個に於ける普遍の真と存在
── ボエティウス『イサゴーゲー第二註解』に於ける普遍論研究 ──
永嶋 哲也
【まえがき】
哲学史上、あらゆる時代において様々な問題意識から普遍の問題が論じられてきたことは言うまでもなく周知のことであろう。そのなかでも中世初期は普遍問題への関心が高く、その問題に対して提出した解決案の出来でその哲学者の評判が決まってしまうほどであった1)。そしてその中世初期における普遍論争の舞台はポルフュリウスの『イサゴーゲー』の注釈であり、そのテキストに翻訳と2つの注釈を付けて中世ラテン世界に導入したのはボエティウスである。
しかし彼のこの注釈書自体の評価はあまり芳しくない、後の普遍論争に大きな影響を与えたとされる第二註解さえもそうである。つまり彼の立場は、いわゆる「アリストテレス的」な(もちろん「アリストテレス自身の」ではない)2)実在論に位置づけられ、彼は個物のうちの本質形相たる普遍を認めたとされる。そして普遍問題に関する彼の解答案は問題の回避に過ぎず、不十分なものだとされている。
だがそれならば、どうして彼の注解書は様々な立場の哲学者たちに、しかも大きな影響を与えたのであろうか?そもそもそのような評価というのは正当なものなのであろうか?本論考は、もの的な存在者である普遍が個物のうちに存在すると彼が考えていたという解釈を退け、彼が議論の裏に持っている一つの前提を明らかにすることによって、この著作に対する再評価への序論となることを目指すものである。──その際、ボエティウスの説をプラトン主義的とアリストテレス主義のいずれに分類されるべきかということを議論するつもりはないし、また彼が議論を行っているその場面が、形而上学的なそれか論理学的なそれかという問題を扱うつもりもない。また本論考では、ボエティウス以前の思想伝統(つまりストア派、エピクロス派、そして何よりも新プラトン派)を踏まえた上での考察 3)よりもむしろ、『イサゴーゲー第二註解』がどのような影響を後に与える可能性を有していたかということに重点を置く。
【ボエティウスの該当テキストの検討】
まずボエティウスのテキストを検討しよう。いわゆる普遍問題の解決にあてられて箇所はIn Porph. II4), 164:3-167:7であるが、そこに先立つ文脈から追ってゆきたい。大きく5つの箇所に分割できる。まずIn Porph. II, 158:21-159:9で彼は、例の3つの問題5)を含むポルフュリウスのテキストを引用して紹介している(以後、この箇所を便宜的に[1・紹介部]と呼ぼう)。次にIn Porph. II, 159:10-161:14で、ポルフュリウスがこの問題の解決を避ける理由とこの問題に関する解説を述べている(以後、この部分を[2・註解部]と呼ぶ)。In Porph. II, 161:14-163:6では、類種が存在する場合の不都合を論じている(以後、この箇所を[3・普遍存在の反証]と呼ぼう)、それからIn Porph. II, 163:6-164:2では類種が存在せず単に心的なものにすぎない場合の不都合を論じている(この箇所を[4・概念普遍の反証]と呼ぶ)。そして最後にIn Porph. II, 164:3-167:7で普遍問題に関して解答を与えている(以後[5・解答部分]と呼ぼう)。
ここでまず指摘しておきたいのは、[3・普遍存在の反証][4・概念普遍の反証]の内容が、ポルフュリウスの第1問のいずれの選択肢を選んでも不都合が生じることを示す論証だということである。つまり普遍は数的に1であり、なおかつ多(多くのものに共通)でなければならないのに、1かつ多なら矛盾するので存在し得ず、もし存在するとしても1かつ多を満たさないならば普遍として不都合が生じる、逆にただ単にcogitatioの産物にすぎないのであれば普遍の内実はむなしくなり、『イサゴーゲー』の行っている探求自体が無意味なものとなる、と言うのである。
