《ブエノス・アイレス》
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El Amanecer...(夜明け)

<ブエノス・アイレス>
 ブエノス・アイレスとは良い空気の意味だが、実はヨーロッパからの入植者たちが航海の安全を祈った女神のことらしい。今でも時々、ブエノスの町並やあちこちの通りを思い出すことがある。初めて立ったブエノスの印象は、ビルが立ち並び大きな都会ではあるが、東京のようなピカピカした感じではなく、ザラッとした感じだった。今思うとそれは、国全体の景気が良いころ社会資本の整備が進んだが、景気が悪くなってそれらを維持する余裕がなくなったことからくる、ちょっと荒れた感じだったのかもしれない。夜のサンテルモ地区の広い通りを照らすオレンジ色の街灯。寒い冬の夜ライブを聴き終えて興奮しながら歩いたコリエンテス通りの店並。チョリパン(チョリソというソーセージをフランス・パンに挟んだもの)を食べたコンスティトゥシオン広場。街を疾走するタクシーやバス。深夜の大雨で膝までつかって歩いたカビルド通り。セントロから離れるとだいたい町や店が暗い。

 ブエノスの通りは縦横に規則的に区画されているので、通りの名前と番地さえ分かればどこかへ行くのにまず間違うことはない。タクシーに乗るときでも目的地を、通りと通りの交差する地点で言えば簡単に連れて行ってくれる。そうした通りには歴史上の人物とか出来事の名前がつけられていたりする。アルゼンチンのどこにいっても名前がつけられているのは南米の解放者サン・マルティン将軍だろう。他にもリバダビア、ウルキーサ、ミトレ、サルミエント、カルロス・ペジェグリーニ、イリゴージェンなどは歴代大統領の名前だろうし、有名なヌエベ・デ・フリオ(7月9日)はアルゼンチンの独立記念日だ。ラ・プラタ川近くにはレコンキスタ(奪回)とかデフェンサ(防御)なんていう通りもある。こういった名前すべてがとても懐かしく頭に浮かび思い出される。

 レティーロとかコンスティトゥシオンに行くと何故か郷愁に誘われる。おそらくここから北へ南へと南米各地に長い線路が伸びているからだろう。この2ヵ所を結んでいるのが地下鉄C線だ。地下鉄B線には1997年に行った時、東京の丸の内線で使われていた赤い車両が走っていた。車両は日本仕様なのに周囲を見ると並んでいる顔がブエノスの人たちなので、なにかトリップしてしまったような不思議な感じがした。コンスティトゥシオンからリアチュエロ川の河口の方へ行くとタンゴ発祥の地として有名なボカ地区がある。船の船体を塗るペンキの残りで壁を塗った色どり豊かなカミニートもここ。このあたりは小さな劇場やレストランもあるが、真夏に行ったら川の水がヘドロ?で臭かった。レコードのジャケットなどでよく見るアベジャネーダ橋もここから見える。付近は住宅街だがそこにマラドーナの所属したボカ・ジュニアのスタジアムがそびえ立つ。ここからセントロ方面に向かうと右側がラ・プラタ川沿いのドックや倉庫の並ぶ一角で、左側の丘の上がレサーマ公園だ。最初の入植者たちはこの辺に住みついたらしいが、結局原住民とうまく行かなくなり村を焼かれたらしい。それで逃げ出して何十年かして戻ってみると馬が大量に繁殖していたそうで、それほどこのあたりは自然が豊かだったのだろう。

 ブエノスには日本から見ると羨ましいほど、あちこちに公園や広場がある。皆それぞれにくつろいでいるようだ。預かった犬を何十頭も連れたアルバイトの人がいたり、抱擁するアベックも見かける。サン・マルティン広場はブエノスで一番の繁華街フロリダ通りを行くと突き当たる。フロリダ通りといえばCDやレコード(昔はカセットが多かった)を売る店や洋服屋が多いが、この通りにあるリコルディという楽器店にはしばしば行き譜面を買った。当時は物価が安かったから大体現在日本で買う値段の1/5くらいで買えたように思う。楽譜といえばコリエンテス通りや1本裏のサルミエント通りの古本屋などに行くと奥の方に乱雑に置いてあったりする。古レコードを置いてある所もあった。雑誌や新聞の広告を見て、バス(コレクティーボという)や電車を乗り継ぎ出かけたこともあるが、ある町はずれの古レコード店を訪ねたところ、「この間、日本人が来てみんな買って行った」といわれビックリしたこともある。日曜日に開かれるドレーゴ広場のノミの市も今では有名だ。骨董品が集まりかたわらの街頭ではタンゴが演奏されていたりする。パレルモ地区には美術館や博物館が多い。アルゼンチンの経済が良いころにヨーロッパの絵画などが多数買われたらしい。イタリア広場には動物園や植物園がある。

 そうした町並がヘネラル・パスという道路で囲まれだいたい15km四方に広がって密集しているのだからたいしたものだ。これがいわゆるブエノス・アイレス市でこの地域を含むのがグラン・ブエノス・アイレスという州?だ。いわば東京23区と東京都みたいなものだろう。茶色に濁ったラ・プラタ川をフェリーで越えて対岸にあるウルグアイの首都モンテビデオを何度か訪れた。奇麗な町だったがこじんまりしている。そこからブエノスに戻るとやはり懐かしく、また大きな都会だと思わされる。

 ブエノスでは、バスや地下鉄などで老人や身体の不自由な人、あるいは妊婦や赤ん坊を連れた人が乗ってくると、必ず誰かが席を譲る。それは条件反射といっていいほどで、子供のころからそういう光景を見て育てば自然とそういう習慣が身につくのだろう。優先席などはなくいわば全席が優先席なのだ。譲られた人も気持ちよく席に腰掛ける。しかし交通のマナーなどは決してよくはなく、深夜などは信号無視などは当り前でわたしもバスに乗っていたとき1度事故にあったことがある。信号のない交差点でお互いに止まらずに交差点に進入するものだから出会い頭にぶつかった。バスの運転手は自分の受け持ちのバスが決まっているらしく深夜のバスでは内部をネオン照明などで奇 麗に装飾していたり、ラジオを鳴らしていたり、横に女性を連れていたりと自由なものだった。

 日本に帰って意外に感じたのは、買い物に行って一言も口をきかなくても用事がすんだことだった。コンビニなどでは品物を選んでレジへ持って行って金を払えば用はすむ。ブエノスでは店へ行けばまず挨拶から始まり、雑談して(わたしがバンドネオンの勉強に来ていることは話していたので、よく調子はどうだいなどと聞かれた)、お礼を言って店を出る。街を歩いていても同じ階の知り合いに会ったりすると挨拶するし、信号待ちのときなど見ず知らずの人と「今日は暑いね」などと会話を交すこともある。地域の連帯感みたいなものが生きていた20年くらい前の日本のような感じだった。



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