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「資本論」ノート (1)


資本論序文

「資本論」は、「経済学批判」の続編である。
まず、「第一版の序文」に述べられている、「経済学批判」と「資本論」の関係に、注目しよう。
「まえのほうの著作の内容は、この第一巻の第一章に要約してある。・・・著述が改善されている。」
 だから、第一章では、この著述の改善された部分に注目して検討する。

 その後に、この本の例証に、イギリスを取り上げる理由が述べられている。
「この著作で私が研究しなければならないのは、資本主義的生産様式であり、これに対応する生産関係と交易関係である。その典型的な場所は、今日までのところイギリスである。これこそは、イギリスが私の理論的展開の主要な例解として役立つことの理由なのである。」
物理学者が、自然過程を研究する場合に、撹乱のない純粋な状態で実験を行うように、マルクスは、イギリスに、撹乱の少ない状態、いわゆる典型例(モデル)を見ている。
この資本主義的生産様式のモデルは、産業の「発展のより低い国」にとって「未来の姿」であり、すべての国が従うことになるモデルである。なぜなら、そこには、「資本主義的生産の自然法則」「この法則そのもの、鉄の必然性をもって作用し自分をつらぬくこの傾向」が貫かれているからである。

マルクスは、ブルジョア社会の経済的諸形態を「抽象力」によって分析し、ブルジョア社会の「経済的細胞形態」である「商品の価値形態」にまで到達した。そこで、今後は、抽象過程を逆に辿って、「商品の価値形態」からブルジョア社会の経済的諸形態にまで論理的に再構成する。そこで、「もっとも単純なものから複雑なものへと上向していく抽象的な思考の歩み」すなわち、「論理的取り扱いは、実は、ただ歴史的形態と攪乱的偶然性というおおいを取り去っただけの歴史的な取り扱いにほかならない」(エンゲルス「経済学批判」書評)のであれば、この論理的再構成は、「実際の歴史的過程に照応して」いることになる。
 歴史は論理的であるということは、歴史は法則性を持っているということである。ヘーゲルは、このことを、歴史の背後に論理=法則そのものが存在し、「理念という名のもとに一つの独立な主体」があり、歴史は、その自己運動であるというように解釈した。
マルクスは、ヘーゲルの「理念」は否定するが、歴史の法則性の存在は、認めている。そこで、歴史の論理的な再構成が「うまくいって、素材の生命が観念的に反映することになれば、まるで先験的な構成がなされているかのように見えるかもしれないのである。」(「資本論第一巻第2版後記」)この論理的再構成の成果が、この「資本論」である。
このような「経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程」すなわち、人間の個人的な主観的な意志から独立した過程と考える歴史認識から、マルクスは、「社会的には個人はやはり諸関係の所産」であり「ここで人が問題にされるのは、ただ、人が経済的諸範疇の人格化であり、一定の階級関係や利害関係の担い手であるかぎりでのことである。」としている。

第一部 資本の生産過程

第1篇 商品と貨幣

第1章 商品

第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)

 さて最初に、使用価値が交換価値の「素材的な担い手」であることをのべた後で、諸交換価値が、相互の諸使用価値の等値から、第三の物に還元できることが帰結される。
「使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、いろいろに違った質であるが、交換価値としては、諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり、したがって一分子の使用価値も含んでいないのである。」
したがって、それを有用物=使用価値にしている質を捨象すると、商品体に「労働生産物という属性」だけが残り、このことは、労働という観点からでは、「抽象的人間労働に還元」されていることが導かれる。
 「これらの労働生産物に残っているもの」は、「同じまぼろしのような対象性」であり、「無差別な人間労働の、・・・ただの凝固物」である。「ただ、その生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなそれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値−商品価値なのである。」
 この「価値」としての概念は、「経済学批判」では、あまり明確にのべられていない。「資本論」では、特殊な商品に対して「交換価値」を当て、それらの諸交換価値を一般的に取り上げる場合には、「価値」を当てているように考えられる。つまり、使用価値と価値の統一(矛盾)として商品が把握されている。
 この価値に対して、労働は「価値を形成する実体」として把握されて、「抽象的人間労働」の更なる規定が、与えられる。

 ここに、三つの、外見上まったく見分けが付かない宝石があったとしよう。1番目は、人の手で磨かれ町の宝石商で売られていたもの、2番目は、物々交換の大昔の時代から発掘されたもの、3番目は、偶然川原で発見されたままのもの、である。資本論によれば、このうち、価値があると見なせるのは、1番目の宝石だけである。では、なぜ、1番目の宝石だけが価値を持っているかといえば、それは、人の手によって作られ売られていた(抽象的人間労働が対象化されている)からである。2番目は、物々交換の時代だから、労働の対象化であっても抽象的人間労働ではないから価値は持っていないし、3番目は、労働が対象化されていない。
 では、その抽象的人間労働は、宝石のどこに存在しているのか。この宝石の価値である抽象的人間労働は、もともと、それを作った人の労働の中にしか存在しない。だから、その作った人の労働の中にしか存在しないものが、この宝石に、ちょうど切手がはがきに貼られているように、直接くっついているわけではない。この三つの宝石は、外見上まったく同じものであり、化学的物理的性質は、まったく同じである。異なっているのは、それぞれの履歴である。それぞれの宝石の履歴は、物理的化学的に証明できなくても、それぞれの宝石に関係として結びついている。履歴が結びついているからこそ、1番目の宝石の履歴を辿って、抽象的人間労働が結びついていることを証明することができるのである。
価値は、この関係そのものである。1番目の宝石を作り出した抽象的人間労働は、この関係を作り出した実体である。「流動状態にある人間の労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するが、価値ではない。それは凝固状態において、対象的形態において、価値になる」。1番目の使用価値である宝石は、その実体との関係を担っているのである。

