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「資本論」ノート (4)


第4編 相対的剰余価値の生産

第10章 相対的剰余価値の概念

いままでの議論には、労働力の価値、「労働日のうち、資本によって支払われる労働力の価値の等価を生産するだけの部分は、・・・不変量とみなされてきたが、それは実際にも、与えられた生産条件のもとでは、・・・不変量なのである。」
 ところで、労働日の延長に限界が与えられ、その大きさが一定の場合、剰余労働を延長するには、どうすればよいか。その場合、これは「必要労働の短縮が対応する」。
 労働力の価値、労働力の生産に必要な労働時間の短縮ということは、等価交換、すなわち、「諸商品は、したがってまた労働力も、その価値どおりに売買されるという前提」にたつならば、「ただこの価値そのものが下がる場合」である。
「このように労働力の価値が・・・下がるということは、・・・同じ量の生活手段が今では」(より少ない)「時間で生産されるということを条件とする。」「これは労働の生産力を高くすることなしには不可能である。」
労働の生産力の上昇というのは、ここでは一般に、1商品の生産に社会的に必要な労働時間を短縮するような、したがってより小量の労働により大量の使用価値を生産する力を与えるような、労働過程における変化のことである。」「必要労働の剰余労働への転化による剰余価値の生産」の「ためには、資本は労働過程の技術的及び社会的諸条件を、したがって生産様式そのものを変革しなければならないのである。
労働日の延長によって生産される剰余価値」を絶対的剰余価値、「必要労働時間の短縮とそれに対応する労働日の両成分の大きさの割合の変化とから生ずる剰余価値」を相対的剰余価値と呼ぶ。
「労働力の価値を下げるためには、労働力の価値を規定する生産物、したがって慣習的な生活手段の範囲に属するかまたはそれに代わりうる生産物が生産される産業部門を、生産力の上昇がとらえなければならない。」「これに反して、必要生活手段も供給せずそれを生産するための生産手段も供給しない生産部門では、生産力が上がっても、労働力の価値には影響はないのである。」

 相対的剰余価値は、いわゆる日常の必要生活手段の価値が下がることに起因するが、「必要生活手段の総計は、・・・さまざまな商品から成って」いるのだから、それぞれの「価値は、その再生産に必要な労働時間が減るにつれて低くなるのであり、この労働時間全体の短縮は、かのいろいろな特殊な生産部門のすべてにおける労働時間の短縮の総計に等しい。」
 しかし、この法則は、個々の資本家の脳裏には直接意識されるものではないが、「しかし、彼が結局はこの結果に寄与するかぎりでは、彼は一般的な剰余価値率を高くすることに寄与するのである。資本の一般的な必然的な諸傾向は、その現象形態と区別されなければならないのである。」
 このマルクスの指摘は、科学を理解しようとするものにとって、重要である。「競争の科学的な分析は資本の内的な本性が把握されたときはじめて可能になるのであって、それは、ちょうど、天体の外観上の運動が、ただその現実の、といっても感覚では知覚されえない運動を認識した人にだけ理解されるようなものだ、ということである。」これが現象の本質的把握ということである。

絶対的剰余価値と相対的剰余価値は、矛盾=対立物の統一として、把握する必要がある。この二つの剰余価値は、いずれも労働力商品の使用価値と価値の矛盾から生じた、新たな矛盾の両側面である。したがって、絶対的剰余価値と相対的剰余価値は、相互規定の関係にあり、論理的に相互浸透すべきとして扱うべきである。
このことに関係して、今一度、いままでの資本論の論理=弁証法を振り返っておこう。
以前に引用したように、エンゲルスは、「経済学批判」の書評で、「経済学批判の根底にある方法」を以下のように指摘している。
「この方法において、われわれは、歴史上、事実上われわれの前にある最初のしかももっとも単純な関係から出発する。したがってここでは、われわれの目に前にある最初の経済的関係から、出発する。この関係をわれわれは分析する。それが一つの関係であるということのうちには、すでに互いに関係しあう二つの側面を持つということが含まれている。これらの側面のひとつひとつは、それ自身として考察される。そこから、それらが互いに関係しあう仕方、それらの交互作用があらわれてくる。そして解決を求める矛盾がうまれてくるであろう。・・・これらの矛盾もまた、実際問題としては、自己を展開し、おそらくその解決をみいだしているであろう。われわれは、この解決の仕方をたどって、それがひとつの新しい関係をつくりだすことによっておこなわれたことをみいだすであろう、そしてわれわれは、こんどは、この新しい関係のふたつの対立する側面を展開しなければならなくなり、こうした過程が続くのである」
 「資本論」の「第1章商品」論では、使用価値から(交換)価値へ論が展開し、その両者の交互作用を論じ、使用価値と価値の矛盾は、商品の交換過程の矛盾となって反映した。そこで、まず、価値は、特殊な商品である金に、価値尺度の役割を与え、また、交換過程から、金に、流通手段の役割が生ずる。こうして、商品の世界が二重化し、貨幣の世界が生まれ、価値尺度と流通手段の矛盾を背負った貨幣が生じた。
商品の交換過程という運動の中に、貨幣が生まれることによって、交換過程は、商品の流通過程となって、交換過程の矛盾を解決する否定の否定の運動として表れた。
 この商品流通の運動の中で、貨幣と商品および貨幣の両側面同士の相互浸透が進行する。価値尺度としての貨幣は、他の商品の価値に価格表現を与え、逆に、金は、価格の度量標準という形態を受け取り、これが、金の重量尺度の形を借りて、金属重量の貨幣名=計算貨幣となる。
 一方、流通手段としての貨幣は、流通過程の中で、まず、購買手段として表れる。そこで、貨幣は、計算貨幣の度量標準に従って、鋳貨という形態を取る。しかし、流通手段としての貨幣の現実の運動から、金鋳貨は、銅や紙幣のような価値表象の形態となる。
貨幣の運動から、貨幣は、非流通手段としての側面をも持たされ、貨幣蓄蔵、支払い手段としての性質が発展する。これは、私的契約をよび起す。
 貨幣の流通過程の運動、すなわち、貨幣から商品へ、商品から貨幣へという否定の否定の流通の形態から、貨幣の増加=剰余価値によって、資本の運動形態が分裂・分離・独立化する。そのためには、市場で、貨幣所持者は、商品の消費が価値の源泉である労働力という特殊な商品を見出さねばならない。労働力は、特殊な商品であり、その価値は、生活手段に対象化されていた労働時間が更に再対象化されて形成された価値、すなわち、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。こうして、否定の否定の運動が、二重化した。(「第2篇」)
  労働力商品は、生きている労働=労働力の支出(使用価値)と労働力の維持費(価値)との矛盾の統一であり、ここで貨幣の矛盾から、労働力商品の矛盾へと論が展開されたことになる。
ところで、労働力の消費は、否定の否定の中間点、流通の外で行われる。それに対応して、労働過程と価値形成過程の統一としては、商品の生産過程であり、労働過程と価値増殖過程の統一としては、それは資本主義的生産過程であり、商品生産の資本主義的形態である。ここではじめて労働者と資本家が相対する。
労働過程と価値増殖過程の矛盾が、生産手段と労働力の区別を、不変資本と可変資本の区別とする。剰余価値は、可変資本の自己運動から生じるのだから、剰余価値率=剰余価値/可変資本=剰余労働/必要労働として、労働力の搾取度、または、資本家による労働者の搾取度の正確な表現が得られる。これは、生産物の価値の比例配分的諸部分で表されることもできる。このうち、剰余価値を表している部分を剰余生産物という。
資本の衝動は、できるだけ多量の剰余価値を吸収しようとする。すなわち、絶対的剰余価値の側面である剰余労働時間の延長である。しかし、労働日の限界は、商品交換の法則からは出てこない。そこで、労働日の限界の設定、労働日の標準化は、資本家と労働者の闘争となって表面化する。(「第3篇」)
以上が、「第4篇」までの論理的展開である。この後、相対的剰余価値が論ぜられ、その後、絶対的剰余価値と相対的剰余価値の交互作用へと論が進む。絶対的剰余価値は、生きている労働=労働力商品の使用価値の側面に基づいて発生する側面であり、相対的剰余価値とは、労働力の価値=労働力商品の価値の側面に基づいて発生する側面である。両者の対立は、両極的な対立であり、この対立の中に資本の運動、つまり単純再生産と更に拡大再生産、その結果の剰余価値の細分規定が行われる。
すなわち、商品の矛盾が貨幣の矛盾となる過程は、「第1章商品」から「第3章」「第1節価値の尺度」、「第2節流通手段」、「第3節貨幣」と展開され、貨幣の矛盾が労働力商品の矛盾となる過程は、「第2編」から「第3編絶対的剰余価値の生産」「第4編相対的剰余価値の生産」「第5編絶対的および相対的剰余価値の生産」へ展開されるのである。このように、エンゲルスが指摘した「経済学批判の根底にある方法」は、「経済学批判」=資本論「第1篇」だけでなく、資本論全体を貫く方法である。弁証法とは、エンゲルスの3定理および中核である矛盾=対立物の統一の原理とも言い得るが、同時に、その展開である発展した論理構成の環をも必然化させるという論理を内に含んでいる。この最初の環が、「第1篇商品と貨幣」であり、その環を含んだ次の大きな環が、「第2編」から「第5編」なのである。したがって、この循環の全体系を同時に弁証法と呼んでも間違いではない。これが、ヘーゲルが弁証法という言葉で表そうとした概念の唯物論的解釈なのである。 「自然弁証法ノート」で引用しておいたように、「第1篇」の論理的構成は、それ以後の論理的構成の、いわば、卵=核なのである。
 商品の矛盾を逆に遡れば、生産力と生産関係の矛盾に行きつく。私的労働・私的所有の下での生産物の交換が、生産物に商品という形態を押し付け、生産力と生産関係の矛盾が、商品の中に使用価値と価値となって対象化されたのである。更に、生産力と生産関係の矛盾は、人間の特殊性と一般性の矛盾、すなわち、人間の相対的独立性に行きつくのである。すなわち、弁証法の環は、「第1篇商品と貨幣」から逆に遡っても、同様に展開されるということである。

  ところで、「改良された生産様式を用いる資本家は、他の同業資本家に比べて一労働日中のより大きい一部分を剰余労働として自分のものにする」ことができるので、「どの個々の資本家にとっても労働の生産力を高くすることによって商品を安くしようとする動機はある」。「彼は、資本が相対的剰余価値の生産において全体として行うことを、個別的に行う」。「労働時間による価値規定の法則、それは、新たな方法を用いる資本家には、自分の商品をその社会的価値よりも安く売らざるを得ないという形で感知されるようになるのであるが、この同じ法則が、競争の強制法則として、彼の競争相手たちを新たな生産様式の採用に追いやるのである。こうして、その全過程を経て最後に一般的剰余価値率が影響を受けるのは、生産力の上昇が必要生活手段の生産部門をとらえたとき、・・・はじめておこることである。

「商品の価値は労働の生産力に反比例する。労働力の価値も、諸商品の価値によって規定されているので、同様である。これに反して、相対的剰余価値は労働の生産力に正比例する。・・・商品を安くするために、そして商品を安くすることによって労働者そのものを安くするために、労働の生産力を高くしようとするのは、資本の内的な衝動であり、不断の傾向なのである。」
「労働の生産力の発展は、資本主義的生産のなかでは、労働日のうちの労働者が自分自身のために労働しなければならない部分を短縮して、まさにそうすることによって、労働者が資本家のためにただで労働することにできる残りの延長することを目的としているのである。」すなわち、相対的剰余価値の生産と絶対的剰余価値の生産は、相対的独立の関係にあり、対立していると同時に統一されているのである。
そこで、次に「商品を安くしないでも、どの程度まで達成できるものであるか、それは相対的剰余価値のいろいろな特殊な生産様式に表れる」の考察に移る。

第11章 協業

「かなり多数の労働者が、同じときに、同じ空間で(または、同じ労働場所で、と言ってもよい)、同じ種類の商品の生産のために、同じ資本家の指揮のもとで働くということは、歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点をなしている。生産様式そのものに関しては、・・・同時に同じ資本によって働かされる労働者の数がより大きいということのほかには、ほとんどなにもない。・・・だから相違はさしあたりは量的でしかない。・・・とはいえ、ある限界のなかでは、ある変化が生ずる。」
単なる量的変化が、ある限界のなかで、質的変化を起こすのである。
同じ生産過程で、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっしょに協力して労働するという労働の形態を、協業という。」
そこで、協業による、量質転化の条件を列挙すると、以下のようになる。
1、「価値に対象化される労働は、社会的平均質の労働であり、したがって平均的労働力の発現である。ところが、平均量というものは、つねにただ同種類の多数の違った個別量の平均として存在するだけである。」「だから、価値増殖一般の法則は、個々の生産者にとっては、彼が資本家として生産し多数の労働者を同時に充用し、したがってはじめから社会的平均労働を動かすようになったとき、はじめて完全に実現されるのである。」つまり、単なる協業によって、社会的平均労働が実現するのである。
2、「労働様式は変わらなくても、かなり多くの労働者を同時に充用することは、労働過程の対象的諸条件に一つの革命を引き起こす。多くの人々がそのなかで労働する建物や、原料などの倉庫や、多くの人々に同時にまたは交互に役立つ容器や用具や装置など、要するに生産手段の一部分が労働過程で共同に消費されるようになる。・・・一般に、大量に集中されて共同で使用される生産手段の価値は、その規模や有用効果に比例しては増大しないのである。・・・このような生産手段の充用における節約は、ただ、それを多くの人々が労働過程で共同に消費することだけから生ずるものである。そして、この生産手段は、別々に独立している労働者や小親方の分散した相対的に高価な生産手段とは違って、社会的労働の条件または労働の社会的条件としての性格を、多くの人々がただ場所的に集合して労働するだけで協力して労働するのではない場合にも、受け取るのである。」
3、「個別労働者の力の機械的な合計は、分割されていない同じ作業で同時に多数の手がいっしょに働く場合、・・・が必要な場合に発揮される社会的な潜勢力とは本質的に違っている。・・・ここではただ協業による個別的生産力の増大だけが問題なのではなく、それ自体として集団力でなければならないような生産力の創造が問題なのである。」
4、「たいていの生産的労働では、単なる社会的接触が競争心や活力の独特な刺激を生み出して、それらが各人の個別的作業能力を高めるので、・・・。このことは、人間は生来、・・・社会的動物だということからきているのである。」
5、「多くの人々が同じ作業かまたは同種の作業を同時に協力して行うにかかわらず、各人の個別労働が総労働の部分として労働過程そのものの別々の段階をなしていて、これらの段階を労働対象が、協業の結果として、いっそう速く通過することがありうる。」「共同労働のこの最も単純な形態が、協業の最も発達した形態にあっても一つの大きな役割を演ずる」。
6、「多くの生産部門には或る決定的な瞬間がある。すなわち、労働過程そのものの性質によって規定されていてそのあいだに一定の労働成果が達成されなければならないという時期である。・・・労働期間の短さが、決定的な瞬間に生産現場に投ぜられる労働量の大きさによって埋め合わされる。この場合、適時の効果は多数の結合労働日の同時充用にかかっており、有用効果の大きさは労働者数にかかっているとはいえ、この労働者数は、同じ期間に同じ作用空間を個々別々にみたすであろう労働者の数よりつねに小さい。」
7、「一方では、協業は労働の空間範囲を拡張することを許すので、ある種の労働過程には、すでに労働対象の空間的関連によって協業が必要になる。・・・他方では、協業は、生産規模に比べての生産領域の空間的縮小を可能にする。このように労働の作用範囲を拡大すると同時に労働の空間範囲を制限するということは、多額の空費を節約させるのであるが、この空間範囲の制限は労働者の密集、いろいろな労働過程の近接、生産手段の集中から生ずるものである。」
「個々別々のいくつもの労働日の総計と、それと同じ大きさの一つの結合労働日とを比べれば、後者はより大量の使用価値を生産し、したがって一定の有用効果のために必要な労働時間を減少させる。・・・どんな事情のもとでも、結合労働日の独自な生産力は、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力なのである。この生産力は協業そのものから生ずる。
これは、本質的にきわめて重要である。これが、人間が社会的な動物であるということだからである。個々の孤立した生産力でなく、全体として結合した、つまり、意識的かどうかに無関係に、社会的生産関係にはいるという、これで一つの社会を形成するという、人間の特性だからである。
 
