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「資本論」学習会;難点解説 (3)


第2篇第4章第1節 資本の一般的定式

問4-1:(第1段落)「16世紀に資本の近代的生活史を開く」とありますが、どういう意味ですか。
答4-1:いよいよ資本論の本題に入ってきました。
さて、資本は、商品流通がある程度発展していないと、論理的に、出現しません。そのような状況が現れるのは、古代時代末期および封建時代末期なのです(答3-27)。なぜなら、古代的生産様式や封建的生産様式は現物経済が土台となっており、貨幣経済の進展は、それらの崩壊の兆しを表しているからです。しかし、古代では、貨幣経済のそれ以上の発展、すなわち貨幣から資本への転化はありません。第7篇第24章第6節で出て来ますが、封建時代の末期、16世紀になって商業が地域的な限界を超えて広がるにつれて、本来の意味での資本が姿を現すのです。「16世紀に資本の近代的生活史を開く」という表現は、このことを示しています。

問4-2:(第2段落、第3段落)「この過程の最後の産物として貨幣を見出す。」「資本は、土地所有に対して、どこでも最初はまず貨幣の形で、・・・相対する。」というのは、どういう意味ですか。
答4-2:いままでの議論の要点は、独立して相互に依存していない私的労働者の労働生産物は、使用価値と価値の統一として商品となり、直接的生産物交換は、価値の結晶として貨幣を生み出し、商品流通へと展開されるということでした。論理的に言えば、生産物の直接交換(物々交換)が直面する困難(矛盾)(答2-3、答2-4、答2-5)が、商品と貨幣の否定の否定の運動(答3-13)によって、解決されるというものでした。この「過程の最後の産物」が貨幣でした。
貨幣経済の進展と、古代的及び封建的生産様式の社会とは、両立しません(答36、答52)。古代的及び封建的生産様式の社会的基盤は農耕であり、私的所有は土地所有の形態を取ります。基本的な社会形態は、古代的生産様式では、分割地農耕者(家族)の比較的平等な政治的・軍事的共同体(=都市国家)であり、また、封建的生産様式では、分割地農耕者は土地所有権を庇護者に譲渡して自らは農耕を分担する農奴となり、一方、独占的に所有権を有する庇護者は、自ら政治的・軍事的団体を指揮し、それを以て農奴を庇護するという社会的役割分担の図式です。農耕者の生産物は交換に供されることなく、直接、土地所有権を有する者の元に届けられます。貨幣が媒介するのは、単に、分割地農耕者と手工業者の生産物であり、その範囲は、地域的に極めて限定されています(答30、答46、答3-23)。逆に、そのような地域的限定性の上に立脚するからこそ、古代的・封建的生産様式が存在できるともいえます。貨幣経済の進展は、その地域的制限を破壊することになるので、「資本は、土地所有に対して、どこでも最初はまず貨幣の形で、・・・相対する。」と言われているのです。

問4-3:(第11段落、第16段落、第19段落)「貨幣はただ前貸しされるだけなのである。」というのは、どういう意味ですか。また、16段落にも、おなじ「前貸し」という言葉が出て来ますが、論理的には、以前とどう違うのですか。
答4-3:「前貸し」というのは、期日より前に一定の貨幣を貸し、その期日になって同額を返してもらうということですが、ここでは「彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れるという底意があってのこと」とあるように、再び貨幣を手に入れるために、あらかじめ貨幣を手放すということと、論理的に同じですから、「前貸し」としたのでしょう。すでに貨幣は、支払手段としての機能を獲得しています(答3-24)ので、貨幣を手にいれる前に、債務者となって商品を買い、後に支払期日になって、同額の貨幣を債権者に支払うということができますから、貨幣は「前貸し」の機能を持っているのです。実際にも、資本家は、銀行から「前貸し」して一定の貨幣額を準備・投資し、後で回収した貨幣資本から「前貸し」資金を銀行に返します。
そこで、論理的な説明をしましょう。
答2-6、答3-11で、否定の否定の定理を、「否定の否定は、一つの否定だけではどうにも獲得できない成果を、二つの否定によって得ようとする一般的過程」と説明しました。つまり、否定の否定によって、何らかの利益の獲得や目的の達成などが得られると言うことです。
答3-11で示したように、商品流通W-G-Wは、第一の否定W-Gと第二の否定G-Wの媒体的統一でした。そうするための目的・成果は、異なった使用価値の交換=「買うために売る」でした。
資本の流通G-W-Gと、商品流通W-G-Wとを比較すると、商品流通の第一の否定と第二の否定が、資本の流通では、逆になっています。その過程の成果は、貨幣の自己増殖G+僭です。この剰余価値僭の獲得が、資本の流通の目的・メリットであり、これこそ、資本の本質なのです。
たとえG-W-Gという形態を維持しても、最初と最後が同じ量の貨幣であれば、それは資本とはいえません。最後の貨幣量が最初の貨幣量を超えた場合に、はじめて資本になったと言えるのです。つまり、貨幣の量的な変化が、貨幣の質的な変化を引き起こしています。
このような量と質の関係を取り挙げたのが、弁証法の第1定理である量質転化の定理です。ある物(実体ないし関係)の量の変化だけを見ていると、一見、何の変化もないように見えます。ところがその量的な変化が、直接的な、または、媒介的な、質的な変化と、結びつくことがあるのです。否定の否定の前と後で、貨幣の量が増加して、それが貨幣そのものの質的な変化、すなわち資本への転化を引き起こすことになると言うわけです。
ここで見落としてならないのは、商品流通から資本の流通が発展してくるのですが、そのためには、商品流通の第二の否定と第一の否定が、媒介的に結合しなくてはならないということです。商品流通の第二の否定の達成は、そこで商品交換は一応終結しますから、もしそれが第一の否定と結びつくのならば、それは別の商品流通の第一の否定でしかありえません。(第7段落にあるように、G-W-Gの両端のGは、まったく同じではありません。中間のWで、何かが起きているのです。)つまり、商品流通から資本の流通が分離するためには、商品流通のある程度の発展により、W-G-Wの循環化・恒常化がなされていなくてはなりません。そうでなければ、商品流通の第二の否定が、第一の否定と媒介的に結びつくことはできません。この商品流通の量的拡大が、資本の出現という質的変化を引き起こすのです。
もう一つは、商品流通W-G-Wは、商品の世界→貨幣の世界→商品の世界へという過程ですが、あくまで商品の世界が中心・基軸になっています。それに対して、資本の流通G-W-Gは、貨幣の世界→商品の世界→貨幣の世界へという過程であり、貨幣の世界が中心・基軸となっています。すなわち、商品流通と資本流通では、いわば重心が移動しているのです。
重心の移動というのは、流通の主導権が、商品の世界から貨幣の世界へ、移ってしまう可能性を意味します。
その可能性が現実化するために登場するのが、その役割を担う「経済的諸関係の人格化」、すなわち資本家なのです。(答2-1、答2-2)

問4-4:(第21段落)「貨幣はここでは貨幣蓄蔵のように商品に対して対抗的な態度はとらない」とありますが、「対抗的な態度」とはなんですか。
答4-4:貨幣蓄蔵は、貨幣を蓄蔵することが目的ですから、「金を、貨幣として、したがって貨幣蓄蔵の要素として、固持するためには、流通することを、また購買手段として享楽手段になってしまうことを、妨げなくてはならない。」つまり、商品を売って手に入れた貨幣が、再び他の商品に転化されないようにしなければ、貨幣の蓄蔵は成立しません。貨幣蓄蔵における・商品流通と反対の性質のことを、「対抗的な態度」と、表現しています。

