算数・数学のセンス編
(過去版)


子供達に算数・数学が出来るようになって欲しいと思った場合、
単に「読み書き計算が出来ればよい」という単純なものではありませんから、
もう少し、突っ込んだ「算数・数学のセンス」というものを
鍛えなければならないんです。
ここでは、その点についてお話ししたものをまとめてあります。


Contents

 

 「約束」と「数学のセンス」

 「基本」と「数字のセンス」

 「数字のセンス」3

 「数字のセンス」5

 「式のセンス」と「文字のセンス」

 「文字のセンス」3

 「文章立式のセンス」2

 「文章立式のセンス」〜和算と先取り

 作成と指導力

 「0のセンス」と「位取り」

 「条件のセンス(多面体と錐体)」

 「確定要素」と「不確定要素」「仮説」

 「仮定のセンス」と「数学の問題」

 「類推のセンス」と「仮定のセンス」

 

 「根の広がり」と「枝の広がり」

 「数字のセンス」2

 「数字のセンス」4

 「数字のセンス」6

 「文字のセンス」2

 「文字のセンス」と「文章立式のセンス」

 「文章立式のセンス」3

 知識と指導力

 分類と難易度

 「指導内容の無理解」と「ぬるい教え方」

 「条件のセンス」と「哲学教育」

 「条件のセンス」と「数学の問題」

 「類推のセンス」と「計算力」

 「条件・類推のセンス」と「組み合わせ」

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「約束」と「数学のセンス」


算数・数学の大事なところ

 前項に関連して、質問があったので、どうせならこちらの方に書いておこう、ということで、こちらに記載します。指導側の立場では「このように考えているんだよ」という内容ですから、ちょっと感覚的に分からないところもあるかも知れませんが、何となくでも「こういうものなんだ」ということが理解できてもらえればいいのではないかと思います。

 さて、タイトルに書きましたが、算数・数学で大事になるのは「約束」と「センス=感覚」なんです。それで、ここではこの2点について、お話していきますね。

 まず「約束」という事えです。一般的には数学は「思考力」を鍛えるもの、と考えられていますが、実は、何でも自由に考えれば良い、というものではありません。算数・数学には必ず「約束」というのが存在し、その約束に従って、考えたり、答えを出したりするものなのです。
 例えば、計算はすべて約束に従って計算します。「+」の記号があれば、数字をたす。「−」の記号があれば、数字を引く、から始まって「かけ算・わり算」と「たし算・引き算」があれば「かけ算・わり算」から先に計算。( )があれば、( )の中から先に計算ですね。これ、約束によって成り立っているものなのです。
 「証明」もそうなんです。「定義・定理」などの約束に従って、合同・相似などを証明していく、というやり方を取ります。ただし、約束に従っていれば、解答を導くルートは自由、ということなんですね。
 そして、ここが「出来る・出来ない」の差になっていくところなんですが、その差について「自然数」を例にとってお話ししますね。

 「自然数」というのは、学校では「個数や順位を表す数」と定義されます。そして、より分かりやすい方として「順位」に焦点を当てていきますが、「順位を表す数」と考えた場合、負の数や分数・小数は、この定義に適さない、と判断されます。−5位とか、0.3位なんていう順位は存在しない、ということですね。そうなると、0はどういう判断をするか、というと、0位というのは存在しないため、自然数に0は含まれない、と考える事になります。そこから「正の整数」と同じ、と判断するんです。
 ところが、この「自然数」を「1・2・3・4・5・・・・で0は含まない」と覚えている子がいます。要するに最初の定義で覚えているのではなく、単に結果として出てきた具体的な数字として覚えている、ということですね。そして、一見同じように見えますが、きちんと最初の定義で理解している子と、出てきた結論だけを覚えている子では、後々の学力に影響が出てきて、結果、きちんと「定義」で理解している子の方が、圧倒的に「数学の学力が高くなります」。いわゆる「根本の約束」として理解している方が「学力が高くなる」ということなんです。
 一般的に言われる「単に公式だけを覚えている子」と「なぜ、その公式になるのか、が分かっている子」では、公式の意味を理解している子の方が、理解が深いですし、さらには、根本的に理解していると応用が利く、という事ですね。公式だけを覚えているだけでは応用が利かなくなるんですね。

 となると、例に挙げた「自然数」の場合、きちんと「定義を覚えて、そこから考えるんだよ」というルートを提示する授業と、出てきた結論を赤線で囲って「ここが大事から覚えておくんだよ」と提示する授業では、その授業の質が全然違う、ということです。当然、前者の方が、子供達の学力を上げていく授業になるんですね。そして、釧路の数学の学力を見る限り、どうも「結論を覚えろ」式の授業が多いのではないかと思うんですね。

 そして、もう一つは「センス」です。
 実は、数学には「重要なセンス」があって、これを身につけているかどうかが算数・数学の学力を大きく左右します。さらに、その「センス」を身につけるには段階があるんです。

 例えば、小学校1年生だと「3たす5はいくつでしょう?」と文章の中に直接「たす」という言葉が入っていると出来るのですが、「あわせていくつ?」とか「ぜんぶでいくつ?」と言われたときに、何をしていいのか分からない、という、言葉の感覚がしっかりしていない子が一定の割合でいます。ですから、そういう子に、文章の読み取り方を教えていきながら「和の感覚=和のセンス」を身につけていくように指導します。当然、引き算だと「差はいくつでしょう?」とか「どちらがどれだけ多いでしょう」なども、すぐに対応出来ない子がいますので、文章の読み取りを教えながら「差の感覚」を身につけるように指導して行くんですね。
 これが小学校2年生になると、前項で書いたように「倍の感覚」が大事になりますし、わり算が入ってきて「分ける感覚」と「倍の感覚」の2方向に向かっていくようになります。具体的な問題で言うと「15本を3人で分ける」と言う場合、「15本÷3人=5本」となりますし「15人は3人の何倍ですか?」となると「15人÷3人=5倍」となります。そして「分ける感覚」の場合「割られる数」と「商(わり算の答え)」が同じ単位になるのに対し「倍の感覚」の場合、「割られる数」と「商」の単位が違う、ということになります。こうやって、少しずつ、感覚を養っていくんですね。
 そして「分ける感覚」が、このあと「平均の感覚」や「単位量あたりの大きさの感覚」に発展していきますし、「倍の感覚」は、のちの「%」などにつながっていくことになります。小学校・中学校では、こうやって、少しずつ感覚を身につけていっている段階なんですね。
 また、他にも「足して10になる数字をパッと思い浮かべる」という「補数の感覚」などの「数字の感覚」、「図形の感覚」など、子供達に身につけてもらう感覚というのは、かなり数が多いんです。そして、「図形の感覚」が弱い子は三角形が逆さまになると、どこが底辺か分からなくなってしまったり、線がいっぱい引いてあると合同な図形を見つけられなくなっていったりするんです。
 そして、こういう感覚を総称して「数学のセンス」というわけです。

 さて、ここからが大事なんですが、大人は小学校・中学校を一通り済ませている訳ですから「数学のセンス」は、ある程度鍛えられているんです。ところが子供さんは、まだ、その「センス」を身につける「途上」にいるんです。ですから、子供さんがどこまでの「感覚」を身につけているか、という事を理解せず、大人の感覚で話をすると、失敗してしまいます。よくお父さん・お母さんがいう「子供に勉強を教えていると、親子喧嘩になってしまうんです」というは、大人の感覚で分かっていることでも、子供さんがまだ身につけていない「感覚」で話をしていると思ってくれるといいでしょう。小学校の2年生や3年生の子に「平均の感覚」や「単位量あたり」の感覚で話をしても通じない、と思っていた方がいいんですね。そして、「こんなのも分からないの?」というのはダメ、というのは、この「感覚」の部分での話なんです。
 ですから、基本的に「子供に大人の感覚〜数学のセンス〜で話をしてはいけない」というのが、特に小学校低学年における「暗黙の了解」になっていて、そこが、小学校の低学年の指導が難しいといわれる所以なんです。

 ということで、例えば、前項に書いた内容で行くと、子供さんが理解できる約束として「(かけられる数)×(かける数)で式を作る」ということと、「倍の感覚を養う」という目的で指導が進む、ということになるんですね。そして、結局、「約束をきちんと守って式を作り」、「倍の感覚」をきちんと身につけた子が、後々、本当にきちんと算数・数学が出来るようになっていく、ということなんです。

 それでは、釧路ではどうなのか、というと、実は、この小学校の段階で「大人の感覚で指導してしまっている」という某小学校があります。まあ、以前にも書いた「先生の授業はレベルが高いんだ」と話している先生のいる学校ですよ。これ、レベルが高いんじゃなくて、子供の「感覚」が分かっていないだけなんです。そして、その学校の指導に右習えをしてしまった人たちが釧路の学力を下げてきたんです。
 さらにいうと、この「まだ、感覚がしっかりしていない子供達」に「大人の感覚で授業をする」と、どうなるか、というと、結局、子供達が理解できないため、物事を適当にやってしまうようになる、という現象になります。釧路では、こういうタイプの子が非常に多く、この点が、釧路の算数・数学の病巣なんですよ。
(2016/11/16)

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「根の広がり」と「枝の広がり」


勉強でも何でも「基礎が大事」

 よく、いろいろな事に「木」が例えとして用いられますが、ここでもその話です。
 しっかりとした「根」がはっていないと、幹も太くなりませんし、枝も高く伸びません。「根」が貧弱で枝を高く伸ばそうとすると、枝がよじれておかしくなってしまうんですね。
 よく、スポーツ選手の話でも、基本練習をしっかり行っている選手がすばらしい結果を出しているのであって、上っ面の調子だけの人は、結局、いざというときに力が出ないんです。これは、音楽をやっている人も同じですよね。ピアノでもギターでも、上手な人は、毎日、基本の運指に時間をかけていたりします。少なくても、きちんとした人は「こんな簡単な事、俺はできる」と言って、基本をないがしろにはしません。

 学校の勉強も同じなんです。小学校の基礎が出来ていない状態で、学力を上に伸ばそうと思っても、もともと無理があるんです。また、同じ出来るケースでも、その習熟度合いが高くなければ上には伸びません。例えば、算数の計算でも「モタモタやっている状態」で「出来ている」とは思わないこと。本当に出来る子というのは、簡単な計算は瞬間的にパッとできるんです。そして、もっと言うと、計算だけではなく、文章問題であろうが何であろうが、基本レベルのことは何でも瞬間的にパッと出来る〜要するに、瞬間的に出来るレベルも高くなっているんです。

 また、それと合わせて、基本のレベルも深く・広くなるんです。
 例えば、前のお話で出てきた「は・じ・き」についても、単に「は・じ・き」を覚えて計算できるというレベルから、内容を理解して応用が利くレベルになり、さらには「他の単元とのつながり」も理解できるレベルになって、他の学習内容もすぐに理解できるようになり・・・とドンドン理解の内容が深まって行くんです。

 ですから、上っ面だけで理解しているような気になって、根を広げる事を怠ると、結局、上に伸びなくなるか、上に伸びたつもりが、どこかゆがんでいたりするようになるんです。

 ということで、結論。何でもいいから、自分の力を伸ばしたいと思ったら、上のレベルだけを追いかけるのではなく、基本のレベルも深くしておくこと。
(2017/02/05)

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「基本」と「数字のセンス」


基本をないがしろにしていると「数字感覚」が身につきません

 少し前に「数学のセンス」のお話を書きましたが、これと、2つ前に書いた「基本」とどのように結びついているか、ということを分かってもらうために、一番、基本となる「数字のセンス」についてお話しようと思います。

 例えば、お父さん・お母さんだと、小数を10倍、100倍するときには、単純に「小数点をずらせばいい」という事はご存じですね。ところが、基本練習が足りないと、それがパッと出来ずに「一回、一回、10や100を筆算でかける子」が結構います。これが釧路の場合、北陽受験者まで入り込んでいます。
 同様に、「6分の4」と答えが出たときに、約分をしない子も結構います。附属小出身の子は、どのレベルの子でも、どこかで約分せずに答えを書きますよ。

 要するに「10倍、100倍という数字のセンス」「共通の倍数を探すという数字のセンス」が全く鍛えられていないんですね。基本をバカにしてかかっていると、このレベルですら、きちんと出来なくなるんです。

 でも「このくらいなら出来るや」と思っている人に、ちょっと聞きたいのですが、51分の34って、すぐに約分できますか? これ17で約分して、答えは3分の2になるんですが。まあ、最初から「約分出来る」という事が分かっている状況で聞いたら、それなりに答える人もいると思いますが、これが普段の計算で出てきて、パッと対応できるかどうか、というところが問題になるんです。

 実は、学力上位の子が受験する学校では、大抵、「整数の性質」関連で、最大公約数や最小公倍数の問題が出て来るんですが、そのときに、2桁の素数に対応できるようになっているか、いないか、で、問題の対応力が全然違うんですね。というのは、この「2桁の素数がヒントになっている問題」というのが結構多いんですよ。そして、以前だと、北見あたりでは、自分が教えていたときには、小学校で約分を習うときに、この2桁の素数で約分する練習も行っていたんですが、最近ではどうでしょうか? もちろん、釧路では以前から全く手が着いていませんでした。

 先日、某会合の席で出た話が、某役所で「帯広・北見出身の幹部はいるけれども、釧路出身は誰一人いない」ということでした。結局、この「数字のセンス」が鍛えられていないと、速く正確に計算することも不可能ですし、もちろん、計算レベルで引っかかっているようでは、難問の「な」の字にも届かないということになります。これだけ上位層の「センス」に差があれば、頭の回転の度合いも大きな差ができます。ですから、将来的には、こういう場所での幹部にはなれない、ということですね。

 ということで、「数字のセンス」、大丈夫ですか? ちなみに、こういうセンスがきちんと鍛えられていると、例えば、中学校で二次方程式の計算では、xの係数が偶数のときには平方完成を使った方が速い、なんていうことも身についているはずですが。これを子供さんにお話したときに「何のこと?」となっているような状況では、基礎力は不十分、と捉えておきましょう。

 基本をバカにしているものは、基本に泣く。
(2017/02/11)

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「数字のセンス」2


「数字感覚」を鍛えよう

 前回に引き続き「数字のセンス」のお話です。
 それで、例えば、お父さん・お母さん方が、何かの会合に出たとします。会費が1500円で24人です。全部でいくら?

 これ、普通に計算するんじゃなくて、こういうふうにすると、瞬間的に合計が出ます。
 1500×24
=1500×2×12
=3000×12
=36000円
 1500×2で3000を作るところがミソなんですが、すぐに出来ましたか?

 じゃあ、1850円を30人から集めたら? なんていうのはどうでしょう。

 こんな感じで、いろんな計算を要領よくこなしていく事って、実はすごく大事なんです。「こんなの1500×24を普通に計算すればいいでしょ」なんていう感覚で考えているうちは、計算力が身につかないんです。
 こういう計算と合わせて、小学校では25×4で100になるとか、125×8で1000になるとか、こういうのも本当は普通に習っているはずなんですが、実際、子供さんは習っていますか? 

