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「弁証法の理解のために」


この「ノート」には、それぞれの「ノート」で論じ得なかった部分を、取り上げていこうと思う。

1、「資本論」に対する弁証法の位置づけ

私は、「資本論」を弁証法の応用という観点から読み解いている。特に、エンゲルスの発見したいわゆる3法則(量質転化の法則、相互浸透の法則、否定の否定の法則)を使いながら、それを中心にして解説している。なぜなら、この3法則こそ、弁証法を運用する場合のキーポイントと考えるからである。ただ、私のようにして「資本論」を読み解いている人は、私以外いないようである。
しかし、「資本論」の中に、具体的に弁証法を適用した箇所が示されているわけではない。いや、「弁証法」は、表面的・直接的には表現されていないといってもよい。それは、弁証法は、「外部の世界および人間の思考の運動の一般的な諸法則に関する科学」(「フォイエルバッハ論」)であるから、経済学という一つの特殊な科学の記述における特殊性の中では、弁証法の一般性は形式的には否定されており、ただ、内容的に保存されているにすぎないからである。つまり、弁証法は、資本論の中の運動の論理的な一般性として、主体的に把握せねばならないのである。
「自然弁証法ノート」の中で説明したように、弁証法の原理は、一言で言えば、矛盾=対立物の統一の原理と言い表せる。この原理に対し、エンゲルスの3法則は、原理に対する定理のような位置を占めていると考えていいであろう。定理とは、原理から導かれ、それぞれ特殊な条件下で成立する、特殊な法則といえる。原理ほど一般性はないが、それでもそれぞれの領域では重要なキーポイントであるからこそ、定理として導いて置く価値があるものである。特に3定理は、ダイナミックに変わっていく変化・展開・交互作用という把握しにくい対象の運動形態に対し、その法則的把握に手がかりを与えるものである。
弁証法を真に理解するためには、これを自分で使ってみることである。弁証法の3法則を単に暗記しただけでは、理解したことにはならない。実際に適用してみてその有効性を確信した時、はじめて真に理解したと言い得る。そのためには、まず、問題に立ち向かい弁証法を適用してその答えを見出した答案を、十分に検討することである。ちょうど、数学や物理学の定理を学んだ後で、その定理を使って応用問題を解く解き方を学ぶようなものである。そうしてはじめて自信を持って、自分自身で問題に立ち向かって問題を解くことができる。
従って、資本論の記述を3法則に従って解釈するのは、そういう練習問題の好例を検討することであり、定理を使えるようになるために大切であるばかりでなく、弁証法の原理的理解に通ずるものである。また、これによって、「資本論」の論理の全体が見えてくるようになる。

ところで、マルクスは、エンゲルスの3法則のことをどうとらえていたのだろうか。マルクスが資本論を書いたのは、1867年であり、エンゲルスが3法則のことを記述したのはそれ以降であり、1867年の時点では、まだマルクスはこの3法則のことを知っていないことになるからである。
エンゲルスは、1873年から1892年の晩年に至るまで、それまで得られていた自然科学の成果を、唯物論的弁証法の観点から把握する研究を行った。この途中1879年の遺稿に、あの有名な「弁証法の3法則」が記述されている。また、それと前後して執筆された「反デューリング論」(1878年出版)の中に、量質転化、否定の否定の法則が記述されている。
マルクスが没したのは1983年であるが、マルクスとエンゲルスは、お互いに密接に連絡を取り合っていたので、そのころには、マルクスも、このエンゲルスの3法則について知っていたであろう。なぜなら、「反デューリング論」2版序文に、この間の事情について、以下の記述があるからである。
「私は印刷するまえに原稿を全部彼に読み聞かせたし、また経済学篇の第10章はマルクスが書いたものであって・・・。専門の分野でおたがいに助け合うということが、まさにまえからのわれわれのならわしであった。」
「私は、商売から身を引いてロンドンに移った結果そうするのに必要な時間ができたとき、私の力に及ぶかぎりで、数学と自然科学について、完全な、リービヒのいわゆる「羽がわり」をやり、8年間の大部分をそれに費やした。私がデューリング氏のいわゆる自然哲学とかかわりあう羽目になったのは、ちょうどこの羽がわりの過程のさいちゅうであった。」なお、エンゲルスがロンドンに移ったのは、1870年である。
 従って、エンゲルスの弁証法の3法則の定理については、マルクスも同意していたと考えても、あながち間違いではないように思われる。
 マルクスが資本論を書いた時代には、ヘーゲルの弁証法は知識人の間で、いわば「常識」になっていたようである。そこで、ヘーゲルの論理の要点については、おそらく多くの人々の間で一般的に理解があったと考えても、あながち間違いではないように思われる。なぜなら、「反デューリング論」の論敵であるデューリング氏自身が、その著作のなかで「量質転化」と「否定の否定」について、述べているからである。エンゲルスは、この重要な部分を端的に纏め上げた代表者と考えるべきであろう。