 協業するためには、労働者が一緒に集められるのが条件であるから、「協業する労働者の数、または協業の規模は、まず第一に、一人の資本家が労働者の買い入れに投ずることのできる資本の大きさによって、すなわち、一人一人の資本家が多数の労働者の生活手段を自由に処分し得る程度によって、定まるのである。」
「そして、不変資本についても可変資本の場合と同じことである。」「個々の資本家の手の中にかなり大量の生産手段が集積されていることは、賃金労働者の協業の物質的条件なのであって、協業の程度または生産の規模はこの集積によって定まるのである。」
「最初は、同時に搾取される労働者の数、したがって生産される剰余価値の量が、労働充用者自身を手の労働から解放し小親方を資本家にして資本関係を形態的につくりだすのに十分なものとなるためには、個別資本の或る最小限度の大きさが必要なものとして現れた。いまでは、この最小限度の大きさは、多数の分散している相互に独立な個別的労働過程が一つの結合された社会的労働過程に転化するための物質的条件として現れるのである。」
協業の量質転化は、資本の形態的な量質転化と媒介関係にある、または、資本の量質転化は、協業の量質転化を媒介するということである。
「同時に、最初は、労働に対する資本の指揮も、ただ、労働者が自分のためにではなく資本家のために、したがってまた資本家のもとで労働するということの形態的な結果として現れただけだった。多数の賃金労働者の協業が発展するにつれて、資本の指揮は、労働過程そのものの遂行のための必要条件に、一つの現実の生産条件に、発展してくる。生産現場での資本家の命令は、いまでは戦場の将軍の命令のようになくてはならないものとなるのである。」
「すべての比較的大規模な直接に社会的または共同体的な労働は、多かれ少なかれ一つの指図を必要とするのであって、これによって個別的諸活動の調和が媒介され、生産体の独立な諸器官の運動とは違った生産体全体の運動から生ずる一般的な諸機能が果たされるのである。」
 つまり、「集団力でなければならないような生産力」である協業を働かせるためには、「指揮や監督や媒介」の一般的諸機能が必要である。特殊な協業という生産関係が直接に生産力になるという矛盾を実現するために、指揮監督という一般的媒介器官を生み出し、指揮されるものと指揮するものという新たな矛盾を作り出し、両者の間に相互関係を実現することが必要とされる。そのことが、協業における量が質に転化する条件なのである。
「この指揮や監督や媒介の機能は、資本に従属する労働が協業的になれば、資本の機能になる。資本の独自な機能として、指揮の機能は独自な性格をもつことになる」。ここでは、協業の量質転化が、資本の量質転化を媒介する。すなわち、資本と協業の相互の量質転化は、相互規定の関係にあり、相互浸透の関係が発展する。これは量質転化の法則の重要な側面である。

「資本家の指揮は内容から見れば二重的であって、それは指揮される生産過程そのものが一面では生産物の生産のための社会的な労働過程であり他面では資本の価値増殖過程であるというその二重性によるのであるが、この指揮は形態から見れば専制的である。いっそう大規模な協業の発展につれて・・・資本家は・・・個々の労働者や労働者群そのものを絶えず直接に監督する機能を再び一つの特別な種類の賃金労働者に譲り渡す。・・・労働過程で資本の名によって指揮する産業士官(支配人)や産業下士官(職工長)を必要とする。監督という労働が彼らの専有の機能に固定するのである。」現代でいえば、いわゆるホワイトカラーである。「資本家は、産業の指揮官だから資本家なのではなく、彼は、資本家だから産業の司令官になるのである。」
この協業の集団力、「労働者が社会的労働者として発揮する生産力」=「労働の社会的生産力は」「資本の生産力なのである。」「この生産力は、資本が生来もっている生産力として、資本の内在的な生産力として、現れるのである。」

ここでマルクスは、協業の例を、アジアや古代から引用しているが、ここで、それらの理解のために、再度、唯物論的歴史観を振り返っておこう。
「人類の文化の発端で、狩猟民族のあいだで、またおそらくインドの共同体の農業で、支配的に行われているのが見られるような、労働過程での協業は、一面では生産条件の共有にもとづいており、他面では・・・個々の個人が種属や共同体の臍帯からまだ離れていないことにもとづいている。」
この場合、この労働過程の協業形態を保証するものは、自然発生的な血縁共同体である。この共同体が生産手段の共有の主体であるが、単に生産形態だけに留まるものではない。この部族共同体は、その他、諸々の社会的生活に関する規範を本質的に内包している。
「小農民経営と独立手工業経営とは、どちらも一部は封建的生産様式の基礎をなし、・・・同時にそれらは、原始的東洋的共有性が崩壊したあとで奴隷制が本式に生産を支配するようになるまでは、最盛期の古典的共同体の経済的基礎をなしているのである。」
古典的共同体と封建的生産様式の経済的基礎は、同一である。また、どちらも、私的労働(私的所有)に基づいている。両者の違いは、集中か散在かということである。
古典的共同体では、農業用地は都市を中心に集中しており、それは共同体の一員であることが前提条件である限りでの私的土地所有であるからでもある。ここでは、生産形態を包含する生活を規制するのは、部族共同体のように血縁ではなく、地縁ともいうべき都市国家である。すなわち、都市国家は、土地の私的所有を抱えた共同所有であり、その範囲で内外の諸問題を解決しようとする共同機関である。
一方、封建性の基礎となった小農民経営は、広大な土地に広く散らばっており、それぞれの経営体である家族は自立的である。共同の諸問題を解決する共同体は、この自立的家族を前提として成立する。ゲルマンは、もともとこのような生活の様式を把持しており、その上に移動と戦闘という、役割分担を常時固定化・身分化する必要が加わって、封建性が成立したのである。したがって、封建国家は、私的所有の無計画性を、身分の固定化という計画性で補おうとする共同体であるといっても過言ではない。
この「資本論」は、論理的には、私的労働者=私的所有者から出発する。私的所有の発展は、歴史的には、部族共同の秩序、古典古代的生産様式および封建的生産様式の秩序の崩壊の契機である。それらの崩壊した後に、私的所有の無計画性の全面的開花が出現する。それが、近代ブルジョア的生産様式である。
 このマルクスが提案した歴史把握を全体としてながめれば、「原始的東洋的共有性」が崩壊した後、古典古代および封建的生産様式は、表面的・体制的な秩序維持を代表し、それに対し、内部に潜在する私的所有の発展はその秩序の崩壊・破壊を代表するとみなすこともできる。
部族共同体の崩壊後に、それに代わって生まれた国家は、私的所有の矛盾を内包させたまま、生活の生産関係で結ばれた秩序を全体的・社会的に維持させようとする。したがって、古代的、封建的生産様式が衰退するに反比例して、国家権力は強化され国家組織は発展するのである。

 「協業によって発揮される労働の社会的生産力が資本の生産力として現れるように、協業そのものも、・・・資本主義的生産過程の独自な形態として現れる。それは、労働過程が資本への従属によって受ける最初の変化である。・・・一方では、資本主義的生産様式は、労働過程が一つの社会的過程に転化するための歴史的必然性として現れるのであるが、他方では、労働過程のこの社会的形態は、労働過程をその生産力の増大によっていっそう有利に搾取するために資本が利用する一方法として現れるのである。」
「協業の単純な姿そのものはそのいっそう発展した諸形態と並んで特殊な形態として現れるとはいえ、協業はつねに資本主義的生産様式の基本形態なのである。」

第12章 分業とマニュファクチュア

第1節 マニュファクチュアの二重の起源

 「分業に基づく協業」は、単一の協業に中に矛盾を発生させ、その矛盾のそれぞれの側面である部分労働を相互浸透の関係に置くことによって、それぞれの部分労働が生産物を媒介し、そうして否定の否定によって完成品を生産するということである。これは、最終的には、一つの有機体の全体と部分の矛盾に達する。
 この労働形態は、「二重の仕方で発生する。」
その一つは、「ある一つの生産物が完成されるまでにその手を通らなければならないいろいろな種類の独立手工業の労働者たちが、同じ資本家の指揮のもとにある一つの作業場に結合される」ことから生ずる。「いろいろな独立手工業の結合体として現れた」ものが、「しだいに・・・そのいろいろな特殊作業に分割するものになり、これらの作業のそれぞれが一人の労働者の専有機能に結晶してそれらの全体がこれらの部分労働者の結合体によって行われるようになる。」
 独立手工業の労働者が全体の中に置かれることによって、それぞれの部分労働を全体の中の特殊作業に変化させ、特殊と一般の矛盾の中に定立するようになるのである。
 もう一つは、「同じことまたは同じ種類のことを行う、・・・多数の手工業者が同じ資本によって同じ時に同じ作業場で働かされる」ことから、発生する。「しかし、やがて外部的な事情が、同じ場所に労働者が集まっていることや彼らが同時に労働することを別のやり方で利用させるようになる。・・・いろいろな作業を同じ手工業者に時間的に順々に行わせることをやめて、それらの作業を互いに引き離し、孤立させ、空間的に並べ、それぞれの作業を別々の手工業者に割り当て、すべての作業がいっしょに協業者たちによって同時に行われるようにする。このような偶然的な分割が繰り返され、その特有な利点を現わし、しだいに組織的な分業に固まってゆく。」
 「マニュファクチュアの発生様式・・・は、二重である」にしても、「その最終の姿は同じもの、すなわち、人間をその諸器官とする一つの生産機構」になる。

 マニュファクチュアにおける分業は、「相変わらず手工業が基礎である。この狭い技術的基礎は、生産過程の真に科学的な分解を排除する。」この分業の特殊性は、手工業的活動を分解したそれぞれの部分作業は、依然として手工業的熟練を要求するという点にある。「どの労働者もそれぞれの一つの部分機能だけに適合させられて、彼の労働力はこの部分機能の終生変わらない器官にされてしまうのである。・・・その利点の多くは、協業の一般的本質から生ずるのであり、協業のこの特殊な形態から生ずるのではないのである。」前節で議論した協業の一般性とマニュファクチュアの特殊性との矛盾を、その区別と連関の上で正確に把握しておかねばならない。

第2節 部分労働者とその道具

部分と全体の矛盾に関しても、ヘーゲルは次のように言っている。
「直接的な相関は、全体と部分とのそれである。内容は全体であり、自己の対立者である諸部分(形式)から成っている。諸部分は相互に異なっていて、独立的なものである。しかし、それらは相互の同一関係においてのみ、すなわち、それらが総括されて全体を形成するかぎりにおいてのみ、諸部分である。しかし、総括は部分の反対であり否定である。」(ヘーゲル「小論理学」135より)
 全体は部分から成るが、全体が有機的である限りは、部分を切り離しては部分ではなく、あくまで全体の中の一部として、全体の中に正しく適切に位置と機能を与えられなければならない。このことは、分業に基づく協業と言う形態でのマニュファクチュアにも当てはまる。

「一生涯同じ一つの単純な作業に従事する労働者は、自分の全身をこの作業の自動的な一面的な器官に転化させ、したがって、多くの作業を次々にやっていく手工業者に比べればその作業により少ない時間を費やす、ということである。・・・それだから、独立手工業者に比べれば、・・・労働の生産力が高められるのである。」
「部分労働がある一人の人の専有機能として独立化されてからは、部分労働の方法も改良される。限られた同じ行為の不断の反復と、この限られたものへの注意の集中とは、経験によって、目ざす有用効果を最小の力の消耗で達成することを教える。・・・このようにして獲得された技術上の手練は、やがて固定され、堆積され、伝達されるのである。」

「マニュファクチュアが部分労働をある一人の人間の終生の職業にしてしまうということは、それ以前の諸社会で職業が世襲化され、カストに石化されるか、または、一定の歴史的諸条件がカスト制度に矛盾する個人の変異性を生みだす場合には、同職組合に骨化されるという傾向に対応するものである。カストも同職組合も、動物の種や亜種への分化を規制するのと同じ自然法則から発生するのであって、ただ、ある発展度に達すればカストの世襲性や同職組合の排他性が社会的法則として制定されるという点が違うだけである。
 職業の世襲は、社会的分業が属人的に固定化され、必要以上の分化を排除することである。その基礎には、自給自足的な小共同体が存在し、そこでは、時間がたっても拡大することが決してなく、古いものをただ再生産するだけである。したがって、自然発生的な計画性が、機能の分化を形態の転化へと固形化するのである。このことは、自然的環境の条件が変化しなければ、自然の生態系は自給自足的に完結し再生産されるだけで、そこでは機能の変化を形態の分化へ、個々の種へと固定化し、保存されるというのと、同じである。資本主義以前の社会では、多かれ少なかれ、このような法則が貫かれていたのである。

