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「自然の弁証法」ノート


私たちの目の前には、「合理的な弁証法」論理の見本が、「資本論」としてある。だから、資本論を論理学として読み直すことによって、弁証法論理を把握することができよう。しかし、「資本論」の中には、ほとんど弁証法についての直接的な解説はない。むしろ、それを意識的に避けているようにも見受けられる。
マルクスには、弁証法だけを取り出して、体系的に解説したものはない。しかし、エンゲルスには、弁証法を、ヘーゲルの論理学に学びながら、法則的に把握した論文の断片が残されている。「反デューリング論」の中のいくつかの章と「自然の弁証法」の手稿が、それである。そこで、エンゲルスのこれらの文に依拠しながら、弁証法を浮き彫りにしてみよう。
 すでに弁証法を正しく理解して使っている方なら誰でも同意するように、我々は幸運なことに、すでに弁証法のすぐれた解説書を持っている。それは、三浦つとむの「弁証法はどういう科学か」(講談社現代新書)である。従って、いまさらエンゲルスから弁証法を説く必要はないともいえるが、ここでは、弁証法の一般論を取り上げるのではなく、あくまで、エンゲルスが書き残した手稿から、彼の意図を読み取ろうとしたものである。

1、ヘーゲル弁証法の転倒

まず、ヘーゲルの弁証法の基本的性格を、エンゲルスはどのように把握したのか、を問題にしなくてはならない。それは、「「反デューリング論」への旧序文」と、「資本論第二巻序文」の中にある。
 「旧序文」には、「合理的弁証法に対してのヘーゲルの弁証法」の関係に「機械的熱学に対しての熱素説、ラボアジェの学説に対してのフロギストン説」があると書かれてある。
また、「資本論第二巻第2版後記」には、この説明に対応するかのような、燃素=フロギストン説の解説箇所がある。フロギストン説では、「すべての燃焼の本質は、燃焼体から他の仮説的物体、すなわち燃素という名で呼ばれた絶対的な可燃物質が分離する」という。「この説は、ときにこじつけもなくはなかったが、当時知られていたたいていの化学現象を説明することができた。」
無論、このようなフロギストンなるものは、実際には存在していない。これは、燃焼という現象をなんとか「化学的に説明」しようとして、科学者(哲学者)が考え出した空想の産物である。しかし、それによって「たいていの化学現象を説明することができた」ということが、フロギストンというものが存在すると信じられた理由である。
そこに、プルースリとシェーレが酸素を析出したが、「彼らには自分たちの手にしたものがなんであるかはわからなかった。」それは、「彼らは・・・燃素説の諸範疇に相変わらずとらわれていた」からである。
しかし、ラボアジェは、それが酸素であること、「燃焼では不可思議な燃素が燃焼体から逃げていくのではなく、この新しい元素が燃焼体と化合するのだということを発見し、こうして、その燃素説形態では頭で立っていた全化学をはじめて脚で立つようにしたのである。」

フロギストンは、燃焼現象を説明するために考え出した仮説的物体である。燃焼する場合、フロギストンが燃焼体から逃げていくと考えたが、これは、ちょうど酸素の動きと逆になっている。実際には、燃焼の場合、酸素が燃焼体の中に入っていくのである。
しかし、これでも、燃焼現象を合理的に説明できるはずである。なぜなら、プラス1を足すところを、マイナス1を引いても、結果は同じだからである。
エンゲルスは、人間の認識を外部の世界の反映と捉える反映論の立場に立っているから、このフロギストンというものも、外部の世界の反映であると把握する。では、どういう種類の反映なのか。
フロギストン説や熱素説やヘーゲルの弁証法は「現実の関係が頭で立たされて鏡像が原形と取り違えられている諸学説、したがって上記のようなひっくり返しを必要とする諸学説」であるという。フロギストン説は、人の頭の中にだけしか存在せず現実の中に存在しないフロギストンという物体を、現実の中に存在するかのように考えているわけではあるが、それが、現実の燃焼現象を合理的に説明するために持ち込まれているということから、フロギストンの運動は、酸素の運動をそれなりに反映する。しかし、酸素そのものではなく、酸素という原形の鏡像として。鏡像というのは、原形の鏡に映った像であり、原形の反映という意味と同じである(Wの(15)に「鏡像であるところの様々な科学」という表現がある)が、フロギストンの運動は、酸素に対して、ちょうど上下左右が反対になっている。ここでは、外部の現象の、人間の認識への逆立の反映像ということであろう。
ラボアジェが行ったことは、この逆立像を正立像に戻したことであり、鏡像を原形に直したのであり、正立像の反映にしたのであり、それをエンゲルスは、「はじめて脚で立つようにした」といったのである。「けれどもそれだからといってフロギストン説の実験的諸成果がとりのけられたのでは全然なかった。その反対である。それらは依然存続し、ただそれらの定式付けがひっくり返されてフロギストン説の言葉から今日通用している化学の言葉に翻訳されただけであり、そしてその限りそれらの妥当性を維持しているのである。」