問4-5:(第22段落)「価値が・・・運動する実体として現れる」とありますが、価値は実体ではないのではないですか。
「自分自身にたいする私的な関係にはいるのである。」とはなんのことですか。これに続く文も、意味がよくわかりません。
答4-5:今までの議論から、商品と貨幣の違いを、思い出してください。
確かに、商品の価値は、労働生産物に結びついた「まぼろしのような対象性」(問6)であり、人間労働を対象化したという関係(の結びつき)(関係概念)を表しています。しかし、私たちは、日常の習慣から、その関係を生産物の属性として実体化して把握します(答15、答45)。その場合、私たちは、実質的にはすでに、生産物の世界(現実の世界)から貨幣の世界(貨幣の世界というのは、価値の世界のことです。)に移動し、貨幣の世界に立って、生産物の価値を見ているのです。この立場の移動は、普通、自覚されていません。貨幣(価値)の世界では、価値(関係)が実体化されて表現されています(答3-15)。
商品の世界から見ると、貨幣は、あくまで、商品流通を媒介する手段でした。ところが、貨幣(ここでは、その特殊な領域としての資本)の世界から見ると、商品は、貨幣の増殖のための手段でしかありません。商品形態や貨幣形態は、価値実体の特殊的及び一般的形態として現れます。「流通G−W−Gでは、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。」貨幣の世界では、当然のごとく、貨幣が主人公であり、主体です。「価値は、この運動の中で・・・絶えず一方の形態から他方の形態へ移っていき、・・・一つの自動的な主体に転化する。」「実際には、価値はここでは一つの過程の主体になる」のです。
マルクスは、キリスト教を、貨幣の自己増殖の説明に使っています。
原価値は、そのままでは、まだ資本ではありません。原価値から剰余価値が生まれてはじめて、資本であることが証明されます。剰余価値を生み出した原価値が、資本なのです。更に、この過程が繰り返されることが前提になっていれば、原価値+剰余価値も、資本になるわけです。
ここでは、原価値を、キリスト教の「父なる神」に、剰余価値を、その子イエスに例えています。「原価値としての自分を剰余価値としての自分自身から区別する。」というのは、父なる神が、神である自分自身から、子としての自分自身を分離する(産む)して、その子イエスを現世に送ったとされたことを指しています。「父も子も同じ年なのであり、しかも、じつは両者は一身なのである。」というのは、父は、子が生まれてはじめて父となれるのですから、父としての年齢と子としての年齢は同じということであり、イエスの死を通して、その子イエスは神の世界に帰ったとされ、父と子と聖霊は三位一体とされているということを指しています。父なる神も子なる神もともに神として一体ですから、「いわば自分自身に対する私的な関係にはいる」というわけです。
答47で、フォイエルバッハの仕事を説明する際に、雷の例を挙げましたが、神が、「お守り」(答43)の自然物から離脱して天に上り、多神教(民族神)から一神教が成立(答47、答54)し、現実の世界と宗教の世界との観念的世界の二重化が出来上がって来ると、宗教の世界に変化が起こります。宗教は、物質的な生活の条件から離脱して理論的な展開を遂げ、独立の発展をするようになります。その結果、神が現実の世界を創造し、現実の人間は神に従うことになり、死後は再び神の世界に戻るというキリスト教の神学が、人々の受け入れるとこととなったのです。(と同時に、宗教の世界を専門に担当する階級が成立するようになります(答54)。)
このキリスト教の核心は、キリスト教の哲学化であるヘーゲル哲学において、端的に表現されています。ヘーゲルの場合、主体としての精神が、「論理学」で自己展開し、自己を否定して自然へ飛躍し(答3-9)、再び精神へ回帰して、主観的精神から客観的精神へ移行し、国家から宗教へ哲学へと歴史的に展開された後、絶対的精神に戻ってきます。
キリスト教を、貨幣の自己増殖の例として引き合いに出したのが、理解できたでしょうか。
また、ちょうどそれは、政治的世界=国家と、論理的に同じです。
答3-5で、経済的土台における私的所有の導入が、経済的世界と政治的世界=国家との世界の二重化を発生させたことを説明しました。氏族制度が一般的であった時代では、社会規範は、人々の異なる意志を媒介する手段でした。土地の私的所有が一般化し、政治的共同体=国家が成立しても、それだけでは、国家規範=法は、単に、異なった私的所有者の対立する意志を媒介するための手段でしかありえません(答3-15)。ところが、国家の一環を形成する公権力=国家権力としての国家機関が整備されると、すべての人々の意志を強力(暴力)によって、第3の意志としての国家意志(規範)に従わせることができるようになり、国家が主人として振る舞うことができるようになります。その結果、経済的世界から政治的世界に主導権が移っていき、国家=政治的秩序が第一であり、人々の意志は、国家を形成するための手段に貶められてしまいます。しかも、それを経済的に優位に立つ階級が左右するようになると、経済的に支配的な階級が、国家をも支配するようになっていくのです。

第2篇第4章第2節 一般的定式の矛盾

問4-6:(第1段落)「商品や価値や貨幣や流通そのものの性質についての以前に展開されたすべての法則に矛盾している」とありますが、どういう意味ですか。
答4-6:「商品や価値や貨幣や流通そのものの性質についての以前に展開されたすべての法則」というのは、等価物交換、すなわち、等しい価値を持つ生産物同士の交換ということです。資本の法則は、貨幣(価値)の自己増殖であり、等価交換の法則と矛盾しています。

問4-7:(第24段落)ここで、「革で長靴をつくる」という例を挙げて「自分を増殖する価値を形成することはできない」といっていますが、「長靴は革よりも多くの価値をもっている」のですから、「自分の価値を増殖した」のではないですか。
答4-7:資本の流通は、G-W-Gと表されます。ここの例で言えば、貨幣で革を買い、その革を売って貨幣を手に入れる操作になります。革は、人が手を加えなければ(人の労働が加わらなければ)、長靴になりません。G-W-Gの途中で、人が手を加えるというのは、革を買ってきた人自身が手を加えるか、そういう人(=労働者)を別に雇わなければなりませんから、ここの議論の前提の外です。ここで前提しているのは、あくまで等価交換という条件だけです。もし仮に、買ってきた革が、そのまま放置していたら自然に長靴に変わって行ったと言うのならば、買ってきたときの価値より売る時の価値が増えていますから、その時は価値の自己増殖といえると思いますが、魔法の世界でもない限りはそういうことは起こらないでしょう。

問4-8:(第25段落)「資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかないのである。資本は、流通の中で発生しなければならないと同時に流通の中で発生してはならないのである。」ここで議論されている「一般的定式の矛盾」は、現実の矛盾なのですか。それとも単に理論上の矛盾なのですか。
答4-8:私たちは、会社で働き月末に給与をもらい、それで家賃を払い、生活に必要な商品を買って生活しています。一方、時々テレビで見るように、使いきれないようなお金を稼ぐ会社のオーナーや社長、はたまた政治家など、私たちの生活からはかけ離れたセレブな生活を送ることのできる人達もいます。まちがいなく、私たちは発展した商品社会、資本主義の社会に住んでいます。
国の福祉制度があるとはいえ、生活保護を受けざるを得ない人たちがいる一方、何不自由のない裕福な生活を送る人たちがいる、どうしてこんな貧富の差が生まれるのか、これは私たちのどうしようもない宿命なのか、いやそうではなく、私たちはこれを変えることができるのか、そう考えて、あなたはこの「資本論」を読もうとしたのではありませんか。
いよいよ、あなたの根本的な疑問に答えることのできるところまで、読み進んできたのです。 あなたは、商品流通だけが行われている世界に居ると仮定してください。その中で、ある人が、等価交換の原則に乗っ取っているのに、自分の懐に貨幣が自然に貯まっていく状況を創り出しているとしましょう。あなたはそれを見て、驚きませんか。驚いたあなたは、その人がなぜそういうことになっているのか、その謎を解こうとします。この章が想定しているのは、そういう事態なのです。そう、私たちが住んでいる現実の世界が、そういう状況ですよね。「同じ歴史は、毎日われわれも目の前で繰り広げられている。」ここで言っている「一般的定式の矛盾」というのは、商品の等価交換のただ中から、特権や詐欺によらずに、貨幣を自己増殖していく矛盾した事態なのです。
この矛盾、すなわち、商品流通における等価交換という条件の中に居ながら、それを破ることが現実に起こっていると言うことは、実際には、この矛盾を解決することができている人(資本家)がいるということを意味します。この矛盾の解決は、矛盾が敵対的ではありませんから、矛盾を実現しているということです(答3-10、答3-19)。どうして矛盾が実現したのか、それが次章の課題です。
ところで、いままでの経緯を振り返ってみましょう。直接的生産物交換(物々交換)から生ずる矛盾を解決するため、商品の中に内在する・使用価値と価値の矛盾が、商品と貨幣の世界の二重化という矛盾を発生させ、商品と貨幣の相互浸透という矛盾の構造を構築させ、商品流通の否定の否定という矛盾の運動を実現することによって、最終的に物々交換の矛盾を解決するというものでした。更に、ここでは、商品流通の否定の否定の運動から、もう一つの否定の否定の運動が発生します。その運動が、G-W-Gの剰余価値を生む資本の運動なのですが、結論を先取りするようですが、これも論理的に自然な流れです。この間に、何ら人工的・作為的なものは入っていません。つまり、資本主義は、商品交換が発展して来る中から自然に発生してくるものであって、いわば「一つの自然史的過程と考える」というのが、マルクスの立場なのです。
商品流通という矛盾の実現は、必然的に、資本という新たな矛盾を創り出します。それがまた、矛盾の解決を要請します。答2-9で引用したエンゲルスの言葉のように、こうした過程が続いていくのです。ということは、矛盾の展開過程を逆に辿って行けば、どうしてそう事態に陥ったのかを、根本的・科学的・歴史的に把握することができるということです。「資本論」を読み進めて行くと、労働者が貧困化する理由が明らかになりますが、その時、あなたには、それを解決する方法も理解できるということなのです。

