《雑感》

1.ポピュラー音楽との出会い


  父が公務員だったので、当時の勤務地の新潟で生まれたが、すぐに東京へ移動となり、幼少期から20歳過ぎまでは港区麻布富士見町(現在の港区南麻布)の公務員住宅で暮らした。
 周囲には有栖川公園や麻布プリンスホテル(現フィンランド大使館)、自治大学、統計研究所などがあり、大使館も多い閑静な住宅地だった。
 とは言え、当時はまだあちこちに空き地の残る、東京が市街地化される前の、のどかな雰囲気も残していた。
 
  その公務員住宅の敷地を道一つ隔てて西ドイツ(当時)大使館の大使公邸があった。ある夏の夜、大使公邸の庭園でパーティーが開かれていたようだった。
 塀の向こうのことで、中の様子は全く見ることができなかったが、人のざわめきや時折起こる笑い声などから、楽し気な様子が伝わって来た。
 そんな中、開け放たれた公務員住宅三階の我が家の窓から(エアコンなどまだない時代)、夏の夜の熱気と共に心地よいビッグ・バンドのサウンドが流れ込んで来た。
 おそらく中学生であった私には何の音楽かも分からなかったが、ただ心が浮き浮きし聴き惚れていた。そういったことが何回かの夏、くり返された。
 
  そこで演奏されていた音楽がスイング・ジャズやラテン・ナンバーだと分かったのはだいぶ後になってからで、そうした音楽を自分で演奏することになるとは思ってもいなかった。
 今でも懐かしさや当時の風景と共に思い出される。
 
                                                                    (2005年1月)


 
2.東京物語/ 監督 小津安二郎

  尾道の老夫婦が、独立して東京に住む長男、長女を訪れる。しかし仕事や家庭に追われ親身に世話のできない二人に代わって、亡き次男の嫁がかえってよくしてくれるという話し。
 様々なエピソードによってストーリーは展開して行く。どのエピソードも身につまされ、思わず膝を打ちたくなるような日常性に満ちている。
 
  生涯、家庭を持つことのなかった小津安二郎が、様々な夫婦、親子、兄弟の機微を深く描いているのは驚くが、小津の観察眼の鋭さを示すものだろう。
 しかし、これだけなら実の子よりいわば他人がよくしてくれたという美談だが、この映画はそれだけでは終わらない。

  わたしが最も心打たれるシーンは、尾道に帰って老母が急死し、その葬儀の後の老父である笠智衆と若くして亡くなった次男の嫁の紀子(原節子)とのやり取りである。
 実の子よりも親身になって世話をしてくれた紀子に感謝する老父に、若くして未亡人となった紀子は驚くべき言葉を言う

  「・・・そういつもいつも昌二さんのことばかり考えている訳じゃありません。」
  「このごろ思い出さない日さえあるんです。忘れている日が多いんです・・・。」
 
  これは最愛の人の記憶さえ失われるという、忘却の持つ残酷さの正直な告白である。この告白はなぜ義父になされたのか。
 それはおそらく義父の向こうに亡き夫を見て、正直にあれとする紀子の誠実さの表れかもしれない。
 これに対して老父はこう答える。
 
  「やっぱりあんたは良い人じゃよ。」
 
  長年連れ添った妻を亡くした直後の、また嫁の思わぬ告白を受けた中での気丈な言葉。そして言わば他人の紀子に亡き妻の形見の腕時計を渡す。
 紀子の美しいだけでは語れない人間としての赤裸々な現実を垣間見せる告白にも感動するが、全てを受け入れ許す老父の姿にも打たれるものがある。
 
  こうしたストーリーが小津調と言われる、ほとんどパンしない低位置からの独特なカメラアングル(撮影=厚田雄春)や、時折挿入される風景画のようなカット、
 よく描かれた登場人物(脚本=野田高梧と小津安二郎)などによって淡々と語られてゆく。
 総合芸術としての映画を思うと、このような作品が生み出されたのは奇跡に近いように思われる。

                                                   (2005年1月)

  イメージ23
東京物語ポスター

 