 「商品世界の諸価値となって現われる社会の総労働力は、無数の個別的労働力から成り立っているのではあるが、ここでは一つの同じ人間労働力とみなされるのである。これらの個別的労働力のおのおのは、それらが社会的平均労働力という性格をもち、・・・1商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間・・・。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的に正常な生産条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値を生産するために必要な労働時間である。」
このことから「1商品の価値の大きさは、その商品に実現される労働の量に正比例し、その労働の生産力に反比例して変動する」ということがわかる。
 また、「商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけでなく、他人のための使用価値、社会的使用価値を生産しなければならない。」この部分は、第4章に対応する。「独立に行われていて互いに依存しあっていない私的労働」の社会では、「彼らの私的諸労働の社会的に有用な性格を、労働生産物が・・・他人のために有用でなければならないという形態で反映させ、異種の諸労働の同等性という社会的性格を、・・・諸労働生産物の、共通な価値性格という形態で反映させる」。つまり、商品とは、価値と社会的使用価値という二重の、矛盾した性格を併せ持ったものである。

第2節 商品に表される労働の二重性

使用価値を生む出す労働は、「有用労働」である。この「有用労働の総体」が、「社会的分業」の全体であり、それが、「いろいろに違った使用価値」の総体として現れてくる。「社会的分業は、商品生産の生存条件である。」「独立に行われていて互いに依存しあっていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対する」。「社会の生産物が一般的に商品という形態をとっている社会では、・・・独立生産者の私事として互いに独立に営まれるいろいろな有用労働のこのような質的相違が、一つの多肢的体制にすなわち社会的分業に、発展するのである。」
 「労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間のすべての社会形態から独立した存在条件であり、人間と自然との間の物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。
 これに対し、「商品―価値は、ただの人間労働を、人間労働一般の支出を、表している。」「それは、平均的にだけでも普通の人間が、特別の発達なしに、自分の肉体のうちにもっている単純な労働の支出である。」
使用価値と価値が、それぞれ労働の有用労働と(抽象的な)同質な人間労働一般という労働の二面的な性格(矛盾)に帰せられている。

商品の価値は、個々の使用価値の等価交換の習慣から固定化したものであるが、それは、他人同士が、抽象的人間労働の労働時間の同量を交換しあうという意味を持っている。個々バラバラの私的生産者の間では、直接に労働ないし労働生産物を交換することはできないので、労働生産物を商品に変え、商品の等価交換という媒介によって、労働の交換を達成するのである。異なった商品の価値は、それを作り出した私的生産者の労働の特殊性を捨象した関係である抽象的人間労働が、反映されたものである。

「素材的富の量の増大にその価値量の同時的低下が対応することがありうる。このような相反する運動は、労働の二面的な性格から生ずる。」
生産力は、「つねに有用な具体的労働の生産力」であり、「労働の具体的な有用形態に属する」。これに対し、労働の抽象的形態は、生産関係に属する。
生産力は、個々人の特殊な労働として存在する。労働の生産力が増大すれば、同じ時間で、より多くの生産物(使用価値)を生産できるようになる。しかし、逆に、労働の生産力が減少すれば、同じ時間ならば、少ない使用価値しか生産できない。すなわち、生産力の大小は、対象化された形態では、使用価値の量の大小となって表れる。
一方、生産関係は、個々人の労働の相互の関係である。異なった労働の相互の関係は、抽象的一般労働という同質な労働の時間的差異となって表され、それは、対象化された形態では、異なった使用価値の価値の大小となって表れる。ただし、使用価値が交換されるという条件下において、すなわち、使用価値である生産物が生産者の私的所有であるという条件の成立する社会において、である。
生産関係と生産力とは、相対的に独立している。生産力が増大して上着とリンネルが共に多く生産されても、生産関係である労働時間の比率が変わらなければ、上着とリンネル相互の価値の比率は変わらない。

第3節 価値形態または交換価値

この節では、使用価値=現物形態と価値形態とをもつ商品から、貨幣形態への生成が論じられる。「批判」と異なるのは、個別的段階から特殊的段階を経て一般的段階へと、論理的に展開されている点にある。
商品同士の物々交換から出発し、その交換過程の中に生ずる、使用価値と価値の矛盾が原動力となって、その矛盾を個別的、特殊的、普遍的段階へ推し進め、最後に貨幣が生み出されていく。この貨幣こそ、価値の現象形態である。

商品から貨幣が生ずる論理的過程は、個別から特殊へ、特殊から普遍へと展開される一般的な論理に従って記述したものと考えられる。この発展段階は、現象的には、二つの商品、多数又は無数の商品、一般化された商品の形成という段階を経ていく。
個別のものは、それぞれ特殊性を持ち異なっているが、一方共通する普遍性を持っている。しかし、普遍性は、そのままでは抽象のなかで現れるだけで、表面には現れてこない。この普遍性で個々のものを実際に取りまとめるとすると、どこかにその普遍性を現して、その普遍性との関係に中で、個々の特殊性を位置づけることになる。では、その普遍性は、どこにどういう形で現れるのか。それは、対象の持つ特殊性に依存する。対象の特殊性に合わせて、普遍性の現れ方は、変化する。
ここでは、普遍性は「価値」である。「価値」は「使用価値」という特殊性が担っている関係でしかない。この普遍性は、どこに現れるのか。商品の世界では、商品(使用価値)だけしか存在していないわけだから、普遍性を現わすのも、商品(使用価値)しかない。そこで、特殊な商品を選び出し、商品の世界と貨幣の世界と、世界を二重化させて、貨幣の世界で普遍性を表す。
しかし、最初から、選び出された一つの特別な商品(使用価値)があるわけではない。それは、選挙の結果である。最初は、選挙民とその候補者がいるだけである。そこで、すべての一般的な商品の代表というべき1商品Aの「価値」と、将来貨幣になるはずの、しかし、今は候補者でしかないある商品Bの「使用価値」との関係から、この選挙が出発する。「誰でも選挙に立候補できるが、まず、君Bが立候補せよ。私Aは、君Bを皆の代表として推薦するから。」この関係が、x量の商品A=y量の商品Bという等式である。Aは、まず、自分がBに投票することを宣言したのである。
このような一般的な論理が、この節での内容なのである。ここで、使用価値の特殊性は、有用労働(生産力)の特殊性に対応し、価値の普遍性は、抽象的人間労働(生産関係)の普遍性に対応する。

