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「資本論」ノート (6)


第2部 資本の流通過程

第1篇 資本の諸変態とその循環

第1章 貨幣資本の循環

第1部では資本の生産過程を扱った。生産過程には、資本の流通の側面がすでに含まれているが、第2部で取り上げる資本の流通過程では、第1部から媒介されながらもそれとは区別された流通過程の側面が議論され、論理的に新たな現象が把握される。
資本の循環の各段階は、資本の否定過程である。循環とは否定の否定の過程である。否定の連続過程では、具体的には、形態転換の諸現象を扱うことになる。その際、形態転換の前後で、矛盾を担う両側面が交互に位置を転換し、全運動を通してのみ矛盾が解決されるようになっている。だが、否定の否定の過程は、さまざまな段階に分かたれ組み込まれているので、注意深く見て行かねばならない。

「資本の循環過程は三つの段階を通って進み、・・・次のような順序をなしている。
第一段階。資本家は商品市場や労働市場に買い手として現われる。彼の貨幣は商品に転換される。すなわち流通行為G−Wを通過する。
第二段階。買われた商品の資本家による生産的消費。彼は資本家的商品生産者として行動する。彼の資本は生産過程を通過する。その結果は、それ自身の生産要素の価値よりも大きい価値をもつ商品である。
第三段階。資本家は売り手として市場に帰ってくる。彼の商品は貨幣に転換される。すなわち流通行為W−Gを通過する。
そこで、貨幣資本の循環を表わす定式は次のようになる。G−W…P…W´−G´。ここで点線は流通過程が中断されていることを示し、W´とG´は、剰余価値によって増大したWとGとを表わしている。」
「これからは、これらの諸形態がまず第一の研究対象になるのである。」

論理的には、第一段階と第三段階とが対になって否定の否定をなしていて、その中に第二段階の否定の否定の過程が組み込まれているという構造になっている。したがって現象的には、三段階に構造化されているのである。

第1節 第1段階 G−W

「G−Wは、ある貨幣額がある額の諸商品に転換されることを表わしている。買い手にとっては彼の貨幣の商品への転化であり、売り手たちにとって彼らの諸商品の貨幣への転化である。このような、一般的な商品流通の過程を、同時に一つの個別資本の独立した循環のなかの機能的に規定された一つの区切りにするものは、まず第一に、この過程の形態ではなく、その素材的内容であり、貨幣と入れ替わる諸商品の独自な使用性質である。」「労働力をAとし、生産手段をPmとすれば、買われる商品総額W=A+Pmであり、もっと簡単に表わせばW<A,Pm(テキストにはWがAとPmに分かれることを、<の上下両端にAとPmとを置くことで表現しているが、ここでは表現の仕方が難しいので、+の前後に置くことで表現する。以下同様。)である。・・・すなわち、G−WはG−AとG−Pmとに分かれるのである。・・・この二つの列に分かれる買い入れはまったく別々な市場で行なわれる。一方は本来の商品市場で、他方は労働市場で。」
「ところが、Gが転換される商品額のこのような質的な分裂のほかに、G−W=A+Pmはもう一つのきわめて特徴的な量的な関係をも表わしている。われわれが知っているように、労働力の価値または価格は、労働力を商品として売っているその所持者には、労賃という形態で、すなわち剰余労働を含むある労働量の価格として、支払われる。」
「こういうわけで、G−W=A+Pmは、一定の貨幣額、たとえば422ポンドが、互いに対応し合う生産手段と労働力とに転換されるという質的な関係を表わしているだけではなく、労働力Aに投ぜられる貨幣部分と生産手段Pmに投ぜられる貨幣部分との量的な関係をも表わしているのであって、この関係は、一定数の労働者によって支出される余分な剰余労働の総計によってはじめから規定されているのである。」
「G−W=A+Pmが完了すれば、・・・彼が貨幣形態で前貸しした価値は、・・・価値と剰余価値をつくりだすものとして機能する能力をもっている生産資本という状態または形態にあるのである。この形態にある資本をPと呼ぶことにしよう。」「GはPと同じ資本価値であって、ただ、存在様式が違うだけである。すなわち、貨幣状熊または貨幣形態にある資本価値―貨幣資本である。」
「それゆえ、G−W=A+Pm、またはその一般的形式から見ればG−W、いろいろな商品購入の総計、この、一般的な商品流通の過程は、同時に、資本の独立した循環過程のなかの段階としては、・・・ 貨幣資本から生産資本への転化なのである。」

資本の流通において、それぞれの段階、ここでは貨幣資本と生産資本の、商品流通と区別された概念規定を行わねばならない。
「この貨幣機能を資本機能にするものは、資本の運動のなかでの貨幣機能の特定の役割であり、したがってまた、貨幣機能が現われる段階と資本の循環の他の諸段階との関連である。」
「貨幣資本Gの流通は、G−PmとG−Aとに、生産手段の買い入れと労働力の買い入れとに、分かれる。」
G−Aは、貨幣資本から生産資本への転化を特徴づける契機である。なぜならば、それは、貨幣形態で前貸しされた価値が現実に資本に、剰余価値を生産する価値に、転化するための本質的な条件だからである。G−Pmは、ただ、G−Aによって買われた労働量を実現するために必要なだけである。」
G−Aは、一般に、資本主義的生産様式に特徴的なものとみなされる。」「労賃という形熊で貨幣で労働が買われるのだという理由からであって、これが貨幣経済の特徴とみなされるのである。」
「労働力がひとたびその所持者の商品として市場に現われ、その売り渡しが労働への支払という形すなわち労賃という形で行なわれるようになれば、労働力の売買は、ほかのどの商品の売買と比べても少しもそれ以上に異様に見えるものではない。労働力という商品が買えるものだということが特徴的なのではなく、労働力が商品として現われるということこそが特徴的なのである。」
「それゆえ、G−Aという行為では、・・・この生産手段は労働力の所持者にたいして他人の所有物として現われるのである。他方、労働の売り手はその買い手にたいして他人の労働力として相対するのであって、この労働力は、買い手の資本が現実に生産資本として働くために買い手の支配下にはいらなければならないのであり、彼の資本に合体されなければならないのである。だから、資本家と賃金労働者との階級関係は、両者がG−A(労働者から見ればA−G)という行為で相対して現われる瞬間に、すでに存在しているのであり、すでに前提されているのである。それは、売買であり、貨幣関係であるが、しかし、資本家としての買い手と賃金労働者としての売り手とが前提されている売買なのである。そして、この関係は、労働力の実現のための諸条件−生活手段と生産手段―が他人の所有物として労働力の所持者から分離されているということといっしょに、与えられているのである。」
「資本関係が生産過程で現われてくるのは、ただ、この関係がそれ自体として流通行為のうちに、買い手と売り手とが相対するときの両者の経済的根本条件の相違のうちに、彼らの階級関係のうちに、存在するからにほかならないのである。この関係の存在こそが、単なる貨幣機能を資本機能に転化させることができるのである。」
「つまり、ここでG−W=A+Pmという行為の根底にある事実は分配なのである。といっても、消費手段の分配という普通の意味での分配ではなく、生産諸要素そのものの分配であって、これらの要素のうち対象的諸要因は一方の側に集積されており、労働力は対象的諸要因から分離されて他方の側に孤立しているのである。」
「前にも見たように、ひとたび確立された資本主義的生産は、その発展途上でこの分離をただ再生産するだけではなく、それをますます大きな規模に拡大して、ついにこの分離が一般的支配的な社会的状態になったのである。しかし、事柄はもう一つ別の面を示している。資本が形成されて生産を支配することができるようになるためには、商業のある程度の発展段階が前提されており、したがってまた商品流通の、またそれとともに商品生産の、ある程度の発展段階が前提されている。なぜならば、物品は、売られるために、つまり商品として、生産されないかぎり、商品として流通にはいることはできないからである。ところが、生産の正常な支配的な性格としての商品生産は、資本主義的生産の基礎の上ではじめて現われるのである。」
「それゆえ、貨幣資本の循環を表わす定式、G−W…P…W´−G´はただすでに発展した資本主義的生産の基礎の上でのみ資本循環の自明的な形態なのだということは、おのずから明らかである。なぜならば、それは現に賃金労働者階級が社会的な規模で存在するということを前提しているからである。資本主義的生産は、われわれが見てきたように、ただ商品と剰余価値とを生産するだけではない。それは、賃金労働者の階級を再生産し、しかもますます拡大される規模でそれを再生産するのであって、直接生産者の巨大な多数を賃金労働者に転化させるのである。それゆえ、G−W…P…W´−G´は、その進行の第一の前提が賃金労働者階級の恒常的な現存なのだから、すでに、生 産資本の形態にある資本を前提しており、したがってまた生産資本の循環の形態を前提しているのである。」

