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「資本論」ノート (2)


第2章 交換過程

 いままでは、理論的に商品の二つの側面を取り扱ってきた。ここでは実際の商品の交換過程の論理を追跡することになる。

 商品所有者は、「これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの物にやどす人として、互いに相対しなければならない。・・・どちらもただ両者に共通な一つの意志行為を媒介にしてのみ、自分の商品を手放すことによって、他人の商品を自分のものにするのである。それゆえ、彼らは互いに相手を私的所有者として認め合わなければならない。契約・・・は、・・・経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である。・・・人々はこの経済的諸関係の担い手として互いに相対する・・・」
 ここで、ヘーゲルの「哲学入門」から該当する部分を抜書きして見よう。
「8 意志は或る物件を自分の下に包摂することによって、それを自分のものとする。占有とは、このように或る物件が私の意志の下に包摂されることである。」
「11 私が私のものとしたところの物件が私のものであるということが、私が他人の占有を彼らのものとして是認するのと同じように、他のすべての人から是認されるかぎり、占有は所有になる。言い換えると、その場合には所有は合法的になる。」
「12 私は私の所有を譲渡することができる。つまり、所有は私の自由意志によって他人に移動することができる。」
「15 他人への譲渡に当たっては、物件を他人に譲渡するという私の同意と、それを受け取るその人の同意とが必要である。この二重の同意は、それが相互に表示され、有効に言明されているかぎり、これを契約という。」
ヘーゲルは、意志を実体として把握し、意志そのものが移動すると解釈するが、マルクスではこれを唯物論的に修正し、関係が延長されると解釈する。そこで、商品の所有権を持っている商品所有者同士が相対し、「一つの意志行為を媒介にして」商品の売買契約を結び、所有権の移転を行う。マルクスは、この契約を、「経済的関係がそこに反映している一つの意志関係」と見るのである。
ところでヘーゲルは、売買契約と貨幣について、次のような興味ある見解を示した。 「売買とは、商品と貨幣との交換という交換の特殊な様式である。貨幣は一般的商品である。それゆえにそれは抽象的な価値であるから、それ自身は何か特殊な欲望をそれで充足するために使用することはできない。貨幣はそれと交換に特殊な必要品を得るための一般的手段にすぎない。だから、貨幣の使用は単に間接的なものである。物質はそれ自身これらの性質をもつものではないから、そのまま貨幣ではない。物質はただ協定によって貨幣としての通用を認められるにすぎない。」
 これは、おそらく、ヘーゲル独自の貨幣理論ではなく、ヘーゲルが生きた時代に行われていた解釈を、彼が観念論の限界内で独自に取り上げたものであろう。しかし、抽象的理論に鋭いヘーゲルであるから、きわめて興味深い。

   商品の交換という過程は、矛盾を持っている。
 前節で示されたように、商品は「他人のために有用でなければならないという形態」と「共通な価値性格という形態」を持っている。
だから、「彼の商品は、他人にとって使用価値をもっている。」「すべての商品は、その所持者にとっては非使用価値であり、その非所持者にとっては使用価値である。・・・この持ち手の取り替えが商品の交換なのであり、・・・商品を価値として実現するのである。それゆえ、商品は、使用価値として実現されうるまえに、価値として実現されなければならない。
 「他方では、商品は、自分を価値として実現しうるまえに、自分を使用価値として実証しなければならない。
 また、特定の欲望を満たす使用価値であるということから、「交換は彼にとってただ個人的な過程でしかない。」また、等価物であるということから「交換は彼にとって一般的な社会課程である。だが、同じ過程が、すべての商品所持者にとって同時にただ個人的でありながらまた同時にただ一般的社会的であるということはありえない。
また、「どの商品所持者にとっても、他人の商品はどれでも自分の商品の特殊的等価物とみなされ、したがって自分の商品はすべての他の商品の一般的等価物とみなされる。だが、すべての商品所持者が同じことをするのだから、どの商品も一般的等価物ではな」い。
 この部分は、「批判」において、「こうして一方の解決が他方の解決を前提とするところから、そこに問題の悪循環が生じてくるばかりでなく、ひとつの条件をみたすことが直ちにその反対条件を満たすこととむすびついているところから、矛盾しあう諸要求の全体があらわれるのである。」とマルクスが書いた部分に対応している。
 この「資本論」では、「商品所持者達は・・・考える前にすでに行っていたのである。」と記述されている。「他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分達の価値を全面的に表わすのである。・・・こうしてこの商品は、貨幣になる」。
 「貨幣結晶は、・・・交換過程の必然的な産物である。交換の歴史的な広がりと深まりとは、商品の本性のうちに眠っていた使用価値と価値の対立を展開する。この対立を交易のために外的に表わそうとする欲求は、商品価値の独立形態に向かって進み、商品と貨幣とへの商品の二重化によって最終的にこの形態に到達するまでは、少しも休もうとしない。」
 商品に内在する使用価値と価値の矛盾は、自己を展開させ、貨幣と他の商品と言う矛盾を生み出し、交換過程という運動形態の中で解決されるのである。

ここから、マルクスは、交換の歴史を、論理的にさかのぼって見ていく。これはいままで論理的に展開してきたものが、実際に歴史上に現われる過程を見ることになる。
   「直接的生産物交換の形態は、・・・交換以前には商品でなく、交換によってはじめて商品になる。ある使用対象が可能性からみて交換価値であるという最初のあり方は、・・・その所持者の直接的欲望を越える量の使用価値としての、それの定在である。・・・(諸物を)手放すことが相互的であるためには、・・・諸物の私的所有者として相対するだけでよく、・・・このように互いに他人であるという関係は、自然発生的な共同体の成員にとっては存在しない。・・・商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる。しかし、物がひとたび対外的共同生活で商品になれば、それは反作用的に内部的共同生活でも商品になる。・・・そのうちに、他人の使用対象に対する欲望は、だんだん固定化してくる。交換の不断の繰り返しは、交換を一つの規則的な社会的課程にする。・・・時がたつにつれて、労働生産物の少なくとも一部分は、はじめから交換を目的として生産されなければならなくなる。この瞬間から、・・・諸物の使用価値は諸物の交換価値から分離する。・・・慣習は、それらの物を価値量として固定させる。」
 独立した私的生産者の私的所有は、商品の交換の論理的出発点であるが、歴史的には、共同体自体が私的所有者としての役割を負うのである。
これは、生産(及び消費)から交換の分離・独立化の過程である。直接的生産物交換(物物交換)というのは、生産(及び消費)と直接的に同一な交換として把握しうる。交換と生産は分離されておらず、直接的に一体である。ところが、「交換の不断の繰り返しは」量質転化を起こし、交換が社会過程として確立することによって、生産と一体であった交換である物物交換から、交換過程が相対的に独立し、商品流通過程となって、生産と媒介関係に置かれるようになる。
しかし、分離されたとはいえ、交換過程は生産過程と媒介関係にあり、交換過程は、交換する商品を生産から供給されてはじめて成立するという意味で、生産過程と直接に同一の側面を持っているということになる。
 それに対応して、生産物の生産が、交換を目的とする過程へ変化しはじめる。「労働生産物の少なくとも一部分は、はじめから交換を目的として生産され」るようになっていく。生産が、生産物の生産過程から、交換の産物である「価値」の生産過程へと変貌するということは、生産の中に、交換と直接に同一の側面を確立するということである。こうして、生産と交換が相互規定的となり相互浸透を始め、その発展が始まるのである。なお、労働過程と価値生産過程との統一の論理は、第3篇第五章で展開される。