「燃素説形態では頭で立っていた全化学をはじめて脚で立つようにした」というエンゲルスの表現は、マルクスの「資本論第一巻序文」の中の「弁証法はヘーゲルにあっては頭で立っている。神秘的な外皮の中に合理的な核心を発見するためには、それをひっくり返さなければならない」という表現と同一である。ここにヘーゲルの弁証法を理解する鍵がある。
ヘーゲルの理論は概念=理念が主体であり、それが自己展開している。「理念という名の下に一つの独立な主体にさえ転化させている思考過程」を、ヘーゲルは「現実的なものの創造者」としているが、それはまさに、フロギストンの運動である。燃焼現象が、酸素の代わりにフロギストンの運動として展開されたように、物質的な運動が理念の運動として表されており、「これは、逆立ちした鏡像であって、観念的なものは、物質的なものが人間の頭の中で転換され翻訳されたもの」なのである。しかし、フロギストンが酸素によって置き換わったからといって、フロギストン説の下で得られた成果は、翻訳されてそのまま残っている。同様に、「弁証法がヘーゲルの手の中で受けた神秘化は、彼が弁証法の一般的な諸運動形態をはじめて包括的に意識的な仕方で述べたということを、決して妨げるものではない」のである。
ヘーゲルの逆立像の原形は、物質的なものの運動諸形態なのである。
「空想的なフロギストンの実在的な対極」が酸素とわかったならば、次にフロギストン説の言葉を酸素の言葉に翻訳しなければならない。同様に、ヘーゲルの理念の実在的な対極が物質的なものであることがわかったならば、その理念の運動を物質的なものの運動=合理的な弁証法の一般的な運動諸形態に翻訳しなければならない。

マルクスは「経済学批判序説」「3経済学の方法」の中で、ヘーゲル論理学がどうして生まれたのか、ヘーゲルのフロギストンがどうして生まれたのか、その根拠を述べている。
マルクスは、経済学を研究した。それは、「表彰された具体的なものからますます希薄な一般的なものに進んでいき、ついには、もっとも単純な諸規定に到達してしまう」という道であった。つまり、資本や賃労働やその他の具体的な研究対象から出発して抽象をしていった結果、単純な「商品」という規定に到達したということである。
 「そこから今度は、再び後方への旅が始められるはずで、ついに私は、ふたたび人口に到達するであろう」、つまり、抽象の出発点であった具体的なものに、到達するというのである。この「旅」が、この本で展開されている著述法(資本論の著述法)なのである。
 この抽象から具体へという方法が、「科学的に正しい方法」といっている。この方法をマルクスは上向法と呼んでいるので、具体から抽象へという方法を、下向法と呼ぶとすると、下向法は、科学が作られていく過程であり、具体的な対象を分析し、抽象を重ね、単純な概念を作っていく過程ということになる。資本などを分析して、商品・交換価値という単純な概念に到達した過程である。
 その反対に、上向法は、科学が整理されて体系化されていく過程であり、単純な概念から出発し、複雑で具体的な概念が形成されてきた道をたどっていく過程である。商品から資本が形成されるのを説明する過程である。経済学批判(資本論)という本は、マルクスの研究の成果を記してあるのだから、単純・抽象から具体的・複雑なものへという展開がなされている。
この文章の先に、ヘーゲルの批判がある。マルクスは、この「後方への旅」において「抽象的な諸規定が思考の道を経て具体的なものの再生産へ導かれる」といい、「そこで、へーゲルは、実在的なものを、自分自身のうちに総括し、自分を自分のうちに深化し、かつ自分自身から動き出す思考の結果であるとする幻想に陥った」と喝破し、これは「思考にとっての仕方」であって、「具体的なもの自身の成立過程ではない」と指摘している。
 理念というフロギストンが、抽象から具体へと自己展開する成立過程は、フロギストンを持ち込んだという間違いはあるが、その当時の科学の体系化の過程をそれなりに正しく把握しているのである。ただし、「逆立ちした鏡像」として。
  ヘーゲルの上向法の現実的基礎は、こういう科学の体系化という思考の仕方にあるということ、これが、ヘーゲルの逆立像の原形であること、また、ヘーゲルは、上向法を下向法という対立物の統一と連関の中で把握せず、両者を切り離してしまったので、上向法という頭の中でだけ行われている思考の能動的な動きを、思考を担っている頭脳の働きと見ずに、思考自身の働きに帰し、思考自身が実体であるかのごとき錯覚に陥り、思考である理念が自ら展開し具体的なもの自身が成立するという幻想を抱いたとしたことである。これは、具体的なものの成立過程とは異なる。
「叙述の仕方は、形式上、研究の仕方とは区別されなければならない。研究は、素材を細部にわたってわがものとし、素材のいろいろな発展形態を分析し、これらの内的な紐帯を探り出さねばならない。この仕事をすっかりすませてから、はじめて現実の運動をそれに応じて叙述することができるのである。これがうまくいって、素材の生命が観念的に反映することになれば、まるで先験的な構成がなされているかのように見えるかもしれないのである。」(「資本論第一巻第2版後記」)
「だから理論的な方法においてもまた、主体が、社会が、いつも前提として表象に浮かべられていなければならない。」この言葉は、上向法は、下向法を前提とし、それをうちに含んでいるのであり、そうであるからこそ、上向できるということをいっているのである。
 「頭の中に思考された全体として現れる全体は、思考する頭の産物である」「現実の主体は、いままでどおり頭の外側に、その自立性をたもちつつ存在し続ける」 これが、ヘーゲル観念論に対する、唯物論的な批判である。

