる。もっぱら労役に服するこの大多数者とならんで、直接の生産的労働から解放された一階級がかたちづくられ、彼らが労働の指揮、国務、司法、科学、芸術などの、社会の共同の業務にあたるのである。だから、階級区分の基礎にあるのは、分業の法則である。」(「反デューリング論」)この場合、社会の構成員の自覚があろうとなかろうと、「直接の生産的労働から解放された一階級」つまり支配階級がどうであろうと、客観的には、社会全体で取る社会的分業体制という労働の生産関係が、直接に生産力となっています。したがって、このような分業体制を維持するためには、それを構成する諸個人を強固に結びつけざるを得ず、それ自体がなんらかの共同体制度となっているはずで、生産物もその関係の中に位置づけられ、それに縛られているはずです。封建制度の下での労働の生産関係も、このような貧弱な労働の生産力に起因しています。地域社会全体を包み込むような封建制度も、そういう意味では、ある種の共同体制度と言っていいと思います。それは、自然発生的な計画性なのです。
労働の生産関係は、社会の経済的土台であり、各人が担うそれぞれの特殊な労働は、社会全体の成員の生活の再生産を維持する労働という普遍性の中で、位置づけを与えられます。その位置づけのあり方、すなわち、特殊性と普遍性の結合の特殊な様式が社会を特徴づけています。中世では、「農奴と領主、臣下と君主、俗人と聖職者」という固定した身分制度、すなわち「人的従属関係」がそれであり、封建的生産様式と呼ばれています。
答46の中で、「反デューリング論」から引用しましたが、そこで、中世の農家が、自家消費と封建領主の現物貢租のために生産したとありました。更に、農家がある余剰を生産するようになった時、商品を生産するようになったとありました。この場合、農家は、自家消費と現物貢租と商品と、異なった目的で生産することになります。労働生産物は、労働の対象化されたものですから、労働の社会的性格が労働生産物の対象的性格に反映します(答45)。労働と生産物に夫役と貢納という烙印を押すのは、領主と農奴という支配従属関係であり、これが労働の生産関係の特殊性です(答39)。
農奴の行う農耕労働は、農奴と領主の生活を維持する労働という普遍性の中で、封建的身分制度という特殊な社会制度の下で、夫役と貢納という特殊な形で位置づけを与えられています。例えば、農奴が小麦を貢納する場合には、農奴の家族用の生産量とは別に、領主の貢納用の量を確保するために、余分に生産せねばなりません。その余分な労働時間の配分を決めるのは、農奴という身分制度です。つまり、労働(の生産関係)の特殊性が直接に社会的形態を取っているのです。
一方、農家が商品を生産する場合は、封建的な支配従属関係は、生産物の性格に反映していません。もっとも、商品と言っても、農家の農産物の交換相手は、都市の手工業者ですが(答30)。この場合の労働の生産関係の特殊性は、封建的な人的従属関係から解放されており、それに縛られていないということです。ですから、農奴が商品として小麦を生産する場合、その生産量、したがってそれに充当する労働時間は、決められていません。それでも、生産物交換が定着すれば、都市の手工業者と農村の農家は、知らず知らずのうちに、自然発生的な分業体制の中の一環としてお互いがお互いの生産物を必要とするようになります。農家の農耕労働と手工業者の労働という特殊性が、農家と手工業者の生活を維持する人間労働という普遍性の中で、位置づけを与えられるようになります。しかし、この特殊性と普遍性の結合は、はじめから与えられたものではありません。その結合は、意識的計画的ではなく、生産物の自然発生的な交換によるのですから、媒介的です。ですから、生産物の交換によって特殊性と普遍性の結合が証明されなければ、それは両者にとって必要ないものですから、生産物か生産者かどちらかが、自然発生的な分業体制の一環(普遍性)からは脱落します。小麦も、売れなければ商品にならず、農奴もそのためには生産しなくなるでしょう。答48のように「私的諸労働が、絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元される」ようになるのです。労働の普遍性は、非社会的な私的労働の同等性(一般性)にあり、その社会的性格が生産物に反映した場合にのみ、生産物が価値を持つようになり、こうして生産物は商品になるわけです(答10、答11)。