3.ラ・ジュンバ
 
  レッスンの進みの遅い不肖で弟子である立場から、師などと言うとおそらく怒られるであろうが、しかし高柳昌行氏がいろんな意味でわたしの師匠であることに間違いはない。
 その高柳昌行氏は「ジャズギターを学んでいるなら、全てのジャズを聴くのは当然のこと。さらに様々な音楽、文学、絵画などに接し自己を深めるべき。」という内容のことを常日頃言われていた。
 また「味覚が貧困では良いアートが分かる訳がない。」というようなことも言われた。
 
  ピアソラの名前も高柳氏から初めて教わったし、タンゴを聴くようになったのも師の影響である。
 しかし元来1960年代あたりの、モダンジャズからフリー・ジャズに至るあたりにバックグランドがあり、甘いメロディを弾くことを意識して避けるような時期もあった自分が、
 メロディックな要素も強いタンゴに惹かれたのも考えてみると不思議なことである。
 
  ではタンゴの何に惹かれたかというと、やはりまずリズムだ。二拍子のリズムというとブラジルのサンバも思い浮かぶが、タンゴも二拍子に相当こだわった音楽だ。
 高柳氏の関わったアマチュア楽団がプグリエーセのスタイルを追っていた楽団だったので、最初に聴いた伝統的なスタイルのタンゴはプグリエーセ楽団だった。
 レコードで初めて聴いたプグリエーセのラ・ジュンバ。その音の立ち上がりの鋭さと独特な乗りは衝撃だった(1952年11月録音の再録バージョン)。
 注意深く聴くと、沸き上がるような弦の響きや、哀感に満ちたバンドネオンのソロも随所に配置されている。1小節に2度弾かれる単純なコントラバスが何故このような二拍子を生むのか驚愕する。
 そして楽員全員が二拍子の鋭いリズムを表現しようとする姿を想像すると心を打つものがある。
 
  縁あってブエノス・アイレスに行き、バンドネオンを学ぶ機会を得た。
 2度目のブエノス・アイレス滞在中、プグリエーセとリディア夫人の好意で彼のオルケスタのリハに参加させてもらった(1990年3月〜11月)。
 ホームページにも書いたが、わたしが行ったころは、バンドネオンのトップのロベルト・アルバレス、バイオリンのトップのフェルナンド・ロドリゲス、コントラバスのアミルカル・トローサらが
 コロール・タンゴを結成するため退団したあとの大変な時期で、毎週2度オルケスタ全体のリハがあった。
 最晩期のプグリエーセ楽団のレパートリー、アラバル、ロス・マレアドス、レクエルド、バイレモスなどが取り上げられていた。
 ラ・ジュンバだけは譜面はなく、リハの途中で雑談しているような時も、プグリエーセがテーマを1小節弾くと、それに呼応して全員で弾き始めるといった感じだった。
 他の曲でもリズムを強調する箇所には、譜面にyumbaと書かれ、まるで音楽用語のように使われていた。
 
  ステージでは4度、プグリエーセ楽団とジュンバを一緒に弾かせてもらっている。
 最後の来日公演の際の横浜での私的なコンサート、アルゼンチンのコルドバでの演奏会、ブエノス・アイレスのアルベアール劇場で2回。
 重くゆったりした、しかしリズムの立ち上がりは非常に鋭い、独特な乗りだった。大きな揺れに包まれて何をやっても許されるような至福の時だった。
 あの独特なリズムのうねりは、あれ以来経験していない。今ではジュンバのリズムに似せて演奏する演奏家は多いが、プグリエーセのような乗りは誰にも出せないだろう。
 表現の世界は「個」のものだということを強く思い知らされる。
 
                                                               (2005年2月)



4.ブエノス幻想

  コレクティーボ(路線バス)の通行も跡絶えた深夜の3時か4時頃だったか、場末の薄暗い街角。煤けた建物の古壁にもたれて、一人で煙草を吹かしていた。
 ぼんやりした視線の先に写っているのは、時折、車の行き交う濡れた石畳の車道だった。
 
     (いったい俺は何をしてるんだ) 
 