ボエティウスは[5・解答部分]で普遍問題に解答を提出する。ここをさらに5つに分割しよう。問題の解決を宣言する箇所を[5.0]とすれば(In Porph. II, 164:3-4)、実質的な解答の始まりにあたる[5.1]は一見唐突にも抽象理論の説明にあてられている。そこでは、抽象の結果として生じた理解が現実の事象とあり方を異にしても真となる、ということが説明されている(In Porph. II, 164:5-165:8)。次に[5.2]では抽象による理解が語られる。非物体であるかのよう類種を見て取っていてもその理解は偽ではないとされる(In Porph. II, 165:9-166:5)。[5.3]では、理解において物体を伴わずにある普遍は、現実の事象においては物体の内にあるのみ、と説明される、そして個々のもの(それらの内に普遍が存在する)から精神がsimilitudoを集めた結果のcogitatioこそ普遍である(個物の内にあるsimilitudoが普遍だとは言ってない)、と結論される(In Porph. II, 166:6-167:7)。最後に[5.4]で解答をまとめ、さらに別の問題を注記して6)、ボエティウスの解答は終わる(In Porph. II, 166:7-20)。
【通常の解説とその検討】
上でも述べた通りこのテキストに対する通常の評価はそれほど高くない。中世初期の普遍論争研究で大きな位置を占める哲学史家・ライネルスも、比較的最近に中世初期の哲学史をまとめたマレンボンも、7)彼の普遍論を実在論的に解釈し8)、異口同音に、これでは「1かつ多のジレンマ」は解消されていないと評する。
ライネルスは、ボエティウスが個々の個物の内に存在する「形而上学的」な普遍としての「本質形相」(eidos)を考えており、「論理学的」な普遍であるcogitatioと、それを結びつけるための「実体的な類似性の概念」であるsimilitudoを提出してきたのだと言う。そして個物の内の「本質形相」である類種を同じく「本質形相」であるsimilitudoに置き換えただけなので、ボエティウスの解答は何ら問題の解決になっていないと決めつける。──またマレンボンはボエティウスの解決法が不十分だということの理由として、語法の曖昧さでごまかしているにすぎないと述べている。マレンボンは、ボエティウスの「類種はそれ自身で存在する(subsist in themselves)と考えられる」という解決に対し、「彼はそれらが実際にはそういう仕方で存在しないと言うつもりなのか?それとも類種がそれ自身で存在していると考えられるのはまったく正しいと言うつもりなのか?」と問い、そして前者の選択肢に対しては「普遍についての考えは虚し」いと、後者の選択肢については「1かつ多の問題は解かれないままだ」とボエティウスに異論を唱えている。
しかし彼らによるボエティウス批判は的を得たものであるのか?彼らの見解を検討しよう。まず、マレンボンの見解を取り上げよう。彼が「ボエティウスは1かつ多のジレンマを解決してない」と言う場合の論拠としてあげる問題点は前段落で述べたとおりである。しかしこの論点は、先に見た通り、ボエティウスが既に[3・普遍存在の反証][4・概念普遍の反証]で自ら取り上げていたものである。そしてむしろ、これらの点を解決するためにこそボエティウスは[5・解答部分]を提出してきたはずである。それゆえ[3]で普遍が存在するなら「1かつ多のジレンマ」が生じると示したその後の[5]で彼が「普遍は存在する」と言う場合に、前者の「存在する」と後者の「存在する」が同じ意味であると考えるのは不適切であろう。すなわち、[5]で行われた抽象理論の検討はボエティウスなりの[3][4]での問題点に対する解決だったはずであり、そうであれば困難を引き起こす[3]での普遍の「存在」の仕方とその困難の回避である[5]での普遍の「存在」の仕方は異ならなければならない9)。それにもかかわらず、[5]と[3]とで「存在する」を同じように受け取るからマレンボンの言うような批判が出てくるのである。換言すれば、[5]での「存在する」をマレンボンのように実在論的な意味で(つまり「1かつ多のジレンマ」を引き起こすような意味で)受け取ってはならないのである。
またライネルスによる批判も同様の仕方で処理することができる。ボエティウスがそう考えていたと彼の主張するように、個体の内に内属する本質形相として存在すると普遍を捉えれば、「1かつ多のジレンマ」が生じてしまうということは、直前の段落で我々の見たとおりである。実際、もし各個人の内に人の本質形相が存在するのであれば、この人の内に存在する実体的な人の本質形相とあの人の内に存在する人の形相が1つであるとどうして言えるだろうか?このような難点はボエティウス自身が[3]で触れているにもかかわらず、それに対する応答は[5・解答部分]に見いだされない。ボエティウスはほんのわずか彼の著述が進む間に自ら立てた問題を忘れてしまったというのか?やはりライネルスの言うようにボエティウスを解釈することには無理があろう。
