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「資本論」学習会;難点解説 (2)


第1篇第2章 交換過程

問2-1:(第1段落)「これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの物にやどす人として、互いに相対しなければならない。」「どちらもただ両者に共通な一つの意志行為を媒介にしてのみ、自分の商品を手放すことによって、他人の商品を自分のものにするのである。それゆえ、彼らは互いに相手を私的所有者として認め合わなければならない。契約・・・は、・・・経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である。・・・人々はこの経済的諸関係の担い手として互いに相対する・・・」ここで書かれていることの意味が分かりません。何を言っているのですか。
そもそも、この第2章は、どういう意義があるのですか。2章全体を通し読みしたところでは、1章と内容が変わらないように感じますが。
答2-1:まず、第2章の意義ということから、回答しましょう。
いままでは、商品は使用価値と価値を持っていることが前提でした。第1節・第2節では、それを分析し、第3節では、20エレのリンネル=1着の上着という同じ価値の商品が交換されるという前提から、貨幣の生成を理論的に導き出したのでした。しかし、商品は、実際には交換されていませんでした。なぜなら、交換を前提にしてはいても、課題は商品の交換ではなく、一つの商品の中の価値の表現形態だったからです。
第3節の最初に出てくる等式、「20エレのリンネル=1着の上着」は、上着を問題にしているのではなく、リンネルを問題にしているのです。主役は、等号の左辺に置かれたリンネルの方で、リンネルの価値がどのように表現されるかという課題を扱っているのであって、上着は単に価値表現の材料に過ぎず、価値表現の材料になれさえすれば、上着でなくても何であってもよかったのです。
第3節の最後には、リンネルに代わって金商品が出て来ますが、これも、リンネルや上着や茶などの商品の価値の表現形態として、商品に内在する価値の権化として、しかも最もそれにふさわしい一般的等価物として、社会的慣習にて固定したものでした。
リンネルの価値の表現の仕方を議論しているだけですから、商品の生産者や所有者は背後に隠れていて、表に出て来ませんでした。ところがここからは、生産者や所有者が、販売者とともに表に出て来ます。なぜなら、交換過程では、リンネル所有者は、自分の所有するリンネルが、リンネルの価値が表現された上着と実際に交換できるかどうかが課題であり、リンネル所有者と上着所有者が実際に対面する必要があり、それによって、販売者(生産者・所有者)の手から購買者(非生産者・非所有者)の手へと商品が位置を移動しますから、所有者の所有権の移転が起こるからです。
第4節で若干説明したのですが、ここで交換過程を取りあげる意義は、労働生産物から商品が生成し、商品から貨幣が生成する過程を、交換過程を辿ることによって理論的に説明しているのです。
商品の交換過程の重要性は、今の物流を見てみれば、説明の必要はないでしょう。私たちの世代では、昔は、町内には駄菓子屋があり米屋があり、行商のおばさんが魚を売りにやってきており、また時々は、デパートに行くのが楽しみでした。今は、駄菓子屋がコンビニに代わり、米屋や魚屋がスーパーに変わり、インターネット通販がデパートを凌いでいます。その物流の最も簡単な形態である生産物の交換過程を、物々交換から商品交換へと、理論的にたどるのです。
さて、「自分たちの意志をこれらの物に宿す人」など、のっけから、わかりにくい文章表現が使われています。少し長くなりますが、丁寧に説明してみましょう。
「自分たちの意志をこれらの物に宿す人」というのは、私的所有(者)という意味のヘーゲル的な言い回しです。マルクスが生きていた時代は、知識階級において、ヘーゲルの理論は常識でした。ヘーゲルは、あらゆる学問を包括する哲学の巨人でした。ですから、マルクスの著書のなかには、色々なところで、ヘーゲル的な言い回しが出てきます。ここで、少しだけ、ヘーゲル哲学へ足を踏み入れてみましょう。ヘーゲル哲学は、絶対的観念論の表現が使われていますので難しいと感ずるでしょうが、ほんとうに役に立つので、あなたも、暇があったら勉強してみるといいと思います。
ヘーゲルの本を読むとき注意すべきことは、まず、ヘーゲルが取りあげているのは、一体どういう事実なのか、次に、ヘーゲルの絶対的観念論では、それをどのように解釈しているのか、最後に、唯物論では、それをどのように解釈したらよいのか、これらをきちんと分けて理解することです。
ここで取り上げている「所有」については、ヘーゲルは、「客観的精神」の「法」の中に分類しています。客観的精神というのは、頭の中にしか存在しない人間の意志が、頭の中から抜け出して、ヘーゲルの言うところの「客観的」に外部に存在するようになったものです。その一つが、「法」であり、その中に、「所有」も分類されるというのです。
そこで、ヘーゲルの本の中でも比較的理解がやさしい「哲学入門」から引用してみましょう。(もっと詳しい展開は、ヘーゲル「法の哲学」にあります。)
「各人が自由な存在と認められる限り、各人は一個の人格である。」
「意志は或る物件を自分の下に包摂することによって、それを自分のものとする。占有とは、このように或る物件が私の意志の下に包摂されることである。」
「最初に占有する物件は(1)無主物でなければならない。すなわちそれはすでに他の意志の下に包摂されていてはならない。(2)占有は取得されねばならない。すなわち、私がこの対象を私の意志の下に包摂した旨が―身体的取得によってであれ、作成(形式付与)によってであれ、少なくも対象の表示によって―他人に認識され得るようにされねばならない。」
「私が私のものとしたところの物件が私のものであるということが、私が他人の占有を彼らのものとして是認するのと同じように、他のすべての人から是認されるかぎり、占有は所有になる。言い換えると、その場合には所有は合法的になる。」
「私は私の所有を譲渡することができる。つまり、所有は私の自由意志によって他人に移動することができる。」
「他人への譲渡に当たっては、物件を他人に譲渡するという私の同意と、それを受け取るその人の同意とが必要である。この二重の同意は、それが相互に表示され、有効に言明されているかぎり、これを契約という。」
まず、ヘーゲルが取りあげた事実を確認しましょう。
人がある行為を行うに当たっては、まず、やろうという意志を持つことが必要です。単に物を取ると言う行為でも、その物を取ろうという意志が必要です。ある物体を自分のものにするという行為、例えば、調理して食べるために川の土手の野草(誰のものでもないので無主物です)を取る(身体的取得)場合、まず人は頭の中に野草の和え物料理を想像し、そのために野草を取るという意志を持たねばなりません。その後で、手を伸ばして野草を取るという行為をして、自分の物にします。また、例えば、日曜大工で机を作る(形式付与)場合、まず、完成した机を頭の中に思い浮かべ、机を作ると言う意志を確かなものにします。ただ、机の工作はやや長い時間がかかるでしょうから、その間に意志が壊れないように、頭の中で意志を対象化し、「机を作れ」という自己規範(命令)の形にして、固定します。そうしておいてから、机の簡単な設計図を書いてイメージを具体化し、ホームセンターで買ってきた材料の切断と組み立てに取り掛かります。苦心惨憺、出来上がったら、その後には、意志の中にあった机のイメージが、目の前に現物の机となって出現します。
そういう意志の動きについて、ヘーゲルの場合、絶対的観念論に従って、(独占的・永続的な使用を前提としての)占有ということを、人格の中の意志が頭から抜け出して、物に入って行って意志が物になると解釈します。野草を取ると言う意志が野草に入って、野草が自分の物になったと解釈します。机を作ると言う意志が机の材料に入って行って、現物の机になり自分の物になったと解釈します。それが、「ある物件が私の意志の下に包摂される」と表現されています。意志が物になったのですから、抽象的な意志が具体的な形を表したわけで、外化したのです。ですから、他人の人格もそれを認めることができます。他人から認められるから、所有が合法的になったといっています。私の所有物を他人に譲渡することを、自分の所有物の中に入った自分の意志と、他人の頭から抜け出した他人の意志が合意して、お互いに位置を譲ることと解釈しています。その際の両者の同意を、契約としています。
唯物論では、行為に対し意志が先行することを否定するのではありません。ただ、意志を観念的に対象化して固定化しても、あくまでそれは人間の頭の中だけのことで、意志が頭の外に出て行ったりしないとするだけのことです。見落としてならないのは、そういう精神的過程には、物質的な過程、すなわち、労働を対象化する過程が伴っているということです。野草を取る、机を作るという労働が伴って、野草や机に労働が対象化したという関係が結びついたとき、物と人との間に、占有という関係が成立すると考えるのです。意志という実体が物の中に入っていくように、労働という実体が人から物に移動するのではないということに注意してください。
私的所有(権)というのは、占有の法的表現であり、社会的承認であること、(答11、答46)、人と人との間での所有物の移動に伴って、所有という関係が繋がったり切れたりすること、契約が、所有者の間の同意によると言うことについては、マルクスは、ヘーゲルと同じ意見です。「私の所有物をあなたに譲渡します。あなたはそれの受け取りに同意します。」という契約は、二人の所有者の意志が同意し、ここに共通の意志が成立したわけで、それを紙に書いて契約書という形にして客観的に表したりしますが、あくまで二人の頭の中で合意が成立したのであって、意志が物の中に入ったり出て行ったりするとは考えないだけです。
「どちらもただ両者に共通な一つの意志行為を媒介にしてのみ、自分の商品を手放すことによって、他人の商品を自分のものにするのである。それゆえ、彼らは互いに相手を私的所有者として認め合わなければならない。契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展していてもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である。」法的関係といっているのは、成文法、つまり国家による法体系の中に位置づけられているものだけではありません。単なる慣習・商習慣に基づくものも入ります。
ヘーゲルは、人格を、対象化する意志の起点とし、その基本的な属性として、意志の自由を主張しています。(ヘーゲルの言う人格とは、人間の意志の活動性の抽象したものを実体化したものです。答24参照)確かに、人は、どこへ行き何をしようと自由ですから、意志は自由です。しかし、週末ならそれでいいかもしれませんが、会社や役所の勤務時間内に、意志の自由を主張して勝手に職場を離れたら、就業規則に従わなかったということで、下手をすれば給料に響きかねません。それは、その人が、労働者であるからで、つまり、経済的な生産関係に縛られているからで、労働者の意志は、経済関係を反映した規則に規制されるからです。人は、親や家族を選んで生まれてくることはできませんし、時代や国を選んで生まれてくることもできません。唯物史観(答36、答52)で説明したように、人が物質的な生活の生産をしなければならない以上、意識するとしないとにかかわらず、人は、必然的に労働の生産関係のなかに組み込まれます(答49、答50)。したがって、人の行為を決定する意志の内容に、経済諸関係が反映するのであり、それを「経済的諸関係の人(格)化」と表現しています。人を、それに相当する経済活動を担う存在としての側面からのみ把握したものとも、言えるでしょう。一般的いえば、「人々の経済的扮装はただ経済的諸関係の人化でしかないのであり、人々はこの経済諸関係の担い手として互いに相対する」のです。この反映論が、ヘーゲルとマルクスの決定的な違いです。ちなみに、マルクスが「経済学批判序言」の唯物史観の定式化の中で、「一定の必然的な、彼らの意志から独立した諸関係」と断っているのは、マルクスの念頭に、ヘーゲルの哲学があったからです。
ところで、ここで言われていることが、交換過程の歴史的考察の最初の部分第8段落で再び出てきますので、覚えておいてください。

問2-2:(第2段落)「商品所持者を特に商品から区別する」というのは、何ですか。商品保持者が5つ以上もの感覚で補う」とはどういうことですか。
「使用価値として実現される」とは、商品の消費のことですか、商品の持ち手を変えることですか。「価値として実現される」とは、交換のことですか。
答2-2:私たちは、経済的活動を専門に行う人を、それを取り扱う物品によって表現します。例えば、魚を専門に売る人を魚屋さんと呼び、米を専門に売る人を米屋さんと呼ぶでしょう。最も、今では、そういう専門的な店舗は少なくはなりましたが。「人々の経済的扮装」、この場合、魚屋さんや米屋さんですが、「ただ経済的諸関係の人化でしかない」のです。このように、商品が販売される場合には、それを販売する人がいて、その販売者の意識は、魚や米という商品の使用価値と価値の意識であり、その販売者の意志が、商品の販売という行為を可能にします(答55)。商品所持者は、商品の人格化なのです。
しかし、自分の商品の人格化としての商品保持者には、他の商品の具体的な形態までは、意識に上っていません。他の商品は、単に自分の商品の交換対象として意識に上っているだけです。「商品にとっては他のどの商品もただ自分の価値の現象形態として認められるだけだという」こと、つまり、交換できればどんな商品でもいいわけです。
商品の人格化としての商品所持者は、それでもいいかもしれませんが、生活者としての商品所持者はそうはいきません。「自分を満足させる使用価値をもつ」特定の商品と交換しなくてはなりません。ヘーゲル流に言うなら、外面的感覚である5感官による感覚だけではなく、内面的感覚である快不快やその他諸々の感情・欲望に応じた商品を探し出さねばならないのです。「商品には欠けている、商品の具体的なものに対する感覚を、商品所持者は自分自身の5つ以上の感覚で補うのである。」
「彼の商品は、他人にとって使用価値をもっている」のですから、「使用価値として実現される」というのは、「非所持者にとっての使用価値」になること、つまり、交換相手が使用価値であることを認め、非所有者の所有になることです。また、「価値として実現される」というのは、商品の交換が実証するのですから、交換相手の交換価値になること、つまり、交換相手の商品と等価関係に置かれることです。

問2-3:(第2段落、第3段落)「商品は、使用価値として実現されうるまえに、価値として実現されなければならない」(1番目の矛盾)。「他方では、商品は、自分を価値として実現しうるまえに、自分を使用価値として実証しなければならない」(2番目の矛盾)。この矛盾は、商品交換が不可能ということですか。それとも理論的に解くことが困難、理論的破産を意味しているのですか。
答2-3:弁証法では、矛盾=対立物の統一を運動の原理と考えます。ここで取り上げてある矛盾は、商品が使用価値と価値という性質を持っている矛盾した存在であるところから導かれたものです(答26、答32)。
この矛盾をどうしたか解決できるか、考えてみましょう。この二つの矛盾は、直接的生産物交換、すなわち物々交換の矛盾ですが、考えやすいように、「価値として実現する」を、商品と貨幣を交換する、つまりお金を出して商品を買うこととします。すると、思うに、あなたは、たぶん、こういう矛盾にぶつかったことがあると思います。その場合、どういう風にしたか、それを思い出していただければ、解決法がわかります。
まず、「商品は、使用価値として実現されうるまえに、価値として実現されなければならない」(1番目の矛盾)というのは、どうしたら解決できるでしょうか。
「使用価値として実現されうるまえに、価値として実現されなければならない」のですから、使用価値として実現させずに、価値として実現することを考えましょう。
多くの商品の販売では、使用価値の実現をせずに購入してもらうために、さまざまな宣伝が行われています。スーパーやコンビニでは、ショーケースの商品の並べ方にも購入意欲をそそるように工夫が凝らされていますし、例えば、あなたが店頭で電気製品を購入する場合ならば、買って自宅に持って帰って使ってみたら使えなかったなどと後で後悔しないように、店員にその商品の品質や機能についていろいろ質問して実際に動かしてもらったりするでしょう。そうして気に入ったら、購入すると言う風にしませんか。私が子供の頃は、縁日で、「男はつらいよ」の寅さんのような実演販売をよく見たものですし、門司港の「バナナのたたき売り」は、有名でした。今では、その実演が、TVショッピングの司会者によって、全国的規模で行われています。これらすべては、使用価値として実現せずに価値として実現されなければならないと言う矛盾を解決するために、行われているのです。これが、1番目の矛盾の解決法です。
「商品は、自分を価値として実現しうる前に、自分を使用価値として実証しなければならない」(2番目の矛盾)というのはどうでしょう。
「自分を価値として実現しうる前に、自分を使用価値として実証しなければならない」のですから、価値として実現せずに、使用価値として実証することを考えましょう。
スーパーやデパ地下で食材を購入しようと行くと、よくショーケースの手前などに試食用の食材が置かれてあったりするでしょう。購入する前に、「使用価値として実証する」ために、爪楊枝で食材をつまんでちょっと食べたりするでしょう。あるいは、宣伝のために、無料で化粧品の試供品を配っているのを見たことがありませんか。「試食、試飲、試用」というのが、2番目の矛盾の解決法です。
矛盾の解決法だけ、ならば、そのほかにも方法があります。
商品の使用価値や価値としての「実現をしない」というのも、矛盾の解決法です。インターネット通販で、商品の「価値を実現」して、実際に注文して購入したとしましょう。その時、仮に「使用価値を実証」できなかった、つまり品質などが気に入らなかったら、返品するでしょう。インターネット通販では、直接手に取って「使用価値を実証」することができないために、「商品受け取り後○日以内なら返品可能」と書いてあります。その場合、契約を破棄するのも、一つの解決法です。また、価値として実現せずに使用価値を実現しようとして、店員に黙って店の商品を取って来る万引きは、絶対にやってはいけませんが、一つの解決法ではあります。
1番目の矛盾と2番目の矛盾を両立させるためには、賢い消費者は、宣伝に踊らされずに「試用」や「返品可能」などを組み合わせなければなりません。「理論的困難や理論的破産」した場合には、消費生活センターが消費者の強い味方になってくれます。
1番目と2番目の矛盾は、「実現しない」解決法と異なって、実現が同時に解決であるという矛盾です。その場合には、矛盾が実現する運動形態を創り出すことが、課題なのです。「宣伝」や「試用」が、この場合の運動形態です。
1番目と2番目の矛盾は、直接的生産物交換の矛盾であり、歴史的には、1番目と2番目の矛盾の両方を少しずつ実現しながら、最終的に両方を実現するという方法を取ります。これが、生産物交換の定着を促すのです。このことが、交換過程の歴史的考察の最初の部分第8段落で出てきます。この第2段落と第3段落は、第8段落に対応しているのです。