今、私の机の上にエンピツとボールペンとサインペンがある。これらの共通する側面を取り上げ一つの概念にまとめて、「筆記具」という抽象で把握できる。消しゴムやノートなどを入れると、更に、「文房具」という「抽象概念」で把握できる。ところで、「筆記具」や「文房具」というのは、私の頭の中だけにある思考の結果であって、目に前にあるエンピツとボールペンとサインペン以外に、「筆記具」や「文房具」が現実に存在しているわけではない。しかし、頭の中では、エンピツとボールペンとサインペン以外に、「筆記具」や「文房具」を切り離して別個に考えることができる。(これが、下向法である。)
 そこで今度は、逆の道を辿って、抽象度の高い方から「文房具」→「筆記具」→エンピツとボールペンとサインペンという具体的なものにまで体系的な説明をするのが、ここでいう上向法である。
ここで、目の前のエンピツより、抽象物の方がより根源的で、この世の中に「文房具」なるものが存在するはずだと考え、抽象度の高い方から「文房具」→「筆記具」→エンピツとボールペンとサインペンが生まれたという風に考えるのが、観念論である。この原則を厳密に守りながら、いろいろな自然から社会から精神の現象にまで拡大して適用していけば、いかなる学問体系が現れるか、想像していただくとよい、これがヘーゲルの理論である。

2、論理と歴史との統一の問題

科学の体系化では、上向法によって、単純な諸概念から具体的な諸概念へと展開がなされる。ところで、上向法は、「具体的なもの自身の成立過程ではない」としても、具体的なものから抽象された単純な諸概念は、理論上だけでなく、実際に歴史上存在したことがあるのだろうか。「これらの単純な諸カテゴリーは又、いっそう具体的な諸カテゴリーに先立って、独立の歴史的または自然的実在をもつのではなかろうか」。
ヘーゲルの場合、「思考の結果」「思考された全体」が直接的に実在するという観念論の立場に立つから、このような問いは生まれようもないが、唯物論の場合、反映論の立場に立つから、「思考の結果」が得られたならば、それが歴史とどのように照応しているのか、を改めて問題にしなくてはならない。すなわちこれが、ヘーゲルの観念論との違いであり、ヘーゲル批判なのである。
(観念論では、認識と論理と歴史は、直接に同一のものとして現れるが、唯物論の立場に立つ反映論では、論理と認識=体系化された論理と歴史とは媒介関係で把握される。)
この答えは「こととしだいによる」と、「序説」ではいう。

マルクスは、まず、例として、ヘーゲルの法哲学の中の法的占有(ここでは私的所有を意味する)という単純なカテゴリーと家族・種族という具体的なカテゴリーを取り上げ、その歴史的先行性を比較する。ヘーゲルの場合、法的占有→家族という順で扱われているが、私的所有は、家族・種族の下で出現し実在するが、原始共産制を念頭において、占有するが私的所有のない家族・種族が実在することを取り上げ、「占有が歴史的に家族に発展したとするのは、まちがいである」とコメントし、ヘーゲルの法哲学との違いを指摘している。更に、貨幣を取り上げ、商品交換の成立を宣言している貨幣は、商業の象徴的存在であり、その貨幣は、資本、銀行、賃労働という関係が支配的な発達したブルジョア社会のなかでは、資本などに対し従属的関係にあるが、まだ、資本などが生まれていないような前ブルジョア的な社会にも存在し、その場合には商業が重要な役割を演じており、貨幣が支配的な関係を表現しているとする。
このことから、上向法が、「実際の歴史的過程に照応している」といえるのは、貨幣のような「比較的単純なカテゴリーは、比較的未発達なひとつの全体の支配的諸関係、または、比較的発達したひとつの全体の従属的諸関係−そうした諸関係は、その全体が、比較的具体的なカテゴリーで表現されているような方向へ発展するまえから歴史的にはすでに実在していたのであるが−を表現することができる」からだとする。つまり、「その限りでは、もっとも単純なものから複雑なものへと上向していく抽象的な思考の歩みは、実際の歴史的過程に照応しているといえるだろう。」
 このことはエンゲルスによって、「論理的取り扱いは、実は、ただ歴史的形態と攪乱的偶然性というおおいを取り去っただけの歴史的な取り扱いにほかならない。」(「経済学批判」書評)と明言されている。