労働の生産力は、労働の生産関係を媒介しますが、労働の生産関係が生産力という直接的同一の側面も持っています。生産力と生産関係の直接的・媒介的関係をしっかりと把握することが、唯物史観の基本的な視点として重要です。

問51:(第14段落)「共同体的な、すなわち直接的に社会化された労働」とありますが、「直接的に社会化された」というのはどういう意味ですか。以前、問30で質問したことと同じことですか。
答51:答30で答えたことと、同じ意味です。
では、視点を変えて、もう一度説明してみましょう。
私たちの体は、頭や手や足やその他、さまざまな臓器からできています。それぞれの臓器は、例えば心臓は、それ自体その他の臓器から独立して機能しています。でも、完全に独立しているわけではなく、例えば運動するときには心臓の鼓動が速くなるし、睡眠状態では、遅くなります。それは私たちの体が、一つの有機体として統一されているからで、それぞれの臓器は、独立していると同時に他に依存している関係に置かれ、相互に分かちがたく結びつているからです。(これを相対的に独立しているといいます。)つまり、それぞれの個別の臓器は、有機体の生命活動を維持するという普遍的な機能の中で特殊な機能を分担しており、はじめから直接的に位置づけられています。
同じことが、「農村家族の素朴な家長制的な勤労」についてもいえます。それぞれ家族成員は、農耕や牧畜や紡績や織布や裁縫など、さまざまな労働を分担しており、家族という一つの有機体(社会)の生活を維持するために、自然発生的な分業体制を取っており、その中ではじめから位置づけを与えられています。例えば、この家族が、小麦を自家用に生産するとしましょう。家族用に生産するのですから、家族の全成員の消費量に応じて、生産量を調整するでしょう。そのために、自然条件に合わせて、家族成員の間に、年間の労働時間を配分するでしょう。この点では、ロビンソンと同じです。「個人的労働力がはじめからただ家族の共同労働力の諸器官として作用」しており、いろいろな労働は「その現物形態のままで社会的な諸機能」です。「直接的に社会化された労働」というのは、家族生活を維持する労働という普遍性の中で、はじめから計画的に位置づけを与えられた特殊な労働という意味なのです。この特殊性と普遍性の直接的結合を、直接的な社会化と表現しているのです。

問52:(30の注)ここに書かれてあることは、唯物史観とどういう関係にあるのですか。唯物史観からすると、原始的→アジア的→古代的→中世的→近代的へと社会が発展していくといわれています。それは、子供が小学→中学→高校→大学へと成長していくような、あるいは、蝶が卵→青虫→蛹→成虫へと脱皮していくようなものではないのですか。
答52:唯物史観のイメージ(答36)を持っていただくために、地球の歴史における動物の進化に例えてみましょう。
先カンブリア時代:以前は、化石の発見が極端に少なかったので、無生物の時代と考えられていましたが、その後、多くの化石が発見され、いまでは、さまざまな生物が出現したことが知られています。それは単細胞から多細胞へと進化し、多くの門を異とする動植物が生まれました。後に発展する動植物の原型が形作られました。
古生代:魚類の時代です。原索動物のうち脊椎動物が進化し、海という環境の中で繁栄した時代です。そのほとんどは絶滅しましたが、その子孫が残っています。
中生代:恐竜の時代です。ジュラシックパークのような映画が作られたので、恐竜をまるで目の前にいるかのようにみることができるようになりました。恐竜は、爬虫類に分類されますが、今の爬虫類とは違います。しかし、動物が海から陸へ進出し、陸で大繁栄を遂げたのは、画期的でした。
新生代:大型哺乳類の時代と言っていいでしょう。中生代初期に分化した原初哺乳類は、中生代には恐竜の世界の片隅で生きてきましたが、それが新生代で絶滅した恐竜に代わって繁栄します。
あくまで大まかなアナロジーとしてですから、細かなことは不問に付すとして、唯物史観と比較してみます。
アジア的生産様式:これは、「自然発生的な共有形態」から派生したあらゆる共有形態を含みます。先カンブリア時代に相当する原始的な時代は、狩猟・漁撈のような採取労働と家内手工業の結合の上に、血縁に基づく氏族制度があったとされています。その後、定住農耕に移行するにつれ、土地の共有に基づく原始的な共同体は、地域によって、多くの変形を被りました。その発展形態の一つが、アジア的専制政治体制で、インカもこれに属します。が、多くは絶滅しましたが、今でも、インドなどに痕跡が残っているといわれます。