A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

まず、二つの商品が、等式の左辺Aと右辺Bとして、示される。
この二つの商品の等置において、商品Aの使用価値とその中に内在する価値との矛盾が分裂して表面化し、二つの商品の上に割り振られている。これが、等式の意味である。
特殊性と普遍性は、最低、二個の異なったものがなくては、表現できない。この二個の関係の中に、特殊と普遍とが、現れてくる。一方Aを特殊と把握すれば、他Bの方は、普遍性を担わなくてはならない。ただし、この段階では、商品Aにとっては、個別的関係である。
商品Aは、選ぶ方であるから、能動的であり、商品Bは、選ばれる方であるから、受動的である。

1 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態

左辺Aは、相対的価値形態であり、右辺Bは、等価形態である。
 相対的価値形態とは、「Aは自分の価値をBで表わして」いるということで、自分で自分を表わしていない、つまり相対的である(自分を他のもので表わす)という意味で、このように表現されている。
価値とは、諸商品の交換関係、すなわち、異なった商品の一定量を等値するところから抽象してきたものである。諸商品の使用価値とは別個に、価値が存在するわけではない。あくまで、使用価値同士の関係をいっているだけである。したがって、20エレのリンネルの価値は、1着の上着という使用価値の一定量でしか、表現できないのである。
 このことは、「BがAに対して等価形態にあるということを前提している」。
 等価形態とは、「Bは、Aの価値表現の材料として役立っている」ということで、「等価物として機能している」ので、そう表現されている。
 Bは、「同時に相対的価値形態にあることはできない。」
 「同じ商品が同じ価値表現で同時に両方の形態で現われることはできないのである。この両形態はむしろ対極的に排除しあうのである。」しかし、両形態は「互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機である」。
 この相対的価値形態と等価形態との対立は、使用価値と価値の対立の発展形態である。使用価値と価値の両者の相互規定の関係が、論理的に発展し始めたということである。
この対立は、エンゲルスによって、端的に以下のように表現されている「一切の両極的な諸対立一般が相対して置かれた両極相互の相交流する活動によって条件付けられているということ、これら両極の分離と対置とはただこれら両極が組をなして互いに所属し合っているという共属性と両極の合一との内部でだけ成り立つこと、そして逆にそれらの両極の合一はただそれらの分離においてだけ、それらの共属性はただそれらの対置においてだけ、成り立つということ」(エンゲルス「自然弁証法」)

2 相対的価値形態

a 相対的価値形態の内実

 この「等式の基礎」は、リンネルA=上着Bということである。
 リンネルAは、価値がないものかもしれない。一方、上着Bは、「価値物」であることが証明されているとする。すると、この等式が成り立つとすると、リンネルAも、価値を持っていることになる。この等式の意味することは、こういうことである。
 この等式上では、Bは、「価値物」、「交換されうるもの」であり、商品Bは価値の存在形態として認められている。商品Aに商品Bが等値されることによって、商品Aも価値を持っていることが示され、Aが価値存在であることが、現われてくる。なぜなら、ただ価値としてのみ、Aは、等価物としてのBに関係することができるからである。異なった使用価値が、お互いに等しいと置かれたわけだから、使用価値とは別に、等しいとされる実体が、存在しなくてならない。すなわち、価値(実体)が使用価値の形態とは区別されて把握される。
 この等置によって現われてくるものは、商品Aの価値実体であるが、それは、まず、Bに含まれている労働を人間労働という両者に共通な性格に還元し、次には、Aに含まれている労働も抽象的人間労働であることを言うことによって、「回り道をして」表現する。「この等価表現は、異種の諸商品のうちにひそんでいる異種の諸労働を、実際に、それらに共通のものに、人間労働一般に、還元するのだからである。」
 しかし、「流動状態にある人間の労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するが、価値ではない。それは凝固状態において、対象的形態において、価値になる」。
 したがって、Bは、その現物形態で価値を表わしている物としてみとめられており、Bのなかには人間労働が積もっていることがわかっており、価値形態として認められている。しかしそれは、あくまで、Aと等置されることによって、その範囲内で、である。すなわち、この個別的関係においての、相互規定の関係である。
 Aは、Bのうちに「同族の美しい価値魂をみたのである。」こうして、Aの価値がBの身体で表わされ、1商品の価値が他の商品の使用価値で表わされる。このようにして、Aは自分の現物形態とは違った価値形態を受け取る。
 「要するに、さきに商品価値の分析がわれわれに語ったいっさいのことを、いまやリンネルが別な商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである。」
 「こうして、価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言い換えれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである。」
 ここで「価値鏡」という表現が用いられている。鏡というのは、直接に物を映す鏡という意味でも使うが、「武士の鏡(鑑)」という使い方のように、転じて、直接目には見えないような模範、理想的な手本を映すものという意味でも使う。ここでは、商品Bの身体が商品Aの価値を写し出すという意味で、鏡という例えを使っている。

 この論理の例として、大変興味あるが書かれてある。
 「見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は、鏡を持ってこの世にうまれてくるのでもなければ、私は私であるという、フィヒテ流の哲学者としてうまれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。」
「人の振りみてわが振りなおせ」という諺がある。これは、他人のふるまいの善し悪しを通して自分のふるまいを改めるという意味であるが、ここには、「人の振り」は、自分とまったく関係のない「振り」ではなく、周囲の条件によっては、いずれ「我が振り」となるかもしれない「振り」であり、そう思って、「我が振り」を反省する材料とせよ、という知恵がある。人は、同じような状態に置かれると、同じようにふるまうものである。「人の振り」は、将来の自分の「振り」の「」なのである。
人は、なかなか自分の行いを冷静に判断することはできないものである。しかし、他人の行動については、容易に客観的に正しく批判することができる。だから、この諺のように、他人の振りを自分の未来の振りの一つのあり方として考えると、自分の振りに対する反省が、容易にできるようになる。「人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみる」のである。人は皆、本質は同じようなものであるという認識、「人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって」、そう考えて、他人の振りを我が振りの反省材料とし、はじめて、反省する=「人間としての自分自身に関係する」ことができるのである。その場合、他人の振りは、本質的には同じような状況に置かれれば同じようにふるまうという「人間という種属の」ふりまいのあり方=「現象形態として認められるのである。」
人は鏡に自分を映すことによって、自分の姿を自分で見ることができる。しかし、自分の心の中を映す鏡はない。「人間は、鏡を持ってこの世にうまれてくるのでもな」いから、 「人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみる」、すなわち、他人を媒介にする認識の実践によって、自分を冷静に振り返ることができ、それを繰り返すことによって、私は私であるという自我の認識が生み出されるのである。
 この人間の論理は、商品の論理と同じである。商品Aは、自分で自分の価値を表すことができない。そのため、同等な価値を持つ他の商品Bに関係することによって、商品Bに自分の価値を映し、こうしてはじめて、自分の価値に関係することができる。商品Bは、その使用価値のままで、商品という「種属の現象形態として認められるのである。」