【解答案の提出】
ならばボエティウスが提出した普遍問題に対する解答を我々はどのように解すればよいのであろうか?ライネルスやマレンボンとは逆に、彼は普遍が存在しないと主張していると考えればいいのであろうか?いやそうではない。実際ボエティウスは感覚可能なものにおいて、つまり個物において普遍が存在すると述べているからである。あるいは彼ならば、個物のうちにアリストテレス流のeidosが存在することを認めるかもしれない(ライネルスの言うような意味でのそれかどうかはともかく)。だがこの場合の「存在」は前節でも指摘した通り、他の箇所での「存在」と意味が異ならなければ彼自身の記述の中で齟齬が生じてしまうのである。
[1・紹介部]で第1問に関して次のような記述がある「そもそも類と種に関して、それらがsubsistereするのか、それともただ単に純粋な理解(intellectus)のうちにあるだけなのか」(In Porph. II, 159:3-5)。ここで語られているのは、事象として存在しているか概念としてしか存在し得ないかという対比である。これと対応する記述が[3・普遍存在の反証]にもある、即ち「類種はesseしなおかつsubsistereするか、あるいは理解においてそして単なる思惟(cogitatio)において形成されるかである」(In Porph. II, 161:14-15)。
ところが[1・紹介部][3・普遍存在の反証]以外の文脈では、必ずしもそのような対比においては語られていない。[2・註解部]の段階では理解の問題がつけ加えられているからである。そこにおいてボエティウスは第1問の記述を次のように書き換えている「精神が理解するものに関してはすべて、実在の側に確立されているものを理解(intellectus)によって把握し理性(ratio)によってそれ自身に記述するか、そうではないものをそれ自身に空虚な想像力(imaginatio)で描き上げるかのいずれかである」(In Porph. II, 160:3-5)と。まずこの箇所について指摘できることは、[1]では真偽を問わず精神内のものが「理解」と呼ばれていたのに対して、ここでそれを理解・理性と想像力とに区別していることである。そして次に、実在内と精神内の対比に理解・理性と想像力の対比が重ね合わせられていることを指摘したい10)。しかも後の[5.1]で抽象を語る際に理解と想像力が前者による認識は真であって後者による認識は偽であると論じられていることを考慮に入れれば、このような重ね合わせは普遍の存在・非存在の問題を認識の真・偽の問題として扱うために伏線として行われているのと言えよう。
確かに「5・解答部分]は認識の真・偽が主に取り扱われていた。だから[2・註解部]で存在と理解・理性、非存在と想像力が一緒に置かれていたことを、[5]のための伏線だと解釈すれば、[5.1]で行われた抽象理論の展開が[4・概念普遍の反証]に対してだけではなく[3・普遍存在の反証]に対する解答でもあったと主張することができる。しかし、[2・注解部]のこの箇所だけの解釈を基づいてそう主張するのは、証拠不十分の謗りを免れ得ないだろう。言ってみれば、[4]から[3]へとつながるいわば通路のようなものが必要なのである。──[4]は(前述の通り)普遍が実在の側になく概念の内にのみあった場合の不都合を論じている。その箇所を前半と後半とに分けて見るならば、その前半部分はその概念としての普遍が真であることの不都合を、その後半部分はその概念としての普遍が偽であることの不都合を扱っている。そしてその前半部で彼があげる不都合な点というのは、もし普遍の理解が真だった場合には普遍はrerum veritasのうちにあることになり、[3]で問うていた問題を再び問うことになってしまう(In Porph. II, 163:10-14)ということなのである。ここにまで至れば、我々はボエティウスの持っていた一つの前提を見いだすことができる、つまり「〜が存在している」ということと「〜について真なる理解が得られる」ということとは同じことだという前提11)である。