 「直接的生産物交換では、・・・それ自身の使用価値や交換者の個人的欲望にかかわりのない価値形態をまだ受け取っていないのである。この形態の必然性は、交換過程にはいってくる商品の数と多様性とが増大するにつれて発展する。・・・交易は、いろいろな商品が・・・一つの同じ第三の商品種類と交換され価値として比較される・・・このような第三の商品は、・・・直接に、一般的な、または社会的な等価形態を受け取る。・・・一時的に、一般的等価形態はあれこれの商品に付着する。しかし、商品交換の発展につれて、それは排他的に特別な商品種類だけに固着する。」偶然性は必然性に転化する。「貨幣形態は、域内生産物の交換価値の実際上の自然発生的な現象形態である外来の最も重要な交換物品に付着するか、または、域内の譲渡可能な財産の主要要素をなす使用対象、たとえば家畜のようなものに付着する。」「商品交換がその局地的な限界を打ち破り、・・・貨幣形態は、生来一般的等価物の社会的機能に適している諸商品に、貴金属に、移っていく。」「金銀の自然属性が貨幣の諸機能に適している・・・。」
 「貨幣商品の使用価値は二重になる。それは、商品としてのその特殊な使用価値、・・・のほかに、その独自な社会的機能から生ずる一つの形態的使用価値を受け取る」。 貨幣は、その他の商品と同様な特殊な使用価値であると共に、一般的価値形態から規定される使用価値という矛盾を抱え込むようになる。

「一商品の等価形態は、その商品の価値の大きさの量的な規定を含んではいない。・・・貨幣自身の価値は、貨幣の生産に必要な労働時間によって規定されていて、それと同じだけの労働時間が凝固している他の商品の量で表現される。このような、貨幣の相対的価値量の確定は、その生産源での直接的物物交換で行われる。それが貨幣として流通に入るとき、その価値はすでに与えられている。」
 貨幣商品にも、商品が持つ一般性は貫かれているのである。

第3章 貨幣または商品流通

第1節 価値の尺度

「第3節の3.等価形態」にて議論されたように、等価形態は尺度の機能を持つから、金が貨幣、すなわち一般的等価物であるということは、金が諸価値の一般的尺度の機能を持つことである。「金は諸価値の一般的尺度として機能し、・・・金という独自な等価物商品はまず貨幣になる」。「すべての商品は、自分達の価値を同じ独自な1商品で共同に計ることができ・・・、この独自な1商品を自分達の共通な価値尺度すなわち貨幣に転化させる」。ここでは、貨幣が導入されたことによる新たな規定が問題となる。
 「1商品の金での価値表現・・・は、その商品の貨幣形態またはその商品の価格である。」貨幣が成立することによって、商品の方にも反作用を及ぼす。それが、商品の相対的価値形態に新たに「価格」という形態を与えるのである。「等価物商品である金は、すでに貨幣の性格をもっているから・・・諸商品の一般的な相対的価値形態は、いまでは再びその最初の単純な、または個別的な相対的な価値形態の姿をもっているのである。他方、展開された相対的価値表現、または多くの相対的価値表現の無限の列は、貨幣商品の独自な相対的価値形態になる。しかし、この列は、いまではすでに諸商品価格のうちに社会的に与えられている。」
 貨幣が導入されたことによって、商品の個別的な相対的な価値形態が、価格という形態で復活する。これは、商品自身の価値像=金の一定量である。
 「商品の価格または貨幣形態は、・・・単に観念的な、または想像された形態である。鉄や・・・などの価値は、・・・これらの物のうちに存在する。この価値は、これらの物の金との同等性によって・・・想像される。それだから、商品の番人は、これらの物の価格を外界に伝えるためには、・・・これらの物に紙札をぶらさげる・・・。商品価値の金による表現は観念的なものだから、この機能のためにも、ただ想像されただけの、すなわち観念的な、金を用いることができる。・・・それゆえ、その価値尺度機能においては、貨幣は、ただ想像されただけの、すなわち観念的な、貨幣として役立つのである。」
 しかし「価格はまったく実在の貨幣材料によって定まる」。そこで、「金や銀や銅のどれが価値尺度として役立つかによって、・・・全く違った価格表現を与えられる。」「それゆえ、もし二つの違った商品、たとえば金と銀とが同時に価値尺度として役立つとすれば、すべての商品はふたとおりの違った価格表現・・・をもつことになる。これらの価格表現は、金と銀との価格比率・・・が不変であるかぎり、無事に相並んで用いられる。しかし、この価格比率の変動が起きるたびに、それは諸商品の金価格と銀価格との比率を撹乱して、この事実によって、価値尺度の二重化がその機能と矛盾することを示すのである。」つまり、この価値尺度の機能のためには、貴金属の種類は、一つでなければならないのである。
 諸商品は「いろいろな大きさの想像された金量に転化されている・・・このようないろいろな金量として、諸商品の価値は互いに比較され、計られるのであって、技術上、これらの金量を、それらの度量単位としての或る固定された金量に関係させる必要が大きくなってくる。この度量単位そのものは、・・・度量標準に発展する。金や銀や銅は、それらが貨幣になる以前に、すでにこのような度量標準をそれらの金属重量においてもっている。・・・重量の度量標準の有り合わせの名称が、また貨幣の度量標準または価格の度量標準の元来の名称にもなっているのである。」
20エレのリンネルが店頭に並べられてあり、そのリンネルに金2オンスと書いた名札が貼ってあるとすれば、それは、価値を測る一般的等価物=一般的尺度に金という商品を採用しているという意味と、その価値を、金という金属重量の度量標準を用いて表現しているという矛盾した構造を示しているのである。
 「価値の尺度および価格の度量標準として、貨幣は二つのまったく違った機能を行う。」「価値尺度としては、種々雑多な商品の価値を価格に・・・転化させるのに役立ち、価格の度量標準としては、この金量を計る。」「価格の度量標準のためには、・・・度量比率の固定化が決定的である。・・・価値の尺度として・・は、・・・可能性からみて一つの可変的な価値であるからこそである。」
 ここで、度量標準は、金属の属性の側面から由来しており、価値の尺度は、価値の側面から由来していることに注意する必要がある。この「二つのまったく違った機能」は、相互に相対的に独立しており、その矛盾が、以下の結果を説明する。
 「金の価値変動は、金が価格の度量標準として機能することを決して妨げない」。「金の価値変動はまた金が価値尺度として機能することも妨げない。」したがって「商品価格の運動に関しては、一般に、以前に展開された単純な相対的価値表現の諸法則があてはまる」。