問2-4:(第4段落)この段落は、次の段落へのつなぎのようですが、「同じ過程が、すべての商品所持者にとって同時にただ個人的でありながらまた同時にただ一般的社会的であるということはありえない。」(3番目の矛盾)の意味がよくわかりません。「個人的過程」、「一般的な社会的過程」というのは、どういうことをいっているのですか。「個人的過程」が「社会的過程」であってもいいのではないですか。矛盾など感じませんが。
答2-4:ちょっと意味がつかみにくいと思います。でも、筋道立てて考えれば、この矛盾の解決法もわかると思います。
「個人的過程」というのは、それぞれ個別の商品所持者は、「自分の欲望を満足させる使用価値をもつ別の商品と引き換えに」自分の商品を手放すという過程です。商品保持者は、お互いにペアを組んで、そのペアの間で商品を交換すればよいのです。これはお互いの使用価値としての実現過程で、双方にとっては「個人的過程」です。これが「一般的な社会的過程」であったらどうでしょう。この個人的過程において一旦売買契約が成立した後で、ペア以外の第3者が入り込んできて、「自分の商品と交換してくれ」と言い出したら、邪魔になるでしょう。その挙句、しまいには、「売る相手は決まった、ほっといてくれ」と言いたくなりませんか。この場合、「個人的過程」と「一般的な社会的過程」とは、排除しあうのです。
しかし、個人的過程であっても、交換は、等しい価値となるように行われなくてはなりません。これが、価値としての実現過程ですから、等価交換が行われるならば、商品保持者は、どんな商品保持者ともペアを組むことができます。この「一般的な社会的過程」に「個人的過程」が入り込んだらどうでしょう。商品保持者が、どの商品と交換しようかと、ペアを組む相手を探している間に、別の商品保持者が「自分の商品と交換してくれ」と強引に迫って来たら、迷惑な話でしょう。その挙句、しまいには、「まだ、売る相手は決めてない、ほっといてくれ」と言いたくなりませんか。この場合も、「一般的な社会的過程」と「個人的過程」とは、排除しあうのです。
「同じ過程が、すべての商品所持者にとって同時にただ個人的でありながらまた同時にただ一般的社会的であるということはありえない。」のです。
この矛盾を解決する場合も、実現が同時に解決であるという矛盾ですから、矛盾が実現する運動形態を創り出すことが大切です。この3番目の矛盾の解決法は、1番目や2番目の矛盾の解決法とは、少し違います。でも、その答えは、もう出ています。個人的過程と一般的な社会的過程を同時に実現しようとするから混乱がおこるので、一般的な社会的過程を行ってすべての商品保持者にペアが成立した後で、個人的契約に進むように順序だてて行えばよいのです。これは、生産物交換の定期市の開催です。こういう社会的秩序は、有力な第3者がそれを取り持つ時、長く維持されます。定期市のイメージとして、蚤の市・フリーマーケットを思い浮かべて頂くといいと思います。
でも、あなたはもうすでに、別の答を知っています。そう、貨幣です。商品保持者が自分の商品をいったん貨幣に変えて貨幣保持者になり、その後でその貨幣で別の商品を買えばよいのです。商品保持者が自分の商品を貨幣に変えるというのは、個人のレベルで、一般的な社会的過程に入り込むことです。その後で、貨幣を別の商品に変えると言うのは、個人的過程に戻ることです。この全体の運動は、直接的生産物交換から、貨幣を媒介とした商品交換に移行することを意味します。これが、3番目の矛盾が実現する運動形態で、貨幣が、個人的過程と一般的な社会的過程を媒介するのです。
この3番目の矛盾も、直接的生産物交換に伴う矛盾ですから、歴史的には、貨幣の出現を待たねばなりません。それに定期市が加われば、商品交換が定着します。交換過程の歴史的考察では、第9段落以降ででてきます。また、この第4段落の解決法は、次の第5段落の解決法と同じです。

問2-5:(第5段落)「どの商品保持者にとっても、他人の商品はどれでも自分の商品の特殊的等価物とみなされ、したがって自分の商品はすべての商品の一般的等価物とみなされる。だが、すべての商品保持者が同じことをするのだから、どの商品も一般的等価物ではなく、・・・一般的な相対的価値形態を持ってしない。」(4番目の矛盾)という矛盾は、第1章第3節B.の「展開された価値形態」の矛盾と同じことを言っているように思います。でしたら、その答えは、一般的等価物としての貨幣ですか。
答2-5:その通りです。
第1章第3節Bの「2.特殊的等価形態」第1段落、「3.全体的な、または展開された価値形態の欠陥」第4段落などで、すでに論じられています。その矛盾の解決法も、「C.一般的価値形態」で論じられたように、ある一定の除外された商品が一般的等価物となり、他のすべての商品がこの除外された商品で価値を表現し一般的な相対的価値形態となったとき、第4の矛盾が解決されるのです(答38)。
第6段落および第7段落は、1番目から4番目までの矛盾が実現する運動形態を総括しています。

問2-6:(第7段落)「商品と貨幣とへの商品の二重化」というのは、答42で説明された「一般商品の世界と貨幣の世界と世界が二重化した」ということですか。
答2-6:そのとおりです。
やや先走ることになるかもしれませんが、ここで、否定の否定の定理(弁証法の第3定理)を説明しておきましょう。
商品保持者が、売買交渉を行って、自分の商品を価値通りに売って、お金を手にしたとします。これは、商品が売れたのですから、自分の商品の否定です。その結果、一般的等価物であるお金が手に入ったのですから、お金は否定の成果です。このとき、商品保持者は、商品の世界からお金の世界へ、飛び移ったのです。
次に、そのお金で、自分が買いたいと思っていた商品を購入したとします。これは、自分が望む商品を手に入れたのですから、自分の商品を否定して手に入れたお金を再び否定したことになり、新たに手に入れた商品は、否定の否定の成果です。このときは、商品保持者は、入り込んでいたお金の世界から再び商品の世界へ、飛び移ったことになります。
否定の否定というのは、一見すると、回り道のような気がするでしょう。直接生産物を交換した方が、効率的な感じがします。しかし、物々交換では、先の1番目から4番目までの矛盾の解決は困難でした。ところが、貨幣を媒体とした商品交換、すなわち、否定の否定の運動では、それらの矛盾が実現され、同時に解決されています。また、物々交換では、販売者と購買者は同一でした。それが、貨幣が介在すると、販売者と購買者が分離します(答25)。この分離が、否定の否定の運動を必要としたのです。
このようにして矛盾を解決する方法が、否定の否定の定理です。急がば回れ、ということです。
ところで、否定の否定は、いままでにも出てきています。答19で説明した「回り道」が、それです。リンネルから上着へは、リンネルを否定して上着へ移ることを意味します(第一の否定)。その後、上着を否定して、リンネルへ戻ります(第二の否定)。第二の否定では、第一の否定で得られた成果、つまり、抽象的人間労働をもってリンネルへ立ち戻り、「織布もまた、それが価値を織るかぎりでは、それを裁縫から区別する特徴をもっていないということ、つまり抽象的人間労働であるということが、言われている」という風に使われています。
商品と貨幣の間の否定の否定の運動が可能になったのは、答42で述べたように、対立物の相互浸透の基礎構造が構築されたからです。この基礎構造は、商品が使用価値と価値の直接的同一であることから、理論的に展開してきたものでした。その展開の過程で、否定の否定の定理が「回り道」として使われていたのです。これは、「商品の貨幣への転化が実現される」過程でしたが、同時に、この過程は、直接的生産物交換から発展してきたのですから、「労働生産物の商品への転化が実現される」過程でもありました。
更に、後に見るように、否定の否定の運動は、対立物の相互浸透の構造を完成させ、更に相互浸透を推し進めていきます。
否定の否定は、宗教の信者が、日常の中で実践しています。キリスト教の信者が教会で礼拝したり、イスラム教の信者がモスクで礼拝したりするのは、精神的に現実の世界から宗教の世界へ入り込み、宗教の世界で神と対面し、神との同等性(答22)を再確認するためです。むろん、信者といえども、宗教の世界へ入りっぱなしだと日常の生活ができませんから、礼拝が終わった後は、現実の世界に戻ってくるわけですが。宗教の基礎には、神と人間との対立物の相互浸透の基礎構造が構築されているのです(答47、答54)。ただし、物質的にではなく、あくまで精神的にですが。当然の事ですが、信者には、神と人間との矛盾が自覚されているわけではありません。矛盾が自覚されれば、それは宗教の信者ではなくなりますから。

問2-7:(第8段落)答2-1、答2-3で、あなたから教えていただいたので、この段落に書かれあることが、1番目と2番目の矛盾の歴史的な解決過程であることが、よくわかりました。ただ、「互いに他人であるという関係は、自然発生的な共同体の成員にとっては存在しない。」「反作用的に内部的共同体でも商品になる。」というのが、どういうイマージなのかよくわかりません。
答2-7:「互いに他人であると言う関係」というのは、私的所有者の関係という意味です。
あなたの家族の中では、食品や家具や家電製品などは、誰が使っても自由な共有物ですよね。携帯やスマホなどは各人の占有かもしれませんが、それでもそれを購入するのも使用料金も、家計から支出しますよね。ですから、それらも家族の共有財産には変わりありません。つまり家族の中では、お互いは私的所有者ではないわけです。
ところが、正月に、あなたの子がほかの人からお年玉をもらったとすると、その子はそれを自分の所有物として、あなたが取りあげようとでもしようものなら、頑強に抵抗するでしょう。この場合、お年玉はその子の私的所有物になったのであり、家族内でも、子の私的所有物になったのです。
私的所有が家族の中に生ずると、事態は一変することにもなります。例えば、主人または奥様が、急に自分の財産の所有を主張しだしたら、離婚の危機です。まさに「互いに他人であると言う関係」になり、家族の崩壊を招きかねません。
自然発生的な共同体の成員も、家族の成員と似ています。共同体内部では、商品交換は発生しません。商品交換の可能性が出てくるのは、「その所持者の直接的欲望を越える量の使用価値としての、それの定在」すなわち余剰生産物ですが、商品交換が実際に行われたとすると、手放す側の共同体にとっては非使用価値の余剰生産物であっても、受け取る側の共同体にとっては、使用価値の必須な生産物であるからです。なぜなら、受け取る側の共同体にとって、受け取る生産物は、その生産物を生産する生産条件を持っていないのですから。ですから、商品交換は、「共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で」始まります。その場合には、子供のお年玉のように、受け取る側の共同体内部でも、受け取った生産物は私的所有物となり、商品交換を行う成員は、共同体内部でも私的所有者として振る舞うようになるのです。その結果、共同体自体が崩壊し、成員は、私的所有者として分離独立していくことになるわけです。
なお、これが、唯物史観(答36、答52)のアジア的生産様式の崩壊に相当するということも、理解できると思います。

問2-8:(第12段落、第13段落)貨幣商品が、「その独自な社会的機能から生ずる一つの形態的使用価値を受け取る」とありますが、「形態的使用価値」とは、なんですか。第11段落で言われたことのような気はしますが。
また、「一般的商品」というのは、一般的等価物ということですか。
答2-8:「形態的使用価値」というのは、その機能を表現できている使用価値といった意味です。
貴金属である金は、一般的等価物として機能する以前に「虫歯の充填や奢侈品の原料などに役立つというような」使用価値を持っているので、そういう商品として通用していました。しかし、虫歯充填剤や装飾品として使用されている限りは、一般的等価物として役立てることはできません。
実は、第1章第3節Dでは、金が、一般的等価物としてのリンネルに取って代わることになりましたが、その理由は「社会的慣習によって」と述べられているだけで、具体的に述べられてはいませんでした。理論的には、一般的等価物は、金商品でなくてもいいのです。しかし、交換過程で実際に使用されるためには、第1章第3節の答41で説明した「一般的等価物にふさわしい使用価値」を持つ商品でないといけません。貨幣商品は、「商品価値の現象形態として、または、諸商品の価値量が社会的に表現されるための材料として、役立つと言う機能」を持たねばなりません。価値の現象形態というのは、「抽象的な、従って同等な人間労働の物質化」ということですから、その機能を担うことができるためには、貨幣商品は、均質で任意に分割し合成することができる商品でなければなりません。これは、一般的等価物という機能から要請される「使用価値」の条件なのです。例えば、この貨幣商品が上着でしたら、1/2着の上着というのは、価値表現としてはありえても、実際の商品としてはありえません。上着を半分にしたら、それはもう上着ではありません。つまり、上着商品は、「その独自な社会的機能から生ずる一つの形態的使用価値を受け取る」ことができないわけです。
その条件を兼ね備えている商品として選ばれたのが、金商品なのです。金商品なら、金貨やコインという形でなくとも、単なる金の塊でもいいのですが、どのような量のものでも任意に鋳造できすから、どんな小さな価値もどんな大きな価値も表現することができます。こうして、金商品が、その使用価値の存在を二重化したことによって、貨幣として使用される場合の金商品は、一般的等価物とそれにふさわしい使用価値の直接的同一という矛盾を実現することができ、貨幣商品=一般的商品になれるのです。
最近は健康志向がブームで、テレビでも、健康をテーマにしたバラエティー番組が花盛りです。ですから、スーパーでも、食品棚に「機能性食品」が一杯です。「機能性食品」というのは、例えば「おなかの調子を整える」とか「脂肪を減らす」とかの体調調節機能や保健機能という成分を効率的に摂取できる食品ということですが、本来は、普通に流通していた食品の中から、特に特定の栄養・保健機能が期待できるとして選ばれたもののようです。
金商品もそれに似ています。虫歯充填剤や装飾品として、上着やリンネルと同じような特殊な商品であった金商品が、一般的等価物にふさわしい社会的機能が期待できるとして選ばれて、一般的商品になったわけです。ここで一般的商品というのは、金商品以外の商品を特殊として把握し、それに対して金商品を一般・普遍として把握することを表現しています。

問2-9:(第15段落)「貨幣の相対的価値量の確定は、その生産源での直接的物々交換で行われる。それが貨幣として流通にはいる時、その価値はすでに与えられている。」という意味がよくわかりません。
また、「商品は貨幣であるのかを理解することにある」と書いてありますが、どういう意味ですか。
答2-9:金商品が貨幣になったとしても、一般的等価物としての金商品は、自分の価値を他の商品の使用価値で表現するしかありません(第3節C.2.第7段落参照)。しかし、金商品も、貨幣になる前は、一般の商品と同じ地位にいたのですから、「生産に必要な労働時間によって規定され」るわけですから、「その生産源での直接的物々交換で行われる」のです。つまり、金は、金鉱山で採掘され精錬されて商品化されますが、その生産源での労働によって金商品の価値は規定されており、したがって「それが貨幣として流通にはいる時、その価値はすでに与えられている」というわけです。
「商品は貨幣である」というのは、文脈から見て、「金商品は貨幣である」と言う意味でしょう。「どのようにして、なぜ、何によって」、金商品は貨幣になるのか、これが、第1章第3節及び第2章のテーマでした。貨幣が商品であるということはすでに発見されていたのですが、「金商品が貨幣になる」という理解が困難なのでした。その問題を、マルクスが解いたというわけです。

