フロイトとユング
の潜在意識






潜在意識



一般に「無意識」と言われます


西洋における無意識の研究は

オーストラリアの精神科医の

フロイト(ジークムント・フロイト・1856~1939。国際精神分析学会の創設者)

が起点となっています




“人間は自由な意志によって「最高善」に至れる”という

道徳論者のカント(1724~1804・ドイツの哲学者)は

認識能力の「理論理性」(純粋理性)とは別に

人は、先天的な意志能力として「実践理性」を有するとしました


良心の声に従おうとする働きが実践理性です

自己に内在する道徳法則(良心)に従う理性です



例えば、川で子供がおぼれているのを見て

「あの子はいずれ死ぬだろう」

「助けに飛び込んだら自分も死ぬかもしれない」と

自然の法則に従ったものの見方をする働き=認識能力が「理論理性」



この「理論理性」(純粋理性)が

我々がふつう「理性」と呼んでいる理性です




これに対して「なんとかして救いたい」とか

「救わなければ」とかいう」

という内なる≪良心≫に従おうとする働きが「実践理性」というわけです


そして、カントは自然法則や他人の支配から解放され

自己の道徳法則に従って生きることを「理性の自律」と呼びました


つまりカントは、「私」の行動を「理性の自律」で説明したわけです




なお、「純粋理性」(理論理性)が

我々がふつう「理性」と呼んでいる理性です

と書きましたが


「純粋理性」も

カントのいうような認識能力などではなく

価値判断の結果であり

意志に近いものです





これに対し マルクス

(1818~1883・ドイツの共産主義運動の理論的指導者、経済学者、哲学者)

などの唯物論者は

真の存在は物質だけだと考え、神、霊魂、精神、意識などを認めず

意識は高度に組織された物質(脳髄)の所産であり

認識は脳髄による反映であるとし

私の思考を決定するのは、物理的条件であると考えたわけです



これに対し、フロイトは、「私」を動かしているのは

“「私」の意識の中には無い何もの”と考えました



今でこそ、人の意識は

一般に意識と呼ばれている顕在意識は1割で

9割が潜在意識(無意識)である

と信じられるようになっていますが

当時としては斬新でした



デカルト(1596~1650・フランスの哲学者・近代哲学の父)は

生得観念〔しょうとくかんねん・

生まれながらにして(=先天的) 心に具わっている観念

神や自我についての観念など〕

(自我とは他者や外界から区別して意識される自分)