 「個々の金属重量の貨幣名は、いろいろな原因によって、しだいにそれらの元来の重量名から離れてくる」。「歴史的過程は、いろいろな金属重量の貨幣名がそれらの普通の重量名から分離することを国民的慣習にする。貨幣度量標準は、一方では純粋に慣習的であるが、他方では一般的な効力を必要とするので、結局は法律によって規制されることになる。」
「こうして価格・・・は、いまでは金の度量標準の貨幣名または法律上有効な計算名で表現される。・・・そして、貨幣は、ある物を価値として、したがって貨幣形態に、固定することが必要なときには、いつでも計算貨幣として役立つのである。」
つまり、実際には、店頭に並べられた20エレのリンネルには、金2オンスではなく、2ポンド・スターリングという貨幣名が示されているのである。
 「価値が、商品世界の雑多な物体から区別されて、このなんだかわからない物的な、しかしまた純粋に社会的な形態に達するまで発展をつづけるということは、必然的なのである。」
 一方、価値とその表現である価格とは、矛盾する可能性を含む。「商品の価値量の指標としての価格は、その商品と貨幣との交換割合の指標だとしても、逆にその商品と貨幣との交換割合の指標は必然的にその商品の価値量の指標だということにはならない。」「1商品とその外にある貨幣商品との交換割合・・・・では、商品の価値量が表現されうるとともに、また、与えられた事情のもとでその商品が手放される場合の価値量以上または以下も表現されうる。だから、価格と価値量との量的な不一致の可能性、または、価値量からの価格の偏差の可能性は、価格形態そのもののうちにあるのである。このことは、・・・この形態を、一つの生産様式の、すなわちそこでは原則がただ無原則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうるような生産様式の、適当な形態にするのである。」
 価値量と価格との関係の中に、すでにそれが量的に一致しない矛盾が、内包されている。「しかし、価格形態は、・・・一つの質的な矛盾、すなわち、貨幣はただ商品の価値形態でしかないにもかかわらず、価格がおよそ価値表現でなくなるという矛盾を宿すことができる。」つまり、労働の産物ではない物でも、商品として価格を与えることができるということである。これは、価値関係が、本来は価値のないものまでも、形式的に延長されるということを意味している。
 この商品の価格と貨幣の度量標準が確立すると、次には、その運動の考察へと進むことができる。「実際の交換価値の働きをするためには、商品はその自然の肉体を捨て去って、ただ、想像されただけの金から現実の金に転化しなければならない。」「価格形態は、貨幣とひきかえに商品を手放すことの可能性とこの手放すことの必然性とを含んでいる。」

第2節 流通手段

a 商品の変態

前節で、貨幣の価値尺度の側面を規定した。次に、貨幣の運動を考察することによって、貨幣のもう一方の側面である「使用価値」の側面を規定する。
「商品の交換過程は、矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を解消しはしないが、それらの矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす。これは、一般に現実の矛盾が解決される方法である。
 これは矛盾の運動を、端的に、見事に表現している。
 いままでの矛盾の構造化は、次の文章に総括されている。
「交換過程は、商品と貨幣とへの商品の二重化、すなわち商品がその使用価値と価値との内的な対立をそこに表わすところの外的な対立を生み出す。この対立では、使用価値としての諸商品が交換価値としての貨幣に相対する。他方、この対立のどちら側も商品であり、したがって使用価値と価値との統一体である。しかし、このような、差別の統一は、両極のそれぞれに逆に表わされていて、そのことによって同時に両極の相互関係を表わしている。商品は実在的には使用価値であり、その価値存在は価格においてただ観念的に現われているだけである。そして、この価格が商品を、その実在の価値姿態としての対立する金に、関係させている。逆に、金材料は、ただ価値の物質化として、貨幣として、認められているだけである。それゆえ、金材料は実在的には交換価値である。その使用価値は、・・・ただ観念的に現われているだけである。」
 このような矛盾の構造化によって、はじめて商品の運動が可能になる。それが「社会的物質代謝を媒介する諸商品の形態転換」という否定の否定の運動である。「商品の交換過程は、対立しつつ互いに補い合う二つの変態−商品の貨幣への転化と貨幣から商品へのその再転化」である。
 「商品―貨幣―商品」「W―G―W」これが否定の否定の全運動であり、これは、W―G、販売、第一の否定、とG―W、購買、第二の否定から構成されている。
 まず、W―G、販売、が考察される。
 これは、「商品の命がけの飛躍である。」「分業は、労働生産物を商品に転化させ、そうすることによって、労働生産物の貨幣への転化を必然にする。同時に、分業は、この化体が成功するかどうかを偶然にする。」
 「商品の価格の実現、または商品の単に観念的な価値形態の実現は、同時に、逆に貨幣の単に観念的な使用価値の実現であり、商品の貨幣への転化は、同時に貨幣の商品への転化である。この一つの過程が二面的な過程なのであって、商品所持者の極からは売りであり、貨幣所持者の反対極からは買いである。言い換えれば、売りは買いであり、W―Gは同時にG―Wである。」
「いま、われわれのリンネル織職が自分の商品を手放して得た二枚の金貨は、一クウォーターの小麦の転化された姿であると仮定しよう。リンネルの売り、W―Gは、同時に、その買い、G―Wである。しかし、リンネルの売りとしては、この過程は一つの運動を始めるのであって、この運動はその反対の過程すなわち聖書の買いで終わる。リンネルの買いとしては、この過程は一つの運動を終えるのであって、この運動はその反対の過程すなわち小麦の売りで始まったものである。・・・1商品の第一の変態、商品形態から貨幣へのその転化は、いつでも同時に他の1商品の第二の反対の変態、貨幣形態から商品へのその再転化である。
すなわち、この過程では、販売は、直接的に、購買である。そしてこの購買は、別の商品の第二の変態である。
次にG―W、購買が考察される。「商品の第二の、または最終の変態」「或る商品の最後の変態は、同時に他の1商品の最初の変態である。」「商品所有者はある一つの方向に偏した生産物だけを供給するので、その生産物をしばしばかなり大量に売るのであるが、他方、彼の欲望は多方面にわたるので、彼は実現された価格すなわち手に入れた貨幣額を絶えず多数の買いに分散せざるをえない。・・・こうして1商品の最終変態は、他の諸商品の第一の変態の合計をなすのである。」
すなわち、この過程では、購買は、直接に販売である。そしてこの販売は、別の商品の第一の変態である。
「ある商品・・・の総変態を考察するならば、・・・互いの補い合う二つの反対の運動、W―GとG―Wとから成っているということである。商品のこの二つの反対の変態は、・・・商品所持者の二つの反対の経済的役割に反射する。」
商品所持者の経済的役割が分裂して、売り手と買い手になり、商品流通の中で、その役割を取り替える。人間の行為に転化するためには、すべて人間の意識を通過せねばならないのであるから、この過程は、その役割を担う人間の意識に反映するであろう。それが「第3節.貨幣」の議論へと繋がっていく。
「商品変態の二つの逆の運動形態は、一つの循環をなしている。」「ある一つの商品の循環をなしている二つの変態は、同時に他の二つの商品の逆の部分変態をなしている。」「こうして、各商品の変態列が描く循環は、他の諸商品の循環と解きがたくからみあっている。この総過程は商品流通として現われる。」
「商品流通は、ただ形態的にだけではなく、実質的に直接的生産物交換とは違っている。」「商品流通では、一方では商品交換が直接的生産物交換の個人的および局地的制限を破って人間労働の物質代謝を発展させるのがみられる。他方では、当事者たちによっては制御されえない社会的な自然関連の一つの全体圏が発展してくる。」
 こうして、否定の否定の運動の連鎖によって、商品流通の全体の運動が、論理的に導かれるのである。