更により深く勉強する人のために、エンゲルスの説明を紹介しておきます。
「資本論」の解説のベストは、なんといっても、一番の理解者であったエンゲルスによるものです。エンゲルスは、「経済学批判」の書評で、次のように書いています。
「経済学は商品をもって、つまり生産物が・・・たがいに交換される契機をもって、はじまる。交換に入り込む生産物は商品である。」「さてわれわれが、商品を、それもふたつの原始的共同体間の自然発生的な交換取引においてやっとのことで発展したような商品ではなく、完全に発展した商品を、その具なった側面から考察するならば、この商品は、われわれのまえに、使用価値と交換価値というふたつの見地のもとに自己を示すであろう」「さて、使用価値と交換価値とが説明されると、そのつぎには、商品は、それが交換過程にはいっていくばあいそうであるように、このふたつのものの直接の統一としてあらわされる。どんな矛盾がここで生ずるかは、・・・をよく読んでほしい。ただここで注意しておきたいのは、これらの矛盾は、単に理論的・抽象的に興味があるだけではなく、同時にまた、直接的交換関係の、つまり単純な交換取引の本性からうまれてくる困難を、すなわち交換のこの最初の素朴な形態が必然的におちいる不可能を、反映しているということである。この不可能の解決は、他のすべての商品の交換価値を代表するという属性が、ひとつの特殊な商品−貨幣−にまかされるということのうちに、みいだされる。そこで、貨幣または単純流通が、第二章で展開されるのである」。
「経済学批判」と「資本論」を比較すると、「経済学批判」には、第3節に相当する部分がありません。しかし、第3節は、第2節の発展ですから、第2節に含まれます。この単純な解説に、「資本論」第1章および第2章の要点が見事に総括されています。
更にエンゲルスは、この部分の弁証法論理を、次のように書いています。
「この方法においては、われわれは、歴史上、事実上われわれのまえにある最初のしかももっとも単純な関係から出発する、したがってここでは、われわれの目のまえにある最初の経済的な関係から、出発する。この関係をわれわれは分析する。それがひ とつの関係であるということのうちには、すでにそれがたがいに関係しあうふたつの側面をもつということがふくまれている。これらの側面のひとつひとつは、それ自身として考察される。そこから、それらがたがいに関係しあう仕方、それらの交互作用があらわれてくる。そして解決をもとめる矛盾がうまれてくるであろう。けれども、われわれは、ここでは、われわれの頭のなかだけに生じる抽象的な思想の過程を考察しているのではなく、いつか実際に起ったことのある、またはいまおこっている実際の出来事を考察しているのだから、これらの矛盾もまた、実際問題としては、自己を展開し、おそらくその解決をみいだしているであろう。われわれは、この解決の仕方をたどって、それがひとつの新しい関係をつくりだすことによっておこなわれたことをみいだすであろう、そしてわれわれは、こんどは、この新しい関係のふたつの対立する側面を展開しなければならなくなり、こうした過程がつづくのである。」
答2-1で、ヘーゲルの哲学を取り挙げました。
ヘーゲルの哲学との比較で行くと、第1節・第2節は、「ヘーゲル論理学」の「本質論」が参考になります。「本質論」では、「有論」を前提として、両極的な対立が論じられています。「資本論」では、使用価値と価値のそれぞれが論じられました。
第3節は、「ヘーゲル論理学」の「概念論」の「判断」が参考になります。「判断」では、主語と述語をつなぐ繋辞「である」による判断が論じられています。「資本論」では、繋辞が等号に変えられ、「リンネル=上着」という形態が分析されました。
第4節は、「ヘーゲル哲学」の「客観」が参考になります。「客観」では、「判断」、「推論」と進んできた精神が、外化して「客観」となります。「資本論」では、ヘーゲルの「客観」が、呪物として批判の対象になっています。
第2章は、「ヘーゲル哲学」の外化した「客観」が、「自然」を経由して「客観的精神」に戻ったところが参考になります。その最初が、「所有」です。「資本論」でも、所有者が登場し、商品の交換過程が論じられました。
ただ勘違いしてほしくないのは、ヘーゲルの哲学書を参考にしてほしいということであって、ヘーゲル哲学を勉強しないと理解できないと言うことではないと言うことです。参考にするのは大いに推奨されますが、そうだからと言って、それがないと理解できないと言うことではありません。

第1篇第3章第1節 価値の尺度

問3-1:(第1段落)第1章第3節C.3及びDにも出て来ましたが、「貨幣商品」というのは、変な表現ではありませんか。
答3-1:「貨幣商品」という表現は、「貨幣」を、商品という一般(普遍)に対し、特殊のレベルで把握していることを示しています。貨幣は、特殊な商品というわけです。 ですから、特殊な商品である貨幣にも、商品という一般性が貫徹されています(答2)。つまり、第1章第1節および第2節ででてきた・使用価値と価値の統一としての商品の規定が、すべて当てはまります。ただし、貨幣としての特殊性を伴って、ですが。
いままでは、貨幣の出現の必然性を明らかにしてきました。この章全体の課題は、貨幣が持つ・商品の一般性と特殊性です。

問3-2:(第3段落)価値尺度という言葉が出て来ましたが、これは、第1章第3節A.3.第6段落で出てきた「尺度の例」と同じと考えていいのでしょうか。
答3-2:その通りです。
この節の冒頭で断ってあるように、商品の価値を測る尺度として、ここでは、金商品が使われています。
ところで、ここで、尺度、すなわち、測定する対象にあてがわれる「物差し」について、改めて考えてみましょう(答27)。尺度=物差しを考えると言うことは、測定する対象の質と量との関係を考えると言うことですが。(質と量の関係については、後に、弁証法の量質転化の定理(弁証法の第1定理)としても出て来ます。)
例えば、人の身長を測るのに体重計を用いたり、人の体重を測るのに身長計を用いたりはしないでしょう。身長を測るには身長計を、体重を測るには体重計を用いるのは、身長と体重という人間の異なった質に対して、その量を測るのに共通の物差しがないからで、異なった質に対しその量を測るためには、異なった物差しをあてがわねばならないからです。このように共通の物差しがないことを、通約不可能といいますが、物差しが異なっていると言うことは、人という実体の二つの質、長さと重さが異なっているということであり、メートルとキログラムと、それを測る単位が異なっていると言うことでもあります。ですから、物差しも、測定する対象の質に応じて、同じ単位を持った物差しをあてがわねばならないわけです。
尺度は、同じ質を持つ物の量の物差しだとしても、量のレベルが異なれば、質が変化していきますから、異なる物差しを用いねばなりません。人の身長は、普通は3メートルを超えないでしょうから、センチメートルという単位で切った物差しの身長計で十分でしょうが、ミクロの世界をのぞく顕微鏡では、レンズに合わせてミクロメーターという物差しを使いますし、プラネタリウムに行くと地球から何百光年、何千光年という距離にある星を見せてくれますが、ここでは、光の速度が長さの物差しになっています。
上着は、1着、2着・・・、リンネルは1エレ、2エレ・・・と違った単位で測る限りは、両者を比較できません。つまり通約可能ではありません。比較するためには、両者を同じ実体を持ったもの・同じ質を持ったもの・同じ単位を持ったものとして扱うことが必要で、その共通する実体が価値実体であり、その内実が対象化された抽象的人間労働の実体化であって、その単位が、労働時間でした(答18)。
このことが、第1章第3節A.2.a.第1段落で、「ただ、同じ単位の諸表現としてのみ、それらの物の大きさは、同名の、したがって通約可能な大きさなのである。」と書かれていましたし、ここでも「諸商品価値を同名の大きさ、すなわち質的に同じで量的に比較可能な大きさとして表す」と書かれています。
ただし、商品生産の前提の上では、対象化された労働時間は、商品の上に直接には現れてくることができませんでした。注50にも取り上げられていますが、もし、労働生産物の上に直接的に労働時間が表示されるとすれば、それは商品生産とは異なった社会・労働生産物を相互に交換しない社会が前提になっているはずだからです(答53)。労働生産物を交換せざるを得ない社会=商品生産の社会というのは、自然発生的な生産物交換によってしか、生産物の生産調整を行い得ない社会です(答48)。私たちが生活している資本主義の社会も、単純な商品交換の社会を基礎としていて、そこから発展してきたのです。ですから、リンネルの価値を表現するのに、労働時間ではなく、あくまで他の商品、すなわち上着を、価値表現の材料として、共通の性質を表す手段として、使わねばならなかったのです(答17、答18)。このことは、上着がリンネルに代わり、リンネルが金に代わっても、基本的には変わりません。個別的等価形態が特殊的等価形態に代わり、特殊的等価形態が一般的等価形態に代わっただけです(答35、答41)。そのため、リンネルと上着との比較では、個別的だった価値尺度(答27)も、最後の金の時には、一般的価値尺度となったわけです。この一般的価値尺度は、それが一般的等価物の機能であることを表しています。
測定対象である商品の価値を測るのに、実体である(対象化された)労働時間ではなく、特殊な測定対象でもある金商品を尺度にするというのは、一見するとおかしなことだと思われるかもしれませんが、そういう尺度はほかにもあります。例えば、答27で重さの尺度として分銅を説明しましたが、重さという質は、この地球上での物(質量という実体)の性質であって、重力を表しています。国際宇宙ステーションの中では、重力が働きませんから、物に重さはありません。重さはなくても質量はありますから、食料の重さはなくても、宇宙飛行士はお腹がすけば食料を摂取して飢えを満たすことができます。ですから、物の質量という実体を測定するのに、この地球上では、分銅という・ある意味で特殊な物(の重さ)を尺度として、他の測定対象である物(の重さという性質)の質量を、測定するのです。(国際的には、質量の尺度は、国際キログラム原器という金属塊で定められています。)
重さは、重力、つまり、地球に引っ張られる力を表していますから、物理学的には、キログラムではなく、ニュートン(N)という力の単位を使います。1キログラムの物に働く引力がほぼ9.8ニュートンで、それを明確にするために、1キログラム重と言ったりします。天秤計りは、分銅を尺度として、それと釣り合わせて、測ろうとする物の重さを測りますが、人の体重を測る体重計などは、ばねの反発力を利用して、重さを測っています。ですから、重力が異なれば、物の重さが違って表示されます。月の上に降り立ったアームストロング船長が、月面を飛び跳ねていたのを記憶している人も多いと思いますが、月の上では、引力は地球の6分の1になりますから、地球で、ばね計りでは1キログラムの表示を示していた物が、月の上では、その6分の1の重さを示すようになるでしょう。しかし、天秤計りでは、測定対象にも分銅にも同じ引力が働きますから、地球の上でも月の上でも、1キログラム重の表示は変わりません。実体が直接測れない場合、同じ実体は同じ質を持っていますから、同じ質を持った一定の物を尺度として、他の物の実体の量を測定するのです。これはまた、地球上でも月の上でも、質量と重さが同じ比率で変化しており、尺度として必要なのは、この比率と1キログラムという固定した質量単位であることを、示しています。
このことは、尺度というものが、測定する対象に応じて、より正確には、測定しようとする実体に応じて決められるものであり、測定対象とは媒介関係に置かれており、そのため、尺度の固定した単位は、測定しようとする実体の量の比率を反映するものであれば、なんらか人為的なものでもよく、実際には日常生活の実践上の必要を反映したものとなることを示しています。例えば、重さや長さの尺度として、わが国では以前、古来中国から伝わったとされる尺貫法が用いられていました。また、寒暖計は、摂氏温度を用いていますが、これは、水の融点と沸点をそれぞれ0度と100度として、その間の目盛りを等分に切った温度計です。価値尺度として金商品を用いると言うのも、それに似ています。「価値尺度としての貨幣は、諸商品の内在的な価値尺度の、すなわち労働時間の、必然的な現象形態である。」ただ、価値尺度として金商品を用いる場合は、時間では測定できませんから、特殊な商品でもある金商品の質、金の重さを単位として用いることになったわけです。
さて、量には、連続量と非連続量とがあります。価値実体は、労働時間を単位として測りますから連続量です。時間は、小数点以下、いくらでも細かく表すことができますから。しかし、それを上着で表すなら、1着、2着・・・として表しますから、その自然単位は「着」で、非連続量(離散量、分離量)となります。1/2着の上着などは、考えることはできても、上着をはさみで半分に切ったら、使い物になりませんから。物の質量を重さで表現するというのは、どちらも連続量ですから、キログラム重(ニュートン)とキログラムという単位は異なっていますが、問題はありません。しかし、価値実体という連続量を、上着という非連続量で表そうとすると、無理が生じます。それを解消するためにも、重さという連続量を自然単位として持つ金商品を価値表現の手段として選択したのは、合理的です。
更に連続量には、外延量と内包量があります。外延量とは、例えば、二つの同じ重さの物体を合わせると、全体では重さが二倍になるように、加成性が成り立つもので、重さや長さ、面積や体積などです。内包量とは、例えば、二つの同じ温度の物体を合わせても、全体の温度が変わらないように、加成性が成り立たないもので、温度や圧力、速度や密度など、強度的な量です。例えば、重さを測るには、天秤ばかりや体重計などがあるように、外延量を測るためにさまざまな測定器があります。しかし、内包量は、そのままでは測りにくいため、例えば、温度は、温度の変化によって液体の体積が変化することに基づいて、アルコール温度計や水銀温度計が作られたように、温度という内包量を体積という外延量に変換して測定します。
価値は、対象化された一般的な人間労働時間の実体化(物質化)したものですから、連続量で外延量のような気がします。しかし、内包量的な要素もあります。第1章第2節第10段落(答13)で、複雑労働が単純労働に換算されるということをとりあげましたが、これは労働の強度が違っても、質的に同じ単純労働という物差しで測ることができるということであり、内包量的な要素が外延量的な要素に変換されるということです。ですから、正確には、金商品が測っているのは、単純な労働に変換された人間労働ということになります。商品価値を抽象的人間労働で表現せず、価値で表現すると言うのは、その背後で、このような操作が行われているのです。
注50において、ロバート・オーエンの「労働貨幣」のことが論じられていますが、これについては、エンゲルス「反デューリング論」第3篇1歴史的概説や4分配を参考にしてください。
量と質及び尺度については、「ヘーゲル論理学」の「有論」が参考になります。

問3-3:(第5段落)価格について、「観念的な、または想像された」という表現が使われていますが、よく意味がつかめません。「勝手に想像できる」ということではなさそうですが、実在ではないと言う意味でしょうか。
また、「いわばただこれらの物の頭のなかにあるだけの金」と書かれていますが、変な言い方と思いますが。
答3-3:「観念的な、または想像された」というのは、その意味の通りに理解して構いません。
第3節の答35まで、戻ってみましょう。
あなたのリンネルは、あなたの商品の交換相手の協力によって、一般的等価物になりました。あなた以外の商品の販売者は、商品のそれぞれの束の荷札に、20エレのリンネルの写真を1枚ずつ貼り付けています。20エレのリンネルの写真は、リンネル以外のすべての商品の共通な性質である等価性を表しています(答38)。この20エレのリンネルは、最終的に2オンスの金に代わりましたが、その機能は変わっていません(答41)。すなわち、リンネルであっても金であっても、写真に写っている商品それ自体は、特殊な使用価値であり、一方、価値としては一般性を表現しているという点です(答40)。答29で、地図記号を取り挙げ、答47でという漢字を取り挙げました。いずれも、写真に写った金商品のように、内容的には、一般的・普遍的な抽象物を表現していながら、形式的・表面的・感性的な特殊な形を持っているという矛盾を抱えた存在でした。このようなものを、一般的に、表象といいます。
商品の販売者が、20エレのリンネルや2オンスの金の写真を持ち合わせていない場合には、どうすればいいでしょうか。例えば、上着「の価値は、目に見えないとはいえ、これらの物そのもののうちに存在する。」そこで、上着の販売者は、自分の頭の中に、実際の金の塊を思い描きながら、1着の上着の価値に見合った金の量がどれくらいなのかを想像するでしょう。そうして、頭の中に、1着の上着に相応しい金の量の表象を想像した結果、その金の量が決定できたならば、その金の重量を値札に記入することでしょう。「商品の価格または貨幣形態は、・・・単に観念的な、または想像された形態である。」「商品の番人は、これらの物の価格を外界に伝えるためには、・・・これらの物に紙札をぶらさげる」のです。「商品価値の金による表現は観念的なものだから、この機能のためにも、ただ想像されただけの、すなわち観念的な、金を用いることができる。」「それゆえ、その価値尺度機能においては、貨幣は、ただ想像されただけの、すなわち観念的な、貨幣として役立つのである。」
「いわばただこれらの物の頭の中にあるだけの金」というのは、物に内在する価値に相当する金の想像した量、金の表象ということを表しているようです。
しかし、値札をつける時には、表象としての金商品、すなわち観念的な貨幣でいいかもしれませんが、価値尺度としての金商品が不必要といっているのではありません。一度でも金商品を見ていない人に金商品を想像しろといっても無理な話です。頭の中に金商品の表象を思い描くためには、実際の金商品の存在が前提されているのです。価値尺度としての金商品とその他の商品とは、媒介関係に置かれていることが前提になっています。つまり、価格は、他の商品の内在的な価値が、金商品を価値尺度にするという第一段階と、価値尺度の金商品が、他の商品に価格を与えると言う第二段階の手続きを経て、決められています。「価格はまったく実在の貨幣材料によって定まるのである。」この二つの段階をはっきり区別して把握することが大切です。