の存在を主張しました



これに対し

イギリスの経験主義哲学者のロック(1632~1704)は

デカルトの生得観念の存在を否定し

「すべての観念は、白紙(タブラ・ラサ)の心に

経験によって(=後天的) 得られる」

という有名な言葉を残しました


〔なお、観念とは、あるモノやコトについていだく意識内容〕



ロックは「意識とは、心が自分自身の経験を直接知ることである」

と主張しました



しかし、現在では、意識の領域は、顕在意識ばかりではなく

潜在意識にわたっていることが分かっています





デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と述べたように

哲学の分野では、意識=自己(主体) ととらえてきましたが

現代では、精神分析学や心理学の発展から

自覚できない精神=無意識をも主体に認めています



人間というのは、じつはほとんどの場合

自分の意志で行動しているわけではないのです


人間の行為や行動が、意志だけで決定されるとしたなら

これほど楽なことはないのですが、現実はそうはいきません



不安や心配ごとがあると寝ようとしてもなかなか眠れない

好きな女性の前ではその子を意識してうまくしゃべれない

人前で話をしようとすると緊張してしまう

タバコやギャンブルをやめたいと思っていてもやめられない

痩せようと思っていても本気でダイエットに取り組めない


このように人の行動は、潜在意識によって大きく左右されているのです



潜在意識を「無意識」とも言いますが

意識しすぎて緊張してしまったりするのですから


無意識というより

意識ではコントロールできない強い意識という感じですよね




潜在意識には2つのあるようです

1つは

「表層意識では気づいていないが

自分の言葉や行動に大きく影響を及ぼしている意識」



もう1つは

≪意識しないようにしても、意識しすぎて緊張してしまう≫

といったように

「表層意識にのぼってくるけど

表層意識ではコントロール不可能な意識」



後者には、無意識という言葉は適切ではないのかもしれません





人間が、意志によって行動できるのはほんの表層的部分にすぎず

その下には深海のような無意識層が存在しているとされています


いわば顕在意識はその海に浮かぶ氷山にすぎないのです


なので、意識や意志の力で

潜在意識は、治めることはできないと言われています



カール・ユング(1875~1961。スイスの心理学者・精神医学者

分析心理学の創始者)は

“人の意識は、潜在意識のめし使いにすぎない”と述べています


今、働いている潜在意識を意志の力で

屈服させることはできないわけです




ただ、苦手なことにあえて挑戦し、慣れることによって

潜在意識を抑制することはできるとされています



例えば、車の運転もはじめたばかりのときは、運転に気をとられて

他のことに意識がまわりません

しかし、上達してくると、会話しながら運転できます


人は「慣れる」ことによって

できるかぎり意志の力だけで行動しようと努力します




また、ふだんは、意識の下に隠れていますが

潜在意識はつねに働いているそうです

表層意識(顕在意識)とは別次元で四六時中働いているそうです






トラウマ(心的外傷)は、過去の記憶や感情が

潜在意識にすりこまれたものです


過去の事実に、恐怖や不安の感情が強く結び付けらて

潜在意識に、記憶として留め置かれたものです


仏教では「阿頼耶識」(あらやしき)には

過去世からの全ての行為が

トラウマのように蓄積されているとしています




人間は、膨大な量の記憶を脳に刻むそうです

そうした膨大な記憶は、ばらばらに存在しているのではなく


脳は、感覚的、感情的、意味的に記憶する連関構造や

グループ構造を持っているそうです

これは、連想が、記憶の想起をうながすことから明らかだといいます


このような構造のなかでは、どのような記憶であっても

再生、想起される可能性は完くゼロではないそうです

ただ大部分の記憶は、生涯、再生されないそうです


科学的には、大脳の神経細胞ネットワークのどこかに刻まれてはいるが

生涯、再生されないような記憶をも

「意識でない領域」=「無意識」と考えるそうです







潜在意識の特徴としては


① 時間と空間の認識ができない

過去、現在、未来がなく、常に今であるということ

過去にあったつらいことを思い出すとつらくなる

楽しいことを思い出すと、楽しくなるというように

過去の感情がよみがえってくる

1ヶ月先のスピーチのことを考えると

未来のことなのに、今 緊張する



② 想像と現実の区別がつかない

ケーキを想像したり、見ただけで唾液が出る

ケーキを食べても食べなくても唾液が出る

スポーツでイメージトレーニングが効果を持つ



③ 自分と他人の区別ができない

相手が楽しいのを見ていると、自分も楽しくなる

ドラマの悲しいシーンを見ていると、自分も悲しくなる

涙目の犬や猫の写真を見ると、自分の目もうるんでくる



④ キーワード検索機能があり、答えが出るまで答えを探し続ける

ど忘れしたことや言葉を、何日かたって思い出す



⑤ 論理的な判断ができない。正しいとか間違っているとかの判断ができない

太るのが体によくないのを意識では判っているのに、体重が増えてしまう

夜更かしすると明日がつらくなると知りつつしてしまう



⑥ ホメオスタシス(恒常性)をもつ

ダイエットがなかなか成功しない。性格がなかなか変えられない



この他にも、言葉よりイメージに強く反応するとか

顕在意識が低下すると、潜在意識の割合が大きくなり

催眠状態に近づくなどの特徴があるそうです






「能力開発」や「自己開発」系の本、さらには「成功本」

また「自己啓発プログラム」というものの多くが

潜在意識をテーマにしたものです


潜在意識には、意識ではハッキリと自覚出来ない巨大な力がある

その心の奥にある巨大な力に

自己の改革、能力開発、そして目標達成に向けて協力してもらう

という話が中心です




宗教団体がやっているような「自己啓発セミナー」では

「あなたは宇宙とつながっています

本来的な自己、大いなる自己に目覚めなさい」

とか


「良いことを考えれば良いことが起こり

悪いことを考えれば悪いことが起こる

これが潜在意識の法則です

成功者に共通するのは潜在意識を利用するのが上手だったのです」

とか


「無意識こそが本来の自己です

そこに意識が一致しないところに自己否定がおきます

だから意識を無意識に一致させなさい」

とか


「自分で自分をほめましょう」みたいな話をし

マインドコントロールのきっかけとしているようです








フロイトのリビドー



フロイトは「神経症」とくに「ヒステリー」を研究し、その治療法を開発し

これをのちに「精神分析」と名付けたそうです


そんなフロイトは、人の心理は

無意識層にひそむ抑圧された「性衝動」に基づくと考えたといいます


人間に生まれながらにして具わっている本能的なエネルギーを

「リビドー」(「衝動」「欲動」と訳される)と呼びました



フロイトは

動物の場合、自分を生かそうとする「生存欲」(自己保存の欲求)と

自分の子孫を残そうする「生殖の欲求」という

2つの原則というか本能で生きている


これに対し、人間の場合

動物的な「本能」ではなく

たとえ「痛み」(不快)があっても現実に従って生きようという

「自己保存の欲動」(=現実原則)と

ひたすら「痛み」をさけ「快楽」を求め続けるという

「性の欲動」(=快楽原則)

という2つの「欲動」で成り立つ

としました



のちに

動物たちの生殖の欲求は、すべて他者に向かうが

人間の場合、自分を愛する部分があると考えて

「対象リビドー」(対象愛)と

自己に向けられた「自我リビドー」(自己愛)

という考えを打ち出し


自己保存の欲求を、対象リビドーに含め

人間の欲動を「性の欲動」に一本化し

その中の「対象リビドー」と「自我リビドー」という構図

にあらためています








死の欲動



後期には、今度は「対象リビドー」と「自我リビドー」は

どちらも生きるための欲動であるとして

2つを「生の欲動」(エロス)としてまとめ

これに対する「死の欲動」(タトナス)という構図を唱えています




「死の欲動」は、攻撃・破壊の衝動だといいます


死の欲動に関しては、よく解りませんが


男性の「愛」には

犯したいという攻撃と破壊の衝動が含まれていますし


その愛を受け入れる女性には、自己破壊の欲求が含まれています



また、他者と一体となる性行為を

自己の破壊ととらえれば、性行為への衝動は、死の衝動と言えます





我々の祖先が、単細胞生物から

多細胞生物へと進化するとともに

無性生殖から有性生殖に移行したことによって

自分の全ての遺伝子を

子孫に伝えていけなくなったという事実は


進化とは、種のレベルにおいては「生の衝動」ですが

個のレベルにおいては「死の衝動」になるのかもしれません


そうなると、男女の生の営みである性交渉

さらに、異性を愛するという「愛」という感情は


個のレベルからは、自己保存であり、生の衝動ですが

種のレベルからいうと、 死の衝動なのかもしれません





それから「死の衝動」が破壊の衝動だとすると

これが、秩序の破壊=革命 のエネルギー

になっているかもしれません



「死の衝動」が社会に向かえば「革命」へ

自分に向かえば「自己変革」になるのかもしれません








フロイトの自我



フロイトは、精神を「自我」「エス」「超自我」の3つの構造で説明しました


フロイトの定義する「自我」(エゴ)とは

「エス」と「超自我」とを仲介し

人格全体を統合して、現実への適応を行わせる精神の側面です


「エス」は、「イド」ともいいます

リビドーが発生している無意識とされ、快楽原則に従います


「超自我」(スーパーエゴ)は

〇〇しなければならない。〇〇してはいけない

〇〇すべきだといった道徳的心理です

良心(自我理想)に似ていますが、無意識的に働くとされます


自我は、エスと超自我からの要求を受け取り

環境に関係しようとするときの心理(機能)です








フロイトのエディプス・コンプレックス



有名な「エディプス・コンプレックス」は

フロイトの「性衝動」を理解する上で、欠かせない概念とされます



コンプレックスというと日本では劣等感を意味しますが

本来は、複合化された感情をいい「複合観念」と直訳されます

(観念とは、あるモノやコトについていだく意識内容)