第2篇第4章第3節 労働力の売買

問4-9:(第1段落・第2段落)いままでの議論では、商品はあくまで物品でした。ここでは、生きた人間である労働者が商品になっています。生きた人間や生き物も、商品になれるのですか。私たち労働者は、物品と見なされているということですか。
答4-9:あなたが不思議に思っているのは、ここでは労働者という人間が、机や家や糸などと同じ商品(答6)として扱われていることではないでしょうか。資本(貨幣)の世界では、労働者も、他の商品と全く同様に、一つの物品として、特殊な労働生産物として扱われるのです。商品の一般論には、生き物を商品にしないと言う条件はありません。
労働者という人間が商品になるためには、まず、使用価値がなければなりません。それが労働力=労働能力です。ここで労働力というのは、商品「労働者」の使用価値の名称です。
また、労働力を商品として売るためには、商品所持者が必要です。むろん、労働力を持っているのは労働者自身ですから、労働者自身が商品所持者になります。
しかし、第3段落にあるように、もし労働力の所有権を永久に売り渡してしまえば、労働者という人間自体が他人の所有物になってしまいますから、奴隷になってしまいます。ですから、労働力を時間を区切って使用させるだけで、所有権を放棄しないというのが、条件になります。
これは、古代社会の奴隷とは違います。奴隷は、異なった共同体の戦争による捕虜が、労働に専念させる身分として転用させられたものであって、古代世界の一般市民にとっては、嫌悪の対象でした(答31)。古代世界では、そもそも生産物を商品として扱うことが一般的ではありませんから、ましてや人間を商品として扱うことはありません。奴隷は、商品ではないのです。このことから、資本の下での労働力の売買は、すべてが商品として、労働力も一つの商品として扱われる商品社会が大前提になっていることがわかると思います。前者と後者の間には、十数世紀の歴史的間隔が存在するのです。
労働力商品にも、第1章第1節第2節で議論した商品の一般性が、すべて当てはまります(労働力商品の一般性と特殊性の直接的同一)。後にでてきますが、資本の人格化である限りでの資本家の意識には、労働者が人間であると言う意識が、抜け落ちています。例え、少数の良心的な資本家が悲惨な労働者の状況に心を痛め、慈悲の精神から手を差し伸べようと思っても、もしその思いを実行すれば他の資本家の企業から負けてしまいますからできないでしょう。資本の競争社会の中では、資本家の良心も押しつぶしてしまうところに、資本主義の恐ろしさがあります。これは、資本の非人間的な側面です。このことを、まず、しっかりと理解しておいてください。

問4-10:(第7段落)「明らかに、それ自体が、先行の歴史的発展の結果なのであり、多くの経済的変革の産物、たくさんの過去の社会的生産構成体の没落の産物なのである。」というのは、どういう意味ですか。
答4-10:のちに第7篇などで詳しく学びますが、資本主義的生産様式の社会は、それまでのすべての異なった生産様式、アジア的・古代的・封建的生産様式の発展と没落の上に成立したということです。

問4-11:(第8段落)「さきに考察した経済的範疇」とは何を指していますか。また、「歴史的な痕跡を帯びている」というのは、どういう意味ですか。
答4-11:範疇・カテゴリーというのは、基本的・根本的な概念という意味ですから、「さきに考察した経済的範疇」というのは、以下の文に出てくる「商品」「貨幣」「資本」という経済的カテゴリーのことを言っています。
商品、貨幣、資本という順番は、抽象的カテゴリーから具体的カテゴリーへという順番で並んでいます。資本は、特殊な貨幣であり、貨幣は特殊な商品です。答2を見てください。ここで扱っている「商品」は、論理的にきわめて抽象的な商品と言いました。それに比べ、貨幣、資本は、より具体的なカテゴリーに相当します。
「歴史的な痕跡」というのは、そのカテゴリーが表しているもの、すなわち、実際の商品、貨幣、資本が、実際の歴史の上で出現(実現)しているということです。
この3つが歴史的に出現する順番は、第7段落から第9段落の内容から、次のように纏められます。
まず、労働生産物が商品になるためには、生産物がただ「生産者自身のための直接的生活手段」「直接に自己需要に向けられて」いるだけの状態から、「社会内の分業がかなり発展していて、最初は直接的物々交換に始まる使用価値と交換価値との分離がすでに実現されていることを条件とする。しかし、このような発展段階は、歴史的に非常に違ったいろいろな経済的社会構成体」すなわち、アジア的、古代的、封建的生産様式の社会構成体「に共通なものである。」すなわち、どのような社会構成体においても、ある程度、労働の生産力が発展すれば、商品が出現するということです。
また、商品から貨幣が出現するためには、「商品交換のある程度の高さを前提する」が、「種々の特殊な貨幣形態、単なる商品等価物、または流通手段、または支払手段、蓄蔵貨幣、世界貨幣は、・・・経験の示すところでは、商品流通の比較的わずかな発展で十分である。」
「資本はそうではない。資本の歴史的存在条件は、商品・貨幣流通があればそこにあるというものではけっしてない。」「資本主義時代を特徴づけるものは、労働者自身にとって彼のもっている商品という形態をとっており、したがって彼の労働が賃労働という形態をとっているということである。他方、この瞬間からはじめて労働生産物の商品形態が一般化されるのである。」「生産物のすべてが、または単にその多数だけでも、商品という形態をとるのは、・・・まったく独自な生産様式である資本主義的生産様式の基礎の上だけで起きるものだということが見いだされたであろう。」
まず、商品、貨幣、資本が歴史的に出現する順番は、抽象的カテゴリーから具体的カテゴリーの順番と同じということがわかります。
このような歴史上の出現の順番について、マルクスは、「批判序説」の中で、次のように一般化しています。
もっとも単純なものから複雑なものへと上向していく抽象的な思考の歩みは、実際の歴史的過程に照応しているといえるであろう。
また、本文の内容から、資本(具体的なカテゴリー)が出現していないときには、労働生産物の交換が実現しているのは狭い領域においてですが、狭いながらもその領域内では、物々交換ではなく、商品や貨幣(比較的単純なカテゴリー)による商品流通が実現していることがわかります。一方、資本が社会全体において支配的な関係となった場合には、資本・労働力商品が支配的な位置を与えられますから、商品や貨幣による商品流通は従属的な位置を占めるわけですが、むしろその資本の下でこそ、従属的な位置づけとはいえ、商品流通の全面的な展開が行われるともいっています。
このことも、同じく「批判序説」の中で、次のように一般化されています。次の文の中の単純なカテゴリーを商品・貨幣に、具体的なカテゴリーを資本に変えて、読んでみてください。
比較的単純なカテゴリーは、比較的未発達なひとつの全体の支配的諸関係または比較的発展したひとつの全体の従属的関係―そうした諸関係は、その全体が、比較的具体的なカテゴリーで表現されているような方向へ発展するまえから歴史的にはすでに実在していたのであるが―を表現できるということ、これである。
このまったく単純なカテゴリーは、歴史的には、社会のもっとも発展した状態にならなければ、集約的な形ではあらわれないのである。」「たとえ比較的単純なカテゴリーが比較的具体的なカテゴリーにさきだって歴史上実在したとしても、それは、内包的にも外延的にも完全に発展した形では、なんといってもただ複雑な社会形態にしか、属しえないものである。
第7段落から第9段落の文章には、マルクスの以上の結論が背景にあるのです。