問3-4:(第8段落)「価値の尺度および価格の度量標準として、貨幣は二つのまったく違った機能を行う。」「価値の尺度として金が役立つことができるのは、・・・可能性から見て一つの可変的な価値であるからこそである。」とありますが、「価値の尺度」と「価格の度量標準」が混乱気味で、はっきり区別して理解できません。どう理解したらいいのですか。
答3-4:二つを明確に区別して理解することは、大切です。
金商品を価値尺度として用いることができるのは、金商品が価値実体、すなわち、「人間労働の社会的化身」だからで、また、金商品とそれ以外の他の商品とが、同じ価値実体を持っているからです。答3-2で説明したように、金商品を価値尺度に用いるのは、同じ実体を持つ他の商品の実体の量との比率を測定するためですから、尺度に含まれる実体の量が変化してもかまいませんし、そういう場合も含んでいます。金商品が価値尺度として役立つのは、「可能性から見て一つの可変的な価値であるからこそである。」といわれると変な感じを受けますが、量が変化するからこそ、尺度が必要になるのです。
金商品を価値尺度にしたのは、他の商品に含まれる価値の量を測定するためです。一方、他の商品の価格は、その価値尺度としての金商品の表象です。価格は、同じ価値を持つ金商品の表象ですから、形式的・表面的・感性的な特殊な形を持っています。その特殊な形というのは、金商品の質です。価格の度量標準は、この側面を手掛かりにして、その商品の価値を、金重量に換算して表しています。ですから、価格の度量標準として金商品を用いる場合には、金商品という使用価値の質である重さの自然単位であるポンドやオンスなどを、その表現形式として利用しています。このことは、価値尺度としては、金商品に内在する価値実体の量がどのように変化しようとも、自然単位として一定の固定した物差しであることを示しています。
すなわち、価値尺度としては、金商品の価値実体に、価格の度量標準としては、金商品の使用価値としての側面に、それぞれ関連付けることができます。

問3-5:(第15段落)「貨幣度量標準は・・・結局は法律によって規制されることになる。」とあります。別の本に、国家は、階級抑圧機関と書いてあったのですが、こういう法律も、階級抑圧の手段なのですか。
答3-5:レーニンが「国家と革命」という本で、国家を、「1階級が他の階級を抑圧する機関」と規定したので、それ以来、それを信じている人が多いのですが、この規定は間違いです。
それは、実際の国家機関を見てみればわかります。最近は各省が統廃合されて名称が変わってはいますが、例えば、文部科学省や厚生労働省や環境省など、このような行政機関が「階級抑圧機関」という役割だけしか果たしていないとは思えないでしょう。
ところで、国家とは何でしょうか。国家は、どういう役割を果たしているのでしょうか。この問題を議論していくと相当長くなるので、ここではできるだけ簡単に説明してみましょう。
端的に言えば、国家というのは、政治的な共同体です。それを説明するために、まず、私たちが属するさまざまな共同体の一つである家族について、考えてみましょう。
家族は、私達が属している一番小さな共同体です。今は、夫婦二人に子供という核家族が一般的ですが、私の生まれた戦後間もない頃は、家族に祖父母がいるのが普通で、兄弟も多く、いわゆる大家族でした。もっともそのころは、今ではすっかり住宅地になってしまった町内にも、家の周りには畑が広がり、少し行けば田んぼがあるような環境でしたが。しかし、大きかろうと小さかろうと、家族は、その中で衣食住の「物質的生活の生産」が行われる社会の細胞です。島の中のロビンソンと違って、家族には、血縁関係に基づく「労働の生産関係」が存在します。自営業であろうとサラリーマンであろうと、必要な生活手段を得るために働き、その収入で衣食住を整えて、子供を産み育て一人前にして社会に送り出すと言う生活の生産関係が土台になっています(答49、答51)。
それぞれの家族成員がそれぞれバラバラに行動していては、まとまりのある生活は形成できませんが、成員がお互いに協力して生活していくと、その家族という共同体に見合った秩序が出来上がってきます。それは、「これはこうする」「それはそうしない」という家族内の規則・生活習慣が意識的・無意識的に形成されるからです。このような規則・生活習慣は、意識するとしないとにもかかわらず、お互いの意志が調整されて共通の意志が形成され、それが観念的に対象化されて家族規範が成立したことを意味します。答2-1で、契約に関して、意志の観念的対象化と共通の意志の成立について触れましたが、それと同じことです。
人は、意志を観念的に対象化して、あたかも、それが頭の外にあるようにして固定し、自分の意志を固定した意志に従わせるという形式で、自分の中に行動の秩序を作り出します。例えば、日曜大工で机を作る場合、まず、完成した机を頭の中に思い浮かべ、「机を作ろう」と言う意志を確かなものにします。その意志を頭の中で観念的に対象化し、「机を作れ」という・あたかも他人からの命令の形にして、固定します。そうして、机の工作に長い時間がかかっても、その間に意志が壊れないようにして、机を作る作業に取り掛かるでしょう。また、例えば、禁煙を決意したとしましょう。「タバコを吸うのをやめよう」と意志を固めましたが、酒の席で人がタバコをおいしそうに吸っているのを見たりすると、ついタバコに手が出そうになるでしょう。そこで、その禁煙の意志を頭の中で対象化し、「タバコを吸うのを止めよ」という・あたかも他人からの命令の形にして、その対象化した意志を固定化して維持し、時々に起こってくるタバコへの誘惑の意志を抑えつけようするでしょう。これらは、個人的な意志の観念的対象化で、対象化された意志=個人的規範は、その個人の行動に一定の秩序を与えます。以上の例は、目的意識的に創り出した個人的規範ですが、同じような行動を繰り返していくうちに、それに伴って意志が固定化し、知らず知らずに形成されていく規範もあります。例えば、喫煙や飲酒などのように、望ましいとは思っていなくても繰り返しているうちに、そうした望ましくない生活習慣が身についてしまい、後で後悔することにもなるというわけです。
以上の場合は、個人的規範ですが、人が属するさまざまな集団には、その集団に応じた特殊な社会的規範があり、それによって集団の秩序を維持しています。家族にも、家族内の特殊な規範があって、それが家族内の秩序の維持に役立っています。それにも目的意識的に創り出したものと、自然に形成されたものとがあります。ですから、家族内で行う子供の行動について、親は、望ましい生活規範を意識的につけさせようとして、「しつけ」を行うわけです。
家族という共同体の中では、成員相互の利害は、基本的に一致しています(答51)。それは、家族内では、成員相互が私的所有の関係にないからで、一時的な占有はあるにしても、基本的に共有財産制だからです。唯物史観におけるアジア的生産様式の社会も、これに似ています。その内部では、血縁関係及び拡大された血族関係に基づく、労働手段と生活手段の共有性による労働の生産関係が基礎となっており、それを土台にして、氏族制度による社会秩序が維持され、それが上部構造を形成していました(答36、答52)。
ところがそこに、私有財産制が導入されました。それは、異なった原始共同体の間の交易と戦争の結果なのですが、その結果、共同体内部の個人及び家族の間に、経済的な相反する利害の対立が起こる可能性を孕むようになりました(答2-7)。例え、実際に利害関係で反目しないにしても、私有制は、異なった個人および家族を、裕福な家族と貧困家族を、潜在的に敵対関係に置くことになったのです。
しかし、これをこのまま放っておけば、利害の対立が顕在化し、共同体はいずれ崩壊の危機を招きかねません。そこで、この私有制という経済的土台を維持するため、上部構造において、原始的共同体の氏族制度に取って代わる新たな共同体制度が、要請されたのです。それは、ちょうど、労働生産物の商品化=価値化が、商品と貨幣の世界の二重化を発生させたように、経済的土台における個人・家族及び経済的集団の敵対的矛盾が、経済的土台と新たな政治的上部構造の二重化を発生させることによって、矛盾の解決を図るものです。その政治的共同体こそ、国家なのです。ですから国家は、氏族制度が代表していた個々の個人・家族の共通の利害を反映すると言う役割を引き継ぎながらも、経済的な相反する利害を調整して封じ込めるという矛盾した役割を演ずることになりました。国家は、一般的社会規範としての国家意志=国家規範「法」によって、国家秩序を創り出し維持するようになりますが、原始的共同体の氏族制度と国家の法とでは、共同体規範の性格に決定的な違いがあります。それは、氏族制度が、成員間の共同利害を直接的に反映していたのに対し、国家の法はそうではないため、暴力的な強制力を伴わざるをえないと言う点です。それが、国家の中に、国家機関として構成される国家権力という特殊な権力を要請したのです。
国家および国家権力のあり方は、各生産様式に応じて、それぞれ異なった特徴を持っています。また、原始的共同体の性格を色濃く残したまま、それらをあたかも私的所有者として扱うようにして、大きく束ねて帝国にまで発展した東洋的専制政治の国家も、異なった特徴を持っています。しかし、いずれにしても、国家および国家権力は、個人・家族などの共通の利害を、完全に無視することはできません。それをそれなりに反映すると共に、経済的に優位に立つ家族ないし集団や階級の利害をより強く反映するようになりました。なぜなら、優位に立つ階級こそ、その経済的土台を推進する役割を担っているからです。資本主義的生産様式の近代国家権力は、ほぼ三権分立という形式をとっていますが、これも、政治的に個人の自由・平等が認められた政党政治による国家意志の決定に応じた政治様式といえるでしょうが、その内実は、やはり経済的優位に立つ階級の意志が色濃く反映される政治的独裁体制といってもいいと思います。
ですから、誰もが従わないと混乱してしまう道路交通法を設定するのも、独占禁止法を設定するのも国家ですから、貨幣度量標準を規制する法律が、国家によって制定されることになるわけです。一方、経済界や特定の大企業の特殊な利益を、あたかも社会全体の利益のように偽装して制定される法律や政策もあって、例えば、原子力政策がゆがめられたように、建前と内実が異なるものもありますから、私たちには、それを見破る科学的な目が必要です。

問3-6:(第16段落)「貨幣形態に、固定することが必要なときには」とありますが、「固定する」とは、どういう意味ですか。
答3-6:貨幣形態に固定するというのは、商品に価格を付けると言うことだと思います。労働生産物を販売するためには、価格を付けねばなりません。そのために、貨幣を計算上の尺度として用いて、価格を付けるということです。

問 3-7:(第18段落)「事情が1クォータの小麦を3ポンド・スターリングに値上げすることを許すか、またはそれを1ポンド・スターリングに値下げすることを強いるとすれば」と書かれていますが、こういうことは起こりえないのではありませんか。
「また、与えられた事情にもとでその商品が手放される場合の価値量以上または以下をも表現され得る。」というのは、どうしてそういえるのですか。
「このことは、けっしてこの形態の欠陥ではなく、・・・適当な形態にするのである。」という意味がわかりません。
答3-7:労働の生産力が変わらず、需要と供給の均衡が保たれていれば、普通は、商品の価値量と価格が一致しないと言うことはないでしょうが、過渡期には、そういうことが起こりえます。例えば、何かの都合で需要と供給のバランスが崩れ、需要が供給を上回った場合、商品の価値量は変わりませんが、商品の価値が過大評価され、一時的に値上げが起こるでしょう。逆に、需要が供給を下回った場合、商品の価値が過小評価され、値下げが起こるでしょう。また、新たな商品が出現して、それに対する国内の需要がわからない場合、生産者は商品価値に見合った価格を付けようとするでしょうが、需要が定まるまで、しばらくは実際の市場の需要の如何によっては、価格は価値より上がったり下がったりせざるを得なくなるでしょう。逆に、既存の商品の代替商品が出現して、既存の商品の需要が大きく落ち込んだ場合にも、既存の商品の値下げが起こるでしょう。特に、国外からの輸入に大きく依存している商品については、商品の価値は変わらなくても、国内の需要に応じて、商品価値の過大評価や過小評価が頻繁に起こりえます。
いずれの場合も、商品に支出された社会的労働時間は変わりません。「商品の価値量は、社会的労働時間にたいする或る必然的な、その商品の形成過程に内在する関係を表している」からです。しかし、そういう過渡期の場合、「与えられた事情のもとでその商品が手放される場合の価値量以上または以下をも表現され得る」のです。過大評価された商品は、供給が増え、過小評価された商品は、供給が減るでしょう。そうして、新たな需要と供給のバランスが回復するのです。
このことは、商品生産の社会では、商品価値量と価格表現の不一致によって、社会の需要と供給のバランスが保たれるということを意味します。今までの議論では、商品は価値通りに交換されるという等価交換を原則にしてきましたが、こういう過渡期には、不等価交換が起こるのです。しかし、それでも商品の交換はできますから、大きな意味では商品交換は維持されています。過渡期を経ない平衡状態は、ありえません。ですから、このような過渡期の「価格と価値量の量的な不一致」は、商品交換にとって本質的なものです。(商品交換は、等価交換と不等価交換の・矛盾した二つの過程の統一です。)
ではなぜ、商品の価値量に対して、価格が一致しなくなるというようなことが起こり得るのでしょうか。それは、価格が、価値尺度としての金商品の表象だからです。価格は、他の商品の内在的な価値が、金商品を価値尺度にするという第一段階と、価値尺度の金商品が、他の商品に価格を与えると言う第二段階の手続きを経て、決められますから、金商品が価値尺度として成立しているという第一段階を前提する場合、商品に価格を付けるのは、金商品を表象とするだけでよく、値札に金商品の重量を記載するだけで十分だからです。
今までの議論では、その前提となる社会が、答48で説明したように、「互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に互いに依存しあう私的諸労働が、絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合を通じて、それらの生産物の生産に社会的に必要な労働時間が、・・・規則的な自然法則として協力に貫かれる」ということでした。すなわち、商品の価値法則を通して、労働の生産力に見合った私的諸労働の社会的均衡が保たれると言うことでした。商品に価格がつけられると、労働の生産力に変動がなくても、価格の価値量との不一致を通して、私的諸労働の社会的均衡が保たれるようになることを意味しています。このことは、「そこでは原則がただ無原則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれるような生産様式」の社会であり、その社会では、商品の需給のバランスを保つために、この「価値量からの価格の偏差の可能性」を本質的に持っている「価格形態」というものが、「適当な形態」であることを証明しています。

問3-8:(第19段落)「ある現実の価値関係、またはこれから派生した関係をひそませている」というのは、どういうことを言っているのですか。
答3-8:「人間労働が対象化されていないので少しも価値のない未開墾地」が例として挙げられていますが、それに価格がつけられるというのは、価格は金商品の表象であり、「想像されただけの、すなわち観念的な、貨幣」ですから、今は労働が対象化されていないので価値を持っていませんが、将来労働が対象化され価値が発生することを見越して、価格を付けられるということを示しています。すなわち、未来の価値発生を見積もっているということです。それはまた、未来の労働の対象化が、未来の所有関係を引き起こしますから、それを「ある現実の価値関係、またはこれから派生した関係をひそませている」と表現したものと思います。

問3-9:(第20段落、第21段落)ここでは、答2-6で説明されたことからして、商品が貨幣に変換される、つまり、商品の販売のことをいっているようですが、「化体」とか「ヘーゲルの概念にとっての必然から自由への移行」とかいっているのは、どういう意味ですか。
「価格形態は、貨幣とひきかえに商品を手放すことの可能性とこの手放すことの必然性とを含んでいる。」「観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしているのである。」というのは、どういうことを言っているのですか。
答3-9:あなたが思っているように、ここでは商品の販売が語られています。しかし、そのポイントを比喩で表しているのですが、現在では、やや理解が難しい比喩となっているようです。
「商品はその自然の肉体を捨て去って、ただ想像されただけの金から現実の金に転化」するというのは、商品が、価格に表示された通りの金(貨幣)に転化する、すなわち商品の販売ということです。答2-6に示したように、弁証法では、このような飛躍的過程を、否定といいます。ここでは、それを商品の変身=「化体」という表現で表しています。問35で、特殊から一般への飛躍を止揚と言い換えましたが、これも同じ意味です。いずれも、形式的には否定するが内容的に保存するという過程を通して、二重化した世界の一方から他方への飛び移りを表しています。
ヘーゲル論理学においては、主体である精神が、宇宙のどこかに時間と空間を超越して、概念という形式において、自己を展開していると考えます。それは、哲学者ヘーゲルの頭の中だけで起こっているに過ぎないのですが、そういう概念の自己発展を「論理学」としています。「ヘーゲルの『概念』にとっての必然から自由への移行」というのは、その概念が、「論理学」の中で理念にまで到達し、その後、自己を否定して「自然」へ飛躍することを表しています。「ざりがににとっての殻破り」つまり脱皮や、「教父ヒエロニュムスにとっての原罪の脱却」も、同じくそういう否定の例えです。 そういう否定の過程を通過するためには、商品は、単に使用価値と価値の直接的同一(答26)のままではダメで、内的な対立を外的な対立にまで展開(答32)し、内在する価値に価格という形態を与えなくてなりませんでした(答42)。こうしてはじめて、否定=止揚の準備が整ったわけです。価格形態というのは、実際に商品が交換される貨幣の割合を表しているのですから、商品に価格を付けると言うのは、販売者にとって、商品を販売すると言う確固たる意志をも表しているわけです。「価格形態は、貨幣とひきかえに商品を手放すことの可能性とこの手放すことの必然性とを含んでいる。」価格形態を持った商品は、もう後は飛躍して商品から貨幣へ変身するだけです。だから、「観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしているのである。」