「彼が一日じゅう同じ一つの作業を続けて行なうようになれば、これらの(労働日のなかの)すきまは圧縮されるか、または彼の作業の転換が少なくなるにしたがってなくなっていく。生産性の上昇は、この場合には、与えられた時間内の労働力の支出の増加、つまり労働の強度の増大のおかげか、または労働力の不生産的消費の減少のおかげである。」
「労働の生産性は、労働の技量にかかっているだけではなく、彼の道具の完全さにもかかっている。・・・労働用具の分化によって、同種の諸道具にそれぞれの特殊な用途のための特殊な固定的な形態が与えられ、また労働用具の専門化によって、このような特殊な用具はそれぞれ専門の部分労働者の手によってのみ十分な範囲で作用するようになるのであるが、このような分化と専門化とがマニュファクチュアを特徴づけるのである。・・・マニュファクチュア時代は、労働用具を部分労働者の専有な特殊機能に適合させることによって、労働用具を単純化し改良し、多種類にする。
 マニュファクチュアの特殊性の中では、部分労働の特殊化は、必然的に労働用具の特殊化を伴い、固定化するのである。
ここで、マルクスは、ダーウィンの「種の起源」から、「動植物の自然的器官」に関する記述を引用している。「同じ一つの器官がいろいろな働きをしなければならないあいだは、・・・一つ一つの形態上の小変異を保存または抑圧することが・・・念入りでな」く、「同じ器官がただ一つの特殊目的だけに向けられている場合」には「別の形態をもたねばならない。」

第3節 マニュファクチュアの二つの基本形態―異種的マニュファクチュアと有機的マニュファクチュア

マニュファクチュアには、製品の性質から生ずる二つの基本形態がある。
製品が「独立の部分生産物の単に機械的な組み立てによって作られる」場合、つまり、部分の単に足し算が全体になる場合、これが異種的マニュファクチュアである。一方、「相互に関連のある一連の諸過程や諸操作によってその完成姿態を与えられる」場合、つまり、部分の有機的組み合わせが全体になる場合、これが、有機的マニュファクチュアである。

異種的マニュファクチュアの例として、時計マニュファクチュアを挙げている。「このような、そのいろいろな種類の要素にたいする完成生産物の外的な関係は、この場合には、・・・同じ作業場での部分労働者の結合を偶然的なものにする。部分労働は、・・・互いに独立した手工業としても営まれうるのであるが、他方、・・・大きな時計マニュファクチュアができている。すなわち、一つの資本の指揮のもとでの部分労働者の直接的協業がおこなわれている。・・・この場合には、結合されたマニュファクチュア的経営は、ただ例外的な事情のもとでしか有利でない。というのは、競争は自宅で作業することを欲する労働者たちのあいだで最も激しく行われるからであり、・・・共同の労働手段の使用を許すことが少ないからであり、・・・資本家は作業用建物などのための支出を免れるからである。とはいえ、自宅でではあるが一人の資本家(製造業者、企業者)のために労働するこれらの細部労働者の地位は、自分自身の顧客のために労働する独立工業者の地位とはまったく違うものである。」

有機的マニュファクチュアは、「マニュファクチュアの完成された形態」である。この形態が、生産力の大幅な増大をもたらす。「この増大はマニュファクチュアの一般的な協業的な性格から生ずる。他方、マニュファクチュアに特有な分業の原則は、いろいろな生産段階の分立化を必然的にし、これらの生産段階はそれだけ多くの手工業的部分労働として互いに独立化される」。

次に、有機的マニュファクチュアを、全体的観点から考察している。以下マルクスが論ずる展開は、論理的に、量質転化の展開の好例を示している。有機的なマニュファクチュアの自然的発展は、その完成態へと展開されるのであるが、それを論理的に把握する時、量的展開が質的展開を伴って段階的に形成されることが示されている。その基礎には、部分労働のそれぞれ生産物の否定の否定の連鎖が、それぞれの部分労働自体の質的量的関係を媒介し、それぞれの部分労働の調整を行うということがある。
1、「一定量の原料・・・は、いろいろな労働者の手の中でいろいろな生産段階の時間的な順列を通る。これに反し、作業場を一つの全体的機構として見れば、・・・いろいろな段階的過程が時間的継起から空間的並列に変えられている。・・・その同時性は、たしかに総過程の一般的な協業的な形態から生ずるのではあるが、しかし、マニュファクチュアは、ただ協業の既存の諸条件を見出すだけではなく、その一部分を手工業的活動の分解によってはじめて創造するのである。他面、マニュファクチュアは、労働過程のこのような社会的組織を、ただ同じ細部作業に同じ労働者を釘付けにすることによってのみ達成するのである。」
マニュファクチュアの手工業的特殊性の範囲とはいえ、協業的分業の一般性が、生産力の増大に寄与するのである。ここでは、全体労働者の的に異なる諸器官を形成させるために、それに相当する部分労働者の一定のを作り出す論理が述べられている。
2、「マニュファクチュアの全体的機構は、一定の労働時間では一定の成果が得られるという前提にもとづいている。ただこの前提のもとでのみ、互いに補い合ういろいろな労働過程は、中断することなく、同時に空間的に並列して進行することができるのである。このような、労働と労働とのあいだの、したがってまた労働者どうしのあいだの直接的依存関係は、各個の労働者にただ必要時間だけを自分の機能のために費やすことを強制する・・・。ある一つの商品にはただその商品の生産に社会的に必要な労働時間だけが費やされるということは、商品生産一般では競争の外的強制として現れるのであるが、それは、表面的に言えば、各個の生産者が商品をその市場価格で売らなければならないからである。ところが、マニュファクチュアでは、一定の労働時間で一定量の生産物を供給するということが生産過程そのものの技術上の法則になるのである。
 私的労働の社会的な無計画性が、労働生産物の価値、すなわち市場価格を社会的必要労働時間に制限する作用を果たすのであるが、マニュファクチュアでは、労働の協業的分業の計画性が、労働生産物の価値を直接実現するということである。これも、協業的分業の一般性から生ずるものである。
 ここでは、質的に異なった部分労働者群同士が、相互に連関することが述べられている。
3、「もし同じ労働者は毎日毎日いつでもただ同じ作業だけを行うものとすれば、いろいろな作業に違った比例数の労働者が充当されねばならない。・・・マニュファクチュア的分業は、ただ社会的な全体労働者の的に違う諸器官を単純化し多様化するだけではなく、またこれらの諸器官の的な規模の、すなわち、それぞれの特殊機能を行う労働者の相対数または労働者群の相対的な大きさの、数学的に確定された割合をもつくりだすのである。マニュファクチュア的分業は、社会的労働過程の質的な編制とともにその量的な規準と均衡をも発展させるのである。」
 ここでは、質的に異なる部分労働者の相互の量的な結合は一定の割合で進行し、均衡のとれた全体へと展開される論理が述べられている。
4、「各個の群、すなわち同じ部分労働を行う何人かの労働者の一団は、同質の諸要素から成っていて、全体機構の一つの特殊器官になっている。しかし、いろいろなマニュファクチュアでは、この群そのものが一つの編制された労働体であって、全体機構はこれらの生産的基本有機体の重複または倍加によって形成されるのである。」
5、「最後に、マニュファクチュアは、そのあるものがいろいろな手工業の結合から生ずることがあるように、またいろいろなマニュファクチュアの結合に発展することがありうる。・・・このような場合には、いろいろな結合されたマニュファクチュアは、一つの全体マニュファクチュアの多少とも空間的に分離された諸部門をなしていると同時に、それぞれが固有の分業をともなう互いに独立した諸生産過程をなしているのである。」

 このような論理的展開は、あたかも同一の単細胞から多細胞が進化し、多細胞が機能分化を遂げる過程に対応するかのようである。
 原始の世界、そこに生まれた生命は、単細胞であったろう。そこで、いろいろな種類の独立して生活していた細胞が一か所に集まり、あるいは集められ、その結果、次第に独立性を失っていき、最後は、それぞれの細胞が特殊な機能を持つものに変化・固定し、有機的全体の部分として組み込まれていく、あるいは、ほぼ同質でそれぞれ同種の機能を持っていた細胞同士が集まり、偶然的要因から、それぞれの細胞が部分的機能だけを発揮するようになり、その結果、組織的な分業に固まっていく、おそらく、単細胞から多細胞への進化は、論理的には、このような過程を経たのではなかろうか。

 マニュファクチャのこれ以上の展開は、その特殊性に縛られている。
 「結合マニュファクチュアは、多くに利点を示してはいるが、それ自身の基礎の上では現実の技術的統一を達成しない。このような統一は、結合マニュファクチュアが機械経営に転化するときにはじめて生ずるのである。
「マニュファクチュア時代は、商品生産に必要な労働時間の短縮をやがて意識的原則として表明するのであるが、それはまた機械の使用をも潜在的には発展させる。ことに大仕掛けに大きな力を用いて行なわれなければならないようなある種の簡単な初歩的過程のための機械の使用を発展させる。」
 発展したマニュファクチュアは、機械の使用を準備するが、それ自体、機械と同一の側面も持つという矛盾した存在になる。
「マニュファクチュア時代の独自な機械は、やはり、多数の部分労働者の結合された全体労働者そのものである。」「全体労働者は、特殊な労働者または労働者群に個別化されている彼のすべての器官をただそれぞれの独自な機能だけに用いるからである。・・・ある一つの一面的な機能を行うという習慣は、彼を自然的に確実にこの機能を行う器官に転化させるのであり、他方、全体機構の関連は、機械の一部分のような規則正しさで作用することを彼に強制するのである。」
 この機械的な規則性は、労働者のヒエラルキーを形成させる。
「全体労働者・・・のいろいろな器官である個別労働力は、それぞれ非常に程度の違う教育を必要とし、したがってそれぞれの違った価値をもっている。だから、マニュファクチュアは労働力の等級制を発展させるのであり、これには労賃の等級が対応する」。「等級制的段階づけと並んで、熟練労働者と不熟練労働者とへの労働者の簡単な区分が現れる。・・・どちらの場合にも労働力の価値は下がる。・・・修業費の消失または減少から生ずる労働力の相対的な減価は、直接に資本のいっそう高い価値増殖を含んでいる。なぜならば、労働力の再生産に必要な時間を短縮するものは、すべて剰余労働の領分を延長するかたである」。
 こうして、マニュファクチュアは、相対的剰余価値の生産に寄与するのである。

第4節 マニュファクチュアのなかでの分業と社会のなかでの分業

この節の理解のためには、「序言」の中の、あの有名な定式を、再度確認する作業が必要である。 「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係を、つまり、かれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。」(「序言」)
この文の、「物質的生活の生産様式」、すなわち「社会の物質的生産諸力」と「生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係」との矛盾が、ここで議論される内容である。

社会の中での分業と、それに対応して諸個人が特殊な職業部面に局限されることとは、マニュファクチュアのなかでの分業と同じように、相反する諸出発点から発展する。」
ここで取り上げる、「すべての商品生産の一般的基礎をなす社会的分業」とは、「資本論」の出発点である私的所有・私的労働のことであり、「社会の中での分業と、それに対応して諸個人が特殊な職業部面に局限されること」という特殊な生活の生産様式は、以下のようにして発生する。
「一つの家族のなかで、さらに発展しては一つの種族の中で、・・・純粋に生理的な基礎の上で、自然発生的な分業が発生し、・・・拡大する。」「生理的分業が出発点となる場合には、一つの直接に結成されている全体の特殊な諸器官が、他の共同体との商品交換から主要な衝撃を受ける分解過程によって互いに分離し、分解し、独立して、ついに、いろいろな労働の関連が商品としての生産物の交換によって媒介する点に達する」。
「他方、・・・生産物交換は、いろいろな家族や種族や共同体が接触する地点で発生する。・・・共同体が違えば、・・・生産手段や生活手段、・・・生産物も違っている。この自然発生的な相違こそは、いろいろな共同体が接触するときに相互の生産物の交換を呼び起こし、したがって、このような生産物がだんだん商品に転化することを呼び起こすのである。交換は、・・・違った諸生産部面を関連させて、それらを一つの社会的総生産の・・・依存しあう諸部門にするのである。この場合に社会的分業が発生するのは、もとから違ってはいるが互いに依存し合ってはいない諸生産部面のあいだの交換によってである。
前者は、「以前は独立していなかったものの独立化」であり、後者は「以前は独立していたものの非独立化」である。これは、論理的には、第1節にある、全体と部分の矛盾の定立に相当する。
 私が、「ドイツイデオロギー」ノートの「生産力と生産関係とはなにか」で引用しておいたように、人類の歴史の初期には、生産諸力の発展は、分業という生産諸関係自体を生産力として利用することに依存する。これによって、私的労働に基づく社会的分業という生産様式が、成立するのである。

「すべてのすでに発展していて商品交換によって媒介されている分業の基礎は、都市と農村との分離である。社会の全経済史はこの対立の運動に要約されるということができる」。これは、「農業や工業などという大きな諸部門への社会的生産の分割」=一般的分業であるが、この対立が古典古代的共同体および封建的生産様式の経済的基礎に存在するのである。

 「マニュファクチュアのなかでの分業のためには、同時に充当される労働者の一定の数が物質的前提をなしているが、同時に社会の中での分業のためには人口の大きさと密度とが物質的前提をなしているのであって、この場合には人口の密度が同じ作業場のなかでの密集に代わるのである。とはいえ、この密度は相対的なものである。」交通機関の発達によって、人口密度の相対的な大きさが決まるという。すなわち、生産の基礎は、交通と相互規定の関係にあるということである。
ドイツイデオロギーに、次の文がある。
「この生産は人口の増加とともにやっと始まる。人口の増加はそれはそれでまた諸個人相互間の交通を前提とする。この交通の形態はまた生産によって条件づけられている。」
 以上、社会の中での分業とマニュファクチュアの中での分業とは、論理的に同一な側面を持っているということである。

 また、社会の中での分業とマニュファクチュアの中での分業は、相互に媒介関係にある。
「商品生産と商品流通は資本主義的生産様式の一般的前提なのだから、マニュファクチュア的分業は、社会の中での分業がすでにある発展度まで成熟していることを必要とする。また逆に、マニュファクチュア的分業はこの社会的分業に反作用してこれを発展させ何倍にも複雑にする。労働用具が分化するにつれて、これらの用具を生産する産業もますます分化してくる。それまでは本業または副業として他の諸産業と関連していて同じ生産者によって営まれていた産業も、マニュファクチュア的経営がそれをとらえれば、ただちに分離と相互の独立化とが起こる。」などなど。
 こうして、社会の中での分業とマニュファクチュアの中での分業は、相互浸透して発展していくのである。