商品の流通過程である第一の否定の否定W−G−Wは、資本家と賃金労働者という階級関係の前提の上で、資本の流通過程である第二の否定の否定G−W−Gへと媒介される。第一の否定の否定と第二の否定の否定は対立と統一、すなわち矛盾した関係にあり、相互浸透する。第一の否定の否定は、第二の否定の否定に成長発展するが、逆に第二の否定の否定は第一の否定の否定を促進し発展させる。

第2節 第2段階 生産資本の機能

「第1段階の結果は、第2段階の、資本の生産段階の、開始である。」
この運動はG−W=A+Pm…Pとして表わされる。ここにある点線は、資本の流通は中断されているが、資本は商品流通の部面から出て生産部面にはいるのだから、その循環過程は続いている、ということを暗示している。だから、第一段階、貨幣資本の生産資本への転化は、ただ、第二段階すなわち生産資本の機能の先ぶれとして、その準備段階として、現われるだけである。」

「G−A。・・・労働力の維持−賃金労働者の自己保存には毎日の消費が必要である。だから、彼の受ける支払が絶えず比較的短い間隔で繰り返されて、彼が自己保存のために必要な購入−A−G―WまたはW―G―Wという行為−を繰り返すことができるようになっていなければならない。・・・また、他方、多数の直接生産者、賃金労働者が、A−G―Wという行為をすることができるためには、彼らにたいして、必要な生活手段が、買うことのできる形で、すなわち商品形態で、いつでも相対していなければならない。つまり、このような状態は、すでに、商品としての生産物の流通の、したがってまた商品生産の規模の、ある程度の高さを必要とするのである。賃労働による生産が一般的になれば、商品生産が生産の一般的形態でなければならない。商品生産が一般的として前提されるならば、それはまた、社会的分業が絶えず増進すること、すなわち商品として一定の資本家によって生産される生産物がますます特殊化されて行くこと、互いに補足し合う諸生産過程がますます独立な諸生産過程に分かれて行くことを必然的にする。したがって、G−Aが発展するのと同じ度合いでG−Pmが発展する。すなわち、同じ度合いで、生産手段の生産が、それを生産手段とする商品の生産から分かれて行く。そして、生産手段は、どの商品生産者にたいしても、それ自身商品として、すなわちこの生産者が生産するのではなく彼が自分の特定の生産過程のために買う商品として、相対する。」
G−Aが、A−G―Wという別の否定の否定を媒介するだけでなく、G−Pmが別の否定の否定を媒介する。それぞれの否定の否定の媒介項の直接的側面AおよびPmが、他の否定の否定の媒介項の直接的側面を媒介し、それぞれの否定の否定の過程が相互浸透するのである。
「他方、資本主義的生産の根本条件−賃金労働者階級の存在―を生みだすその同じ事情は、すべての商品生産の資本主義的商品生産への移行を促進する。資本主義的商品生産が発展するのにつれて、それは、すべてのそれ以前の、主として直接の自己需要に向けられていて生産物の余剰だけを商品に転化させる生産形態に、破壊的分解的に作用する。・・・しかし、第二に、この資本主義的生産が根を張ったところでは、それは、生産者たちの自己労働にもとづくかまたは単に余剰生産物を商品として売ることだけにもとづくような商品生産の諸形態を残らず破壊してしまう。それは、まず商品生産を一般化し、それからしだいにすべての商品生産を資本主義的商品生産に変えて行くのである。」

「労働力は、ただその売り手としての賃金労働者の手のなかだけで商品だとすれば、それは、逆に、ただ、その買い手であってその一時的な使用権を持っている資本家の手の中だけで資本になるのである。生産手段そのものは、労働力が生産資本の人的存在形態として生産手段に合体されうるものになった瞬間からはじめて生産資本の対象的な姿または生産資本になるのである。」

第3節 第3段階 W´−G´

「商品は、すでに価値増殖された資本価値の、直接に生産過程そのものから生じた機能的存在形態として、商品資本になる。」
「すべての商品流通のこの単純な過程を、同時に一つの資本機能にするものはなにか?」
「G−Wでは、前貸しされた貨幣が貨幣資本として機能するのは、それが流通の媒介によって独自な使用価値の諸商品に転換されるからである。W−Gでは、商品が資本として機能することができるのは、ただ、この商品が、その流通の始まる前に、すでにできあがった資本性格を帯びて生産過程から出てくるかぎりでのことである。」
「10,000ポンドの糸が商品資本W´であるのは、ただ生産資本Pの転化した形態としてのみのことであり、したがって、さしあたりはただこの個別資本の循環のなかだけに存在する関連のなかでのみのことであり、言い換えれば、自分の資本で糸を生産した資本家にとってのみのことである。・・・いわばただ内的な関係でしかないのであって、けっして外的な関係ではないのである。・・・その価値の絶対量によってではなく、その価値の相対量によって、すなわち、この糸に含まれている生産資本が商品に転化する前にもっていた価値量に比べてのこの糸の価値量によって、である。」
「wが貨幣で表現されたものをgとすれば、W´−G´は(W+w)−(G+g)となり、したがって、G−W…P…W´−G´という循環は、詳しく展開された形態では、G−W=Pm+A…P…(W+w)−(G+g)となる。」
「W´−G´の遂行によって、前貸資本価値も剰余価値も実現される。」「商品形態はwの最初の流通形態であり、従ってw−gという行為もwの最初の流通行為またはその最初の変態であって、この変態はまだこれから反対の流通行為または逆の変態g−wによって補わなければならないのである。」「剰余価値にとっては商品形態から貨幣形態への最初の転化であるものが、資本価値にとってはその最初の貨幣形態への復帰または再転化なのである。」「第一に、資本価値がその最初の貨幣形態に最後に再転化するということは、商品資本の一機能である。第二に、この機能は、その最初の商品形態から貨幣形態への剰余価値の第一の形態転化を含んでいる。つまり、貨幣形態はここでは二重の役割を演じているのである。」
「過程の出発点も終結点も貨幣資本(G)の形態であるからこそ、循環過程のこの形態はわれわれによって貨幣資本の循環と呼ばれるのである。前貸しされた価値の形態がではなく、ただその大きさだけが過程の終わりでは変化しているのである。」