問4-12:(第10段落・第11段落)「労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。」と書いてありますが、「労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。」ということであれば、労働力の価値は、「生活手段の生産に必要な労働時間」によって規定されるにしても、他の商品のような・労働の対象化によって形成された価値ではないのではないですか。労働力には、労働が対象化されているのでしょうか。
答4-12:労働者が自分の労働力を商品として売ることができるためには、労働者の労働力が価値を持っていなければなりません。労働力が価値を持っているというのは、労働力には、労働が対象化されているということです。
商品は、使用価値と価値という二面性を持っていました。それは、労働の対象化が、二つの側面を持っているからでした(答10)。労働が、「具体的有用労働という属性において使用価値を生産」し、「抽象的人間労働という属性において商品価値を形成する」とありました。労働力も、使用価値と価値という二面から把握されます。労働者は、自分の使用価値としての労働力を保持するために、必要な生活手段を消費します。これは、生活資料の消費ですが、同時に、使用価値としての労働力の生産でもあります(消費と生産の直接的同一)。こういう消費の場合、生活手段に含まれている価値が労働者に再対象化(移転)するのです。より正確に表現するならば、労働者は、必要な生活手段が具体的有用労働を含んでいる限りで、その生活手段の消費は、労働力(労働者の使用価値)を生産し、必要な生活手段が抽象的人間労働を含んでいる限りで、その生活手段の消費は、労働力の価値を形成する、すなわち、生活手段に含まれていた価値が労働者に再対象化(移転)されるということです。
しかし、「社会の総労働力は、無数の個別的労働力から成っている」のですから、「これらの個別的労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力という性格をも」っている限りは、必要な生活手段の質と量もほぼ同等と見なされるでしょうが、労働の熟練および強度が異なる労働力については、必要な生活手段も異なってきます。例えば、複雑労働の労働力の形成・維持において、必要な訓練・学習・研修が必要とされるならば、その費用も必要な生活手段に組み込まれます。
「私的生産者の社会では、私人またはその家族が熟練労働者の養成費を負担する。だから、熟練労働力のより高い価格も、さしあたって私人のものとなる。すなわち、熟練した奴隷はより高価に売られ、熟練した賃金労働者はより高い賃金を支払われる。」(エンゲルス「反デューリング論」)
見落としてならないのは、資本主義では労働力が商品となりますが、資本主義以前でも、労働力は商品にならなくても、労働者には労働が再対象化されていたという点です。労働力の生産には、必要な生活手段を消費せねばならず、したがって、労働者の労働力には、自分ないし他人の労働力が対象化・再対象化されているはずです。それは、商品生産の社会でなくても、労働生産物には有用労働・抽象的人間労働が対象化されているということと同じです。ただ、商品社会以前では、労働生産物の交換という社会的活動はありませんから、労働生産物が商品にならなかっただけです。
このことは、生産という概念は、「生産物の生産」と「人間の生産」との二面性・矛盾として把握しなければならないことを明確に示しています。答49・答50で「生活手段の生産と消費による人間の生活」、すなわち「物質的な生活の生産」に関して、「労働の生産関係」=「人と人との労働の分担の関係」を取り挙げました。「労働の生産関係」という場合、常識的な・「生活手段の生産における人と人との関係」だけでなく、「人間の生産」=「生活手段の消費における人と人との関係」も含まれるのです。ここでは、詳細を議論することはしませんが、マルクスは「批判序説」の中で、「生産」と「消費」に関して、これを対立物の統一=矛盾として把握し、両者が相互浸透の関係にあることを指摘しています。生活手段の消費は、主に、家族・家庭の中で行われますから、アジア的・古代的・封建的・資本主義的生産様式という場合、家族における様式の違いも、含んでいます。古代の奴隷の家族は、奴隷所有者から生活手段を供給され、中世の農奴は、自らの労働で生活手段を自給し、近代の労働者は、商品となった生活手段を賃金で購買する。資本主義的生産様式の場合、生活手段の消費=人間の生産=労働力の生産・再生産も、資本の運動の中に組み込まれてしまうという特徴があるのです。
エンゲルスは、先の引用文に続けて、次のように言っています。
「社会主義的に組織された社会では、社会がこの費用を負担する。だから、その果実、すなわち、複合労働によってつくりだされた大きな価値も、社会に帰属する。労働者は追加の要求権をもたない。」
社会主義社会では、資本主義下での労働力商品の私的性格、それは、家族の私的性格(労働力の生産費用を家族が負担すると言うこと)から来ているのですが、それが克服されるので、賃金はすべて同一になると同時に、教育費・医療費などは無料になるということです(答53)。資本主義下での労働力の生産の様式も、社会主義下で変革される、いや、変革されねばならないのです。