   では、社会の中での分業とマニュファクチュアの中での分業の違いは何か。
「社会の中での分業と一つの作業場の中での分業とのあいだには多くの類似や関連があるにもかかわらず、この二つのものは、ただ程度が違うだけでなく、本質的に違っている。」
「前者では広い面にわたる部分労働の分散と各特殊部門の大きな従業者数とが関連を不明にしているのを見るのである。ではなにが・・・それぞれ独立した労働のあいだに関連をつくりだすのか、それは彼らのそれぞれの生産物としての商品の定在である。これに対して・・・(後者は)部分労働者は商品を生産しないということである。何人もの部分労働者の共同の生産物がはじめて商品になるのである。社会の中での分業は、いろいろな労働部門の生産物の売買によって媒介されており、マニュファクチュアの中でのいろいろな部分労働の関連は、いろいろな労働力が同じ資本家に売られて結合労働力として使用されるということによって媒介されている。マニュファクチュア的分業は、一人の資本家の手中での生産手段の集積を前提しており、社会的分業は、互いに独立した多数の商品生産者のあいだへの生産手段の分散を前提している。」
 社会の中での分業とマニュファクチュアの中で分業との違いは、その生産諸力の質的量的大きさにあるのではない。その生産諸関係(生産様式)の違いにある。社会的分業というのは、社会全体の生産様式を指すが、マニュファクチュアというのは、社会の中の一部を占めている、狭い意味での特殊な生産様式の側面を取り上げたものである。前者は、私的労働に基づく私的生産者の商品生産の関係であり、商品生産は個々の多数の独立した生産者の偶然に委ねられており、後者は、例え一人の資本家にではあっても、人間の意志と計画の下に労働力が結合されている。
 「経済学批判ノート」第1章及び「資本論ノート」第1章第4節で議論したように、生産と消費の計画性には、なんらかの共同体が必要である。この共同体が、生産と消費の調整役の働きを行う。しかし、私的所有は、論理的・歴史的には、共同体を破壊する作用を果たしてきた。ところが、論理的に私的所有から出発しながら、この段階において、資本主義的生産様式と言う形態でではあるが、なんらかの生産の計画性を担保する共同体が復活するのである。
「作業場のなかでの分業ではア・プリオリに計画的に守られる規則が、社会のなかでの分業では、ただア・ポステリオリに、内的な、無言の、市場価格の晴雨計的変動によって知覚される、商品生産者達の無規律な恣意を圧倒する自然法則性として、作用するだけである。」

 こういう観点から、マルクスは、資本主義的生産様式とそれ以前の生産様式における違いを次のように明示する。
資本主義的生産様式の社会では、社会的分業の無政府性とマニュファクチュア的分業の専制とが互いに条件になりあうとすれば、これに反して、それ以前の諸社会形態では、諸産業の分化がまず自然発生的に発展し、次いで結晶し、最後に法的に固定されたのであって、このような社会形態は、一方では社会的労働の計画的で権威的な組織の姿を示しながら、他方では、作業場の中での分業をまったく排除するか、またはそれをただ矮小な規模でしか発展させないか、または散在的偶然的にしか発展させないのである。」
 マルクスは、次に、インドの太古的な小共同体を示しながら、アジア的生産様式の特徴を述べている。
「たとえば、部分的には今日なお存続しているインドの太古的な小共同体は、土地の共有と、農業と手工業との直接的結合と、固定した分業とを基礎としており、この分業は、新たな共同体の建設にさいしては与えられた計画および設計図として役立っている。このような共同体は自給自足的な生産的全体をなしていて・・・。生産物の大部分は共同体の直接的自己需要のために生産され・・・。ただ生産物の余剰だけが商品に転化するのであり、しかも一部分は、いつともない昔から一定量の生産物が現物地代として流入してくる国家の中ではじめて商品に転化するのである。」
マルクスは、引き続いてインドの共同体の具体例を示してから、次のように述べる。
「このような、絶えず同じ形態で再生産され、たまたま破壊されてもまた同じ場所に同じ名称で再建される自給自足的な共同体の簡単な生産体制は、アジア諸国家の不断の興亡や王朝の無休の交替とは著しい対照をなしているアジア的社会の不変性の秘密を解く鍵を与えるものである。社会の経済的基本要素の構造が、政治的雲上界のあらしにゆるがされることなく保たれているのである。」
「ドイツイデオロギー・ノート」のなかの「部族所有とアジア的形態とはなにか」で記したように、これがマルクスの「アジア的生産様式」の論理構造である。
次に、また、「それ以前の社会」の例として、封建的生産様式の同職組合を取り上げる。
「同職組合規則は、一人の同職組合親方が使用してもよい職人の数を極度に制限することによって、親方が資本家になることを計画的に阻止していた。」「商人はどんな商品でも買うことができたが、ただ労働だけは商品として買うことができなかった。」「同職組合組織は、それによる職業の特殊化や分立化や完成はマニュファクチュア時代の物質的存在条件に属するとはいえ、マニュファクチュア的分業を排除していたのである。だいたいにおいて、労働者とその生産手段とは、かたつむりとその殻のように、互いに結びつけられたままになっていた。したがって、マニュファクチュアの第一の基礎、すなわち労働者に対して生産手段が資本として独立化されるということは、なかったのである。」
同じく、「ドイツイデオロギー・ノート」のなかの「封建的身分的所有と封建的位階性とはなにか」において、封建的身分的生産様式の論理的構造を示しておいた。

第5節 マニュファクチュアの資本主義的性格

「マニュファクチュア的分業は、資本主義的生産様式のまったく独自な創造物なのである。」、すなわち、マニュファクチュアという特殊な協業の生産様式が、資本主義的生産様式と直接的同一の関係になるのであるが、マニュファクチュア的分業には、そもそも資本主義的生産過程となりうる技術的根拠がある。
「比較的多数の労働者が同じ資本の指揮のもとにあるということは、協業一般の自然発生的な基礎をなしているが、同時にマニュファクチュアのそれをなしている。逆にまたマニュファクチュア的分業は充用労働者数の増大を技術上の必然性にまで発展させる。・・・他方、さらに進んだ分業の利益は、労働者数のいっそうの増加を条件とし、しかもこの増加はただ倍加を重ねることによってのみ行なわれることができる。しかし、資本の可変部分が増大するにつれて不変成分も増大しなければならない。・・・原料が増加しなければならない。・・・個々の資本家の手にある資本の最小規模が増大してゆくということ、または、社会の生活手段と生産手段とがますます多く資本に転化してゆくということは、マニュファクチュアの技術的性格から生ずる一つの法則なのである。
つまり、マニュファクチュアの生産力及び技術的性格は、本来、資本主義的であり、資本主義の中でこそ、その性格が発揮できるということである。
一方、マニュファクチュア的分業は、資本主義的生産過程となることによって、直接、資本主義的性格を付与される。
「多数の個別的部分労働者から構成されている社会的生産機構は、資本家のものである。それだから、諸労働の結合から生ずる生産力は資本の生産力として現れるのである。本来のマニュファクチュアは、以前は独立していた労働者を資本の指揮と規律とに従わせるだけでなく、その上に、労働者たち自身のあいだにも一つの等級制的編成をつくりだす。・・・マニュファクチュアは・・・個人的労働力の根源をとらえる。それは労働者をゆがめて一つの奇形物にしてしまう。・・・個人そのものが分割されて一つの部分労働の自動装置に転化され・・・。その労働力は、・・・資本家の作業場のなかでしか、機能しないのである。・・・分業はマニュファクチュア労働者に、彼が資本のものだということを表している焼き印を押すのである。」
資本主義的生産様式は、マニュファクチュアに、資本主義的生産様式と直接的同一であり、分離不可能という宣言を表明させるのである。

更に、マニュファクチュアという生産力は、資本主義的生産様式の中で発展する結果、その限界に突き当たる。
「部分労働者たちに対して、物質的生産過程の精神的な諸能力を、他人の所有として、また、彼らを支配する権力として、対立させるということは、マニュファクチュア的分業の1産物である。この分離過程は、個々の労働者達に対して資本家が社会的労働体の統一性と意志とを代表している単純な協業に始まる。この過程は、労働者を不具にして部分労働者にしてしまうマニュファクチュアにおいて発展する。この過程は、科学を独立の生産能力として労働から切り離しそれに資本への奉仕を押しつける大工業において完了する。」
すなわち、マニュファクチュアは、精神的労働と物質的労働の分離を促進するのである。
「マニュファクチュアでは、全体労働者の、したがってまた資本の、社会的生産力が豊かになることは、労働者の個人的生産力が貧しくなることを条件としている。」
マルクスは、マニュファクチュアが資本主義の発展の歴史の中で果たした役割を、次のように総括する。
「分業にもとづく協業、すなわちマニュファクチュアは、当初は一つの自然発生的な形成物である。その存在がいくらか堅固さと幅広さとを増してくれば、それは資本主義的生産様式の意識的な、計画的な、組織的な形態になってくる。本来のマニュファクチュアの歴史が示しているように、それに特有な分業は、最初は経験的に、いわば当事者の背後で、適当な諸形態をとっていくのであるが、やがて、同職組合的手工業と同じように、ひとたび見出された形態を伝統的に固守しようとするようになり、また場合によっては数百年もそれを固守するのである。」
「マニュファクチュア的分業は、手工業的活動の分解、労働用具の専門化、部分労働者の形成、一つの全体機構のなかでの彼らの組分けと組合せによって、いくつもの社会的生産過程の質的編成と量的比例性、つまり一定の社会的労働の組織をつくりだし、同時にまた労働の新たな社会的生産力を発展させる。社会的生産過程の独自な資本主義的形態としては・・・マニュファクチュア的分業は、ただ、相対的剰余価値を生み出すための、または、資本・・・の自己増殖を労働者の犠牲において高めるための、一つの特殊な方法でしかない。」
「本来のマニュファクチュア時代、すなわち、マニュファクチュアが資本主義的生産様式の支配的な形態である時代には、マニュファクチュア自身の諸傾向の十分な発達は多方面の障害にぶつかる。すでに見たように、マニュファクチュアは、労働者の等級制的編制をつくりだすと同時に熟練労働者と不熟練労働者との簡単な区分をつくりだすとはいえ、不熟練労働者の数は、熟練労働者の優勢によって、やはりまだ非常に制限されている。マニュファクチュアはいろいろな特殊作業をマニュファクチュアの生きている労働器官の成熟や力や発達のいろいろに違った程度に適合させ、したがってまた女や子供の生産的搾取を促すとはいえ、このような傾向はだいたいにおいて慣習や男子労働者の抵抗に出会ってくじける。手工業的活動の分解は労働者の養成費を下げ、したがってまたその価値をさげるとはいえ、いくらかむずかしい細部労働にはやはりかなり長い修業期間が必要であり、また、それがよけいな場合にも、労働者達によって用心深く固執される。」
「同時に、マニュファクチュアは、社会的生産をその全範囲にわたってとらえることも、その根底から変革することもできなかった。マニュファクチュアは、都市の手工業と農村の家内工業という幅広い土台の上に経済的な作品としてそびえたった。マニュファクチュア自身の狭い技術的基礎は、一定の発展度に達したとき、マニュファクチュア自身によってつくりだされた生産上の諸要求と矛盾するようになった。
「マニュファクチュア的分業のこの産物はまたそれ自身として生み出した―機械を。機械は、社会的生産の規制原理としての手工業的活動を廃棄する。こうして、一方では、労働者を一つの部分機能に一生涯縛り付けておく技術上の根拠は除かれてしまう。他方では、同じ原理がそれまではまだ資本の支配に加えていた制限もなくなる。
資本主義的生産様式が要求する相対的剰余価値の生産の更なる増大に対し、マニュファクチュア的生産様式はその限界を露呈した。その後を継ぐのが、機械を駆使した大工業である。

節の途中に、「マニュファクチュア時代にはじめて独自な科学として現れる経済学」についての短いコメントがある。文献学的には興味があるが、ここでは取り上げない。しかし、マルクスらしい文章である。

第13章 機械と工場

第1節 機械の発達

マニュファクチュアが示した限界は、協業の一般性と手工業の特殊性の矛盾に起因した。
手工業を破棄することによって、この限界を突破したのが、「資本主義的に使用される機械」である。無論、機械の使用目的は、あくまで「剰余価値を生産するための手段」にある。

「生産様式の変革は、マニュファクチュアでは労働力を出発点とし、大工業では労働手段を出発点とする。」マニュファクチュアの労働手段は、特殊化した部分労働にのみ対応した特殊な手工業用道具であった。では、「なにによって労働手段は道具から機械に転化されるのか、または、なにによって機械は手工業用具と区別されるのか」。

「すべて発達した機械は、・・・原動機、伝動機構、・・・道具機または作業機」からなる。
「原動機は全機構の原動力として働く。・・・伝動機構は、・・・運動を調節し、必要があれば運動の形態を、・・・変化させ、それを道具機に分配し伝達する。機構のこの両部分は、ただ道具機に運動を伝えるためにあるだけで、これによって道具機は労働対象をつかまえて目的に応じてそれを変化させるのである。機械のこの部分、道具機こそは、産業革命が18世紀にそこから出発するものである。」
「そこで、道具機または本来の作業機をもっと詳しく考察するならば、・・・だいたいにおいて、手工業やマニュファクチュア労働者の作業に用いられる装置や道具が再現するのであるが、しかし今では人間の道具としてではなく、一つの機械の道具として、または機械的な道具として再現するのである」。「つまり道具機というのは、適当な運動が伝えられると、以前に労働者が類似の道具で行っていたのと同じ作業を自分の道具で行う一つの機構なのである。・・・本来の道具が人間から一つの機構に移されてから、次に単なる道具に代わって機械が現れるのである。」
 すなわち、道具機というのは、マニュファクチュアの特殊化した部分労働を担う労働者に代わってその労働を担う機構ということである。
 第5章第1節労働過程で、労働を、自然Aと人間Bとの対立物の媒介運動と把握した。そこでは、AのB´化として、人間化した自然の一環として加工された労働手段を把握した。この観点からすると、道具機または作業機は、論理的に相互浸透の最後の仕上げ、その完成品として把握することができる
「多くの手工業道具では、ただの原動力としての人間と、固有の操作器をそなえた労働者としての人間との相違は、感覚的に別々な存在を持っている。・・・まさに手工業用具のこのあとのほうの部分をこそ、産業革命はまず第一にとらえるのであって・・・。蒸気機関そのものも、17世紀の末にマニュファクチュア時代のあいだに発明されて18世紀の80年代の初めまで存続したそれは、どんな産業革命も呼び起こさなかった。むしろ反対に、道具機の創造こそ蒸気機関の革命を必然的にしたのである。」「産業革命の出発点になる機械は、ただ一個の道具と取り扱う労働者の代わりに一つの機構をもってくるのであるが、この機構は一時に多数の同一または同種の道具を用いて作業し、またその形態がどうあろうと単一な原動力によって動かされるものである。」「作業機の規模とその同時に作業する道具の数との増大は、いっそう大規模な運動機構を要求し、この機構はまたそれ自身の抵抗に勝つために人間動力よりももっと強力な動力を要求する。・・・いまや自然力は動力としても人間にとって代わることができる。・・・マニュファクチュア時代は、大工業の最初の科学的な、また、技術的な諸要素を発展させた。・・・ウォットの第二のいわゆる複動蒸気機関の出現によってはじめて次のような原動機が見出された。それは、石炭と水を食って自分で自分の動力を生み出し・・・その技術的応用という点で普遍的であり、その所在地に関しては局地的な事情に制約されることの比較的少ない原動機だったのである。」「まず、道具が人間という有機体の道具から一つの機械装置の、すなわち道具機の道具に転化されてから、次には原動機も、また、一つの独立な、人力の限界からは完全に解放された形態を与えられた。」