物々交換から商品流通への発展は、単なる二つの商品の交換ではなく、多数の商品の交換として表れる。それは、物々交換では直接的に同一であった販売と購買を、二つに分裂させ、相互に関連させるということである。ここにも、直接的同一から媒介的統一への弁証法的展開が見られる。「流通は、生産物交換の時間的、場所的、個人的制限を破るのであるが、それは、まさに、生産物交換のうちに存する、自分の労働生産物を交換のために引き渡すことと、それと引き換えに他人の労働生産物を受け取ることとの直接的同一性を、流通が売りと買いとの対立に分裂させるということによってである。独立して相対する諸過程が一つの内的な統一をなしていることは、同時に又、これらの過程の内的な統一が外的な諸対立において運動することをも意味している。互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化が、ある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれるー恐慌というものによって。」ここには、二つの過程への分裂から、諸過程の独立へ、外的対立へ、外的独立化へ、そして恐慌へとの弁証法的発展の理論的根拠が描かれている。
「商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能をもつことになる。」ここに、貨幣の「使用価値」の側面としての「流通手段」の規定が、実際の運動の中で論理的に形作られる。

b 貨幣の流通

貨幣の世界の運動は、商品世界の運動である商品流通を反映する。ではどのように、反映するのか。
「商品流通によって貨幣に直接に与えられる運動形態は、貨幣がたえず出発点から遠ざかること、貨幣が或る商品所持者の手から別の商品所持者の手に進んでいくこと、または貨幣の流通である。」
「商品はいつでも売り手に側に立ち、貨幣はいつでも購買手段として買い手の側に立っている。貨幣は商品の価格を実現することによって、購買手段として機能する。貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかって、また、別な商品と同じ過程を繰り返す。このような貨幣運動の一面的な形態が商品の二面的な形態運動から生ずる・・・。」「商品にとっては二つの反対の過程を含む同じ運動が、貨幣の固有の運動としては、つねに同じ過程を、貨幣とそのつど別な商品との場所変換を、含んでいるのである。それゆえ、商品流通の結果、すなわち別の商品による商品の取り替えは、商品自身の形態変換によってではなく、流通手段としての貨幣の機能によって媒介されるようにみえ、この貨幣が、それ自体としては運動しない商品を流通させ、・・・つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移していくというように見えるのである。」「貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われるのである。」
 「貨幣に流通手段の機能が属するのは、貨幣が諸商品の価値の独立化されたものであるからにほかならない。だから、流通手段としての貨幣の運動は、実際は、ただ商品自身の形態運動でしかないのである。」「同じ商品の二つの反対の形態変換は、反対の方向への貨幣の二度の場所変換に反映するのである。」
 「同じ貨幣片の場所変換のひんぱんな繰り返しには、・・・商品世界一般の無数の変態のからみあいが反映しているのである。」「貨幣は流通手段としてはいつでも流通部門に住んでおり、絶えずそのなかを駆けまわっている。そこで、この部門はつねにどれだけの貨幣を吸収するか、という問題が生ずる。」全体としての貨幣の量的規定である。
 「1国では毎日多数の同時的な、したがってまた空間的に並行する一方的な商品変換が、言いかえれば、一方の側からの単なる売り、他方の側からの単なる買いが、行われている。・・・商品世界の流通過程のために必要な流通手段の量は、すでに諸商品の価格総額によって規定されている。じっさい、貨幣は、ただ、諸商品の価格総額ですでに観念的に表わされている金総額を実在的に表わすだけである。」「諸商品の価格総額が上がるか下がるかするにしたがって、流通する貨幣の量も同じように増すか減るかしなければならない。この場合には流通手段の量の変動は・・・流通手段としての貨幣の機能からではなく、価値尺度としての機能から生ずるのである。」
 「こういうわけで、この前提のもとでは、流通手段の量は実現されるべき諸商品の価値総額によって規定されている。そこで、さらにそれぞれの商品種類の価格を与えられたものとして前提すれば、諸商品の価格総額は、明らかに流通の中にある商品量によって定まる。」「商品量を与えられたものとして前提すれば、流通する貨幣の量は、諸商品の価格変動につれて増減する。」
同じ貨幣片が繰り返す場所変換は、商品の二重の形態変換、二つの反対の流通段階を通る商品の運動を表わしており、また、いろいろな商品の変態のからみあいを表わしている。この過程が通る対立していて互いに補い合う諸段階は、空間的に並んで現われることはできないのであって、ただ時間的にあいついで現われることができるだけである。それだから時間区分がこの過程の長さの尺度になるのであり、又、与えられた時間内の同じ貨幣片の流通回数によって貨幣流通の速度が計られるのである。」「流通過程の或る与えられた期間については、(諸商品の価格総額)/(同名の貨幣片の流通回数)=流通手段として機能する貨幣の量となる。」「流通しつつあるすべての同名の貨幣片の総流通回数からは、各個の貨幣片の平均流通回数または貨幣流通の平均速度がでてくる。」
「貨幣流通では一般にただ諸商品の流通過程が、すなわち反対の諸変態をつうじての諸商品の循環が、現われるだけであるが、同様に、貨幣流通の速さに現われるものも、商品の形態変換の速さ、・・・である。」
「要するに、それぞれの期間に流通手段として機能する貨幣の総量は、一方では、流通する商品世界の価格総額によって、他方では、商品世界の対立的な流通過程の流れの緩急によって、規定されているのである。」「また、諸商品の価格総額は、各商品種類の量と価格との両方によって定まる。ところが、この三つの要因、つまり価格の運動と流通商品量とそして最後に貨幣の流通速度とは、違った方向に、違った割合で変動することができる。したがって、実現されるべき価格総額も、したがってそれによって制約される流通手段の量も、非常に多くの組み合わせの結果でありうるのである。」
こうして、貨幣固有の運動が、全体としての貨幣量を規定することが示された。それはそもそも商品世界の全体としての運動を反映したものである。これで、否定の否定の運動の、商品と貨幣の両側面が、説明されたことになる。

c 鋳貨 価値章標

この部分から「世界貨幣」までの展開は、「批判」の方に詳しい。「資本論」では、「批判」の内容が要約されている。
「流通手段としての貨幣の機能からは、その鋳貨姿態が生ずる。諸商品の価格または貨幣名として想像されている金の重量部分は、流通の中では同名の金片または鋳貨として商品に相対しなければならない。価格の度量標準の確定と同様に、鋳造の仕事は国家の手に帰する。金銀が鋳貨として身につけ世界市場で再び脱ぎ捨てるいろいろな国家的制服には、商品流通の国内的または国民的部面とその一般的な世界市場部面との分離が現れる。」