b.相対的価値形態の量的規定性

同質性が明らかになった後に、量的関係が考察される。この価値量は、それを形成する実体の観点から測られる。
 「等式は・・・ちょうど同じ価値実体が含まれているということ、・・・等量の労働または等しい労働時間が費やされているということを前提する。・・・生産に必要な労働時間は、・・・生産力の変動につれて変動する。」
 価値は、価値を形成する実体である抽象的人間労働に依存し、その労働時間は、生産力と媒介関係にある。生産力は、使用価値の産出力と言い換えることができる。一方、生産関係は、その個々の使用価値同士の産出力の量的関係を表現する。人間同士の生産力と生産関係が、対象的表現である商品同士の関係に、置き換えられている。そこで、ここでは、4つのケースにわけて、論じられている。
 「いろいろな場合を比べてみれば、相対的価値の同じ量的変動が正反対の原因から生じうるということがわかる。」等式の両辺は、お互いに反対の量的関係を持っている。更に、「こういうわけで、価値量の現実の変動は、価値量の相対的表現または相対的価値のおおきさには、明確にも完全にも反映しないのである。」

3.等価形態

「商品Aは、その価値を異種の商品Bの使用価値で表わすことによって、商品Bそのものに、一つの独特な価値形態、等価物という価値形態を押し付ける。」「1商品の等価形態は、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態である。」
等価形態は、交換価値の表出化であり、これが貨幣形態への理論的準備となっている。このことを「等価形態の考察にさいして目に付く第一の特色は、使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になることである。」と表現されている。このBに、使用価値と等価形態を取った価値との対立が生じている。

 ここで、尺度の例を挙げている。
「棒砂糖を重さとして表現するために・・・それを鉄との重量関係におく。この関係のなかでは、鉄は、重さ以外のなにものをも表わしていない物体とみなされるのである。」
重さというのは、「価値」に似ている。ある物体を離れて別個に、「重さ」というものがあるわけではない。あくまで、個々の物体の「中」にしか、「重さ」はない。この「重さ」は、天秤で測れば、測ることが出来る。天秤の一方に測ろうとするものを載せ、もう一方に「その重量があらかじめ確定されているいろいろな鉄片」、すなわち分銅を載せるのである。ここでは、分銅は、「重さ以外のなにものをも表していない物体とみなされるのである。」この重さだけを現象させるために、分銅は永久に重さが変わらないように錆びない工夫などがされ、重さを測定する時以外は、箱に保管されている。分銅は、「砂糖の重量尺度として役立ち、砂糖体に対して単なる重さの姿、重さの現象形態を代表するのである。」砂糖の重さは、分銅が、キログラムで表現されていれば、砂糖もキログラムで、ポンドで表現されていれば、ポンドで表現されよう。もし、分銅の重さの基準に不安があれば、砂糖のキログラムを表したあとで、括弧書きで、どこそこの分銅によれば、という但し書きをつければよい。つまり、砂糖の重さは、分銅の重さを借りて、表現されるのである。「鉄は、棒砂糖の重量表現では、両方の物体に共通な自然的属性、それらの重さを代表している」。
商品Bは、商品Aの価値表現では、両商品に共通な超自然的な、すなわち社会的な、属性である価値を代表している。
 「しかし、ある物の諸属性は、その物の他の諸物にたいする関係から生ずるのではな」いので、「上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性を、・・・生まれながらにもっているように見える。」

 この注に、マルクスは、反省規定の性格を記述している。
「たとえば、この人が王であるのは、ただ他の人が彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王だから自分達は臣下なのだと思うのである。」
王と臣下は、相互規定的(相互浸透の関係)である。切り離せば、王でも臣下でもなくなる。臣下があって王であり、王があって臣下である。しかし、臣下としては、あくまで王がいるからこそ、臣下なのだと思っている。生まれつきの王様がいるからこそだと思っている。臣下の立場からすると、王様は生まれつきの身分だと感じられるのである。ちょうど、商品Bが、等価物という属性を本来持っているかのように。しかし、「このことは、・・・価値関係のなかで認められているだけである。」
ヘーゲルも、「本質論」補遺で、「本質の立場は一般にReflexion(反省)の立場である。Reflexionという言葉はまず、光が直進して鏡面にあたり、そしてそこから投げ返される場合、光に関して用いられる。」と解説している(ヘーゲル「小論理学」下巻)。

「等価物として役立つ商品の身体は、つねに抽象的人間労働の具体化として認められ、しかもつねに一定の有用な具体的労働の生産物である。つまり、この具体的労働が抽象的人間労働の表現になるのである。」
「具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になるということは、等価形態の第二の特色なのである。」
 
 「私的労働がその反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になるということは、等価形態の第三の特色である。」
 直接交換可能性というのは、私的労働が、本来は反対の社会的労働であるということから、生ずる。私的な個人の労働が、実は皆の労働であるという矛盾の表出が、相互交換という運動を生むのである。
 この第二及び第三の特色に関して、「すべての労働の同等性および同等な妥当性は、人間の同等な概念がすでに民衆の先入見としての強固さをもつようになったときに、はじめてその謎を解かれることができるのである。しかし、そのようなことは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがってまた商品所有者としての人間の相互の関係が支配的な社会関係であるような社会において、はじめて可能なのである。」この社会こそ、近代ブルジョア社会である。