目の前のボールペンは、いろいろな工夫があちこちに施されていて、実にうまく作られていると感心してしまう。ボールペンがこのような構造をとるまでには、いろいろな段階を経てきたであろう。それらのコレクションを集めてきて、古い時代のものから並べれば、おそらく、原始的な原形から始まって、今に至るまでの発展の系列が現れるはずである。
また、そのボールペンの原形の前にも、別の筆記具の歴史があるであろう。人間が文字を記すという道具は、おそらく文字を作り出した太古の昔から、存在したと思われるからである。もしかしたら洞窟の壁に書いた色素を含んだ草木が、最初の筆記具かもしれない。
それはあたかも単純な筆記具という概念から、ボールペンという具体的な概念にまで、概念が形成され完成されていくようなものであろう。しかし、これらは、いずれもだれかが考案して作り出したものであるから、作り出した人々の思考の結果の反映のはずである。(これはあくまで例えとしていっているので、私自身は、筆記具の歴史を知らない。念のため。)
一方、人間が作り出したものでない場合にも、このような発展の歴史が辿れるのではないか、これがここでの問題なのである。
マルクスはここで、「もっとも単純なものから複雑なものへと上向していく抽象的な思考の歩みは、実際の歴史的過程に照応している」と結論付けている。
ところで今では、文字を書くのに、パソコンとキーボードとプリンタを使っている。その少し前は、ワープロであった。今は、エンピツなどは、学校はともかく、私にとっては筆記に関して「支配的」ではない。しかし、ワープロが登場する前までは、エンピツは「支配的」であった。パソコンが普及し、文房具の一角を占める状況が「比較的発達したひとつの全体」として一般化して以来、筆記具は、パソコンとキーボードとプリンタという形に変わったのである。

反面、論理が歴史的過程に照応していない側面もある。
貨幣は、「最も開花した古代、つまりギリシャ人やローマ人のもとでさえ、近代ブルジョア社会で前提されているような貨幣の完全な発達は、ただその崩壊の時代にあらわれたにすぎない。こうして、この全く単純なカテゴリーは、歴史的には、社会の最も発展した状態にならなければ、集約的な形では現われないのである。」ブルジョア社会では、すべての商品が貨幣と交換され、さらに貨幣は国家の中で紙幣として発展し、貨幣制度として確立している。しかし、このような貨幣の全面的な発展は、ブルジョア社会においてのみ見られるものであり、「賃労働がその基礎となるとき、はじめて商品生産は自分を全社会に押し付ける」(資本論第七篇第22章)からである。「たとえ比較的単純なカテゴリーが比較的具体的なカテゴリーにさきだって歴史上実在していたとしても、それは、内包的にも外延的にも完全に発展した形では、なんといってもただ複雑な社会形態にしか属し得ないものである。ところが、比較的具体的なカテゴリーのほうは、あまり発展していない社会形態でも単純なカテゴリーよりはずっと完全に発展していたのである。」
更に「労働」という概念を取り上げ、この単純な概念は、単純であるがゆえに、いわば、その単純であり抽象的であるということが誰の目にも明らかになるためには、それを含むすべてのものがこれ以上展開できないというくらいにあらゆる諸形態で展開されていなければならず、従って全面的に発展した社会でしか全面的に理解されないし、そのような社会では単純な概念は従属的位置を占めている。「こうしてもっとも一般的な抽象がすべてのものに共通に成立するのは、概して、ただ、ひとつのものが多くのものに共通にあらわれるもっとも豊富な具体的発展においてだけである。」
そうすると、「最も発展した状態」には、単純なカテゴリーも具体的なカテゴリーも、すべて現れるということになる。
ブルジョア社会は、もっとも発展した、しかももっとも多様な、生産の歴史的組織である。だから、この社会の諸関係を表現する諸カテゴリーは、この社会の仕組みの理解は、同時に又、すでに没落してしまったいっさいの社会形態の仕組と生産諸関係とを洞察することを可能にする、そうして、こうした過去の社会形態の破片と諸要素とをもってブルジョア社会は築かれているのであり、それらのうち、部分的にはなお克服されない遺物がこの社会でも余命を保っているし、ただの前兆にすぎなかったものが完全な意義を持つものにまで発展している等々である。要するに、人間の解剖は、猿の解剖に対するひとつの鍵である。これに反して、低級な種類の動物にある、より高級な動物への暗示が理解されうるのは、この高級なものそのものがすでに知られているばあいだけである。
人間の脳は、猿の脳より、特に前頭葉の構造に関して、発展している。猿の脳にも、前頭葉はある。しかし、猿の脳では、それは萌芽形態であって、その重要性は、猿の脳を取り扱っているだけでは、明確にならない。その重要性は、人間という高級な動物の脳を理解して初めて、その進化における位置づけを正しく与えることができる。
マルクスの言は、経済学だけでなく、発展を扱う、あらゆる科学においても当てはまる重要な真理である。社会科学は、近代ブルジョア社会を正面に据えて研究せよ、ということである。
しかし、注意が必要である。「ブルジョア経済学の諸カテゴリーは、・・・ほかのすべての社会形態を、発展させたり縮小させたり戯画化させたりなどして、内に含むことはできるが、つねに本質的差異を持っているのである。」
したがって、「近代ブルジョア社会のなかにおける経済的諸関係の組立」の記述の順序は、つぎのようになる。
「だから経済的カテゴリーを、歴史上それらが規定的なものであった順序にならばせることは、実行もできないしまたまちがいであろう。むしろそれらのカテゴリーの序列は、それらが近代ブルジョア社会のなかでお互いに対してもつ関連によって規定されるのであるが、この関係たるやそれらのカテゴリーの自然的な関連としてあらわれるものの、または歴史的発展の順序に照応するものの、まさに逆である。」地代、土地所有が歴史的に先行していたとしても、経済学上では、資本から地代へと記述されなければならない。これが「経済学批判」および「資本論」の記述の順番であり、体系化された論理=科学と実際の歴史との関係である。
体系化された科学の中で扱われる概念の順番が明らかになったので、次に、その構成のあり方である弁証法に移ろう。