第1篇第3章第2節 a.商品の変態

問3-10:(第1段落)「商品の発展は、これらの矛盾を解消しはしないが、それらの矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす。これは、一般に現実の矛盾が解決される方法である。」と書いてあります。弁証法で言う矛盾の解決ということが、こういうことなのですか。
答3-10:ここでは、弁証法の核心ともいうべき矛盾の解決が、端的に書かれています。
答26、答32にも書きましたが、矛盾というのは、一つの物(者)の中に異なった性質が存在すること、つまり、一つの物が対立を背負っていることです。これをレーニンは、対立物の統一と表現しています。
矛盾というと不合理なことと考えるのが常識です。どんな盾(たて)でも突きとおす矛(ほこ)と、どんな矛でも跳ね返す盾を売っている商人が、「その矛でその盾を突いたらどうなるか」と問うた客の答えに窮したという故事から、両立しない不合理な主張を矛盾というようになったと言われています。
もちろん、そういう矛盾もあります。この場合の矛盾の解決法は、客のいったように、その矛でその盾を突いてみることです。どんな盾でも突きとおす矛と、どんな矛でも跳ね返す盾と、どちらかが間違っているのですから、どちらが正しいのかをはっきりさせるのが、正しい解決法です。
こういう種類の矛盾としては、例えば、資本家と労働者の関係のように、資本家の取り分が増えれば労働者の賃金が減ると言う、あちら立てればこちら立たずという敵対的な関係などです。これは、一つの社会が、資本家階級と労働者階級という対立物を背負っているからです。こういう場合には、矛盾の解決は、矛盾を破壊し、それによって矛盾を解消・克服することです。労働者階級が資本家階級を打倒することです。
しかし、弁証法で言う矛盾というのは、そういう矛盾だけではありません。矛盾を破壊し克服へ媒介することが解決であるような矛盾ばかりではなく、矛盾の実現が直接に矛盾の解決であるような矛盾もあります。マルクスは、ここで、このような矛盾の例として、楕円を挙げています。例えば、太陽の周りをまわる惑星の軌道を、ニュートンの運動方程式と万有引力の法則から求める問題を考えてみてください。軌道上にある惑星は、太陽に万有引力で引っ張られていますから、「1物体が絶えず他の1物体に落下し」ています。しかし、一方、惑星はある一定の運動エネルギーを持っていて、太陽から「同時に絶えずそれから飛び去る」運動をしています。この正反対の運動の兼ね合い・バランスが、惑星に太陽の周りを回る楕円軌道を描かせるのです。この場合には、楕円軌道上の惑星は、万有引力で牽引される運動とそれに反発して飛び出そうとする運動との矛盾を維持しています。つまり、「楕円は、この矛盾が実現されるとともに解決される諸運動諸形態の一つ」なのです。この例のように、矛盾の実現が同時に解決であるような矛盾は、その矛盾を実現するための運動諸形態を描き出すことが大切なのです。(楕円軌道の例について詳しく知りたい方は、エンゲルス「自然の弁証法」の「運動の基本諸形態」などを参考にしてください。)
ただ、解消・克服が解決であるような矛盾と、実現が解決であるような矛盾と、それほど明確に区別できるわけではありません。むしろ、究極的には克服すべき矛盾であっても、その過程で、実現が解決であるような矛盾が媒介的に派生したり、そういう矛盾と絡み合ったり、ということがしばしば起こることで、矛盾の運動を可能にするような形態が媒介されることによって、解消すべき矛盾が一時的に解決されるということが起こりえます。
そのような運動諸形態の論理的構造として、3つの典型的な様式があります。それが、弁証法の3定理なのです。
このモデル=典型例は、エンゲルスが、ヘーゲル研究から導き出したものです。マルクスは、ヘーゲルの弁証法を取り出して科学として確立し、それを使って「資本」の研究を行いました。一方、エンゲルスは、当時の自然科学の最新の成果を検討しながら、更に科学としての弁証法の検討を続けました。残念ながら、その成果は著作として出版されませんでしたが、その遺構が「自然弁証法」として残されています。
その中で、弁証法の法則を、3つの主要な法則に帰着させました。
1.量から質への転化、及びその逆、の法則
2.対立物の浸透の法則
3.否定の否定の法則
この法則は、矛盾が運動の原理であるという法則に対して、数学や物理学で言う定理に相当するので、ここでは3定理として記述しています。
商品は、使用価値と価値という対立を背負っています。この場合、使用価値と価値のどちらかを失ってしまうと、それは商品ではありません。商品であるためには、使用価値と価値の矛盾を維持しなくてはなりません。その結果、問2-3、問2-4、問2-5で見たように、商品の交換過程で、1番目から4番目までの矛盾が出て来ました。この矛盾を解決するためには、矛盾を実現すること、すなわち「それらの矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす」ことが必要です。
1番目の矛盾と2番目の矛盾の実現は、直接的生産物交換、すなわち物々交換の定着が解決法でした。3番目の矛盾と4番目の矛盾の実現は、定期市の開催、または、貨幣の媒介による商品交換が解決法でした。まとめると、物々交換から、貨幣を媒介にした商品交換への移行というのが、「矛盾の運動を可能にするような形態」というわけです。
それが、答2-6で示したように、対立物の相互浸透と否定の否定の運動の成立なのです。

敵対的な矛盾について説明しましたので、ここで注意を促しておくことがあります。
それは、階級間の敵対的な政治闘争が歴史を動かす原動力であるという階級闘争史観について、です。
これは、エンゲルスの晩年にもすでに出て来ていた考え方ですが、レーニンが対立物の闘争を絶対的と規定したことから、これこそマルクス主義であるとして流布された歴史観です。レーニンは、このような観点から、国家を、階級独裁の暴力機関として解釈してしまいました。(答3-5)
このような歴史観は、レーニンが「国家と革命」で詳細に展開したことから、これをマルクスやエンゲルスの理論と勘違いしている人も多いと思いますが、それは、まったくの誤解です。
マルクスやエンゲルスの時代には、知識人の間では、ヘーゲルの観念論的歴史観が常識であり、支配的階層では、それが国家公認の思想でした。それによれば、観念論に従って、物質より精神が優位にあるとされ、歴史観においても、政治や宗教など人々の精神的動機の背後に絶対精神の世界史的な自己展開があって、それが実際の歴史を動かす究極の原動力であるとされていたのです。マルクスらは、その歴史観に対抗して、物質的な生活こそ精神的生活に対し優位に立っているのであって、人々を動かす意欲・意志・目的などの精神的動機の背後にあるのは、物質的生活の経済的展開であって、そこにこそ歴史の究極の原動力を求めるべきとしたのです。
彼らは、社会を建築物に例え、物質的生活を土台、精神的生活を上部構造と説明しています。実際の建物の場合ならば、土台と上部構造を切り離して考え、両者を関係のない2者に分けることもでき、例えば、上部構造のない土台を想定することもできますが、この場合は、そういうことを言っているのではありません。精神を持たない人間がいないように、物質的生活と精神的生活とを切り離して考えることはできません。物質的生活と精神的生活と切り離すのではなく、両者を切り離しえない矛盾として把握した上で、物質的生活の方が優位に立つとし、国家や法や宗教など精神的生活は、その上に立つ上部構造に過ぎないとしたのです。ですから、階級間の政治的対立が直接的に歴史を動かす原動力とするのではなく、その背後にある物質的・経済的生活の生産関係の諸条件の変化から、それを説明することが大切なのです。
ところが、マルクス・エンゲルスがいなくなって時代が下り、労働運動・社会主義運動が社会的支持を得てその裾野を広げ国家権力と対峙するようになると、レーニン・スターリン流の階級闘争史観が、マルクスらの唯物論的歴史観に取って代わるようになりました。マルクス・エンゲルスが特に強調した部分は、本来はヘーゲルの歴史観に対してその違いを際立たせるためでしたが、ヘーゲルが忘れ去られると共に、それが、階級闘争史観に理論的基礎を与えるかのように誤解されたのです。
階級闘争は、政治的闘争という形態を取ります(「フォイエルバッハ論」)が、そもそも闘争を引き起こす階級分裂の背景には、彼らがそれを意識しているかいないか(多くの場合意識されていない)にかかわらず、社会的分業の法則、すなわち、特殊な階級間の経済的役割分担があるのであって、政治的闘争は、その精神的反映の結果に過ぎません。しかし同時に、表面的・政治的にいかに対立していようとも、階級間の物質的関係には相互の依存関係が存在し、それが階級間の相互浸透の基礎構造を形成しているのです(答17、答42)。(この相互浸透の展開度合を規定するのが、労働の生産力と生産関係の発展程度です。)歴史を動かす究極の原動力というのは、この法則なのであって、ここから歴史の運動を説明するのが、正しい唯物論的歴史観です(答50)。国家の成立も、それによって説明されます(答3-5)。
階級闘争史観の誤りは、マルクス・エンゲルス自身が証明しています。労働者階級は、日々の賃金を稼ぎそれを生活資料に変えて家族を養うのに汲々としていますから、自身が属する階級の解放の理論など、自ら作り出す物質的・精神的手段を持ちません。それでは労働者の政治的解放など、到底望めるものではありません。ですからそういう理論は、一人の天才か多くの人々の尽力によるかは別として、ブルジョア階級の中からブルジョア階級自身が作り出し、それを労働者階級の中に持ち込むしか方法がないのです。マルクスやエンゲルスは、唯物論的歴史観に則り、自らの歴史的使命を自覚しそれを果たすべく、自らの生涯をそれに捧げたのです。それは、レーニンも同じです。労働者階級を指導し、階級として政治的運動をすると言うのは、労働者自身ではなしえません。それは、ブルジョア階級の中から出てきた指導者でなければなしえません。レーニンも、自らの歴史的使命を自覚し、その仕事に自らの生涯をささげたのです。この事実こそ、資本家階級と労働者階級の相互浸透の定理の見事な証明なのです。
宗教や法や国家などの精神的生活形態を議論する場合には、物質的・経済的生活の生産関係における矛盾の反映という観点から取り上げました(答31、答47、答54、答3-5)。一方、物質的生活を議論する場合には、それに伴う精神的生活の側面をも取り上げることが必要です。すでに議論して来たように、それぞれの商品の背後には、所有者・生産者が控えており(答10)、商品の交換過程では、それらの商品の人格化として、販売者が前面に出て来ました(答2-1)。マルクスは、「資本論」の中では、人を「経済的諸関係の人格化」の観点からしか考慮していませんが、それは精神的生活に対し、経済的側面からしか光を当てる必要がなかったからです。一部の経済学者の中には、「資本論」の解釈において、精神的要素を排除ないし無視する必要性を訴える向きもあるようですが、決して、精神を無視して「商品」が議論できるというわけではありません(答45)。商品が人間の活動において発生するものである以上、商品を取り挙げるならば、精神的側面は必然的に取り挙げざるを得ません。このことを忘れないでください。

問3-11:(第2段落、第3段落)「諸商品の形態変換または変態」、「素材的な契機だけを固執するならば、まさに見るべきもの、すなわち形態上におきるもの」といわれていて、「形態」が強調されていますが、商品交換前後の二つの商品と貨幣の「形態」のことでしょうか。
また、これ以降の段落には、やや変に感ずる表現はありますが、内容的には、あまり難しいところはありませんが。
答3-11:そうですね。初心者には、いままでの節の内容が難しすぎたように思います。でも、ここまで努力して読み進んでこられたのですから、そのかいあって、これからは比較的やさしく感じても当然かもしれません。もうすこし進んだら、再度初めの部分を読み直してみてください。あなたの努力の積み重ねの量が質に転化して、今まで難しいと感じていたところもやさしく感ずるかもしれませんよ。
さて、ここでは、否定の否定の定理(論理)が、商品交換という形態を通して、全面的に取り上げられています(答2-6)。そこで、この定理について、改めて説明しましょう。この定理の理解には、最適の参考書があります。それはエンゲルス「反デューリング論」の「12弁証法。否定の否定」です。この定理についてご存じない方は、まずこの本のこの部分をよく読んでいただくことにしましょう。その中に、この定理の多くの例が書かれています。ここでは、その中の一例を挙げましょう。
「大麦の粒をとってみょう。幾兆のこういう大麦粒は、引き砕かれ、煮たきされ、醸され、それから食われる。だが、もしこのような大麦の一粒が、それにとって正常な条件に出会えば、つまり好適な地面に落ちれば、熱と湿気との影響を受けて特有の変化がそれに起こる、つまり発芽する。麦粒はそれとしては消滅し、否定され、それに代わって、その麦粒から生じた植物、麦粒の否定が現われる。だが、この植物の正常な生涯とはどういうものか? それは生長し、花をひらき、受精し、最後にふたたび大麦粒を生じる。そして、その大麦粒が熟するというと、たちまち茎は死滅し、こんどはそれが否定される。こういう否定の否定の結果として、ふたたびはじめの大麦粒が得られるが、しかし、一粒ではなくて、10倍、20倍、30倍の数で得られる。穀物の種はごく徐々にしか変化しないから、今日の大麦は100年まえのそれとほとんど同じである。だが、改良性に富む観賞植物、たとえばダリアか蘭をとってみよう。もしわれわれが種子とそれから生じる植物とを園芸家の技術によって処理するなら、この否定の否定の結果として、より多くの種子が得られるだけでなく、またより美しい花を咲かせる、質的に改良された種子が得られる。そして、この過程が繰りかえされるたびに、つまり新しい否定の否定のたびに、この完成化が高まっていくのである。」
弁証法では、すでに単なる否定も、形式は否定するが内容は保存するという矛盾した過程ですが、その否定が、ここでは二つ出て来ます。最初に、一つの大麦粒が発芽によって否定されます。発芽した大麦は成長し受粉し死滅によって、否定されます。その結果、多数の大麦粒が得られました。否定の否定というのは、一つの否定だけではどうにも獲得できない成果を、二つの否定によって得ようとする一般的な過程なのです。
否定によって区切られる継続する過程は3つあることになります。第1の過程が、ある点で否定されます(第一の否定)。それによって第2の過程が開始されます。第2の過程が継続してある点に到達すると、否定されます(第二の否定)。そこから第3の過程が始まります。では、否定によって何が否定されたのでしょうか。それは、第一の否定では大麦の種という形態・特殊な形式であり、第二の否定では大麦の成長した植物体という形態であり、大麦という普遍的内容は保存されています。また、形態に視点を置くなら、第1の過程と第3の過程の形態は同一です。第1(3)の過程と第2の過程では、過程の質・レベル・世界が違っており、否定は、異なったレベルの間の飛躍です。しかし、再び同じレベルに戻って来るという意味では、第一の否定も第二の否定も、同一の側面を持っています
しかし、大麦粒が、「引き砕かれ、煮たきされ、醸され、それから食われる」という否定の仕方もあり得ます。エンゲルスは、これに対し、次のように書いています。「ただ否定するだけでなく、その否定をふたたび揚棄しなければならないのである。だから、第一の否定は、第二の否定がなお可能であるような、あるいは可能となるような仕方で、処理されなければならない。どうすればよいのか? それぞれの場合の特殊的な性質におうじてそれをおこなうのである。もし大麦粒を引き砕き、昆虫を踏みつぶすなら、なるほど第一の行為はなされたが、第二の行為は不可能になってしまう。こういうわけで、どういう種類の事物についても、そこから発展が生まれてくるような、それ独特の否定の仕方があるのであって、このことはまたどういう種類の観念や概念にもあてはまる。」この一連の過程によって、一つの大麦粒が多数の大麦粒へ転換する、すなわち、第一の否定が第二の否定によって媒介され・発展が生まれてくるような否定でなければならないのです。ここに第一の否定と第二の否定の媒介的統一が存在します。
ところで、否定の否定は、ここで終わりというわけではありません。第一の否定と第二の否定は、矛盾を背負っています。そこから、第1の段階と第3の段階の結合が発生し、それが循環構造へ繋がる可能性を開きます。これが発展形態へ移行すると、螺旋的な形態へと導かれます。反対に、第一の否定と第二の否定が逆になり、第二の否定が先行し第一の否定へとつながると、別の過程が分離され、否定の否定が二つになります。そこから、二つの否定の否定が矛盾した統一へと展開することにもつながり、二つの過程が相互浸透の関係に置かれることにもなります。すなわち、否定の否定は、それ自身を否定して、更に発展を続けると言うわけです。
以上が、否定の否定の定理の内容です。以上を踏まえて、第2段落以降を見て行きましょう。
第2段落では、商品交換の目的および結果は、直接的生産物交換=物々交換と同じ、すなわち、生産物の入れ替わり=形態変換ということです。すなわち、結果だけを見ると、一つの否定だけの場合と同じというわけです。
商品の交換では、価値量は変化していません。交換の前後で同一を保っています。しかし、その形態は、ある商品の特定の使用価値→貨幣商品→別の商品の使用価値という風に、変化しています。これは、単なる形態の変化というより、異なるレベル・異なる世界の間の飛躍を表しています。ここで中間の貨幣には金が使われていますが、それは歯科診療や装飾品に使われる使用価値としての金ではなく、あくまで一般的等価物としての貨幣商品としての金であることに注目するよう、「素材的な契機だけに固執するならば、まさに見るべきもの、すなわち形態の上に起きることを見落とすことになる」と注意を促しています。あなたが、理解している通りです。