古代的生産様式:古生代に相当します。古代ギリシャ・ローマの時代です。私的所有の浸透により、原始的共同体の変形ないし崩壊がもたらされ、それが新たな農耕共同体を産み落としました。それがギリシャ・ローマの都市国家です。これは次第に奴隷制を含むようになり、大規模な奴隷制を採用するに及び、大きな繁栄を遂げますが、それがまた没落の原因にもなりました。
封建的生産様式:中生代に相当します。生物が海から陸という別の舞台に進出したように、中世も、古代ローマが繁栄した都市以外の、それを取り囲む農村で、勃興します。基になったのは、古代と同じく、原始的な農耕共同体ですが、私的所有との結びつきがやや異なり、ゲルマン的でした。これは、位階制的土地所有制に発展し、恐竜が大繁栄を遂げたように、ヨーロッパ全土に広がり栄華を極めました。
資本主義的生産様式:新生代に相当します。原初哺乳類同様、封建時代の片隅で生きてきた私的所有が、封建制の衰退に代わって、商品交換・商品生産へと進展し、手工業から工業生産へ生産力に基盤が遷移していきました。その後、資本主義体制へ発展し、今、世界でこの世の春を謳歌しています。
このような観点から歴史を見て行くと、その生産様式の変化は、労働の生産力(答8、答14)と生産関係の質的な変化と結びついているということが、感覚的にわかると思います。労働の生産力は、増大するだけではありません。特定の生産関係に阻まれて、減少することもあります。生産関係が、生産力を規定することもあるのです。また、それぞれの生産様式を担った民族が、異なっていることにも気づかれたとおもいます。唯物史観のイメージが理解できましたか。
全体を眺めてみて、労働の生産関係における共同体の役割が次第に減少し、私的所有の役割が増大していることに、注意して下さい。共同体的労働から私的労働への移行というのは、共同体を維持する労働という普遍性の中でそれぞれの特殊な労働が直接的に位置づけを与えられていたものから、私的家族の配慮と判断においての労働に移行することを意味します。このことは、個人における労働の生産力の増大をも意味するのです。これが、商品生産と他の生産様式を区別する決定的なポイントです。

問53:(第15段落)この段落に述べられているのは、いわゆる未来の社会主義社会のことですか。そこでは、労働時間が「個人的な分け前の尺度」と書いてありますが、抽象的人間労働とは、どういう関係になっているのですか。
答53:ここでマルクスが描き出しているのは、将来の社会主義社会と言うことだと思います。答11も、同時に参考にしてください。
商品の価値量は、抽象的労働時間を表していますが、それは労働の生産関係が「互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に互いに依存しあう私的諸労働」にあるからです。ですから、生産物に対象化した労働時間を、抽象的労働時間の対象化としての価値量という形態でしか、表現しえないのです。
ロビンソンや中世の農奴や素朴な家父長制的な農家では、そういう生産関係にありませんから、生産物に対象化された有用労働の労働時間は、そのまま時間で直接に測られています。価値量という抽象的人間労働の労働時間として、回り道をして測られていません。将来の社会主義社会でも、各人の労働は、共同体の生活を維持するという普遍性の中で、はじめから計画的に位置づけられますから、直接的に社会化されています。ですから、各人の労働量は労働時間で測定され、生産物に対象化された労働は、社会的平均労働時間で直接に表わされます。各人は、労働時間を尺度にして、共同生産物の中から、必要生活手段を個人的に取得するのです。なお、そういう社会では、当然ですが、貨幣や為替やビットコインは、不要ですから存在しません。
抽象的人間労働は、商品生産の社会において、各人の労働の普遍性が位置づけられる特殊な形態であり、さまざまな有用労働の特殊性と結合される労働の普遍性の特殊な様式なのです。
ここでもう一つ注意してもらいたいのは、「自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する」というところです。答52の最後で述べたように、共同体の束縛から解放された私的労働は、個人の労働力を増大させます。ここで述べている個人的労働力とは、そういう労働力なのです。それを自分で意識して社会的労働力とするのですから、同時に生産力であるという直接的同一の生産関係を、各人が意識して計画的に創り出すということです。