2、商品から貨幣への論理的展開の応用

「資本論第1部第1篇」は、「経済学批判」と同じ内容を扱っているが、特に「第1章第3節」は、「経済学批判」にはない部分である。この「第3節」は、商品の中に潜在する価値形態が、A個別的段階、B特殊的段階を経て、C一般的段階へ至り、貨幣形態を獲得するという論理的過程を扱っている。
 商品に中に存在する価値とは、私的労働者の抽象的・一般的人間労働ないし私的労働者の労働の社会的関係が、彼の労働生産物の中に対象化したものである。従って、私的労働の社会性が、個々の私的労働者の相互関係にほかならないように、商品の中の価値関係は、少なくとも2個の異なった労働生産物の相互関係としてしか表現できない。
 1商品の中の価値は、もう一つの商品の使用価値の中に表現される。これを抽象的な、本質的な価値の現象化・外化といってもいいし、疎外といってもよい。また、反映や鏡という言葉で表すことも可能であろう。この二つの商品の個別的な関係が、多様な商品相互の中に展開されることによって、特殊的な関係へ発展し、最後に世界を二重化させることによって、二重化させた一般性・普遍性の世界の中へその関係を移し入れるという飛躍を行って、一般的・普遍的な関係を確立する。これが貨幣である。
 貨幣とは、価値が自己を表現する現象形態であり、私的労働の生産関係の表現形態でもあるから、この論理的過程は、抽象的な本質である普遍性・一般性が、自己を表出させる論理的導出法としても把握することができる。すなわち、一般的に、普遍的な本質が自己を表す論理的発展課程としては、個別・特殊・普遍の段階を区別することができ、いいかえれば、普遍性へ一足飛びに行くのでなく、特殊的段階を経由するということができよう。

この論理的展開過程の別の例が、エンゲルスの「自然弁証法」の中にある。
エンゲルスは、「判断の分類について」の項目において、ヘーゲルの論理学の中から、「判断形態と推理形態とを」ヘーゲルの区分に従って、1、定有の判断、2、反照の判断、 3、必然性の判断、4、概念の判断として並べて紹介した後、それを 1、個別的判断、2と3、特殊的判断、4、普遍的判断 としてまとめ、これらの「思考諸法則」が「自然諸法則の中でもまたどんなによく基礎付けられているか」その例を挙げている。
「摩擦は熱の1源泉である、という判断、一つの定有の判断」
「すべての機械的な運動は摩擦の仲介によって熱に転化することができる」「反照のこの全称的判断」
「運動のあらゆる形態は、それぞれの場合に対して確定している諸条件のもとで、直接または間接に、運動のあらゆる他の形態に転化することができるものであるとともにまた転化せざるを得ないものでもある−概念の判断、しかも必然性の判断、判断一般の最高の形態」
「われわれは第一の判断を個別性の判断として把握しうる。すなわち、摩擦が熱を生ずる、という個別化せられている事実が記録される。第二番目の判断は、特殊性の判断として。すなわち、運動の或る特殊な1形態、機械的な形態、は特殊な諸事情のもとで(摩擦によって)或る他の特殊な1運動形態、熱、に移り行く、という特性を示したのである。第3番目の判断は普遍性の判断である。運動のあらゆる形態は運動の他のあらゆる形態に転化することができるものであり、かつ、せざるを得ないものであることを明らかにしたわけである。」
 これは、自然現象の背後に潜む普遍的な法則性が、人間の頭脳の中に反映する歴史的過程を論理的に整理したものである。自然の法則は、人間がそれを自然の中に発見する以前から、自然の中に属性として存在している。しかし、それを抽象的な形式で掬い取って定式化するのは、人間の頭脳であり、意識するとしないとにかかわらず、実際上、多くの人間の共同作業である。貨幣論との類似からいえば、生物は進化によって物質の世界に精神という二重化した世界を頭脳に持つ人間を生み出したが、その精神の世界に自然の抽象的・普遍的な法則性を反映させる論理的段階として、個別・特殊・普遍の各段階を区別することができる。これは、多数個人の引き続く系列を通じて、実現されるのである。