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問3-12:(第4段落)「金材料は実在的には交換価値である。その使用価値は、その実在の使用姿態の全範囲としての対立する諸商品にそれを関係させる一連の相対的価値表現において、ただ観念的に現われているだけである。」金は、貨幣商品ですから、その使用価値は存在しないのではないですか。貨幣の使用価値というのは、どういう意味ですか。
答3-12:交換過程の中で議論したように、物々交換では、第1の矛盾から第4の矛盾(答2-3、答2-4、答2-5)が発生しました。そこで、貨幣が必要になるのですが、商品と貨幣の交換がスムースに進むためには、交換の双方に、そのための用意が必要です。
商品、例えば20エレのリンネルの側には、それが単なる労働生産物ではなく、単なる使用者の私物でもなく、生産者・私有者の販売品であるということが明確に示されていなくてはなりません。それが販売品であるという(商品の人格化としての)商品所持者の意志が20エレのリンネルの上に表されたのが、リンネルに付けられた値札です。その値札には、2オンスの金の表象(2オンスの金の写真であってもかまわない)=価格が示されています。「その価値存在は価格においてただ観念的に現われているだけである。そして、この価格が商品を、その実在の価値姿態としての対立する金に、関係させている。」すなわち価格は、使用価値としての商品を、これから交換する貨幣の、実在する価値としての側面に、媒介する役割を持っています(答3-3)。
ここで「観念的」という表現の意味を、しっかり理解することが大切です。人の精神は、物質的世界を、ただ受動的に反映するだけではありません。もし、精神が、単に受け身的に、外界の世界を反映するだけとするならば、人は生活できなくなります。自分自身を守るために危険を察知するという能力にしても、今は起こっていないが未来に起こるかもしてない危険を、現実の中から嗅ぎ取って、実際に起こるより先に頭の中に反映(予想)させることです。意志というものも、これからやろうとすることを、頭の中に能動的に想像することです。日曜大工で机を作ろうとするならば、完成した机の頭の中に思い浮かべ、机を作る意志を確かなものにしなければなりません(答2-1)。無論、能動的に想像するための材料は、現実の世界から選び取って来るわけですが。ですから、このような能動的な認識も、現実世界の反映なのです。「観念的」という表現は、物質的な実現に先行して、現実にはまだ実在していないものを精神的に実現する、つまり、実在を頭の中で想像し、更に現実の方が想像と一致するよう要求すると言う意味を含んで使われています。価格の表象を、実在化するよう要請しているのです(答3-4)。商品の側の価格は、貨幣の側の実在である価値=一般的等価物の側面の観念的反映なのです。
一方、貨幣の側にも、装飾用などの使用に用いるのではなく、価値の権化・一般的等価物・価値尺度としての金であるということが、明確に示されていなくてはなりません。それは、金に「その独自な社会的機能から生ずる一つの形態的使用価値」(答2-8)、つまり、実際の金貨としての形態を取らせることによってなされましたが、それが意味しているのは、金が同じ価値を持つ諸商品といつでも交換する用意があるという(貨幣の人格化としての)貨幣所持者の意志です。この形態の内容は、「C.一般的価値形態」で表現されたように、一般的等価物の価値が、2オンスの金=20エレのリンネル、2オンスの金=1着の上着、・・・・という他の商品の無限の列での相対的な表現に表されます。すなわち、その意志は、「その実在の使用姿態の全範囲としての対立する諸商品にそれを関係させる一連の相対的価値表現において、ただ観念的に現われている」のです。すなわち貨幣の相対的価値表現は、一般的等価物としての金を、これから交換する諸商品の、実在する諸使用価値としての側面に、媒介する役割を持っているのです。言い換えれば、貨幣の側の相対的価値表現は、商品の側の実在である諸使用価値の側面の観念的反映なのです。
商品は、使用価値と価値(価格)の直接的同一ですが、貨幣も、リンネルや上着のような一般の商品と同じように、使用価値と価値の直接的同一です(答3-1)。ただし、使用価値は、「形態的使用価値」に、価値は、一般的等価物になっています(答3-2)。
こうして商品と貨幣との双方を比較すると、商品では、使用価値は実在的ですが、価値は価格として表現されるので観念的です。反対に、貨幣としての金は、価値は価値実体として実在的ですが、使用価値は観念的です。一方が実在的であるものが、他方では観念的であり、一方が観念的であるものが、他方では実在的です。「両極のそれぞれに逆に表されて」います。このような直接的同一と媒介的統一の統一構造が、答42で説明したように、対立物の相互浸透の基礎構造です。この段落では、この相互浸透の構造を、再確認しているのです。こうして、商品と貨幣の交換のための準備が整ったのです。

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問3-13:(第5段落〜第22段落)素直に読めば、難しいところはありません。ところで、ここで展開されている論理を説明してください。
答3-13:おそらく、書かれている内容についてはすんなりと理解できているでしょうから、少し長くなりますが、段落に沿って、論理的な説明を加えて行きましょう。
第5段落から第8段落では、第4段落を踏まえ、否定の否定の進行過程が例示されています。それが、@ 20エレのリンネル→2ポンド・スターリング→家庭用聖書という交換過程です。
第一の否定:商品の貨幣への転化:商品保持者の売り:商品W→貨幣G
第二の否定:貨幣から商品への再転化:貨幣所持者の買い:貨幣G→商品W
否定の否定の全運動:買うために売る:商品W→貨幣G→商品W
この否定の否定の意味が「買うために売る」であるということは、第二の否定は第一の否定を媒介するために存在するのであり、とりもなおさず、第一の否定と第二の否定の媒介的統一を示しています。それによって、物々交換:商品W→商品Wが陥らざるを得なかった矛盾を実現すると同時に解決したのです。
次の第9段落では、まず、W―G、販売、が考察されます。この文の中で、分業について述べられていますが、おそらく今まで学んできた読者には、容易に理解可能でしょう(答11、答48、答3-7)。ただ、第10段落の「商品所持者たちは、彼らの独立の私的生産者にするその同じ分業が、社会的生産過程とこの過程における彼らの諸関係とを彼ら自身から独立なものにするということを発見するのであり、人々の相互の独立性が全面的な物的依存の体制で補われていることを発見するのである。」ということに注意してください。「人々の相互の独立性が全面的な物的依存の体制で補われている」というのは矛盾ですが、このような独立と依存の関係を、相対的独立といいます。このように人々が、経済的に相対的独立をしたということは、中世の封建性の縛り(答46)から解放されたと言うこと、また、それによって労働の生産力が増加するという意味を持ちます。「分業は、労働生産物を商品に転化させ、そうすることによって、労働生産物の貨幣への転化を必然にする。同時に、分業は、この化体が成功するかどうかを偶然にする。」
ところが、第12段落では、リンネル所持者の第一の否定が、貨幣所持者の側から見ると、第二の否定に相当すると言われます。どういうことでしょうか。
「商品の価格の実現、または商品の単に観念的な価値形態の実現は、同時に、逆に貨幣の単に観念的な使用価値の実現であり、商品の貨幣への転化は、同時に貨幣の商品への転化である。この一つの過程が二面的な過程なのであって、商品所持者の極からは売りであり、貨幣所持者の反対極からは買いである。言い換えれば、売りは買いであり、W―Gは同時にG―Wである。
少しややこしくなってきました。「売りは買い」であると言うのは矛盾しています。その意味は、第13段落で明らかになります。
「いま、われわれのリンネル織職が自分の商品を手放して得た二枚の金貨は、1クウォーターの小麦の転化された姿であると仮定しよう。リンネルの売り、W―Gは、同時に、その買い、G―Wである。しかし、リンネルの売りとしては、この過程は一つの運動を始めるのであって、この運動はその反対の過程すなわち聖書の買いで終わる。リンネルの買いとしては、この過程は一つの運動を終えるのであって、この運動はその反対の過程すなわち小麦の売りで始まったものである。・・・1商品の第一の変態、商品形態から貨幣へのその転化は、いつでも同時に他の1商品の第二の反対の変態、貨幣形態から商品へのその再転化である。
つまり、リンネルの売り=販売は、小麦の販売者の買い=購買に相当するということになります。リンネル所持者の第一の否定は、小麦所持者の第二の否定と、直接的同一というわけです。
A 1クウォーターの小麦→2ポンド・スターリング→20エレのリンネル
第14段落では、G―W、購買が考察されます。「商品の第二の、または最終の変態、買い」ところが、「G―W、買いは、同時に、売り、W―Gである。したがって或る商品の最後の変態は、同時に他の1商品の最初の変態である。われわれのリンネル織職にとっては、彼の商品の生涯は、彼が2ポンド・スターリングを再転化させた聖書で終わる。しかし、聖書の売り手は、リンネル織職から手に入れた2ポンド・スターリングをウィスキーに替える。G−W、すなわちW−G―W(リンネル−貨幣−聖書)の最終変態は、同時にW−G、すなわちW−G−W(聖書−貨幣−ウィスキー)の第一段階である。」(第15段落)
つまり、リンネル所持者の第二の否定は、聖書所持者の第一の否定と、直接的同一ということです。
B 家庭用聖書→2ポンド・スターリング→ウィスキー
「そこで今度は、ある商品、たとえばリンネルの総変態を考察するならば、まず第一に目につくのは、それが、互いに補いあう二つの反対の運動、W−GとG−Wとから成っているということである。商品のこの二つの反対の変態は、商品所持者の二つの反対の社会的過程で行なわれ、商品所持者の二つの反対の経済的役割に反射する。売りの当事者として彼は売り手になり、買いの当事者として買い手になる。・・・だから、売り手と買い手とはけっして固定した役割ではなく、商品流通のなかで絶えず人を取り替える役割である。」(第16段落)「一商品の総変態は、その最も単純な形態では、四つの極と三人の登場人物とを前提する。・・・第一の商品変態の終点として、貨幣は同時に第二の変態の出発点である。こうして、第一幕の売り于は第二幕では買い手になり、この幕では彼に第三の商品所持者が売り手として相対するのである。」(第17段落)
まとめると、「商品変態の二つの逆の運動形態は、一つの循環をなしている。」(第18段落)(循環というのは、W−G−Wとして、Wから出発してWに戻って来ることを意味しています。)「ある一つの商品の循環をなしている二つの変態は、同時に他の二つの商品の逆の部分変態をなしている。」「こうして、各商品の変態列が描く循環は、他の諸商品の循環と解きがたくからみあっている。この総過程は商品流通として現われる。」(第19段落)
A 1クウォーターの小麦→2ポンド・スターリング→20エレのリンネル
@ 20エレのリンネル→2ポンド・スターリング→家庭用聖書
B 家庭用聖書→2ポンド・スターリング→ウィスキー
リンネル所持者の第一の否定と第二の否定とは、媒介的統一ですが、リンネル所持者の第一の否定は、小麦所持者の第二の否定と直接的同一です。また、リンネル所持者の第二の否定は、家庭用聖書所持者の第一の否定と直接的同一です。この直接的同一と媒介的統一の統一構造が、否定の否定の構造なのです。この総過程が循環であり、商品流通です。
「否定の否定というのは、一つの否定だけではどうにも獲得できない成果を、二つの否定によって得ようとする一般的な過程」といいましたが、商品流通は、直接的生産物交換と比べて、どういう違いがあるのでしょうか。
「商品流通は、ただ形態的にだけではなく、実質的に直接的生産物交換とは違っている。・・・リンネル織職は無条件にリンネルを聖書と、自分の商品を他人の商品と、取り替えた。・・・聖書の売り手は、聖書とひきかえにリンネルを手に入れようとは考えもしなかったし、リンネル織職も小麦が自分のリンネルと交換されたことなどは知らないのである。」「商品流通では、一方では商品交換が直接的生産物交換の個人的および局地的制限を破って人間労働の物質代謝を発展させるのがみられる。他方では、当事者たちによっては制御されえない社会的な自然関連の一つの全体圏が発展してくる。」(第20段落)「それだから、流通過程はまた、直接的生産物交換のように使用価値の場所変換または持ち手変換によって消えてしまうものでもない。貨幣は、最後には一つの商品の変態列から脱落するからといって、それで消えてしまうのではない。それは、いつでも、商品があけた流通場所に沈澱する。」(第21段落)
物々交換から商品流通への発展は、単なる二つの商品の交換ではなく、多数の商品の交換として表れてきます。それは、物々交換では直接的に同一であった販売と購買を二つに分裂させ、相互に関連させるということです。ここに、直接的同一から媒介的統一への弁証法的展開が見られます。このような論理的発展は、一般的です。エンゲルスは、「反デューリング論」「12弁証法。否定の否定」の中で、「マルクスが用いている」弁証法的論法として「その本性において敵対的で矛盾を含んでいる過程、一つの極端からその反対物への転化、最後に、全体の核心としての否定の否定」と言っています。こうして、貨幣が導入されることによって、直接的生産物交換の個人的および局地的制限を破ることができ、流通の拡大が可能になるのです。

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問3-14:(第22段落)論理的な意味がわかりました。では、次の文は、どういう論理的意味ですか。
「独立して相対する諸過程が一つの内的な統一をなしていることは、同様にまた、これらの過程の内的な統一が外的な諸対立において運動するということをも意味している。互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化が、ある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれる―恐慌というものによって。商品に内在する使用価値と価値との対立、私的労働が同時に直接に社会的な労働として現われなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ認められるという対立、物の人化と人の物化という対立―この内在的な矛盾は、商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取るのである。」
答3-14:ここは、「商品の変態」の最後のまとめの部分ですが、商品流通の中に、落とし穴が潜んでいることを指摘しています。
「独立して相対する諸過程」というのは、第一の否定、販売と、第二の否定、購買のことです。「一つの内的な統一」というのは、第一の否定と第二の否定の媒介的統一のことです。この媒介的統一は、媒介的ですから切り離すことができ、第一の否定の結果、「この過程が成功すれば、それは一つの休止点を、長いことも短いこともある商品の生涯の一時期を、なすということを含んでいる。商品の第一の変態は同時に売りでも買いでもあるのだから、この部分過程は同時に独立な過程である。」つまり、ここで流れを留めることができ、第一の否定と第二の否定が、「外的な諸対立において運動する」可能性を示しているのです。すべての諸商品が媒介的統一を保ちながら流通運動しているとして、その一か所ででも第一の否定が停滞することを考えてみてください。おそらく、交通ラッシュの交差点のように、たちどころに交通渋滞が起こるでしょう。「内的には独立していないものの外的な独立化が、ある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれる―恐慌というものによって。」ただし、「これまでのところでは、われわれの知っている人間の経済的関係は、商品所持者たちの関係のほかにはない。」のですから、あくまで恐慌は可能性としてだけですが。ここにも、長所は同時に欠点にもなるという弁証法があります。「流通は、生産物交換の時間的、場所的、個人的制限を破るのであるが、それは、まさに、生産物交換のうちに存する、自分の労働生産物を交換のために引き渡すことと、それと引き換えに他人の労働生産物を受け取ることとの直接的同一性を、流通が売りと買いとの対立に分裂させるということによってである。」
いままで、「商品に内在する使用価値と価値との対立、私的労働が同時に直接に社会的な労働として現われなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ認められるという対立、物の人化と人の物化という対立」を見てきました。ここで、「物の人化」というのは、「人々の経済的扮装はただ経済的諸関係の人化でしかないのであり、人々はこの経済諸関係の担い手として互いに相対する」(答2-1)ということ、例えば、商品販売者、商品購買者、貨幣所持者になるということです。「人の物化」というのは、貨幣が象徴的に表しているように、「交換者たち自身の社会的運動が彼らにとっては諸物の運動の形態を持つ」(答48)、人と人との関係が彼らの持つ商品の関係として現れるということです。「この内在的な矛盾」から出発して、直接的生産物交換の過程から販売と購買の過程への分裂へ、諸過程の独立へ、外的対立へ、外的独立化へ、そして恐慌へとの弁証法的発展の理論的根拠が示されているのです。
「商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能をもつことになる。」これは、新たな貨幣の機能の出現です。