 また、ガウスの計算なんていうのがありますね。
 1+2+3+4+5+6+7+8+9+10
を早業で計算するって言うやつです。これも、本当は小学校のうちに触れて置いて欲しいんですね。というのは、高校でシグマって出てくるでしょ。いわゆる「数列の和」というやつです。こういう基本計算がサッと出来ないと、上のレベルに進んでいけないんですよ。
 これだって、普通に順に計算したら答えは出ます。でも、それじゃあダメなんですよ。
 その他、3の倍数を見分ける方法、4の倍数を見分ける方法、5の倍数を見分ける方法、9の倍数を見分ける方法なんかも、小学校のうちに身につけておきたい内容ですよね。それで、こういう感覚というのは、基本計算の数をこなしているうちに、自然に身につく部分というのもあるんです。

 そして、こういう感覚を養う上で大切になるのが、
1 常に、要領よく計算できないか、狙っていく
2 量をこなして、数字に慣れる
というのが大事なんです。簡単だからとバカにしてかかっていたり、こんな面倒なことはやりたくない、と思っているうちは、こういう感覚は身についていきません。

 となると、こういう「数字のセンス」を養うのに何が必要か、というと、基本は「ドリル学習」なんです。通分するときの「分母の最小公倍数」にしても、約分するときの「分子・分母の最大公約数」を見つける事にしても、瞬間的にパッと出てくるレベルにならない限り「あ、約分忘れた〜」といつまでも言い続けている子にしかなりません。同じミスをいつまでも続けている子って、情けないと思わないと。100%、キッチリ出来るようになるまで、ドリル練習を続ける、ということです。

 ちなみに、公立の学校を出ていると、上位校に進めない、なんていう話がありますし、また、塾に通っていないと勉強が出来るようにならない、なんていう話もありますが、特に算数に関して言うと、この「数字のセンス」を身につけるような学習内容になっていないというのが、大きな原因の一つです。

 正直に言うと、英語なんて言うのは、年をとってからでも出来ます。そういう人、いくらでもいるでしょ。ビリギャルだって、受験科目が英語と小論だったから、1年勉強して受かったんです。ところが、算数・数学で、年をとってから勉強し始めて出来るようになったという話は、ほとんど聞きません。受験で言えば、答えを見て暗記、という英語のような勉強の仕方にしかならないんですが、それは、本当に数学が出来るとは言いません。

 前にも書きましたが、算数・数学には、それぞれのセンスが必要なんです。「図形のセンス」であったり、「割合のセンス」であったり、「単位のセンス」であったり。その中の一番、基本となるのが「数字のセンス」なんです。
 ということで、しっかりドリル学習をして、まず「数字のセンス」を養ってあげてください。
(2017/02/12)

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「数字のセンス」3


要領の良さを習得するには

 「要領の良さ」を習得するのに一番良い方法は「要領よくやらなきゃダメ」という環境に置くことなんです。となると、具体的には「計算などを速くサッと終わらせなければならない」という状況を作る事なんですね。
 例えば、以前だと、サザエさんで、カツオがよく言われていた「あんた、宿題やったの?」というやつ。「宿題をやってからでないと遊んだらダメ」とか「見たいテレビがあるから、それまでに宿題を終わらせてしまおう」とか。自分たちの時代は、こうやって、自然と「数字のセンス」が鍛えられていたんですね。だから、自分たちの世代は、割と計算が速いと思いますし、ある程度暗算も利くんです。
 今の時代だと「勉強が終わってからゲーム」というような、そういう約束を作っておくことが良いと思うのですが、今の子供達、自分の好きな事が優先という感覚でいる子が多いと思いますし、親もそれを許してしまっているところがあるでしょ? それだと、数字のセンスはなかなか磨かれません。理系離れが顕著なのも「好きなこと優先〜数学力が劣る」というところから来ていると思っています。

 また「勉強するものは配るけど、提出の義務はありません」という事をやってしまうと、結局やらずに放ったままです。これ、正直に言うと附属がそうでしょ。こういう「センスを鍛える」という環境を全然作っていないから、数学が全然出来ない。おまけに、その形態を真似してしまうから、市内全体が出来ないということになっています。
 そして、最悪は「俺はやらなくても出来るんだ」という「お山の大将」の出来上がり。前にも書きましたが、本当に実力のある子というのは「簡単なものはサッと終わらせてしまう」んです。ところが「こんな簡単なものは、俺のやることじゃない」という思い上がったやつがいる。科目は違いますが、附属の社会なんかがこれですよ。生徒が全然鍛えられていないから、今年の学力テストで、市立の中学校より平均点が低くなったりしているんです。情けないでしょ。数学で言えば、湖陵の理数科に通っていて、文系に変更じゃ、情けないと思わないと。何のために理数科に行ったの? そんな事なら、最初から普通科に行けばいいんです。

 そして、式を書くのを面倒くさいと思っている子もダメ。
 例えば、こういうのをやって見ましょう。図形の円の絡んだ問題で、こういう式を作ったとします。

5×5×3.14+12×12×3.14−8×8×3.14

 これ、どうしますか? 
 ちなみに、この問題だと釧路の子供達は、全員、式は書きません。学校の教え方が悪いんです。ちょっと複雑な形になると、図形で式を書く子がいないんですから。全部バラバラに計算して、答えを出すまでモタモタして、そして、計算を間違えてやり直し。問題が6問あったとしたら、半分、答えが合いません。正答率5割。
 全員が、5×5×3.14を計算して78.5、その他、452.16、200.96を計算して、足したり引いたり。その際、足し算・引き算を確認せず、全部足し算してしまってから「あ、間違った〜」という感じです。

 これ、本来は
(5×5+12×12−8×8)×3.14に置き換えて、
(25+144−64)×3.14にし、さらに、先に144−64を計算して80にしてから、80+25にして
105×3.14にすると非常に楽ですね。
ちなみに、この後は、100×3.14+5×3.14に切り替えて
314+15.7で、答えは329.7。ここまで来ると暗算レベルなんです。
 要するに、途中の計算式をきちんと書かないと先が見えないから、センスも鍛えられないんです。ちょっと文字にすると、ややこしく見えるかも知れませんが、実際に計算をやってみると、アッという間です。少なくても一つ一つモタモタ計算をやっている子と比較すると、スピード感が全然違います。

 そして、こういう要領で計算も出来ずに、面倒だからやりたくない、とか、図形の問題としては出来るから大丈夫、と思っているようでは、上を目指せないんです。
 ということで、一つ前の項目に書きましたが、
1 常に、要領のいい計算が出来ないか、狙っていく

 この程度の計算はすぐ出来る、というくらいになっていなければ、基本の練習をもっとしっかり進めておいてください。
(2017/02/18)

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「数字のセンス」4


単位を修得するには

 よく「単位が修得できない」「正答率が低い」という話をしていますが、これも、ちゃんと「数字のセンス」からの解決策があるんです。ただ「たくさん練習しろ」という話だけなら、そんなのは素人なんです。授業は時間が限られているんだから、もっと要領よくやれよ、という話。

 実は、単位の修得が出来ない子というのは、単に「1km=1000m」を覚えていない、というだけでは無いんです。というのは、単に知識があれば何となる子だったら、学校の授業でも何とかなるはず。それがおかしいのは、他に原因があると考えてかからなければならないんです。
 そして、その原因の一番は「0のセンス」が無いこと。実は、出来ない子の大半は「0」というのは「数字が無い」と考えているんです。これ、一番分かりやすいのは、わり算で「302」などの、答えの途中に「0」を書かなければならない計算で、答えを「32」とかいてしまう子〜「0」を抜かしてかいてしまう子なんです。要するに「0」は数字がないから、書かなくてもいい、と思っているんです。こういう子って、位取りも鈍いんです。
 位取りについては、これ、いつまでも、下から順に「一・十・百・千・万・・・」なんてやっているようではダメなんですよ。

 例えば、こういうので、練習しておきましょうか。

290168430915

 これ、サッと読めますか? 最初から「一・十・百・・・」なんてやっていませんか? 

2901 6843 0915

 上記のように、4つずつ区切りをつけて、最初の2901を二千九百一億 次の6843を六千八百四十三万 そして、次の0915を九百十五 というふうに出来るようにしておかないと。こういう位取りの練習をしていきながら、「0というのはどういう扱いをするのか」ということ〜「0のセンス」を身につけて行くんです。

 当然、普通の計算でも、0の入った計算をしっかりやって「0のセンス」を身につけて行くんです。
 市販の小学生の計算用問題集では、気の利いたものになると、きちんと「0の入った計算」というふうに、0の部分だけ項目を分けて練習するようになっているんですね。当然、教科書の計算分野でも「0」の部分は、きちんと項目として分かれていたりします。ところが、教える側の感覚として「0は数字が無いから簡単ね」程度で、雑に教えているから、子供達の計算力が上がらないんです。結果、単位も出来るようにならないんです。

 そして、この「0のセンス」が無い子は、実際の単位の問題になると、例えば「1km2mは何kmですか?」という問題では「1.2km」と答えるんです。「1.002km」の0が飛んでしまうんですよ。要するに「0」の部分が隠れてしまうような問題に対応できないんです。「0のセンス」が無いから、頭の中で「0」がどういうふうに入ってくるかが組み立てられないんです。
 そこから、どういうことが起こるかというと、長さの問題では最初に「1m=100cm」と習いますから、その後、どんな単位が出てきても、訳の分からないものは、とりあえず「100にしておけ」というふうに覚えるんです。だから、いつまでも「1km=100m」「1kg=100g」と、適当な感覚で覚えるんです。

 ということで「0のセンス」があるか、ないかは、その後のいろいろな部分の学力差になって表れます。そして、この0の扱いが最初に出てくるのが、小学校低学年。さらに言うと、小学校の1・2年生段階で、この「0のセンス」がスッキリしていない子でも、小学校3・4年生あたりでは、計算練習などを通じて、次第に感覚が身についてくるはずなんです。
 ところが、現状ではそうなっていない。原因は明らかです。小学校の1〜4年生にかけて、きちんと「0のセンス」を身につけさせるという意識で授業に取り組んでいないからです。元々、そういう意識すらない先生が多いのではないか、ということなんです。計算プリントを配って、ただ「やっておきなさい」でお終いになっている可能性が高い、という事が考えられます。

 ですから、お父さん・お母さん、子供さんの勉強の様子を見て「うちの子、0の入った計算をよく間違える」とか「うちの子、位取りをするとき、何かモタモタ考えながらやっている」という場合は、「うちの子、0のセンスが無いんじゃないか」と疑ってみてください。そして、0のセンスが無いようあれば、小学校の低学年用の「0の入る計算問題」から練習をさせて挙げましょう。
(2017/02/19)

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「数字のセンス」5


「約分」・「通分」を見逃さないために

 約分・通分は、当然、「最大公約数」「最小公倍数」の「センス」が抜けていることが原因です。

 今、40代後半くらいの人から上の世代だと、GCM・LCMという言葉を知っているはず。これ、「最大公約数」「最小公倍数」ですよね。実は、この年代の人たちは、最大公約数や最小公倍数について、かなり練習をこなしてきているんです。だから、約分や通分でもミスが少ない。「数字のセンス」が訓練によって磨かれてきているんです。

 ところが、今の子供達は、と言うと、この辺の練習が行われていないんですね。教科書で一通りやったらお終い。小学校5年生・6年生の頃にしっかり鍛えられてきた人から今の子供達を見ると「なんで、こんなことも出来ないの?」となるんですが、それは「ちゃんと訓練されていないから」というのが原因。

 ということは、子供さんの「約分」「通分」の感覚を上げようと思った場合、GCM・LCMを習っていたときと同様に、計算式を使って、共通に割れる数字を探す、という練習が必要なんですね。だから、教科書に載っていようと載っていまいと、個人でしっかり練習をすすめて行きましょう。
 ちなみに、お父さん・お母さんの世代で扱った、最大公約数・最小公倍数の問題では、例えばこんな問題
「5で割っても、7で割っても3余る整数のうち、最も小さい整数を求めなさい」
なんていうのは、小学生でもある程度対応でき、中学校1年生では必修という扱い。それが、今は中学受験問題として取り扱われているレベルなんです。どれだけ全体の学力が下がっているか、これだけを見ても分かりそうなものですね。

 現実的な問題としては、こういう練習が行われていない学生が進学していったときに話題になったのが「分数が出来ない東大生」という話。いくら学力が高かろうが、きちんと練習しなければ、この程度の基本も満足に出来なくなる、といういい見本です。
 だから、「おれは出来るんだ」と思い上がったら絶対ダメ。基本はしっかり練習しないとね。
(2017/02/21)

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「数字のセンス」6


計算の答えを「記憶」に転化

 今回の話は、学力の高い子は、基本的に「計算の答えを覚えている」ということです。

 例えば、小学校1年生のときには、皆さん、経験があると思いますが、最初のうちは、足し算の計算など、指を折って数を数えたりしていたのではないかと思います。でも、それが、ある程度経つと、指を使わずに頭の中で計算出来るようになりますね。その際に覚えさせるのが「補数」。足して10になる数を覚えて対応するわけです。そして、何度も計算練習をしているうちに、今度はいちいち補数を使わなくても、ある程度答えを覚えてしまって、問題を見た瞬間にサッと答えを書いてしまう、というところまで行き着いている人も多いと思います。
 要するに、習ったばかりのときは、多少時間はかかりますが、何度も繰り返し練習しているうちに、答えを覚えてしまって、簡単な計算だと一回一回計算をしなくても答えられるようになっていくんです。

 そして、答えを覚えて対応しようという方法の最たるものが「かけ算の九九」ですね。いちいち「○が○個分」なんて頭に思い描いて計算しなくても、すぐに答えが出てくるようにする方法を直接習う訳です。

 また、小学校の段階で出てくるものとしては、3.14の計算なんていうのもそうですね。これ、一回一回計算するのは面倒なので、頻度の高い計算の数値は、ある程度覚えてしまっているのではないでしょうか。
 3.14×2= 6.28
 3.14×3= 9.42
 3.14×4=12.56
 3.14×5=15.7
・・・・・・・・・・・・
 このあたりの数値なら、計算しなくても大丈夫、という人も多いはずです。その他で言うと5×5×3.14=78.5あたりも覚えてしまっている人は結構多いのではないでしょうか。
 また、前項で書いた通分の数値などもそうです。分母が12になる場合は、すぐに出てくるでしょう。ちなみに、分母が6と4のときに、きちんと12が出てくるでしょうか? 分母同士をかければいい、という覚え方をして「24」で通分をしている子はいませんか? そういう計算をしているようでは「数字のセンス」が鍛えられません。ですから、この計算で分母を24と書いている子については、最終的な答えは合っていても、わざとに「△で減点」という採点基準にしたりします。要するに「数字のセンス」をしっかり身につけさせようと思っている先生は、そういう採点基準にすることがあるんだ、と理解しておきましょう。
 もっとも、最近は、計算をしているときに、きちんと机の周りを回って、生徒の計算を見て回る先生が少ないんだそうです。教卓にドカッと座って「出来た順に持ってこい」とやり出す教師も多いようですよ。もう少し、きちんと見て回れ、ということでしょうか。