  全く同じ思いを、モンテビデオのレストランでもした覚えがある。週末の夜更けとあって、広いそのレストランは歓談しながら楽しそうに飲食している人でいっぱいだった。
 多くの人に囲まれ、ところがその中に誰一人自分と関わりのある人間がいないことに気付いた時、深い孤独の底につき落とされたような気がした。
 そして今この東京。周囲20数キロに建物が林立する大都会の中、生ある自分の絶望的な状況はブエノスやモンテビデオで感じたころと本質的には何も変わっていない。
 
     (東京よ、おまえはわたしが、というより、人間が居ようが居まいが、勝手に増殖してゆくコンクリートと鉄とガラスの巨大な塊ではなかったのか?!)
 
 いつ来るのか分からないコレクティーボを待ちながら煙草を吹かすわたしに近づく影があった。1本の煙草を無心する若者だった。
 
     (おまえも俺と同族なんだ!)
 
 煙草を差し出すと、若者は手にとって口にくわえた。ライターで火をつけてやると礼を言って暗闇の中に消えて行った。
その時、わたしの指先にバンドネオンのボタンを押して行く感覚が走った・・・。

                                                                    (2005年2月)

イメージ23
ブエノス・アイレスにて En Buenos Aires
                                                                            


5.マイルス・イン・トーキョーのマイ・ファニー・バレンタイン

  ここで演奏されるのは、普通言う意味でのバラードなどとは全く異なるものだ。
 思慮深くデリケートなハンコックのピアノのイントロから、聴き慣れたテーマをトランペットが奏で始める。
 だがすぐにマイルスは、マイ・ファニー・バレンタインという周知の曲を使って、自分だけの抽象画を描いていることに気付かされる。
 透明で張り詰めた緊張感の中を流れて行く時間。
  それまで誰も行ったことのない空間に、マイルスは飛翔して行く。最初はピアノと二人だけで。
 徐々にベース、ドラムスと同行者を増やして行く、そのタイミングは黄金分割比を思わせ心憎い。
 
  2コーラス目あたり、ドラムスがブラシをスティックに持ち変えるあたりから始まる躍動感(いわゆるスイング)はジャズ特有のものだが、これはジャズの中でも最上級のそれに違いない。
 そして高揚感が最高になった時に、弱冠18歳のトニー・ウィリアムスが加える一撃。かつてジャズ・バラードの中でこのようなフォルテシモを叩き出したドラマーがいただろうか。
 ロン・カーターのベースはまるで脈打つ鼓動のようだ。
 
  音楽的な間(ま)を大切にすること、それぞれがそれぞれを聴き合うことに、メンバー全員がいかに心を砕いているか痛感させられる。
 後になってフォア&モア(1964年2月12日、ニューヨーク、リンカーン・センターでのライヴ)の同曲を聴いた。
 基本的に同一構造で進められる音楽だが、マイルス・イン・トーキョーでのあの緊張感はなかった。ここにジャズの一回性を強く感じる。

  白人嫌いにもかかわらず、こと音楽に関しては偏見を捨て、リー・コニッツやビル・エバンスをメンバーにしたマイルス・ディビス。
 そして一つの場所に留まることをせず、常に前進し続けたマイルスの姿勢はわたしを鼓舞する。

                                                               (2005年2月/2006年1月改編)

 マイルス・イン・トーキョー(SONY MUSIC JAPAN/ SICP-824)

  マイルス・ディビス; トランペット
  サム・リバース; テナー・サックス
  ハービー・ハンコック;   ピアノ
  ロン・カーター;      ベース
  トニー・ウィリアムス;  ドラムス
                   
   1964年7月14日 東京厚生年金ホールで録音

イメージ23
マイルス・イン・トーキョー


6.傷痍軍人

  こんな言葉自体もう死語だろうから知る人は少ないだろう。麻布で育った子供の頃、大きな買い物と言うと母親に連れられ、光林寺から都電に乗って渋谷へ行ったものだった。
 今の東急百軒店の入り口あたりに、医者が着るような長い白衣をまとった男性が二人いて、一人は片足の膝から下がなく松葉杖にもたれ、小さなアコーデオンで悲しげな旋律を弾き、
 もう一人は傍らに土下座し、謝罪するかのように地面に頭を押し付けていた。
 