4.単純な価値形態の全体

「商品Aの価値は、質的には、商品Aとの商品Bの直接的交換可能性によって表現される。・・量的には、商品Aの与えられた量との商品Bの一定量の交換可能性によって表現される。言い換えれば、1商品の価値は、それが「交換価値」として表示されることによって独立に表現されている。」
 ここで、価値と交換価値という関係がいっそう明確になっている。「厳密に言えば、・・・商品は、使用価値または使用対象であるとともに「価値」なのである。商品は、その価値が商品の現物形態とは違った独特な現象形態、すなわち交換価値という現象形態をもつとき、そのあるがままのこのような二重物として現われるのであって、商品は、孤立的に考察されたのでは、この交換価値という形態をけっしてもたない」。
つまり、孤立的な商品一個だけを取ってみれば、使用価値と価値との直接的統一としての商品が得られる。そこから、2商品の等置関係を介して、使用価値と交換価値との媒介的統一へ展開されている。交換価値は、価値の現象形態というわけである。
「商品のうちに包み込まれている使用価値と価値との内的な対立は、一つの外的な対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表わされる・・・一方の商品は直接的にはただ使用価値として認められる・・・他方の商品はただ交換価値として認められる・・・。」
単純な価値形態は、「1商品の単純な相対的価値形態には、他の1商品の個別的な等価形態が対応する。」ことを示す。
この発展は、商品Aに対する第二の商品が、他のいろいろな商品になることによって、生ずる。

B.全体的な、または展開された価値形態

Z量の商品A=U量の商品B等。

1.展開された相対的価値形態

この「無限の列」の表現から、相対的価値形態は、新たな規定を受け取る。「こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固としてあらわれる。」「商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。」
 商品Aの価値が、多数の商品の使用価値によって表現され、個々の使用価値はそれぞれ特殊的関係に置かれるが、それは、価値が、その一般性を表わし始めたからである。個別なものの中に一般性が見え始めたとき、それが、特殊性の段階である。「商品価値はそれが現われる使用価値の形態には無関係」である。対立物の相互規定が、個別的段階から、特殊的段階へと論理的発展をしたのである。
 そこで、「二人の個人的商品所有者の偶然的な関係」であったものが、必然へと転化しはじめる。

2.特殊的等価形態

一方、等価形態の方も、新たな規定を受け取る。各商品Bがそれぞれ特殊的関係に置かれることによって、商品Bの価値も特殊的関係に置かれており、逆に言えば、その価値に相応しい形態ではないということが、明確になりつつある。
個別的から特殊的への転化である。「これらの商品のそれぞれの特定の現物形態は、いまでは他の多くのものとならんで一つの特殊的等価形態である。」

3.全体的な、または展開された価値形態の欠陥

この節では、特殊の段階の限界性が、述べられている。無限の系列の等式による表現は、ヘーゲルのいうところの「悪無限」である。
 「94 この無限は悪しきあるいは否定的な無限である。というのは、それは有限なものの否定にほかならないのに、有限なものは相変わらず再び生じ、したがって相変わらず揚棄されていないからである。」(ヘーゲル「小論理学」上巻)
 端的に言えば、特殊的形態は、個別的形態の寄せ集めである。したがって、相対的価値形態も等価形態の方も、あくまで特殊であるという限界にとどまっていて、完結しない、いくらでも引き伸ばされる系列であり、ばらばらな系列であり、果てしがない。
 ここから先は、個別から特殊を媒介にして一般へという展開であるが、一般的形態へは、飛躍がある。それは、等式自体の普遍性をうることであり、この等式を逆転させることを通じて、すなわちその位置を交代させることを通じて可能となる。

C 一般的価値形態

U量の商品B=V量の商品C=・・・=Z量の商品A
 対立物の相互規定の関係が、特殊的段階から、一般的・普遍的段階へ論理的発展を遂げる。

 ここで、個別、特殊、普遍という概念の展開を、ヘーゲルが概念論のなかで詳しく説明しているということを指摘しなければならない。
「163 概念そのものは、次の三つのモメントを含んでいる。@ 普遍―これはその規定態のうちにありながらも自分自身との自由な相等性である。A 特殊―これはそのうちで普遍が曇りのなく自分自身に等しい姿を保っている規定態である。B 個―これは、普遍および特殊の規定態の自己反省である。」
「164 普遍、特殊、個は、抽象的にとれば、同一、区別、根拠と同じものである。しかし、普遍は、同時に特殊と個とを自己のうちに含んでいるという意味をはっきりもつ自己同一者である。また特殊は、区別あるいは規定態ではあるが、しかし、自己のうちに普遍を内在させ、また個として存在するという意味を持っている。同時に個も、類と種とを自己のうちに含み、そしてそれ自身実体的であるところの主体であり根拠であるという意味を持っている。」(ヘーゲル「小論理学」下巻)

 マルクスがここで、貨幣という概念に到達するために、個別、特殊、普遍という側面を区別して展開しているのは、まるで、ヘーゲルの論理学に対応しているようである。ヘーゲルの論理学は、有論から出発し、質と量との考察を経て、本質論へ至る。本質論では、「他者への反照」が語られ、その結果、「発展」である概念論へ到達する。資本論のこの章では、商品から出発し、価値の質的量的考察を経て、使用価値と交換価値の相関が語られ、それが全体として、個―特殊―普遍の段階を経て、貨幣へ到る。