ところで、社会主義は、すでにソ連や東欧においては、崩壊してしまいました。歴史的に見れば、社会主義は失敗したわけです。もし、今後、社会主義に期待すると言うのならば、失敗の原因を理論的に明らかにし、その対策を立てねばなりません。 その原因の中には、明らかに、社会主義の原則の無視があります。社会主義では、各人に分配される「生活手段の分け前」は、労働時間によって規定されますから、各人の平均労働時間が8時間とすると、「個人的な分け前」は、職種に係らず、平等になるはずです。ところが、多くの社会主義国では、教育や医療を事実上無償にした上に、この原則を破って、社会的及び政治的に高い地位にある者に高い収入を与えました。その結果、上層部の官僚や国営企業の経営者に、資本主義を上回るような贅沢な暮らしをする者が続出し、国民の経済的格差が拡大しました。その上、一党独裁の政治体制が、民衆の不満を抑圧しましたから、その矛先が体制の不信に繋がったのは当然でした。これでは、「社会的関係は、ここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純である」というわけにはいきません。社会主義を標榜する人は、社会主義の犯した過ちを自分たちの失敗として反省し、それを共有する必要があります。社会主義は、ほっておいてもやってくる年中行事ではありません。多くの先人の実践と誤謬の克服を土台として、その上に築き上げる建築物です。

問54:(第16段落)「商品生産者の社会にとっては、抽象的人間労働にたいする礼拝を含むキリスト教・・・が最も適切な宗教形態」といっていますが、宗教、特にキリスト教をどのように捉えているのですか。
また、「現実の世界の宗教的反射は、実践的な日常の諸関係が人間にとって相互的および対自然のいつでも透明な合理的関係を表すようになったときに、はじめて消滅しうる」とありますが、これは社会主義になった時には、宗教が消滅すると言うことですか。
答54:ここでは、以前の段落とうってかわって、宗教が取りあげられています。唯物史観では、宗教は、特に労働の生産関係の反映と捉えます(答31)。答47で、フォイエルバッハの仕事を説明しました。その際、キリスト教を取りあげましたが、それを参照してください。それを前提にして、更に付け加えます。
昔の人は、雷を雷神として、擬人化して解釈したといいました。擬人化というのは、雷神を、人が怒った時の様子としてデフォルメして表したということですから、人間のあり方を空想的に人間から切り離して、雷という自然現象の背後に置いたということです。そういう神々が抽象化され、ついに一つの神として成立したのが、キリスト教の神なのですから、神というのは、抽象化された人間ということなのです。
「いっさいの宗教は、人間の日常生活を支配する外的な諸力が、人間の頭のなかに空想的に反映されたものにほかならないのであって、この反映のなかでは、地上の諸力が天上の諸力の形態をとるのである。歴史の初期には、まず最初に自然の諸力がこういう反映の対象となるのであって、それらは、その後の発展につれて、さまざまな民族のあいだできわめて多様な、きわめて雑多な人格化をこうむる。」「しかし、まもなく、自然の諸力とならんで、社会的諸力も作用するようになる。この社会的諸力も、自然の諸力そのものと同じように外的なものとして、またはじめには同じように不可解なものとして、人間に対立し、外見上同じ自然必然性をもって人間を支配する。最初は自然の神秘的な諸力を反映していただけの空想的な形象が、その結果、社会的な属性をもつようになり、歴史的な諸力の代表者となる。さらにすすんだ発展段階では、多くの神々のもっていた自然的および社会的な属性が、ことごとく全能の唯一神に移されるが、この唯一神そのものはこれまた抽象的人間の反射にすぎない。」(「反デューリング論」)
キリスト教のカトリックは、中世の宗教として封建制度に照応して、君臨しました。その反対にプロテスタントは、カトリックに対抗して、神と個人の信仰という単純な関係に引き戻しました。プロテスタントの神というのは、人間という抽象物を、人間から切り離して観念的に対象化したものです。それはちょうど、人間の労働の抽象物を、商品の中に価値として対象化したようなものです。観念的と物質的の差はあっても、論理的には同一です(答45)。このことを、「商品生産者の社会にとっては、・・・ブルジョア的発展であるプロテスタント教・・・が最も適切な宗教形態」と表現しています。