「ドイツイデオロギー・ノート」にて、人間は、手に象徴されるように、どんな特殊な情況にも対応出来る一般的な形態を獲得するように進化することによって、自然から相対的に独立したと書いた。言い換えると、人間以外の他の動物は、あくまで特殊性の中で生きており、人間だけが進化によって一般性を獲得したということである。
(ちなみに、このような進化観と似たような進化論を説いている学者に、浅間一男がいる。浅間一男著「生物はなぜ進化したか」講談社ブルーバックス参照)
 この一般性を獲得したという意味は、人間は立ち向かう対象に対して、それぞれの個別的な対象を特殊性の中で扱うと共に一般的なものとして実践的に扱うということである。トラやアシカの例で挙げたように、トラやアシカの手足は、捕獲する動物に適した特殊性を持っており、その制限によって、トラやアシカは、その特殊性の中でしか生活できない。しかし、人間は、直立歩行という一般的な形態を獲得することによって、トラやアシカのそれぞれの特殊性をもどちらも扱うことができるようになった。例えば、トラは肉だけを、アシカは魚だけを食料とするが、人間は肉・魚という特殊な食料だけでなく、果物・穀物などをも食料とすることができ、食料一般を対象とすることができる。すなわち、これが、特殊性を越えた一般的な対象をも実践的に扱いうるという意味である。
 このことは、人間が対象として向かい合う自然の中の個別なものは、特殊性と共に一般性を持っているということに根拠がある。この一般性を物質的・実践的に扱うためには、人間の側に、実践的に扱う以前に前もって一般性を把握しうる仕組みが備わっていなくてはかなわない。これは、他の動物と同様な人間の中に、他の動物にはない特殊な器官−発達した脳−を持つことによって達せられた。その器官は、それぞれの感覚器官を通して直接的感覚を器官の中枢にまで伝達し、その器官の中に対象物の直接的・感覚的な像を結ばせ、その像を個別→特殊→一般という形で纏め上げることによって、一般性の形態で把握する性質を持っている。これが、人間の脳という特殊な器官の役割である。この像こそ、精神なのであり、脳は、この像を担っている特殊な物質(実体)である。
確かに、トラやアシカも、彼らにふさわしい脳を持っている。したがって、人間と同様に、その脳の中には、それぞれの感覚器官を通して、取り巻く外界の直接的感覚が伝達され、対象物の直接的・感覚的な像が結ばれているであろう。無論、感覚器官が人間と異なっているから、反映される像もまったく同じではないであろうが。しかし、トラやアシカの行動も、その像に基づいて行われるという意味では、人間と同じといってよいであろう。
 一方、脳は、生物個体のさまざまな部分を調整し生命を維持するための司令塔であり、体内からの刺激・感覚も神経を通して脳に伝えられ、行動を指示する。
例えば、手足に突然異常な刺激を感じれば、脳はその刺激という像に基づいて、反射的に手足を引っ込めさせるという指示を手足に与えるであろう。こういう行動は、いわば「動物的」なもので、その点では人間も動物も同じであろう。
 また、肉体的欲求に基づく行動、例えば、食料や水の欠乏は、動物個体の体内の代謝を狂わせるので、脳は食料・水の探索行動へと指示を出す。この場合は、動物の脳にも人間と同様に、食料や水に対する欠乏=欲求という像が写し出されているのであろう。