[5・解答部分]で[4]に対してだけしか答えていないように思われるのはこの前提が軽視されているからである。つまりボエティウスが[5.1]と[5.2]で行っているのはこの前提が通用しない領域を提示することであり、[5.3]と[5.4]で行っているのはその前提の上に別の存在領域を設置することなのである。
即ち、もの的なものとして存在すること(resとして存在すること)とそれについての理解が真であることは通常の場面では同じである。しかしそのような前提はすべての場面において有効なのではなく、少なくとも抽象による理解に関してはこの前提が成り立たないというのが、ボエティウスがここで言っていることなのである。つまり普遍に関して、理解は抽象によって得られるため真であるが、しかし理解においてあるような仕方では実在の内にないと言っているのである。換言すれば、類種という理解に対して事物の側で対応するものは、<もの的なものとしての存在>を有していないのである。──しかし逆にこの前提を考慮に入れれば、彼が[5.3]や[5.4]で普遍が存在すると言っている意味が明らかにできる。つまりこうである。<もの的なものとして存在>を有していなくとも、それについての理解が真であれば、その限りにおいて語られる「存在」が、言ってみれば<理解が真という意味での存在>とでも表現すべきものがあるのだと。各個物のうちに種を、各種のうちに類を見出すときの理解が真であるとき、その類や種は存在している。そういう意味で普遍は理解のうちにあるのであり、理解こそ普遍なのである。そして彼が「普遍が個々のものにおいて存在する」と言う場合の「存在」は<理解が真という意味での存在>だけしか含まれていないのである。
ボエティウスは抽象認識の真を説明するのに[5.2]と[5.3]で線を具体例として挙げているが、線の存在様式に関しては先に説明がなされている。つまり[2・註解部]の第3問を説明する箇所で、線は面や数や個々の質とともに、物体そのものの中にあって物体なしには存続し得ないものとして説明されている12)のである。実際、これら(個としての質は普遍としての質に対して置かれているので除くとして)について語られている「存在」は<もの的なものとして存在>ではないだろう。彼の使った例を用いて言うなら、弧を描いた或る曲線の内に凹線と凸線が<もの的なものとして存在>しているとは言えないだろう。また別の例を挙げれば、ここに3本の剣があるとき、その剣の中に「3であるということ」という数が<もの的なものとして存在>しているとは到底言えないだろう13)。「3であるということ」という数が(通常言う意味での)存在をしているのは理解においてであり、もし剣のうちに「存在」が語られるならそれは<理解が真という意味での存在>とでも表現するしかないような「存在」なのである。
【理解の真を保証するsimilitudo】
だが、もしライネルスの解釈に同意する人ならば、similitudoを用いて反論するかもしれない。つまり、「1」と「多」を仲介するものとして「似」であるsimilitudoを置くならば、精神の内にあるいわば「理解される普遍」を「1」としたまま、個物の中にある本質形相としての普遍を「多」とすることができる、こういうふうにボエティウスは考えていたんだ、と。例えば、各個人個人のなかにある人の種はその個体数だけたくさんなければならないと同時に一つの種として同一性を保たなければならないが、しかしこの説に従えば、同一性は精神の中の普遍に、多性は個物の中の普遍に、両者を結びつける働きはsimilitudoに負わせることができるからである。各個物は個々別々のままであるが互いに類似した点を有していて、精神はその類似した点を拾い集めてその種についての一つの概念を構築するのだ、と彼らは言うかもしれない。
そして確かに、そう解する場合、ライネルス自身がボエティウスを批判して述べている通り、ボエティウスは類種を類似性に置き換えてごまかしたということになろう。というのも、もし個の内に本質形相としての類種が存在するならば、それは他の個体の内にある本質形相と同じでなければならないからである。例えば、太郎の内にある人の本質形相と花子の内にある人の本質形相とが別の本質形相であるなら、我々は太郎のそれも花子のそれも同じく「人の本質形相」と呼ぶことはできないからである。すると、太郎と花子を同じく「人」と呼ぶことができることの説明として「人の類似性」と「人の本質形相」を導入してきたのと同じように、「人の本質形相の類似性」と「人の本質形相の本質形相」をさらに導入しなければならなくなる。すると・・・。そうならないためには、人の本質形相は数的に同一でなければならず、そうすると問題はふりだしに戻り「1かつ多のジレンマ」を我々は解かなければならなくなる。
