緋寒〜ひかん〜

 (走らなきゃ…走らなきゃ、あいつが私を連れ戻す…)
 京の街を少し出たさびれた細い道を、ひとりの少女―と言うには大人びているが、顔や体つきは未だ幼さを残しているので―が走っていた。裸足で、着物は乱れている。ずっと走って来たからだろうか、あるいは別の理由―…。
 彼女の頭の中に去来していたのは、たくさんの、卑しい目つきで肉体的欲望でしか彼女を見ない男達であった。思い出したくもないのに、なぜか。
 果たして、彼女が「相手」をしていたやくざの手下連中が迫って来た。10人はいるであろうか。彼等に捕まったら最後、彼女は二度と「まともな世界」に戻ることは出来ない。出られたとしても、男並みの拷問を受けて捨てられるのがオチである。彼女はひたすら逃げるしかなかった。しかし、足取りは次第に重くなり、着物と同様に乱れた黒髪が汗を含んでまとわりつく。彼等との距離は次第に近付く。
「ああっっっっ!!」
 彼女は思いっきり転んだ。立ち上がるにも、体が言うことをきいてくれない。彼等はすぐ側まで迫って来る。懐には隠し武器がちらついていて、とても彼女1人で太刀打ち出来る相手ではない。
(何で動かないの…何で…私ばかりこんなに追われるの…?)
 その時。
!!!)
 
鈍い音がして彼女が振り向いたときには、既に彼女を追い詰めていた連中は地獄の門をくぐっていた。辺りにはどす黒い血が散り、骸はこの世のものとは思えない程になっていた。
 血の匂いは知っているし、人並みより血は怖くないと思っていた彼女だったが、こんな状況ではさすがに腰も立たず、声も出せない状態になっていた。
「大丈夫か?」
 後ろから若い男の声がした。どうやら、彼がやくざ連中を斬った張本人らしい。
「こいつらが囲ってた女と見たが…それにしても…」
 彼はひょいと彼女を持ち上げた。意外と軽い。
「とりあえず、宿へ運ぶか…」

 彼女は、襲われたところを助けられてから一時ほどのことは、うっすらとしか覚えていない。気が付くと、彼女は宿屋の二階の座敷に、布団をかぶせられて寝かされていた。夕刻が近付いているせいか、部屋は微妙に薄暗い。
(ここは…どこ?)
 いつの間にか、着物は着替えさせられていて、側には彼女を助け、ここまで運んで来た「彼」が座っていた。
「…気が付いたか」
「こっ…ここはどこ!?」
「京での俺の滞在場所、『緋寒屋』。まったく、あんたがいきなり気失うから…」
 どうやら、ここは彼の部屋のようだ。
(!)
 それを悟った瞬間、彼女の体は習性のごとく震えた。彼女にとって男の部屋は地獄、入ったら何をされても抵抗できない闇の空間という認識があったのだ。
「言いたくないんなら言わなくてもいいが、お前は何であんな奴らに追われてたんだ?やくざの三下の女だってのは想像ついたが」
 まったくの図星であった。
 彼女は幼い頃に両親に捨てられ、とあるやくざ屋敷に売られ、そこで幼女趣味の組長の「相手」としてずっと仕えてきたが、彼女の成長と共に次第に疎んじられ、彼の手下の「相手」に格下げされて、日夜虐げられていたのだ。相手は凶暴なやくざ連中だから、彼等の「要求」に逆らうことも出来ず、しかし賭博や暴力、仁侠魂の名を騙った「処刑」などに溢れているやくざ屋敷に執着心などなく、何もかにもが自暴自棄になっていた時、「自分は彼等の人形ではない」と意識し始め、決死の覚悟で屋敷を飛び出していったのである。
 そんな彼女には、執着心なんてものはない。永年住まったやくざ屋敷にも、彼女を(ある意味で)かわいがってくれた組長にも、そして彼女を辱めた多くの男達にも。もし執着心を持ってしまったら、それを失って傷付くのが怖いから。でも決死の覚悟で出て来た屋敷にはもう戻れない。
「あんたには関係ないでしょ!私のことだって、勝手に助けたんでしょうに」
「じゃあ、俺が助けてなかったら、お前は今生きてっか?」
「…」
 見た目的には、彼の方が彼女より一つ二つ下のようだが、精神的には逆のようだ。彼の方は十五、六に見え、彼女はそれより少し大人びた雰囲気がある。
「安代はん、豊原はんがお呼びで…」
 階下から呼ばれて、彼は立ち上がった。
「俺は西川安代、何かあったら俺の名前出してくれれば何とかなる」
「…わっ…私は紗雪…」
 彼女の名を聞くと、「安代」と名乗った男は暗い廊下に消えていった。彼女の黒い瞳は、捨て猫のように、彼の行く先を見ていた…。

