数寄と数寄屋

 数寄(すき)、数寄屋(すきや)という言葉は、歴史的にも多様な概念を含んでいて、あいまいな面を持ち合わせています。しかし、このあいまいさゆえの自然で軽快な空間的演出が、現代においても人を魅する力を持っている気がします。


数寄

     平安時代には<好き>は、色好み、あるいは風流文雅を好むこと、の意味であった。
     鎌倉時代に入ると、色好みとは区別して<数寄>という文字がつかわれるようになったが、それはもっぱら歌道の風流を意味する語として用いられた。
     15世紀半ばで、歌数寄に対して<茶数寄>という言葉が用いられており、16世紀に入ったころには<数寄>という語が茶の湯を意味するようになった。
     それは、東山殿中における唐物で荘厳された茶の世界とは別のもの、すなわち、侘び(わび)の茶を指すようになり、元禄年間(1688-1704)ころから数寄道は茶道とよばれるようになる。

数寄屋

     室町中期には茶の湯を行うところを<数寄屋>と称するようになる。桃山時代には茶の湯をのための専用の室または建物のことをさしていたが、江戸時代に入るとしだいにその内容が拡大していく傾向を示し、茶室の建築手法や意匠を取り入れた座敷のことをも数寄屋と称するようになった。
     現在の建築史学界では、数寄屋造を書院造のなかに茶室の意匠がとり入れられた建築であるとみるとらえ方と、茶室との関係を重視せず、書院造を真としたときの行体あるいは草体の洗練された自由な形式とみるとらえ方とが示されている。

「平凡社世界大百科辞典」より

草庵茶室

     茶室が独自の建築表現をもつようになったのは、桃山時代に千利休によって創始された侘び茶のための草庵(そうあん)茶室からである。
     草庵茶室は、それ以前の茶室がゆとりのある広さをもち、書院造風の開放的なものであったのに対し、規模を四畳半以下の小間に縮小して動作を少なくすることにより静寂を保ち、主人(亭主)と客のそれぞれの出入口を必要最低限に設けたほかは、その周囲を壁で閉ざして、茶そのものに集中した審美的で精神的な空間を作り出そうとしたものであった。
     それを構成する建築的要素も、世俗の権威や格式を象徴する書院造風の要素や表現を排除して、上流住宅では用いない土壁を用い、柱やその他の部材も加工のなるべく少ない自然のままの材料を使うことを心がけ、自然の素材のなかにある美しさを発見すると同時に、微妙な照明を得るために大小さまざまにあけた窓などによる新しい構成美の世界を創造したものであった。

「世界文化社 世界文化大百科事典」より


見学した茶室を中心にこのホームページをつくりました。
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