「G´では資本は再びその最初の形態Gに、その貨幣形態に、帰っている。しかし、この形態は、それが資本として実現されている形態である。」「 第一に、そこには量的な差がある。」「G+gとしてのG´、422ポンドースターリングの前貸資本・プラス・その増加分78ポンドースターリンダとしての500ポンドースターリングは、同時に一つの質的な関係を表わしている。といっても、この質的関係そのものが、ただ、一つの同名の総額の諸部分の関係としてのみ、つまり量的な関係としてのみ、存在するのではあるが。」「G´は、それ自身のうちで分化される価値総額、それ自身のうちで機能的(概念的)に区別される価値総額、資本関係を表わす価値総額として、現われるのである。」
この論考は、ただ論理の遊びのように思われるかもしれない。しかし、ヘーゲルの論理学を紐解いた者なら、これが資本の概念的理解、言い換えれば、資本というものの本質的理解を表現したものだということがわかるであろう。
「概念が有および本質の真理である。というのは、概念においては自分自身への反省という反照が、それ自身同時に独立的な直接性であり、さまざまの現実のこうした有が、直接に自分自身への反照にすぎないからである。」(「小論理学」159)

「いまこの過程の終わりで実現された資本がその貨幣表現で現われるのは、資本関係の無概念的表現なのである。」「G=G+gは、資本の無概念的形態であるとはいえ、同時に、はじめて、実現された形態にある貨幣資本であり、貨幣を生みだした貨幣としての貨幣資本である。」「W´もG´も両方とも、増殖された資本価値の別々の形態、その商品形態と貨幣形態であるだけであって、この増殖された資本価値だということは、両方に共通である。それらは両方とも実現された資本である。なぜならば、そこには資本価値そのものが、それとは違った、それによって得られた果実としての剰余価値といっしょに存在しているからである。」「一方は貨幣形態にある資本であり、他方は商品形態にある資本である。それゆえ、それらを区別するそれぞれの独自な機能は、貨幣機能と商品機能との違い以外のものではありえないのである。商品資本は、資本主義的生産過程の直接の生産物として、このようなその起源を思い起こさせるのであり、したがって、その形態において貨幣資本よりもより多く合理的でより少なく無概念的である。というのは、貨幣資本ではこの過程のどんな痕跡も消えているからであって、それは、ちょうど、およそ貨幣では商品の特殊な使用形態はすべて消えてしまっているのと同じことである。」


第4節 総循環

「流通の列は(1)G−W1、(2)W´2−G´として表わされ、・・・ところが、資本がわれわれの前に現われた最初の現象形態(第1部第4章第1節)G−W−G´・・・では同じ商品が二度現われる。・・・二つの流通には、一方ではこのように貨幣がその出発点に還流してくることが共通であり、他方ではまた還流してくる貨幣が前貸しされた貨幣を超過しているということが共通である。そのかぎりでは、G−W…W´−G´も一般的な定式G−W−G´のうちに含まれて現われるのである。・・・価値変化はただ変態Pすなわち生産過程だけで起きるのであり、したがって、生産過程は、流通の単に形態的な諸変態にたいして、資本の実質的な変態として現われるのである。」
「総運動G−W…P…W´−G´またはその詳しく展開された形態G−W=Pm+A…P…W´(W+w)−G´(G+g)を考察することにしよう。ここでは資本は、互いに関連し制約し合う一連の諸転化、すなわちそれぞれが一つの総過程の諸局面または諸段階をなしている一連の諸変態を通る価値として、現われる。・・・この総過程は循環過程なのである。」
「資本価値がその流通段階でとる二つの形態は、貨幣資本と商品資本という形態である。生産段階に属するその形態は、生産資本という形態である。その総循環の経過中にこれらの形態をとっては捨て、それぞれの形態でその形態に対応する機能を行なう資本は、産業資本である。−ここで産業と言うのは、資本主義的に経営されるすべての生産部門を包括する意味で言うのである。
だからここにいう貨幣資本、商品資本、生産資本は、独立な資本種類、すなわち、それらの機能が同様に独立な互いに分離された諸事業部門の内容をなしているような独立な資本種類を表わしているのではない。これらの資本はここではただ産業資本の特殊な諸機能形態を表わしているだけで、産業資本はこれらの機能形態を三つとも次々にとって行くのである。」

否定の否定の運動を一塊の発展過程として把握すると、一つの概念となる。ここでは、循環という一塊の過程として、産業資本という概念に到達したというわけである。これが一つの到達点であり、また、次の出発点となる。
「他者への移行は有の領域における弁証法的過程であり、他者への反照は本質の領域における弁証法的過程である。概念の運動は、これに反して、発展である。」(「小論理学」161補遺)
この概念の段階に到達すると、それは一般的に、普遍・特殊・個別の段階を理解することを可能にする。

「産業資本は、その諸段階のそれぞれで一定の形態に、すなわち貨幣資本、生産資本、商品資本として、拘束されている。産業資本は、そのつどの形態に相応した機能を果たしてから、はじめて、新たな転化段階にはいることのできる形態を受け取る。」
「一般的定式では、Pの生産物は、生産資本の諸要素とは物質的に違った物とみなされる。すなわち、生産過程から分泌された存在を持っており、生産要素の使用形態とは違った使用形態をもっている対象とみなされる。」
「ところが、独立の産業部門でも、その生産過程の生産物が新たな対象的生産物ではなく商品ではないような産業部門がある。そのなかで経済的に重要なのは交通業だけであるが、それは商品や人間のための本来の運輸業であることもあれば、単に報道や書信や電信などの伝達であることもある。」
一般的には、商品は、価値と使用価値の矛盾として現れ、生産過程(価値形成過程、価値増殖過程)と消費過程は分離している。ところが、交通業を、ここでは生産物の生産過程と消費過程の直接的同一という矛盾した特殊な商品として扱っている。
「運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸禍程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。」「運輸手段の旅、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されえない。」「それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される。だから、運輸業についての定式は、G−W=Pm+A…P…G´となるであろう。」

産業資本は、資本の存在様式のうち、剰余価値または剰余生産物の取得だけではなく同時にその創造も資本の機能であるところの唯一の存在様式である。」「産業資本が社会的生産を支配して行くのにつれて、労働過程の技術と社会的組織とが変革されて行き、したがってまた社会の経済的・歴史的な型が変革されて行く。」「貨幣資本と商品資本は、それらの機能によって独自の事業部門の担い手として産業資本と並んで現れるかぎりでは、ただ、産業資本が流通部面のなかで取ったり捨てたりするいろいろな機能形態の、社会的分業によって独立化され一面的に形成された存在様式であるにすぎない。」

「循環G…G´は、一方では一般的な商品流通とからみ合っており、そこから出てそこにはいり、その一部分をなしている。他方では、この循環は個別資本家にとっては資本価値の特有な独立な運動を形成しており、この運動は一部分は一般的な商品流通のなかで行なわれ、一部分はその外で行なわれるが、しかしいつでもその独立な性格を保持している。」
「G−W…P…W´−G´を、後に研究される他の諸形態と並ぶ資本の循環過程の特殊な形態として見れば、その特徴は次の諸点に現われる。」
「(1) この定式が貨幣資本の循環として現われるのは、貨幣形態にある産業資本が、貨幣資本として、その総過程の出発点と帰着点とをなしているからである。
それは、さらに、使用価値がではなく交換価値が運動の規定的な自己目的だということを表わしている。価値の貨幣姿態が価値の独立な手でつかめる現象形態であるからこそ、現実の貨幣を出発点とし終点とする流通形態G…G´は、金もうけを、この資本主義的生産の推進的動機を、最も簡単明瞭に表わしているのである。生産過程は、ただ、金もうけのためには避けられない中間の環として、そのための必要悪として、現われるだけである。{それだから、資本主義的生産様式のもとにあるどの国民も、周期的に一つの眩惑に襲われて、生産過程の媒介なしに金もうけをなしとげようとするのである。}」
この文章をここであえて引用したのは、このような理解が資本主義的社会の価値観をよく表しているからである。ただ、論理的には重要でないが。
「(2) 生産段階、Pの機能は、この循環のなかで、G−W…P…W´−G´という流通の二つの段階の中断をなしているが、この中断はまたただ単純な流通G−W−G´の媒介をなしているだけである。」
「(3) 」「このことは、循環Gを別の二つの循環PとW´とから区別する。・・・定式G…G´の特徴として現われるのは、一方では、資本価値が出発点をなし、増殖された資本価値が帰着点をなしているということ、したがって、資本価値の前貸が全操作の手段として現われ、増殖された資本価値がその目的として現われるということであり、他方では、この関係が貨幣形態すなわち独立な価値形態で表わされ、したがって、貨幣資本が貨幣を生む貨幣として表わされているということである。」
「(4)」「貨幣資本の循環は、その1回だけの姿で見れば、形態的には、ただ価値増殖・蓄積過程を表わしているだけである。」「この定式は、G´で、すなわちすぐにまた増大した貨幣資本として機能できる結果で、終わっているからである。」「この消費過程は買われた物品の性質に応じて個人的なこともあれば生産的なこともある。しかし、この消費は、W´を生産物とする個別資本の循環にははいらない。この生産物こそは、売られる商品として循環から突き出されるのである。このW´は明らかに他人の消費のためのものと定められている。」