1 価値形態の変化した性格

相対的価値形態は、ここで一般的性格に変化する。「いろいろな商品はそれぞれの価値をここでは(1)単純に・・・(2)統一的に表わしている・・・したがって一般的である。」
 個別的形態は「実際にはっきりと現われるのは、ただ、労働生産物が偶然的な時折の交換によって商品にされるような最初の時期だけのことである。」
 特殊的形態は「はじめて実際に現われるのは、ある労働生産物、たとえば家畜がもはや例外的にではなくすでに慣習的にいろいろな他の商品と交換されるようになったときのことである。」
 この一般的形態において、「どの商品の価値も、・・・いっさいの使用価値から区別され、・・・その商品とすべての商品とに共通のものとして表現される・・・。諸商品を互いに交換価値として現われさせるのである。」
 「一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。ひとつの商品が一般的価値表現を得るのは、同時に他のすべての商品が自分達の価値を同じ等価物で表現するからにほかならない。そして、新たに現われるどの商品種類もこれにならわなければならない。こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらのものの純粋に「社会的定在」であるからこそ、・・・したがって諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、明瞭に現われてくるのである。」
 多数の選挙民である商品の投票行動によって、代表者である一つの商品が「価値」の代表として選ばれたのである。
 「いまやすべての商品が質的に同等なもの、・・・同時に量的に比較されうる価値量として現れる。」
 「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から除外された等価物商品・・・に、一般的等価物という性格を押し付ける。リンネル自身の現物形態がこの世界の共通の価値姿態なのであり、・・・いっさいの人間労働の目に見える化身、その一般的な蛹化として認められる。・・・商品価値に対象化されている労働は、現実のすべての具体的形態と有用的属性とが捨象されている労働として、消極的に表されているだけではない。この労働自身の積極的な性質がはっきりと現われてくる。この労働は、いっさいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性格に、人間の労働力の支出に、還元されたものである。」
 ここでは、一般的等価物が、他の商品から除外され、別個の世界を作っている。つまり、世界が二重化されている。この価値鏡の中では、上着を写そうと、茶を写そうと、コーヒーを写そうと、すべて、リンネルの異なった量としてしか、写ってこない。

2 相対的価値形態と等価形態との発展関係

相対的価値形態の発展の程度には等価形態の発展の程度が対応する。しかし、これは注意を要することであるが、等価形態の発展はただ相対的価値形態の発展の表現と結果でしかないのである。」これは、どちらの方に能動性があるかという意味で、重要である。
 「しかし、価値形態一般が発展するのと同じ程度で、その二つの極の対立、相対的価値形態と等価形態との対立もまた発展する。」
 第一および第二、すなわち個別的および特殊的段階は、「両極の対立」が固定されていない。第三すなわち、普遍的段階が「最後に商品世界に一般的な社会的な相対的価値形態を与えるのであるが、それは、ただ一つの例外だけを除いて、商品世界に属する全商品が一般的等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりでのことである。したがって、1商品、リンネルが他のすべての商品との直接的交換可能性の形態または直接に社会的な形態にあるのは、他のすべての商品がこの形態をとっていないからであり、またその限りでのことなのである。」
 「反対に、一般的等価物の役を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがってまた相対的な価値形態からは排除されている。」この排除は、否定である。個別的対立物の関係が、特殊的対立物の関係に発展し、特殊的対立物の関係が、一般的対立物の関係に発展した。

3 一般的価値形態から貨幣形態への移行

この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。
そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。・・・商品世界の中で一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。・・・すなわち金である。」

D 貨幣形態

形態Vから形態Wへの「前進は、ただ、直接的な一般的交換可能性の形態または一般的価値形態がいまでは社会的慣習によって最終的に商品金の独自な現物形態と合生しているということだけである。」
「すでに貨幣商品として機能している商品での、・・・1商品・・・の単純な相対的価値表現は、価格形態である。」
価値鏡は、ここではどのような商品を写そうと、金の一定量として、写し出す。この写し出されたものが、価格形態というわけである。
こうして最終的に、貨幣が誕生した。以上が、貨幣誕生の論理である。交換価値の一般的形態としての貨幣は、使用価値と価値の対立の相互浸透の発展形態であり、商品と区別された別の世界に、対立物の一方である「価値」が一般的等価物として定立されたことを意味する。商品の矛盾が、別世界の矛盾を生み出す端緒である。

第4節 商品の呪物的性格とその秘密

さて、いままで、商品が使用価値と価値の矛盾を含んでいるという事実から出発し、価値を形成する実態である労働の性格にまで遡って検討し、更に、商品の矛盾が貨幣を生み出すことを論証した。
 では、労働生産物は、なぜ価値という形態を取らねばならないのか、なぜ価値は自立した形態を持つようになるのか、これが、この節の課題である。

たとえば、机は、私が使っている限りは、商品ではない。商品にするためには、誰かに買ってもらうために、しかるべき売り場、卸や小売、中古品であれば、質屋などに、出さねばならない。売り場に出されて、商品となった瞬間から、机は価値を持つ。
 たとえば、古ぼけたガラクタのような茶碗がある。ある人がそれを高名な鑑定師のところへ持っていって、鑑定してもらったとしよう。数百円で買った茶碗を鑑定してもらったところ、骨董品として、数百万円という値段がついたとしよう。その持ち主は、それ以後、その茶碗の扱い方を変えるだろう。家の隅に押しやっていた存在から、床の間の真ん中へ。いや、その持ち主だけではない。そのことを知ったすべての人が、それを粗末には扱わなくなるであろう。特にそれを欲する者は、手に入れようと、自ら出向いて、交渉するであろう。価値を持つ物は、このように、人々の手から手へ扱われる際に、あたかも自立した存在のように自ら渡り合って行くのである。まるで、価値を持つ物は、その中に神が宿っているかのようである。「それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間との間でも関係を結ぶ独立した姿に見える。」価値とは、不思議なものである。このことは、何がしかの価値を持つすべての商品にも、当てはまる。「机は、自分の足で床の上に立っているだけでなく、他のすべての商品に対して頭で立って」いるのである。このことを、マルクスは商品の呪物的性格と呼んでいる。

このような商品の神秘的な性格は、「商品を生産する労働の特有な社会的性格から生ずる」と結論する。
 商品の価値は、「互いに独立に営まれる私的諸労働」(者)同士の生産関係の対象化であり、反映である。
「労働生産物が商品形態をとるとき、・・・いろいろな人間労働の同等性はいろいろな労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、その継続時間による人間労働力の支出の尺度は労働生産物の価値量という形態を受け取り、最後に、生産者たちの・・・諸関係は、いろいろな労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。」
「商品形態は人間に対して人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも諸対象の彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。このような置き換えによって労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物になるのである。・・・ここで人間にとって諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。」