例えば、劣等感のコンプレックスの場合

ただ単に人より劣っているという感情=劣等感に

怒りや悲しみなどの体験、あるは強い嫉妬や憎悪などの感情が

無意識的に結びついた心理状態をいうそうです




「エディプス・コンプレックス」とは

フロイトの造語で、ギリシア神話のエディプス(オイディプス)にちなみます


男の子が無意識のうちに母親に愛情を持ち

自分と同性の父に敵意を抱く心理

無意識のうちに、父に代わって、母と性的な関係を結びたいとする欲望

だそうです




フロイトによると

男子は、幼児自慰がさかんになるおよそ3~6歳にかけて

父に敵意を抱き、母を性的に求めるといいます


この時期をエディプス期または、男根期と呼び、父に敵意を持つため

父から報復として去勢されるのではないかという恐怖

=「去勢コンプレックス」「去勢不安」(フロイトの用語)を抱くといいます



このコンプレックスは

男子の成長に重要な役割を果たしていて

父に憧れ、父のようになろうとすることによって克服されるそうです


また、この経験により、思いどおりにならないことがあることを悟り

欲求を抑制する「超自我」を形成していくといいます





また

思春期に性的衝動が強まってくると

再び オイディプス的欲求があらわれるそうですが


性的衝動が、他の異性に向けられることによって

オイディプス的欲求は克服されるそうです



神経症の患者は

去勢コンプレックス(エディプス・コンプレックス)の克服に

失敗した者であるそうです





一方、女子には「ペニス羨望」という概念を立てています


女子は、幼児期に、自分の身体に、ペニスがないことを発見し

本来、もっていたペニスを母に奪われたと空想する

やがて「男子になりたい」「男子のようにペニスをもちたい」とうらやみ

また、ペニスを与えてくれなかった母親を敵視し、父親の愛情を独占しようとする

そうです


ペニス羨望は、やがてペニスと等しい価値となる

「子供がほしい」という願望に変化することで克服される

しかし、ペニス羨望が克服されずに残ると、神経症患者、女子同性愛者

また男性への競争心が非常に強い 男性コンプレックスの所有者になる

としています







ユングによって提唱された

女児のエディプス・コンプレックスと言えるものに

エレクトラ・コンプレックスという概念があります



女児が父親に対して強い独占欲的な愛情を抱き

母親に対して強い対抗意識を燃やす心理とされます



但し、女性の場合は

マザー・コンプレックス(母親に対し強い愛着・執着を持つ心理

母親の考えや言動に左右されやすい状態)が強いので

エレクトラ・コンプレックスが働く余地がないという説もあります



一方、女性の場合、マザー・コンプレックスが強く

エレクトラ・コンプレックスが働く余地がないという考えに対して

現実に即しているとは言い難いという立場もあるようです




エレクトラ・コンプレックスの エレクトラも

やはりギリシア神話に登場する人物で


父 アガメムノン(ミュケナイの王)を殺した母 クリタイムネストラと

姦夫 アイギストスを、弟の オレステスとともに

討ち取り復讐をなしとげた女性です









【 オイディプス 】



デーバイの王 ライオスと、その妻 イオカステの子

ライオスは「男子が生まれると、その子に殺される」という神託を受けたが

酔ったおりに妻と交わり、男児をもうけてしまう


ライオスは、男児を殺そうと考えたが、殺すには忍びなく

男児のかかとをブローチのピンで刺し、従者に山中に捨てさせた


しかし従者も殺すのに忍びなく、男児を羊飼いに渡し

男児は羊飼いから子供がいなかった コリントス王 ポリュボスと

その妻である メロペに渡されて育てられた


男児はプース(かかと)がはれている(オイディン)ので

オイディプスと名づけられた


あるとき、オイディプスは、自分が王の子ではないことを知り

真実を知ろうと、デルフォイのアポロン神殿に神託をうかがいに行く

「自分がポリュボスとメロペの実子であるか」を聞くと

アポロンは彼の問いに答えず

「父を殺して母を妻にするから、故郷へは近づいてはいけない」

という神託を下した


そこでポリュボスとメロペとを実の両親と信じるオイディプスは

コリントスには帰らず、旅を続けた


旅の途中、馬車の一行と道の譲り合いで喧嘩となり

相手の従者が、彼の馬を殺したので

これに怒り、相手とその従者を打ち殺してしまう

(谷底に突き落として殺したとも)


相手は、実の父の ライオスであったが

それとは知らずに殺害してしまったのである


その後、スフィンクス〔顔は人間、身体はライオン。翼を持つこともある怪物

エジプトに起源をもち、エジプトでは王権の象徴、死の神

ときに太陽神の化身とされた

ギリシア神話では、美女で翼を持つ

フィキオンの山で、なぞなぞを出し

これを解けない人間を次々に食べていた〕を退治する


スフィンクスのなぞなぞは

「1つの声を持ち、4足、2足、3足になるものは何か?」というもので

オイディプスが「人間」

〔赤児は4足ではい、成人は2足で歩き、老人は杖をつく〕

と答えると

スフィンクスは恥じて(神託になぞが解かれたときに死ぬとあったことからとも)

山より身を投げて死んだ



ライオスには後継者がいなかった為、王妃イオカステが国主となり

その実弟 クレオンが摂政として国政を担当していた


クレオンは、スフィンクスの謎を解き

退治した者にテーバイとイオカステを与えるという布告を出していたので

オイディプスは、デーバイの王位と

イオカステ(実母)をもらい受け、2男2女をもうけた


オイディプスがテーバイの王になって以来、不作と疫病が続き

クレオンが、デルフォイのアポロン神殿に神託を求めると

「不作と疫病は、ライオス殺害のけがれであるから

殺害者を捕らえて、テーバイから追放せよ」という神託を得た


そこで、調査をすすめていくと、真実が明らかになり

イオカステは首を吊って自殺し、オイディプスは自分で目をえぐって盲人となり

デーバイを去り、諸国をさまよって死んだという









【 阿闍世(あじゃせ)コンプレックス 】



日本の精神分析の草分けとされる

古澤平作(こざわへいさく・1897~1968)と

その弟子 小此木啓吾(おこのぎけいご・1930~2003)