3、対立物の統一

エンゲルスは、当時の獲得された自然科学の成果を、弁証法を用いて総括し体系化しようとしたようである。「自然の弁証法」の断片は、その研究の経過を示している。ここでは、エンゲルスの研究の中から、「対立物の統一」に関する議論を取り上げよう。

エンゲルスは、「フォイエルバッハ論」の中で、弁証法を「外部の世界および人間の思考の運動の一般的な諸法則に関する科学」とよび、「自然の弁証法」の中で、主要な法則として「量から質への転化、及びその逆、の法則」「対立物の浸透の法則」「否定の否定の法則」の三つを挙げている(W 弁証法)。
 「外部の世界および人間の思考の一般的な科学」というものは、ヘーゲルの場合、「論理学」に相当するので、唯物論の場合にも、これを論理学と呼ぶとすると、その「運動の一般的な諸法則に関する科学」が弁証法であり、それを法則として定式化したものが、その三法則である。(「非運動の一般的な諸法則に関する科学」が形式論理学となろうか。)
レーニンの「対立物の統一」というのは、弁証法の原理に相当するもので、弁証法の核心を表現したということであろう。それに対してエンゲルスの3法則は、原理に対する定理のような位置を占めていると考えてよかろう。弁証法の構造の法則化ということであろう。
 「第一番目の法則は、「論理学」第一部、有論のうちで。」第二番目の法則は、ヘーゲルの「本質論の全体を占めている」とされており、「第三番目の法則は、全体系の構築に対する基礎法則として現われている」としている。ヘーゲルの論理学では、一つの概念の質と量の関係が有論で、概念の対立する関係又は対立する概念の関係が本質論で扱われている。第3番目の法則は表面にはでてこないが、概念から概念へ移り行く場合に現れている。これらのヘーゲルの弁証法をエンゲルスが合理的な弁証法として定式化したのが、先の3法則であろう。

エンゲルスは、「X 運動の基本諸形態」に関して、物質的なものの運動を論ずる。エンゲルスの時代には、まだ今日のような科学、特に生物化学、の発展はなかった。そこで、「有機的な運動諸形態はとりのけて」おいて「無生命の自然の運動諸形態」を取り上げている。
 ここで物質や運動とは、「感性的に知覚することのできる様々の沢山の物をそれらの共通の諸特性に従って総括する要約以外の何ものでもない」。つまり、諸々の物質や運動形態の総体から抽象した概念である。(V−b17)また、「運動は物質の現存様式として、物質の内属的な属性として、捉えられ」ている。「これらの諸物体が一つのつながりのなかにあるということ、このことの中に既に諸物体が互いに作用しあうということが含まれている。そして諸物体のこの相対する相互の作用がまさに運動なのである。」
 これは、「物質は運動なしには考えられ得ない」ということであり、「物質なるものが何か与えられたもの、創り出すこともできなければ壊すこともできないもの」であれば「運動もまた同じく創り出すことも打ち壊すこともできないものである、ということが帰結する。」これは哲学が得ていた「運動の不可創造性と不可破壊性」の結論である。これを「宇宙に存在する運動の量が常に同じであるというデカルトの命題」として取り上げている。
この表現を、自然科学の「同一の法則に二通りの表現」として、「力の保存というヘルムホルツの表現」と「エネルギーの保存」とに見ている。