しかし、動物と人間との違いは、この欲求の形成から行動への結合の仕方にある。動物の場合は、この結びつきが直接的である。トラやアシカが飢餓を感じた場合には、それぞれの特殊な種に対応した特殊な食料の捕獲に向かって、視覚・聴覚・臭覚などを総動員して行動するであろう。いわゆる本能的な行動である。ところが人間においては、この結びつきが媒介的である。人間の脳に反映された欲求から行動への結合は、さまざまな思考の段階を経ていくので、時には、目の前に食事があり、腹が空き喉が渇いていても、箸をつけず我慢しようということにもなる。この思考能力こそ、直接的な像から出発しながら、記憶を媒介に、それをさまざまに加工し、特殊へ一般への判断・推理、あるいは一般から特殊へ個別へと至る目的・意志の展開へとつなげるものである。このような思考能力は、直接的な像の反映といった受動的なものではなく、反映した像を自らの思考の道具や材料として用いるという能動的なものである。
(だからこの働きは、何らかの事情でその能動性の制御機能が一旦失われると、反映像が、まるで糸の切れた凧のように空中を浮遊し、個人では制御できなくなる場合もある。脳は、反映像を担っている実体であるから、実体自身の独自の運動を行うからである。それが極度の肉体的疲労の場合に見られる、本人にとって嫌な空想の出現などの一時的な能動性の低下であればよいが、他人の声がいつも聞こえるという幻聴などになると、取り返しのつかない病的事態ともなりかねない。)
このように、精神・意識・認識の本質は、能動的な抽象性・一般性の把握の働きにあるといってよい。
 このことは、マルクスらだけでなく、一人のドイツ人労働者ヨゼフ・ディーツゲンによって、その著書「人間の頭脳活動の本質」の中で、指摘されている。
思考能力とは特殊なものから一般的なものを探求する能力である」。「理性とは純粋には特殊なものから一般的なものの展開、具体的なもの、または感覚的に与えられたものから普遍的なもの、または抽象的なものの探求にある」。
お分かりのように、この精神・認識の論理は、商品の価値論・貨幣論の論理と、同一である。商品Aは、商品Bの使用価値の上に、自分の価値を鑑として映したが、脳は、対象の一般性を像として映し出す
一方、個別から一般への道を逆に辿ることによって、実践への準備ができる。一般性・普遍性は、そのままでは脳の中に存在するものでしかないが、それを一般→特殊→個別という風に具体化することによって、物質的実践へと橋渡しをすることができる。
「われわれは、ただ人間だけにそなわるものとしての形態にある労働を想定する。蜘蛛は、織匠の作業にも似た作業をするし、蜜蜂はその蝋房の構造によって多くの人間の建築師を赤面させる。しかし、もともと、最悪の建築師でさえ最良の蜜蜂にまさっているというのは、建築師は蜜房を蝋で築く以前にすでに頭の中で築いているからである。労働過程の終わりには、その初めに既に労働者の心象のなかには存在していた、つまり観念的にはすでに存在していた結果がでてくるのである。」(「資本論」)
こうして、人間は、実践的にも理論的にも、対象の一般性を扱うことができるのである。
「人間は類的存在である。というのは、人間が類を、人間自身の類をもその他の事物の類をも、実践的および理論的に人間の対象にするというだけでなく、むしろ−そしてこれはただ同じ事柄に対するもう一つ別な表現にすぎないが−むしろまた、人間は自分自身に対して現在の生きた類にたいしてのようにふるまうからでもあり、自分自身に対して、ある普遍的な、それゆえ自由な存在にたいしてのようにふるまうからである。」(「経済学哲学手稿」)