によって

日本の母子関係にみられるものとして唱えられた理論です



エディプス・コンプレックスが

母を愛するあまり、父を亡き者にしたいと願うものであるのに対し


阿闍世コンプレックスは母を愛するがために

母を亡き者にしたいと願う心理だといいます




母親と子の間における葛藤が

両者の人格形成に現れるというものです


母親は子供の出生に対して恐怖を持ち

子供はそれに対する怨みを持つという話を根拠に


理想的な母との一体感➝ 母による理想像への裏切り

➝ 怨み(殺意)➝ 怨みを超えて、許し合う

といった人格形成の過程を示したもののようです




阿闍世とは、仏典に登場する阿闍世王のことで


阿闍世とは、もともとサンスクリット語で「未生怨」

出生以前に母親に抱く怨みの事を意味するといいます





古澤による阿闍世の物語(創作・仏典にはない)は


王妃の韋提希(いだいけ)は、王子が欲しかったが

年をとり、王の寵愛が薄れていく


占い師(予言者)に相談すると

「裏山の仙人が3年後に死んで、夫人にみごもり王子となる」

という予言を受けるが


3年を待ちきれずに、仙人を殺してしまう



仙人は死ぬとき「呪ってやる」と言い残したため

王妃は怖くなり、堕ろそうともするが


結局、阿闍世を産むも塔楼から落とす




青年になった阿闍世は

提婆達多(だいばだった・釈迦と敵対し人物)から

自分の出生の秘密を知る


阿闍世は、理想に思っていた母親に失望し、殺意さえ抱く



しかし、悪腫に犯され、誰も近寄らなくなった阿闍世を

王妃は、献身的に看病し、怨みを超え


釈迦の教えを受け入れた

王妃の看病により、阿闍世の病も癒え

その後、阿闍世は名君になる というものです




なお、仏典にみられる阿闍世の話は

提婆達多にそそのかされた阿闍世は、父王を幽閉し餓死させる

食事を与えられなかった王に

その身に蜜を塗って会いに行っていた母を怨み幽閉する


王位につき、マガタ国をインド第一の大国にするも

罪悪感から釈迦に帰依し、仏教の庇護者となったといったものです









アドラー



フロイトは、精神医学における一大勢力を築いたものの

彼の考えに無理があったので

結局、アドラーやユングといった優秀な弟子たちが離反していったそうです



但し、フロイトの弟子たちは

彼の考え方のどこかしらかを批判した上で、これを継承し

さらに独自の理論へと発展させていったわけですから

フロイトの精神医学、心理学における歴史的な功績は

大きなものと言えます





また、第二次大戦前頃から大戦後にかけて

主としてアメリカを中心に活動した精神分析学の一派

「新フロイト派」によると

「エディプスコンプレックス」は、フロイトが主張するように

人類共通の無意識としてあるものではなく

父権社会にのみ認められるもので、「去勢コンプレックス」や

「ペニス羨望」は、男性優位の社会における

心理的産物にすぎないとしています








アドラー(1870~1937・オーストリアの精神科医

自由精神分析協会を設立)は


幼い頃には身体が弱かったこともあり

身体器官の劣等性に関心を持ったといいます


そして全ての人に、形態や機能的に劣った部分が存在し

劣等感が存在することを発見したとされます



そこで、神経症の原因について

フロイトが、過去の性的外傷(エディプス・コンプレックス)

を主張したのに対し


アドラーは、劣等感と

それを補償しようとする「権力の意志」

(人よりも優れようとする欲求)を主張したといいます



それから、女性の劣等感は、社会的地位の低さから生じるとし

神経症の原因に初めて文化的な要因を持ち込んだそうです





アドラーの最初の診療所は、遊園地の近くにあり

患者には、遊園地で働く料理人や軽業師、芸人等が多くいたといいます


アドラーは、彼らが身体的な劣等性を克服し

むしろそれを強みにして

遊園地での仕事を得ていることを発見したそうです




さらに、客観的にみても身体的に劣っている

というような劣等性だけでなく

主観的に「自分は劣っている」と思い込む

≪劣等感≫についても、この原理は当てはまることを発見します




人は、つねに理想の自分を求める≪優越追求≫という心理と

理想が達成できない自分に対する≪劣等感≫を

もつといいます



そして、この劣等感が補償されないと


自分が優れた人間であるかのように見せかけ

偽りの優越感に浸る「優越コンプレックス」や


なにも努力もせず、自らの劣等性を言い訳とする

「劣等コンプレックス」という心理が生まれるといいます




アドラーによると

劣等感も、トラウマも

現実を肯定ための言い訳、道具にすぎないといいます


トラウマなら、自己変革を避けたいという心理から

過去に原因を求めているだけであるということです



また、そこから「変わる勇気を持ちなさい」ということと

「自己を受容しなさい」ということを説いたことから

彼の心理学は、≪勇気づけの心理学≫と呼ばれています








ユングの集団的無意識



ユング〔カール・グスタフ・ユング・

1875~1961。スイスの精神科医、心理学者〕

の研究は

精神医学、心理学ばかりでなく、人類学、比較宗教学にまで及び

現在も大きな影響を与えています



ユングは、キリスト教や自然科学を絶対視する

ヨーロッパ中心主義に反対し

東洋に大いに興味を持ち

中国の易経〔儒教の経典。五経の1つ。占筮(せんぜい)の書〕や

日本の禅などを紹介したそうです


とくに、密教の曼荼羅は

自己を表現するものだと考え、重視したといいます



当初、彼の思想を理解する者は少なかったそうですが

70年代頃より世界が注目しだしたといいます



また、≪人生の意味を喪失した者は、国家の奴隷への道へ進んでしまう

独裁国家は、個人の宗教的な力を吸収し、神の位置にかわる≫と述べ

独裁主義・国家主義とも対立したといいます




それから、ユングによると

≪ 理想な人生とは

幼年期は、両親および周囲の人から愛され安心感をもって過ごし

青年期は、より高次な存在・神聖な存在を求める努力に生き

壮年期は、他者への奉仕につとめ

老年期は内面性に生きて人生を肯定できることである ≫

といいます





ユングは

無意識に存在するリビドーを

フロイトよりもはるかに幅の広いものと考え、フロイトと訣別したといいます



フロイトは、人の心理を、無意識層にひそむ

「性衝動」に基づくものと考えましたが


ユングの考えるリビドーとは

あらゆる知覚、思考、感情、衝動の根本となるエネルギーであり

それは性衝動ばかりでなく、創造的要素も含むエネルギーだといいます



そして、心は、快楽の原理につき動かされ支配されているのではなく

自律的に制御されていくと主張したそうです




それから、ユングは、自我と自己を立て分けています


意識は、自我とペルソナ(仮面)から成り、自我が意識の中心だといいます

ペルソナは環境に対処する「顔」で

自我とペルソナに不調和が生じると、心理的負担が生じるとしています


一方、自己は、意識、無意識を含めた心の中心として位置付けています



そして、≪意識は、無意識より生じ

意識と無意識は、互いに補い合っている

意識が統合性を失い一面的になると、これを補って

さらなる高次の統合へと至らしめる存在が無意識の中にある≫とし

≪自己実現とは、このような無意識の働きを意識化していくことである≫

といったようなことを主張したようです




さらに、≪フロイトの説く「個人的無意識」は、経験に基づくものか

抑圧された願望をさし、基本的には意識できるものだ≫と主張し


その上で、無意識には「個人的な無意識」と

人類共通の普遍的無意識である

「集合的無意識」があることを主張しています



集合的無意識とは

≪個人的な経験を超えたもの≫

≪種族的に遺伝されてきたもの≫

≪全く意識されることはないが、全人格を支配するもの≫

といいます









ユングの元型



ユングは、分裂症患者の妄想や幻想を研究し

また様々な地域の昔話や神話も研究し

〔このため、北アフリカ、アリゾナ(アメリカ西部)

メキシコ、東アフリカなどを旅行している〕

さらには、正常者の夢や空想などをも比較研究した結果

これらに、時間や空間を越えて、つまり文化を超えて

共通したものがあることを発見したといいます



それが有名な元型(げんけい)です

集合的無意識とは、元型の集合体といえ、普遍的無意識とも呼ばれています

また、元型は、本能とともに遺伝的に備わっているといいます




ユングは、人類が共通して持つ普遍性の高いイメージを

「原始心像」と名付け

のちに、全ての人間の心の中に

「元型」というイメージや象徴を生み出す源が、存在すると主張します




元型って、具体的にはどんなものなのか?