  二人の前には小箱が置かれ、今で言うと募金を求めていたのだが、それにお金を入れる人を見かけることはほとんどなかった。
 その前を母に手を引かれ通り過ぎて行く小学生のわたしは、子供心に無性に悲しく寂しく感じた。
 
  自分には彼等に対して何の責任もないはずなのに、お金を入れずに通り過ぎることが申し訳なく思えて、いたたまれなく感じ辛かった覚えがある。
 あの悲しさはどこから来るものだったのだろう?彼等は今どうしているのだろう?
 
  そしてその後、似たような感情に出会ったことがある。それはブエノス・アイレス滞在中、ストリートやレストラン、地下鉄、バスなどで見かけた、
 お金を無心する子供や、ささやかなモノを売る人たちを見かけた時のことだ。
 あのチキリンたちは今もいるのだろうか・・・。
 手を差し伸べなければならない人がいて、自分が何もできない時、わたしの心には小さな深い傷が残る。

                                                     (2006年12月)


7.私の好きな映画

 映画が好きである。そして好きな映画は何度も見る。カット、カットを絵画を見るように眺める。見ていろいろなことを考える。とりあえず今、思いつく大好きな映画をいくつか・・・。

  2001年宇宙の旅(スタンリー・キューブリック監督)1968年 イギリス=アメリカ  理解を拒否する知性〜人間と宇宙の神秘
  タクシー・ドライバー(マーティン・スコセッシ監督) 1976年 アメリカ       大都会の孤独と狂気〜愛と暴力の二面性
  未来都市ブラジル(テリー・ギリアム監督)      1985年 イギリス=アメリカ    管理される感性〜夢と現実のはざま
  ブレード・ランナー(リドリー・スコット監督)    1982年 アメリカ          人はどこから来てどこへ行くのか
  ソナチネ(北野武監督)               1993年               仁義なき時代の仁義〜個人と組織
  七人の侍(黒沢明監督)               1954年        中世の農民の生き様とそれに関わった武士の運命
  風の谷のナウシカ(宮崎駿監督)           1984年                    未来の神話〜無力の力
  男と女(クロード・ルルーシュ監督)         1966年 フランス          大人の恋〜男と女の感性のゆらぎ
  東京物語(小津安二郎監督)             1953年                    家族の愛と個人の冷酷
  サテリコン(フェデリコ・フェリーニ監督)      1970年 イタリア     古代の幻想とロマン〜ある若者の数奇な人生
  道(フェデリコ・フェリーニ監督)          1954年 イタリア          失った時に知る、真に大切なもの
  アギーレ・神の怒り(ウェルナー・ヘルツォーク監督) 1972年 ドイツ        異文化の初めての出会い〜無秩序の恐怖

                                                      (2006年12月)


8.マイ・ライナー・ノーツ〜アストル・ピアソラ/モダン・タンゴの20年

   初めて買ったタンゴのLPがこれ。今でも覚えているが、ジャズ・ギターの師、高柳昌行氏から名前を聞いたピアソラのレコードを探し、秋葉原の石丸電気で見つけ購入したもの。
 内容は1964年の時点でピアソラが彼自身の過去20年の活動を振り返り再現したもの。CD化されている(ポリグラムSC-3156)
 曲目は以下の通り。

  1.El Recodo
  2.Orgullo Criollo
  3.Preparense
  4.Imperial
  5.Bandoneon,Guitarra y Bajo
  6.Lunfardo
  7.Tango Ballet
  8.Caliente
  9.Comtemporaneo

  1〜2は1940年代、ピアソラが持った最初のオルケスタの再現。いきなり乗りの良いリズムが飛び出してくる。2の転調を伴った変奏も見事。
 この音楽的方向を進めばダンサブルな人気楽団になったかもしれないが、一つの場所に止まらず新たな方向を目指したところがピアソラの真骨頂。
 