 重複することにはなるが、ここで、再度、国家の役割を確認しておきたい。「ドイツ・イデオロギーノート」に記したように、生産関係が労働の社会的分割=私的所有に変化して以来、特殊な利益と共同の利益の和解しがたい分裂が、社会に潜在するようになる。その内、特殊な利益が階級という形態で現出する一方、共同の利益は、国家という形態を取るようになる。従って、国家は、社会を構成する諸個人の相互依存性¬=生産関係を観念的に代表するものであるから、内外からの国家に対する攻撃から共同の利益を守り、共通の制度を設立し、政治的な秩序を保つ必要がある。そのための機関が、国家権力である。
当然のことながら、階級と国家権力とは、相互規定の関係にあり、相互浸透が進行する。諸階級はそれぞれの特殊な利益を普遍的なもののように見せかけ国家に押し付けるが、国家は見かけ上普遍的な利益を諸階級に押し付ける。

「金鋳貨と金地金とは元来はただ外形によって区別されるだけで、金はいつでも一方の形態から他方の形態に変わることができるのである。・・・流通しているうちに金鋳貨は、・・・摩滅する。金の称号と金の実体とが、・・・その分離過程を開始する。・・・鋳貨の金存在を金仮象に転化させるという、すなわち鋳貨をその公称金属純分の象徴に転化させるという、流通過程の自然発生的な傾向は、・・・」
「貨幣流通そのものが鋳貨の実質純分を名目純分から分離し、その金属定在をその機能的定在から分離するとすれば、貨幣流通は、金属貨幣がその鋳貨機能では他の材料から成っている章標または象徴によって置き換えられるという可能性を、潜在的に含んでいる。」 「銀製や銅製の章標の金属純分は、法律によって任意に規定されている。それらは、・・・摩滅する。・・・金の鋳貨定在は完全にその価値実体から分離する。つまり、相対的に無価値な物、紙幣が、金に代わって鋳貨として機能することができる。」「ここで問題とするのは、ただ、強制通用力のある国家紙幣だけである。」
「紙幣が・・・現実に同名の金の額に代わって流通するかぎり、その運動にはただ貨幣流通そのものの諸法則が反映するだけである。紙幣流通の独自な法則は、ただ金に対する紙幣の代表関係から生じうるだけである。・・・紙幣の発行は、紙幣によって象徴的に表わされる金(または銀)が現実に流通しなければならないであろう量に制限されるべきである、というのである。」「紙幣は金章標または貨幣章標である。」
「金はそれ自身の単なる無価値な章標によって・・・代理されることができるのは、それがただ鋳貨または流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化されるかぎりでのことである。」「だから、その運動は、ただ商品変態W−G−Wの相対する諸過程の継続的な相互変換を表わしているだけであり、これらの過程では商品に対してその価値形態が相対したかと思えばそれはすぐに消えてしまうのである。商品の交換価値の独立的表示は、ここではただ瞬間的な契機でしかない。・・・だから・・・貨幣の単に象徴的な存在でも十分なのである。いわば、貨幣の機能的定在が貨幣の物質的定在を吸収するのである。商品価格の瞬間的に客体化された反射としては、貨幣はただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた章標によって代理されることができるのである。」

第3節 貨幣

ここからは、貨幣の今まで論じてきた側面とは異なった側面を、論ずる「価値尺度として機能し、・・・流通手段として機能する商品は、貨幣である。それゆえ、金は貨幣である。」しかし、逆に、金商品は、必ずしも貨幣ではない。価値尺度と流通手段という矛盾が貨幣であり、金はその矛盾を担っている土台であるから、金と貨幣の間にも矛盾がある。金が貨幣である場合とは、「金が・・・貨幣商品として、現われなければならない場合であり、・・・その機能が金を唯一の価値姿態または交換価値の唯一の適当な定在として、単なる使用価値として他のすべての商品に対立させて固定する場合である。」ここでは、価値尺度と流通手段の統一としての貨幣のその他の機能的側面、発展形態が、論理的に取り上げられていく。それが、資本の準備段階となっている。

a 貨幣蓄蔵

「商品流通そのものの最初の発展とともに、第一の変態の産物、商品の転化した姿態または商品の金蛹を固持する必要と熱情が発展する。商品は、商品を買うためにではなく、商品形態を貨幣形態と取り替えるために、売られるようになる。この形態変換は、物質代謝の単なる媒介から自己目的になる。商品の離脱した姿は、・・・こうして、貨幣は蓄蔵貨幣に化石し、商品の売り手は貨幣蓄蔵者になるのである。」
「商品流通の拡大につれて、貨幣の力が、すなわち富のいつでも出動できる絶対的に社会的な形態の力が、増大する。」「貨幣は、それ自身商品であり、だれの私有物にでもなれる外的な物である。こうして、社会的な力が個人の個人的な力になるのである。」
 「貨幣蓄蔵の衝動はその本性上無際限である。質的には、またその形態からみれば、貨幣は無制限である。・・・しかし、同時に、どの現実の貨幣額も、量的に制限されており、・・・。このような、貨幣の量的な制限と質的な無制限との矛盾は、貨幣蓄蔵者を絶えず蓄積のシシュフォス労働へと追い返す。
 この貨幣の矛盾の衝動が、貨幣蓄蔵者の意識に「勤勉と節約と貪欲」として反映する。

 「蓄蔵貨幣の直接的な形態と並んで、その美的な形態、金銀商品の所有がある。」「一方では、金銀の絶えず拡大される市場が、金銀の貨幣機能にかかわりなく形成され、他方では、貨幣の潜在的な供給源が形成されて、・・・」

 「貨幣蓄蔵は金属流通の経済ではいろいろな機能を果たす。まず第一の機能は、金銀鋳貨の流通条件から生ずる。・・・商品流通が、・・・絶えず変動するのにつれて、貨幣の流通量も休みなく満ち干きする。だから、貨幣流通量は、収縮し膨張することができなければならない。」「現実に流通する貨幣量がいつでも流通部面の飽和度に適合しているようにするためには、一国にある金銀量は、現に鋳貨機能を果たしている金銀量よりも大きくなければならない。この条件は、貨幣の蓄蔵貨幣形態によって満たされる。」
 連続する流通は、休止と統一されている場合に可能である。貨幣蓄蔵は、絶え間ない流通の条件なのである。

b 支払手段

「商品流通の発展につれて、商品の譲渡を商品価格の実現から時間的に分離するような事情が発展する。」「一方の商品所持者は、現に在る商品を売り、他方は、貨幣の単なる代表者として、または将来の貨幣の代表者として、買うわけである。売り手は債権者となり、買手は債務者となる。」「貨幣は、支払手段になる。」
 以前は、販売と購買は直接的に同一であった。ここでは、それが媒介的な統一に変えられている。