多数の同種の機械の協業と機械体系とは」異なる。
「前の場合には、一つの製品全体が同じ作業機でつくられる。この作業機がいろいろな作業のすべてを行なうのであって、・・・。」つまり、一つの作業機が、すべての作業を行い、一つの製品全体を作る。「工場では、すなわち機械的経営にもとづく作業場では、つねに単純な協業が再現するのであって、しかも、さしあたっては、・・・同時にいっしょに働く同種の作業機の空間的集合として再現するのである。・・・しかし、ここには一つの技術的統一がある。というのは、共同の原動機の心臓の鼓動が伝動機構をつうじて多数の同種の作業機に伝えられ、そこからこれらの作業機が同時に均等に衝撃を受けるのだからである。」
「本来の機械体系がはじめて個々の独立した機械に代わって現れるのは、労働対象が互いに関連あるいろいろな段階過程を通り、これらの段階過程がさまざまな、といっても互いに補い合う一連の道具機によって行われる場合である。ここでは、マニュファクチュアに固有な分業による協業が再現するのであるが、しかし、今度は部分作業の組み合わせとして再現するのである。」「マニュファクチュアでは各種の特殊過程の分立化が分業そのものによって与えられた原理だとすれば、それとは反対に、発達した工場ではいろいろな特殊過程の連続が支配するのである」。
「機械の体系は、・・・それが一つの自動的な原動機によって運転されるようになれが、それ自体として一つの大きな自動装置をなすようになる。」「ただ伝動機の媒介によって一つの中央自動装置からそれぞれの運動を受け取るだけの諸作業機の編制された体系として、機械経営はその最も発達した姿をもつことになる。」

機械は、マニュファクチュアが生み出したが、生み出された機械経営は、マニュファクチュアを駆逐してゆく。機械体系は、マニュファクチュアによって技術的基礎を与えられ、その基礎をひっくり返し、新たなふさわしい土台を作る。大工場の生産様式は、それを生み出したマニュファクチュアの生産様式と相いれないという条件を持ち、マニュファクチュアの生産様式を、機械を使った工場経営に変革していくのである。
「ヴォーカンソンや・・・などの発明が実用化されることができたのは、ただ、これらの発明家たちの目の前に、マニュファクチュア時代から既成のものとして供給されたかなりの数の熟練した機械労働者があったからにほかならない。これらの労働者の一部分はいろいろな職業の独立手工業者から成っており、別の一部分はマニュファクチュアのなかに集められていて、このようなマニュファクチュアでは・・・分業が特に厳しく行なわれていた。発明が増し、新しく発明された機械にたいする需要が増してくるにつれて、一方ではさまざまな独立部門への機械製造の分化が、他方では機械製造マニュファクチュアマニュファクチュアのなかでの分業が、ますます発展してきた。だから、この場合にはわれわれはマニュファクチュアのなかに大工業の直接的な技術的基礎を見るのである。かのマニュファクチュアが機械を生産し、その機械を用いてこの大工業は、それがまず最初にとらえた生産部門で、手工業的経営やマニュファクチュア的経営をなくしたのである。こうして、機械経営は自分にふさわしくない物質的基礎の上に自然発生的に立ち現れたのである。機械経営は、ある程度まで発展してくれば、この最初は規制のものとして与えられ次いで古い形のままでさらに仕上げを加えられた基礎そのものをひっくり返して、それ自身の生産様式にふさわしい新たな土台をつくりださなければならなかった。」「大工業も、それを特徴づける生産手段としての機械そのものが個人の力や熟練のおかげで存在していたあいだは、・・・十分な発展をとげる力を麻痺させられていた。・・・しかし、ある発展段階では、大工業はその手工業的な土台やマニュファクチュア的な土台とは、技術的にも衝突せざるをえなくなった。道具機がその構造をはじめに支配していた手工業的な原型から離れて一つの自由なただ機械としてのその任務だけによって定められた姿を与えられるのにつれて、原動機や伝動機構や道具機の規模が増大し、それらの諸構成部分がいっそう複雑多様になり、いっそう厳密な規則性をもつようになるということ、自動体系が完成されて、使いこなしにくい材料、たとえば木材に代わる鉄の使用がますます不可避的になるということ、−すべてこれらの自然発生的に生じてくる課題の解決は、どこでも人的な制限にぶつかったが、この制限は、マニュファクチュアで結合された労働者群によっても、ある程度打破されるだけで、根本的には打破されないものである。」
「ある一つの産業部面での生産様式の変革は、他の産業部面でのその変革を引き起こす。」「ことにまた、工業や農業の生産様式に起きた革命は、社会的生産過程の一般的な条件すなわち交通・運輸機関の革命をも必要にした。」
「こうして、大工業はその特徴的な生産手段である機械そのものをわがものとして機械によって機械を生産しなければならなくなった。このようにして、はじめて大工業は、それにふさわしい技術的基礎をつくりだして自分の足で立つようになったのである。」
ここにも、一つの矛盾の解決が、更に別の矛盾を呼び起こし、その矛盾の解決が更に別の矛盾の解決へと結びつくという弁証法を見て取ることができる。 「機械としては労働手段は、人力のかわりに自然力を利用し経験的熟練のかわりに自然科学の意識的応用に頼ることを必然的にするような物質的存在様式を受け取る。マニュファクチュアでは社会的労働過程の編制は純粋に主観的であり、部分労働者の組み合わせである。機械体系では大工業は一つのまったく客観的な生産有機体をもつのであって、これを労働者は既成の物質的生産条件として自分の前に見出すのである。・・・機械は、・・・直接的に社会化された労働すなわち共同的な労働によってのみ機能する。だから、労働過程の協業的性格は、今では、労働手段そのものの性質によって命ぜられた技術的必然となる」。

第2節 機械から生産物への価値移転

「協業や分業から生ずる生産力は、資本にとって一文の費用もかからない。それは社会的労働の自然力である。蒸気や水などのように、生産的な過程に取り入れられる自然力にも、やはりなんの費用もかからない。・・・自然力を生産的に消費するためには「人間の手の形成物」が必要である。・・・科学も自然力と同じことである。・・・これらの法則を電信などに利用するためには、非常に高価で大仕掛けな装置が必要である。・・・道具は、・・・人間のつくった一つの機構の道具に成長するのである。・・・自分の道具を自分で扱う機械をもって、いまや資本は労働者に作業をさせるのである。・・・機械は価値を創造しはしないが、しかし、機械を用いて生産される生産物に機械自身の価値を引き渡す。」すでに第3篇第6章で論じたように、生産手段の価値は、生産物に移り保存される。だから、価値の増大した機械設備は、生産物に大きな価値を付け加える。しかし、価値を持たない社会的労働の生産力や科学の生産力は、生産物に価値を付け加えない。

「機械は労働過程にはいつでも全体としてはいっていくが、価値増殖過程にはつねに一部分ずつしかはいってゆかない・・・。・・・このような、使用と損耗とのあいだの差は、道具の場合よりも機械の場合の方がずっと大きいのである。・・・この両方から、すなわち機械と道具とから、それらの毎日の平均費用を引き去れば、・・・機械や道具は、人間の労働を加えられることなく存在する自然力とまったく同じに、無償で作用することになる。・・・大工業においてはじめて人間は、自分の過去のすでに対象化されている労働の生産物を大きな規模で自然力と同じように無償で作用させるようになるのである。

「機械の価値と、それの一日の生産物に移される価値部分との差が与えられていれば、この価値部分が生産物を高くする程度は、まず第一に、生産物の大きさによって、いわば生産物の表面積によって、定まる。」 「機械が生産物に価値を移す割合を与えられたものとすれば、この価値部分の大きさは機械自身の価値の大きさによって定まる。」
「手工業的またはマニュファクチュア的に生産される商品の価格と、同じ商品でも機械で生産されるものの価格との比較分析からは、一般的に、機械生産物では労働手段から移される価値成分が相対的には増大するが絶対的には減少するという結論が出てくる。」

「もしある機械を生産するのにこの機械によって省かれるのと同じだけの労働がかかるとすれば、その場合にはただ労働の置き換えが行なわれるだけで、商品の生産に必要な労働の総量は減らないということ、すなわち労働の生産力は高められないということは、明らかである。とはいえ、機械の生産に必要な労働と機械によって省かれる労働との差、すなわち機械の生産性の程度は、明らかに、機械自身の価値と機械によって代わられる道具の価値との差によって定まるものではない。この差は、機械の労働費用、したがってまた機械によって生産物につけ加えられる価値部分が、労働者が自分の道具で労働対象につけ加えるであろう価値よりも小さい限り、なくならない。それゆえ、機械の生産性は、その機械が人間の労働力にとって代わる程度によって計られるのである」。
機械は生産手段の一部であるから、機械の消費は、ただそれに対象化された労働時間を生産物に移すだけである。したがって、機械に対象化された労働時間と、機械の消費によって省かれる労働時間が同じならば、機械の生産性は変わらないが、この文の後に例示されているように、実際には、機械は、労働の生産力を大幅に向上させる。
しかし、機械の消費によって省かれる労働時間と、機械に代わって雇われる労働力に対象化されている労働時間とは、同じではない。その差は、機械の価値と労働力の価値(必要労働時間)の差であり、機械に代替される労働力の剰余労働時間である。
「ただ生産物を安くするための手段だけとして見れば、機械の使用の限界は、機械自身の生産に必要な労働が、機会の充用によって代わられる労働よりも少ないということのうちに、与えられている。だが、資本にとってはこの限界はもっと狭く表される。資本は、充当される労働を支払うのではなく、充当される労働力の価値を支払うのだから、資本にとっては、機械の使用は、機械の価値と機械によって代わられる労働力の価値との差によって限界を与えられるのである。・・・機械の価格と機械によって代わられる労働力との価格との差は、たとえ機械の生産に必要な労働量と機械によって代わられる労働の総量との差は変わらなくても、非常に違っていることがありうるのである。」
したがって、機械によって労働力の生産性が向上するにしても、労働力が相対的に安価な場合、資本家が必ずしも機械を採用するとは限らない。
労働過程と価値形成過程の矛盾として現れる限界は、価値増殖過程として現象する場合にはその限界が異なり、更に実際の資本主義的生産過程として現れる場合には、非常に異なることがあるということである。

第3節 機械経営が労働者に及ぼす直接的影響

第8章同様、このあたりは、マルクスが、労働者階級に対して、彼らのおかれた立場を説いたところであり、マルクスが導きだした法則の適用として具体的な例を示しながら、わかりやすく書かれてある。以下では、具体例をはぶいて、要旨のみをまとめる。

a. 資本による補助労働力の取得 婦人・児童労働

機械体系の採用による生産力の増大は、労働者にとっては必ずしもいいとは限らない。
「機械が筋力をなくてもよいものにするかぎりでは、機械は、筋力のない労働者、または身体の発達は未熟だが手足の柔軟性が比較的大きい労働者を充当するための手段になる。」つまり婦人や児童の労働である。「こうして、労働と労働者とのこのたいした代用物は、たちまち、性の差別も年齢の差別もなしに労働者家族の全員を資本の直接的支配のもとに編入することによって賃金労働者の数をふやすための手段になったのである。」
 「労働力の価値は、個々の成年労働者の生活維持に必要な労働時間によって規定されていただけではなく、労働者家族の生活維持に必要な労働時間によっても規定されていた。機械は、労働者家族の全員を労働市場に投ずることによって、成年男子の労働力の価値を彼の全家族のあいだに分割する。それだから、機械は彼の労働力を減価させるのである。」

「機械はまた・・・労働者と資本家とのあいだの契約をも根底から変革する。・・・今では資本は未成年者または半成年者を買う。・・・彼は今では妻子を売る。彼は奴隷商人になる。」
工場法では、13歳未満の児童の6時間労働を認めているが、そのため、証明資格のある医師が、「資本家の搾取欲や親の小商人的要求に応じて」子供の年齢をずらせるという現実を紹介している。
また、イングランドでの「幼少期における労働者児童の異常に高い死亡率」についても、その原因が「特に母親の家庭外就業、それに起因する子供の放任と虐待、ことに不適切な食物、食物の不足、阿片剤を飲ませることなどであり、そのうえに、自分の子供に対する母親の不自然な疎隔。その結果としてわざと食物をあてがわなかったり有毒物を与えたりすることが加わる」という政府の報告書を紹介している。 更に、「工場法の適用を受けるすべての産業で初等教育を14歳未満の児童の「生産的」消費の法定条件」になったが、実際には、字の書けない教師やあまりにひどい学校の現状があったことを紹介している。
「結合された労働人員に圧倒的な数の子供や女を加えることによって、機械は、マニュファクチュアではまだ男子労働者が資本の専制にたいして行なっていた反抗を、ついにうちひしぐのである。」

b. 労働日の延長

「機械は、労働の生産性を高くするための、すなわち商品の生産に必要な労働時間を短縮するための、最も強力な手段だとすれば、機械は、資本の担い手としては、最初はまず機械が直接とらえた産業で労働日をどんな自然的限界を越えて延長するための最も強力な手段になる。機械は、一方では、資本が自分のこのような不断の傾向を赴くままにさせることを可能にする新たな諸条件をつくりだし、他方では、他人の労働に対する資本の渇望をいっそう激しくする新たな動機をつくりだすのである。」
「まず第一に、機械では労働手段の運動と働きが労働者に対して独立化されている。労働手段は、それ自体として、一つの産業的な恒久運動機構となり・・・不断に生産を続けるはずのものである。だから、それは、資本としては・・・反抗的ではあるが弾力的な人間的自然的制限を最小の抵抗に抑えつけようとする衝動によって、活気づけられているのである。そうでなくて、この抵抗は、機械による労働の外観上の容易さと、より従順な婦人・児童要素とによって、減らされているのである。」

「物質的な損耗のほかに、機械はいわば無形の損耗の危険にもさらされている。同じ構造の機械がもっと安く再生産されうるようになるとか、この機械と並んでもっと優秀な機械が競争者として現れるようになるとかすれば、・・・たとえ機械そのものはまだ若くて生活力をもっていようとも、その価値は、もはや、実際にその機械自身に対象化されている労働時間によっては規定されないで、それ自身の再生産かまたはもっと優秀な機械の再生産に必要な労働時間によって規定されている。したがって、それは多かれ少なかれ減価している。機械の総価値が再生産される期間が短ければ短いほど、無形の損耗の危険は小さくなり、そして、労働時間が長ければ長いほど、かに期間は短い。・・・機械の生涯の最初の時期には労働日延長へのこの特別な動機が最も急激に作用する」。