 中学校に入ると、累乗の計算などもこれに当たります。2乗の計算では1〜10までは、それこそ、かけ算の九九と同じですから、基本的には11〜20、ないし25くらいまで。このくらいだと覚えてしまっている人も多いと思います。また、そんなに勉強を頑張っていないと言う人でも、15くらいまでは、普通に覚えてしまっているのではないでしょうか。
11の2乗 121
12の2乗 144
13の2乗 169
14の2乗 196
15の2乗 225
16の2乗 256
17の2乗 289
18の2乗 324
19の2乗 361
20の2乗 400
21の2乗 441
22の2乗 484
23の2乗 529
24の2乗 576
25の2乗 625
 ざっと、こんな感じでしょうか。特に17・19と23に関しては、素数の2乗ですから、ルートの計算あたりでは、なかなか数値を求められない。「ルート289」を整数の「17」にすぐに直せるか、直せないかで、やはり計算力が変わってきますよね。
 そして、累乗で「数字のセンス」として引っかかってくるのが「3乗」。
 最初のうちは「2の3乗」を「6」と答えて×をもらい、改めて「2の3乗は8」と覚え直した人もいるのではないかと思います。ちなみに、昔は、この3乗を「立方九九」と言って、「かけ算の九九」と同様に覚えたんだそうです。ただ、現在でも1〜10までの数値はすぐに出てくるようにしておいた方がいいでしょう。
 1の3乗   1
 2の3乗   8
 3の3乗  27
 4の3乗  64
 5の3乗 125
 6の3乗 216
 7の3乗 343
 8の3乗 512
 9の3乗 729
10の3乗1000
 中学生だと、5の3乗あたりで「25×3」やってしまい「75」と誤答する子も多いですし、高校に進学した後だと、確率の問題で、この手の計算の頻度が高くなります。

 さて、問題なのは、ここからで、この数値を覚えてしまうには、いったいどうしたら良いか、と言うことなんですね。いちいちカードなどを作って、英単語のように覚えよう、なんてやっているのは愚。基本は「計算をきちんとやっているうちに自然に身につく」ものと思ってください。逆に言うと、これが覚えられるくらい計算の練習をしましょうよ、ということなんです。
 さらに言うと、この数値を覚えるためには、形の決まった計算方法で繰り返し練習するのが一番いいんです。ところが、現在では「どうやって計算したらいいか、考えてみよう」です。こんな話で「その都度、計算方法がバラバラ」もしくは「回りくどい方法で計算」していては、人より覚えるのに時間がかかってしまうんです。特に小学校の計算については、教科書が悪化しています。身につきずらいんです。
 また、ここまで覚えるようにしよう、と思った場合、絶対、授業だけでは時間が足りません。家で練習するように宿題が出るのは当たり前なんですね。
(2017/02/22)

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「式のセンス」と「文字のセンス」


中学校の文字式と小学校の立式の関係

 今まで書いてきました「数字のセンス」。基本中の基本ですね。すべてで無くても、大抵の人は「あ、こんなこと、やった〜」くらいの感覚でしょうか。おそらくは、今の偏差値で言って65とか70とか、そのくらいから上の国立大学に通っていた人にとっては「今更、何かいているの?」くらいの感覚だと思います。
 唯一「0のセンス」だけは、基礎学力方面の話で、学生時代はよほど学力が低くない限り、普通に出来ていた人の方が多いでしょう。どちらかというと、学校の先生の指導力に関する内容、くらいに思っておけばいいと思います。この「0のセンス」に注意が向かない指導をしている先生は、かなりまずい。ところが、釧路では結構いるようです。
 ちなみに、お父さん・お母さんが子供さんの「0のセンス」をみるのに良い内容を少しだけ書いておきますね。

 100+5で、1005と答えを書く子
 302−126で、十の位の答えが合わない子(引かれる数の間に0が入る計算がうまくいかない)
 245×104の筆算で、0を掛けるところが、うまく行かない子。もしくは、一回「000」と全部書かなければ計算出来ない子(掛ける数の間に0が入ると計算がうまく行かない子)。

 一番最初の1005と答えを書く子は、さすがにいなくなって来ましたが、2番目・3番目に該当する子は、結構いますよ。要するに、学校の先生が学生時代に「このくらいは普通に出来た」という感覚でいて、「0のセンス」をあまり重視していないために起きる現象なんです。そして、こういうところが教務指導力不足の原因になるところなんです。学校の教科書で「0の項目が独立している」という事への理解が無いんですね。そういう先生だと「単に、やり方をごり押ししてお終い」。後は練習だ、くらいの感覚でしかないと思います。
 ですから、お父さん・お母さんは要チェック。「0を適当に扱っているやつは0に泣く」という意識で取り組みましょう。

 さて、そして、タイトルの「式のセンス」と「文字のセンス」です。こんな問題を見てみましょう。
「30円の品物を5個、50円の品物を6個買いました。合計の代金はいくらでしょう」
 これが中学校になると
「30円の品物をa個、50円の品物をb個買いました。合計の代金はいくらでしょう」

 小学校のときは、全部数字で式を作りますね。普通に
30×5+50×6 です。
 中学校では、これが
30a+50b になりますね。

 ここで、何が言いたいかというと、中学校の文字式であれば、これが出来ないと通知表で1とかせいぜい2しょ。ところが釧路では、3とか、場合によっては4がついている子もいるんです。そして、そういう子は、小学校の文章問題を解くときにどういう感覚でいるかというと、小学校の数字の立式は「難しい問題」の範疇、という感覚なんですね。
 要するに、中学校で普通に出来なければならないものを、小学校のときに「難しい」という感覚で教えられているんです。これ、完全に、小学校の先生が「問題の難易度の扱い」を失敗しているんです。これが高じて「とにかく、式が長くなれば、何でも難しい」という感覚になっているようなんです。そんなバカな。

 そして、これ、「数字のセンス」のところでも書きましたが、図形の問題であっても

5×5×3.14+12×12×3.14−8×8×3.14

というような、長い式は、とにかく書かないんです。これも中学校になったら、3.14がπになり、ある程度暗算で
25π+144π−64π
って、やるわけでしょう。でも、こういう式すら書かないんです。図形のセンスも無い上に、こういう式すら書かないんですから、当然、他地域に比べて「図形関連」の問題の正答率が極端に落ち込みますわ。全国学力テストの「図形」の悲惨なこと。

 それで、原因を探っていくと、こういう「ひとまとめにした式」を書く練習をするのは、計算の工夫などを習う小学校4年生がメイン。ここで「立式のセンス」をおかしくしてしまっているんです。そして、ここで「式のセンス」をおかしくしてしまうと「文字を使って立式する」わけですから、中学校の文字式の内容が理解できなくなっていくんです。ここから方程式、関数がダメになっていくんですね。
 さらに輪を掛けて、中学校でも式を書かないんですから、なおさら学力が低くなっていく、ということなんです。要するに頭の中で式を組み立てる訓練が無いんですよ。

 ということで、小学校4年生を通過した子供さんには、こういう「立式のセンス」があるかどうか、確認してみてください。ひとまとめの式を作れるかどうか。この感覚が無いと、後々、文字式で苦労します。
(2017/02/24)

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「文字のセンス」2


中学校の文字式と小学校の立式の関係2

 前項で、文字式の感覚を書きました。結局、小学校のときにきちんと式を作らないから、中学校の文字式になったとたん、挫折する子が多くなるんです。そして、中学校では「当たり前」の事が、小学校では「難しい」という扱いになってしまうと、子供達の感覚が「文字式は難しい」という感覚になっていってしまうんです。
 ここがいわゆる「目線が低い」という話とつながるんですが、中学校で当たり前に扱うものは、小学校での「できなきゃダメ」くらいの感覚で教えていかないとならないんですよ。それを「難しい」なんて考えているようでは、子供達の学力は全然向上していかないんです。というのは、子供達は自分で「難易度の設定がまだ出来ないから」なんです。だから、小学校の段階で、後々出来なくなってしまうような先入観を与えてはダメ、ということなんですね。そして、そのためには、小学校の先生は、中学校の学習内容を把握し、どこにどうつながっているかを知らないとならないんです。

 さらにもう一つ。「文字のセンス」で大事になるのは「文字を数字と同様に扱えるようにする」というのがポイント。単に数字の代わりに文字を扱っているわけですから、文字に対して「特別な存在」という意識を払拭しなければならないんです。そこで、大切になるのも、やはり小学校のときにきちんと式を書くことなんです。
 子供達が文字式を勉強しているときに、式を作る段階で「単に、数字のところに文字を当てはめればいいんだ」という感覚で勉強を進めて行けるようにすること。そうやっていると、自然に「文字に対する抵抗感」が薄れて行くんです。ここが式を作る重要な部分なんです。
 ところが、釧路ではほとんど式を書かないんですね。結果、文字式は文字式で「数字とは別の扱い」。文字の感覚が薄いまま勉強が進んでいって、最終的に「計算すら満足に出来ない子」が続出。数学の平均点が赤点になってしまうわけですよ。特に中学校の数学で、一番大事なのは「文字のセンス」なんです。文字を自由に扱えるようになって、中学校の数学は一人前。

 裏を返すと、平均点が赤点である以上、「文字の感覚が薄いままの半人前以下の子」が大量にいる、ということなんです。そして、その原因は、小学校のときに、ちょっと面倒な立式は「難しい」と言って、学校の先生が正面切って向き合っていない事にあるんです。

 ただ、これ、もう全国的に蔓延しているのかも知れません。個人的には、小学生を就学前児童と同様の扱いにしてしまって「何でもかんでも誉める」という指導に問題あり、と思っています。誰でも出来るような事をやって、無理矢理「すごいね〜」と言って、イェーと言いながらハイタッチ。これ、せいぜい引っ張っても小学校2年生くらいまででしょう。そこから先は、誰でも出来るような事が出来ていたくらいでは、わざわざ大げさに誉める必要なんか無いんですよ。
 中学校3年生になって受験生になったときに、計算練習で「小学校4年生」の問題をやらせるわけです。そうしたら、6問くらいあって、全問正解すると「よっしゃー」とかやっているわけ。カッコ悪いでしょ。
 「湖陵を受験したいって言うなら、小4の問題くらい、全問正解で当たり前。そんなことで、よっしゃーとか言い出すな。情けない」という話をしてあげて、ようやく、自分の置かれている状況とか、学習内容の難易度についての感覚とか、そういったものが変わって、勉強に対する意識が変わるんです。

 だから、一つ一つの問題を扱うときに、子供達がどういう感覚でこの問題を捉えるか、というところまで考えて扱わないとならないんだ、というお話です。
(2017/02/25)

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「文字のセンス」3


×÷の省略

 一般的に、文字式で×÷の省略を扱う場合、ただ「約束事」を覚えてお終いなんですね。で、何となく式のままで書く、という感覚の子が多いんです。教えている側もあまり気にしていない。でも、それでは数学が出来るようにならないんですよ。
 どういうことか、というと、文字式の×÷の省略は、初期段階では「計算した答え」という感覚で捉えなければならないからなんです。

 例えば、小学校で
3×5=15
となって、答えが数字ででるでしょ。これに文字が入ってくると
3×a=3a
と表記するんですが、このときに、×が省略された3aは、数字で計算した15と同じ、計算して一つにまとまった「答え」なんだ、という感覚が大切になるんです。

 だから、a÷b×c は、×÷の記号を省略するとac/b(b分のac)となりますが、a÷bcだと、bcはすでに計算された一つの数字と捉えて、a/bc(bc分のa)となるんですね。
 さらに言うと、
a+b
というように、足し算になると計算記号の省略は出来ませんから、答えはそのままa+bとなるんですが、答えを書くときには( )をつけて (a+b)円 というように書きなさいと習いますね。これ、計算した答えとしてひとまとまりとして考えなさい、という意味で( )がついているんです。
 そして、これが進んでいくと
「時速xkmでy時間進むと、xy(km)進む」という表記も、xyは計算された一つの数字と捉える感覚になって行きますし、食塩の量として出てくる0.3x(g)なども、計算して出てくる5gとか10gのように、一つの数字として捉えるようにしていきます。よく問題で出てくる「最も簡単な形で表しなさい」というのは、数字だけの式で言うと「ちゃんと最後まで計算して答えを出しなさい」と言っているのと同じ意味なんです。
 ちなみに、答えに単位をつける場合の( )の付け方ですが、自分の場合は、答えに+−の記号が入るときは(a+b)円 のように答えの方に( )をつける。×÷が省略されているだけの場合はxy(km)のように単位の方に( )をつける、というように指導します。

 という話を聞いたときに、皆さん、どう思いますか? ということなんですが「こんなの初めて聞いた」という人、いませんか? おそらく、釧路出身者は、ほとんど聞いたことがないんじゃないかと思います。こんなの学生時代に習ったことなんか無い、という人が大半だと思いますし、それが高じて、保護者の方でも「こんなのどうでもいいべさ」と思っている人が多いんじゃないかと思うんですね。ところが、それが学力低下の始まりなんです。
 実は、北見・帯広は、こういう細かいところがしっかりしていますし、自分が学生時代も、こういう話を学校できちんとされているんですね。そして、数学というのは、こういう細かな部分をきちんやることが大切。そうやって一つ一つの「数学のセンス」を養っていくことが大切なんです。
 ちなみに、答えの( )の付け方で言うと、生徒が言ってくる内容はこういう差になります。
 北見あたりだと「先生、答えの( )の付け方、こういうときはどうすればいいの?」
 これが釧路だと「先生、そんな( )なんか、どうでもいいしょ?」
 ね、学校できちんとやらないから、生徒の感覚もこういうふうになるんです。

 おそらく、釧路の教師も塾講師も「こんなの数をこなせば何となく身につくでしょ」くらいの感覚なんです。でも「何となく感覚でこなす」と考えるのは、大学で言うと「私立文系」タイプなんです。理系じゃありません。理系って、細かいことまできちんと行かないと気が済まないというタイプなんですよ。ざっくり感覚的に出来ればいいしょ、というものでは無いんです。
 そこをはき違えているから理系が育たないんです。湖陵理数科に行ったにも関わらず文系に変えるのは、単に数学が不得意だからだけではなく、細かいところまで追求しようという姿勢がそもそも身についていないからなんです。

 学校の先生については、上記の内容はみんなが知っていなければならないことなんです。指導書にも載っているでしょ「文字の意味を理解させる」なんていうの。研修授業で取り上げるのはこういうことですよ。「あんなことやりました」「こんなことやりました」ということが書いてありますが、根本的な解決になっているような方法を見たことがありません。
 「自分たちの方法で学力を上げます」と言ったところで、上記のような具体的な方法は持ち合わせていないのではないかと思うんですが、どうなんでしょう?