   ある一定の数の人間がいる集団を考えよう。この人間達の間に、一人に一つずつ職業を割り振り、それを固定するとして、それぞれ自分勝手に職業を選択してもらうとしよう。すると、例えば、ある人数の漁師ができ、またある人数の猟師ができる。また、かれら個々人は、それぞれ別個のものを生産するが、生産したものは、それぞれの生産者の自身のもの(私的所有)になるとする。
 そこで、生産活動を行わせる。その際、お互いに事前に相談せず、いわゆる生産調整をしないとしよう。すると、生産は無計画に行われ、生産物は、全体として余ったり足りなかったりするであろう(商品生産)。
ところで、個々の独立した生産者たちは、必要な生活資料を手に入れるために、自分の産物を他人の産物と交換せねばならない。そこで、彼らは自分の職業によってそれぞれ異なった産物を持ち寄って、それをお互いに交換するとしよう。
そのとき「生産物交換者たちがまず第一に実際に関心をもつのは、自分の生産物とひきかえにどれだけの他人の生産物が得られるか、つまり、生産物がどんな割合で交換されるか、という問題である。この割合がある程度の慣習的固定性をもつまでに成熟してくれば、それは労働生産物の本性から生ずるかのように見える。」「じっさい、労働生産物の価値性格は、それらが価値量として実証されることによってはじめて固まるのである。」
これが、生産物が価値を持った、つまり商品になったということなのである。「使用対象が商品になるのは、それらが互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならない。」「生産者達は自分達の労働生産物の交換を通じてはじめて社会的に接触するようになる」。
ところで、生産物が足りなかったり余ったりするということは、実際に交換してみればわかる。ここで、足りなければ、価値が上がるだろうし、余っていれば、価値が下がるであろう。生産物が足りなかったりあまったりするということは、それを生産する職業に従事する人間の数が、足りなかったり余ったりしているということになる。したがって、価値が上がれば、生産者が増え、価値が下がれば、生産者が減ることになろう。
そして最後には、ある一定の生産者の数に到達しよう。つまり、彼ら全部が日々生活していくために必要ないくつかの種類と量の生活資料に対して、それを生産するに必要な種類の労働とその必要時間を数え上げ、それらの合計(社会的総労働)を、人間の1日当たりに従事できる労働時間で割って算出した場合の職業人の必要数である。この状態で彼らが均等に労働すれば、この集団の必要な生活資料が日々供給されるはずである。
「この価値量のほうは、交換者たちの意思や予知や行為にはかかわりなく、絶えず変動する。・・・彼らはこの運動を制御するのではなく、これによって制御されるのである。互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に互いに依存しあう私的諸労働が、たえずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合をつうじて、それらの生産物の生産に社会的に必要な労働時間が、・・・規則的な自然法則として強力的に貫かれるからである・・・」
ここでは、「私的諸労働の複合体は社会的総労働をなしている。」個々人は、私的労働に従事しながら、しかし、全体としてみると、決して私的ではない。全体から、個々人の私的労働を見れば、それは、社会の必要性に則って、定められていることになる。
この「彼らの私的労働の独自な社会的性格」は、交換において「社会的労働の諸環として実証される。それだから、生産者達にとっては、彼らの私的労働の社会関係は・・・諸個人の物的な関係・・・として現われる」。
「労働生産物は、それらの交換の中ではじめてそれらの感覚的に違った使用対象性から分離された社会的に同等な価値対象性を受け取るのである。このような有用物と価値物とへの労働生産物の分裂は、交換がすでに十分な広がりと重要さを持つようになり、したがって有用な諸物が交換のために生産され・・・るようになったときに、はじめて実際に実証されるのである。この瞬間から、生産者たちの私的諸労働は実際に一つの二重の社会的性格を受け取る。それは、一面では、一定の有用労働として・・・他面では、・・・特殊な有用な私的労働のそれぞれが別の種類の有用な私的労働と交換可能であり・・・。」「私的生産者たちの頭脳は、彼らの私的諸労働のこの二重の社会的性格を、実際の交易、生産物交換で現われる諸形態でのみ反映させ、・・・彼らの私的諸労働の社会的に有用な性格を、労働生産物が・・・他人のために有用でなければならないという形態で反映させ、異種の諸労働の同等性という社会的性格を、・・・諸労働生産物の、共通な価値性格という形態で反映させる」。ここに商品としての使用価値と価値、それに対応した有用労働と抽象的人間労働一般との矛盾が表面化するのである。これは、人間は各人の労働を交換せねばならないのに、各人の労働は私的である、つまり、互いに独立して行われ依存しあっていないという矛盾に基礎付けられている。
 「彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等置することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等置するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行うのである。