「労働日を延長すれば、生産規模は拡大されるが、機械や建物に投ぜられる資本部分は不変のままである。したがって、剰余価値が増大するだけではなく、その搾取のために必要な支出が減少することになる。・・・この場合にはいっそう決定的に重要である。というのは、ここでは労働手段に転化される資本部分が一般にいっそう大きな比重をもつからである。すなわち、機械経営の発展は、資本のうちの絶えず増大する一成分を、資本が一方では絶えず価値増殖を続けうると同時に他方では生きている労働との接触を中断されればたちまち使用価値も交換価値も失ってしまうような形態に、拘泥するのである。

機械が相対的剰余価値を生産するというのは、ただ、機械が労働力を直接に減価させ、また労働力の再生産に加わる諸商品を安くして労働力を間接に安くするからだけではなく、機械が最初にまばらに採用されるときには機械所有者の使用する労働を何乗もされた労働に転化させ、機械の生産物の社会的価値をその個別的価値よりも高くし、こうして資本家が一日の生産物のより小さい価値部分で労働力の日価値を補填することができるようにするからでもある。それゆえ、機械経営がまだ一種の独占となっているこの過渡期のあいだは、利得は異常に大きなものであって、資本家は・・・できるかぎりの労働日の延長によって徹底的に利用しようとするのである。
「同じ生産部門の中で機械が普及してゆくにつれて、機械の生産物の社会的価値はその個別的価値まで下がる。」「ところで、機械経営は労働の生産力を高くすることによって必要労働の犠牲において剰余労働を拡大するとはいえ、それがこのような結果を生み出すのは、ただ、与えられた一資本の使用する労働者の数を減らすからにほかならないということは、明らかである。機械経営は、資本の・・・生きている労働力に転換された部分を、機械・・・不変資本に、変える。・・・剰余価値を生産するために機械を充当するということのうちには一つの内在的矛盾がある。というのは、機械の充当が、与えられた大きさの一資本によって生み出される剰余価値の二つの要因のうちの一方である剰余価値率を大きくするためには、ただ他方の要因である労働者数を小さくするよりほかはないからである。・・・この矛盾こそは、またもや資本を駆り立てて、おそらく自分では意識することなしに、搾取される労働者の相対的な減少を相対的剰余労働の増加によるだけではなく絶対的剰余労働の増加によって埋め合わせるために、むりやりな労働日の延長をやらせるのである。
「こうして、機械の資本主義的充当は、一方では、労働日の無制限な延長への新たな強力な動機をつくりだし、そして労働様式そのものをも社会的労働体の性格をも、この傾向にたいする抵抗をくじくような仕方で変革するとすれば、他方では、一部は労働者階級のうちの以前は資本の手にはいらなかった諸層を資本にまかせることにより、一部は機械に駆逐された労働者を遊離させることによって、資本の命ずる法則に従わざるを得ない過剰な労働者人口を生み出すのである。」
「機械の資本主義的充当」という表現は、労働過程と価値増殖過程の矛盾(直接的同一)を表現したものであり、その矛盾から更に種々の矛盾が発生するのである。

c. 労働の強化

「機械が資本の手の中で生み出す労働日の無制限な延長は、すでに見たように、のちには、その生活の根源を脅かされた社会の反作用を招き、またそれとともに、法律によって制限された標準労働日を招くのである。この労働日の基礎の上では、・・・労働日の強化が。」
「機械の進歩と、機械労働者という一つの独特な階級の経験の堆積とにつれて、労働の速度が、したがってまたその強度が自然発生的に増大するということは、自明である。・・・だれでもわかるように、・・・毎日繰り返される規則的な均等性をもって労働が行なわれなければならない場合には、必ず一つの交差点が現れて、そこでは労働日の長さと労働の強度とが互いに排除し合って、労働日の延長はただ労働の強度の低下だけと両立し、また逆に強度の上昇はただ労働日の短縮だけと両立するということにならざるをえない。しだいに高まる労働者階級の反抗が国家を強制して、労働時間の短縮を強行させ、まず第一に本来の工場に対して一つの標準労働日を命令させるに至ったときから、すなわち労働日の延長による剰余価値生産の増大の道がきっぱりと断たれたこの瞬間から、資本は、全力をあげて、また十分な意識を持って、機械体系の発達の促進による相対的剰余価値の生産に熱中した。それと同時に、相対的剰余価値の性格に一つの変化が現れてくる。・・・ところが、生産力の発展と生産条件の節約とに大きな刺激を与える強制的な労働日の短縮が、同時にまた、同じ時間内の労働支出の増大、より大きい労働力の緊張、労働時間の気孔のいっそう濃密な充填、すなわち労働の濃縮を、短縮された労働日の範囲内で達成できるかぎりの程度まで、労働者に強要することになれば、事態は変わってくる。このような、与えられたある時間内により大量の労働が圧縮されたものは、・・・より大きい労働量として、数えられる。

では、「どのようにして労働が強化されるのか」
「労働日の短縮は、最初はまず労働の濃縮の主体的な条件、すなわち与えられた時間により多くの力を流動させるという労働者の能力をつくりだすのであるが、このような労働日の短縮が法律によって強制されるということになれば、資本の手の中にある機械は、同じ時間により多くの労働をしぼり取るための客体的な、体系的に充用される手段になる。そうなるには二通りの仕方がある。すなわち、機械の速度を高くすること、同じ労働者の見張る機械の範囲、すなわち彼の作業場面の範囲を広げることである。機械の構造の改良は、労働者にいっそう大きな圧力を加えるためにも必要であるが、それはまた労働の強化におのずから伴うものである。」
マルクスは、「工場監督官報告書」の記述を引用して、更に次のように結論する。
「少しも疑う余地のないことであるが、資本に対して労働日の延長が法律によって最後的に禁止されてしまえば、労働の強度の系統的な引き上げによってその埋め合わせをつけ、機械の改良はすべて労働力のより以上の搾取のための手段に変えてしまうという資本の傾向は、やがてまた一つの転回点に向かって進まざるを得なくなり、この点に達すれば労働時間の再度の減少が避けられなくなる。」皮肉にも、量質転化の法則が貫徹されるわけである。

第4節 工場

工場は、「自動装置そのものが主体であり、労働者は・・・従属させられている」というのが、「機械の資本主義的充用」であり、工場制度である。「自動的な工場では、機械の助手たちがしなければならない労働の均等化または水平化の傾向が現れるのであり、・・・年齢や性の自然的な区別のほうが主要なものになるのである。」
「自動的な工場の中で分業が再現するかぎりでは、それは、まず第一に、専門化された機械のあいだに労働者を配分することであり、また、労働者群を、といっても編制された組をなしてはいない群を、工場のいろいろな部門に配分することであって、そこではこれらの労働者群は並列する同種の道具機について作業するのであり、したがって彼らのあいだではただ単純な協業が行なわれるだけである。・・・主要労働者と少数の助手との関係が現れている。本質的な区別は、現実に道具機について働いている労働者(・・・)と、この機械労働者の単なる手伝い(ほとんど子供ばかり)との区別である。・・・これらの主要部類のほかに、機械装置全体の調整や平常の修理に従事していてその数から見ればとるに足りない人員がある。技師や機械工指物工などがそれである。・・・この分業は純粋に技術的である。」

「およそ機械による労働は、労働者が自分の運動を自動装置の一様な連続的な運動に合わせることをおぼえるために早くから習得することを必要とする。・・・工場の全運動が労働者からではなく機械から出発するのだからこそ、労働過程を中断することなしに絶えず人員交替を行なうことができるのである。・・・最後に、機械による労働が年少時には急速に習得されるということも、特別な一部類の労働者をもっぱら機械労働者として養成する必要をなくする。」

「機械は、古い分業体系を技術的にくつがえすとはいえ、この体系は当初はマニュファクチュアの遺習として慣習的に工場の中でも存続し、次にはまた体系的に資本によって労働力の搾取手段としてもっといやな形で再生産され固定されるようになる。・・・今度は一つの部分機械に使えることが終生の専門になる。機械は、労働者自身を幼少時から一つの部分機械の部分にしてしまうために、乱用される。こうして労働者自身の再生産に必要な費用が著しく減らされるだけでなく、同時にまた、工場全体への、従って資本家への、労働者の絶望的な従属が完成される。」
工場では労働者が機械に奉仕する。・・・労働手段の運動に労働者がついて行かなければならない。・・・工場では一つの死んでいる機構が労働者たちから独立して存在していて、彼らはこの機構に生きている付属物として合体されるのである。」

「資本主義的生産がただ労働過程であるだけではなく同時に資本の価値増殖過程でもあるかぎり、どんな資本主義的生産にも労働者が労働条件を使うのではなく逆に労働条件が労働者を使うのだということは共通であるが、しかし、この転倒は機械によってはじめて技術的に明瞭な現実性を受け取るのである。一つの自動装置に転化することによって、労働手段は・・・資本として、生きている労働力を支配し吸い尽くす死んでいる労働として、労働者に相対するのである。生産過程の精神的な諸力が手の労働から分離するということ、そしてこの諸力が労働に対する資本の権力に変わるということは、・・・機械の基礎の上に築かれた大工業において完成される。個人的な無内容にされた機械労働者の細部の技能などは、機械体系のなかに具体化されていてそれといっしょに「主人」の権力を形成している科学や巨大な自然力や社会的集団労働の前では、とるにも足りない小事として消えてしまう。
「労働手段の一様な動きへの労働者の技術的従属と、男女の両性および非常にさまざまな年齢層の個人から成っている労働体の独特な構成とは、一つの兵営的な規律をつくりだすのであって、この規律は、完全な工場体制に仕上げられて、・・・監督労働を、したがって同時に筋肉労働者と労働監督者とへの、・・・労働者の分割を十分に発展させるのである。」
「工場法典は、ただ大規模な協業や共同的労働手段ことに機械の使用につれて必要になってくる労働過程の社会的規制の資本主義的戯画でしかない。」
更にマルクスは「工場労働が行なわれる場合の物質的諸条件」すなわち労働環境の悪化を指摘している。
以上、労働過程に機械が導入され工場体系が進行するとき、同時に価値増殖過程でもある資本主義的生産様式がどのように労働者を扱うかが、具体的事例を持って誰にもわかりやすく、述べられている。

第5節 労働者と機械との闘争

「機械が採用されてからはじめて労働者は労働手段そのものに、この資本の物質的存在様式に、挑戦するのである。」
マルクスは、17世紀から19世紀まで、発明された機械バントミューレに対する「労働者の反逆」を挙げている。
機械をその資本主義的充用から区別し、従って攻撃の的を物質的生産手段そのものからその社会的利用形態に移すことを労働者がおぼえるまでには、時間と経験が必要だったのである」。

機械としては労働手段はすぐに労働者自身の競争相手になる。」「資本主義的生産の全体制は、労働者が自分の労働力を商品として売るということを基礎にしている」が、「道具を取り扱うことが機械の役目にな」るので、「労働力の使用価値」がなくなり、「労働者は・・・売れなくなる。労働者階級のうちで、こうして機械経営のために余分な人口にされた部分・・・は、・・・労働市場に満ち溢れ、したがって労働力の価格をその価値よりも低くする。」「機械が一つの生産分野をだんだんととらえてゆく場合には、機械はそれを競争する労働者層のうちに慢性的な貧困を生みだす。この推移が急速な場合には、機械は大仕掛けに急性的に作用する。」
マルクスは、この例として、「イギリスの綿布手織工の没落」、及び「イギリスの綿業機械」が「東インド」に与えた「急激な作用」(1834-1835年)を挙げている。「およそ資本主義的生産様式は労働条件にも労働生産物にも労働者に対して独立化され疎外された姿を与えるのであるが、この姿はこうして機械によって完全な対立に発展するのである。それゆえ、機械とともにはじめて労働手段に対する労働者の凶暴な反逆が始まるのである。」
「労働手段が労働者を打ち殺すのである。この直接的な対立は、たしかに、新しく採用された機械が伝来の手工業経営やマニュファクチュア経営と競争するたびに最も明瞭に現れる。しかし、大工業そのもののなかでも、絶えず行なわれる機械の改良や自動的体系の発達は同じような作用をするのである。」
イギリスの線工業の発展は、黒人奴隷を使ったアメリカの綿花栽培に拍車をかけ、その結果、アメリカの南北戦争(1861年〜1865年)を呼び起こした。マルクスは、「アメリカの南北戦争のおかげでイギリスの線工業で行なわれた機械改良の総結果」と「それに対応する手労働の駆逐」を「イギリスの工場監督官」の証言と統計資料から裏付けている。
「機械は、いつでも賃金労働者を「過剰」にしようとしている優勢な競争者として作用するだけではない。・・・機械は、資本の専制に反抗する周期的な労働者の反逆、ストライキなどを打ち倒すための最も強力な武器になる。ガスケルによれば、蒸気機関は初めから「人力」の敵手だったのであり、これによって資本家は、ようやく始まりつつあった工場制度を危機におとしいれようとした労働者たちの高まる要求を粉砕することができたのである。」
マルクスは、このような労働者の反逆に対抗するために「採用された機械の諸改良」の表明を、蒸気ハンマーの発明者ネーズミスの証言やユアの著書から引用している。

第6節 機械によって駆逐される労働者に関する補償説

マルクスは、「多くのブルジョア経済学者」が主張していた「労働者を駆逐するすべての機械設備は、つねにそれと同時に、また必然的に、それと同数の労働者を働かせるのに十分な資本を遊離させる」という説を、壁紙工場を例にして、検討している。
機械の設備の採用によって、可変資本に充当していた資本部分を不変資本に転化させると、その分だけ、可変資本が充当していた労働力が要らなくなる。その際、遊離されたのは、「労働者の生活手段」である。「機械は、50人の労働者を遊離させ、したがって「自由に利用される」ようにするだけではなく、同時に彼らと1500ポンドの価値の生活手段との関連をなくし、こうしてこの生活手段を「遊離させる」」のである。機械に転化した1500ポンドという金額は、「解雇された50人の労働者が一年間に生産した壁紙のただ一部分だけを代表していただけで、彼らはこれを現物だけではなく貨幣形態で自分達の雇い主から賃金として受け取っていたのである。1500ポンドに転化された壁紙で彼らは同じ金額の生活手段を買った。だから、この生活手段は彼らにとって資本としてではなく商品として存在していたのであり、そして彼ら自身もこの商品にとって賃金労働者としてではなく買い手として存在していたのである。・・・だから、かの商品に対する需要が減ったのである。・・・もしこの需要の減少が他の方面からの需要の増加によって埋め合わされなければ、これらの商品の市場価格は下がる。これが、いくらか長く続き、いくらか広い範囲にわたれば、これらの商品の生産に従事している労働者たちの移動が起きる。・・・だから、かの弁護論者は、機械は労働者を生活手段から遊離させることによって同時にこの生活手段を労働者を充当するための資本に転化させるということを証明しているのではなく、それとは反対に、きわめつきの需要供給の法則を用いて、機械はただそれが採用される部門だけではなくそれが採用されない部門でも労働者を街頭に投げ出すということを証明しているのである。」
機械によって駆逐される労働者は作業場から労働市場に投げ出されて、そこで、いつでも資本主義的搾取に利用されうる労働者の数を増加させる。」しかし、「一つの産業部門から投げ出された労働者はもちろん別のどの部門かで職を求めることはできる」が、「この哀れな連中は、分業のためにかたわになっていて、彼らの元の仕事の範囲から出ればほとんど値打ちがなくなるので、彼らがはいれるのは、ただわずかばかりの低級な、したがっていつでもあふれていて賃金の安い労働部門だけである。」