更にエンゲルスは、続けて次のように書いています。
「今日のブルジョア社会では、人間は、あたかも外的な力によるかのように、彼ら自身がつくりだした経済的諸関係によって、彼ら自身が生産した生産手段によって、支配されている。だから、宗教的反射作用の現実の基礎はいまだお存続しているのであって、それとともに、宗教的反射そのものも存続している。」「いまでもやはり、事を計画するのは人間、事の成否を決するのは神(つまり、資本主義的生産様式の外的な力の支配)という状態になっている。たんなる認識だけでは、たとえそれがブルジョア経済学の認識よりもいっそうすすんだ、いっそう深いものであっても、社会的な諸力を社会の支配に服させるには足りない。そのためには、なによりもまず一つの社会的行為が必要である。そして、この行為がなしとげられたとき、すなわち、社会がいっさいの生産手段を掌握しそれを計画的に運用することによって、社会自身とその全成員とを、現在彼らがこの生産手段―彼ら自身で生産したものでありながら、優越する外的な力として彼らに対立しているところの―のためにおとしいれられている隷属状態から解放するとき、したがって、人間がもはや事を計画するだけではなく事の成否をも決するようになるとき、そのときにはじめて、いまなお宗教に反映されている最後の外的な力が消滅し、それとともに宗教的反映そのものも消滅する。それは、そのときにはもう反映すべきものがないという、簡単な理由によるのである。」
確かに、本段落では、社会主義になれば、宗教は消滅すると言う風に書いていますが、実際に社会主義となった国でも、宗教は禁止されましたが、消滅せず、逆に盛んになった国もありました。問題は、社会主義になった国で、「実践的な日常生活の諸関係」が「透明で合理的」になったかどうか、「自由に社会化された人間の所産として意識的計画的な制御にもとにおかれた」かどうかです。そうでなければ、宗教は消滅しないでしょう。ただ宗教を禁止しても、意味のない事です。

問55:(第20段落)「もし商品がものが言えるとすれば」というへんな言い方をしています。以前、問23ででてきた商品語と、似ているようですが。
ここで言っているのは、商品の呪物崇拝の一例として、価値が物の自然な属性のように見えると言う経済学者を批判しているのでしょう。どうもわかりにくいですが。
答55:あなたが感じたように、ややわかりにくいのは仕方のない事かもしれません。例えば、最後の第22段落の「ドッグベリ」の言葉ですが、シェークスピアの劇の中からの引用です。これは、「容貌という人の属性を『運命の賜』といい、『読むと書く』という人の属性を、これは社会的産物なのに、『自然にして具わる』ようにみえる』と言い放った「ドッグベリ」の知恵の方が、「価値を自然的属性と見誤り、社会的産物であることを理解しない」経済学者より勝っているといいたいのだと思います。が、シェークスピアに馴染みのない私達には、わかりにくいですよね。
でも、あなたが理解しているように、商品の価値は、社会的産物であって、それを自然的な属性と見誤るところから、商品を呪物という風に見えてしまうということがわかれば、この節でいいたいことは伝わっていると思います。
商品を擬人化したとすれば、「われわれにそなわっているものはわれわれの価値である。」というでしょう。なぜなら「われわれはただ交換価値として互いに関係しあう」からです。つまり、擬人化した商品自身ならば、商品の価値を物の属性と見なすでしょう。答23では、リンネル自身の価値表現を、リンネルの独白として語らせていましたが、そこでもリンネルの価値の存在は、前提とされていました。「経済学者」も、擬人化した商品同様、価値を物の属性として把握しているようです。
それは、「経済学のブルジョア的意識にとっては」、「ブルジョアジーの制度は自然的である」ように感じられるからです。物の価値は、生産物を交換せざるを得ない生産関係に支配されていると言うことから発生したのであり、自然的属性ではなく、あくまで社会的産物なのですが、「生産過程が人間を支配していて人間はまだ生産過程を支配していない社会構成体に属する」限りは、その属性を取っ払うことはできず、「経済学者」が物の自然属性と社会的属性を混同するのは避けがたいことでしょう。

なお、古典派経済学と俗流経済学に関する説明は省きました。「経済学批判」にも載っていますので、各自の勉強に任せます。

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