資本の循環過程は、それを構成する各段階の否定の否定を分離・特殊化するように発展し、それぞれの独自性を考察することを可能にする。
資本の循環過程は、流通と生産との統一であり、この両方を包括している。」
貨幣資本の循環は、産業資本の循環の最も一面的な、そのためにまた最も適切で最も特徴的な現象形態なのであって、価値の増殖、金もうけと蓄積という産業資本の目的と推進動機とが一目でわかるように示されるのである(より高く売るために買う)。」
「絶えず繰り返して可変資本は労賃に投ぜられる貨幣資本として現われ(G−A)、gは、資本家の一身上の必要をまかなうために支出される剰余価値として現われる。だから、前貸可変資本価値としてのGと、その増加分としてのgとは、どちらも必ず貨幣形態で保持されて貨幣形態で支出されるのである。」
「第一に、この全循環は、生産過程そのものの資本主義的性格を前提しており、したがってまた、その基礎として、この生産過程とそれによって制約された独自な社会状態とを前提している。」
「第二に、G…G´が繰り返されるならば、貨幣形態への復帰も第一の段階での貨幣形態と同じに一時的なものとして現われる。G−Wは姿を消してPに席を譲る。」
「第三に、G−W…P…W´−G´・G−W…P…W´−G´・G−W…P…W´−G´
すでに循環の二度目の繰り返しでは、Gの二度目の循環が終わる前に、P…W´−G´・G−W…Pという循環が現われるので、その後の循環はすべてP…W´−G−W…Pという形態のもとで考察できるようになり、したがって、最初の循環の第一の段階としてのG−Wは、絶えず繰り返される生産資本の循環の一時的な準備をするだけのものになる」。
「他方、Pの二度目の循環が終わる前に、最初のW´−G´・G−W…P…W´(短縮すればW´…W´)という循環、すなわち商品資本の循環が描かれている。このように、第一の形態はすでに他の二つの形態を含んでいるのであって、貨幣形態は、単なる価値表現ではなく等価形態すなわち貨幣での価値表現であるかぎり、消えてしまうのである。」
「産業資本の循環の一般的な形態は、資本主義的生産様式が前提されているかぎりでは、したがって資本主義的生産によって規定されている社会状態のなかでは、貨幣資本の循環である。・・・この生産過程の恒常的な存在は、P…Pという循環が絶えず繰り返されることを前提する。」

第2章 生産資本の循環

生産資本の循環は、P…W´−G´−W…Pという一般的定式をもっている。この循環の意味するものは、生産資本の周期的に繰り返される機能、つまり再生産であり、言い換えれば価値増殖に関連する再生産過程としての生産資本の生産過程である。」
「第一に・・・本当の流通は、ただ、周期的に更新され更新によって連続する再生産の媒介として現われるだけである。」
「第二に・・・価値規定を無視すれば、W−G−W(W−G・G−W)、つまり単純な商品流通の形態である。」
この二つが、第1章の形態T:G−W…P…W´−G´と異なる特徴である。

一般的に、否定の否定の構造の継起的な繋がりが循環過程として把握されると、それを構成する最初の否定の否定と、二度目の否定の否定とが、矛盾=直接的同一または媒体的統一に置かれる。ここに循環過程の新たな課題が浮き上がってくる。この同一性の矛盾の維持が、商品生産を一般的形態にすること、社会的分業が増進すること、生産手段が商品化すること、すべての商品生産を資本主義的商品生産にすることになることが、前章2節で確認された。
更に、循環過程の渦中に、隠されていた別の否定の否定の過程が浮かび上がってくるときがある。それは、その別の過程が、最初の否定の否定の過程とは異なった意味・目的・利益・利点を可能にするということが証明されたときである。そのとき、その別の過程が分離・独立化するのである。
むろん、実際に分離・独立する以外に、このような理論的考察が、我々にとって、別の角度からの考察を可能にする。その場合の否定の否定の過程の相互の関係は、最初から循環過程を前提しているとはいえ、それぞれの否定自体が持っている意味・役割を明確に浮かび上がらせる。
この章では、前章と異なって、「再生産過程としての生産資本の生産過程」、すなわち循環を前提する場合の第1章(形態T)とは異なった否定の否定(形態U)が、直接的同一としての単純再生産と、媒介的統一としての拡大再生産として、論じられる。
更に、さまざまな別の段階・別の種類の否定の否定の循環が絡み合う結果、実際の現象の全体が現れ、その把握が理論的に要求されるようになる。

第1節 単純再生産

「この流通の出発点は、商品資本、W´=W+w=P+wである。」「この循環ではW´−G´が第一の流通段階として現われ、それはG−Wによって補われなければならない」。
「生産資本の単純再生産をとってみよう。ここでも、第一章で前提したように、不変な諸事情と商品の価値どおりの売買とを前提する。この仮定のもとでは、剰余価値は全部資本家の個人的消費にはいる。商品資本W´の貨幣への転化が行なわれれば、その貨幣総額のうちの資本価値を表わす部分は、引き続き産業資本の循環のなかで流通する。もう一つの部分、金めっきされた剰余価値は一般的な商品流通にはいり、これは資本家から出発する貨幣流通ではあるが、彼の個別資本の流通の外で行なわれる。」
「g−wは貨幣に媒介されるいくつかの買いであって、この貨幣は資本家が本来の商品に支出したり、貴重な一身や家族へのサーヴィスに支出したりするものである。これらの買いは分散していて、いろいろに違った時期に行なわれる。したがって、貨幣は、一時的に、日常の消費のための準備金または蓄蔵貨幣の形態で存在する。」
「w−g−wは単純な商品流通であるが、その第一の段階w−gは、商品資本の流通W´−G´のなかに、したがって資本の循環のなかに、含まれている。これに反して、その補足段階g−wは、この循環の外に出て、そこから分離された一般的な商品流通の過程として行なわれる。Wとwとの流通、資本価値と剰余価値との流通は、W´がG´に転化してから分かれる。」
「全過程の目的である利殖(価値増殖)は、剰余価値の(したがってまた資本の)大きさといっしょに資本家の消費が増大することをけっして排除するものではなく、まさにそれを包含しているのである。」