しかしこれは、個物においてある普遍を何か「もの」的な存在者だと解釈しようとすることゆえの難点である。前節で示したように、ボエティウスはそういう意味での存在を個物においては認めていず、ただ<理解が真という意味での存在>だけを認めていると解釈すべきなのである。そうすれば、そのような帰結へと導かれずにすむ。しかしその場合には、ボエティウスの言うsimilitudoを我々はどのように解すればいいのかということを明らかにしなければならないだろう。次にそのことを論じよう。
ボエティウスは[5.3]で次のようにしてsimilitudoを使っている。
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(i)それゆえ、類種が思惟されるとき、それらがそのうちに存在するところの個々のものどもからそれらの類似点が集約される。例えば、それ自身の間では似ていない個々の人々から人たることの類似点が集約される。(ii)この類似点が、精神によって思惟され、真なる仕方で見られて、種となる。14)
後ろの(ii)から見ていこう。精神による真なる把握が種であるというのは既に確認した通りであるが、ここではその把握の対象としてsimilitudoが導入されている。また、先の引用箇所の直後で「このsimilitudoは、個々のものにおいてあるときは感覚可能となり、普遍においてあるときは理解可能となる」(In Porph. II, 166:19-20)とも言われている。だが、similitudoは個物の代わりに認識されるような何かなのではない。遡ると(i)では複数の個物から得られる単数のものとしてそれが記述されているからである。個物の認識とsimilitudoの把握とは別に起こる。例えば、デモクリトスやレウキッポスらの原始論者が考えていたエイドーラのようなものだと、ここのsimilitudoを解するのは不適切なのである。──むしろこう解する方が適切であろう。普遍は理解が真たる限りで個物の内に存在すると言われるので、確かに両者間に介在するsimilitudoはその理解が真であることを支えている〈何か〉ではあるが、しかしその〈何か〉とは、先に示した通り個々物の内に個々別々に実在している〈もの〉ではありえないので、各個物において成立している同様の事態こそそれであろう、と15)。ただし、ここで主張していることは、〈人だ〉という諸事態間で同様だということが成立しているということではなく、むしろ〈人だ〉という事態の成立という点で各個人が似ているということである16)。
ここで主張されていることを例を用いて説明すればこうである。次郎が太郎や花子から人の理解を持つ場合、彼は太郎と花子に〈人だ〉という事態を見て取る。この事態が精神によって思惟されて、真なる理解が形成される。この真なる理解こそボエティウスの言う種である。逆に言えば、その「人だ」(Homo est.)という理解が真であるのは、太郎と花子において〈人だ、ということ〉(esse hominem)の事態が成立している17)からである。そして太郎や花子に関してその理解の真であるということこそ、太郎や花子において人の種が存在しているということなのである。
【結びにかえて】
通常、ボエティウスの『イサゴーゲー第二註解』は実在論的な立場からの解釈が正統とされる、しかもそれは個物のうちに普遍が内在するという仕方での実在論である。しかしこのような解釈は彼の普遍論の正確な理解だとは言えない。諸々の感覚可能なものにおいて普遍が存在すると彼が言う場合には、〈理解の真=存在〉という古代以来の存在了解18)が前提されている。このことを踏まえなければ普遍問題に対する彼の解答は首尾一貫しない、あるいは解決には不十分なものということになってしまうのである。そして実際、この前提が忘れ去れるに従って、あるいは別の論点19)が入ってくるに従って、普遍の問題は再び解かれるべき問題として哲学史の表舞台へと現れてくることになっていったのである。
【註】
1) Cf. Abaelardi Historia Calamitatum, ed. V. Cousin, Paris 1849 (rep.1970) (Petri Abaelardi Opera I), p.5.(『アベラールとエロイーズ』畠中尚志約、岩波文庫、15頁)。