よく言われているのは、キリスト教の神や、仏教の仏・菩薩などは

人類共通の無意識層に存在する人間の理想像(元型)が

表現されたものであるという話です



ユングは、≪ 元型自体は、人間が知ることはできない

しかし元型的イメージは、意識によって把握できる

宗教的シンボルなどがこれにあたる

ゆえに世界の神話や宗教的シンボル(曼荼羅など)を研究すれば

元型の存在があきらかになる ≫

と言っています



ユングによると、元型は

≪民族や文化を超えて、世界の物語・神話・文芸・儀礼などの

主題・モチーフの中に繰り返し現れる祖型≫

だそうで

「神話的な元型」とか「神話的な創造力」などとも呼ばれています





具体的には


「自我」〔エゴ。意識のなかにある唯一の元型

意識の中心。意識的行動や認識の主体〕



「自己」〔ゼルプスト。心全体の中心〕



「影」〔シャッテン。肯定的な影と否定的な影があり

肯定的な影は自我の活かされてこなかった側面

否定的な影は自我の受け入れたくないような側面

意識に比較的に近い層で作用し、自我を補完する作用を持つ


また、自分が隠したい性質(影)を

他者にみつけると、それを批判したり、攻撃したり

逆に、甘やかせたりするという


ユング心理学では「影」を、否定せず

自己の一面として受け入れることで

≪大いなる自己≫への成長

≪自己実現≫へのきっかけとなると言った話がなされている〕




「アニマ」〔男性の心の深層にある女性像。女性のイメージ

生命的な要素で、受容的特徴を持つ〕



「アニムス」〔女性の心の深層にある男性像。男性のイメージ

理性的な要素で、選択的特徴を持つ〕



「太母」〔グレートマザー。大地母神

すべてを受容する大地の母としての生命的原理

マイナス面が強くなると、包み込むというより飲み込む存在となる

自己元型の主要な半面〕



「老賢者」〔太母と対比的で、理性的な智慧の原理。自己元型の主要な半面〕




「ペルソナ」〔自己の外的側面

アニマ・アニムスが、自己の内的側面であるのに対する

周囲に適応するあまり硬い仮面(ペルソナ)を被ってしまう場合や

逆に仮面を被らないことにより自身や周囲を苦しめる場合などがある

男性の場合にはペルソナは男らしさで表現されるが、内的心象はアニマであり

ペルソナとは対照的に女性的である

女性の場合も、ペルソナは女らしさで表現されるが

内的心象はアニマであり、ペルソナとは対照的に男性的である〕




「トリックスター」〔神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り

物語を引っかき回すいたずら好きな存在

日本の神話に登場する須佐之男命(すさのおのみこと)や

サーカスのピエロなど

閉塞した状況を破壊し、建設的なものを創造したりするのに有効

場をかき乱したり、その場の空気を壊すだけの破壊者になる場合もある〕



「英雄」〔新しい秩序や価値観をもたらす存在

トリックスターが高次の働きをすると、英雄となる場合もある〕



この他にも「子供」「永遠の少年と永遠の少女」など

多くの元型があるらしいです




これら「元型」のうち、とりわけ知られているのが

アニマ(本来はラテン語で、魂や生命を意味)と

アニムス(アニマの男性形)です



アニマという元型が、男性の心理に働くことで

現実の女性を理想化する反応が示されるといいます

恋愛に失敗した男性は

投影したアニマを失うことで心理的に損害を受けるそうです。



人間は、男らしいとか女らしいとかいう仮面(ペルソナ)を被ってますが

無意識の深層には、男性にはアニマ(女性像)が

女性にはアニムス(男性像)が存在するということになります



自我(意識の中心)は、ペルソナとは逆の

アニマ(アニムス)によって補償されているそうで

このアニマ(アニムス)をできる限り意識化し、人格の統合をはかる

これが、ユングのいう「自己実現」らしいです


自己実現は、新たな自己を創造していく過程ではありますが

ペルソナを被った自己を破壊する過程でもあるわけです



但し、後期には、無意識を意識と統合するには、異性像の統合より

「精神全体の中における対立するもの同士を統合せよ」と論じたといいます




≪元型は、古くから宗教が神話や儀礼の中に表現されてきたが

宗教改革によって、現実の生活から排除されてしまった

元型によって示される無意識を意識と統合しなければならない≫


≪これが個性化であり、あるべき自己の姿を認めること=自己実現である≫

とユングは考えたそうです









他人は自分を映し出す鏡



「他人は自分を映し出す鏡」「他人は自分の鏡」


一般的な解釈すると

自分の心の状態が、相手の態度に映し出されるように現れる

相手を大切にすれば、相手も自分を大切にしてくれる

なので、自己の変革が、環境変革になる とか


≪他人のふり見て我がふり直せ≫

といったことわざにあるような意味

なのでしょうけど


心理学や、スピリチュアリルな思想においては

様々なとらえ方がされているようです




スピリチュアリル思想においては

波動が同じ人が、自分の周囲に集まるなどと語られます





心理学では

相手に対し、嫌な感情、否定的な感情を持つとき

それは自分の中にもある、否定的な面を

他人を鏡として見ていること=投影

であるといいます



そこから

【 相手のイヤな面や、我慢できない面というのは
 
潜在意識の中にある

自分自身のイヤな面や、許すことのできない部分の

投影である


相手にそれを感じたら

自分に対し「気付きなさいよ」というサインである 】

なんて語られます




この話は、あまり普遍性があるとは思えないのですが

ユングの元型の「影」を、根拠にしているのかもしれません




「影」〔シャッテン。肯定的な影と否定的な影があり

肯定的な影は自我の活かされてこなかった側面

否定的な影は自我の受け入れたくないような側面

意識に比較的に近い層で作用し、自我を補完する作用を持つ


また、自分が隠したい性質(影)を

他者にみつけると、それを批判したり、攻撃したり