「第二の段階G−Wでは、P(P…Pでは産業資本の循環を開始する生産資本の価値)に等しい資本価値Gが、剰余価値から解き放されて、したがって貨幣資本の循環の第一段階G−Wにあったときと同じ価値量で、再び現われている。その位置は違っていても、いま商品資本が転化した貨幣資本の機能は同じものである。すなわち、PmとAとへの、生産手段と労働とへの、貨幣資本の転化である。
 こうして、資本価値は、商品資本の機能W´−G´ではw−gと同時にW−Gの段階を通り、そして今度は補完の段階G−W=A+Pmにはいるのである。だから、資本価値の総流通はW−G−W=A+Pmである。」
「貨幣資本Gは、形態I(循環G…G´)では、資本価値が前貸しされる最初の形態として現われた。それはここでははじめから、商品資本が第一の流通段階W´−G´で転化した貨幣額の部分として現われるのであり、つまり、はじめから、商品生産物の売りによって媒介される生産資本Pの貨幣形態への転化として現われるのである。」「それだからこそ、G−Wのうちの同時にG−Aである部分も、もはや労働力の買い入れによる単なる貨幣前貸としては現われないで、労働力によってつくりだされた商品価値の一部分をなしている・・・糸が貨幣形態で労働力の買い入れに前貸しされるという前貸として現われるのである。ここで労働者に前貸しされる貨幣は、ただ、労働者自身が生産した商品価値の一部分が転化した等価形態でしかないのである。」「G´はW´が転化した形態として現われ、このW´はそれ自身また生産過程Pの過去の機能の生産物である。だから、総貨幣額G´は過去の労働の貨幣表現として現われるのである。」

「流通W−G−W=A+Pmでは、同じ貨幣が二度位置を取り替える。資本家はまず売り手としてそれを受け取り、それから買い手としてそれを手放す。商品の貨幣形態への転化は、ただ商品を貨幣形態から再び商品形態に転化させるのに役だつだけである。だから、資本の貨幣形能、貨幣資本としての資本の存在は、この運動ではただ一時的段契機でしかない。すなわち、貨幣資本は、運動がよどみなく行なわれるかぎり、それが購買手段として役だつ場合にはただ流通手段として現われるだけである。」「貨幣資本の機能は、・・・それはただ商品資本が生産資本に再転化することを媒介するだけである。」
「循環が正常に行なわれるためには、W´は、その価値どおりに、そして残らず、売れなければならない。さらに、W−G−Wは、単にある商品を別の商品と取り替えるということだけではなく、同じ価値関係で取り替えるということを含んでいる。ここでもそうだということがわれわれの仮定である。しかし、実際には生産手段の価値は変動する。じつにこの資本主義的生産にこそ価値関係の不断の変動は特有なのであって、資本主義的生産を特徴づける労働の生産性の不断の変動だけによっても、そうなのである。」
「資本は、貨幣の姿でいるあいだは資本として機能しないのであり、したがってまた価値増殖もされないのである。資本は遊休しているのである。Gは、ここでは流通手段として働くのであるが、しかし資本の流通手段としてである。資本価値の貨幣形態がその第一の循環形態(貨幣資本の循環)でもっている独立性の外観は、この第二の形態では消えてしまい、したがって第二の形態は第一の形態の批判をなしており、第一の形態を一つの単に特殊な形態にしてしまうのである。

「形態Iでは、G−W=A+Pmは、ただ貨幣資本から生産資本への第一の転化を準備するだけであるが、」「Uでは生産過程への復帰、生産過程の更新して、したがって再生産過程の先行段階として、したがってまた価値増殖過程の反復の先行段階として、現われるのである。」
「貨幣資本から生産資本への転化は、商品生産のための商品購買である。消費がこの生産的消費であるかぎり、ただそのかぎりで消費は資本そのものの循環にはいる。生産的消費の条件は、こうして消費される商品を媒介として剰余価値がつくられるということである。」
「AとPmとに転化させられるGの生産的消費のほかに、この循環は、G−Aという第一の環を含んでおり、これは労働者にとってはA−G=W−Gである。労働者の消費を含む労働者の流通A−G−Wのうちでは、第一の環だけがG−Aの結果として資本の循環にはいる。第二の行為、すなわちG−Wは、個別資本の流通から出てくるのではあるが、この流通にははいらない。しかし、労働者階級の恒常的な存在は資本家階級にとって必要であり、したがってまたG−Wに媒介される労働者の消費も必要である。

「W´は、売られて貨幣に転化していれば、労働過程の、したがってまた再生産過程の、現実の諸要因に再転化させられることができるのである。だから、W´を買った人が最終消費者であるか、それとも再びそれを売るつもりでいる商人であるかは、直接には少しも事柄を変えないのである。資本生義的生産によって生産される商品量の大行きさは、この生産の規模とその不断の拡大欲求とによって規定されるのであって、需要と供給の、充足されるべき諸欲望の、予定された範囲によって規定されるのではない。大量生産にとっては、その直接の買い手としては、他の産業資本家たちのほかには、ただ卸売商人があるだけである。再生産過程は、そこから押し出された商品が現実に個人的または生産的消費にはいっていなくても、ある限界のなかでは同じ規模かまたは拡大された規模で進行することができる。商品の消費は、その商品が出てきた資本の循環には含まれていない。」「生産物が売れるあいだは、資本家的生産者の立場からは万事が正常に進行するのである。彼が代表する資本価値の循環は中断されない。そして、もしこの過程が拡大されているならば―それは生産手段の生産的消費の拡大を含む―このような、資本の再生産は、労働者の個人的消費(したがって需要の)拡大を伴うことかありうる。なぜならば、これは生産的消費によって準備され媒介されているからである。このように剰余価値の生産も、またそれとともに資本家の個人的消費も増大し、再生産過程全体が非常に盛んな状態にあるのに、それにもかかわらず諸商品の一大部分はただ外観上消費にはいったように見えるだけで現実には売れないで転売者たちの手のなかに滞留しており、したがって実際はまだ市場にあるということも、ありうるのである。そこで、商品の流れが次から次へと続いて行くうちに、ついには以前の流れはただ外観上消費に飲み込まれただけだということがわかるのである。多くの商品資本が市場で争って席を奪い合う。あとから押し寄せるものは、とにかく売ってしまうために、投げ売りをする。前からきている流れがまださばけていないのに、その支払期限がやってくる。その持ち主たちは、支払不能を宣言せざるをえないか、または支払をするためにどんな価格ででも売ってしまうよりほかはない。このような販売は、現実の需要の状態とはまったくなんの関係もない。それは、ただ、支払にたいする需要に、商品を貨幣に転化させることの絶対的な必要に、関係があるだけである。そこで、恐慌が起きる。恐慌が目に見えるようになるのは、消費的需要すなわち個人的消費のための需要の直接の減少によってではなく、資本と資本との交換の減退、資本の再生産過程の縮小によってである。

「G−Wが次々に行なわれる一連の購入または支払を表わすとすれば、Gの一部分はG−Wという行為を行なうが、他の一部分は貨幣状態にとどまっていて、過程そのものの諸条件によって規定されたある時期になってからはじめて、同時にかまたは次々に行なわれるG−Wという行為に役だつことになる。この部分は、一定の時期に行動を起こしてその機能を行なうために、ただ一時的に流通から引きあげられているだけである。その場合には、この部分のこのような貯蔵は、それ自体、その流通によって規定され流通のために規定された一機能なのである。この場合には、購買・支払財源としてのこの部分の存在、その運動の中止、その流通中断の状態は、貨幣が貨幣資本としての諸機能の一つを行なっている状態である。」「流通から引きあげられた貨幣はすべて蓄蔵貨幣形態にある。だから、ここでは貨幣の蓄蔵貨幣形態が貨幣資本の機能になるのであって、・・・しかも、それは、資本価値がここでは貨幣形態で存在するからであり、ここでは貨幣状態が、その諸段階の一つにある産業資本にとって循環の関連によって規定されている状態だからである。しかし、それと同時にここで再び実証されることは、貨幣資本は産業資本の循環のなかで貨幣機能以外の機能を行なうのではないということ、そして、この貨幣機能にただこの循環の他の諸段階との開連によってのみ同時に資本機能の意義をもつのだということである。」