次に、「第1章第3節a 相対的価値形態の内実」の「鏡」の注を手がかりに、自我の形成・確立の論理を展開させてみよう。
「見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は、鏡を持ってこの世にうまれてくるのでもなければ、私は私であるという、フィヒテ流の哲学者としてうまれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。」
 この注では、「人間も商品と同じ」といっているのだから、自我を価値と置き換え、使用価値を自我の現象形態と置き換えれば、自我の形成の論理を示したものとも解されようか。そこで、この論理が、そのまま当てはまるとすると、どういう論理的骨格が出来上がるのだろうか、考えて見よう。
  「私は私である」という場合の述部の「私」とは、自分の行動の主体であり、振る舞いの源としての統一体としての、いわゆる自我であり、自分を鏡に映した場合の鏡の中の「私」である。この自我の認識は、他人を自分の鏡として自分を映し、それを媒介的にして自分を知ることによって形成されるというのが、「資本論ノート」で議論したことであった。ところで、鏡に中の自分が「私」ならば、鏡を見ている「私」は他人の立場にたって「私」を見ているわけであり、この鏡の前に存在する、観念的な二重化としての他人の立場に立つ自分と、鏡の中に存在する自分と二人の自分が存在するという論理が潜在する。(三浦つとむ「弁証法はどういう科学か」(講談社)参照)
 「他の人間の中に自分を映す」ということは、他人を自分の「鑑(かがみ)」としてみるということであり、自分の他人化である。価値の等式を使って表すと、「自分=他人」ということになる。先の論理に従って言葉を選択すれば、ここで「自分」は「相対的自我形態」、「他人」は「等価的自我形態」とでもなろうか。相対的自我形態とは、自分で自分を表さず、自分の自我を、他人の自我の表れとしての他人の振る舞いで表しているということである。等価的自我形態とは、他人の振る舞いが、自分の自我の表現の材料として役立っているということである。「他人」は、自我の表現形態として認められている。
 自我が確立していない人間、例えば、子供は、自我がすでに確立している大人を、その表面的行動を鑑として、自分を形成していく。この大人は通常、最も身近な大人である両親である。子供は、自分を他人である親に重ね合わせながら、この振る舞いを見習い、それを真似しながら自分の振る舞いとして、自分の中に取り入れていく。こうして親の振る舞いが自分の中に取り入れられ、自分の自我の一部となり、こうして等式が成立するようになる。
 この場合、親の振る舞いは、必ずしも親の自我の表出ではないが、子供との関係からみれば、親の振る舞いはすべて、親の自我の現象形態である。また、親の振る舞いは、子供にとっては、直接的に社会的な形態にあるとみなせる。
この子供と親との関係は、個別的段階である。しかし、この個別的段階を基礎にして、以後の自我形成過程が進行するのであるから、きわめて重要である。親の自我のあり方は、子供の自我の形成に大きな影響を及ぼす。
 次の段階は、子供が家族以外の集団に入ることによって、親との関係が、祖父母や兄弟や学校の教師や子供同士の関係にまで拡大することによって、達せられる。子供は、それぞれの親以外の他人の振る舞いを、親のときと同じように鑑として見習いながら自分に取り込んでいく。これは、自分を親以外の他の人間に重ね合わせるということであり、これによって、親との関係は相対的になり、それぞれの特殊な関係が重層的に積み重なって、子供の自我形成に寄与する。無論、子供が自分を他の人間に重ね合わせるといっても、すべてを自分の振る舞いとして取り込むわけではない。この段階では、あくまで親との関係を機軸としながら、その基本的関係を維持しながらその関係を周囲に押し広げるということによって、子供の親化、子供の祖父母化、子供の兄弟化・・・という段階を経ながら、領域を拡大していくのである。
 しかし、この特殊的段階だけでは、子供の自我の形成は終了しない。最終的には、子供と他人との位置の逆転、「多くの他人=自分」という等式が成立しなければならない。この等式は、子供の振る舞いが多くの他人の自我の振る舞いになる、すなわち、子供の振る舞いが、多くの人の鑑になるということである。多くの他人の自我が、子供の振る舞いですべて表現されうるということであり、子供が大人になったということである。
 自我とは、自分の中の一般性・普遍性であり、他人に依然せずとも自分の振る舞いを決定できる主体であり、自分の社会的大人として振る舞いの源泉であり、「私は私である」という自覚である。これが、多数の他人の働きかけによって、一般的段階に至り、自分の自我の成立となるのである。
振る舞いを真似る段階から、この自我の最終的段階の自我の形成に到達するには、飛躍が必要である。これは表面的なものではなく、自分の中の内面的・精神的な飛躍であり、これによって、自我が確立する。この飛躍は、他人を自分の鑑とする、つまり観念的に他人を自分とする(観念的に他人を自分と重ね合わせる)という自分の他人化の実践を重ねることによって、媒介的に他人と重ね合った自分とは別に、本来の立場にいる自分を他人の立場に立たせている実践を積むことになっており、これが積み重なって結局は、自分を他人としての立場において、自分の振る舞いを客観的に観察することができるようになる、これは、自分を映す鏡を持っていなくても、主体的な観念的な二重化によって、自分を他人の立場においてみることができるようになるということである。これができるようになってはじめて、子供と他人との位置の逆転、「多くの他人=自分」という等式が成立し、自我が自立し、子供の自我が社会性=一般性を獲得するのである。
以上は、あくまで論理的に自我の形成過程を展開しうるというだけあって、正しいかどうかは、現実と突き合わせて検討しなければならない。また、それがすべて順番どおりに個人に現れるというわけではないであろう。実際には、行きつ戻りつしながら、特殊的段階から個別的段階に戻ったり一般的段階に移行したりを繰り返しながら、最終的に一般的段階に到達するという過程を経るであろう。しかし、このように、商品−貨幣の論理を使えば、いわゆる一般化の論理を展開できるということが重要である。