逆に、甘やかせたりするという


ユング心理学では「影」を、否定せず

自己の一面として受け入れることで

≪大いなる自己≫への成長

≪自己実現≫へのきっかけとなると言った話がなされている〕







こうした普遍性の乏しい話ではなく

≪<他人は自分を映し出す鏡≫をいうなら


他人は、自分の優越・劣等を、映し出す鏡と言えます



自分が憧れている地位や名誉

あるいは生活を、手にしている他人が

自分の劣等性を明らかにし、不幸を感じさせ


逆に、自分よりみじめな立場にあったり

哀れな生活をしている他人が

自分の優越性を明らかにし、幸福を実感させる




自分が欲することを

可能にしている他人に対しては「劣等」を感じ


他人が欲することを自分が可能にしているときには

他人に対し「優越」を抱きます



このように、他人とは、自分という存在を

浮き彫りにさせる「鏡」であると言えるのです









ユングのシンクロニシティー



それから

ユング自身が提唱した「シンクロニシティ」というのが面白いです

「共時性原理」とか「意味のある偶然の一致」とか訳されます

簡単にいうと、神秘体験とまでは呼ぶに値しない神秘体験みたいなものです


偶然 不思議な体験をするなんてことは誰しもありますが

ユングはそれを必然的に見て

≪偶然を装いつつ、自分の進むべき道を示してくれている≫ととらえ

≪意味ある偶然≫と表現したようです



よくシンクロ二シティの例に使われるユング自身の体験があります

若い女性患者と話していた時に起こったシンクロニシティだといいます


≪「ある日、窓を背にして彼女の前に座って

彼女の雄弁ぶりに聞き耳をたてていたのである

その前夜に、彼女は、誰かに黄金のスカラベ(神聖昆虫)を贈られるという

非常に印象深い夢をみたのであった

彼女がまだこの夢を語り終えるか終えないうちに

何かが窓をたたいているかのような音がした

振り返ってみてみると、かなり大きい昆虫が飛んできて

外から窓ガラスにぶつかり

どう見ても暗い部屋の中に入ろうとしているところであった


筆者はすぐに窓を開けて、中に飛び込んできた虫を空中で捕らまえた

これはスカラバエイデ、よく見かけるバカラコガネムシで

緑金色をしているので金色のスカラベに最も近いものであった


『これがあなたのスカラベですよ』と言って

筆者は患者さんにコガネムシを手渡した

この出来事のせいで、彼女の合理主義に待ちわびていた穴があき

彼女の理知的な抵抗の氷が砕けたのであった ≫


(『共時性について』エラノス叢書2 「時の現象学2」所収 平凡社 より )



「占い」はどれも、シンクロニシティの原理を利用しているといいますし

恋愛における「赤い糸」なんかも一種のシンクロ二シティということになります








私は日本200名山の150は登っています

名山に入らない山も加えると400や500は登っているでしょう

もちろん私なんかよりずっと多くの山に登ってる人は沢山います


だからといって、私くらい山に登っている人もそうめったにいないですよ

そんなことで山での不可思議な体験は数知れません



そこらの僧侶や神父さんといった人たちに比べたら

はるかに不思議というか神秘的というか

そういった体験、シンクロニシティを持っています




高校生時代は「旅」に明け暮れました

春、夏、冬の休みには、野宿したり列車の中で寝たりしつつ

列車とバスを利用して日本中の観光地を巡ったわけです



そんなことから、山登りに移行してからも

「景色」に異常に執着しちゃうんです


ピークを制覇して喜びに浸るという登山もあってもいいし

そういう登山をしている人が多いですが


私は頂上に立っても、霧やガスなんかで景色がみれないと

悔しくてたまんないって感じになるのです



そんなことから、私の山登りは、基本全てが「闇登山」です

夜中に登ります


夏なら5時半くらいには頂上に立てるように登山するのです


夏だと8時すぎにはガスが出て

展望が得られないなんてことはあたりまえにあります



完全な晴れでも、よほどのことがない限り

夏なら10時くらいにはガスは出です


だから「100名山を登った」という人でも

ふつう半分以上は展望を得ていないわけです



私のように

「100名山全てで展望を得たい」なんてことをするなら

そこまでしないとムリです


それに7時くらいまでは光線状態がいいので、いい写真が撮れるのです



東京から、南会津あたりの山までは日帰りしていました

高速道路飛ばして4時間、高速降りてから登山口まで1時間

〔登山口がわからず周辺で1時間くらいうろつき回ることも〕



登山口から山頂まで4時間かかるとなると

仕事(しかも肉体労働)を夜の7時に終えて

9時には出発しなきゃならない


登山口に夜中の2時頃着いたら

30分ほど仮眠して、登山なんてのもザラでした



そうすると、山頂に6時半には着く

急いで降りてくると朝の10時頃には下に着きます

秋とか初冬だと午後になっても山がガスらないことがあります



そしたらまたここまで来るのには

お金的にもエネルギー的にも大変なので

3時間くらいで登れる別の山をやりにゆくわけです(笑)



車でその山の登山口まで2時間かかるとしても

昼の12時から登山できます

そうすれば、ゆっくり登ったとしても夕方の3時半には山頂に立てます

つまり日が暮れる前に山頂に立てます


そうすれば写真が撮れます

あとは、懐中電灯で降りてくればいいわけです(笑)



家につくのは夜中ですが

もちろん次の日、早朝から仕事です



夏の富士山は、多くの人が夜に登りますよね

五合目まで車で行けるから

そこから登って、頂上で御来光を見るわけです


富士吉田の街から

懐中電灯の明かりがつらなるのが見えるくらいです



また、日本アルプスなんかでは

頂上から1時間くらい下の山小屋に泊まって

御来光を見に日の出前から山頂を目指す

ということもよく行われています




だけど、私のようにほとんど全部

下から闇登山している人っていないんじゃないですか?