第2節 蓄積と拡大された規模での再生産

循環過程として把握される場合の否定の否定の媒介的統一は、最初の否定の否定と、二度目の否定の否定とが、直接的に一致してはいない。一致しない根拠は、相互の否定の否定の過程の間にあり、しかし、それでも統一されているのである。ここで扱う資本の拡大再生産の場合は、剰余価値がそのキーポイントであるが、それが資本に転化するには、量的拡大が質的に転化するまで待たねばならない。

「生産過程の拡大が可能になるために必要な比例関係は、かってに動かせるものではなく、技術的に規定されているのだから、実現された剰余価値は、たとえ資本化されることにはなっていても、いくつもの循環が繰り返されてからはじめて、現実に追加資本として機能することすなわち過程進行中の資本価値の循環にはいることができる大きさに成長することができる(したがってその大きさになるまで積み立てられなければならない)ということも多い。つまり、剰余価値は蓄蔵貨幣に硬化して、この形態で潜在的な貨幣資本をなすのである。潜在的というのは、それが貨幣状態にとどまっているあいだは資本として働くことができないからである。」

「P…W´−G´−W´=A+Pm…P´という定式は、生産資本がより大きい規模でより大きい価値をもつものとして再生産され、増大した生産資本としてその第二の循環を始めるということ、または、同じことであるが、その第一の循環を繰り返すということを表わしている。この第二の循環が始まるときには、再びPが出発点として現われる。ただ、このPが第一のPよりも大きい生産資本になっているだけである。」
「P…P´をG…G´すなわち第一の循環と比べてみれば、この二つはけっして同じ意義を持っておるのではない。G…G´は、それだけを単独な循環として見れば、ただ、貨幣資本(または貨幣資本としての循環のなかにある産業資本)Gは、貨幣を生む貨幣、価値を生む価値であり、剰余価値を生むものだ、ということを表わしているだけである。これに反して、Pの循環では、価値増殖過程そのものは、第一の段階である生産過程がすめばすでに完了しているのであって、第二の段階(第一の流通段階)W´−G´を通ったあとでは、資本価値・プラス・剰余価値は、実現された貨幣資本として、第一の循環では最後の極として現われたG´として、すでに存在しているのである。」
「P…P´でPが表わしているのは、剰余価値が生産されたということではなく、生産された剰余価値が資本化され、したがって資本が蓄積されたということであり、したがってまた、P´は、Pとは違って、最初の資本価値・プラス・その運動によって蓄積された資本の価値から成っているということである。」

「労働力は他人の労働力であって、資本家は自分の生産手段を他の商品所持者から買ったのとまったく同様にこの労働力をも労働力そのものの所持者から買ったのだということによって、生産要素の総体は自分が生産資本だということをはじめから明示しているのであり、したがってまた生産過程そのものも産業資本の生産的機能として登揚するのであって、それと同様に、貨幣と商品も同じ産業資本の流通形態として登場するのであり、したがってまた貨幣と商品との機能も、産業資本の流通機能として、すなわち生産資本の機能を準備するかまたはそこから生まれてくる流通機能として、登場するのである。貨幣機能と商品機能とは、ただ産業資本がその循環過程の別々の段階で行なわなければならない機能形態としての両者の関連によってのみ、ここでは同時にまたそれぞれ貨幣資本の機能であり商品資本の機能である。」
「どちらの場合にも、価値を生む価値であるという資本を特徴づける属性は、ただ結果として表わされているだけである。」「だから、実現された貨幣資本が再び貨幣資本としてのその特殊な機能を始めるやいなや、それはG´=G+gに含まれている資本関係をもはや表現しなくなるのである。」「生産資本の循環の場合も同じである。大きくなったP´は循環を再開するときにはPとして登場するのであって、単純再生産P…PでのPと同じである。」

第3節 貨幣蓄積

「gが元の事業の拡張に用いられるとしても、Pの素材的諸要因のあいだの割合やそれらの価値の割合はやはりgの一定の最小限の大きさを要求する。この事業で働いているすべての生産手段は、互いにただ質的な関係をもっているだけではなく、互いに一定の量的な関係をもっており、比例的な大きさをもっている。このような、生産資本にはいる諸要因の素材の割合と、それによって担われる価値の割合とは、gが生産資本の増加分としての追加生産手段と追加労働力とに、または生産手段だけに、転換されることが可能になるためにもっていなければならない最小限の大きさを規定する。」
「g自身の機能は、貨幣状態にとどまっていて何回もの価値増殖循環から、つまり外部から、十分な追加を受け取って、その積極的な機能に必要な最小限の大きさに達することであって、この大きさに達してはじめて、gは、現実に貨幣資本として、当面の場合ではすでに機能している貨幣資本Gの蓄積部分として、いっしょに貨幣資本の機能にはいることができるのである。それまでのあいだは、gは積み立てられて、ただ、形成過程にある成長中の蓄蔵貨幣の形態で存在しているだけである。つまり、ここでは貨幣蓄積、貨幣蓄蔵は、現実の蓄積すなわち産業資本の作業規模の拡張に一時的に伴う過程として現われるのである。」
「ここでは蓄蔵貨幣が貨幣資本の形態として現われ、また貨幣蓄蔵が資本の蓄積に一時的に伴う過程として現われるのであるが、それは、貨幣がここでは潜在的な貨幣資本の役割をするからであり、またそれをするかぎりでのことである。また、貨幣蓄蔵、すなわち貨幣形態で存在する剰余価値の蓄蔵貨幣状態は、剰余価値加現実に機能する資本に転化するために資本の循環の外で行なわれる機能的に規定された準備段階だからである。」

gが蓄積されて資本に追加されるのは、量質転化によるのであるが、ここでの量質転化は、媒介的である。すなわち、g自身による量的変化によって質的変化がもたらされるのではなく、gは他から媒介的に増加されて、媒介的な質的変化に結びつくのである。

第4節 準備金

二つの否定の否定が統一されるには、さまざまな条件が必要である。ヘーゲルの弁証法では、その点が十分に扱われていない。それは、否定の否定を担う実体が観念であることからくる。ところが、マルクスやエンゲルスの弁証法は、見る通り、この点が克服されている。
観念が運動を担う主体として実体化されると、例えば、本来は自然発生性・自然成長性であるものが目的意識性として取り扱われたり、矛盾を担っていないものが論理的強制によって矛盾を担うものと取り扱われたり、媒介的統一が直接的同一として扱われたり、敵対的矛盾が非敵対的矛盾として取り扱われたりする場合がある。ヘーゲルの観念的弁証法を見ていく場合、観念論的体系を無理やり構築する必要性のために、捻じ曲げられ窒息させられた弁証法の側面を、注意深く区別して考察せねばならない。

「もし過程W´…G´が正常な限度を越えて延びるならば、つまり商品資本の貨幣形態への転化が異常に妨げられるならば、あるいはまた、この転化は行なわれても、たとえば貨幣資本が転換されるべき生産手段の価格が循環の始まったときの水準よりも高くなっているならば、そのような場合には、蓄積財源として機能している蓄蔵貨幣を用いてそれに貨幣資本またはその一部分の代わりをさせることができる。このようにして、貨幣蓄積財源は、循環の撹乱を調整するための準備金として役だつのである。」