「例えば、古代社会の階級闘争は、主として債権者と債務者との闘争という形で行われ、そしてローマでは平民債務者の没落で終わり、この債務者は奴隷によって代わられるのである。中世には闘争は封建的債務者の没落で終わり、この債務者は彼の政治権力をその経済的基盤と共に失うのである。ともあれ、貨幣形態・・・ここでは、ただ、もっと深く根ざしている経済的生活条件の敵対関係を反映しているだけである。」
 古代社会と中世封建社会の崩壊の原因となった私的所有の発展は、商品流通としては未だ全面的な展開にまで至っていなかったが、最後の論理的展開において現れる債権者と債務者という矛盾にまでは到達していたのである。

「貨幣は、第一には、売られる商品の価格決定において価値尺度として機能する。契約によって確定されたその商品の価格は、買手の債務・・・を示す。貨幣は、第二には、観念的な購買手段として機能する。それはただ買手の貨幣約束のうちに存在するだけだとはいえ、商品の持ち手変換をひき起こす。支払期限が来たときはじめて支払手段が現実に流通にはいってくる。すなわち買手から売り手に移る。」「貨幣はもはや過程を媒介しない。貨幣は、交換価値の絶対的定在または一般的商品として、過程を独立に閉じる。」「債務を負った買手がそうしたのは、支払ができるようになるためだった。・・・貨幣は、・・・売りの自己目的になるのである。」
「流通過程のどの一定期間にも、満期になった諸債務は、その売りによってこれらの債務が生まれた諸商品の価格総額を表わしている。この価格総額の実現に必要な貨幣量は、まず第一に支払手段の流通速度によって定まる。この流通速度は二つの事情に制約されている。第一には、・・・債権者と債務者との関係の連鎖であり、第二には支払期限と支払期限との間の時間の長さである。」
「多くの売りが同時に並んで行われることは、流通速度が鋳貨量の代わりをすることを制限する。」「同じ場所に諸支払が集中されるにつれて、自然発生的に諸支払のための固有な施設と方法が発達してくる。」「・・・債権は、ただ対照されるだけで或る金額までは正量と負量として相殺されることができる。こうして、あとに残った債務差額だけが清算されればよいことになる。」
「諸支払が相殺されるかぎり、貨幣は、ただ観念的に計算貨幣または価値尺度として機能するだけである。現実の支払がなされなければならないかぎりでは、貨幣は、・・・絶対的商品として現われるのである。この矛盾は、生産・商業恐慌中の貨幣恐慌と呼ばれる瞬間に爆発する。」
「次に、与えられた一期間に流通する貨幣の総額を見れば、それは、流通手段および支払手段の流通速度が与えられていれば、実現されるべき商品価格の総額に、満期になった諸支払の総額を加え、そこから相殺される諸支払を引き、最後に、同じ貨幣片が流通手段の機能と支払手段の機能とを交互に果たす回数だけの流通額を引いたものに等しい。」
信用貨幣は、支払手段としての貨幣の機能から直接に発生するものであって、それは売られた商品に対する債務証書そのものが、さらに債権の移転のために流通することによって、発生するのである。」
「商品生産が或る程度の高さと広さとに達すれば、支払手段としての貨幣の機能は商品流通の部面を越える。貨幣は契約の一般的商品となる。地代や租税などは現物納付から貨幣支払に変わる。」
「支払手段としての貨幣の発展は、債務額の支払期限のための貨幣蓄積を必要にする。」

c 世界貨幣

「国内流通部門から外に出るときには、貨幣は・・・国内流通部面でできあがる局地的な形態を再び脱ぎ捨てて、貴金属の元来の地金形態に逆戻りする。世界貿易では、諸商品はそれらの価値を普遍的に展開する。」「世界市場ではじめて貨幣は、十分な範囲にわたって、その現物形態が同時に抽象的人間労働の直接に社会的な実現形態である商品として、機能する。貨幣の定在様式は、その概念に適合したものとなる。」これが、国家間の枠を超えた貨幣の性格であり、国家という枠がないところでは、いままで論じてきた貨幣の発展形態ではなく、本来の素朴な形態へ帰る。
「世界市場では二通りの価値基準が、金と銀とが、支配する。」
「世界貨幣は、一般的支払手段、一般的購買手段、富一般の絶対的社会的物質化として機能する。支払手段としての機能は、国際貸借の決済のために、他の機能に優越する。」
「各国は、・・・世界市場流通のためにもそれ(準備金)を必要とする。・・・この・・役割のためには、つねに現実の貨幣商品、生身の金銀が要求される。」
 ここまでで、貨幣のすべての機能が説明された。それはすべて、商品の矛盾が展開されたものに他ならない。マルクスは、論理的に、すなわち弁証法的に、それを展開し、解説したのである。

第2篇 貨幣の資本への転化

第4章 貨幣の資本への転化

第1節 資本の一般的定式

ここからは、いよいよ資本が論じられる。
商品流通の否定の否定の運動から、もう一つの否定の否定の運動が分離され、それが相対的に独立化する条件を探していく。これは、この独立化を可能とする内的矛盾を見出す探索の道である。

「商品生産と、発達した商品流通すなわち商業とは、資本が成立するための歴史的な前提をなしている。」「商品流通の・・・過程が生み出す経済的な諸形態だけを考察するならば、われわれはこの過程の最後の産物として貨幣を見出す。この、商品流通の最後の産物は、資本の最初の現象形態である。」
資本の歴史的な前提は、論理的な前提でもある。その前提は、商品生産と商品流通である。第1篇で示されたのは、独立して相互に依存していない私的労働者の労働生産物は、使用価値と価値の統一として商品となり、直接的生産物交換は、価値の結晶として貨幣を生み出し、商品流通へと展開されるということであった。この貨幣が、資本の論理的出発点だというのである。逆に言えば、商品生産と貨幣を媒介にした商品流通とが存在しないと、資本は生まれないということである。
「貨幣を資本の最初の現象形態として認識するためには、資本の成立史を回顧する必要はない。同じ歴史は、毎日われわれの目の前で繰り広げられている。」
資本の歴史的過程を論理的に把握すれば、その論理的過程は、現在の社会の中で、ある一つの資本が成立する中にも再現されているということである。「個体発生は、系統発生を繰り返す」という表現を借りれば、個々の資本の発生は、資本の歴史的発生を、論理的に繰り返すということになろうか。