 ということで、教える側が「俺、何となく学生時代にこれで出来たから」くらいの感覚で、どんぶり勘定の授業で済ましているのであれば、それは大学生のアルバイトと何ら変わりません。なぜ、子供達が出来ないか、ということを上っ面ではなく、もう一歩踏み込んで考えていくことが出来ないと、本当のプロではありません。
 上記の内容を知らずに「俺は釧路で一番数学の授業がうまいんだ」なんて言ってないだろうね。
(2017/02/26)

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「文字のセンス」と「文章立式のセンス」


国語の読み取りとは違います

 よく文章問題を扱うときに、自分もお母さん達には「文章の読み取りですから国語力が大事です」とは言いますが、実はこれ、国語の文章を読みとるという感覚とは全く別物になります。これは、お父さんの方が経験があると思うんですけれども「おれ、国語は通知表3だったけど、数学は5だったぞ」っていう感じ。以前は、国語の文章を読ませてもなんかパッとしないんだけど、数学だけはバッチリ出来るという男の子って、結構多かったんです。もちろん、漢字が読めないなんていうケースだと論外なんですが、それさえクリアしていれば、後は数学独自の「数学の読み取り方」がしっかり出来ていればオーケーなんです。

 それで、例として、連立方程式の問題を扱ってみますね。
「ある会場の入場料は、大人4人と子ども7人で1360円。大人2人と子ども2人で560円です。大人1人、子ども1人はそれぞれ何円ですか」
 こういう問題が出てきたときに、まず最初、xとyを指定して、そのあと学校の先生は普通に「大人4人と子ども7人で1360円」にアンダーラインを引いたりして式を作らせようとしますね。これ、要するに「立式に必要な条件に当たる部分を文章から抜き出す作業」なんです。これが出来ていればオーケーなんです。そして、そのあと「大人2人と子ども2人で560円です」からもう一つ式を作って、計算して答えを出してお終い。こんなところに国語のイメージとか、必要ですか? 単純に小学校の文章問題で「合わせていくつ」くらいの内容が出来ていれば、それと同じ事を2回やればいいだけです。ただ、釧路の場合「文字式のセンス2」でも書きましたが、この程度のものでも「難しい」というイメージを小学校のときに与えてしまっているから、出来ない子が出てくる、というだけなんです。こうなると、小学校の復習からやらせないとダメですよね。

 さて、次に「速さ」とか「食塩水の問題」になっていきます。そして、ここで大切になるのは、この「立式の条件」が、文章の中に直接書かれていないから、それを読みとることなんです。だから、この問題を説明する前に
「食塩水の問題は、今までと違って、文章を読んでも直接文章内に条件が書かれていないから、それを自分の力で見抜いて行かなければならないんだよ」
ということを前もって話しておかなければならないんです。そうやって、今まで勉強してきたものとの違いをきちんと話してから、内容に入っていかなければならないんです。そして、見た目で分かりやすいように図を書いたりするわけ。
 このように、その問題の狙いや性質・ポイントをきちんと理解して(上記であれば、条件が隠されているとか)、その内容を生徒に与えられるかどうか、という部分が大切になるんです。そういうポイントを理解せずに「ああすれば出来る」「こうすれば出来る」は無意味。もっと「問題自体を研究」しなければならないんです。

 そして、それでも「図を書いてきちんとやろうとしない子」というのがいるんですが、自分が言っているのは、ここまでお膳立てしていても書かない子がいるという話で、単に「図を書けばできるんだぞ〜」という感覚で「書かないんだよな〜」と言っているのとは、根本的に授業のレベルが違うんです。
 図を書かないのは「面倒くさい」とか「俺は図を書かなくても出来る」とか、そういう感覚でいるか、「図をお膳立てしてあげても、どこに何を書いていいのか分からない」という「図や表のセンスが抜けてしまっている子」なんです。国語力とは関係ないんです。
 ただ、大抵の子は「条件を見抜くのに必要だ」という感覚で考えますから、図をきちんと書くようになってきます。そして、頭の中で条件を組み立てられる子は、文章からそのまま式を作るようになりますね。結局、図のイメージなんて関係ないんです。

 食塩水の問題も、ここから一歩進めていくと、今度は「食塩水と水を混ぜる」「食塩水の水を蒸発させる」とか「食塩水の一部を取り出して混ぜる」とか、そういう問題に切り替わってきます。そうなると、一番楽な解法としては、基本の問題との比較で「どの条件がどのように変わるのかを見抜いていくこと」になります。
 ただ、釧路では、ここまでの内容を扱っている学校を見たことがありません。こういう「条件を見抜く練習」をさせないと、学力が上がらないでしょ。そして、こういうレベルの問題を扱えるくらいの余裕で、カリキュラムが組まれているはずですよ。それをやりもしないで、何でこんなに授業が遅れるの? 

 ということで、文章問題の場合、この「条件を見抜く」、そして、見抜いた後「それを文字式で表す」という作業になります。文字式で表すということについては、前項までに書いていますから、ここでは割愛しますが、こういう手順なんです。
 だから、文章問題が出来ないという場合、「条件が見抜けないのか」「見抜けても文字式で表せないのか」というこの2点のどこでつまずいているかを確認していくことになります。
 さらに言うと、この「条件を見抜く」感覚をグラフに置き換えると「関数の問題」が出来るようになりますし、図形に置き換えると「図形の問題」が出来るようになります。「私、計算は出来るけど、その他は・・・」という人は、この「条件を見抜くセンス」が未成熟ということなんですね。

 正直、まだ授業が未熟な1年目とか2年目の先生だと「文章問題だから国語力が必要」という感覚でいる人も多いと思いますが、基本的に「国語の読み取り」と「数学の読み取り」は違うということが大事で、その点を理解していくためには、少なくても一通り自分の力で、中1の正負の数の導入から中3の最後まで、きちんと全学年通して授業を構築出来るようにならないと結局、その時点で何が必要かということが見えません。一部だけを見て、ここは「ああする」「こうする」という事をやってみたところで、そんなのは付け焼き刃の空論にしかならないということです。
 さらに、ベテランがこういった保護者レベルの感覚でいたら、情けない。もう少し「子供達はどこが出来ないか」という事を追及していかないと。そして、何でもかんでも「国語力」と考えているようなら、それは、前項でも書きましたが「文系感覚」で数学の授業を進めようとしている人なんです。
 それでは、根本的に数学の学力をつけることは出来ないんですよ。
(2017/02/27)

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「文章立式のセンス」2


小学生の基本

 前項で「これが出来ないと小学校内容の復習が必要」と書きましたが、それでは、小学校ではどんな感じなのかな、ということを小学校低学年内容でお話しますね。

 小学校の低学年では、まだ、言葉の反応自体が薄い、ということを前提に考えるので、例えば「合わせていくつ?」と出てきたら足し算だよ、とか「どちらがどれだけ多いでしょう?」と出てきたら引き算だよ、というところからスタートします。小学校1・2年生だと、こうですね。また、まだ計算自体の弱い子もいますし、ビジュアル的に分かりやすくするために、ミカンがお皿にのった図などを書いたりするわけです。
 それで、これもちょっと考えてもらえば分かると思いますが、慣れてくると、文章を読んでいちいちお皿にミカンがのっているところを想像しながら式を作るわけではないでしょ。「数字」と「合わせていくつ」のような言葉から、足し算の式を作るという作業をするだけなんです。要するに「文章の中から、式を作る条件」を抜き出してサッと式を作って計算をしているだけなんですよ。
 だから、こういう問題に対して反応の悪い子に、もう一度図を書いて丁寧に説明したところで、結局「わかんない〜」ってなりませんか? それは、条件が分からないか、本人の中に迷いが生じる「別の要素」が入り込んでいる、と考えた方が無難なんです。そこを追及しないと出来るようにならないんですよ。

 そして、ここから、上記のような「合わせていくつ」という言葉だけではなく、その他の言葉のバリエーションを増やしてあげることが大事なんです。「全部でいくつ」とか、もしくは、こういうキーワードが出てこないものとか。そういうのに慣れさせて行くんです。そうなると、先生が生徒にやらせる問題を決めるときに「どういう言葉を使っているのか」という事を吟味することが大事になるんですね。
 ところが、そこまで気が回らないと、何となく「文章問題が出来ない」という感覚で、中身を吟味せず、その辺の問題集をまるまるコピーして、生徒に配って「宿題で〜す」のような事をやってしまうんです。それで、著作権に引っかかるとか、そういう問題になって行くんですよ。

 それから、ある程度、文章問題に慣れてきたら、今度は「逆の発想」の問題にも手を着けていきます。例えば、こんな感じ。
「ミカンが皿の上に5個ありました。それに、何個か足すと、お皿のミカンが8個になりました。何個足しましたか?」というレベルのものです。要するに「足しましたか?」という言葉で、引き算をする事になりますね。
 実は、子ども未来塾などで、問題をやらせていると、この「逆の発想」の問題の正答率が予想以上に低いんです。基本的には四則が全部揃って、小学校3年生で扱うことが多いと思うんですが、ここが怪しい。やはり、小学校3・4年生の先生の教える力量が低いのではないかと思うんですが、どうでしょう。

 この「逆の発想」、近いところでは、次の小学校4年生だと「□(四角)を用いた式」で扱います。ところが、その前の段階である程度慣れていないと、この段階で全然分からなくなってしまう子がたくさん出てきてしまうんですよ。そして、その前段階での慣れが、あまりにも薄い。これが、先に続いていかない一つの原因になっているのではないか、ということですね。
 さらに、この「逆の発想」、遠くで見ると、中学校2年生の証明でも関わって来るんです。いわゆる「論理の逆」というやつですね。「二等辺三角形の底角は等しい」の逆で「底角が等しければ二等辺三角形である」というやつ。小学校の文章問題と侮っては行けません。一見関係なさそうに見えますが、こういう「逆を行ったり来たり出来る感覚」というのは、後々まで影響があるんです。

 ということで、こういう「センス」という視点で、数学全体の流れを考えていくと、学習内容のつながりが細かい部分でハッキリしてきます。自分は、小学校の復習を重要視しているんですが、こういう「センスつながり」というのがあって、小学校の基本的なセンスを鍛えておくと、今まで分からなかった中学校の学習内容がスッと頭に入ってきやすくなるんですね。
(2017/02/28)

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「文章立式のセンス」3


動く感覚と止まった感覚

 算数・数学の文章問題では、国語のイメージと数学のイメージの取り方が違う、というお話を前項・前々項としてきましたが、おそらく、その極めつけは「動点の問題」ではないかと思います。

 「動点の問題」とは、こういう問題。
 「点Pが三角形ABCの頂点BからCまで、毎秒1センチメートルの速さで移動する。三角形ABPの面積が96平方センチメートルになるのは、点Pが点Bを出発してから何秒後か?」
 図は割愛しましたが、こういうふうに、点が移動する問題なんですよ。

 この問題、純粋に国語的に捉えると、点が動いている状況を想像するんですね。ところがそれでは訳が分からない、とっかかりも掴めないんです。それで、塾の講師は必ずこういうことを言います。
 「動いていると考えると、分かりずらくなるので、96平方センチメートルになったところに点を止めて考えるんだよ」そして、解説も、動いている状況ではなく、1秒後で止まった、2秒後で止まった、という感じで、ビデオのコマ送りのような感覚で解説を入れるんです。

 要するに、子供達が初めてこの手の問題に接したときには、文章通り「動いている状態」を想像してしまうので、それを数学的発想の「点を止めて考える」という、そういう解釈の仕方に切り替えさせるんですね。

 同様の問題が小学校レベルの和算で扱う「通過算」になります。
「長さ128m、時速81kmの特急電車と、時速63kmの快速電車がすれ違います。電車が出会ってから完全に離れるまで7秒かかりました。快速電車の長さは何mですか?」
 これも、すれ違って動いている状態を想像してしまうと、手が出ないんです。だから、すれ違い始めの瞬間と、すれ違い終わりの瞬間で止めた状態を想像する。そして、その間の動きを1秒・2秒・・・と順に設定し、その間の動き方の規則を見つけていく、という考え方をします。そうやって、文章の解釈の仕方を数学寄りにしていくんですね。

 ということなんですが、ここでちょっと考えてくださいね。

 ここで出てきた「動いていると考えると、分かりずらくなるので、96平方センチメートルになったところに点を止めて考えるんだよ」とか、前々項で出てきた「食塩水の問題は、今までと違って、文章を読んでも直接文章内に条件が書かれていないから、それを自分の力で見抜いて行かなければならないんだよ」というように、実は一つ一つの「文章問題」に対し、事前にどういうことを生徒に言わなければならないか、という事が決まっているんですね。よく「授業のシナリオ」なんて言いますが、それこそ「このときには、これを言わなければならない」という文字通り「セリフ」が決まっているんです。ですから、自分が学習塾で数学科の主任をやっていたときには、大学生のアルバイトに、こういう授業で言わなければならないセリフをたたき込むんですね。だから、大学生のアルバイトでも、このくらいの授業が出来るんです。

 ところが、こういう「子供達がどういうところで迷うか」という感性の鈍い人は、動点の問題だと、そばに図が書いてあるので、それを見て、そこに適当に数式を書いてお終い。子供達がどこで分からなくなっているのか、というところに手を伸ばした解説が出来ないんです。ただ「図に書き込め〜」とやり出すんですよ。学校の先生でも塾講師でも、そういう感覚の人って、釧路の場合、結構、いるんじゃないかな、と思います。

 そして、もっと言うと、実は、以前いた北見では、だいたい北見工業大学の学生がアルバイトに来るんですが、こういう元々理系の学生は「動いているのと止まっているのとでは、感覚が違う」ということをすぐに理解して授業に生かせるのですが、釧路教育大の学生だと、その感覚の違いが理解できず、なんかぼんやりしている感じなんですよ。おそらく、理系の子だと、小・中・高校と数学の勉強をしてきた中で、この感覚の違いによって問題が出来る出来ないの差が出るということを実感しているのに対し、文系感覚の子は、きちんとした考え方を持たずに何となく過ごしてきただけなんでしょうね。だから、分からないのかな、と思っています。

 ちなみに、塾の研修の中で「生徒の質問」を想定した対応の練習というのがあります。普通は、実際に生徒から出た質問や、授業の練習の中で説明が足りなかったところに関しての質問になったりしますが、釧路の自分のいた学習塾の場合、なんじゃそりゃ、というような、実際にはあり得ないような質問で、単に「研修を受けている学生や新人講師をいじめているような質問」ばかり並べ立てるような事をやりだすんですよ。いわゆる、今で言う「パワハラ研修」みたいな感じなんですよ。それでいて、授業の流れを身につけるような研修って、ほとんど無いんです。
 大丈夫か?
(2017/03/02)

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「文章立式のセンス」〜和算と先取り


先の学年の事をやってもあまり意味がない

 前項で「和算」の話を書きましたから、ついでに和算についてお話しておきますね。

 ざっと、並べてみるとこんな感じでしょうか。
和差算
消去算
倍数算
分配算
年齢算
差集め算
過不足算
つるかめ算
植木算
方陣算
仕事算
旅人算
通過算
流水算
相当算
時計算
ニュートン算

 小学校で扱う内容なんですけれども、これが中学校でどうなるか、というと、例えば「紙テープをつないで、その長さを文字式で表す」「マッチ棒を並べて図形を作り、その本数を文字式で表す」なんていうのは、実は「植木算」の考え方。方程式で「誰かが誰かを追いかけたり、誰かと出会ったり」するのは「旅人算」の考え方。「列車がトンネルや鉄橋を通過する」というのは「通過算」の考え方なんです。具体的な問題を知りたい方は、市販の問題集などを見ても普通に載っています。そのくらい、普通に扱うレベルなんですよ。そして、学校でも、小学校4年生で「植木算」の考え方をやっていたりするんですね。もちろん、学校でやっている、やっていないに関わらず、小学校3年生で「和差算」くらいの考え方は身につくと思いますよ。