まず、自然科学の中で「最も低次な、最も単純な、諸形態」である「単純な位置変化」に関して検討する。それは、これがすべての運動に「結びついて」おり、「運動形態が高次であればあるほど、この位置変化はますます小さくなる」からである。資本論が、まず、商品の分析から出発したように。
 この位置変化は、「接近或いは離隔から成る」。「それらは互いに牽引しあうか或いは互いに斥撥しあうかである。」「一切の運動の基本形態は近付くこと及び遠ざかること、縮まることと拡がること、要するに牽引と斥撥という古くからの両極的な対立である。」つまり、位置変化という単純な運動形態を、牽引と斥撥の両極的な対立として把握するのである。牽引と斥撥とは、「運動の単純な形態」として把握されている。
 この対立物の把握の仕方は、ヘーゲルの本質論における「対立する概念の関係」を扱うことに相当する。その対立物の相互の関係を、エンゲルスは次のように表している。
一切の両極的な諸対立一般が相対して置かれた両極相互の相交流する活動によって条件付けられているということ、これら両極の分離と対置とはただこれら両極が組をなして互いに所属し合っているという共属性と両極の合一との内部でだけ成り立つこと、そして逆にそれらの両極の合一はただそれらの分離においてだけ、それらの共属性はただそれらの対置においてだけ、成り立つということ
これは、相対して置かれた対立物の相互規定の関係の見事な表現である。これは、後に見るように、相互浸透の基礎構造でもある。
「牽引と斥撥との交流変動の中に一切の運動が成立する。けれどもこの運動はそれぞれ個々の牽引が他の場所でそれに相当する或る斥撥によって消去されている場合にだけ可能なのである。」「運動の不可創造性と不可破壊性の法則は、宇宙間の各々の牽引運動が或る同価の斥撥運動によって補足されていなければならず、及びその逆、という表現、或るは・・・世界中の牽引全部の総和は斥撥全部の総和に等しい、という表現を得る。」
この対立物が、このように関係しあっているということを、エンゲルスは「運動そのものの個々の形態において」論証する。

まず、「中心天体の周りをまわる一個の惑星の運動を取ってみる。」
「惑星運動の一方の要素、直接に向心的な要素が重さ、すなわちその惑星と中心天体との間の牽引、によって表されるならばもう一方の要素、切線的な要素の方はガス球の個々の微粒子の根源的な斥撥の推移し変遷した形態においての一つの残骸として現れる。一個の太陽系の現存過程は今や牽引と斥撥との交代変動として現れ、この変動の中にあって斥撥が熱の形で宇宙空間に放出され、従ってこの系から段々に失われていくことによって牽引が徐々に優勢を獲得する。ここで斥撥として捉えられている運動形態が現代の物理学によって「エネルギー」で言い表されている運動形態と同じものであるということは一見してわかる。」

  次に「我が地球自身の上にある一個の物体塊をとってみよう。」「まず、最初に重さに抵抗して作用すること、次に重さを作用させること、・・・持ち上げてから落下させる」を論ずる。ここでも斥撥する運動=持ち上げること、と牽引する運動=重力の交互作用がある。ここでは「力が斥撥の反対物に対する、牽引に対する、或る別な表現として現れている。」落下運動は「極く僅かばかりの部分が空気の音波の振動に転化され、はるか大部分が熱に転化され、この熱は一部は抵抗している大気へ、一部は落下しつつある物体自身へ、最後に一部は打ち当たる地面へ、と伝えられたわけである。」「牽引、重さは、ヘルムホルツが正しく指摘したようにそれが以前にあったままにとどまり、厳密に言えば一層大きくなってさえいる。落下によって力学的には無くされてしまい、そして熱として再生したものはむしろ持ち上げられた物体に持ち上げによって伝えられた斥撥である。」

熱は・・・斥撥の1形態である。熱は固体の分子を振動させ、それによって個々の分子のつながりを弛め、遂に液の状態への移行が起こるまでにする。」云々。

「静電気及び磁気の諸現象にあっては、牽引と斥撥とが極性的に配分されているのをみる。この両運動形態の作用方式に関してどんな仮説を取るにしても、牽引と斥撥とはそれらが静電気または磁気によってよび起され、かつ妨げられずに展開しうる限り、互いに完全に補足し合っていて、このことが実にまた既に極性的な配分の本性から必然的に結果する通のものであるということ、このことを諸事実に直面した上では何人とても敢えて疑いはしない。」