 それから数日、痛めていた紗雪の足は大分良くなったものの、何となく怖くてまだ部屋の外には出られずにいた。
 安代はとある藩に雇われている暗殺請負人であるらしく、夜になるといつの間にか部屋から消え、しばらくすると血をべったりと付けて帰って来る。周りの志士達の話によると、安代は相当の腕前らしく、裏では恐れられている存在らしい。
 しかし、紗雪にはそれが信じられない。血の匂いをべっとり付けて帰って来ても、部屋の隅っこにうずくまって眠っている彼の姿は、どこか頼り無く、そして色っぽい。そして何より、彼女を犯そうとしない。これは紗雪にとっては革命的なことであった。
 しかし、紗雪は怖かった。安代がいつ暴発するか分からない「男」という存在である以上は、紗雪は彼を信じられないのだ。むしろ、なぜ安代が暴発しないのかが紗雪にとっては不思議極まりなかった。
 ふと、眠っていた安代が目が覚まし、ゆっくりと紗雪に近付いてきた。
「なっ…何しようとしてるのよっ!!」
 思わず体が後ずさりする。やくざ屋敷での思い出が蘇る。手はぎっちりと襟元を押さえている。怯えきった瞳は、視点が定まらない。
「何で私を助けたのよ…体目的?それならそれで…っ…!」
 自虐的な言葉ばかり口から出てしまう。求められずとも肌を露にしてしまう。そんな自分が嫌でたまらないが、でも長い間に身に付いた習性で、考えるより先に口が、体が勝手に動いてしまう。
「バカヤロウ!!」
 
紗雪は、はっと我に返った。もう少しで、彼女はとんでもないことになるところだった。
「何で自分の体大事にしねぇんだよ…襲ってもいないのに襲われるようなカッコになって…」
「ごめん、つい屋敷にいた頃のクセが…」
 安代は、紗雪を見ているようで、でも本当は別の誰かを重ねているようにして彼女を見ている。捨て猫に、かつての飼い猫の面影を求めるように―…。
「…ほっとけなかったんだよ、ああいう輩に踏みにじられる女は…にっ、似てたんだよ…俺が人斬りとして一番最初に斬った、昔の恋人に…君には悪いけど」
 そう、彼は彼女に、自分が殺したかつての恋人の影を重ねていたのだ。
 それを考えると、急に安代が子供のように見えてきて、紗雪は彼の頬に手をやった。彼の過去など知らないし、知ったところで今の紗雪にはどうしようもない。でも、今の彼はあまりにも情けなく、脆い部分をさらけ出しているので、何となく「守ってあげたい」という意識が出て来たのだ。恋だの愛だのという問題でなしに。
 彼の頬はほのかに温かく、剣客に似つかわしくない白く柔らかい肌をしている。 そのぬくもりがうれしいのか切ないのか、いつの間にか彼女の目にも涙が溢れていた。

 その後、安代は京都を離れる任務に付くことを命じられる。
 問題は紗雪だ。
「俺はこれから長い旅に出る…もうここには戻れないやもしれぬ旅だから、危険の連続だ。君は京都で静かに生活していて欲しい」
「いやっ!!」
 紗雪の、安代に対する初めての反抗だった。
「あのいまいましい屋敷から出た時点で、私は命を捨ててる…だから今更捨てるものなんてない!ただ…安代と一緒にいたいだけ…絶対迷惑はかけないから」
 彼女の手は、彼の袴を握りしめている。
「初めてだったの…一緒にいたいな、と思えたのが」
 紗雪は、初めて人への執着心を覚えたのだ。もちろん、自分が彼のお荷物にしかならないのは分かってる。でも、一緒にいたいと思ったのだ。外では非情な人斬りでも、西日の当たるこの部屋の中では意味もなく紗雪に抱き着いてきたり、時には涙を流しているような安代に。
「ごめん…もう誰も失いたくなかったから…」
 安代の手が、紗雪の肩にかかった。
「一緒に来るか…?紗雪」
 初めて、安代が紗雪のことを名前で呼んだ瞬間だった。何となく照れくさい。
 もちろん、紗雪の答えは決まっている。生半可な気持ちではない。
 恋とも愛とも違うようなそうなような不思議な気持ちを抱えた紗雪は、京からの旅立ちを決意した。

 こうして、安代と紗雪は、安代の任務遂行のため、各地を転々とすることになる。紗雪は、裏情報収集や、時には偽装夫婦の妻役として、安代を闇の刺客にとどめておくのに役立った。それが何となく幸せだった。
 安代の主要任務が、
「浅水家の末裔で、秘剣術を使う女流隠密剣客、浅水秋緒を味方にする」
ということを知らされることなく…。
                            〜完〜