   マルクスは、「商品生産のいっさいの神秘、商品生産の基礎の上で労働生産物を霧の中に包み込むいっさいの奇怪時」をより明確にするために、生産物の交換を行わない人間の集団のあり方を、示している。
個人に割り振られる労働のあり方、すなわち、社会的生産関係としては、論理的に次のように分類できる。
まず、一人の人間が、いくつかの異なった種類の労働を行い、その産物も自己消費する場合。これは自給自足の生活であり、島の中のロビンソンである。「必要そのものに迫られて、彼は自分の時間を精確に自分のいろいろな(生産的)機能のあいだに配分するようになる。」「ロビンソンと彼の自製の富をなしている諸物とのあいだのいっさいの関係はここではまったく簡単明瞭なので・・・」
このような人間の集団を考えると、その集団の内部で、それぞれ人間同士が孤立していて、自給自足の生活を送っている。生産物は、交換されていない。
 次に、いくつかの異なった生産活動とその消費が違った人間に割り振られているが、一方は生産のみを行い、もう一方は消費のみを行う場合。この場合、このような人間の集団の内部では、生産物が生産する側の人間から、消費だけをする人間の側に、一方的に流れる。あるいは、生産する人間が消費する人間のところに直接行って、生産活動を行う。これは相互の交換ではなく、したがって生産物は商品とならない。
マルクスは、この集団の例として、ヨーロッパの中世を挙げている。中世は、同職組合のような団体的動産所有が存在する社会であるが、賦役や貢納がある。賦役は、労働を一方的に提供させられることであり、貢納とは、生産物を一方的に提供させられることである。生産物は行き先が決まっており、したがって、消費先が決まっている生産物は、商品ではない。
ここでは、「人的従属関係が物質的生産の社会的諸関係をも、その上に築かれている生活の諸部門をも特徴付けている」。これは、分業が特殊な身分として固定されており、各人の労働は、身分として誰の目にも社会的に明らかになっている。生産物の交換も、庶民の間で自由になされているのではなく、身分から身分へと一方的に流れている。ここでは、社会的分業が発展しているが、交換価値は生み出していない、少なくとも、主要ではない。
次に、生産と消費が違った人間に割り振られているが、お互いに平等に生産と消費を行う場合。
この場合、更に原理的に二つに分かれる。一つは、それが計画的に行われる場合。もう一つは、無計画に行われる場合。
まず、計画的に行われる場合として、家族内分業が挙げられる。「農民家族の素朴な家長制的な勤労」=家族内分業。家族も小さな人間集団である。男と女との自然的な分業に基づいて、家族共同体という社会のなかでは、生産に自然発生的な計画性があり、生産された生産物は、すべて家族内で自給自足的に消費される。その家族社会の中では、糸やリンネルが家族内の「社会的生産物」である。しかし、その生産物は、例えば他の家族と交換される必要がなく、商品を店頭に並べるといったような必要がなく、したがって交換価値という性格を持っていない。
すべての文化民族の歴史の発端で見られるような労働の自然発生的な形態」。ここでは、おそらく部族社会が想定されているのであろうが、ここでも、家族内分業と同様に、各人の労働は、直接的な結びつきのなかにあり、交換価値は生まれていない。
最後に、無計画に行われる場合。無計画とは、各個人が生産者でもあり消費者でもあるという関係であり、各人はそれぞれ特殊な分業を割り当てられている集団でありながら、それぞれ勝手に生産を行い消費を行うという状況である。これが、商品生産の前提する社会であり、「職業選択の自由」が保障される社会である。
最初のロビンソン(彼には「諸労働を意識的計画的に配分するという明瞭さ」がある)と、この最後の人間の集団以外の集団では、生産と消費に関して集団的に何らかの調整と取り決めがなされているはずである。これが、集団すなわち共同体の役割である。
以上のように、「生産の前提になっている共同体」の存在が「個人の労働が私的労働となること、および個人の労働生産物が私的生産物になること」をさまたげているのである。だから、こういう自然発生的な共同体がまったく存在しないブルジョア社会では、私的労働のみがばらばらに存在し、すべての労働生産物は、商品として店頭に並べなければならないことになる。
マルクスは「最後に」として、理想とする将来の社会を描き出している。「共同の生産手段で労働し自分達のたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体を考えてみよう。ここでは、ロビンソンの労働のすべての規定が再現するのであるが、ただし、個人的にではなく社会的に、である。」「ここでは、各生産者の手にはいる生活手段の分け前は各自の労働時間によって規定されているものと前提しよう。そうすれば・・・労働時間の社会的に計画的な配分は、いろいろな欲望に対するいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、・・・共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的分け前の尺度として役立つ。人々が彼らの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的関係は、ここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純である。」
 「社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿は、それが自由に社会化された人間の所産として人間の意識的計画的な制御のもとにおかれたとき、はじめて神秘のベールを脱ぎ捨てるのである。しかし、そのためには、社会の物質的基礎または一連の物質的存在条件が必要であり、この条件そのものがまた一つの長い苦悩に満ちた発展史の自然発生的な所産なのである。」

「商品生産者の社会にとっては、抽象的人間に対する礼拝を含むキリスト教・・・が最も適当な宗教形態である。」キリスト教の神は、抽象的人間であり、価値が抽象的人間労働であるのと同様であるという。
 素朴な宗教、自然宗教では、山に神がおり、海に神がいるという。たとえば漁師は、海が荒れないように、海の神にささげものをし、海の神に大漁を祈る。
海が荒れて漁にいけなくなるのは、漁師にとっては死活問題である。海の神に祈りを捧げることによって、自然現象に働きかけようとしたのである。
人は何か気に食わぬことがあると、不機嫌になったり怒ったりする。海に嵐が起こるのも、海に神がいて神が怒るからだと考えたからである。これは、人間にしか存在しない意思を、人間の頭から外に持ち出して、自然の中においた(意識の対象化)ものである。無論、誰でも知っているように、嵐などの気象や魚などの増殖は、自然現象であり、人為の及ばぬところであるが。「ここでは、人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間との間でも関係を結ぶ独立した姿に見える。」
これに論理的に対応するのが、個々の商品の価値である。海に神が宿り、山にもまた別の神が宿るように、個々の商品の中には、個々別々の価値が宿る。これは、個々の労働生産物を交換する場合に、習慣として固定化したものである。これは、人間にしか存在しない労働を、人間の外に持ち出して、労働生産物の中においたもの(労働の対象化)である。商品交換はまるで自然現象のように、人知の及ばぬところだからである。
 自然宗教と一神教であるキリスト教とはどこが異なるのか。それは、自然宗教では、個々の自然現象に個々の神が宿るところから多くの神が生まれたが、それらの間に親子関係や夫婦関係、友人関係、上下関係が生まれて整理され、更にキリスト教では、それらが抽象的に統一されて一神教になったものである。カトリックでは、マリア信仰に現れているように、神はまだ偶像崇拝と完全に手を切っていないが、プロテスタントでは、キリストに対する直接的な偶像崇拝が存在しないように、神に対する偶像崇拝は完全に否定され、神は抽象的にしか存在しないものとされている。神に対する人間は、神の前にすべて平等とされている。
 このキリスト教に対応するのが、貨幣を媒介にする商品交換である。貨幣は、個々の商品の別々の価値が整理され、抽象的に統一されて特定の商品である金の上に固定したものである。この貨幣の前には、すべての価値は同一であり、「この物的な形態において彼らの私的労働を同等な人間労働として互いに関係させる」のである。
 ここには、商品と宗教の論理的な同一性がある。
「およそ、現実の世界の宗教的な反射は、実践的な日常生活の諸関係が人間にとって相互間および対自然のいつでも透明な合理的関係を表わすようになったときに、はじめて消滅しうるのである。」

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