「化学的な運動諸形態」ではどうか。エンゲルスは、水素と酸素が化合して水が形成され、その際エネルギーが放出される反応を例に引いて、こう評する。「はなはだ大多数の場合に、化合に関しては運動が放出されるのであり、分解に際しては運動が供給されなければならない。ここでもまた斥撥は概してこの運動の能動的な、運動に富む、または運動の供給を要求する、側面であり、牽引は受動的な、運動を過剰とし、そしてこれを放出する、側面である。」

「牽引と斥撥なる二つの単純な基本形態をもつのではなくて従属形態の一つの全系列をもつのであって、この系列のもとに前記の牽引斥撥二者の対立において全般的な運動の繰り込み繰り展がる過程が進行するのである。」「これら現象諸形態が事情次第で一つの形態から他の形態へと移行することによって、これらが一個の同じ運動の諸形態であるという実質を現象諸形態自身が行動によって示しているのである。」
 エンゲルスは、物質の運動諸形態を、牽引と斥撥という対立する概念の交流関係で把握する。(断っておくが、ここでは、エンゲルスのこの理論自体が正しいかどうかという問題を扱っているわけではない。あくまで、論理的な展開を扱っているのである。) ここでエンゲルスが示したと同じ論法が、資本論全体を貫いている。

エンゲルスは、この対立物の統一を機軸=根本的矛盾として展開される論理を、きわめて簡潔に「経済学批判の根底にある方法」として、「カールマルクス著『経済学批判』」において、次のように言い表している。
 「この方法において、われわれは、歴史上、事実上われわれの前にある最初のしかももっとも単純な関係から出発する。したがってここでは、われわれの目に前にある最初の経済的関係から、出発する。この関係をわれわれは分析する。それが一つの関係であるということのうちには、すでに互いに関係しあう二つの側面を持つということが含まれている。これらの側面のひとつひとつは、それ自身として考察される。そこから、それらが互いに関係しあう仕方、それらの交互作用があらわれてくる。そして解決を求める矛盾がうまれてくるであろう。・・・これらの矛盾もまた、実際問題としては、自己を展開し、おそらくその解決をみいだしているであろう。われわれは、この解決の仕方をたどって、それがひとつの新しい関係をつくりだすことによっておこなわれたことをみいだすであろう、そしてわれわれは、こんどは、この新しい関係のふたつの対立する側面を展開しなければならなくなり、こうした過程が続くのである」
 この展開の仕方が、弁証法的方法である。最初の関係―交互作用―矛盾の解決―新たな関係―・・・・である。
 ここでいう「最初の経済的関係」とは、商品の使用価値と交換価値のことである。この「直接の統一」である商品は、使用価値と交換価値という矛盾を背負って現わされている。ここでは、矛盾という言葉は、常識的な「敵対的」という意味を持ってはいない。使用価値と交換価値という対立物が商品の中に統一されているという意味で、矛盾という言葉を使っているだけである。なにも敵対しているわけではない。しかし、商品が使用価値であるとともに交換価値でもあるという意味で、二重の性格を持たされているので、矛盾した存在だといっているのである。
 注意しなくてはならないのは、ここで扱うのは、「完全に発展した商品」ということである。これは、典型的な資本主義の発展した社会の中での商品ということのほかに、すべての展開された「商品」である資本や労働力商品といった形態を抽象したものとして「商品」を扱っているということが含まれている。
使用価値と価値の交流関係は、「批判」で「商品は、使用価値と交換価値との直接的統一である」という記述以下で述べられている。これは、「矛盾の展開であるとともにその解決」である運動を可能にする形態を作り出すことである。これは、牽引と斥撥という対立物の交流が運動形態を作り出すということと同じ論理である。
この対立が運動を可能にするために、貨幣という別の矛盾を背負った存在を作り出すのである。この貨幣の世界では、使用価値と価値の対立は、価値の尺度(一般的等価物)と流通手段(一般的使用価値)という二つの対立となって現れる。
商品の矛盾を更に遡れば、この対立物は、生産力と生産関係に相当するもの、この対立物が生み出した別の対立物である。労働の生産力及び労働の生産関係が、私的所有という特殊な関係の下で対象化される結果、労働生産物は商品という形態を取るのであり、生産力と生産関係が、商品の使用価値と価値という対立となって現れるのである。
生産力と生産関係、使用価値と価値との対立物の両者の関係は、ちょうど自然弁証法ですべての運動を牽引と斥撥という対立物の関係から把握したのと同様である。運動形態が転化するに対し、牽引と斥撥がその形態を変えたように、生産力と生産関係が、使用価値と価値に形態を変えて現れたのである。
更に、資本論の目次を眺めればわかるように、資本の項は、絶対的剰余価値と相対的剰余価値の対立の統一として描かれ、その全体が、資本の生産過程と流通過程の統一として記述されている。これが、弁証法的方法であり、本質論の展開なのである。