少なくともいまだ知らないですよ(笑)



そんなことやって400も500も登ってきたから

「こんなにすごい光景を自分一人が見てていいの!」

「これって神様のプレゼント?」なんて思えるような体験が

いっぱいあります



そんな経験の中で一番感じているのは

≪一度失敗して思い入れがとても強くなった山≫とか

≪とても苦しんで登った山≫とか

≪2度とこられないような山≫とかは

たいてい展望を得ることができるということです



また「今日は雨の中これだけ苦労して登ってきたのだから

明日も雨っぽい予報だけど、晴れるんじゃないかな?」

という予感のようなものがあったりすると

本当に翌日、そのとおりになるような経験も何度かしています



そういった経験を人に話すと

「あれだけ山に登っていれば不思議なことだってあるよ」

って言われますが


自分の感覚としては

“全部単なる偶然”では説明がつかないわけです



思い入れの強い山が晴れるというのは

≪祈りは叶う≫ということなのかな? という質問には


分かりません

ホントに単なる偶然かもしれないですし・・・



ただ「祈り」というのは

行動の中にすでに存在していると思います


頂上に美しい景色があるはずだと、まず信じ

登るまでには、仕事のことをすませ

高速道路を何時間もかけて車を走らせる


そして夜中、山の中だから誰にも聞くわけにいかず

登山口をさんざんと探し回り、それからほとんど寝ずの状態で登る



このように頂上に立つまでには

すでにたくさんの祈りが、行為の中に存在しているわけです


宗教のように何かを拝んだりして願いが叶うというよりは

努力によって叶う面の方が、私の実感としては強いです









葛藤と抑圧



幼児や小学生のときの体験は

その人の「本質」の土台となるとされます



これは、大人になってから受けた「痛み」は、頭で理解できが

子供のときに受けた「痛み」は、感覚的にしか理解できない

からだといいます




心理学では、恐怖に対し


いったい自分は何を恐れて緊張するのだろうか?

と考えてみて


恥をかきたくないとか

嫌われたくないとか

笑われたくないとかいった答えを出したり



何に対して自信がもてないのだろうか?

と考えてみて


何を話せばいいのかが分からないとか

相手にしてもらえる自信がもてないとか

相手を退屈させてしまうかもしれないとか

いった答えを見つけるとよいとされます



さらに、どうして自分がそう思ってしまうのかと考え

親が厳しくていつも否定されてきたとか

他人に認めてもらえる価値をもたないとか

いった答えを見つけるとよいとされます



そして、見つけた原因を癒していきなさい

こうした自分の心との対話自体が、自分を癒すことになる

人は自分の心を分析し、理解することだけで癒される


なんて教えます






心理学によると、不安や恐れの原因は

「抑圧」と「葛藤」にあるとされます



「抑圧」は、受け入れ難い過去の記憶や感情を

無視したり否定したりすることで

無意識(潜在意識)の中に閉じ込めてしまうことです



ところが、現実に起こった事実は、いくら無視したり否定したりしても

潜在意識では、知っているそうです



そこで、意識化されている偽りの自分と

無意識の中に抑圧した現実の自分とが生まれ

2つの自分が対立状態になる  これが「葛藤」だといいます



葛藤があると、いいしれぬ不安となってあらわれるそうです



また、抑圧された現実を受け入れるには

大きな「痛み」をともなう  なので、抑圧し続けるとされます



しかし、心に傷を負ったときと同じようなことが起ると

無意識の中に抑圧した記憶が、意識上に上がってくる


するとより強く抑圧をする→ 不安が大きくなるという仕組みらしく


葛藤によって、日常生活に支障が出てきた場合を「神経症」と呼ぶそうです







人間って様々な方法で、自分の心を守るようです


その手段を、心理学では「防衛機制」と呼ぶようです



「抑圧」の他にも


何かと理由をつけて自分を正当化したり

責任転嫁をしたりする「合理化」



自分の心のなかの嫌悪する部分が

相手の心のなかにあると思いむ「投影」



「自分は特別である」という抑圧した自分とは

正反対の自分を創造する「反動形成」


嫌っている上司を≪慕っている≫ ≪尊敬している≫

と思いこもうとする心理



さらに、仕事を変えたり、空想の世界に入り込む「逃避」

八つ当たりなどの「置き換え」



できないという劣等感を、別のこと補おう

といったような「補償」なんかがあるそうです








心理療法



心理療法には、流派が色々あって

流派によって様々なようですが



認知行動療法以外、基本は

抑圧された現実を受け入れれば、葛藤がなくなり

不安がなくなるということから


「精神分析」により

抑圧された記憶を意識化することが、中心だといいます




とくに、フロイト派は

無意識層へ抑圧されている感情や記憶が

神経症などを引き起こすと考える立場から

抑圧された記憶を意識化し

真実の歴史を紡ぎ上げるという作業が重視されます



具体的には、患者の心の奥にある抑圧された記憶は

夢や自由連想のなかに象徴的に表れるので

それを心理療法家が解釈することで

次第にその内容を明らかにしていくとされます




【 自由連想… フロイトが考案したもので、患者をソファのようなものに寝かせ

余計な言葉をはさまず、ひたすら患者のつぶやき(連想)に耳を傾けることで

無意識にある抑圧された記憶や感情を吐き出させる治療法

患者に抵抗が生じ、連想が難しくなるので

分析医はその抵抗を足がかりに解釈を行う 】









ユングは、心の深層に、神話的な創造力があると考え

フロイトと決別した人なので

ユング派は、神話的な創造力がうまく作動しないことから

様々な問題が起こると考えるといいます



そこで、無意識層に具わる創造性を発現させ

人生を創造的に生きていけるようにさせていくことが中心だといいます


フロイト派が「解釈」を重視するのに対し

ほとんど解釈せず、来談者自身が夢や自由連想について

自己洞察していくようにするといいます






信頼関係から恋愛感情に発展する現象を

「感情転移」というそうです


また、好きになる転移を「陽性の感情転移」

嫌いになる転移を「陰性の感情転移」というそうです



この転移は非常に強力で、いったん情が移ると

意識レベルではどうにもならなくなるといいます



確かに拾ってきた犬や猫に

情が移ってしまうとどうしようもなくなのますよね




≪転移≫という現象を、臨床の現場で

最初に発見し発表したのはフロイトだとされ

フロイトは患者とコミュニケーションを重ねてゆくうちに

患者の不安定な心が自分に乗り移ってくるかのような感覚に陥り

転移を発見したんだそうです


これは心理学の歴史上偉大な発見だとされています




患者の女性が、信頼していた医者に対し恋をする(転移)

その医者は「医師とは最も神聖な職業である」なんていっても

無意識の力にはあがらえず、彼女を好きになってしまう(逆転移)


なので、フロイトは「医者はその転移から逃れるという方法を

採用しなくてはいけない」と言ったそうです



これに対し、ユングは「転移」をむしろ肯定的にとらえ

「患者は医者を信用して心を開くのであり、転移なしには

患者から情報を得られず、操作もでない」と主張したといいます







アドラー派の心理学では

あらゆる悩みや苦しみは、すべて対人関係上の問題であるとし

共同体感覚(共同体=社会に貢献することで得られる満足感)