第3章 商品資本の循環

「商品資本の循環を表わす一般的な定式は次のようになる。W´−G´−W…P…W´」
「W´は前述の二つの循環の産物として現われるだけではなく、それらの前提としても現われる。」「W´がある一つの産業資本の循環のなかでWとして現われるのは、この資本の形態としてではなく、生産手段がその生産物であるかぎりでの別の一つの産業資本の形態としてである。第一の資本のG−W(すなわちG−Pm)という行為は、この第二の資本にとってはW´−G´なのである。」

「どの場合にもつねにW´は資木価値・ブラス・剰余価値に等しい商品資本として循環を始めるのである。」
「ただWそのものの循環のなかでのみ、W=P=資本価値は、W´のうちの剰余価値をなしている部分、すなわち剰余価値がひそんでいる剰余生産物から分離されることができるのであり、また分離されなければならないのであって、・・・この二つのものは、W´がG´に転化しさえすれば、いつでも分離可能になるのである。」
「W´…W´という形態では、総商品生産物の消費が資本そのものの循環の正常な進行の条件として前提されている。労働者の個人的消費と、剰余生産物中の蓄積されない部分の個人的消費とは、個人的消費の全体をなしている。だから、消費は、その全体から見て−個人的消費としても生産的消費としても−W´の循環にその条件としてはいるのである。」
「形態TとUでは、総運動が前貸資本価値の運動として表わされている。形態Vでは、価値増殖された資本が、総商品生産物の姿をとって、出発点になっており、運動する資本、商品資本の形態をもっている。それが貨幣に転化してから、はじめて、この運動は資本の運動と収入の運動とに分かれる。一方では個人的消費財源への、他方では再生産財産への、社会的総生産物の分割が、また両者への各個の商品資本についての生産物の特殊な分割が、この形態では資本の循環のなかに含まれているのである。」
「W´…W´では、商品形態にある資本が生産の前提とされている。それは、第二のWとなって再びこの循環になかで前提として現われる。もしこのWがまだ生産または再生産されていなければ、循環は阻止されているのである。このWは大部分は別の産業資本のW´として再生産されなければならない。この循環ではW´は運動の出発点、通過点、終点として存在しており、したがって、いつでも存在している。それは再生産過程の恒常的な条件である。」

「循環W…W´は、その軌道のなかでW(=A+Pm)の形態にある他の産業資本を前提しているからこそ(またPmはいろいろな種類の他の資本、たとえばわれわれの場合では機械や石炭や油などを包括しているからこそ)、この循環そのものが次のようなことを要求するのである。すなわち、この循環を、ただ、循環の一般的な形態として、すなわち各個の産業資本を(それが最初に投下される場合を除き)そのもとで考察することができるような社会的な形態として、したがってすべての個別産業資本に共通な運動形態として考察するだけではなく、また同時に、いろいろな個別資本の総計すなわち資本家階級の総資本の運動形態として考察することを要求するのであって、この運動では各個の産業資本の運動はただ一つの部分運動として現われるだけで、この部分運動はまた他の部分運動とからみ合い他の部分運動によって制約されるのである。たとえば、われわれが一国の一年間の総商品生産物を考察して、その一部分がすべての個別事業の生産資木を補填し他の部分がいろいろな階級の個人的消費にはいって行く運動を分析するならば、われわれはW´…W´を、社会的資本の運動形態としても、また社会的資本によって生産される剰余価値または剰余生産物の運動形態としても、考察するのである。社会的資本は個別資本の総計(株式資本も含めて、また政府が生産的賃労働を鉱山や鉄道などに充用して産業資本家として機能するかぎりでは国家資本も含めて)に等しいということ、また、社会的資本の総運動は個別資本の諸運動の代数的総計に等しいということ、」
「W´…W´という循環では、最初に前貸しされる資本価値はただ運動を開始する極の一部分をなしているだけであり、したがって運動ははじめから産業資本の全体運動として示されているのであるが、このような循環はただW´…W´だけである。この全体運動は、生産資本を補填する生産物部分の運動でもあれば、また剰余生産物をなしていて平均的に一部分は収入として支出され一部分は蓄積の要素として役だつべき生産物部分の運動でもある。収入としての剰余価値の支出がこの循環に含まれているかぎり、それには個人的消費も含まれている。しかしまた、この個人的消費は、出発点の商品Wが、なんらかの任意の使用財として存在するということによっても、含まれている。しかし、資本主義的に生産された物品は、その使用形態がそれを生産的消費用にしようと個人的消費用にしようと、あるいはまたその両方にしようと、とにかくすべて商品資本である。」
「W´…W´では総生産物(総価値)が出発点なのだから、そこでは、生産性に変化がなくても拡大された規模での再生産が行なわれうるのは、ただ、(対外貿易を無視すれば)剰余生産物中の資本化される部分のうちに追加生産資本の素材的諸要素がすでに含まれている場合だけだということが示されている。したがって、ある年の生産が次の年の生産の前提として役だつかぎり、またはそれが同年内の単純再生産過程と同時に行なわれうるかぎり、剰余生産物は、ただちに、追加資本として機能することができるような形態で生産されるということも、示されている。生産性の増大は、資本素材の価値を高くすることなしに、ただ資本素材の量だけをふやすことができる。しかし、それは、そうすることによって価値増殖のための追加材料を形成するのである。」
W´…W´はケネーの経済表の基礎になっている。そして、彼がG…G´(重商主義がそれだけを切り離して固守した形態)に対立させてこの形態を選んだということ、そしてP…Pを選ばなかったということは、偉大な正確な手腕を示すものである。」

第4章 循環過程の三つの図式

否定の否定を循環過程・運動として把握することができると、それが全体・普遍を構成し、各部分・各契機はそれぞれその中で特殊な位置づけを与えられる。これはそれ以前と異なって、各契機が全体の中での相対的位置づけを与えられるということである。
その統一的運動は、その中に「中断」を含む矛盾した過程である。しかし矛盾を含む過程こそが、運動過程の正常な姿なのである。
しかし、その静止・中断が、運動にとっていつも非敵対的とは限らない。それが敵対的関係になると運動の中止・破壊につながる。

総過程は生産過程と流通過程との統一として表わされる。生産過程は流通過程の媒介者になり、また逆に後者が前者の媒介者になる。」
すなわち、生産過程と流通過程は、循環過程の中で、矛盾した、相互浸透の関係にあるということである。その相互浸透の結果が、三つの循環過程であった。
「これらの循環のそれぞれが、いろいろな個別産業資本のとる特殊な運動形態と見られるかぎりでは、この相違もやはりただ個別的な相違として存在するだけである。しかし、現実には、どの個別産業資本も三つの循環のすべてを同時に行なっているのである。この三つの循環、資本の三つの姿の再生産形態は、連続的に相並んで行なわれる。」「どの形態、どの段階にある資本の再生産も、これらの形態の変態や次々になされる三つの段階の通過と同じに、連続的である。だから、ここでは総循環はその三つの形態の現実の統一なのである。」
資本の循環過程は、不断の中断であり、一つの段階を去り、次の段階にはいることである。それは、一つの形態を捨て、別の形態で存在することである。これらの段階のそれぞれが次の段階の条件になるだけではなく、また同時にこれを排除するのである。」
「それゆえ、連続的に行なわれる産業資本の現実の循環は、ただ単に流通過程と生産過程との統一であるだけではなく、その三つの循環全部の統一である。しかし、それがこのような統一でありうるのは、ただ資本のそれぞれの部分が循環の相続く諸段階を次々に通り過ぎることができ、一つの段階、一つの機能形態から次のそれに移行することができ、したがってこれらの部分の全体としての産業資本が、同時に別々の段階にあって別々の機能を行ない、こうして三つの循環のすべてを同時に描くというかぎりでのことである。各部分が次々に続くことは、ここでは、諸部分が相並ぶことを、すなわち資本の分割を、条件としている。」「しかし、生産の連続性の条件をなす〔各部分の〕並列は、ただ資本の諸部分が次々に別々の段階を通って行く運動によってのみ存在する。この並列はそれ自体この継起の結果にほかならない。」「総生産過程が同時に再生産過程であり、したがってまたその各契機の循環でもあるということは、総生産過程のための、またことに社会的資本のための、一つの必然的な条件である。」「資本は全体としては同じときに空間的に相並んで別々の段階にあるわけである。しかし、各部分は絶えず順々に一つの段階、一つの機能形態から次のそれに移って行き、こうして順々にすべての段階、すべての機能形態で機能して行く。すなわち、これらの形態は流動的な形態であって、それらの同時性はそれらの継起によって媒介されているのである。」「三つの循環の統一のなかにはじめて総過程の連続性−前述のような中断ではない―は実現されている。社会的総資本はつねにこの連続性をもっているのであり、社会的総資本の過程はいつでもこの三つの循環の統一をもっているのである。」
資本は、ただ運動としてのみ理解できるのであって、静止している物としては理解できないのである。」