3、武谷技術論の検討

価値論に関連して、ここで取り上げておきたい議論がある。それは、武谷三男氏の技術論である。これは、戦後、彼が戦時中に「警視庁の取調べの際に書いた手記」の形で公表された論文に記載されている。(「弁証法の諸問題」所載)この技術論は、彼の論理学によって導かれた論考の上に成立した理論であり、画期的なすぐれたものであるが、私は、それを受け継いだ星野芳郎の技術論にも、観念論的な逸脱があると考えている。(この議論は、私にとって、実は30年以上前のものではあるが、私が三浦つとむ氏から学んだ弁証法の優秀性を実感した記念碑的な位置づけを持っている。)
 なお、断らない限り、引用は、下記の本からのものである。
参考:武谷三男著作集第1巻「弁証法の諸問題」第4巻「科学と技術」(勁草書房)

3.1.技術の概念規定について

彼の技術の概念規定は、いわゆる「適用説」といわれるもので、「技術は実践概念である事には異論の余地はない」とし、「技術とは人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」としている。更に、その論文(第1巻の中の「技術論」)の中に、概念規定の理由・根拠を説明している。
 まず、「実践」ということについては、「実践の原理につき考える必要があるのであります。・・・実践を内面から、その実践がいかに可能であり、いかにして行われるかについて、その原理について見る必要がある・・。」「人間の実践は・・・必然性が存するところにおいて、必然性を洞察し利用する事によって可能なのであります。・・・第一、人間の実践、特に生産的実践は客観的法則性において行われ、客観的な法則を無視せる人間の実践は存在せざる事であります。」
「人間の行動の特徴はそれ故に客観的法則性を意識し、これを実践に意識的に適用する事にあるのであります。」
この「客観的法則性」については、注に示されている。
「ここに客観的法則というのは、ただ法則だけを言うのではない。本質的な法則が現象する全構造をさしていうのである。また必ずしも法則を認識してそれを適用する事をいうのではない。とにかく何らかの客観的法則性があり、これが目的を媒介する事をみとめさえすればよいのである。」
彼の用語の使い方は、独特である。それは、彼の概念の規定の仕方が、独特であるからである。ここで彼は、「法則」と「法則性」の違いを、より本質的・原理的・根本的なものを「法則」と呼び、それに対して、その原理から媒介された、より現象的・具体的なものを「法則性」と呼んで、区別している。また、その「法則」を人間の精神の中に反映させ掬い取る場合、端的には、科学が成立する場合に、「認識」という言葉を使い、「法則性」の場合には、「意識」をいう言葉を当てている。
「たとえば、客観的な法則性の適用という場合、これは客観的な法則性を認識してそれを適用したということでは、ぜんぜんないのです。これは認識しない段階でもよいのであります。客観的法則性があることをなんらかの形で意識して適用すれば、それはもう技術ということなのです。・・・したがって認識という段階にまだならない、認識ということばではあらわせないような、つまり科学の発生のずっと以前にさかのぼることができる、すなわち、意識の発生ということといっしょになってでてきている。・・・・自然科学とはなにかというと、客観的法則性を認識するということにあるのでしょう。・・・」(第4巻の中の「科学・技術および人間」より)