 それで、この和算に関してですが、小学校の先生は教科書を見ていて、ある程度知識はあると思いますが、釧路の場合、この和算がダメなのは、むしろ塾の方ではないかと思います。要するに中学受験があまり絡まないので、小学生をきちんと教えられる先生がいない。中学校を教えていても小学校の内容を研究しようとしないから、こういう問題自体に触れていない。おそらく、この辺が理由だと思います。すなわち、小学生に「幅を広げる内容」を教えられる先生がいない、ということなんです。
 個人の塾だと、ちゃんと出来る先生がいるかも知れませんが、大手の学習塾だと、まず、ダメだと思った方がいいでしょう。もちろん、中学校の先生も、塾と同様、小学生内容を把握できていないでしょうね。結局、どちらも「勉強不足」なんですわ。

 そして、こういう内容を知らないと「レベルの高い」事は「上の学年の内容を教えること」と勘違いし出すんですね。「小学生が中学校の内容を勉強する」とか「中学生が高校の内容を勉強する」ことがレベルの高いこと、と思いこんでしまうんです。これ、社会や英単語とか、そういうものだったら分かりますが、数学となると、それは間違いなんです。
 実例で行くと「公文」がそうなんですよ。

 実は、公文に通っている小学生の子で中学校の内容を習っているとか、高校の内容を習っている、という子は結構います。ところが、こういう子は、中学・高校に行って出来るようになっているか、というと、そういうわけではないんです。実際は、先に公文で中学校の方程式を習っていた、なんていう子がいたとしても、中学校に入って周りの子供達がみんな方程式を習った時点で、周りに追いつかれ、結局、ドンドン学力的に埋もれていってしまうんです。高校内容でも同様です。
 正直に言うと、釧路の場合、学校の平均点が赤点ですから、公文で計算が出来れば上位にいれる、という状況なので、中学生でも公文に通っている子は結構いるんですが、学力が普通の地域では、公文は「だいたい小学校3・4年生まで」。せいぜい引っ張っても「小学生まで」と考えている保護者が圧倒的に多いんです。

 ですから、普通の感覚で考えた場合、算数・数学に関しては、上の学年の内容をやるよりも、今、習っている内容の幅を広げた方が将来的には、圧倒的に有利なんです。

 もう一つ別の例を挙げておきますが、これは東大・京大を輩出している予備校の先生のお話ですが「やはり、中学受験を経験している子としていない子では、中学受験を経験している方が有利で、学力も高い」ということなんだそうです。
 それで、中学受験を考えたときに、小学校の勉強内容は、大抵、小学校5年生か、もしくは6年生の最初の方で終わらせてしまいますよね。なぜ、こういう事をするか、というと、時間を捻出して、考え方の幅を広げる時間を確保したり、考え方の幅を広げる内容をより多く扱えるようにするため、なんです。だから、中学受験の有名塾では、小学生の内容を終わらせたあと「先取りして中学校の内容をやる」なんていうことはしません。先取りが効果が無いことを知っているからです。
 そして、この中学受験で「和算」などを取り入れて、算数・数学の「考え方の幅を広げている」から、大学入試にも有利になるんです。

 ということで、先の学年の内容が出来たからといって、レベルが高いということは、数学ではあり得ません。むしろ、今まで書いてきたような「数学のセンス」を鍛える方向で、今習っている学年の内容を中心に「考え方の幅を広げる」内容を勉強していきましょう。
 それに一番見合っているのは、何と言っても「和算」なんです。
(2017/03/03)

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知識と指導力


知っていると対応力が変わる

 前項で、和算を知っているか知らないか、その差について若干触れたので、その続きで、ここでは、きちんとした教務上の知識があるか無いかで指導力に差が出る、というお話を書いておきますね。ベテランで、指導力の高い先生だと「こんなの当たり前だろ」という話にしかならないのですが、現実問題として、釧路全体が、あまりにも算数・数学の学力が低いのは、おそらく、こういう事を知らない先生が多いのではないか、という想定でのお話です。同じ「センス」の話でも、こちらは「指導のセンス」のようなお話。

 ここで、一つ問題です。
「正四角錐に頂点は、いくつありますか?」
 ちょっと考えてみてください。

 答えは「1つ」です。実は、あのてっぺんのとんがりだけが頂点で、底面の4つの角は頂点とは言わないんです。なぜかというと「頂点の定義」に、底面の4つの角が合わないから。定義については、指導書にちゃんと書いてあります。知らなかった人は、指導書をちゃんと読みましょうね。
 この角錐の頂点、中学入試では結構厳密に扱われていて、きちんと知らないと問題文の意味が読みとれなかったり、解説を見ても、意味が分からなかったりします。気をつけましょうね。
 また「数字のセンス」のところで書いた「0のセンス」なんていうのも、指導書に載っている内容です。「0をきちんと扱えるようにしましょう」なんていう目標が書いてあったりするわけ。

 それで、上記の「角錐の頂点」や「0のセンス」の話を聞いてピンとこない人は、指導書すら満足に読んでいなかったり、読んでいても意味が分からなかったりしているんですよ。実は、教科書って、長年ずっと研究されてきている訳ですから、こういう基本的な、子供達が身につきづらい「センス」などについては、きちんと指導内容として、組み込まれているんですよ。だから、教科書の内容で何が大事になるか、ということくらいは、ちゃんと読み込んで、子供達にきちんと教えなければならないんです(ただ、その配列や手順で、変なところがあるので、そこは直して教えなければならないのですが)。

 そして、こういう知識があるかないかで、指導力が変わる、と言うことなんですが、これは「0のセンス」で例を挙げましょう。

 自分たちの仕事上、よくお母さん方から「うちの子、落ち着いて計算しないから、すぐに計算間違いをするんです」とか「うちの子、計算だけはちゃんと出来ているようなんですけれども・・・」なんていう話をよく聞きます。こういう話を聞いて、大抵は話を額面通りに受け取って「計算を特訓しましょう」とか「計算以外をガッチリやりましょう」と考えるんだと思うんです。ただ、自分は、根性が曲がっていますから、お母さんの前では、額面通りの答え方をしていても「計算が出来ていないのは、落ち着きがないからではなく、計算問題に0が入ると出来なくなるんじゃないか」とか「一見出来ているように見えても、計算問題に0が入ったら、出来なくなるんじゃないか」くらいのあたりをつけておくんです。

 そして、実際に計算をやらせて、間違えているところがあったら、問題に0が入っていないかどうか、真っ先にチェックをするんです。当然、ビンゴ! となるわけです。そうすると「0のセンス」が怪しかったら、先に書いたように「位取り」も怪しい可能性が高いわけで「それじゃあ、九千八百一を書いてごらん」とやるわけです。すると、だいたい3分の1くらいの子が正しく書けない。九千八百一を見て、最初に数字の981を書いてから、位を合わせるために00とくっつけて「98100」と書く子が出てくる、といった具合です。

 それが「0のセンス」を知らない先生だと、単純に「間違えた問題をもう一度解き直ししようね」と計算の仕方を教えるだけでお終い。位取りの確認はしないでしょうし、根本的に「0のセンス」は直っていない訳ですから、結局、0の絡む内容で同じような間違いを繰り返してしまう、ということになるんです。
 要するに、生徒が間違えたときに「どこに着目して良いか」が分からない。だから、付け焼き刃みたいな対応しか出来ない。それで、結局、責任は全部「国語力」というような話になってしまうわけです。ところが実際は、漢字検定を基準で見ても、4級・5級に受かっている子で「繰り下がりの引き算」が怪しい子もいれば、7級・8級に受からないような子でも、小数・分数の計算がちゃんと出来る子もいるわけで、この辺の内容になると、原因は国語では無いんですよ。算数・数学、そのもの自体に原因があるんです。「単元を貫く言語活動」でしたっけ? そんなことじゃ、算数・数学は出来るようにならないんですよ。

 そこで、一番、問題になるのが、こういう内容を、きちんと先生方に指導出来ているんですか? ということなんです。
 教育委員会では、こういう授業内容を指導する立場として、指導参事・指導主事という人がいるんですが、この人たちに、上記のような認識があるんでしょうか? 学校に出向いていって、各学校の先生方の授業を見たときに、単にダメだしするのではなく、こういう内容を現場の先生にきちんと伝えられるんでしょうか? 
 実は、その地域の学力・指導力は、トップの人間の指導力によって大きく左右されるんです。トップの人間の実力が低いと、指導力が上がっていかないんですよ。
 学校の先生だと、我々とは別の、指導上の注意事項なども、もちろんあろうかとは思いますし、その分、大変と言えば大変なのかも知れませんが、それと教務とは、やはり、一線を画し、教えるべき所はきちんと教える、というスタンスでいないとならないと思うのですが。
(2017/03/04)

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作成と指導力


分類が大事

 前項のつながりで、指導力を上げるにはどうしたらいいか、ということを、今度はプリント・テストの作成を基準に書いていきますね。今回もベテランの指導力のある先生にとっては「当たり前」というお話です。

 まず、最初にちょっと考えて欲しいのが、2桁+2桁の計算には、いくつパターンがあるか、ということです。

 1 繰り上がりのないもの(足す数・足される数、共に0を含まない)
 2 繰り上がりのないもの(足す数の一の位が0)
 3 繰り上がりのないもの(足される数の一の位が0)
 4 繰り上がりのないもの(足す数・足される数、共に一の位が0)
 5 一の位のみ繰り上がりのあるもの(答えの一の位が1〜9の数字になるもの)
 6 一の位のみ繰り上がりのあるもの(答えの一の位が0になるもの)
 7 十の位のみ繰り上がりのあるもの(答えの十の位が1〜9の数字になるもの)
 8 十の位のも繰り上がりのあるもの(答えの十の位が0になるもの)
 9 一の位・十の位の2回、繰り上がりがあるもの(答えがすべて1〜9の数字になるもの)
10 一の位・十の位の2回、繰り上がりがあるもの(答えの一の位が0になるもの)
11 一の位・十の位の2回、繰り上がりがあるもの(答えの十の位が0になるもの)
12 一の位・十の位の2回、繰り上がりがあるもの(答えの一の位・十の位が共に0になるもの)

 今まで「0のセンス」については、しつこく書いてきましたが、この「0のセンス」は非常に大切なので、独立した分類になっているということなんですね。そして、市販の問題集などでは、このような分類がしっかり行われていて、例えば旺文社の「計算問題の解き方」という、ピンク色っぽい表紙の問題集では、この分類に当てはまる項目を、例えば「繰り上がりのない2けた+2けたの計算」というようにタイトルとして書いてくれていたりします。すなわち「どのパターンときに出来るか、どのパターンのときに出来ないか」を確認出来るようになっているんですね。そして、自分が見ている限り、こういう分類が一番しっかりしているのは受験研究社の問題集ではないかと思っています。

 さて、この分類がしっかりしていないとどういう事になるか、というと、指導者側が、計算パターンの抜けている部分に意識が行かない。だから、教科書を教えて何となく出来ているな、と思ってそのまま次の単元に進んでいったりするのですが、結局、パターンの抜けているところが穴となって、結果、子供達の学力が頭打ちになってしまう、という事態が起こります。ちなみに、こういうパターン分類というのは、計算に限らず、すべての分野にあることですから、そこが無頓着だと「数字のセンス」や「図形のセンス」などの分類内容が、どんどん抜け落ちていく、ということですね。これじゃあ、学力が上がりません。

 ですから、きちんと分類を行って、一つ一つきちんと確認していくことが大事になるんです。そして、例えば、上記の分類で行けば「1〜4まではすぐに出来た、ところが5のパターンになるとかなり正答率が低い」となった場合、5のパターンに分類される問題を多めに練習するとか。また、答えに0が入る問題の正答率が低いとなれば、その問題を手書きのプリントにして、宿題にするとか。そうやって、補強するところをピンポイントで見ていく事が出来る訳です。自分は、よく「問題の量をこなせ」と言っていますが、単純に300問とか400問と言っているわけではありません。例えば、上記の例で行けば、1〜4までは20問ずつ。5〜8までは30問ずつ、というように、分類したそれぞれから、算定した数値なんです。

 また、自分が作成を担当した「子ども未来塾」のテストも、このような分類のもと、子供達の実力を確認するのにいいパターンをピックアップして作成していますし、同様のことは「算数・数学検定」などでも行われているんです。もちろん、教材会社などは、このあたりの分類については、非常に気を使って参考書や問題集を作成しているんです。だから、そこに知的財産が絡むわけで、問題の配列〜レイアウトなどに著作権がかかる、という仕組みになっているんです。
 ところが、残念な事に、学校の教科書は、この分類について、結構、無頓着なんです。同一パターンが複数ある割には、抜けているパターンがゴソッとあったり。要するに「指導する内容」については、丁寧に書かれている割に、こういう配列については、残念賞なんです。だから、教科書だけ一生懸命やっても学力がつなかいんです。プリントなどで適宜、補充して行かなければならないんですね。

 ちなみに、こういう分類感覚がない人が、きちんと分類されているテストや問題集を見ても、意味が分からないので「自分もこのくらいのプリントなら作れる」くらいに思っているんです。でも、その程度の見識しかない人には、学力は上げられない。たまたま生徒が出来てくれて「ラッキー」なだけなんです。
 そして、こういう「分類に無頓着な感覚の人」って、人から教えられたりしない限り、いつまでも気づかないままで過ごしてお終いだと思いますよ。そして、子供達が出来ない原因が掴めないから、いつまでも「国語が大事」にしかならないんです。

 逆に、こういう見識があれば、定期テストの問題を見るだけで、その先生の実力が分かります。同一パターンの内容ばかり出しておきながら、その他のパターンについては、ボロボロ抜けている。そういうテストを作っている先生は、パターン分類が出来ていないため、授業で教えている内容でも抜けている内容が大量にある、ということになるんです。もう少し、気を使ってテストを作れるようにならないと。また、こういう分類が出来ていない状態で、単に内容を難しくしろ、というのも、分類が出来ていないと言うことでは「同レベル」なんです。単に難しい問題を出せばいい、ということではないんですよ。
(2017/03/06)

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分類と難易度


難易度が設定できないと指導力が上がらない

 前項で「分類」について書いたので、今回はその続きで「難易度設定」のお話。

 実は、前項で書いた「分類」が出来ないと「難易度」が設定できません。というのは、分類をする事によって、その問題と他の問題との違いを認識出来るようになります。すると、その「違い」になっている「要素」を見抜く力があるということですね。そして、その「要素」が難易度に関わってくるんです。
 例えば、「図形」の問題で言うと「補助線があるか、ないか」という項目で分類しますが、問題を解くときに「補助線を自分で書かなくてはならない」ということになれば、あらかじめ補助線が引かれている問題よりも難易度が高い、ということになります。証明問題でも「穴埋め」か「全部自分で書くのか」で、難易度が違いますね。
 そして、このように「見た目ですぐに分かる分類」もあれば「見た目ですぐに分からない」という分類のものもあります。大事なのは「見た目ですぐに分からないもの」についての難易度設定なんです。そういう問題のときに分類が出来なければ、難易度設定が出来ませんし、違いが分からなければ、生徒へのコメントの質も違ってくるのです。