第3篇第5章第1節 労働過程

問5-1:(第1段落)「労働過程はまず第一にどんな特定の社会形態にもかかわりなく考察されなければならない。」とありますが、これは、アジア的、古代的、封建的、資本主義的生産様式にかかわりなく、という意味と考えていいのですか。
答5-1:その通りです。貨幣の分析が、商品という抽象から開始されたように、資本主義におけるさまざまな特殊な労働、マニュファクチュア、大工業の労働まで含めて、の分析を、抽象的な労働から開始するということです。
マルクスは、「資本論」においては、抽象から具体へという説明の仕方を取っています。
「労働、分業、欲望、交換価値のような単純なものから、国家、諸国民間の交換、世界市場にまでのぼっていく経済学の諸体系がはじまった。この後の方法は、あきらかに科学的に正しい方法である。」(「批判序説」以下同様)
しかし、成立した科学が体系化される過程と、科学の成立する過程とは、向きが逆です。
「たとえば17世紀の経済学者たちは、いつも生きた全体、つまり、人口、国民、国家、いくつかの国家等々からはじめた、しかしかれらは、いつも、分析によって二、三の規定的な抽象的一般的諸関連、たとえば分業、貨幣、価値等々をみつけだすことにおわった。」
例えば、エンピツとボールペンとサインペンという具体物をそれぞれ分析して、筆記具という抽象物を取り出します。更に、消しゴムやノートを付け加えて分析し、更にまとめて、文房具という抽象物を取り出します(答4)。同じように、労働力商品、貨幣、個々の商品を分析して、商品一般をいう抽象物を取り出しました。具体から抽象へ、これが科学の成立する過程というわけです。これを下向法といいます。否定の否定の定理(答2-6)を使って、第一の否定といってもいいと思います。
科学の体系化というのは、こうして到達した抽象から、具体への総合化・体系化です。これを上向法といいます。第二の否定です。例えば、文房具という抽象物から、筆記具へ、エンピツやボールペンやサインペンへと具体化していく、商品一般という抽象物から、貨幣へ、労働力商品へと展開していくのが、科学の体系化というわけです。ですから、マルクスは、「資本論」を、商品一般という抽象物から始めたのです(答2)。
ところで、具体から抽象へという過程では、個々の特殊性を捨て、共通性・普遍性を取り出していきます。ですから、逆の抽象から具体へという過程では、抽象した共通性・普遍性に、特殊性を付け加えて行かねばなりません。その場合、具体から抽象への出発点である具体物を表象として念頭に置いた上で、捨て去った特殊性を普遍性に加えていかねばなりません。「だから理論的方法においてもまた、主休が、社会が、いつも前提として表象に浮かべられていなければならない。」筆記具という抽象物からエンピツという具体物へと展開するためには、芯に黒鉛を使っているという特殊性を思い出して、それを筆記具という普遍性に加えねばならないのです。そうすれば、抽象から具体へという過程の結果としての具体物は、具体から抽象への出発点である具体物と異なって、普遍性と特殊性との統一・総括として把握されます。エンピツは、筆記具という普遍性と芯に黒鉛を持つと言う特殊性との統一として、理解されると言うわけです。これは、否定の否定の成果としての具体物です。「具体的なものが具体的であるのは、それが多くの規定の総括だからであり、したがって多様なものの統一だからである。」
具体から抽象への第一の否定と、抽象から具体への第二の否定は、対立物の統一=矛盾として、把握せねばなりません。これを切り離して、第二の否定を第一の否定と全く関係なく取り上げると、間違いが起こります(答3-11)。抽象から具体への過程だけを見ると、抽象というのは共通性・普遍性を取り挙げたものですから、表面的には現れていませんが、潜在的に特殊性を含んでいます。そこで抽象から具体への過程では、あたかも普遍性から特殊性が魔法のように現れてくるように見えます。筆記具という抽象物に、芯の黒鉛という特殊性が幻のように現れて、エンピツとなるというわけです。マルクスは、ヘーゲルがこのカラクリにハマってしまったために、観念論に足を踏み外したと見たのです。
「だから思考においては、具体的なものは、総括の過程として、結果としてあらわれ、出発点としてはあらわれない、たとえそれが、実際の出発点であり、したがってまた直観と表象の出発点であるにしても。第一の道では、完全な表象が発散されて抽象的な規定となり、第二の道では、抽象的な諸規定が思考の道をへて具体的なものの再生産にみちびかれる。そこでヘーゲルは、実在的なものを、自分を自分のうちに総括し、自分を自分のうちに深化し、かつ自分自身から動きだす思考の結果であるとする幻想におちいったのであるが、しかし抽象的なものから具体的なものへ上向する方法は、ただ、具体的なものを自分のものにするための、それを精神のうえで具体的なものとして再生産するための、思考にとっての仕方にすぎない。だがそれは、けっして、具体的なもの自身の成立過程ではない。」
この文の中の第一の道を第一の否定、第二の道を第二の否定と読み替えてください。マルクスは、ヘーゲルが、抽象から具体への第二の否定を、具体から抽象への第一の否定と切り離してしまったために、第二の否定の結果としての具体的なものこそがあたかも外部に「客観的に」存在するかのように錯覚し、ヘーゲルの頭の中だけで起こっている抽象という思考を、精神という実体の行為として解釈し、すべての学問を絶対精神の自己展開として記述したのだと断定したのです。
なお、ここで、もうひとつ言っておきたいことがあります。これまでは、生産物の流通の分野を扱ってきましたが、ここからは、生産物の生産の分野に足を踏み入れるということです。このことは、生産と流通を対立物の統一=矛盾として扱うことを意味しています。予想される通り、後に、生産と流通が相互浸透の構造を示していくのですが、当面は、生産分野に留まっていますので、その時に更に説明を加えましょう。