第1篇第3章第2節b.貨幣の流通

問3-15:(第2〜4段落)貨幣が流通手段の機能を持つといわれ、また、ここで、購買手段と言われています。流通手段と購買手段というのは、どういう関係にあるのですか。また、第1段落〜第4段落で書かれていることは理解できますが、どうもなんとなくわかったような、わからないような感じを受けます。マルクスが言いたいのは、どういうことですか。
答3-15: 答2-6、答3-11で、否定の否定の定理を説明しましたが、その際、「商品と貨幣との世界の二重化」(答42)を取り挙げました。「二重化した世界」というのは、現実の世界とは異なった別世界、今では誰でも容易に理解できるように、ネットの世界、バーチャルリアリティのゲームの世界でしょうか、あるいは、イメージとしては、「鏡の国のアリス」(「不思議の国のアリス」の続編)でアリスが入り込んだ鏡の世界、映画館でスクリーンに映し出されたスターウォーズの世界、です。あなたは、問29でなにか引っかかった感じを持ったと思いますが、それは、結局、貨幣が、商品の特殊性を取り去った抽象的な価値の実現形態であり、そういうものは、現実の世界(商品の世界)には存在しないという感じをもったからなのです。あなたが持った感覚は、正しいのです。それは、商品の世界と貨幣の世界が、二重化しているという感覚なのです。
商品から貨幣が生み出されることによって、同時に、貨幣の世界が出現しました。貨幣の世界に住んでいるのは、貨幣という主人です。商品の世界と貨幣の世界との間には、否定=止揚という相互の交通が存在します。商品を売って貨幣を手に入れるという第一の否定によって、商品という現実の世界から貨幣の世界に飛躍します。また、貨幣を用いて別の商品を手に入れるという第二の否定によって、貨幣の世界から商品の世界へと回帰します。ですから、商品の世界から見ると、貨幣は、商品流通を媒介する手段です。これは、一般的等価物ないし価値尺度とは異なる別の機能であって、否定の否定という運動から生まれた新たな機能です。答3-12で、貨幣の使用価値は観念的であるということを説明しましたが、商品と貨幣が相互に相対しているだけであればそれでいいのですが、商品と貨幣の相互の転化による運動の場合には、それだけでは不十分です。貨幣の観念的な使用価値に、新たな実体的な形態=「形態的使用価値」=金貨という形態を与えねばなりません。その機能が、流通手段としての機能なのです。これは、商品を流通させるための手段であって、貨幣の流通のための手段ではありません。そこを間違えないでください。また、これは、商品の世界に立ってみるからそう言えるのであって、「同じ価値が商品として過程の出発点をなし、商品として同じ点に帰って来る」ということから、「貨幣がその出発点から絶えず遠ざかる」という結果をもたらすようにみえます。反対に、貨幣の世界に立ってみると、同じ機能が、商品の購買手段であるように見えます。流通手段と購買手段というのは、異なった世界の立場の違いによる、見え方の違いなのです。
世界が違えば、一方から見た見え方が、他方から見ると反対に見えることがあります。例えば、ネットのゲームの世界で遊ぶプレイヤーは、ゲームの世界に入り込んで遊んでいますが、プレイヤーの自由は制限されています。それは、ゲームの世界を作った製作者が設けたルールです。でもゲームの世界では、そういうルールは、プレイヤーにとってすでに与えられたものとして、どうにもならないものとして見え、時に自由にならない対象物の出現は、プレイヤーには「魔法」として感じられるでしょう。
同じようなことが、貨幣の世界にも言えます。「商品流通そのものの性質が反対の外観を生み出すのである。」「商品にとっては二つの反対の過程を含む同じ運動が、貨幣の固有の運動としては、つねに同じ過程を、貨幣とそのつど別な商品との場所変換を、含んでいるのである。それゆえ、商品流通の結果、すなわち別の商品による商品の取り替えは、商品自身の形態変換によってではなく、流通手段としての貨幣の機能によって媒介されるようにみえ、この貨幣が、それ自体としては運動しない商品を流通させ、・・・つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移していくというように見えるのである。・・・貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われるのである。」
それがどのように見えようとも、商品の矛盾から貨幣が生まれたのですから、貨幣の世界のルールは、商品の世界のルールによって、規定されるはずです。では、商品世界のルールが、貨幣の世界のルールにどのように反映されているのでしょうか。
「貨幣に流通手段の機能が属するのは、貨幣が諸商品の価値の独立化されたものであるからにほかならない。だから、流通手段としての貨幣の運動は、実際は、ただ商品自身の形態運動でしかないのである。」「同じ商品の二つの反対の形態変換は、反対の方向への貨幣の二度の場所変換に反映するのである。」
ただ、ここの論理的段階では、まだ、貨幣は商品に対して受動的であって、後で議論するように、能動的ではありません。あくまで、商品世界によって規定される貨幣の世界が描き出されています。
ここでの論理的段階をはっきり理解していただくために、国家の例と比較してみましょう。
答3-5で、国家を、「経済的土台と新たな政治的上部構造の二重化」として、大まかに説明しました。ここでは、国家の起源を、少し詳しく論理的に説明しましょう。
人は、労働対象に労働を対象化し、対象化した労働生産物を自分自身及び他人に再対象化することによって、物質的な生活の生産と再生産を社会的に行っています(答6、答11、答49、答50)。その際、労働の対象化によって、生産物と人(労働者)との間に、所有という関係が成立します(答45、答2-1)。その結果、生産物の交換および分配は、生産手段(労働対象および労働手段)に対する所有関係によって、決定づけられます。
人類の発展は、狩猟・漁撈の採取労働と自然発生的な共同体から出発しますが、初期に位置づけられる社会は、農耕生産を主とする村落共同体であり、そこでは生産手段としての土地の共同所有が行われ、それに基づいて、比較的平等な生産物の分配が行われていたとされています(答36、答52)。
人々の生産力が向上し、村落共同体に余剰生産物が発生し、それが共同体間の交換に委ねられるようになると、生産物と人との間に私的所有関係が形成されることになり、それが共同体の内部に反作用して、それぞれ個人および個々の家族を生産物の私的所有者とするようになっていき、こうして、共同所有に基づく共同体的な農耕生産は、個々人および家族の所有に基づく分割地農耕に分解されていきました(答2-7)。分割地農耕とそれと密接に結びついた簡単な手工業の生産社会である限りは、極端な経済的差別は現れないでしょうが、一旦始まった私的所有は自律的な運動を開始し、その結果、生産物の共同体的な分配が生産物の交換に席を譲り、貨幣が出現するに及んで、生産者の間に生産物の分配に差が現れ、それが次第に貧富の差となって現れるようになっていきました(答30)。
原始的な共同体では、血縁関係に基づく氏族制度の下で、人々の意志を決定するのは、長い間の社会的慣習によって形成された社会的規範であり、意志の対立を調整するのは自主的な当事者間であり、それに影響するのは世論だけという状況でした。それは、人々の間に、所有を巡る根本的な相反する利害関係が存在しないからでした。
しかし、共同所有が崩壊し、分割地農耕などの私的所有が一般的になると、人々の意志の対立を内部で調整することができなくなります。それは、個々の私的所有者および私的家族は、根本的に利害が対立しているからです。農地を含む労働手段を巡って、所有をどちらか一方に帰することを考えてみてください。一方の利益は他方の不利益になるので、利益を偏らせることなく解決するのは、難しくなるでしょう。そこで、共同体の秩序を維持するためには、当事者達の意志を調整し曲がりなりにも納得させる必要があり、そのため、当事者達の利害関係とは全く立場を異とする第3の立場の意志が必要とされるのです。スポーツの勝負の判定に、競技選手とは異なった客観的立場の審判員が必要とされるのと同じことです。個々の意志からは形式的に独立し、それぞれの個別的(および特殊的)意志を従属させる一般的意志、これが国家意志の端緒なのです。国家意志は、それまでの氏族制度と異なって、私的所有を公式に認めることが原則です。ですから、その裁定は、結局のところ、どちらか一方に経済的に有利な判断を与えることにしかなりません。そこで、内容的にはどうあれ、形式的には社会の普遍性=共通の利害の代表を標榜するという、どちらか一方に偏らない第3の意志としての体面を保たざるを得ません。そうでなければ、共同体に属するすべての人々の意志を従属させること=社会的権力による社会秩序を保てないでしょう。国家が第3権力と言われるのは、そのためです。
この第3の意志を担うのは、当初は氏族長または氏族連合の部族長、特に軍を指揮する部族長のはずです。それは、生産物と労働手段の獲得する最も容易な手段が、接する他部族への戦争であるからです。しかし、それがただ一人の指導者によろうと、集団的な会議の決定によろうと、第3の意志の内容には、共同体全員の個別的意志の内容が実質的に反映されていたはずです。なぜなら、小規模な分割地農耕が一般的である限りでは、依然として、比較的平等な共同体であったはずだからです。無論、国家意志は、観念的に対象化され、国家規範=法として次第に纏まりを持つようになりますし、それは、国家規範を維持しそれに人々を従属させ社会的秩序を保つために、更に、それ自体一つの実体的な強力が必要とされるようになります。それが、いわゆる国家権力としての国家機関なのです(答3-5)。
さて、国家の領域においては、論理的に貨幣に相当するのは、一般的社会規範としての国家意志ないし国家規範=「法」です。人々の生活の物質的土台に対し、精神的上部構造においては、国家意志という主人が住む政治的世界が新たに形成されています。個々人ないし個々の家族の個別的意志と国家意志との間には、支配と従属という権力関係が存在しますが、国家意志から個別的意志という一方的関係だけでなく、個別的意志から国家意志へという交通関係も存在します。ここまでの貨幣の論理的展開は、商品の世界から貨幣の世界が分離したばかりの段階ですから、それはちょうど氏族制度が押しのけられ、新たに国家という政治的上部構造が形成された段階に相当します。
いずれ人は、従事する労働の特殊性による同様な経済的条件から、同じような生活習慣を身につけるようになり、同じような利害関係から、一つの階級として纏まりを持つようになり、その階級の中で、それぞれ役割を分担するようになります。更に、経済的に有利な階級が形成され始めると、国家(意志)は、経済的に優位に立つ階級の意志に、大きく作用されるようになります。ちょうどそれは、後に、単に商品の流通手段であった貨幣から、商品流通を従属させる主人としての貨幣=資本へ転化していくように、単に共同体の共通の利益を計る目的の国家から、支配的な階級の利益を守り共同体を支配する国家へと転化していくのと同じです。しかし、そういう発展形態においても、国家の基本的な性格は維持されています。
この現代の日本においても、経済的な共同体と政治的な共同体=国家と二重化しています。商品から貨幣が生み出されたように、国家意志=法を生み出すのは、この日本で経済的活動に従事する・現実的な人々の意志です。人々の行為が犯罪的であるかどうかというのは、法に基づいて判断されます。貨幣が一般的等価物ないし価値尺度としての機能を持つように、法は、一般的・普遍的な社会規範・尺度という機能を持っています。ある人の行為が他人の行為を障害していないかどうかというのは、法を媒介にして判定されます。貨幣が、商品流通を媒介する手段であるように、法は、経済活動を行う私的所有者としての人々の意志を媒介する手段でもあるのです。

問3-16:(第6段落)「ここで考察されている直接的流通形態」というのは、商品流通の事と思いますが、どうしてこういう表現をしているのですか。また、商品の流通部門の「一つの穴」というのは、金の産地でのことと考えていいですか。
答3-16:答25で直接的交換可能ということを説明しました。直接的交換というのは、物々交換のことであり、媒介的交換というのは、貨幣を媒介とした生産物交換ということでした。同じように、直接的流通形態というのは、「ただ単純な商品流通のここで考察された形態」(第4段落)、すなわち、「商品と貨幣とをつねに肉体的に向い合せ、一方を売りの極に、他方を買いの反対極におく」という商品流通の形態のことです。では、媒体的流通形態というのは、どうなるのでしょうか。これは、商品が貨幣と直接的に対面せず、媒介的に対面する場合の流通形態です。後で出てくるように、資本が介在するようになると、商品の売買は、貨幣との関係が媒体的になっていきますので、それまで待っていてください。
「一つの穴」というのは、前節の第13段落の「金の生産源」のことです。資本主義が一般化(社会に普及)すると、商品流通も一般化するようになりますが、「ブルジョア社会の比較的未発達な状態では」商品流通及び貨幣流通は、一般化の途中です。ですから、「商品の一大部分は、なおかなり長い間、価値尺度のいまでは幻想的となり過去のものとなった価値で評価される」ということも起こり得るでしょう。

第1篇第3章第2節c.鋳貨 価値章標

問3-17:(第1〜3段落)「流通手段としての貨幣の機能からは、その鋳貨姿態が生ずる」というのは、なぜですか。また、鋳貨姿態というのは、「鋳貨」という理解でいいのですか。
また、「鋳貨の金存在を金仮象に転化させると言う、すなわち鋳貨をその公称金属分の象徴に転化させるという」「金属貨幣がその鋳貨機能では他の材料から成っている章標または象徴によって置き換えられる」と書いてありますが、「象徴に転化させる」というのは、どういう意味ですか。また、象徴と章標とは、どう違うのですか。
答3-17:ここでは、すこしややこしい言葉が出て来ています。その言葉の意味を、形式と内容と実体という観点で整理しながら、説明してみましょう。
まず、「流通手段としての貨幣の機能からは、その鋳貨姿態が生ずる」という理由ですが、金が貨幣として価値尺度である限りは、実際に人の手から手へと渡るわけではありませんから、金地金(実体)が特定の「形態」をとる必然性はないのですが、「貨幣が諸商品の価値の独立化されたもの」(前節第13段落)として、商品の流通手段として機能する時には、例えば金の大判小判とかソブリン金貨とか、それにふさわしい「姿態」を取る必要が生じてきます。金という実体が流通手段という機能を担うための形式が「鋳貨姿態」です。具体的には、度量標準に従って、それぞれの可除部分は、法定の貨幣名に相応しい形態を取るようになっています。
次に、象徴というのは、どういう意味でしょうか。例えば、「ハトは平和の象徴である」といいますが、それは、平和という抽象的な概念(内容)を、ハトという白い鳥の飛んでいる具体的な姿(形式)に託して、表現したものでしょう。戦争のないおだやかな平和な世の中ということが、ハトによって人々が受け取るイメージと重なるからでしょう。
答29、答47で「表象」ということを説明しました。その例として、道路標識や地図記号などを取り挙げ、内容的には、一般的・普遍的抽象物を表現していながら、形式的・表面的・感性的な特殊な形を持っている存在と説明しました(答3-3)。そういう意味では、象徴と似ています。しかし、表象には、象徴と異なった特徴があります。それは、例えば、文という地図記号が、学校という抽象の内容と完全に切り離された任意の形ではなく、文という形から学校という抽象を容易に思い浮かべることが出来るように、ある程度具体性を残している形式を持っているという点です。例えば、漢字の木は、抽象的な木を表現していますが、象形文字の起源を色濃く残しています。このように、表象は、具体的な形象に、抽象的な内容に対する特殊性をある程度とどめているという特徴を持っているのです。しかし、象徴の形式と内容には、そういう関係はありません。ハトと平和は、ただイメージが似ているというだけです。また、表象には、具体的形象と抽象的内容の対応が、凡例や辞書に示されるように、なんらかの社会規範によって関係づけられています。しかし、象徴には、そういう関連付けはありません。しいて関連付けということで挙げれば、文化的背景でしょうか。ですから、現行憲法に「天皇は日本国と日本国民統合の象徴と規定する」とあるように、象徴・天皇と国民統合との対応関係をどうしても付けたいと思えば、法で規定するより方法がありません。
答3-3で、価格及び値札は、同じ価値を持つ金重量の表象といいましたが、これも、金重量という形式と商品価値という抽象的内容を持っています。いわば、同量の金の写真と同じです。
では、「章標」というのは、普段使わない言葉ですが、どういう意味で使われ、「表象」とどう違うのでしょうか。
貨幣は、まず、一般的等価物=価値尺度ということでした。この価値尺度というのは貨幣の内容ですが、それは各商品に内在する価値実体(抽象的労働を対象化した関係である価値を実体化して把握したもの(答15))から(の表現として)形成された関係を表しています。ちょうどそれは、商品の価値が、抽象的労働という実体から形成された関係を表しているのと論理的に同等です(答6)。また、貨幣の形式は、鋳貨形態であり、それは、流通手段としての機能から発生したもので、貨幣の内容と形式を、金地金という実体(この場合の実体は、「形成する実体(答6)」とは異なります。)が担っています。
最初は、価格の度量標準である金の実体と、貨幣の内容としての価値尺度とは、直接的に対応していました。貨幣の世界は、商品の世界とは別の世界であり、貨幣としての金は、商品としての金とは違います。ですが、貨幣は空中に浮かんでいるわけではなく、金という実体にしっかりと根をおろしています。この実体である金を媒介にして、商品の世界の中にある商品としての金とが繋がっているのです。ところが、実際に鋳貨が流通しているうちに物理的に摩耗していき、金の実体と鋳貨の形式が分離していきます。すなわち、「公称金属純分」を刻印してある形式と、実体である地金=金としての価値が、次第に離れて行くと言うことです。
その結果、「金属貨幣がその鋳貨機能では他の材料から成っている章標または象徴によって置き換えられるという可能性を、潜在的に含んでいる。」とありますから、金実体の減少によって貨幣の内容である価値尺度が意味を失い、論理的には、具体的形象と抽象的内容の対応がまったくない象徴と同じように、鋳貨の形式が対応する内容を失って、単に流通手段の機能のみを表す形式的な度量標準になってしまうという意味合いで、「章標」という言葉が使われているものと思われます。しかし、実体が消失しても、関係が残ります。内容のない形式は存在しませんから、この場合の鋳貨の内容は、代理元の金鋳貨との媒介的関係(答3-18で説明)であり、その対応は、法で規定することになります。

問3-18:(第8段落)「金はそれ自身の単なる無価値な章標によって・・・代理されることができるのは、それがただ鋳貨または流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化されるかぎりでのことである。ところで、この機能の独立化は、摩滅した金貨がひきつづき流通することのうちに現れるとはいえ、たしかにそれは一つ一つの金鋳貨について行われるのではない。」とありますが、「一つ一つの金鋳貨について行われるのではない」というのはどういう意味ですか。
答3-18:「一つ一つの金鋳貨」は、多少摩滅したとはいえ、依然として金実体を持っており、流通手段という機能と同時に、価値尺度と価格の度量標準という機能を持っています。ですから、「鋳貨または流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化」されたものではありません。
ところが、「紙幣によって代理されることができる最小量の金」は、「紙幣によって象徴的に表される金(または銀)が現実に流通しなければならないであろう量」(第6段落)、さらに言えば、「諸商品の価格総額/同名の貨幣片の流通回数=流通手段として機能する貨幣の量」(前章第9段落)の必要最小量に限定されていますから、流通手段としての機能だけで代替が効きます。つまり、金の「章標」としての紙幣だけで、十分代理可能なのです。