  3、4はパリ留学時代の曲。3のソロを聞いてピアソラはなんてセンチミエントに溢れた人かと思った。バルダロを迎えたキンテートのクールな演奏とは対照的に熱い演奏。
 ベルサイユ宮殿をイメージしたと言う、4の甘美な曲想も素晴らしい。
 
  5、9はこのLPでしか聞けない曲。5の編成は珍しい。ギターとの絡みも決まっている。中間部のしっとりした情感もピアソラらしい。
 9はRevolucionarioにも通じるモダンな曲。バルトークやストラビンスキーの響きを連想させる。
 
  6、8は後期のキンテートでもレパートリーとなり、ライヴで演奏された曲。6は4度音程をモチーフにしたユニークな作品。独特な力強さと美しさがある。
 8はほのぼのとした雰囲気で始まるが中間部のバイオリン・ソロはかなり深刻な内容。
 
  7は大作。次から次へとモチーフが続く。晩年のセステートでは若干アレンジを変え、フリオ・パネとの壮絶な演奏が印象的。
 という訳でたった1枚でピアソラの様々な面が聞けるユニークで充実した内容。
 当時のキンテートを中心にしたレオポルド・フェデリコ、アントニオ・アグリ、キチョ・ディアス、オスバルド・マンシ、オスカル・ロペス・ルイスといったメンバーも素晴らしい。

                                                                   (2006年12月)


9.FMラジオ

  仕事柄、楽器を乗せて車で移動することが多く、その際、時折FMラジオのスイッチを入れることがある。
 が、しかし、すぐにスイッチを切ることが多い。それは聴きたい音楽が流れていることがほとんどないからだ。
 スイッチを入れてすぐに耳に飛び込んでくるのは、ノリの良い打ち込み系の音楽だったり、米英のポップスか、それらに影響を受けたJ-Pop、もしくはマイクの前の人間の雑談だ。
 
  驚くべきことにどのFM局に合わせても、ほとんど同様の番組構成で似たような音楽しか流れていない場合が多い。
 おそらく各FM局の番組制作者や構成者は、なるべく個性的で聴取者に喜ばれる番組にしようと努力しているのだろうが、結果として、どこも没個性的で同様な番組しか放送していないことには苦笑してしまう。
 米英のポップスやJ-Popにも素晴らしいものは多い。だがそればかりというのはどうだろう。
 これほどわたしの聴きたい音楽を聴ける機会が稀なのは、わたしの音楽的趣味の特殊性の問題かと思ってしまうほどだ。
 
  統計をとった訳ではないが、全放送時間の大部分は、米英のポップスかJ-POPで占められているのではあるまいか。
 クラシックやジャズ、世界各国のポップスや民族音楽、現代音楽、日本の伝統音楽など音楽ジャンルの多様性を考えたとき、
 日本のFM局、特に民放FM局の選曲、番組構成はどう考えても偏っているとしかいいようがない。
 そこにはおそらく聴取率によるCM収入など、経済性の論理が優先しているのであろうが、放送が公共であることを標榜するなら、もう少し様々な音楽を聴く機会を与えていただきたいものだ。
 
  もしくは逆に、小さくてもよいからジャンルごとに専門の局をつくったらどうだろう。24時間、クラシックやジャズやタンゴやブラジル音楽を流しているFM放送局があったら素敵だと思いませんか?
 合間に時折ニュースを流してもいい。採算性に問題が起きるなら、一つの企業体が異なるキャラクターの複数の局を持ち、全体で収支がバランスするようにすればいい。
 だがそれにはおそらく郵政省の免許の問題があるのだろう。しかしそのような局があったら、わたしにはとても嬉しい。
 とは言え、時折放送されるライヴ録音は貴重だ。特にヨーロッパのフェスティバルや来日アーティストのライヴには素晴らしいものがある。
 
 ・・・慌ててラジオのスイッチを切った後は、自前のテープかCDで好きな音楽に耳を傾ける。FMラジオのスイッチなど入れるのではなかったという後悔とともに。

                                                            (2006年12月)