問5-2:(第2段落)この段落で述べられている「労働」は、第1章第2節第7節(問12)で取り上げられた「有用労働」と同じ意味ですか。
答5-2:その通りです。同じ抽象のレベルで取り上げられています。
労働をこの抽象的なレベルで理解するということは、労働というものを、人間と自然との・抽象的な対比の中に置いてみるということです。「労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である。」それは、労働を、人間と自然との矛盾として、人間の本質として理解するということです。そこで、この段落に書かれてある内容を参考にして、自然(A)と人間(B)の関係について、論理的に考えてみましょう。
人間は、母親の胎内から生まれ落ちたままでは生きられません。なぜなら人間は、他の動物のように、生れ落ちてすぐに立てるわけでも走れるわけでもなく、教えられなくても食料を捕獲することができるわけでもないからです。人間は、そのままでは、自然に適応できないのです。このことは、ヒトへの進化の過程でもいえることです。他の動物は、自分の個体の形態を、外界の特殊な自然環境に合わせて特殊化させるように、進化してきました。それに合わせて、脳を持つ動物は、自身の行動を特殊な環境に合わせるように変容させ、それを本能として子孫に伝えることによって、適合した行動を保存してきました。しかし、ヒトは違います。ヒトは、サルから直立歩行するように進化してきましたが、それは、直立歩行によって前脚が解放され、石を投げたり物を取ったりすることのできる手によって、縛り付けられていた大地から離れ、本能の代わりに、意識を担う特殊な物質=大きな脳を手に入れたことによって、特殊な環境から相対的に自由になれるような過程であったように見えます。それは、他の動物のように自分自身を特殊化して特殊な環境に適応する代わりに、取り巻く環境の方をヒトに適した自然に変える道を選んだわけです。すなわち、人間(B)は、自然(A)と異なった存在になったのです。
しかし、異なった存在といっても、まったく異なっているわけではありません。人間(B)は、自然(A)と同一の側面(直接的同一)を持っています。「人間は、自然素材に対して彼自身一つの自然力として相対する。」「彼の肉体に備わる自然力」とは、「腕や脚、頭や手」のことです。
人間(B)は、この同一性を利用して、自然(A)との間に媒介関係(媒介的統一)を結びます。それは、人間(B)が自然(A)と異なった存在となったと言っても、他の生物同様に、自然(A)を離れては生きていけないことに変わりはないからです。「人間は、この運動によって自分の外の自然に働きかけてそれを変化させ」ます。それは、自然(A)を人間(B)化する(直接的同一)ことです。同時にそれは、人間(B)を自然(A)化することに繋がります。「彼は、自然素材を、彼自身の生活のために使用され得る形態で獲得する」。また、「そうすることによって同時に自分自身の自然を変化させる。彼は、彼自身の自然のうちに眠っている潜勢力を発現させ、その諸力の営みを彼自身の統御に従わせる。」
自然(A)と人間(B)との間にも、以前(答42、答3-12)説明した対立物の浸透の定理(答3-10)が存在しているのです。対立物の相互浸透(弁証法の第2定理)を一般化すると、次のように纏められます。
@ 直接の同一性;対立物Aが、Bの側面を持ち、BはAの側面を持ちます。
A 相互依存性;相互は依存しあっており、ここに一つの媒介運動が起こります。AはBを、BはAを媒介するのです。
B 相互の完成;媒介運動を基礎(構造)にして、AとBが相互に浸透し、AとBが最後の仕上げを受ける、AがB化し、BがA化します。
自然(A)と人間(B)を対立させて考えていますが、その直接的同一性には、もっと広い意味があります。それは、この同一性の浸透性・最後の仕上げといってもいいのですが、人間(B)が自然(A)に成るということです。この場合の自然(A)というのは、母なる大地である地球そのものの意味です。
人間(B)以外の生物にとって、地球は、それぞれの生物の特性に適合した特殊な生活環境を提供してくれる母親のようなものです。それぞれの生物自身も、その特殊な環境の中で生活してゆく限りで環境自体にも反作用を与えるわけですが、生物自身にとっては自然環境から与えられるものの方が、圧倒的に大きいのです。その環境こそが、その生物を特殊な形態を持つ生物へ進化させてきた原動力といってもいいでしょう。そういう意味で、地球という自然(A)は、それぞれの特殊な生物にとって、普遍性を持っているといえます。
これに対して、人間(B)は、精神という・他の生物が持たない特性を獲得することによって、精神と物質という二重化した存在となり、それによって自らの生活環境を自ら創造することができる可能性を手に入れました。トラに変身しなくても、猟銃とジープで獲物を捕獲する猟師になることができ、アシカに変身しなくても、船と漁網で漁をする漁師になることができます。更に、家畜を飼い、魚を養殖することもできるようになりました。このことは、人間(B)は、あくまでヒトという種全体として・人類として、自然(A)を特殊化することによって、自らは普遍性を示しているとも言えます。人間(B)の歴史は、自然(A)の持つ普遍性を、自らが獲得する過程であるともいえるわけです。それが、人間(B)が自然(A)に成るという意味です。人間(B)は、自然(A)の人間(B)化を完成させることによって、人間(B)の自然(A)化を完成させるのです。
マルクスは、「労働は、まず第一に自然と人間とのあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである。」としていますが、これは、自然と人間とを対立物の統一として、労働をその対立物の媒介運動として理解するものです。更に付け加えて、「ただ人間だけにそなわるものとしての形態にある労働」として、「建築師は蜜房を蝋で築く以前にすでに頭の中で築いているからである。労働過程の終わりには、その始めにすでに労働者の心象の中には存在していた、つまり観念的にはすでに存在していた結果が出てくるのである。」「彼は、自然的なもののうちに、同時に彼の目的を実現するのである。」としています。これは、人間が、他の動物と異なって、精神を持つ二重化した存在であるからですが、わざわざここで労働のこの側面に注意を促しているのは、ヘーゲルとの違いを際立たせる為でもあります。
答2-1で説明したように、ヘーゲルは、人間が観念的・精神的対象化をするという事実を取り挙げ、それを観念的に解釈して、人間の観念・精神・意志が人間の頭の中から抜け出して物の中に入り込むと解釈しました。「労働者の心象の中に存在していた、つまり観念的にはすでに存在していた結果」が「労働過程の終わりに」出てくるという事実から、その精神的側面のみを取り挙げたものでした。逆に、マルクス以前の旧い素朴な唯物論は、この労働の精神的・能動的側面を理論的に扱うことができませんでした。マルクスらは、唯物論に弁証法を取り入れることによって、この問題を解決したのでした。「これまでのあらゆる唯物論(フォイエルバッハのをふくめて)の主要欠陥は対象、現実、感性がただ客体の、または観照の形式のもとでのみとらえられて、感性的人間的な活動、実践として、主体的にとらえられないことである。それゆえ能動的側面は抽象的に唯物論に対立して観念論―これはもちろん現実的な感性的な活動をそのものとしては知らない―によって展開された。」(フォイエルバッハに関するテーゼ)つまり、労働の対象化は、肉体的な労働の対象化であると同時に、精神的な労働の対象化を伴うということを、労働の二重化した構造全体を、把握する必要があるのです。
自然(A)の人間(B)化は、労働の対象化です。労働対象である自然を、労働によって、人間にとって有用なものに変えていく、労働による必要生活手段の生産ということです。人間(B)の自然(A)化は、労働の再対象化です。自然が与えてくれたままの物に替えて、労働によって生産した物を消費し、その労働生産物によって衣食住の生活環境を整え生活していくということです。この全過程を、「物質的な生活の生産」と呼びます(答49)。労働の対象化は、労働生産物の生産ですが、労働の再対象化は、人間の生産・労働力の生産です(答4-12)。ここで労働の対象化と再対象化が、否定の否定の定理(弁証法の第3定理)に当てはまっていることにも、注意を払ってください(答3-13)。労働の対象化を第一の生産、労働の再対象化を第二の生産といってもいいと思います。答8において、前者に関して、労働の生産力を説明しました。
この二つの対象化の間には、矛盾が存在します。労働の生産力(第一の生産)が、人間の社会を維持するのに必要なすべての生活手段を生産できるほど十分に高まっているのならばいいのですが、人間の歴史の初期には、そうはいきません。社会を維持し発展させようとすれば、労働の生産力を高める必要がありますが、そうはいっても直ちに高まるわけではありません。それには、途方もなく長い時間がかかります。ところで、労働の生産力は、労働の生産関係を媒介しますが、生産関係自体が生産力でもあると言う直接的同一性が存在します。そこで、第一の生産力を高めずとも生産力を高める(第一の生産力をそのままに、剰余労働産物を増やす)仕方として、自然発生的に、生産関係を生産力として利用する方法が採用されたのでした。答50で、エンゲルスが、このことを「分業の法則」と呼んでいることを紹介しました。
生産関係自体が生産力でもあるというのは、人間同士が相互に浸透し合うからです(答11)。人間は、自分一人だけで自然と向き合っているわけではありません。人間Aが生産した生活手段が人間Bの元へ運ばれ、人間Bがそれを消費して生活していくことによって、人間Aの対象化した労働が、人間Bに再対象化されます。例えば、猟師の捕獲した獣の肉や革を使って漁師の生活が成り立としたら、猟師の対象化した労働が漁師に再対象化されるということであり、家族の中で母親が子供に服を作って着せるとしたら、母親の対象化した労働が子供に再対象化されることであり、母親が子供の好みに合うように服の色や柄を変えるとしたら、服には母親の精神的労働も対象化されているということです。自然(A)と人間(B)との間に対立物の浸透の定理が成り立つと同様に、人間Aと人間Bとの間にも、対立物の浸透の定理が成り立つのです。すなわち、「人間(B)は、あくまでヒトという種全体として・人類として、自然(A)を特殊化することによって、自らは普遍性を示している」というのは、人間は、人間同士の相互浸透を媒体にして、自然(A)と人間(B)との相互浸透を行うからです。人間同士は意識していなくても、客観的に見れば、人間Aと人間Bとの間に、協働関係が成立しています。同様に、人間Aと人間Bとの間に、否定の否定の定理が当てはまります。このこともまた、人間(B)が自然(A)と異なる存在であるという理由です。
ところで、答5-1で示したように、マルクスは、抽象から具体へという論理的展開の仕方をしていますから、ここで、資本主義的生産様式以前の生産様式に関して、労働の生産力・第一の生産と第二の生産との矛盾の観点から、再度、簡単に論理的な説明を加えておきましょう(答36、答52)。(生産様式というのは、生産力と生産関係の相互関係を総合した形態の呼び方です。)
 人類初期の原初的共同体では、労働の生産力は極めて限られたものでした。第一の生産の低さが、人間・労働力の生産(第二の生産)を決定していたのです。そのため、直接的な相互協力による強固な生産関係、すなわち、経済的土台は農耕でしたから、土地の共同所有に基づく共産制が要請されたわけです。血縁関係を色濃く残した氏族制度は、そういう土台に直接的に対応した上部構造でした。逆に、その上部構造が、第一の生産力の発展に制限を与えていたと言った方がいいでしょう(答3-15)。
原初的共同体の生産様式は、それなりに意外と強固なものです。外部の攪乱が少なければ、相当長い間続くはずです。その場合、ちょうど鏡餅を重ねるように、共同体同士が上下関係で結びついて、頂点に立つ特殊な共同体とその下に連なる下部の共同体の間で役割分担が進み、頂点の共同体が「労働の指揮、国務、司法、科学、芸術などの社会の共同の業務」を担い、下部の共同体が生産労働を専任するという場合もあるでしょうし、その間に共同体の枠が次第に消失し、一つの大きな共同体に纏まって、頂点に一個の家族が立つと言うことになることもあるでしょう。これが、アジア的生産様式です。
この生産力と生産関係の矛盾を打ち破って第一の生産力を拡大するには、まずは共同体から分離せねばなりません。それは、氏族制度から分離して、個別的な家族を形成することですが、同時に、私的所有の世界に足を踏み出すことになります。それ以来、土地の私的所有が土台の中に組み込まれました。またそのことは、個々の家族がバラバラになり、経済的に敵対関係に置かれる可能性があることを示しています。そうなれば、生産関係を利用して生産力を高めることができなくなります。そのため、私的所有を保持しながらも、その枠内で、共同体としての纏まりを保つ必要があります。その矛盾を実現したのが、経済的土台と政治的上部構造の二重化=国家でした。それ以来、国家は、経済的対立を統制して封じ込め、上部構造における政治的秩序の維持・統一を担う運命を課せられたのでした(答3-15、答4-5)。
原初的共同体崩壊後の農耕と私的所有を前提するならば、そこからの分離は、個別家族による小規模分割地農耕が論理的に導かれます。その上で、生産関係が生産力となるために共同体を形成するという選択をするならば、その方法は二つしかありません。個別家族が対等に結びつくか、それとも、個別家族を役割分担で二分し、一方に生産的労働を、もう一方に「労働の指揮、国務、司法、科学、芸術などの社会の共同の業務」を割り振るという仕方です。前者の生産関係を採る場合には、労働の生産力を高めようとする場合、必然的に、個別家族の中での役割分担、専ら労働に従事する奴隷とそれを指揮監督する家長との分業体制を採るしかありません。それを大規模に社会的に制度化したのが、古代の奴隷制です。一方、後者の生産関係を社会全体に拡張し固定したのが、位階制的土地所有制に基づく封建的生産様式なのです。
実際に、原初的共同体の崩壊に続いたのは、前者、小規模な分割農地の所有に基づく私的家族の比較的平等な団結による政治的共同体でした。その中心が、古代ギリシャ・ローマの都市国家です(答36)。共同体同士の対立が戦争を引き起こしていましたから、都市国家は、専ら、戦争を共同で行うための軍事共同体でした。この家族には、家長による家族員の労働力所有=奴隷の萌芽が潜在的に含まれていましたから、戦争によって獲得された捕虜は、容易に奴隷に転化されました(答31)。そこで、生産的労働に従事する奴隷と、戦争や共同業務に従事する土地所有の市民という大規模な分業体制へと、発展したのです。しかし、この生産関係には、弱点があります。生産労働を過度に奴隷に依存したため、奴隷の供給が絶たれたり、奴隷が生産した大量の生産物の販路が絶たれると、生産力自体を制御できなくなります。こうしてこの生産様式は崩壊していくのです。
その後に続いたのが、封建的生産様式を採用したゲルマン系の民族でした。古代の奴隷に代わって、生産的労働に従事するのは、農奴でした。農奴は、奴隷と違って、土地を所有していました。ただ、自ら土地を守ることができないため、その所有権を庇護者に譲渡し、庇護者は土地所有権を独占する代わりに、軍隊を指揮して農奴を守護するという分業体制をとったのでした。これは封建体制という固定した身分制度に発展しましたが、この生産関係の下では、労働の生産力(第一の生産力)の向上には、おのずから一定の限界がはめられていました。そうして、分割地農耕に従事する農耕家族が、領主に供出する生産物を越えてある程度の余剰を生産し始めるようになった時、次第に封建制度が崩れて行くのでした(答30、答46、答50)。
「資本論」では、労働の生産力の論理については、この「第3篇 絶対的剰余価値の生産」で、生産関係と生産力の直接的同一の論理については、「第4篇 相対的剰余価値の生産」について、詳細に述べられています。