 マルクスは、機械そのものとその資本主義的充用とを明確に区別し、それを矛盾として把握することの重要性を指摘する。「機械は、それ自体として見れば労働時間を短縮するが、資本主義的に充用されれば労働日を延長し、それ自体としては労働を軽くするが、資本主義的に充用されれば労働の強度を高くし、それ自体としては自然力に対する人間の勝利であるが、資本主義的に充用されれば人間を自然力によって抑圧し、それ自体としては生産者の富を増やすが、資本主義的に充用されれば生産者を貧民化する」。

機械は、それが採用される労働部門では必然的に労働者を駆逐するが、それにもかかわらず、他の労働部門では雇用の増加を呼び起こすことがありうる。
「機械によって生産される商品の総量が、それによって代わられる手工業製品またはマニュファクチュア製品の総量と同じならば、充用される労働の総量は減少する。労働手段そのもの、すなわち機械や石炭などの生産のために労働の増加が必要になるかもしれないが、それは、機械の充用によって引き起こされる労働の減少よりも小さくなければならない。・・・ところが、減少した労働者数によって生産される機械製品の総量は、駆逐される手工業製品の総量と同じままではなく、実際にはそれよりもずっと大きくなるのである。」いずれにしても、機械生産によって、他の部門での雇用の増加を起こしたとしても、労働の総量は減少するわけである。
「こうして、ある一つの産業部門での機械経営の拡張にともなって、まず、第一に、この部門へ生産手段を供給する他の諸部門での生産が増大する。そのために従業労働者数がどれほど増加するかは、労働日の長さと労働の強度とを与えられたものとすれば、充用される諸資本の構成によって、すなわちそれらの不変成分と可変成分との割合によって、定まる。この割合はまた、かの諸部門そのものを機械がすでにとらえている程度、またはとらえつつある程度によって、さまざまに違ってくる。」「一つの新しい種類の労働者が機械といっしょにこの世に出てくる。すなわち機械の生産者である。・・・機械経営はこの生産部門そのものをもますます大規模に取り入れていく。さらに、原料について言えば、たとえば、綿紡績業のあらしのような突進が合衆国の綿花栽培を、またそれとともにアフリカの奴隷貿易を温室的に助成しただけではなく、同時に黒人飼育をいわゆる境界奴隷制諸州の主要な事業にしたということは、少しも疑う余地はない。」

ある一つの労働対象がその最終形態に達するまでに通らなければならない前段階または中間段階を機械がとらえるならば、次にこの機械製品がはいってゆくまだ手工業的またはマニュファクチュア的に経営されている作業場では、労働材料といっしょに労働需要もふえてくる。」例として、イギリスの機械紡績業を挙げている。
「機械経営が相対的にわずかな労働者によって供給する原料や半製品や労働用具などの量の増加に対応して、これらの原料や半製品の加工は無数の亜種に分かれていき、従って社会的生産部門はまずます多種多様になる。機械経営はマニュファクチュアとは比べものにならないほど社会的分業を推進する。なぜならば、機械経営はそれがとらえた産業の生産力を比べものにならないほど高度に増進するからである。」この短い文の中にも、生産力の量的増大がその質を変化させ、社会的分業という新たな矛盾を発生させ、それらの矛盾した側面を相互浸透させるという弁証法の展開を見て取ることができる。

機械のもたらす直接に結果は、剰余価値を増加させると同時にそれを表す生産物量をも増加させ、したがって、資本家階級とその付属物とを養ってゆく物資といっしょにこれらの社会層そのものを増大させるということである。彼らの富の増大と、第一次的生産手段の生産に必要な労働者数の不断の相対的減少とは、新しい奢侈欲望を生むと同時にその充足の新たな手段を生み出す。社会的生産物のいっそう大きな部分が剰余生産物に転化し、剰余生産物のいっそう大きな部分が洗練され多様にされた形で再生産され消費される。言いかえれば、奢侈品生産が増大する。生産物の洗練や多様化は、また大工業によってつくりだされる新たな世界市場関係からも生ずる。・・・この世界市場的関係にともなって、運輸業での労働需要が大きくなり、運輸業も多数の新しい亜種に分かれる。」
資本主義的生産様式の発展につれて、資本家階級も再生産され、世界市場が拡大し、その相互浸透を促す交通手段と交通分業そのもの生み出され発展する。
「労働者数の相対的減少につれての生産手段や生活手段の増加は、その生産物が運河やドックやトンネルや橋などのように遠い将来にはじめて実を結ぶような産業部門での労働の拡張を引き起こす。直接に機械を基礎として、またはそれに対応する一般的な産業変革を基礎として、まったく新たな生産部門が、従ってまた新たな労働分野が形成される。・・・これらの分野の従業労働者の数は、最も粗雑な手の労働の必要が再生産されるのに比例して増加する。この種の主要産業と見ることのできるものは、現在では、ガス製造業、電信行、写真業、基線航海行、鉄道業である。」
「最後に、大工業の諸部門で異常に高められた生産力は、・・・労働者階級のまずます大きい部分を不生産的に使用することを可能にし、従ってまたことに昔の家内奴隷を召使とか下女とか従僕とかいうような「僕脾階級」という名でますます大量に再生産することを可能にする。」
マルクスは、1861年の人口調査から、イングランド及びウェールズの総人口2千万人の約40%、800万人が資本家を含む「生産的」可能人口であり、そのうち約15%、120万人が「僕脾階級」であるとしている。
 ここでマルクスが導きだしている議論は、現在の資本主義的生産様式を目の前にするとき、いろいろな示唆を与えてくれるように思われる。

第7節 機械経営の発展に伴う労働者の輩出と吸収 綿業不況

「一定の発展度に達すれば、工場諸部門の異常な拡張は、充用労働者数の単に相対的な減少だけでなく絶対的な減少とも結びついていることがありうる。」
 その例として、1860年から1865年の間に、ランカシャとチェシャとヨークシャとの工場地区において、蒸気織機、紡錘、蒸気機関、水車の馬力は増加したのに、従業員は減少したことを挙げている。
「経験的に与えられているいくつかの事例では、従業工場労働者の増加はしばしばただ外観的でしかない。すなわち、すでに機械経営の上に立っている工場の拡張によるのではなく、付随的な諸部門をだんだん合併して行った結果である。」
「とはいえ、だれにもわかるように、機械経営によって多数の労働者が実際に駆逐され可能的に代替されるにもかかわらず、同種工場数の増加または既存工場の規模の拡大に表現される機械経営そのものの成長につれて、結局は工場労働者も、彼らによって駆逐されたマニュファクチュア労働者や手工業者よりも多数になることがありうるのである。」「だから、従業労働者数の相対的減少はその絶対的増加と両立するのである。」

「ある産業部門で機械経営が伝来の手工業やマニュファクチュアを犠牲として拡張されるあいだは、その成功が確実・・・機械が最初にその勢力圏を征服するこの第一期は、・・・異常な利潤のために決定的に重要である。この利潤はそれ自体として加速的蓄積の一つの源泉になるだけではなく、絶えず新たに形成されて新たな投下を求める社会的追加資本の大きな部分をこの恵まれた生産部門に引き入れる。最初の疾風怒濤時代の特別な利益は、機械が採用される生産部門で絶えず繰り返し現れる。しかしまた、工場制度がある範囲まで普及して一定の成熟度に達すれば、ことに工場制度自身の技術的基礎である機械がそれ自身機械によって生産されるようになれば、また石炭と鉄の生産や金属の加工や運輸が革命されて一般に大工業に適合した一般的生産条件が確立されれば、そのときこの経営様式は一つの弾力性、一つの突発的飛躍的な拡大能力を獲得するのであって、この拡大能力はただ原料と販売市場とにしかその制限を 見出さないのである。」これは、機械経営によって資本主義的生産様式の量がある程度まで発展すれば、その質を変えるということであり、生産部門の機械による革命が、流通部門への浸透を始めるのである。「機械は一方では原料の直接的増加を引き起こす。例えば繰綿機が綿花生産を増加させたように。他方では・・・外国市場の手工業生産物を破滅させることによって、機械経営は外国市場を強制的に自分の原料の生産場面に変えてしまう。」この例を、東インドからイギリスへの綿花や羊毛の輸出の急増として挙げている。「大工業の諸国での労働者の不断の「過剰化」は、促成的な国外移住と諸外国の植民地化とを促進し、このような外国は、たとえばオーストラリアが羊毛の生産地になったように、母国のための原料生産地に転化する。機械経営の主要所在地に対する新たな国際的分業がつくりだされて、それは地球の一部分を、工業を主とする生産場面としての他の部分のために、農業を主とする生産場面に変えてしまう。」マルクスは、南北戦争が終わったばかりのその当時のアメリカをイギリスの植民地として位置づけ、アメリカからイギリスへの綿花や穀類の輸出の増加、イギリスの穀類の輸入超過の増大を例証している。
「工場制度の巨大な突発的な拡張可能性と、その世界市場への依存性とは、必然的に、熱病的な生産とそれに続く市場の過充とを生み出し、市場が収縮すれば麻痺状態が現れる。産業の生活は、中位の活況、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞という諸時期の一系列に転化する。」資本主義的生産と流通の相互浸透の結果である。「機械経営が労働者の就業に、したがってまた生活状態に与える不確実性を不安定は、このような産業循環の諸時期の移り変わりに伴う正常事となる。・・・どの循環でも、労賃をむりやりに労働者の価値よりも低く押し下げることによって商品を安くしようとする努力がなされる一時点が必ず現れる。」
「このように、工場労働者数の増大は、工場に投ぜられる総資本がそれよりもずっと速い割合で増大することを条件とする。しかし、この過程は産業循環の干潮期と満潮期との交替のなかでしか実現されない。しかも、それは、ときには可能的に労働者の代わりをしときには実際に労働者を駆逐する技術的進歩によって、絶えず中断される。機械経営におけるこの質的変化は、絶えず労働者を工場から遠ざけ、あるいは新兵の流入にたいして工場の門戸を閉ざすのであるが、他方、諸工場の単に量的な拡張は、投げ出された労働者のほかに新しい補充兵をも飲み込むのである。」
このような、産業循環の好況・不況によって振り回される「工場労働者の運命」について、イギリスの綿工業の歴史を挙げて、記述している。特に、アメリカの南北戦争によって一時的に途絶えた綿花の輸入による不況「綿花飢餓」と代替する綿花の質の悪化で、労働者の賃金が低下したばかりか、労働者の労働環境も悪化した事例を示している。

第8節 大工場によるマニュファクチュア、手工場、家内労働の変革

a 手工業と分業に基づく協業の破棄

資本主義的生産様式以前の歴史が、農業からの手工業の分離を準備した。資本主義的生産様式の最初の形態であるマニュファクチュアは、独立手工業を分業に基づく協業の形態に変えた。機械経営の工場は、手工業そのものを道具機(作業機)に担わせることによって廃止し、協業の一般性を保存しながら、労働の特殊性を一様にする。資本主義的生産様式は、機械経営によってその本質を全面的に開花させることができる。そこで、それ以前の生産様式は、その役割を終え、歴史の舞台から退場する運命にあるといえる。

「機械は手工業にもとづく協業を廃止し、また手工業的労働の分業にもとづくマニュファクチュアを廃棄する。」「単一の作業機が・・・また手工業的経営の基礎になることができる。しかし、このように機械を基礎として手工業経営が再生産されるということは、ただ工場経営への過渡をなすだけであって、蒸気や水のような機械的動力が人間の筋肉に代わって機械を動かすようになりさえすれば、いつでも工場経営が現れるのが通例である。」

b マニュファクチュアと家内労働とへの工場制度の反作用

「工場制度の発展につれて、またそれに伴う農業の変革につれて、すべての他の産業部門でも生産規模が拡大されるだけでなく、それらの部門の性格も変わってくる。生産過程をそのいろいろな構成段階に分解し、そこに生ずる諸問題を力学や化学など、要するに自然科学の応用によって解決するという機械経営の原理は、どこでも決定的になってくる。」一つの産業部門で機械経営の工場制度が導入されると、他の産業部門にも浸透し、捕えた部門を変革していく。「マニュファクチュア時代とは反対に、いまや分業の計画は、婦人労働やあらゆる年齢層の子供の労働や不熟練工の労働、要するにイギリス人がその特徴をとらえて「安い労働」と呼んでいる労働の充用をできるかぎりするようになる。このことは、いわゆる家内工業にも・・・あてはまる。・・・家内工業は今では工場やマニュファクチュアや問屋の外業部に変わっている。・・・資本は、大都市の中や郊外に散在する家内労働者の別軍をも、目に見えない糸で動かすのである。」
「安価で未熟な労働力の搾取は、近代的マニュファクチュアでは、本来の工場で行なわれるよりももっと露骨になる。」「この搾取はまた、いわゆる家内労働では、マニュファクチュアで行なわれるよりももっと露骨になる。」「機械経営によってはじめて体系的に完成される生産手段の節約は、はじめから、同時に冷酷きわまる労働力の乱費なのであり、労働機能の正常な諸前提の強奪なのであるが、それが今では、一つの産業部門の中で労働の社会的生産力や結合労働過程の技術的基礎の発展が不十分であればあるほど、このような敵対的な殺人的な面をますます多くさらけ出すのである。

c 近代的マニュファクチュア

ここでは、「前述の原則をいくつかの例によって説明」している。
バーミンガムの金属マニュファクチュアの多数の子供や女の重労働、ロンドンの新聞・書籍印刷工場・製本工場での過度労働、などなど。特に、多数の女のぼろの選別労働。これは、極端な不健康な労働環境で、過度労働の低賃金である。また、同様な労働は、瓦・煉瓦製造での児童の過重労働。その結果引き起こされる、精神的退廃。
「近代的マニュファクチュア(これはここでは本来の工場以外のすべての大規模な作業場を意味する)における労働条件の資本主義的節約については、・・・ことにロンドンの印刷業者や裁縫業者の作業場」における衛生状態の悪さを、「公衆衛生報告書」から死亡率を引用しながら、農業と比較している。