10.素材、行為、作品

  言葉は人間が日常のコミニケーション、思索のために使う道具だから、誰にでも平等に与えられているはずである。その同じ言葉を使って小説家、詩人たちは、自分たちの作品を仕上げて行く。
 作家の文章は、われわれが通常使っているものと、一見、同じに見えても、実は作家の職人的な力によって全く異なるものになっているものだ。
 
  例えば宮沢賢治は日常生活上の言葉+専門用語(時には擬音)を駆使して、彼独自の文学世界を構築した。
 壇一雄は亡くなる直前まで病床で、口述筆記によって「火宅の人」を完成させたが、その様子を以前テレビのドキュメンタリーで見た。
 作家は何度も推敲を重ねて作品を完成させるものかと思っていたが、今日われわれが目にする文章が、壇の口からそのまま出てくる様子を、わたしはまるで奇跡を見るかのように息を飲んで凝視した。
 
  音楽でも、音は誰にでも平等に与えられている。全ての音は空気のように目の前に漂っている(・・・ように感じる)。
 その同じド・レ・ミ・ファ・・・を使って、たとえばモーツァルトは特別な配合によって、常人には思いつかない素晴らしい作品を生み出す。錬金術のように。
 
  絵画の分野でもそうであろう。キャンパスや絵の具は誰にでも平等に与えられているはずである。
 画家はそれらを駆使して、何もない真っ白なキャンパスに向かい、何もない無から様々な世界を描き出す。
 斎藤秀雄の言によると、このような普通の素材を使って、結果出来上がったものが全く異なる次元へ向かう行為を「芸術」と言う。
 芸術という呼称の持つ、若干選民思想的な優越感を伴った響きはともかく、どんな分野にでも当たり前の素材を使って、次元の異なる素晴らしい作品を生み出す人間はいるものだ。
 そこには素材の一つ一つに作者の様々な想いが込められている。
 
  自分も・・・と思うのもはばかれるが、少しでもその領域に近づきたいとは思っている・・・。

                                                                 (2007年1月)


11.私の好きな映画・その2

 自分の好きな映画を挙げるなんて、自分の内面をさらけ出しているようで気恥ずかしいが、再び思いつくままに・・・。

  サムライ(ジャン・ピエール・メルビル監督)       1967年フランス                   ニヒリズムとダンディズムと孤独
  男はつらいよシリーズ(山田洋次監督)          1969年〜1995年        秩序から自由な男へのあこがれと、不器用な恋の行方
  南東から来た男(エリセオ・スビエラ監督)        1988年アルゼンチン 救済を必要とする絶望的な状況下の人間たちと、決して起きない奇跡
  エイリアン(リドリー・スコット監督)          1979年アメリカ         破壊のみを目的とする、意思を表明しない生命体の恐怖
  12モンキース(テリー・ギリアム監督)         1995年アメリカ                   輪廻する時間と羊水の中の原風景
  時計仕掛けのオレンジ(スタンリー・キューブリック監督) 1972年イギリス           シンメトリーな時間にハマった残酷な愉快犯の結末
  バニシング・ポイント(リチャード・C・サラファン監督)  1971年アメリカ        一つの目的に突き進む男と、それを取り巻く共感と無関心
  エル・スール(ビクトル・エリセ監督)          1983年スペイン         まなざし〜最も近しいはずの家族の心を理解する難しさ
  水の中のナイフ(ロマン・ポランスキー監督)       1962年ポーランド              男女3人の、ボートのように揺れ動く心理
  マクベス(ロマン・ポランスキー監督)          1971年アメリカ            魔女のお告げを信じたコーダ領主マクベスの悲劇
  大逆転(ジョン・ランディス監督)            1983年アメリカ           状況が人をつくり、状況が人をダメにする可笑しさ
  ボギー、俺も男だ(ウディ・アレン監督)         1972年アメリカ                      親友の妻が恋人に変わる時

                                                                (2007年1月)
                                    