 例として「0のセンス」をずっと使って来ていますから、ここでも「0のセンス」でお話ししますが、この「0のセンス」を理解している先生は、計算練習をさせるときに
「0があるところは、位取りに気をつけて計算しようね」
くらいのことは言えるんです。ところが、この「0のセンス」が欠けている先生は、0が計算能力に大きく影響を与えていることを知りませんから「計算間違いは、落ち着きがないからだ」くらいの感覚でしかありません。だから
「落ち着いて、間違えないように計算しましょう」
というようなコメントになるんです。
 そして、具体的に注意するところをコメントしておくと、子供達は「具体的に注意しなければならない点」を認識できるようになっていくのですが、具体的な学習内容についてコメント出来ないと、子供達も「ただ、何となく注意しているような気になっているだけ」で計算をし、最終的に、きちんとコメント出来る先生に習った子供達より正答率が落ちていく、という事になるんです。

 もう一つは「難易度逆転」の話なんですが、もしも「0のセンス」があらかじめ身についている子がいれば、0の入った計算って、すごく楽にやるんです。普通の数字よりも簡単ですから。ところが「0のセンス」が無い子は「0は嫌い」という感覚で、いろいろ迷った挙げ句、とんちんかんな答えを書いてしまう。となると「センスがある子」は0の入った問題の難易度が低くなるのに対し「センスが無い子」は0の入った問題の難易度が上がるんです。こういうところを見抜いていないと「前の学年の子は出来たのに、今年の子供達は出来ない」などという現象が起きた際、その原因が分からないため、その原因を国語に転化してしまう、という事を平気でやってしまうわけです。何でもかんでも「国語のせい」にしてしまうんですね。
 そして、こういう部分を子供達を教えている中で見抜いていかなければならないんです。そうすることで、子供達に合わせた難易度設定が可能になります。

 中学校の先生で、問題を見て「この問題は難しい」なんて言うこともあると思いますが、「なぜ、この問題は難しいのか」というところを解答解説でコメント出来なければ、そんなの指導にも何にもなっていません。そして、なぜ、きちんとしたコメントが言えないのか、というと「分類」による「要素」の確認が出来ず、ただ何となく「難しい」と言っているだけだからです。そして、その難しい・易しいは、先生の「自分基準」だったりします。分類が出来ていないとしても、最低、問題の正答率くらい見てコメント出来なければならないのですが、入試の問題の正答率を見ていたりしているんでしょうか? 

 また、よく、難しい問題を学力の低めだと思われているような子が突然解いたりして
「わあ〜、すごいね〜」
なんていう場面もあろうかと思いますが、「すごい」と口では言っても、その子に「センス」のあるなしを知っている先生であれば、それは「当然」として認識できるんです。それを「下克上が起きると楽しい」と本気で思っているようでは、指導力が高いとは言えないんですよ。
 というのは、あらかじめ、自分が用意した問題は「この子とこの子は出来る」くらいの当たりがついていなければなりません。その自分の設定と違うところが出てきた場合、子どもに「すごいね〜」と言ってお終いではなく、自分の視点のずれを修正するという心構えがなければならないんです。

 さらに言うと、子供達に「センスがあるかどうか」を見るためには、分類上、先生が確認したいと思っていた「要素」の入っている問題をやらせると、簡単に見抜けるんです。

 ちょっとネタバレですが、くしろ子ども未来塾の算数検定の文章問題で
「1回目3点、2回目0点です。合計何点ですか?」(数字や問題文は違います)
という問題をいれてあります。そして、これで式を作りなさいと言うと
3+2=5
と書く子が非常に多いんです。
 これ、2回目がちゃんとした数字だと間違えずに式を作れるのですが、2回目が0だと「0のセンス」の無い子は躊躇しちゃうんです。+0とやっていいのかどうか分からない。結果、ちゃんとした数字になっている「2回目」の「2」の方の数字をいれてしまうんです。「落ち着いて文章を読んでいないから」じゃ無いんです。0の扱いが分からないんですよ。

 こういう「分類」「難易度設定」が、その先生の指導力に大きく影響しているんです。今まで「こんなの知らなかった」と思った先生は、これから、真剣に切磋琢磨してくださいね。
(2017/03/09)

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「0のセンス」と「位取りのセンス」


時間が分からない子の原因

 せっかくですから「0のセンス」つながりで、位取りから時計の感覚についてお話していきましょう。

 「0のセンス」からつながる大事な内容に「位取りのセンス」があります。1,2,3・・・9といって、次に位が変わって10になる、という、いわゆる「十進法」の進み方ですね。当然、その後、続けていって99の次に100になる、ということですよ。ここに0が使われるんですね。
 これ、子どもの頃から「お風呂に入って数を数える」なんて言うことをやっている子は、割と自然に「十進法」の感覚が身についているケースが多いのですが、この「十進法の感覚」が身についていない子も、現在では結構多いんです。ということは、小学校に入った段階で、きちんと数を数えて、この「十進法の感覚」を身につけさせなければならないんですね。でも、実際には、先生の感覚が「このくらいは出来るだろう」くらいの感覚で、あまり熱心にやっていないのではないか、と考えられるんです。要するに「大人の感覚」で子供達に接している、ということで、出来ていない子の「子どもの目線」までおりて行けていないのではないか、ということなんです。

 そして、この「十進法」の感覚が弱いと「時計の読み取り」が出来ない子が増えるんです。どうしてかというと、時計は「60進法」だから。「何時何分から何時何分まで、何時間何分ですか?」という問題の正答率が著しく落ち込むのは「60で単位が変わる」という感覚が身についていないからなんです。

 それで、今の子供達の「時計の問題」の状況を見ている限り「何時何分」という時計が差している時間を答える事は出来るのですが「何時間何分」と答えさせる問題になると極端に正答率が落ちる。これ、おそらく、全体的な指導の流れとしては、1時、2時などのキッチリした時間を読ませて覚えさせるような指導を行い、そのあと、分をを教えて、とりあえず「何時何分」を答えさせるようにしているだけでお終い(ひょっとしたら30分など区切りのいいところだけしか教えていないところがあるかも!?)。
 そのあと「1時間は60分だよ」という知識だけを与えて、問題を解かせる前にやらなければならない「事前」の「60進法の感覚」を鍛える事無く「何時間何分になりますか」という問題の計算方法を無理矢理教えてこんでいるだけで終わっているのではないか、ということが考えられるんです。
 要するに「学習指導内容の構成」の部分に問題あり、ということなんですね。子供達が学習内容を身につけやすいように「まず最初に何をやって、次に何をやって」という手順がおかしい、もしくは手順が抜けているんです。

 そして、この部分、実は「教科書がよくない」という理由の一つにもなっているんです。先にも書きましたが、教科書は「教える内容」については細かく書いています。ただ、指導内容の「分類」「構成」については、全く考慮されていないと思った方がいいです。もっと正確に言うと「子供達が身につきやすいようにするためには、どういう手順が良いか」という配慮がなく、ただ「とにかく考えさせろ」に重点が置かれているだけなんだと思っていた方がいい。これでは身につくものも身につかない、結局、塾に通っていないとダメ、という結論になってしまっているんです。

 もう一点は、大学生のアルバイト感覚ではダメ、ということです。先生方の中には「家庭教師のアルバイトでこうやって教えたら出来るようになった」なんていう感覚の人もいるでしょう。ところが「中学生に小学校の復習をさせる」のと「小学生に初発で教える」のとでは、その指導方法は全く違うものなんです。すでに勉強してきていて、いろいろな知識を身につけている段階の子供達を教えるのと、初めて目にする内容を教えるのとでは、その授業の「導入方法」が全く異なるからなのです。
 別な表現にすると「身につけているセンス」の質や量が全く違う子に教えなければならない、ということなんです。初発で教える場合には、身につけているセンスがものすごく限られていますから、その「センスがない」ことを前提で授業を進めなければならないということです。
 だから「その単元を初めて目にする子達に教える導入部分から、学年の最後まで」をきちんとやり通していなければ、結局は「上っ面を撫でる」ようなことしか出来ないんです。ちょっとアルバイトで「家庭教師をやったから」「個別指導塾で教えたから」では、その授業は全く通用しない、と思ってかからなければならないんです。

 さて、「位取り」の感覚は、先に書いたように「数を数える練習」をこなしていくことで身につけやすくなります。ですから、小学校の低学年のうちに、安い時計をアナログとデジタルと2つ用意して、子どもに与えて遊ばせておくのが、一番いいと思いますよ。
 「1時58分、1時59分、1時60分・・・かと思ったら、2時だあ!」みたいな。そういうことで子供さんと遊んでみて下さい。そうやって、遊びながら「60進法の感覚」を身につけてくださいね。
(2017/03/10)

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「指導内容の無理解」と「ぬるい教え方」


根本の原因は指導内容を把握していないこと

 さて、最近になって、いろいろ「数学のセンス」を中心に書いてきましたが、なぜ、こういう内容を今書いているかというと、実は(気づいている人もいるかも知れませんが)、釧路独自の学力テストと言われているテストの結果が各家庭に届けられているタイミングではないかと思うんですね。それで、その内容で身についていない部分を理解してもらおう、ということなんです。

 そして「ちょっと気になる情報」で書きましたが、釧路北陽の合格ボーダーが帯広工業より低かったりしているんですよ。これ、北陽にギリギリで受かった〜、なんて思っていても、帯広だと「地方の高校の2次募集だね」という話になってしまう、ということなんです。結局、身につけなければならないものを身につけられない、ということですから、先の「就職」「進学」にも大きな影響が出るわけで、現実的には、釧路の子を採用せず、帯広で採用した子を釧路に連れてきている、なんていう企業もあるんですね。こんなんじゃ、釧路はいつまでも景気がよくならないでしょ、ということですよ。
 ただ、高校入試は、すでに終わりました。今から結果を変える訳には行きません。でも、これから高校受験する子、これから中学校に進学する子は、まだまだ、これから救う事が出来るんです。もちろん、高校に受かった子も、高校生活をしっかり過ごして、将来に対して備えて欲しいんです。

 そのためには、自分で身についていないところが分かれば、自力で克服できるでしょ、という「自力で克服を可能にする方策」を提示していくのが、一番、手っ取り早い「改善方法」だと思うんですね。いわゆる「自学力」というやつです。そこで大事になるのが「どこが分かっていないか、自分で知る」ということなんです。
 要するに「何を身につけなければ出来るようにならないのか」「身につけるには、どういう手順で、どのように指導し、どのように確認を行えばいいのか」が教えている先生自身が分かっていない。だから、そういう先生に習った場合、生徒もどうしていいかが分かっていないんです。
 そこで大切になるのは、まず、指導側が「教務内容を把握」し「手順を理解すること」なんです。いわゆる「教務力をつける」ことなんです。それが出来ないと、何をどう変えてみたとしても、結局、学力が上がりません。

 ところが、教務力そのものをきちんと理解出来ていないと、教務力とは全然違う話になってしまうんです。文部科学省も「大丈夫か?」と思えるような感じで「1クラスの人数」がどうとか、「授業時間数がどうとか」、結局、そんな話にしかならないんですよ。でも、普通に考えたら分かると思いますが「教える内容をきちんと把握していない状況」で、クラスの人数を変えても、授業時間数を増やしても、結局、結果は同じです。ただ、訳の分からない説明を繰り返したり、ダラダラする時間が増えるだけ。運動会の練習なんて、その最たるものです。どこをどういうふうに指導すれば質が高まるのか、ということを把握せず、ただ、同じ練習を繰り返しているだけ。時間の無駄。それよりも、時間を短くして集中してやらせた方が、まだましです。
 人数を少なくしたところで、教え方が変わらない訳ですから、分からない子はいつまでも分からないままです。そんなの何の効果があるの? 
 ましてや、こんな話を始めると、組合系の教員に「言い訳を与えている」ようなものです。「人数が多いから学力が上げられない」とか「時間数が足りないから授業が終えられない」とか。方針を出すにしても「もう少し考えろよ」という話です。

 そして、もう一つは「教える側の感覚がゆるい」。自分、学校の補習見学に行ったことがありますが、先生の質問が下手すぎて、生徒が何と答えていいか分からずポカンとしているの。大学生のアルバイト感覚なんだろうね。大学生のアルバイトだと、よくある話として「最初に教えたときに理解してもらえなくて、何回か説明をして、ようやく理解してもらえました」なんていうのが。それで、自分が「授業が出来ました」なんて考えているのは大きな間違い。初めて顔を合わせたとか、そういう事ならまだしも、何ヶ月も教えていて、それでもその子の実力を把握出来ずに、説明を何回も繰り返すようなことをやっているのは、完全にアウトなんですよ。一発で行け。これマンツーマンだから何とかなっているわけで、30人、40人を目の前にして、一発目に訳の分からない説明をしたら、その段階でアウトだろうさ。もう少し説明の内容を考えろ、という話。こんなの完全に指導力不足だからね。そして、それでも通用すると思っているところが「ぬるい感覚」ということ。もっと緊張感を持って授業をしなさい、ということですね。
 実は、最近、学力について真剣に考える生徒が多くなってきていて、そうなると、先生の授業がどうなのか、という事が話題に出ることも多くなってきているんですよ。そこで出てきているのが「あの先生の言っていること、わけわからん」。極端に学力が低くて、何を言っても理解できない子だと、しょうがないところもあるけど、平均以上のまずまず理解力のある子でもそういう話が出てくるわけですよ。その授業が、釧路の子供達の学力を大幅におとしている要因なんです。
 もっと、直接教務内容について、まともな研修をしろよ、ということですね。
(2017/03/11)

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「条件のセンス(多面体と錐体)」


条件が違えば「定義」も変わる

 「前提条件の違い」が認識出来ない生徒、というより大人もそうなんですが、そういうケースだと話が支離滅裂になる場合が結構多いんです。どうやら、条件を見抜くセンスが養われていないようなんですね。
 そこで、ここでは、「知識と指導力」の項目で書いた「四角錐の頂点」の事を例にとってお話しします。

 頂点の定義は「大辞林」が一番詳しいので、それを取り上げますね。
1 角を作る二直線の交点
2 多角形の辺の交点
3 多面体の3つ以上の面の交わる点
4 錐面の各母線の交点
5 放物線とその軸の交点

と、こんな感じです。そして、ここで考えて欲しいのが「あれ? 空間図形には多面体と錐体と2つ定義があるぞ」ということ。その違いが何なのか、という話なんです。そこで、まず、順番で先に出てくる多面体から。

 多面体の頂点って、たぶん、分かると思いますが、正四面体だと4つ、立方体・直方体だと8つ、というのが、頂点ですね。いわゆる「尖っているところ(凹面がある場合は、へこんでいるところも入ります)」のことです。ここで「すべてこの多面体の頂点で統一してしまえばいいのに、なんで錐体だけ別に定義があるの?」と考えた方は、数学のセンス、ちょっと一歩リードしている感じですね。

 実は、錐体だけは、別の定義との関連があるんです。その定義〜錐体の高さは「頂点から底面までの距離」。そして、定義というのは、他の定義と矛盾しないように設定されるんですね。そうすると、もしも、錐体の底面のところにある尖りを「頂点」としてしまうと、底面と頂点の距離が0になってしまう、という矛盾が生じるんです。だから、錐体だけは、別に頂点の定義を設定する必要があったんです。まあ、正直に言うと「それだったら、高さの定義を変えろよ」みたいな話なんですが。