 「商品流通の直接的形態は、W−G−W、商品の貨幣への転化と貨幣の商品への再転化、買うために売る、である。」すなわちW−Wを達成するために、否定の否定という二重否定の形態で運動を行う。この第二の否定を先にして第一の否定を後にすると、「第二の独自に区別される形態、すなわち、G−W−Gという形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化、売るために買う、を見出す。この運動によってこのあとのほうの流通を描く貨幣は、資本に転化する」。
ここでは、二重否定が二つに分裂している。この後の方の二重否定が達成するのは、「貨幣と貨幣との交換、G−G」のはずである。W−Wには異なった使用価値を交換するという独自の目的があった。このG−Gの二重否定が意味を持つ運動であるためには、独自の目的、メリットがなければならない。
 そこで「循環G−W−GとW−G−Wとの形態的相違の特徴づけ」をおこなう。
「まず両方の形態に共通な物」は「どちらの循環も同じ二つの反対の段階、W−G、売りとG−W、買い」から成り立つことである。
「二つの循環・・・を区別する物は、同じ反対の流通段階の逆の順序である。」「流通W−G−Wでは貨幣は最後に商品に転化され、この商品は使用価値として役立つ。だから、貨幣は最終的に支出されている。これに反して、逆の形態G−W−Gでは、買手が貨幣を支出するのは、売り手として貨幣を取得するためである。」「彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れるという底意があってのことにほかならない。それだから、貨幣はただ前貸しされるだけなのである。」
 「単純な商品流通では同じ貨幣片の二度の場所変換がそれ(商品)を一方の持ち手から他方の持ち手に最終的に移すのであるが、ここでは同じ商品の二度の場所変換が貨幣をその最初の出発点に還流させるのである。」「これが、資本としての貨幣の流通と異なる貨幣としてその流通との感覚的に認められる相違である。」
 「循環W−G−Wは、・・・それゆえ、消費、欲望充足、一言で言えば使用価値が、この循環の最終目的である。これに反して、循環G−W−Gは、・・・それゆえ、この循環の起動的動機も規定的目的も交換価値そのものである。」
「単純な商品流通では両方の極が同じ経済的形態を持っている。それらは、・・・同じ価値量の商品である。しかし、それらは質的に違う使用価値・・・である。」「流通G−W−Gでは、・・・どちらの極も同じ経済的形態をもっている。」「その両極がどちらも貨幣なのだから両極の質的な相違によって内容をもつのではなく、ただ両極の量的な相違によってのみ内容を持つのである。」「それゆえ、この過程の完全な形態は、G−W−G’であって、ここではG’=G+ΔGである。すなわちG’は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値と呼ぶ。それゆえ、最初に前貸しされた価値は、・・・自分を価値増殖するのである。そして、この運動がこの価値を資本に転化させるのである。」
 つまり、G−Gである第二の否定の否定が意味を持つためには、貨幣が価値増殖すること、最初の貨幣額に剰余価値を付け加えることが必要である。こういうことが可能かどうかはともかく、こうしなければ、第二の否定の否定が意味ある運動にならないということである。
 また、この第二の否定の否定の運動は、量質転化が決定的な限界をなしている。G−W−Gという形態を維持しても、最初と最後が同じ量の貨幣であれば、それは資本ではない。最後の貨幣量が最初の貨幣量を超えた場合に資本になる。つまり、貨幣の量的な変化が、質的な変化を引き起こすのである。
 だから、第二の否定の否定が量質転化して資本になる運動は、流通の中での、私的所有という制度の中での流通以外の特別な制度がなくても起こりうる自然的な現象ということになる。
 「W−G−W・・・で、・・・両極が等価だということは、ここではむしろ正常な経過の条件なのである。」
 「売りのための買いでは、始めも終わりも・・・貨幣、交換価値であり、・・・この運動は無限である。」「貨幣は、運動の終わりには再び運動の始めとして出てくるのである。」「単純な商品流通―買いのための売り―は、流通の外にある最終目標、使用価値の取得、欲望の充足のための手段として役立つ。これに反して、資本としての貨幣の流通は自己目的である。というのは、価値の増殖は、ただこの絶えず更新される運動の中だけに存在するのだからである。それだから、資本の運動には限度がないのである。」
 つまり、資本の運動は、自己増殖運動であり、それ自体自立した自己増殖反応である。これは、第一の否定の否定の運動とは、決定的に異なる属性である。

 「この運動の意識ある担い手として、貨幣所持者は資本家になる。」「あの流通の客観的内容―価値の増殖―が彼の主観的目的なのであって、・・・彼は資本家として、または人格化され意志と意識を与えられた資本として、機能するのである。」
 資本家は、資本の人格化であり、彼の意識は、資本の運動の反映である。こうして、資本家が誕生する。

 「流通G−W−Gでは、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。価値は、この運動の中で・・・絶えず一方の形態から他方の形態へ移っていき、・・・一つの自動的な主体に転化する。」「実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程の中で絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値としての自分を突き放し、自分自身を自己増殖するのである。」 「このような過程の全面をおおう主体として価値は何よりもまず一つの独立な形態を必要とするのであって、この形態によって価値の自分自身との同一性が確認されねばならないのである。そして、このような形態を、価値はただ貨幣のおいてのみもっているのである。それだからこそ、貨幣は、どの価値増殖過程でもその出発点と終点とをなしているのである。」
 「単純な流通では、商品の価値は、せいぜい商品の使用価値に対立して貨幣という独立な形態を受け取るだけであるが、その価値がここでは、突然、過程を進行しつつある、自分自身で運動する実体として現われるのであって、この実体にとっては商品や貨幣は両方ともただの形態でしかないのである。」「価値は、過程を進みつつある価値、過程を進みつつある貨幣になるのであり、そしてそのようなものとして資本になるのである。」
 「実際に、G−W−G’は、直接に流通部門に現われているとおりの資本の一般的な定式なのである。」
 商品流通の中で生まれた価値が、ここでは前面に出てきて運動の実体となり、それが貨幣―商品―貨幣の形態をとり、価値増殖する。これが資本というわけである。「第2章 交換過程」で記したように、生産(及び消費)過程と交換流通過程は、相互浸透の関係にある。流通過程の中で起こる資本の発生は、生産過程に浸透しそれを変化させる。これが、第5章へと繋がっていく。
では、この価値増殖という運動がどうして可能になるのか。これが次の問題である。

第二節 一般的定式の矛盾

「どうして、このような純粋に形態的な相違がこれらの過程の性質を手品のように早変わりさせるのだろうか。」
 資本が生まれ出る過程は、まるで、南の海に台風が発生するようなものであり、太古の海に、自己増殖能を持つ原始的生命である細胞が誕生するようなものであるし、人体の中に、自己増殖する癌細胞が発生するようなものである。どうしてこんな不思議なことが起こるのか。

「われわれは、流通にはいっていく価値の増殖したがって剰余価値の形成を商品流通がその性質上許すものかどうかを、見極めなければならないのである。」
「流通過程が単なる商品交換として現われるような形態にある場合、」「単純な商品流通の中で行われるのは、商品の変態、単なる形態変換のほかにはなにもない。」「この形態変換がそれ自体としては価値量の変化を含むものではない」。「商品の流通は、・・・等価物どうしの交換を引き起こすのである。」「等価物と等価物とが交換されるとすれば、・・・剰余価値の形成は行われない。」
「そこで、互いに等価ではないものどうしの交換を想定してみよう。」この考察の結果、「要するに、・・・貨幣の資本への転化は、売り手が商品をその価格よりも高く売るということによっても、また、買手が商品をその価格より安く買うということによっても、説明することはできないのである。」「流通または商品交換は価値を創造しない。」
 そこで、次の矛盾が発生する。「資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかないのである。資本は、流通の中で発生しなければならないと同時に流通の中で発生してはならないのである。」