2) ここで言う「いわゆる『アリストテレス的』」というのは、哲学史上の分類として使われる通俗的な意味でのそれである。普遍が個物からイデアとして離在するという、いわゆる「プラトニズム」に対して、普遍は個物の内に本質形相として存在するという立場である。
3) このような点からの研究に関しては、次の研究を参照。J. Shiel, `Boethius's commentaries on Aristotle', Mediaeval and Renaissance Studies 4 (1958), pp.217-44; H. Chadwick, Boethius: the Consolations of Music, Logic Theology, and Philosophy (Oxford University Press 1981), esp. pp.108-133; J. BARNES, `Boethius and the Study of Logic' in BOETHIUS His Life, Thought and Influence, ed. M. GIBSON, (Oxford 1981), p.73-89.
4) 本論考ではこのように次の著作を略記することにする。A. M. Sev. Boethii in Isagogen Porphyrii Commentorum editio II, ed. Samuel BRANDT, Vindobonae 1906 (Corpus script. eccl. lat. vol.48).
5) In Porph. II, 159:3-9:「そもそも類と種に関して、それらがsubsistereするのか、それともただ単に理解のうちにのみあるのか、また独立存在するものとしても、物体であるのか、非物体的な物であるのか、また離在可能なものなのか、それと感覚対象のうちにこれらに依存しつつ置かれるものなのか、という問題については、私は論じることを回避するでしょう。というのも、このような仕事は極めて深遠で、もっと大きな探求を必要とするからです」。
6) ここでボエティウスは、第3問の解答に関して、プラトンの見解とアリストテレスのそれでは相違があることを指摘している。そしてその件に関していずれが正しいかは難解なのでここでは解答を求めないとしている。
7) J. REINERS, `Der aristotelische Realismus in der Fruhscholastik', Bonn; Druck von J. Trapp: 1907. ヨゼフ・ライネルス『中世初期の普遍問題』稲垣良典訳、創文社、昭和58年、3-56頁。John MARENBON, Early Medieval Philosophy (480-1150): An Introduction, Routledge 1988. J.マレンボン『初期中世の哲学』中村治訳、勁草書房、1992年、37-42頁。
8) 以下で扱う実在論は、初期中世において様々な実在論者たち(偽ラバーヌス、カンタベリーのアンセルムス、シャンポーのグイレルムス等々)が取っていた立場とはまた異なる。彼らがボエティウスのこのテキストを拠り所としてどのような学説を唱えていたかは次の論文を参照。岩熊幸男「アベラルドゥス以前の普遍論争」京都大学人文研究所『人文学報』60号、1986年、105-160頁(特に108-113頁)。
9) 彼による解釈の最大の問題点は、[5・解答部分]、特に[5.3][5.4]の記述のみを重視し、[3・普遍存在の反証]を軽視してる点であろう。しかしこのような傾向は中世初期の実在論者たちも同様であった。前掲岩熊論文、参照。──また反実在論にたつアベラルドゥスが実在論者を論駁したその論証は(その議論の前提となる論争点や、論証の洗練度で大きな違いはあるものの)[3]での議論の延長線上にあるものと言えよう。cf. P. Abaelardus, Logica `Ingredientibus', hrsg. B. GEYER, Beitrage zur Geshichite der Philosophie des Mittelalters Bd.21 Heft1, 1919, pp.10:8-16:18.