 それで、小学校ではどのように習っていたか、というと、まだ「母線の交点」などと言っても、ピンとこない子が多いですから、頂点は「高さの基準となる点」という習い方をしていたんですね。そして、まだ多面体を習っていませんから、もしも、私立中学入試などで「多面体としての知識や思考を問う問題」を出題しようと思ったら、必ず「ことわりがき」として「角すいの底面の尖った部分も頂点として数えます」という文言が入っていたんです。

 それが中学校になるとどうか、というと、錐体の頂点の場合は「小学校と同じ説明」で習うところが多いでしょうか。多面体の頂点は、ここに出てきている「定義」と同様に習っているところが多いと思います。ただ、中1の空間図形で習うのですが、まだ「定義(この言葉を直接習うのは、中2の証明のところ)」という言葉自体を直接習っていませんから、各部の名称とともに、約束事として習うことになっています。

 ただ、ここに来て困るのが三角錐なんですよ。というのは、見方によって、頂点の数が定まらない。
 底面の形が四角形・五角形と、角が増えていれば、底面を1つに確定できますから、頂点は1つに決まるんです。ところが、三角錐だけは、どこを底面にしても成り立つ形なんです。それで、
「どこを底面しても成り立つなら、全部が頂点になる」
という考え方と
「高さを特定するためには、底面に対して1つとみるべきだ」
という考え方があって、ひょっとしたら、もうすでにどちらかに統一されているのかも知れませんが、自分の知っている限りでは、これに決着がついていないはずなんです。これ、ご存じの方がいらっしゃいましたら、教えてください。

 ということで、これから教科書や参考書を見るときに、ちょっと気をつけてみてください。錐体の場合、各部の名称として図が載っていますが「頂点」として示されているのは、てっぺんの尖っている部分だけになっていますよね。また、図として載っているのは大抵は正四角錐で、場合によっては正六角錐などもありますが、絶対三角錐は使いません。それには、上記のような理由があるからなんです。

 そして、ここからが大事なんですが、今書いたように「条件が違うと定義が変わる」ということは、現在「何が条件になっているか」という事を見抜く力が大切になるんです。
 例えば、実際の問題について。最近は混乱を避けるために、あまり「頂点」という言葉自体を使わなくなって来ているようなんですが、以前は「点Pを頂点とする正四角錐P-ABCD」なんていう表記をしていたりしたんですね。こうなると完全に「条件」は「錐体」。だから「錐体の定義」を使うことになりますね。また「正四角錐の頂点の数を5つとする」なんていう表記が出てきたときは「あ、これは、正四角錐という言葉を使っているけど、本質的には多面体の条件を使っているな」と判断できるんです。
 ちなみに、ちょっと発展形ですが、数学で「トポロジー」なんていう分野があります。で、この分野、基本的には「オイラーの多面体定理」を基礎にしてできあがっています。当然「多面体定理」が基盤なので「条件」は「多面体」。したがって、トポロジーと言われたら、出てくる立体は「多面体」の扱いで考えますよね。

 ですから、中学校まででは、特に条件が無い場合、正四角錐と表記されていれば、基本的に「錐体」の定義で見て「頂点は1つ」と考えるんです。もしも、多面体として考えなければならない場合、何らかの条件が示されているはずです。そこを見逃すな、ということですね。
 ところが、条件分けして考えることが出来ない子〜例えば「尖っていれば全部頂点」とざっくりしか考えられない子だと、この分別がつきません。それと同様に「正四角錐と言われたら、頂点は5つじゃないの?」という、何でも単発的な発想でしか、物事を考えられない人も結局は「条件のセンスは無い」と考えた方がいいんです。
 そして、こういう分別つくかつかないか、と言うところが、いわゆる「理系・文系」の分岐点の1つと考えているんです。要するに理系の子を育てようと思った場合、こういう違いを認識できる子を育てるため、定義・定理をきちんと理解させ、使えるように育てなければならないということなんですね。

 これが、平面図形と空間図形で、頂点の定義が違うとか、二次関数で頂点の定義が違うよ、という話になれば、前提となっている形が見た目ですぐに違うと分かりますから、頂点の定義も違う、ということにはすぐに気づくでしょう。大事になるのは、同じ空間図形でも、条件に違いがあるということに気づく力があるかどうかです。本当に力のある子は、こういう違いがわかるんです。

 さらに、この「条件認識力」があるかないかで「論理性」にも大きな差が出ます。よく「て言うか〜」と話題がコロコロ変わる人。どういう条件下で話題が進んでいるか、全く理解出来ていない可能性あり。ただ自分の言いたいことを言っているだけですよね。同様に、話をしていて、最初の話と、出てくる結論が全然違うものになっている人も要注意。条件をきちんと読みとれていない可能性あり。条件の違いよって、話がドンドンずれていっているんです。

 さらに言えば、こういう違いを教えるどころか、空間図形は2時間程度で端折ってお終い。これが、以前の釧路の数学だったんです。これじゃあ、数学の力がつきませんよね。

 正直に言うと、普通に授業をやっている中学校の数学の先生は、ここに書いたことは「当然のこと」として教えていますよね。ただ、小学校の先生になると、科目数が多いため、ここまで確認出来ている人は少ないのではないかと思います。ですから、小学校といえども、5・6年生くらいになると、やはり専門知識を持っている人が教えた方がいいと思います。小学校の高学年から、教科担任制度にした方が、子供達にとってもいいと思うんですが。
(2017/03/19・20)

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「条件のセンス」と「哲学教育」


「定義」をきちんと把握するのも大事

 「哲学」というと、何となく「ややこしい」とか「面倒」とか「訳が分からない」というイメージを持っている人も多いのではないかと思いますし、「哲学教育」というと、何となく「高校の倫社」のイメージで考える人も多いのではないかと思いますが、根本的な「哲学教育」というのは、そういう「誰が何を言ったか」という知識を覚え込むものではなく「正しく言葉を理解しよう」という教育なんだと思ってください。
 そして、論理的に物事を考える場合、この「言葉の概念」を身につける事がとても大事なんです。

 それで、掲示板にも載せましたが、「角錐には母線が無い」とか「母線の長さはどこだ」とか言っている人がいたんですよ。それで、どうやら、話を聞いてみると、前項で書いた頂点の定義の「4 錐面の各母線の交点」のところに出てくる「母線」という用語と「ユークリッドの円錐曲面」あたりの断片的な知識を勝手に結びつけて「この定義で言っているのは円錐のこと」と勝手な解釈をしていたようなんです。

 ところが、定義などに用いる用語について、きちんと読みとる力があれば、こんなおかしな事は言い出さないはずなんです。例えば、「4 錐面の各母線の交点」のところで、もしも「円錐のみ」に母線が存在するなら、定義には「円錐曲面の〜」というように、円錐のみに限定するような用語が使われるんですね。それが、実際には「錐面の〜」となっているわけですから、これは「錐体全体に当てはまるように設定されている定義」だということが、即時、読みとれる訳で、結果、そんな勝手な解釈をせずに済むんですよ。

 ということで、実は、「哲学」というのは、こういう言葉の概念をしっかりさせ、その言葉を論理的につないでいく方法を身につけていくための「ツール」なんです。そして、実際に出てくる、ニーチェ・サルトル・カント・キルケゴール・ベンサムなども、それぞれの人が何を言ったか、という事も大事なんですが、それ以上に、この人たちは、言葉の概念をどのように組立て、どのように結論を導いていったか、という、その手法が大切になるんです。それを学ぶのが「哲学教育」なんですよ。

 まあ、正直に言うと、日本では社会科で習いますし、テストに出すのも「誰が何を言ったか」ということで出題するのが楽ですから、どうしてもそういう方向に向かいがちですが、本来は、やはり、高校あたりでは「哲学」は「哲学」という教科で習うべき何だと思うんですね。
 そして、根本的な「定義」の段階で、きちんと定義を読みとれず、曲解で物事を進めてしまうと、そこから得られる結論は、最終的に「デタラメのでっち上げ」にしかならないんだ、という、そういう意識を持たせることが、すごく大事な事なんです。

 というのは、今の子供達、自分勝手な解釈で勝手なことをやってしまう傾向が強いんですよ。このコーナーで何度か書いていますが、計算方法がデタラメだったり、国語の言葉の解釈がいい加減だったり。そういうのを払拭させるためには、何でもかんでも、ただ「考えろ」というだけではダメなんです。これではきちんとした思考力は育たない。ただの「でっち上げ」をする子供達を増やしているだけなんです。

 世界的に見ると、フィンランドの子供達が読んでいる「ムーミン」って、実は、そういう論理性に長けている文章だし、ブラジルでは、数年前に、正式に学校の科目として「哲学教育」を行うことになったんです。「ムーミン」で言えば、スナフキンは、「人生」とか「愛」「友情」とか、そういう抽象概念の「定義」になるようなヒントをムーミンに与える存在ですし、自分はキャラクター名が分からないので「ムダじゃおじさん」と呼んでいるのですが、「昼寝をするのは無駄じゃ、しないのはもっと無駄じゃ」と、何でもかんでも「無駄じゃ」と言うんですよね。そして、この「無駄」の話に出てくる内容って、二律背反するような内容になっていることが多い。こういう話を聞いて、なぜこういう結論なっているのか、考えてみると面白いんじゃないでしょうか。
 そして、今の子供達は、将来的に、そういう国の子供達と、一緒に物事を進めていく事になるんですよね。そういうときになって、適当な事を平気で言う人を育ててしまっては、さすがにまずいでしょ。

 ですから、今の段階から、きちんと物事を考えられる子供達を育てよう。それには、大人が勝手なでっち上げをいわないようにしよう、ということになるんですね。

 ちなみに、余談ですが、哲学者のベンサムって、高校の教科書などで、なんか「人間と等身大の人形ケース」みたいなところに服を着て座っている写真で紹介されていたのを覚えていませんか? 実は、彼の遺言で、遺体をそのまま加工(?)して、某大学に階段の踊り場のようなところに飾られているんだとか。そして、その大学では、夜になるとこのベンサムが、大学内を歩き回るという「幽霊話」としても有名なんだそうです。
 信じるか、信じないかは、あなた次第です。
(2017/03/24)

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「確定要素」と「不確定要素」「仮説」


国語に応用できます

 自分、不思議なことに、専門は算数・数学なんですが、なぜか「うちの子、国語が得意になりました」と言われることが多いんです。それというのも、実は国語の文章を読み解くときに必要になるのが、今まで話してきた「条件のセンス」。この「条件のセンス」は、算数・数学だけではなく、特に、国語の「論説文」を読み解くときにも(もちろん、物語を読むときでも)、非常に大事になるセンスなんです。

 そこで、ここでは、その読み取りに関して大事になる部分の1つを話しておきますが、それは「事実なのか」「意見なのか」を判断すること。これが初歩段階です。小学生だと、この2つで区別出来れば、ある程度、文章は読みとれると思います。

 これがさらに進むと、もう少し細分化され、同じ「事実」でも、検証されているもの〜「確定要素」と、検証はされていないが「事実として可能性が高いもの」〜「不確定要素」として、考えていきます。要するに「断定」で書かれている「確定」と、「〜ようだ」「〜そうだ」という、本人が確認はしていないが、どうもそうらしい、と思われる「不確定」。こういうものをきちんと区分けして読んでいけるかどうかが問題になります。

 また、「意見」として書かれていても、それが「根拠のある内容から導かれた〜仮定・推測・推定」なのか、「根拠がない状態で書かれた〜憶測」で書かれたものなのか、をきちんと区別する事です。
 自分、実は、雑に文章を書いていますが、読み手には、なるべく、この違いが分かるようには書いているんですよ。

 それで、よく「大学入試の国語は変だ」という話が出ますが、自分はそれほど「変だ」とは感じていないんです。実際に書かれている「事実」と、それを根拠にして書かれた「意見」には、何らかの因果関係があるわけで、そこを見抜けば、大学入試の国語でも、選択肢ではあまり迷わないんですね。そして、その因果関係を見抜くのに必要になるのが、この文章は「どういう条件下で書かれているか」という事を見抜く力になってくるんです。

 そして、大事になるのは、「事実は事実」「意見は意見」として話を読みとることであって「事実を推測」と読みとったり、「仮説を事実」として読みとったりすると、全然、文章が述べていることと話がずれてしまうことになってしまうんですね。もちろん、自分たちが話をするときも同様なんだろうな、と思っています。
 ですから、この「事実」「意見」〜さらに細分化できるなら、細分化した状況を意識して、きちんと読みとる癖をつけることがとても大切で、そういう習慣をつけてあげると、少しずつ、読み取りの力がアップしてきます。ある程度語彙力があるにも関わらず、なんか国語が苦手だな、と思っている人は、この「読み取り」に気が回っていない人ではないかと思います。先に「問題文」を読んで、そこから当てはまる内容を探そう、というふうに文章を読んでいると、そこに気づかずに終わってしまいがち。義務教育期間中は、まず、最初に文章をきちんと読み、その内容を把握した上で、問題に取りかかる、という手順を身につけておいた方が、その後の高校・大学に入ってからの「読み取り」には、圧倒的に有利です。
 しっかり取り組んでいってください。
(2017/03/25)

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「条件のセンス」と「数学の問題」


「条件」とは

 あまり専門的に面倒な話にしないように思っているのですが、やはり、ある程度は専門知識も必要なので、ここでは、このコーナーで書いている「条件」という言葉について注釈をいれておきます。

 自分がここで使っている「条件」というのは、基本的に「仮定条件」のことです。まあ、数学の証明で出てくる「仮定」と思っていてくれれば、いいでしょう。要するに「もしも、○○としたら・・・」というやつです。これと、意味がかぶってくるのが「前提条件」というやつで、言葉を換えて「もしも、○○と前提したら・・・」と言うと、結局、意味的には同じになってしまいますね。そのため、いちいち「仮定条件」「前提条件」と用語を区分けせずに「条件」という言葉でお話ししています。

 さて、ここで分かって欲しいのは、実は、算数・数学の問題というのは、すべて「仮定〜結論」の形で作られています。決して証明だけのものではないんですよ。
 例えば、関数の問題であっても、元々、「こういうグラフがあると仮定すると」という意味ですし、小学校の文章問題であっても「お皿のうえにミカンが5個のっています」というのは「皿の上にミカンが5個あると仮定すると」という意味なんですね。そして、求めるのは、計算して答えが出てくる〜いわゆる「結論」というものになるんです。
 これ、計算問題でも同じなんですよ。5+3という式があると仮定すると、答えはいくつでしょう。こんな感じですね。

 ただ、普通に問題を解いていて、そういう「仮定〜結論」なんていうのは、あまり意識しないですよね。そのまま問題が出ていたら、それに答えましょう、ということですよ。もちろん、子供達はそれで構いませんが、教える側が適当だとまずい。
 「まず、文章をきちんと読んで、式を作るために必要な(仮定)条件をきちんと読みとりましょう」
と言うんですから。ましてや、子供達が「条件を読みとれているか」という視点で子供達を指導しなければならないわけで、ただ漠然と「文章が読めていません」では指導にならないでしょ。だから、指導する側は「どこにどういう条件が出てきているか」という事を把握して指導しなければならないわけで、おそらく、学力が上がらないのは、先生自身に「そういう視点」が欠けている、という話になるんです。