第3節 労働力の売買

「資本へ転化するべき貨幣の価値変化はこの貨幣そのものには起こりえない。」「同様に、第二の流通行為、商品の再販売からも変化は生じ得ない。」「そこで、変化は第一の行為G−Wで買われる商品に起きるのでなければならないが、しかし、その商品の価値に起きるのではない。」「だから、変化はその商品の使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生ずるほかはない。」
 その様な商品「価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような1商品」「その現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような1商品」が「労働能力または労働力」である。「人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在して、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的および精神的諸能力の総体のことである。」
 労働力商品とは、人間である。人間が、商品、すなわち物品として、物として扱われるということである。

 「貨幣所持者が市場で商品としての労働力に出会うためには、いろいろな条件がみたされていなければならない。」
第一に、「労働力の所持者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、したがって彼の労働能力、彼の一身の自由な処分者でなければならない。労働力の所持者と貨幣所持者とは、市場で出会って互いに対等な商品所持者として関係を結ぶのであり、・・・両方とも法律上では平等な人である。この関係の持続は、労働力の所有者がつねにただ一定の時間を限ってのみ労働力を売るということを必要とする。」
「第二の本質的な条件は、労働力所持者が・・・、ただ自分の生きている肉体のうちにだけ存在する自分の労働力そのものを商品として売り出さなければならないということである。」
 「だから、貨幣が資本に転化するためには、貨幣所持者は商品市場で自由な労働者に出会わなければならない。自由というのは、二重の意味でそうなのであって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労働力のほかには商品として売るものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味で、自由なのである。」
 この労働市場の形成は、「明らかに、それ自体が、先行の歴史的発展の結果なのであり、・・・たくさんの過去の社会的生産構成の没落の産物なのである。」「資本主義時代を特徴付けるものは、労働力が労働者自身にとって彼の持っている商品という形態をとっており、したがって彼の労働が賃労働という形態をとっているということである。他方、この瞬間からはじめて労働生産物の商品形態が一般化されるのである。」
 この歴史的過程については、「ドイツ・イデオロギー」ノートにも簡単に述べたが、後に第七篇で詳細に論じられる。

 労働力商品も商品であるからには、第1章第1節・第2節に記述されてある商品の一般論が、妥当するはずである。では、労働力商品の価値は、どのように規定されるか。
労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。それが価値であるかぎりでは、労働力そのものは、ただそれに対象化されている一定量の社会的平均労働を表わしているだけである。」「労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。」「生活手段の総額は、労働する個人をその正常な生活状態にある労働する個人として維持するに足りる物でなければならない。」「労働力の価値規定は、他の諸商品の場合とは違って、ある歴史的な精神的な要素を含んでいる。とはいえ、一定の国については、また一定の時代には、必要生活手段の平均範囲は与えられているのである。」
 商品の価値は、抽象的人間労働の対象化であり、関係概念で把握すべきものである。人間の労働力商品の再生産には、直接的に人間の労働が対象化されているわけではない。しかし、その生産には生活必需品を必要とするから、生活手段の消費によって、生活手段に対象化されていた労働時間が更に再対象化されて価値が形成される。生活手段の使用価値に結びついていた価値の関係が、人間の労働力商品にまで、延長されるのである。労働力商品にも、商品一般の規定が貫かれている
「彼が市場に現われることが連続的であるためには、・・・絶えず補充されなければならない。だから、労働力の生産に必要な生活手段の総額は、補充人員すなわち労働者の子供の生活手段を含んでいるのであり、こうしてこの独特な商品所持者の種族が商品市場で永久化されるのである。」
「労働力の価値は、一定の総額の生活手段の価値に帰着する。したがってまた、労働力の価値は、この生活手段の価値、すなわちこの生活手段の生産に必要な労働時間の大きさにつれて変動するのである。」
「労働力の価値の最後の限界または最低限をなすものは、その毎日の供給なしには労働力の担い手である人間が自分の生活過程を更新することができないような商品量の価値、つまり、肉体的に欠くことのできない生活手段の価値である。」「どの商品の価値も、その商品を正常な品質で供給するために必要な労働時間によって規定されているのである。」
 生きた人間が労働力商品である、つまり、再対象化された労働時間であるということは、「ドイツイデオロギー」ノートで述べたように、人間が活動を交換しているということである。

「この独自な商品、労働力の特有な性質は、買手と売り手とが契約を結んでもこの商品の使用価値はまだ現実に買い手の手に移ってはいないということをともなう。」「しかし、このような商品、すなわち売りによる使用価値の形式的譲渡と買い手へのその現実的引渡しとが時間的に離れている商品の場合には、買い手の貨幣はたいていは支払手段として機能する。資本主義的生産様式の行われる国ではどの国でも、労働力は、売買契約で確定された期間だけ機能してしまったあとで、たとえば各週末に、はじめて支払を受ける。だから、労働者はどこでも労働力の使用価値を資本家に前貸しするわけである。」「とはいえ、貨幣が購買手段として機能するか支払手段として機能するかは、商品交換そのものの性質を少しも変えるものではない。」

「われわれは、労働力というこの独特な商品の所持者に貨幣所持者から支払われる価値の規定の仕方を知った。この価値と引き換えに貨幣所持者の方が受け取る使用価値は、現実の使用で、すなわち労働力の消費過程で、はじめて現われる。」「労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程である労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じに、市場すなわち流通部門の外で行われる。」
 労働力商品の売買は、商品流通の必然的な発展から導かれるもので、商品交換の原則である等価交換に完全に則っているのである。

第2章で述べたように、商品の生産過程と流通過程は、媒介関係にあり、それぞれ相互に直接的同一の側面を持っている。そうして、商品の生産過程と流通過程が相互に浸透する構造を有したとき、生産から流通へ、及びその逆の過程、すなわち否定の否定が可能になる。このように、生産と流通とは、対立物の統一として把握すべきである。
そこで、商品の流通過程に労働力商品が現れ、労働力市場が形成されれば、それは生産過程を変貌させる。生産過程において労働力商品を使用して価値を増殖させるとすれば、商品の生産過程は、同時に、剰余価値の生産を目的とすることとなり、資本の生産過程となる。これが、第一部で論じられる。
一方、資本の生産過程は、商品の流通過程を変化させる。剰余価値は、商品の流通過程ではじめて実際に証明され分離され、決して、生産過程の中で証明・分離されるものではないからである。これが、第2部で論じられる。
最後に、対立物の統一として、資本の生産過程と流通過程との媒介関係が、同時に相互に直接的同一の側面を持ち、相互浸透の構造化から否定の否定の構造へと把握され、資本の現象形態が展開される。こうして、資本の自己増殖運動の全体が説明されるのである。これが、第3部の内容である。

   商品の世界の側に立っていた労働力商品は、「貨幣所持者」につれられて「隠れた生産の現場に、無用の者は立ち入るなと入り口に書いてあるその場所に」入っていくことになる。

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