d 近代的家内労働

「大工業の背後に作り上げられた資本の搾取部面と、その奇怪な状態」として、「レース製造業と麦わら細工業とのうちの、まだ全然機械経営になっていない部門かまたは機械経営やマニュファクチュア経営と競争していない部門」の例を挙げている。
家内労働であるレースの仕上げ(機械で製造されたレースの最後の仕上げ)では、女や少女や小さな子供の不衛生な労働環境での過重労働が見られる。レース編み業においても、同様である。
 さらに、麦わら編み業でも、子供の不健康な過重労働が、精神的な荒廃を招いている。

e 近代的マニュファクチュアと近代的家内労働との大工業への移行 これらの経営様式への工場法の適用によるこの革命の推進

 「女性や未成年者の労働力の単なる乱用、いっさいの正常な労働条件と生活条件との単なる強奪、過重労働と夜間労働との単なる残虐、このようなことによって労働力を安くすることは、結局は、もはや越えられない一定の自然的限界にぶつかり、またそれとともに、このような基礎の上に立つ商品の低廉化も資本主義的搾取一般も同じ限界にぶつかる。ついにこの点にきてしまえば、といってもそれまでには長くかかるのであるが、機械の採用の時が告げられ、また、分散していた家内労働(あるいはまたマニュファクチュア)の工場経営への急速な転化の時が告げられる。
「この運動の最大の実例を提供するものは「衣料品」の生産である。・・・この産業に包括されるものは、麦わら帽・婦人帽製造業者、縁なし帽製造業者、裁縫業者、ミリナーおよびドレスメーカー、シャツ製造業者およびシャツ縫い婦、コルセット製造業者、手袋製造業者、靴製造業者、その他ネクタイやカラーなどの製造のような多くの小部門である。」これは、いままでは、マニュファクチュア、「マニュファクチュアや問屋のため」の「比較的小さな手工業親方」、同じくマニュファクチュアや問屋や親方の外業部の「家内工業」によって営まれていた。
「決定的に革命的な機械、すなわち、婦人服製造、裁縫、靴製造、縫い物、帽子製造、等々のような生産部門のすべてを一様にとらえる機械、それはミシンである。」
「新たなミシン労働者は、もっぱら少女と若い女である。」ここでも、ミシン彼女らの低賃金と不健康な労働環境が見られる。「今日イギリスで実際に広まっているのは、資本家がかなりたくさんのミシンを自分の建物の中に集中し、そのミシンの生産物を家内労働者軍のあいだに分配してそれからあとの加工をさせるという制度である。」「ミシンに投ぜられる資本量はますます増大して、生産を刺激し、市場の停滞を引き起こすのであるが、この停滞は、家内労働者にミシンを売る払わせる合図の鐘になる。」「最後に、蒸気機関が人間に取って代わって、それが、すべて同様な変革過程でそうであるように、ここでも決着をつける。」
「この自然発生的に起きる産業革命は、婦人や少年や児童を使用するすべての産業への工場法の拡張によって、人為的に促進される。」「マニュファクチュアと家内労働とのあいだのいろいろな中間形態や家内労働そのものについて言えば、それらの地盤は、労働日や児童労働の制限が現れれば陥没してしまのである。」

「工場経営の主要条件は、ことにそれが労働日の規制を受けることになってからは、結果の正常な確実性、すなわち与えられた時間内に一定量の商品または所期の有効効果を生産うることである。さらにまた、規制された労働日の法定の中休みは、生産過程にある製品をいためないで作業を突然休んだり周期的に休んだりすることを含んでいる。」「このような結果の確実性や作業の中断可能性」は、工場法規制前は資本家からは不可能との声が上がるが、規制後は機械の改良によってそれが達成される例を、製陶業、マッチ製造業、レース製造業について示している。「このようにして工場法がマニュファクチュア経営から工場経営への転化に必要な物質的諸要素を温室的に成熟させるとすれば、それはまた同時に、資本投下の増大に必要によって、小親方の没落と資本の集積とを促進するのである。」
「純粋に技術的な障害や技術的に排除の可能な障害は別としても、労働日の規制は労働者たち自身の不規則な習慣にぶつかる。ことに出来高賃金がおもになっていて、一日または一週のある部分での時間の空費をその後の過度労働や夜間労働で埋め合わせることができる場合である・・・。このような労働力の支出上の不規則は、・・・それとは比べものにならない大きな度合いで生産そのものの無政府性から生ずるのであり、この無政府性はまた資本による労働者の無拘束な搾取を前提するのである。」
 いわゆる「シーズン」という突発的な「短期間に仕上げなければならない大口注文」があり、このような「「営業慣習」も、関係資本家たちによって生産の「自然制限」だと主張された・・・とはいえ、経験は彼らのうそをとがめた。それ以来、すべて「営業上の障害」と呼ばれるものは、イギリスの工場監督官たちからは無意味なごまかしとして取り扱われる。」
以上、マルクスは、具体例を挙げながら、工場経営の法則をわかりやすく示している。

第9節 工場立法(保健・教育条項) イギリスにおけるその一般化

工場立法、この、社会がその生産過程の自然発生的な姿に加えた最初の意識的な計画的な反作用、それは、すでに見たように、綿糸や自動機や電信と同様に、大工業の一つの必然的な産物である。」
ここでは、労働日以外の保護条項について、取り上げている。現在の私達にとってはすでに常識となっている労働者の諸権利を守る法律ではあるが、当時のイギリスでは、「保健条項」「教育条項」などがそれぞれの法律として独立しておらず、未分化のままで現れる。この初期の段階である工場法がどのようなものであったかを知ることは、資本主義の本質を知る上でも、また、国家の役割を知る意味でも、大いに意味がある。マルクスの論理的展開が、歴史的にどのように現れてきたか、現代において、彼の推論が正しかったがどうかを判断するのは、私達の役目であろう。

保健条項は、・・・まったく貧弱なもので、実際には、壁を白くすることやその他のいくつかの清潔維持法や換気や危険な機械に対する保護などに関する規定に限られている。」ここでは、アイルランドで発展していた亜麻工業によりスカッチングミルが増加したが、その機械による労働災害で少年や女が重傷を負う事件が多発したことを取り上げている。
資本主義的生産様式に対しては最も簡単な清潔保健設備でさえも国家の側からの強制法によって押し付けられなければならないということ、これほどよくこの生産様式を特徴づけうるものがあろうか?
1864年の工場法が、製陶業において、換気装置の設置を促したことを取り上げ、しかし、「イギリスの医師たちは、一様に、継続的な作業の場合には一人当たり500立方フィートの空間」が必要と言っているが、「保健関係当局も、もろもろの産業調査委員会も、工場監督官も、500立法フィートの必要を、そしてそれを資本に強制することの不可能を、いくたびとなく繰り返す。」「工場法のこの部分は、資本主義的生産様式はその本質上ある一定の点を越えてはどんな合理的な改良も許さないものだということを、的確に示している。」

「工場法の教育条項は全体としては貧弱に見えるとはいえ、それは初等教育を労働の強制条件として宣言した。その成果は、教育および体育を筋肉労働と結びつけることの、したがってまた筋肉労働を教育および体育と結びつけることの可能性をはじめて実証した。」マルクスは、ここに「未来の教育の萌芽」を見ている。「この教育は、一定の年齢から上のすべての子供のために生産的労働を学業および体育と結びつけようとするもので、それは単に社会的生産を増大するための一方法であるだけではなく、全面的に発達した人間を生み出すための唯一の方法でもあるのである。」
「すでに見たように、大工業は、一つの人間の全身を一生涯一つの細部作業に縛り付けるマニュファクチュア的分業を技術的に廃棄するのであるが、それと同時に、大工業の資本主義的形態はそのような分業をさらにいっそう奇怪なかたちで再生産するのであって・・・。マニュファクチュア的分業と大工業の本質との矛盾は、暴力的にその力を現わす。この矛盾は、なかんずく、現代の工場やマニュファクチュアで働かされる子供達の一大部分が、非常に幼少の時から最も簡単な作業に固く縛り付けられ、何年も搾取されていながら、後年彼らを同じマニュファクチュアや工場で役に立つものにするだけの作業さえも習得できない、という恐ろしい事実に現れる。」
「大工業の原理、すなわち、それぞれの生産過程を、それ自体として、さしあたり人間の手のことは少しも顧慮しないで、その構成要素に分解するという原理は、技術学というまったく近代的な科学をつくりだした。社会的生産過程の種々雑多な外観上は無関係な骨化した諸姿態は、自然科学の意識的に計画的な、それぞれ所期の有用効果に応じて体系的に特殊化された応用に分解された。」「機械や化学的工程やその他の方法によって、近代工業は、生産の技術的基礎とともに労働者の機能や労働過程の社会的結合をも絶えず変革する。したがってまた、それは社会の中での分業をも絶えず変革し、大量の資本と労働者の大群とを一つの生産部門から他の生産部門へと絶え間なく投げ出し投げ入れる。したがって、大工業の本性は、労働の転換、機能の流動、労働者の全面的可動性を必然的にする。」「しかし、今や労働の転換が、ただ圧倒的な自然法則としてのみ、また、至る所で障害にぶつかる自然法則の盲目的な破壊作用を伴ってのみ、実現されるとすれば、大工業は、いろいろな労働の転換、したがってまた労働者のできるだけの多面性を一般的な社会的生産法則として承認し、この法則の正常な実現に諸関係を適合させることを、大工業の破局そのものをつうじて、生死の問題にする。大工業は、変転する資本の搾取欲求のために予備として保有され自由に利用されるみじめな労働者人口という奇怪事の代わりに、変転する労働要求のための人間の絶対的な利用可能性をもってくることを、・・・いろいろな社会的機能を自分のいろいろな活動様式としてかわるがわる行なうような全面的に発達した個人をもってくることを、一つの生死の問題にする。大工業を基礎として自然発生的に発達してこの変革過程の一つの要因となるものは、工学および農学の学校であり、もう一つの要因は「職業学校」であって、この学校では労働者の子供が技術学やいろいろな生産用具の実際の取扱いについてある程度の教育を受ける。工業立法は、資本からやっともぎ取った最初の譲歩として、ただ初等教育を工場労働と結びつけるだけだとしても、少しも疑う余地のないことは、労働者階級による不可避的な政権獲得は理論的および実際的な技術教育のためにも労働者学校のなかにその席を取ってやるであろうということである。
マルクスは、近代工業の発展が、工場法の教育条項の展開を促し、いずれ技術学・工学を教育する専門学校において労働者教育が行なわれるだろうと予言している。

これは、労働する子供に対する親権に関しても、同様である。
「事実の力は、ついに、大工業は古い家族制度とそれに対応する家族労働との経済的基礎とともに古い家族関係そのものをも崩壊させるということを、いやおうなしに認めさせた。子供の権利が宣言されざるを得なくなった。」「とはいえ、親の権力の乱用が資本による未熟な労働力の直接間接の搾取をつくりだしたのではなく、むしろ逆に、資本主義的搾取様式が親の権力を、それに対応する経済的基礎を廃棄することによって、一つの乱用にしてきたのである。」

工場法を、機械経営の最初の姿である紡績業と織物業とのための例外法から、すべての社会的生産の法律に一般化する必要は、・・・大工業の歴史的発展工程から生ずる。
手工業はマニュファクチュアに変わり、マニュファクチュアは工場に変わると同時に、手工業や家内労働は「苦難の洞穴」に変わっていく。「そこで、二つの事情が最後の決着をつける。」「資本は社会的周辺の個々の点だけで国家統制を受けるようになると他の点でますます無節制に埋め合わせをつけるという絶えず繰り返される経験」と資本家自身が「労働搾取の制限の平等を求める」という例として、二人の業者の意見を記している。
また、「指導労働調査委員会」の「1,400,000人以上の子供と少年と婦人を工場法のもとに置くこと」の提案を紹介している。
1867年工場法拡張法(従業員50人以上の全作業場)、作業場規制法、労働時間規制法(小さい作業場と家内労働)、議会通過。しかし、それを規制する工場監督官は増えなかったという。「この1867年のイギリスの立法で目に付くことは、一面では、資本主義的搾取の行き過ぎにたいしてあのように異常な広範な処置を原則的に採用する必要が支配階級の議会に強制されたということであり、他面では、次いで現実にこの処置を行うに当たって議会が示した不徹底、不本意、不誠実な態度である。
さらに、鉱山業とそれを規制する1842年の鉱山法、1860年の鉱山監督法、1872年の法律を取り上げ、少年の過酷な重労働、子供の教育義務の無視、同様な状態の婦人労働、悲惨な労働災害、不当な支払い、鉱山監督の不十分さなどについての鉱山労働者による証言を引用する。
「とにかく、1872年の法律は、欠陥だらけのものではあっても、鉱山で従事する児童の労働時間を規制し、また採掘業者と鉱山所有者とにある程度までいわゆる災害の責任を負わせる最初の法律である。」 「労働者階級の肉体的精神的保護手段として工場立法の一般化が不可避になってきたとすれば、それはまた他方では、すでに示唆したように、矮小規模の分散的労働過程から大きな社会的規模の結合された労働過程への転化を、したがって資本の集積を工場制度の単独支配とを、一般化し促進する。」
エンゲルスは、注において、「1878年の工場および作業場法において、関係立法全体の単一法典化ができあがった。」と追加している。

ここで、近代工業と比較する意味で、「古典的共同体と封建的生産様式の経済的基礎」である「小農民経営と独立手工業経営」について、確認しておくのは意義のあることであろう。
「古い型の家内工業・・・は、独立な都市手工業と独立な農民経営、そしてなによりも労働者家族の家を前提とするものである。」
「手工業やマニュファクチュアが社会的生産の一般的な基礎になっているあいだは、一つの専門的な生産部門への生産者の包摂、彼の仕事の元来の多様性の分裂は、一つの必然的な発展契機である。この基礎の上では、それぞれの特殊生産部門は自分に適した技術的姿態を経験的に発見し、だんだんそれを完成してゆき、一定の成熟度に達すれば急速にそれを結晶させる。・・・ひとたび経験的に適当な形態が得られれば労働用具もまた骨化することは、それがしばしば千年にもわたって世代から世代へと伝えられて行くことが示しているとおりである。」

第10節 大工業と農業

マルクスは、農業も大工業と相互浸透し、同じような発展形態をたどると論理的に予測する。
「農業での機械の使用は、それが工場労働者に与えるような肉体的な損害をもたらすおそれはほとんどないが、・・・それは農業では労働者の「過剰化」にいっそう強く作用し、また反撃を受けることなく作用する。」「農業の部面では、大工業は、古い社会の堡塁である「農民」を滅ぼして賃金労働者をそれに替えるかぎりで、最も革命的に作用する。こうして、農村の社会的変革と社会的諸対立は都市のそれと同等にされる。・・・科学の意識的な技術的応用が現れる。」「農業でも、製造工業の場合と同様に、生産過程の資本主義的変革は同時に生産者達の殉難史として現れ、労働手段は労働者の抑圧手段、搾取手段、貧困化手段として現れ、労働過程の社会的な結合は労働者の個人的な活気や自由や独立の組織的圧迫として現れる。」

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