第1篇第3章第3節 貨幣

問3-19:(第1段落)この節全体も、素直に読む限り、あまり難しいところは感じられません。ただ、今までの議論とのつながりが、ぼやっとしていまいちはっきりしません。この節の論理的な位置づけを教えてください。
答3-19:あなたの感じた通り、内容的には、割とすんなりと理解できる章だと思います。
まず、冒頭の段落が意味しているのは、貨幣が矛盾した存在であることを再確認しています。第1節では、貨幣の価値尺度としての側面を、第2節では、流通手段としての側面を、それぞれ取り挙げました。実際の貨幣は、その異なった側面(対立物)の統一です(答26、答32)。その機能を担う唯一の実体が、金の貨幣商品です(答3-1)。
価値尺度としては、金の観念的な存在だけで十分でした(答3-3)。流通手段としては、金貨幣の章標で代替できました(答3-17)。しかし、それらの場合も、金商品が貨幣として実際に存在していることが前提でした。この節では、そういう・貨幣としての金商品の場合を、金商品と貨幣の直接的同一を、取り上げているのです。
そこで、いままでの議論を受けて、論理的なレベルでの意義を説明しておきましょう。
いままでは、貨幣は、受け身でした。商品を交換するための単なる手段でした。直接的生産物(商品)交換がそのままでは困難を生じるため、その矛盾を解決するために、商品と貨幣の二重化を行って、販売=購買を販売と購買に分裂させ、貨幣の媒介によって商品流通を成立させるというものでした(答3-11)。商品交換者同士は、お互いに等価交換を可能とするのですから敵対しておらず、いわば、ともにウィンウィンの関係でした(答3-13)。単なる商品流通の媒介手段としての貨幣は、中立的立場を保っていました。それは、直接的生産物交換の矛盾が非敵対的であり、矛盾の実現が直接に矛盾の解決であるような矛盾であったからです(答3-10)。
ところが、貨幣蓄蔵と言い、支払い手段と言い、貨幣蓄蔵者と非蓄蔵者、債権者と債務者の間には、敵対的な関係が生じる可能性があります。すなわち、非敵対的な矛盾から、敵対的な矛盾が発生するのです。
では、なぜ、非敵対的矛盾が敵対的矛盾に変化するのでしょうか。この場合、貨幣の世界が形成されることによって、貨幣が商品の召使から主人に変化していく過程にあります。その過程の一歩が、商品→貨幣→商品の否定の否定の一連の流れを引き割いて、第一の否定から第二の否定を切り離し、第一の否定を単独で孤立させることから始まるのです。それによって、貨幣が、貨幣の世界に留まることができるからです。それが、貨幣蓄蔵という現象です。更に、第二の否定自体が引き割かれ、商品の譲渡と代価の支払が時間的空間的に分離するようになります。それが支払手段の機能なのです。ここの論理をしっかりと把握しておくことは重要です。

第1篇第3章第3節a.貨幣蓄蔵

問3-20:(第4段落)「ここでは、売りが買いなしに行われる。そして、それ以後の、あとに続かない売りは、ただすべての商品所持者のあいだへの貴金属の再分配を媒介するだけである」というのは、どういう意味ですか。
答3-20: 貨幣は、商品流通を媒介する手段ですから、普通は販売者(売り)と購買者(買い)が対面しています。商品流通では、貨幣は、売り(販売)の結果でしか手に入りませんから、普通は購買者が持っていますが、金の生産地では、(金の生産者が必要とする)商品の販売者に対面している(金の販売者でもある)購買者は、直接的に貨幣でもある金商品を持っていますが、これは売りの結果ではなく、金の生産の結果です。すなわち、金の生産地では、金の生産者でもある金の販売者と、商品の販売者が対面しているのです。このことを「買い(金銀所持者の側での)なしに行われる」と表現したのです。
ですから、金の生産源を除けば、商品流通が一般的状態ですから、「買うことなしに売る」だけだと、手元には貨幣が貯まっていくだけです。それを「貴金属の再分配」という表現で表しています。
このように、金の生産地では、直接的物々交換(販売と購買の直接的同一)が行われます(答2-9)。この段落では、すでに商品流通が一般化していることを前提していますから、物々交換は、このような特殊な状況にしか残っていないのです。しかし、言い換えれば、商品流通が一般化しようと、物々交換は消滅するのではなく、特殊な状況で生き残っているとも言えます。そしてこの特殊な直接的生産物交換が、金商品を貨幣へ転換しているところなのです。
マルクスはこのことを「経済学批判序説」で、次のように一般化しています。
「それにしても、つぎのことだけは依然として変わらない。単純な諸カテゴリーは、未発達な具体物が、まだいっそう多面的な関連またはいっそう多面的な関係―それは精神的にはより具体的なカテゴリーのうちに表現されている―を生み出していないときに、自分を実現したかもしれないその諸関係の表現であること、他方また、より発展した具体物は、そうした単純な諸カテゴリーを、ひとつの従属的な関係としてもちつづけているということ、これである。」ここの場合で言えば、物々交換(単純なカテゴリー)は、商品流通(より具体的なカテゴリー)が未発達な場合に主として実現していますが、商品流通(より具体的なカテゴリー)が多面的に発展した場合にも、金の生産源で従属的な位置づけを与えられているということなのです。

問3-21:(第6段落)「貨幣の価値は変動する。それ自身の価値変動の結果であるにせよ、諸商品の価値変動の結果であるにせよ。」とありますが、諸商品の価値変動によって貨幣の価値は変動するのですか。
答3-21:この段落では、「未開の単純な商品所持者」や「西ヨーロッパの農民」が置かれている商品流通の発展レベルにおいて語られていますから、そこでは価値の発展のレベルは、「価値は価値形態から不可分なもの」ということですから、貨幣においても「単純な相対的価値表現の諸法則」(第3章第1節第11段落)があてはまります。また、価格は価値表現ですから、「価格と価値量との量的な不一致の可能性」が存在しています(同第18段落)。そこで、貨幣の価値変動の結果だけでなく、諸商品の価値変動の結果が価値表現の変動を引き起こしますから、貨幣の価値は変動するように見えるはずです。このことを上記のように表現しているものと思います。
ところで、この段落については、「貨幣の量的な制限と質的な無制限との矛盾」について、注意していただきたいと思います。貨幣は、個々の使用価値と異なって、実体は貴金属ですから嵩張らず腐らず、価値尺度で流通手段でもあり「富」でもありますから、どの使用価値との交換可能で、質的・形態的な制限がありません。しかし、たとえどんな大金持ちでも、一人が持てる量には限りがあります。この貨幣の質的無制限と量的制限の矛盾が、貨幣蓄蔵者の頭脳に反映すると、貨幣蓄蔵者を絶えず蓄積を欲する欲望の虜にしてしまいます。「勤勉と節約と貪欲とが彼の主徳をなす」ようになります。

第1篇第3章第3節b.支払手段

問3-22:(第1段落)「たとえば家屋の利用は、一定の期間を定めて売られる。」というのは、どういう状況でしょうか。
「貨幣の単なる代表者として、または将来の貨幣の代表者として」というのは、変な表現ではありませんか。
答3-22:マンションの部屋を買う場合、まだマンションが建設されていない前に売買契約を結び、前金を払い、マンションが出来て入居してから、残りのお金をローンで支払うでしょう。ローンを完済しないうちは、完全に買い手の物というわけにいきません。「その期限が過ぎてからはじめて買い手はその商品の使用価値を現実に受け取ったことになる。それゆえ、買い手は、その代価を支払う前に、それを買うわけである。」
いままでは、販売でも購買でも、商品の譲渡と代価の支払は、時間的に直接的に同一でした。ところが、ここでは、それが分離し、媒介的になっています。この直接性から媒介性への矛盾の変化も、一つの矛盾の発展です。ただしこの媒介は、媒介されない可能性をも含んでいます。支払期限が来ても支払できないということが起こり得るからです。ですから、ローンの返済は注意しなくてはいけません。
その将来の代価の支払を保証するのが、売買契約です。その中で債務者は、将来の支払の義務を負う者ですから、それを、「将来の貨幣の代表者」として表現したのでしょう。

問3-23:(第2段落)「古代世界の階級闘争は、主として債権者と債務者との闘争という形」とありますが、これが階級闘争なのですか。階級闘争のイメージからは、遠いような気がしますが。また、「もっと深く根差している経済的生活条件の敵対関係」とはなんですか。
答3-23:階級闘争というと、支配階級と被支配階級とが政治的に激しく対立し、ゼネストに機動隊で対抗するような武装闘争のイメージがあるかと思いますが、そういう特殊な場面もあるかとは思いますが、それだけではありません。階級というのは、物質的(経済的)生活の特殊性から、特殊な利害を共有する個人及び家族の纏まりを指すのですが、階級としてどのように纏まっているか、というのは、状況によります。つまり、階級間の経済的な敵対関係という本質的関係がどのように政治的に現象するかというのは、社会の発展の度合いによるのです。
古代ギリシャや古代ローマの古代世界は、分割地農耕に基づく私的所有者の政治的共同体=都市国家という形態から出発しました。しかし、貨幣経済が浸透していくにつて、富者と貧者が発生し、貨幣を支配した者が政治的にも支配階級に転化してゆきました。「もっと深く根差している経済的生活条件の敵対関係」というのは、そういう経済的関係を表現したものでしょう。「債権者と債務者との闘争」は、古代世界の経済的基礎である分割地農耕者から土地を奪い、少数者への土地集積と繋がっていきますが、それが奴隷制の拡大へ道を広げました。このような土地所有化と奴隷化の制限を巡って、古代の政治的状況が揺れ動いていきます。
また、中世の始まりとなったフランク王国では、カール大帝の下、度重なる征服戦争に駆り出された分割地農耕者達は次第に疲弊し農奴化していき、それが土地所有権の譲渡と引き換えの賦役・貢納に基づく封建的土地所有制へと繋がっていきます。
エンゲルスは「家族・私有財産・国家の起源」の中で、その間の過程を詳細に描き出していますので、更に勉強したい人は、それを参照してください。

問3-24:(第4段落)「買い手は自分が商品を貨幣に転化させるまえに貨幣を商品に再転化させる。すなわち、第一の商品変態よりもさきに第二の商品変態を行う。」とありますが、この意味がよくわかりません。
答3-24:ここでは、商品流通が前提になっています。
答3-13の図を見てください。あなたは、20エレのリンネルの所有者と考えてください。あなたは、家庭用聖書を買いたいのですが、そのためには、20エレのリンネルを売らねばなりません。しかし、何かの事情で20エレのリンネルを売ることができずにいるので(このことを、「流通過程が第一段階で中断した」と表現している。)、2ポンド・スターリングを手に入れられません。そこで、家庭用聖書を買うために、家庭用聖書の売り手と契約を結び、2ポンド・スターリングの債務者となって、家庭用聖書を買うことができました。しかし、あなたは、債務者として、支払期限間までに、家庭用聖書の売り手に、2ポンド・スターリングを支払わなければなりません。そのため、それまでに、20エレのリンネルの買い手、ここでは1クウォーターの小麦の売り手を見つけ、彼に20エレのリンネルを売らねばなりません。そうしてはじめて、2ポンド・スターリングの貨幣が手に入り、それで家庭用聖書の売り手に弁済することができる(「過程を独立に閉じる」)と言うわけです。ですから、20エレのリンネルを売って手元に2ポンド・スターリングを手にした後、その支払期限が来るまでは、あなたの手元にある貨幣は、蓄蔵貨幣です。なぜなら、支払期限が来た時はじめて「支払手段が現実に流通に入って来る」からです。
あなたという買い手は、リンネルという商品を貨幣に転化させるまえに、貨幣を家庭用聖書という商品に再転化させました。リンネル→貨幣という第一の商品変態よりもさきに、貨幣→家庭用聖書という第二の商品変態を行いました。貨幣は、以前のような、第一の否定(第一の商品変態)と第二の否定(第二の商品変態)の二つの過程を媒介する流通手段としての貨幣ではなくなっています。なぜなら、流通手段としての貨幣は、第二の否定を媒介するために、第一の否定を行う(「買うために売る」)ためでしたが、貨幣が入手されていないのに、すでに第二の否定のうち家庭用聖書は買っているのですから、貨幣は流通手段の役割をはたしていないのです。
いかがですか。意味が理解できましたか。

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問3-25:(第5段落)「さきに考察した諸変態列の絡み合い」とは、どのことですか。「すでにそれ以前にできあがっている社会的な関連」とは、なんのことですか。
答3-25:「第2節b貨幣の流通」の第9段落を見てください。そこに「いろいろな商品の変態のからみ合い」という表現がでてきます。すなわち、答3-13の図のように、2ポンド・スターリングが、小麦、リンネル、聖書、ウィスキーの価格を実現していく過程を指しているのです。この貨幣流通の成立が、売り手と買い手との関連を直接的に表現しています。
ところが、支払手段の運動が表現しているのは、すでに過去に売り手であった債権者と、過去に買い手であった債務者との関連です。同時に、リンネルの所有者は、第一の商品変態を行わなければ、債権者への支払代金を入手できませんから、リンネルの買い手との間の売買をも成立させねばなりません。「すでにそれ以前にできあがっている社会的関連」というのは、それら全部を含めて、過去の売り手と買い手と関連をいっているのです。
この段落における「支払手段の流通速度」についても、同第9段落の「流通手段の流通速度」と比較してみてください。

問3-26:(第7段落)「支払手段としての貨幣の機能は、媒介されない矛盾を含んでいる。」とありますが、媒介されない矛盾とはなんのことですか。
答3-26: この表現は、過去の商品の買い手から売り手に支払手段が媒介されない可能性、すなわち、債務者から債権者に代金が支払われない可能性を表しています。
「第2節a商品の変態」の第22段落(答3-14)を見てください。
「独立して相対する諸過程が一つの内的な統一をなしていることは、同様にまた、これらの内的な統一が外的な諸対立において運動することをも意味している。互いに補い合っているために内的には独立していないものの外的な独立化が、ある点まで進めば、統一は暴力的に引き裂かれる―恐慌というものによって。」
商品の流通手段としての貨幣の機能から、蓄蔵貨幣の機能を媒介にして、支払手段としての貨幣の機能が発展してくると、ただ可能性であった恐慌が、現実的な貨幣恐慌として現象してきます。なぜなら、貨幣だけの支払の連鎖が、単独な過程として浮かび上がってくるからです。このことは、二重化した貨幣の世界が、主導権を獲得する過程でもあります。

問3-27:(第10段落)「貨幣は契約の一般的商品となる」というのは、変な表現ではありませんか。
答3-27:この表現が意味しているのは、売買契約に限らず支払いを伴う契約においては、資本的生産様式が普及するようになるまでは、貨幣商品を媒介するのではなく、直接に物品を支払手段とする契約が、一般的だったからです。「国家租税の重要な要素でもある地代の現物形態が、自然関係と同じ不変性を以て再生産される」アジア的生産様式だけでなく、「すべての貢租を貨幣で取り立てよう」として失敗したローマ帝国の古代的生産様式及び「ルイ14世」までの封建的生産関様式においても、支払手段は現物納付が一般的でした。貨幣経済は、むしろ、古い生産様式を崩壊させていくのです。ですから、マルクスやエンゲルスが、当時、日本の事をどれほど研究していたかはわかりませんが、ヨーロッパと似たような封建的生産様式を取っていた我が国に対し、貨幣経済の普及が農業を荒廃させていくと予想したのでしょう。

第1篇第3章第3節c.世界貨幣

問3-28:(第1段落)「世界貿易では、諸商品はそれらの価値を普遍的に展開する」というのは、どういう意味ですか。
答3-28:ここでの重要な観点は、「国内流通部門から外に」出た貨幣は、個々の国家の支配から脱することになるため、今までの貨幣の議論の中で、一般的等価物としての貨幣に対し、国家が関与する発展形式をとれなくなると言うことです。それは、貨幣度量標準(第3章第1節第15段落:答3-5)及び鋳貨・価値章標(第3章第2節c第2段落:答3-17)としての貨幣の「局地的な形態」であって、それ以外の議論は、国家の制限を受けていないので、すべて有効です。国家の特殊な形態を取っていない一般的等価物ですから、「諸商品はそれらの価値を普遍的に展開する」と表現したのでしょう。「貨幣の定在様式はその概念に適合したものになる」というのも、同じ意味でしょう。価値尺度および金属重量としての度量標準だけをもつ貨幣、鋳貨形態・章標ではない流通手段としての貨幣、貨幣蓄蔵や支払手段としてとして有効な貨幣ということです。また、世界の中では、各国家によって貴金属の使用に偏りがあり統一されていませんから、普通は、金と銀が、貨幣としての機能を果たすことになります。

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