 小学校の算数で「お皿にミカンが5個」と出てきたら、先生方はたぶん、お皿にミカンが5個のっている絵を描いたりするでしょう。それと同様に、中学校1年生で、比例がらみのグラフの問題が出てきたら、子供達が慣れるまでは、やはり、一つ一つ条件を読みとって、子供達の目の前で
「まず、座標平面があって、そこにy=○○という式が書かれていて・・・」
ときちんと文章を読み取りながら、黒板に図を書いていますか? 元々教科書に図が書いてあるから、と、最初に図を書いておいて、ありきたりの説明をして、お終い、とやっていませんか? それじゃあ、子供達に「条件のセンス」は身につかないんです。
 まずは、丁寧にやることです。
(2017/03/27)

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「仮定のセンス」と「数学の問題」


問題演習で養おう

 前項で、数学の問題はすべて「仮定〜結論」の流れで出来ていると書きました。もちろん、これ、義務教育で習う範囲でのことです。そして、証明を教えるときに、「みんなは無意識にやっていたと思うけど、実は、算数・数学の問題というのは、こういう仮定〜結論で出来ているんだよ」というお話を子供達にしてあげられれば、幾分かは、証明の問題にとりつきやすくなるかな、くらいのレベルのお話なんです。じゃあ、無意識じゃなく、意識的に「仮定」の感覚が出てくるのはいつだろう、というのが今回のお話なんですね。

 これ、実は、以外に遅く、通常の授業内容で捉えると小学校6年生の「場合の数」のところなんです。場合の数というのは、こういう考え方をするんですね。

 「もしも、一番最初がAさんだとしたら、次はがBさんか、Cさんか、Dさん。そして、もしも2番目がBさんだとしたら、次はCさんか、Dさん」
 というように、いわゆる「樹形図」を書くときに「もしも」という「仮定」をしながら、図を書き進めて行くんです。ここで「仮定」の感覚のゆるい子がいると、なんだか訳の分からない樹形図を書いていくようになるので、何度か練習させながら、樹形図を書けるようにするのと同時に「仮定のセンス」を養っていくようにするんですよ。

 ところが、悲惨なことに、今、小学校では樹形図を使って説明しなくなっているんです。樹形図が出てくるのは中学校。小学校では、具体的に組み合わせを考えられるような数の少ないものとか、対角線の図などで、要するに「単に何通りあるか」を出せればよい、という発想の授業になっているんですね。これだと、文部科学省が押し進めている「ICT関連」の能力の低い子を一生懸命育てているようなものなんです。
 というのは、この「仮定のセンス」が、アルゴリズムやフローチャートを作るのに、非常に大事なセンスだからなんです。いわゆるシミュレーションですね。「もしも、こんな状況だったら」という仮定の下に進められるのがシミュレーションですから、その「もしも」が出来なかったら、どういう事になるか、ということなんです。

 そこで、もう一つ、この「仮定のセンス」が必要な問題があるんです。それが「つるかめ算」。この問題、実は「もしも、全部がつるだったら、足の本数は何本になるか」というところからスタートして、答えを導き出す問題なんですね。こういう問題に小学生のときに、是非、触れていて欲しいと思っているんですが、こういう問題を扱うところって、結局、中学受験を考えている進学塾なんですよ。となると、中学受験を目指して勉強している子と公立の学校で普通に勉強を進めている子との間に、やはり、埋められない溝ができてしまいます。
 以前のように「仮定のセンス」を鍛えられるように、樹形図を使って授業が進んでいれば、公立一本でも充分、国立のしっかりした大学に行くのに苦労はしないんです。ところが、こういうふうに、大切なセンスを身につけれられないような授業が、漫然と行われているのが実態。塾に行かなければ勉強が出来るようにならない、という話。実は、こういうところにも原因があるんですね。

 さて、これが高校に行くとどうなるか、というと、いわゆる「背理法」につながります。「もしも、出来るとしたならば・・・」と仮定した状況で、その仮定には無理がある、と証明するのが「背理法」。いわゆる「論理」という面でも、非常に大事になるセンスなんです。

 ということで、この「仮定のセンス」、自宅で鍛えるしかなさそうですね。「もしも、○○ちゃんだったら、どうする?」というようなお話で構いませんから、「もしも」を使って想定するようなお話を子供さんと少しずつ進めてみて下さい。こういう何気ないようなお話の中でも、子供さんの「算数・数学のセンス」を鍛えていく機会は充分あります。
 また、前項で書いたように、数学の問題はすべて「仮定〜結論」の流れを汲んでいますから、無理矢理、仮定の話に持っていくことももちろん可能なんです。
「もしも、お菓子を1個かったとしたら、代金はいくらになるか?」
とか、
「もしも、三角形をこういうふうにくっつけてみたら、どうなるか?」
とか、そういう話し方でも、問題の説明が出来ますから、子供さんが納得出来るようであれば、その方法でも構いません。仮定の話を子供さんとしてみてください。
(2017/03/30)

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「類推のセンス」と「計算力」


類推は計算から

 将来、仕事に就いてから、最も重要になるだろうと思われるセンスは前項で書いた「仮定のセンス」と合わせてもう一つ。それが「類推のセンス」なんです。そこで、ここではまず、類推の仕組みからお話ししていこうと思います。

 例として、数列で考えていきますね。

5 10 15 20 25 30
ときて、この次に来る数字はなんでしょう? と言われたら、大抵の人は35と考えるのではないかと思います。まあ、5ずつ増えている、と考える人が一般的ですね。
 じゃあ、

とだけ書かれていて「この次に来る数字はなんでしょう?」と言われたら、どうでしょう? 何でも良さそうですね。
 それじゃあ、
1 2
と書かれていたら、次に来る数字を決定できますか? これも、いろいろな数字を当てはめる事ができます。
 じゃあ、さらに
1 2 4
と来たらどうでしょう?
 これも、まだ、いろいろな数字が当てはめられそうですね。
 2倍になっていると考えた人は
1 2 4 8
と思ったのではないかと思いますし、差が1 2 3と開いていっていると考えた人は
1 2 4 7
と思ったのではないかと思います。
 そこで、
1 2 4 7 
と数字が並んでいたとしましょう。
 すると、差が1 2 3と増えていっているという規則で考えて、次に来る数字は11ではないか、と予測出来ますね。
 これが、
1 2 4 7 11
と書いてあったら、ここで気づいて、次は16
1 2 4 7 11 16 22
と書いてあったら、ここで気づいて、次は29と答える人も出て来るのではないかと思います。

 要するに、何を言いたいのか、というと「類推ができるようになるためには、数字が1つや2つ並んでいたところでダメなんだ」ということ。最低でも4つや5つは、規則的に並んでいないと「類推」できない、ということなんです。
 そして、もう一つ。
 「類推」をするための規則に気づくのは「個人差」があるということ。4つ数字が出てきたときに「あっ」と気づく人もいれば、8つ、9つ書いて、ようやく気づく人もいる、ということなんです。

 ということは、生徒に、この「類推のセンス」を身につけさせようと思ったら、
1 一定の規則で、最低でも3つ、4つのものが出てこなければならない。
2 個人差があるので、気づかない生徒のために、場合によって8つ、9つのものをやらせなければならない。
ということなんです。

 そして、この類推が一番最初に出てくるのが、実は「計算」なんです。

 小学校では、最初「1桁+1桁」の足し算をしますね。そのあと、桁が増えて「2桁+2桁」「3桁+3桁」の計算をするようになっていきます。
 ここで「類推のセンス」のある子は「4桁以上の足し算」をやらせると、同様の規則で繰り上がりなどを繰り返しながら、普通に計算出来るようになっていきますが、まだ「類推のセンス」が未熟な子は、桁数が増えると「これ、どうやって計算したらいいの?」となってしまうんです。そういう子は、4桁のときはこう、5桁のときはこう、と桁数を増やしながら「次も同じようにやればいいんだ」という事に気づくまで、桁数を増やして練習させなければならないんです。

 それじゃあ、今の算数の授業は、この「類推のセンス」が身につくように、6桁、7桁、8桁の計算まで、練習していますか? ということなんです。大人の目線で「こんなのすぐ出来るようになるのが当たり前」と思っちゃダメなんです。あくまで、子どもの目線で、きちんと出来るようになるまで、繰り返し、桁数を増やして練習させなければならない、ということなんです。

 実は、ゆとり教育の最大の失敗は、この「桁数」を減らしてしまったことなんです。かけ算は「かける数を2桁までしか扱わない」とやってしまったんです。結果、「かける数」が3桁以上になると、どうしていいか分からない子が続出したんです。いわゆる「類推のセンス」が身についていない子が大量に出たんですよ。

 ですから、決して大人の目線で考えてはいけない。あくまで子どもの目線で考えること。これが、小学校低学年を教える「難しさ」の1つなんです。そして「類推」が出来るようになるためには、ある程度、数の多いものをこなさなければならないということ。これをふまえて、授業を進めておくと、実は、あとあと、子供達の感覚が一気に上向くんですね。
 ということで、子供さんが、まだ「類推」をきちんと出来ないな、と思ったら、知っているところからスタートして、そこから徐々に桁を増やしたり、同様の規則で物事を進めていく練習をしていくことが大事になるんですよ。
(2017/04/04)

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「類推のセンス」と「仮定のセンス」


仕事をするようになったら

 「仮定のセンス」は「もしも、こうだったら」ということですね。
 そして、「類推のセンス」は「今までがこうだったら、次はこうだろう」ということです。
 この2つ、実は、子供達が大人になってから、非常に大切になる感覚なんです。

 いわゆる「指示待ち人間」ということが話題になったりしますね。これ、どういうことかというと、その場面・場面で、何をしていいか分からない、ということですね。
 これが「今までがこうだったから、ここでは、こういうふうにすればいいだろう」と思うのが「類推のセンス」なんですよ。そして、「もしも、こうだったら、どうしようかな」とあらかじめ頭の中で行動を考えておいたり、「もしも、こういう事をしたら、こういう事になるだろうな」と、その場の行動を先読み出来るようになるのは「仮定のセンス」なんですね。ということは、大人になってから、指示待ち人間にならないように、自分から進んで行動出来るようになるために、必要な感覚と言うことができるんです。
 そして、この2つのセンスが無いと「自分から進んで物事を出来るようになりなさい」と言われても、大抵は無理なんですよ。

 それで、先日、こんな事がありました。
 ある書店に入るとき、入り口で後ろから来る人のために「送り戸(次が入ってくる人が入りやすいように、ドアを押さえておき、入ってくる人がそのドアを押さえて、さらに次に入ってくる人にドアを開けたまま受け渡すようにしていく)」をしたんですが、そのとき、後ろから歩きスマホの学生が、ドアも押さえずにヒョコっと入って来るんですよ。そんな事が2回ほど続いた後、3回目に、やっぱり思ったことが起きました。
 その歩きスマホの学生が、ドアを押さえないために、その歩きスマホの学生の後から続いて入ってきた人に、激突とまでは行かないですが、その人に向かってドアがドンとしまりかかってしまったんです。

 これね、もしも「自分が気を使って送り戸をしてもらったなら、自分も次に入ってくる人のために、送り戸をしないと」という類推ができたならば、こういう事にはならなかったんですね。
 よく「ゆとり世代」の話がでますが、例えば「円周率が3」とか「台形の面積の公式を習わない」というような直接的に習った内容からくる「勉強が出来るとか出来ない」とかよりも、こういう「センス」をきちんと身につけてこなかったために周りから迷惑に思われることが原因で、悪く言われるようになったのではないか、と思っているんです。普通に気を使えるところが気を使えない。普通の人が自分で判断出来るところが判断出来ない。こんな事を見てきた人に悪く言われるようになったのではないか、ということなんです。

 ですから、ある程度、社会人のたしなみ、くらいの感覚で、この「類推のセンス」「仮定のセンス」を考えていって欲しいと思っているんですよ。
(2017/04/07)

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「条件・類推のセンス」と「組み合わせ」


思考力を高めるステップ

 ここでは、数学よりも理科でお話しした方がしっくり来ると思うので、理科の電池の組み合わせを例にしてお話しますね。

 電池というのは1個、1.5ボルトなんです。これを直列につなぐとボルトが足し算されて、2個だと3ボルト、3個だと4.5ボルトになります。並列につなぐと、ボルト数は変わりません。だから、2個つないでも3個つないでも1.5ボルトのまま、ただ、多くつなげばそれだけ電池が長持ちする、という話になります。

 さて、ここで「ゆとり教育」のときの話になりますが、この電池、実は「2個までしか使ってはいけない」ということで指導されてきました。要するに直列のときは、必ず3ボルト。並列のときには1.5ボルトと覚えてしまえば良い訳です。また、現行の中学の理科でも、豆電球は2個まで。だから、直列のときと並列のときで、単に計算式を覚えてしまえば済むんです。

 ところが、今までのお話を読んでいた人は分かると思いますが、これだと、3個、4個と増えていったらいったいどうなるんだろう? という事が理解出来ない〜「類推のセンス」が育たないんです。

 さらに、電池や豆電球が3個、4個とあった場合、今度は直列と並列の組み合わせ、ということも出来るようになるんです。例えば、2個を並列につなぎ、残る1個をそこと直列につなぐ、とか。そうなると、どの部分を直列で考え、どの部分を並列で考えればいいか、という「どこまでの部分にどの条件が当てはまるか」という事を考えるようになります。ここから「条件の当てはまる範囲」を考えることが出来るようになるんです。こうすることで「条件のセンス」がさらに磨かれる事になるんですね。そして、この電池や豆電球がさらに増えていくことによって「条件の当てはまる範囲を類推する」という、2つのセンスの組み合わせも養うことが出来るんです。
 もっと言うと、この手の問題に対応するためには、単に直列・並列の計算式を覚えているだけではダメで、基本的な「組み合わせの考え方」まで身につけておかなければ、答えられないんですね。結果、直列・並列の考え方への理解が深まる〜要するに、基本の理解が、さらに広く深く根を張っていく〜ようになるんです。

 実は、ゆとり教育の際には、この電池の組み合わせに関して「子供達の思考力に大きな障害になる」と懸念していた先生方が随分といたんです。ただ、実際の指導内容や、それによって、どのような能力を養えるか、ということに関しては、やはり無知な方が多かったんでしょう。一般的には、あまり話題になりませんでした。
 でも、ちゃんとした指導を行っている先生は、こういう事について、非常に危惧していたんですね。

 ということで、この「組み合わせ」によって鍛えられる思考力というのは、本当に大切な能力なんです。ただ、学校では、まだ、旧態依然のままです。となると、家庭で鍛えるしか無いんですね。算数・数学で言うと、図形の面積での「組み合わせ」とか、そのような問題で鍛える事が可能ですから、そういう問題に数多く触れさせて、この「組み合わせの思考力」を家庭でしっかり鍛えていって欲しいと思います。
(2017/04/09)

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更新2017年 5月 19日 (金)

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