 私たちは、テレビや電気掃除機、電気洗濯機、パソコン、携帯電話などなど、現代の技術を駆使して製造されたさまざまな製品に囲まれて、生活している。例えば、テレビのリモコンでスイッチを入れれば、テレビの画面に映像が映し出され、内臓スピカーから音が流れ出る。そこで、このテレビには、確かに技術が使われている、技術が存在すると実感できる。では、どこに存在し、そもそも技術とは何か。
 テレビは多くの技術が複雑に組み合わされて使われているので、もっと単純な、例えば、私の家の廊下の天井に付けてある、一つの白色電球を取り上げてもよい。テレビ同様、スイッチを入れると、電球の中のフィラメントに電流が流れ、光を発する。これは、フィラメントを形作る特殊な物質に電流が流れると熱と同時に光を出すという性質を利用したものであるが、ここに、確かに、一つの技術を認めることができる。
 この光を発するという、フィラメントという特殊な物質が持つ電気的な属性は、一つの「客観的な法則性」である。ここで「客観的」というのは、人間の意識から独立している、物質的であるという意味である。また、「法則性」とは、フィラメントという特殊な物質の運動・過程の一般性を捉えたものという意味である。この白色電球も、工場で量生され小売店で販売された家電品である。少なくとも、同様のメーカーの同様の白色電球は、この一つ以外に大量に存在しており、そういう意味で、一般性がある。
 この特殊な法則性は、そもそも自然の特殊な物質が持つ属性の一つであるにすぎない。しかし、その物質は、自然界の中に存在していた鉱石の一成分としてのものと元素としては同じであっても、電球の中のフィラメントとして利用されている限りは、そこに明確な違いが存在する。その違いは、この白色電球が、多くの量産品と同様、工場で生産されたからであり、工場の生産ラインで生産されるまでには、それを企画し設計する一連の開発過程があり、そこで、あらかじめ設計されたものだからである。
 この白色電球の中の特殊な物質が持つ特殊な法則性は、「意識的な適用」の結果である。それは、物質の中に存在する属性としての法則性が、人の意識(精神・認識)の中を通過し、人の手によって、いわば物質の中に移し入れられたという意味である。論理的に言えば、この法則性は、(物質→)精神→物質という異なった世界を媒介する(否定の)否定という過程を経ており、その媒介を、人間の実践が担っているのである。
例えば、細長い針金に電流を流し、針金が熱を発するのを観察する理科の実験を考えてみよう。教師は、実験に移る前に説明をし、生徒の頭の中に、組み上がって動いている実験装置をイメージさせるであろう。次に、生徒は、教師の指示に従って、針金や電池を使って実験装置を組み立て、スイッチを入れて発熱を観察するであろう。つまり、「客観的法則性」は、生徒の「意識」の中を通過し、生徒の手によって、物質の中に移しいれられた、「適用」されたのである。この媒介過程が、発明者一人によって担われたものであろうと、メーカーの中の多くの技術者・労働者によって担われたものであろうと、本質的には同じである。
 従って、この白色電球の例から考えても、技術の概念規定は、「客観的法則性の意識的適用」であるとすることができ、武谷氏の技術規定の正しさが確認できる。しかし、彼の技術規定には、二つの点で、異論がある。
 まず一つは、技術を「実践概念」で把握していることである。白色電球が光を発する過程の中に認めることができる技術は、その特殊な法則性に関係として結びついているのであって、そこには、直接的な人間の実践はない。開発設計の段階・生産の段階での実践は、技術と意識をつなぐ媒介であるにしても、技術は、あくまでその結果である、すなわち、保存され否定されている。従って、技術は、「実践概念」でなく、関係概念で把握すべきものであると考える。論理的な価値論との比較では、商品の価値が、技術に相当し、使用価値は、技術と直接的に同一である法則性に相当し、価値を形成する実体である労働は、人間の意識(認識)、正確には、人間の意識の中の把握された法則に相当する。あるいは、技術は、金という特殊な商品が担う貨幣に相当する。人間的実践は、その関係を形成する媒介運動として把握すべきである。
 確かに、人間の実践は、失敗しないとすれば、「必然性を洞察し利用することによって」成功する。しかし、その実践とは、あくまで物質的であるという意味でそうなのであって、論理的には、技術を実践だけに限定する必要はない。
 もう一つは、法則と法則性の把握の仕方である。彼は本質的法則を「法則」と呼び、その特殊な現象形態を「法則性」と呼んでいるが、正しくは、物質の属性として存在するものを「法則性」とすべきであり、人間が意識の中にすくいとった、法則性を抽象的したものを「法則」とすべきである。また、人間の精神のレベルを指す場合には、「意識」と「認識」は、同じ意味で用いるべきである。この用語の用い方は、彼の論理学である「三段階の論理学」に裏打ちされているのであるが、彼の誤りは、彼が検討した対象が、自然科学・物理学の対象である物質であることに起因しているようである。物質の世界では、法則性とそれを担う実体とは、直接的同一の関係にある。従って、物質の具体的な表面に現れる法則性は、より原理的・根本的な法則が実体を媒介にして現象しているように見える。しかし、商品の中の価値と使用価値の関係は直接的同一の関係にあるが、価値とそれを形成する実体である一般的人間労働との関係は、媒介関係にあるのであって、直接的同一の関係にはない。武谷は、物質的な実体の対象の論理にひきづられて、媒介関係を直接的関係に解釈したようである。後に、彼の技術論を受け継ぎ発展させた星野芳郎氏の技術論の中でもこの誤りが引き継がれ、更に拡大されているので、まず、ここで指摘しておく。