問5-3:(第5段落)「なにがつくられるかではなく、どのようにして、どんな労働手段でつくられるかが、いろいろな経済的時代を区別するのである。労働手段は、人間の労働力の発達の測定器であるだけではなく、労働がそのなかで行われる社会的諸関係の表示器でもある。」とありますが、労働手段は、生産力の発達段階を示しているということですか、生産関係も表していると言うことなのですか、なぜ、そういえるのですか。
答5-3:普通は、労働手段は労働生産物ですから、労働対象は同じでも、労働手段が変われば労働の生産力は大きく変化します。また、労働手段が、一人の労働者によって使われるものなのか、それとも多数の労働者の協働によって使われるものなのかによっても、労働の生産力が変わってきます。
例えば、衣類を作るための紡績・織布・裁縫労働を考えてみましょう。資本主義以前の中世の農村において、各農家では、女たちが、簡単な道具を使って、麻や羊毛などから糸を紡ぎ布を織って、衣類を手作業で作っていました(答30、答46)。ところが、資本主義が始まると、それは多数の労働者が、機械を使って工場で大規模に行うようになりました。これは、主として、労働手段の発達による労働の生産力の発展です。また、その労働手段は、前者は自家需要のための家庭内作業用ですが、後者は販売を目的とした大量生産用であり、最初から多数の労働者による作業を前提として作られています。すなわち、労働手段は、労働の生産力の発達の程度を表していると同時に、労働が行われる労働者同士の社会的関係を表してもいるわけです。
この段落では、労働手段が、自然(A)の人間(B)化として把握されていることにも注意してください。「彼自身の肉体的器官」というのは、人間(B)にとって自然(A)との直接的同一の側面ですが、労働手段は、自然(A)を人間化して、「彼の自然の姿を引き延ば」して「自然的なもの」を「彼の活動の器官」にするのです。このように、労働対象や労働手段が、「労働によって媒介された変化を受け」、更にその上に労働が積み重なっていくことが、浸透なのです。浸透が進むことによって、自然(A)がますます自然(A)から切り離され、人間(B)に近づいてきます。

問5-4:(第8段落)「生産的労働」のところに注があって、「このような生産的労働の規定は、単純な労働過程の立場から出てくるものであって、資本主義的生産過程についてはけっして十分なものではない。」とありますが、どういう意味ですか。
答5-4:「単純な労働過程」というのは、抽象的な・一般的な労働過程という意味です。それは、最初(答5-1)にありましたように、「どんな特定の社会形態にもかかわりなく考察され」る労働過程という意味です。次の節で説明されますが、資本主義的生産過程は、その抽象的な規定に加えて、特殊な規定を与えねばならないということです。
個別は、普遍・一般・抽象と特殊との直接的同一です。一つ一つ個別的なものは、それぞれ特殊性を持っており、だからこそ異なっているわけですが、共通の性質(普遍性・抽象的性質)に貫かれています。アジア的、古代的、封建的、資本主義的生産様式の下での労働過程は、それぞれ特殊性を持っており異なっていますが、労働過程として共通性・普遍性を持っているのです。その普遍性が、答5-2の労働=自然と人間との対立として労働を把握することなのです。

問5-5:(第17段落)「労働過程で役立っていない機械は無用である。」とありますが、その機械は、故障していると言う意味ですか。
答5-5:そういう意味ではありません。故障しておらず、役に立つ状態にある機械でも、労働過程(生産過程)で機能を発揮していないならば、労働手段ではなく、生産力の一端を構成する要素になっていないと言う意味です。どのような労働対象・労働手段であっても、それが労働過程で役に立っていないならば、可能性としてそうであっても、現実性としてはそうなっていないということです。その可能性を現実性に変えるのが、「生きている労働」です。言い換えれば、機械、すなわち、「過去の労働の生産物」である労働手段を生き返させるのは「生きている労働」ですが、資本主義的生産過程では、「生きている労働」が労働手段である「過去の労働」に支配されるのです。この矛盾が、言外に含まれています。