「もし社会的資本価値が価値革命にさらされれば、彼の個別資本はこの価値運動の諸条件をみたすことができないためにこの革命に敗れて没落するということも起こりうる。価値革命がいっそう急性になり頻繁になるにつれて、独立化された価値の自動的な運動、不可抗力的な自然過程の力で作用する運動は、個々の資本家の予見や計算に反してますます威力を発揮し、正常な生産の進行はますます非正常な投機に従属するようになり、個別資本の生存にとっての危険はますます大きくなる。こうして、このような周期的な価値革命は、それが否定すると称するものを、すなわち価値が資本として経験し自分の運動によって維持し強調する独立化を、確証するのである。」
「過程を進行しつつある資本のこのような変態列には、循環の中で生じた資本の価値量の変化と最初の価値との不断の比較が含まれている。」
「過程がまったく正常に進行するのは、価値関係が不変な場合だけである。実際には、循環が繰り返されるあいだに諸撹乱が相殺されるかぎり、過程は進行する。攬乱が大きければ大きいほど、それらが相殺されるまで待つことができるためには、産業資本家はますます大きな貨幣資本をもっていなければならない。そして、資本主義的生産が進行するにつれて各個別生産過程の規模が拡大され、またそれにつれて前貸しされる資本の最小限が大きくなるのだから、前述の事情が他の諸事情に加わって、ますます産業資本家の機能を個々別々の、または結合された、巨大な貨幣資本家の独占に転化させるのである。」

「ここでついでに注意しておきたいのは、もし生産要素の価値変動が生ずるならば、一方の形態G…G´と他方の形態P…PおよびW…W´とのあいだに一つの相違が現われるということである。」
「貨幣資本として登場する新たに投下される資本の定式としてのG…G´では、」「ただ新たに投下される貨幣資本の量が影響を受けるだけである。」
「循環P…P´とW´…W´が」「ここでは、直接に影響を受けるのは、最初の投資ではない。それを受けるのは、すでに再生産過程にはいっていてもはや最初の循環にあるのではない産業資本である。つまりW…W´=A+Pmであり、商品から成っているかぎりでの自分の生産要素への商品資本の再転換である。」
「資本主義的生産様式がすでに発展しており、したがって優勢になっている時代には、流通段階G−W=A+PmではPmすなわち生産手段となる諸商品の一大部分はそれら自身が他人の機能中の商品資本であろう。」「産業資本が貨幣かまたは商品として機能している流通過程のなかでは、産業資本の循環は、貨幣資本としてのそれであろうと商品資本のそれであろうと、非常にさまざまな社会的生産様式−といっても同時に商品生産であるかぎりでのそれ―の商品流通と交錯している。」「産業資本の流通過程を特色づけるものは、諸商品の出生地の多方面的性格であり、世界市場としての市場の存在である。他国の商品について言えることは、他田の貨幣についても言える。商品資本は他国の貨幣にたいしてただ商品として機能し、この他国の貨幣はこの商品資本にたいしてただ貨幣として機能する。貨幣はここでは世界貨幣として機能するのである。」「しかし、資本主義的生産様式の傾向は、あらゆる生産をできるかぎり商品生産に変えることである。そのための主要手段は、まさに、あらゆる生産をこのように資本主義的生産様式の流通過程に引き入れることである。そして、発展した商品生産こそは資本主義的商品生産なのである。産業資本の侵入はどこでもこの転化を促進するのであり、それとともにまたすべての直接生産者の賃金労働者への転化をも促進するのである。」「産業資本の流通過程にはいる諸商品・・・は、その出所、それが出てくる生産過程の社会的形態がなんであろうと、産業資本そのものにたいしては、すでに商品資本の形態で、商品取引資本または商人資本の形態で、相対する。そして、この商人資本は、その性質上、あらゆる生産様式の商品を包括しているのである。」「資本主義的生産様式は生産の大規模を前提するので、また必然的に販売の大規模をも前提する。つまり、個々の消費者へのではなく、商人への販売を前提する。」
「産業資本の個別的循環過程のただ一部分をなすだけの産業資本の流通過程は、一般的な商品流通のなかの一連の過程を表わすにすぎないかぎりでは、前に(第一部第三章)展開された一般的な諸法則によって規定されている。」「しかし、一般的な商品流通の諸法則が妥当するのは、ただ資本の流通過程が一連の単純な流通事象をなしているかぎりでのことであって、これらの流通事象が個別産業資本の循環の機能的に規定された諸段階をなしているかぎりでは、妥当しないのである。」「個別資本を自分のただ独立に機能しているだけの構成部分として含んでいる社会的総資本のいろいろな構成部分が、−資本についても剰余価値についても―どのようにして流通過程で互いに補填されるかは、資本流通の諸事象にも他のすべての商品流通にも共通な、商品流通上の単なる諸変態のからみ合いからは、明らかにならないのであって、別の研究方法を必要とするものである。」

「人々はこれまで現物経済と貨幣経済と信用経済とを社会的生産の三つの特徴的な経済的運動形態として対比してきた。」「発展した資本生義的生産では、貨幣経済はただ信用経済の基礎として現われるだけである。したがって、貨幣経済と信用経済とはただ資本主義的生産の別々な発展段階に対応しているだけであって、けっして現物経済にたいする別々な独立な交易形態ではないのである。」

「資本家が自分の資本を価値増殖する率は、彼の供給と彼の需要との差が大きければ大きいほど、すなわち彼の供給する商品価値が彼の需要する商品価値を越える超過分が大きければ大きいほど、ますます大きい。彼の供給と需要との一致ではなく、可能なかぎりの不一致が、彼の供給が彼の需要を超過することが、彼の目的なのである。個々の資本家について言えることは、資本家階級についても言える。資本家がただ産業資本の人格化でしかないかぎりでは、彼自身の需要は生産手段と労働力とにたいする需要だけである。Pmにたいする彼の需要は、その価値の点から見れば、彼の前貸資本よりも小さい。彼が買う生産手段の価値は彼の資本の価値よりも小さく、したがって彼が供給する商品資本の価値に比べればもっとずっと小さいのである。」
ここで、マルクスは、「回転の考察」を入れているが、基本的には結論は同じである。
「だから、この回転は彼の総供給にたいする彼の総需要の割合を少しも変えるものではなく、総需要はやはり総供給よりも五分の一だけ小さい。」「とにかく、彼の総資本の回転が年一回ならば、彼の年間需要はつねに5000ポンド・スターリングで、彼の最初の前貸資本価値に等しいのであるが、この需要は資本の流動部分に関してはふえて行き、他方、資本の固定部分に関しては絶えず減って行くのである。」

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