3.2 技術と技能

技術と技能を明確に区別して規定したのも、彼の功績である。武谷氏は、技術と技能について、「客観的」「主観的」という用語に関連して、次のように区別している。
「技術は客観的なるものであるのに対し、技能は主観的心理的個人的なるものであり、熟練によって獲得されるものであります。技術は、これに反して客観的であるがゆえに、組織的社会的なものであり、知識の形によって個人から個人へと伝承ということが可能なのであります。すなわち技術は社会の進展に伴い伝承により次第に豊富化されて行く事になります。」
「技術について客観的法則性といって敢えて自然法則性と言わなかった事については、この技能との分離に重点が注がれるからである。技能も技術も、自然法則性に根拠がある。ところで、技術は客観的自然的であるのに対し、技能は主観的自然的なものである。」
 これについて、全集第4巻の解説の中で、星野氏が次のように説明を加えている。
「自然法則性と言わずに客観的法則性と言ったのは、人間が合目的な自然法則性をとらえるやりかたには、二通りのものがあり、両者は差別すべきことを明確にしようとしたためである。つまり、炉内の溶鋼の色を見て銑鉄が完全に鋼鉄に転化したと判断するのは、鋼がつくられる自然法則性を視覚において、つまり主観的な自然法則性として、とらえたのに他ならない。一般にカンと言われているものは、これであり、武谷氏はこれを技能として、客観的な技術との違いを原理的に明らかにしたのである。」
彼は、「客観的」ということを、個人的な精神と切り離された、外部に存在する物質的存在という意味で、「主観的」と言うことを、個人的な感覚と結びついた法則性の意識・認識という意味で、用いているようである。これに対応して、技術と技能を区別している。

 私は、前節で、技術を「客観的法則性の意識的適用」という関係概念で把握すべきとしたので、では、技能をどのように把握すべきか。私は、技術と技能を、客観的法則性を担う対象のレベルで区別したいと考える。
「炉内の溶鋼の色を見て銑鉄が完全に鋼鉄に転化したと判断するのは、鋼がつくられる自然法則性を視覚において」、視覚という感覚器官を通して脳に反映した感性的な認識に基づいて、その特殊な色の変化を、銑鉄の転化という抽象的法則に結びつけ判断する個人の能力において、可能である。それは、個人の頭の中には、すでに、銑鉄の転化を判断する溶鋼の色がイメージされており、長年の訓練の賜物であろうが、その判断が、その個人にとって改めて意識せずとも直ちに行えるように習慣化されているということであろう。先の理科の実験の例で説明したように、この場合も、銑鉄の転化を判断する基準としての溶鋼の色の変化という頭の中に存在する法則を、手や足を動かしてはいないけれども、精神を動かして、目の前の実際の炉内の溶鋼の変化に移しいれた、適用したということでは、同じ過程である。この場合、炉内の溶鋼の色の変化を銑鉄の転化に結びつける法則性が担う関係は、原理的には、技術であると見なすことができる。
異なるのは、これは、精神的レベルにおける個人的な実践であり、個人の能力と分かちがたく結びついており、その個人にとっての一般性を持つ実践、その個人の実践の法則性にまで高められていることだといってよい。つまり、見方を変えれば、個人の精神的な実践も、客観的過程として、人間の外部に存在する過程として把握することが可能であり、その過程の一般性を法則性として把握することが可能である。これは、銑鉄の転化を反映する溶鋼の色の変化という客観的な法則性とは区別された、別の法則性であり、技術を形成する媒介運動としての人間的な実践の運動・過程の法則性である。従って、このレベルにおいても、客観的な法則性の意識的な適用を考えることができる。銑鉄の転化を溶鋼の色の変化で判断する個人の精神的な実践を、意識的に繰り返して磨きをかけ習慣化することによって熟練の域にまで高めるのは、そういう人間の実践における法則性の適用である。
人間は目的意識的な能動的存在であるから、人間の実践的過程には他の過程と異なった特殊性がある。しかし、その特殊性の中で、人間の物質的な実践も、精神的実践も、法則性という属性を持つ。それは、また、個々の人間の個人的な・個性的な性質・性格によって大きく左右される。そこで、この「個別的な人間的実践における客観的法則の意識的適用」を技能と把握するのが妥当であろう。

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