問5-6:(第21段落)「労働者を他の労働者との関係の中で示す」と書いてありますが、これは「生産関係」のことですか。それとも、例えば、協業などのような労働形態のことですか。
答5-6:ここで「労働者との関係」と書いてあるので、実際に労働に従事する者相互の関係を示しているように思えるかもしれませんが、ここでは自然と人間との関係を議論しているので、この場合の人間は、労働を本質として持っているとしているので、「人間を他の人間との関係の中で示す」と言い換えることができます。ですから、ここでは、「生産関係」のことを意味しています。
ここで、再度、強調しておきたいことは、唯物史観でいう「生産関係」の理解の仕方です(答4-12)。
「生産」というと、普通は、農業(生産)や工業(生産)などの産業における生産を指すでしょうから、常識的には、「生産」を、必要生活手段や生産手段(労働対象・労働手段)の生産のことと考え、それに関係する人達の関係を「生産関係」、そういう生産・労働の有様・特殊な様式のことを「生産様式」と考えがちです。ですから、具体的には、例えば、「資本主義的生産関係」とは、マニュファクチュアや大工場で働く労働者同士の関係や、労働者と雇主である資本家との関係を指すように思えるし、例えば、「封建的生産関係」は、中世において主たる産業は農業でしたから、荘園で働く農奴と領主の関係、あるいは、都市の職人と親方の同職組合のことを指すように思えます。
しかし、唯物史観で「物質的生活の生産」というのは、それだけに限定されません。「生産」を生活手段・生産手段の生産ということだけだと解釈してしまうと、生活資料の消費による「労働力の生産=人間の生産」・家庭における生活過程や労働力の育成・回復=教育・医療などの行為、あるいは、消費だけは行うが直接的な生産活動に従事しない人達・「直接の生産活動から解放された一階級」「労働の指揮、国務、司法、科学、芸術などの、社会の共同の業務」に従事する人々(エンゲルス「反デューリング論」)が、視点から抜け落ちてしまいます(答50)。絶海の孤島に住むロビンソンでもない限り、社会の中に生きて生活している人ならば、生活手段(使用価値)を消費して生活しているはずです。それは、その社会の中で生活手段を生産する人々の生活と何らかの関係を築いている・依存関係にあることを意味します。唯物史観では、そういう社会全体の中での人と人との関係をひっくるめて、「生産関係」と呼んでいるのです。
唯物史観では、「生産力が生産関係を規定する」としていますが、それは、「生産関係が生産力でもある」という側面を含めているからです。一定の社会が歴史的に社会として纏まり成り立っているということは、人々が意識しているか否かにかかわらず、その社会全体で見て「分業の法則」が成立していることを意味しています。それは、社会としての集団力であり、指揮者が登壇することによって、オーケストラの中に各楽器のパートの「分業」の間に調和が生まれ、それによってもたらされた集団力によって、シンフォニーを奏でられるようなものです。特に、労働の生産力が低く、「社会の総労働が、全員がかつがつ生きてゆくのに必要なものをほんのわずか上まわるだけの生産物しかもたらさないあいだは、したがって、大多数の社会成員の時間の全部またはほとんど全部が労働にとられているあいだは、」生産関係が生産力でもあるという直接的同一の側面を利用するようになっているのです。
ただし、「物質的生活の生産」の土台としての一般的な生産関係と、その特殊なありかたとは、区別して把握する必要があります。例えば、今日の世の中は資本主義であるからといって、そのすべてが「資本主義的生産関係」というわけではありません。「資本主義的生産関係」というのは、私たちの世界を結び付けている生産関係の中の特殊な生産関係を指しています。それは、資本家と彼が所有する生産手段(労働対象と労働手段)及び雇用した労働力との所有関係に基づく生産関係です。第25段落にあるように、これによって、労働者の生産した生産物が資本家の所有物になるわけですから、この資本主義的所有関係こそが、資本主義的生産関係なのです。労働者が、自宅の庭の家庭菜園で、ホームセンターで買った種と道具で野菜をつくっても、それは資本主義的生産関係ではありません。

第3篇第5章第2節 価値増殖過程

問5-7:(第14段落、第23段落)第14段落「労働力の支出」、また第23段落「労働力がすることのできる生きている労働」と書いてありますが、「一労働時間が綿花に対象化されている」とありますから、抽象的人間労働の支出ではないですか。
答5-7:そう考えてもらっていいと思います。
ただ、抽象的人間労働という実体が、労働者の体から「支出」・抜け出して移動して、生産物に固着するのではありません。抽象的人間労働は商品価値を形成する実体であって、実体自体は移動もしなければ価値でもないのです(答6、答7)。価値は、労働生産物が担う抽象的人間労働との関係を指すのであって、その関係を形成するのが労働過程=労働の対象化=生きている労働から死んだ労働への転化なのです。
(その価値の一般化した等価物を実体化したのが、貨幣でした(答45、答4-5)。商品の世界と貨幣の世界とへ、世界が二重化した結果、商品から貨幣へ、貨幣から商品へと転化することによって、商品流通が可能になったのでした(答3-13、答3-15)。)
労働力を使用価値とする特殊な(労働力)商品の価値は、その商品に対象化されている労働時間です。それは、労働力の形成・維持・回復過程で消費される生活手段を生産するに必要な労働時間に帰着します。労働力商品において、使用価値としての労働力=生きている労働自体は、価値ではありません。そこを押さえておいてください。
また、ここで気を付けておいていただきたいのは、議論している場が、商品の生産過程である点です。いままで価値について分析してきたのは、商品の交換・流通過程の場でした。そこにおいて、商品から貨幣が生まれ、貨幣流通へと論理的に発展し、そこにおいて労働力商品が出現するに及んで、資本の領域へ移動してきたのでした。労働力商品を発見したのは、商品市場でした。いまは、そこから生産・労働過程へと移動してきています。
商品の流通過程で、一般的等価物が貨幣となり、個々の商品が価格を得た段階から、すべての商品で使用価値と貨幣で評価した価格を持つと言う二重化が一般化していきます。それが生産過程にも浸透して、生産過程の二重化がはかられるのです。私たちは、実際、個々の会社・企業を、商品の生産という観点と利潤・利益を生むと言う観点から二重に見て行くでしょう。その根拠が、ここにあります。

問5-8:(第25段落)ここに書かれてある状況からすると、資本家は、綿花・紡錘量・労働力を買い、商品=糸を売ったのですから、3シリングの剰余価値は、製造業で「売上高」から「売上原価」を引いた「売上総利益(粗利益)」に相当すると考えていいのですか。その場合、販売費・一般管理費はどうなるのですか。営業活動は、評価されないのですか。
答5-8:あなたは、あなたの会社・仕事に照らし合わせて考えているのですね。
この段階では、きわめて抽象のレベルが高いところで議論しているので、個々のケースに適用するには、あまりにも多くの特殊性を考慮せざるを得ないのでやや無理なところはあるとは思いますが、それでは理解しにくいこともあるでしょうから、後に訂正させていただくことをお許し願うとして、できるかぎり試してみましょう。
では、(株式)会社の決算書の損益計算書を参考に、どの項目に当たるのか、考えてみましょう。
資本家は、市場にて生産手段と労働力を買ったのですから、それはそれぞれ材料費(減価償却費を含む)と労務費に相当します。
製造原価=売上原価=原材料費+労務費=27シリング
・原材料費:20ポンドの綿花20シリング+1紡錘量4シリング
・労務費:紡績工の1日(12時間)分に相当する労働賃金3シリング
また、生産した20ポンドの糸を市場で売って30シリングを得たのですから、
売上高=30シリング
売上総利益=売上高−売上原価=3シリング
この場合、資本家が自分で営業し管理していますから、販売費+一般管理費はかからなかったということになって
営業利益=売上総利益−(販売費+一般管理費)=3シリング−0シリング=3シリング
つまり、ここで言っている「剰余価値」というのは、あなたの会社の営業利益に相当するということになるでしょう。
ところで、あなたの会社での営業活動については、製造原価の中に入っていません。(詳細に見ると、その中にも、例えば運搬費など、商品の生産費用に入るものもあるのですが、ここでは議論を単純にするために、入らないとしています。)糸の売上高、すなわち製造原価は、あくまで商品の生産過程の中で消費されるものによって形成されるのであって、流通過程でいくら消費しても、その費用は生産費に中に入らないからです。しかし、実際には、売上総利益から、営業・管理活動の経費を差し引いて、営業利益を求めます。それは会社にとって、必要だからです。
商品の価値形成に入らないからといって、会社の活動に不必要というわけではありません。ただ、その経費は、「剰余価値」から差し引かれているということです。一般的に言って、そういう仕事は、本来は資本家的な仕事だからです。無論、資本家的な仕事といっても、例えば社会主義体制になれば無駄になるものだけではなく、そうなっても必要なものもあります。それは会社の中の分業によるのですから。
資本論の優れたところは、「剰余価値」の源泉を明らかにした点にもあります。剰余価値を、資本家ではなく、労働者の労働力商品の矛盾に帰着させたのは、マルクスが初めてなのです。あなたは、会社の中で、日々仕事の経済的効率を求められ、経費を節減することを強いられていると思いますが、それがどういう意味を持っているのかを理解することが大切です。
唯物史観的な見方から、古代の奴隷・中世の農奴・近代の工場の労働者などの労働を担う人々が、社会全体を支えてきたしこれからも支えて行くという一般的な社会観が得られます。この視点に立って、社会全体を見て行くことが、重要です。社会の仕組みがどうなっているかを理解することを通して、人として、社会の中でどう生きて行けばいいのかを考える手がかりが与えられます。

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