を重視するといいます








カール・ロジャーズ〔1902~87・アメリカの心理学者。心理療法家〕は

「来談者中心カウンセリング」というのを創始した人で


今日のカウンセリングや心理療法に

もっとも強い影響を与えた人物だとされています



彼は、来談者との会話から

「来談者は、自分自身、どこに問題があるのか知っている」→

「人間にはもともと自分で問題を解決する力がある」→

「心理療法家はその力が発現できるようにしむけていけばいい」

と確信したといいます




なので、ロジャー派では

来談者に対し「受容」「共感」「尊重」という態度で接し

たとえ幻覚や幻聴であっても

来談者の体験を、全て現実として受け入れるといいます



これによって、来談者には「自分を理解してもらえた」

「わかってもらえた」という感情が生まれ


それが心の支えなって、自分で問題を解決していくというものです









なお、心理学とは、心を研究する学問である

と思われがちですが

むしろ行動を研究する学問という方が近いといいます


例えば、「Aさんは、優しい人である」といっても

その心を直接観察できるわけでなく

Aさんの行動を観察して判断するしかないからです






「認知行動療法」というのは

もともと反目しあっていた「行動心理学」

〔人間の内面的部分は、不確実で客観性に乏しいとし

外に表れる行動だけを研究する心理学〕と


「認知心理学」〔人間の内面的な部分を研究する心理学〕が

歩みよって生まれた心理療法で

現在では、行動療法と言えば、ふつう認知行動療法をさすそうです




コンビニでは、客はどのような動きをするのか→

どのような法則で商品を選べるとよいのか

といったことから、商品の配置を決めます


これは「行動心理学」にもとづきます







認知行動療法は

「恐れ」や「不安」の原因となっている

無意識にある抑圧された記憶については全く触れません


脳のコントロールだけを目的とするといいます



例えば、スピーチ恐怖症を

人前で話しをさせること=慣れること によって


つまり、スピーチに対する意識を

潜在意識に落とし込んでしまうこと によって

克服させていくというものです



認知行動療法の場合

日常生活が不自由なく送れるようにすることが目的なので

人前である程度話せるようになれば

多少、恐怖感が残っていたとしても、治療は終了するといいます



もちろん、いきなり慣れさせるというのではなく

まず、どんな場面で恐怖を感じるかを分析し

恐怖度の低いレベルで会話しているイメージ・トレーニングから入り

徐々にレベルを上げて行き、それから実際の場面での会話に移るそうです



おもしろいのが、思考を「うまくしゃべれなかったらどうしよう」から

「会話することに、恐怖感を持つのは、無意味で不合理だ」

といったところにまで作り変えてしまうそうです









偽りの歴史の自分と、劣等の自分



心理学においては、真実の歴史をつむぎ出して

≪偽りの歴史の自分≫と

抑圧されている≪真実の自分≫を自己統一する


それによって、葛藤も不安も消滅するとされています



しかし、人間というのは

本質的、根源的なところは、そんなに変わらないとしても


他のことは、自分の今いるポジション、相手との関係

そういった「都合」によって、様々な自分を演じて、生活しています



つまり、時と場所と場合に応じて

≪偽りの自分≫を創造し、社会生活に適合させています



≪自分≫というのは

本質的、根源的な欲望を達成する手段なのかもしれません



どの自分も、本人の価値判断(必要性)において

創造した自分、という意味において


どの自分が真実の自分で、どの自分が偽りないて言えませんよね



また、様々な自分があるといっても

本質的、根源的な欲望において、自己統一がなされています




自分の歴史が、自分の存在根拠になるのではなく

救済原理〔自己を成り立たせている根源的な論理〕

こそが自分の存在根拠になるはずです







幸福の源泉は

「救済原理」(自分を成り立たせている根源的な論理)

「存在の根拠」です



存在の根拠は、人によってそれぞれです

仕事、家庭、趣味、宗教、思想、容姿・・・


「私は〇〇ラーメン店で麺打ちが一番早くできる」

「私は〇〇家の父である」「私はこんな珍しいモノを持っている」

「私たちは神に選ばれた選民である」

「日本は神国」である・・・・



人によって「救済原理」〔自己を成り立たせている根源的な論理〕

「存在の根拠」はさまざまですが

それによって自分という存在を成り立たせ

人生に生きる意味を与え

生きがいとアイデンティティーを得て

人はここにいるのです 居場所です






救済原理=自分の根拠=

アイデンティティとは、≪優越そのもの≫と言えます



優越というと≪人と比べて自分はすぐれている≫

といった意識を想像すると思われますが

むしろ、≪私はこんなことができる≫とか

≪私にはこれだけのことができる≫という自己肯定こそ

優越の本質です






そうなると、無意識の中に抑圧した現実の自分とは

≪偽りの歴史においての自分≫ではなく

≪劣等の自分≫であって


それを意識化することで

心の葛藤がなくなり、不安がなくなるというのは、矛盾があります







なぜ人間は、偽りの自分と同居できるのか?


それは、人間という存在が

いくつもの救済原理を、同時に持つことが可能だからです



例えば、愛の宗教と言われるキリスト教が

原理に反する人間を異端者として殺してきた歴史なんて

まさにそうした矛盾を象徴しています




ユング的にいうと、愛がペルソナ(仮面)で

魔女狩りのような原理主義的意識が

エゴ(自我)みたいなものではないでしょうか?(笑)






もっと言えば

聖書自体が矛盾のかたまりのようなものです(笑)



神より授かった「十戒」には、殺人の禁止があるのに

モーセは、黄金の雄の仔牛像を作って崇拝していた

仲間をみな殺しにしている


また、パレスチナにたどり着いた後継者のヨシュアは

「ここは私たちと神との約束の地である」とし

原住民であるエリコの民を

女性や子供・乳幼児も含めて全員虐殺したとある



聖書自体が矛盾のかたまりというのは

それをつくった人間がそうであることを意味しているということです





こういう自語相違ものを信じてしまうほどに人は弱い

人間ってやつは、説明さえあれば

それがどんなに根拠のない嘘でも満足する

救われるわけです






精神的なホメオスタシス(恒常性)は

救済原理・存在の根拠によって成り立ち

自己はそれによって補完され、保たれていると言えます




そして、いくつも救済原理を持ち得るのは

そのうちの一つが崩壊しても

自己崩壊を起こさないための仕組みと言えるのです




結局、≪自分≫というものは

創造していくものであり、その意味では

全ての自分が、≪偽りの自分≫ということです





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