10) ここに指摘した2点は、『第1註解』(『第2註解』との非連続性の方がしばしば強調される)においても見いだされる。 A. M. Sev. Boethii in Isagogen Porphyrii Commentorum editio I, ed. Samuel BRANDT (Corpus script. eccl. lat. vol.48), pp.24:10-26:15 (esp. p.25:11-15).
11) 傍証として次のテキストを指摘することができる。 Boethii Contra Eutychen et Nestorium, c.1. ボエティウスは`natura'の定義を列挙する際にそこで、存在するものを規定するためにintellectusによって捉えられるということを彼は述べている。
12) In Porph. II, 160:22-161:7 でボエティウスは非物体的な存在には2通りの形態があると述べている。一つは物体なしに存続しうるもの(例えば神や精神、魂)と、もう一つは物体なしでは存続し得ないもの(線や面、数、個々の性質)である。──この対比はまさしく、[5.4]で述べられたプラトン・アリストテレスの対比に対応する。あそこで語られているプラトンの普遍説を、いわゆる「プラトニズム」の図式で理解するのは誤りであろう。
13) ボエティウスは彼の『三位一体論』の中で、数を2通りに分類している。つまり、それによって数える数(1ということ、2ということ)と、数えられる物において成り立つ数(1つのもの、2つのもの)である。彼の使う例で説明すれば、二人の人や二つの石となるのは、前者の数である2ということ(dualitas)により、そしてこの2ということは決して事物においては存在しない、とある。Boethii Quomodo Trinitas Unus Deus ac non Tres Dii, c.III. LCL74, ll.13-28.
14) In Porph. II, 166:8-12: `quocirca cum genera et species cogitantur, tunc ex singulis in quibus sunt eorum similitudo colligitur ut ex singulis hominibus inter se dissimilibus humanitatis similitudo, quae similitudo cogitata animo ueraciterque perspecta fit species'. 下線部の数に注目して欲しい。二重下線の`similitudo'は単数であるが、一重下線部は複数である。
15) この引用箇所の直後に「実体的な類似点」(substantialis similitudo)という表現もある。10のカテゴリーの中の「実体」という点で考えれば、「何か?」の答えになるものが実体であるので、ここで私が主張しているsimilitudoはまさに「実体的」であろう。
16) Cf. In Porph. II, 229:20-230:1: `sed in hoc conuenienti utitur exemplo dicens quoniam participatione speciei, id est hominis, Cato, Plato et Cicero pluresque reliqui homines unus, id est milia hominum in eo quod sunt homines, unus homo est'.
17) similitudoをこのように解すれば、先の註13でも挙げた議論もここでの説明に対応することになる。つまりそこで個物の内に成立する数は「一つのもの」(unum)、「二人の人」(duo homines)、「二つの石」(duo lapides)という仕方でしか語られていないからである。
18) Cf Aristotelis Categoriae c.5 (4b8-10) & c.12 (4b15-22); De Interpretatione c.9 (19a33); Metaphysica G c.7 (1011b26-28), D c.7 (1017a31-35), E c.4 (1027b29-1028a4),& K c.8 (1065a21-24); &c..
19) 中世初期の普遍論争は、ボエティウスの問題意識とは異なり、「論理学が扱うべき対象はresかvoxか」という問題領域で行われていた。Cf. IWAKUMA Y., ```Vocales,'' or Early Nominalists', Traditio vol.XLVII, Fordham Univ. Press 1992, pp.37-111.
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