本質論、実体論、現象論という区分けは、「資本論」の中では表面に現れてこない。しかし、内実として、保存されている。例えば、「経済学批判」では、主として第1章が本質論に相当し、第2章の「1価値尺度」「2流通手段」が実体論に相当し、「3貨幣」が現象論に相当する。「資本論」では、第1巻が本質論に、第2巻流通過程が実体論に、最後の第3巻資本の生産過程と流通過程の統一が現象論に相当すると考えてよい。そしてその全体が、弁証法的方法で統一されている。

4、対立物の相互浸透の法則

 さて、対立物の統一という原理と区別された場合の、「浸透の法則」は、マルクスの文の中で、「経済学批判序説」の中の「生産と消費」を扱った部分において扱われており、この法則を直接性と媒介性の統一された構造の観点から、説明している。
そこでは、生産と消費の対立物の浸透する関係が、3重の視点から、語られている。
「生産では、社会の成員が自然生産物を人間の欲望に適合させる(作り出す、形作る)。」「消費では、生産物が享楽の、個人的占有の対象となる。」「生産では、人が客体化され、消費では物が客体化される。」
@ 直接の同一性
これは「生産は消費であり、消費は生産である」ということである。抽象的に表現すると、「それらのおのおのが、直接に他のものである」「おのおのは、直接にその対立物である」。
「生産と直接に同一のものとしての消費」ということは、「生産することでその能力を発展させる個人は、また生産の行為でこの能力を支出し消耗する」、「第二に、生産手段の消費であり、・・・原料の消費でもあ」る。
 「消費と同一の生産」は、「たとえば消費の一形態である食物の摂取によって、人間が自身の肉体を生産する」ことである。
A 相互依存性
それぞれの一方が、他方の手段としてあらわれ、他方によって媒介されるということ。これは両者の相互依存性として表現される。つまり、一つの運動であり、この運動を通して、両者は互いに関連させられ、互いに欠くことのできないものとして現われるが、しかもなお、互いに外部のままの状態を続けるのである。」
 これは、「両者の間の一つの媒介する運動」であるという点に注意する必要がある。
 「生産は、消費のために、外的な対象として素材を提供する。消費は、生産のために、内的な対象として、目的として欲望をつくりだす。」消費は「生産物にはじめて主体を作り出す」。「それぞれ一方が他方にその対象を、生産は消費の外的な対象を、消費は生産の表象された対象を提供する」。
B 相互の完成
両者のおのおのが、自分を完成することによって他のものを作り出すのであり、自分を他方のものとして作り出すのである。」 「生産物は、消費においてはじめて最後の仕上げをうける。」「消費においてはじめて生産物は現実的な生産物になる」。「消費が新しい生産の欲望を創造し、こうして生産の前提であるところの、生産の精神的な、内部からこれをおしすすめる根拠を創造するからである。」
「生産はまた、消費に、その規定性、その性格、その仕上げをも与える。」「消費の対象は、決して対象一般ではなく、ある一定の対象であり、しかもそれは、ある一定の、生産そのものによって再び媒介されるような仕方で、消費されなくてはならない。」また「生産は、・・・材料に欲望をも提供する。」
「消費者の中に欲望として呼び起こす」。
「消費は、生産物を生産物として完成することによって、生産物を分解し、その独立の物的形態を使いつぶすことによって、最初の生産行為で展開された才能を、反復しようとする欲望によって熟練の域まで高めることによって、はじめて生産行為を完成する。だから消費は、生産物を生産物にする締めくくりの行為であるばかりでなく、生産者を生産者にする締めくくりの行為でもある。他方では、生産は、一定の消費の仕方を作り出すことによって、次には消費の刺激を、消費力そのものを、欲望として創造することによって、消費を生産する。」
 以上、マルクスが描き出した「三重」の生産と消費の同一性こそが、対立物の浸透の法則に相応しい内容を持っていると考えられ、浸透の発展構造である。
 この論理を、対立物の統一という原理と区別する観点から、いささか厳密性を犠牲にして、図式化してまとめると、対立物A(ここでは生産)とB(ここでは消費)が次のような関係を持つ。
@ 直接の同一性
 対立物Aが、B´(Bダッシュ)の側面を持ち、BはA´の側面を持つ。
A 相互依存性
 AはBを媒介し、または、BはAを媒介する。(A´、B´についても同じ。)相互は依存しあっている。ここに一つの媒介運動が起こる。
B 相互の完成
 媒介運動を基礎にして、AとBを完結させることによって、AとBが最後の仕上げを受ける。(A´、B´についても同じ。)これは、この媒介運動が循環することによって完成していくということであり、循環する形態を作り出すということである。
浸透の法則という場合には、単なる二者の対立の統一というだけでなく、このような直接性と媒介性の統一の立体的な構造が取り上げられているのである。

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