12.ビル・エバンス

  ビル・エバンスの音楽の核心にあるのは「哀しみ」だろう。その哀しみの背景にあるのは、はっきり言うと人間の持っている宿命としての「死」のように思われる。
 繊細な和声のせいか、ビル・エバンスの音楽は女性的だと思われるかもしれない。が、しかし、その音の立ち上がりは非常に鋭いし、フレージングの乗りには微妙な歪みが織り込まれている。
 あまりにデリケート過ぎる感性のために、彼の精神は何度も傷つき、しばしば生きる方向性を見失うような時期もあったようだ。
 
  始めてテレビのドキュメンタリー番組で見たビル・エバンスは、何かに打ちひしがれるかのように、両手の間に頭を沈め、指先だけをピアノの鍵盤の上に乗せて動かしていた。
 瞑想するかのように全く鍵盤を見ないその姿から紡ぎ出されていたのは、まさしくビル・エバンスの音楽だった。
 
  ビル・エバンスのベスト・フォーマットはトリオだろうし、トリオと言えば、スコット・ラファロとの共演が思い出される。
 わたしの個人的な好みではExplorations、Portrate in Jazzあたりが特に素晴らしいと思う。
 それ以外ではジム・ホールとのデュオUndercurrentや数枚のソロ・アルバム、ジャック・デジョネットを迎えたLive at Montreux Jazz Festival、
 ジェレミー・スタイグを迎えたWhat's New、フェンダーのエレクトリック・ピアノを弾いたSimbiosis、The Bill Evans Album、Intuitionあたりも愛聴盤である。
 
  それにしてもビル・エバンスにはライブ録音が多い。
 よく知られる彼の善良で弱々しくも見えるインテリな白人市民といった風貌と違って、実際の彼は真に即興に命を懸けた、よくも悪くも骨太な、古い時代のジャズメンの姿勢を感じさせる。
 
  ビル・エバンスがこの地球上に生を受け、何十年かピアノを引き続けたというのは、わたしにとっては、ほとんど奇跡に近い現象だ。
 ピアノという複雑な音の絡みを表現できる装置から、彼が紡ぎ出したのは、「ビル・エバンス」という哀しみに満ちた精神だったように思われてならない。

                                                                       (2007年1月)

 エクスプロレーションズ(VICTOR~RIVERSIDE/ VDJ-1527)

  ビル・エバンス;   ピアノ
  スコット・ラファロ; ベース
  ポール・モチアン; ドラムス
                   
   1961年2月2日 ニュー・ヨークで録音

イメージ23


13.私の好きな映画・その3

  昔はロードショー公開から時間の経った名作を、2本立てくらいで安価で見せる名画座があちこちにあったものだが、最近はあまり見かけない。
 良い映画はやはり劇場の大画面、暗い中で見たいものだ。

  股旅(市川崑監督)                    1973年                            任侠渡世人のリアリズム
  悪魔の手鞠唄(市川崑監督)                1977年                    放蕩を繰り返す男から生まれた悲劇的結末
  病院坂の首縊りの家(市川崑監督)             1979年                               残酷な血縁の結末
  華氏451(フランソワ・トリュフォー監督)        1966年イギリス 管理された社会と自由を求めるささやかだが強い意思〜本を読むということ
  風の丘を越えて(林權澤監督)               1993年韓国                        パンソリ、恨、大道芸の根源
  街の灯(チャーリー・チャップリン監督)          1931年アメリカ            可憐な花売り娘の恩人は王子さまそれとも・・・?
  イエロー・サブマリン(ジョージ・ダニング監督)      1968年イギリス         不統一作風のアニメとビートルズの音楽とのコンクレート
  女と男のいる舗道(ジャン・リュック・ゴダール監督)    1962年フランス                     ナナの不条理な人生とその結末
  アイズ・ワイド・シャット(スタンリー・キューブリック監督)1999年アメリカ               愛ある相互不信の夫婦と人間の持つ性の意味
  シティ・オブ・エンジェル(ブラッド・シルバーリング監督) 1998年アメリカ                   人間に恋した天使の1日だけの幸福
  汚れた顔の天使(マイケル・カーティス監督)        1938年アメリカ                  真逆の道を歩む幼なじみの友情と拒絶 
  鳥(アルフレッド・ヒッチコック監督)           1963年アメリカ                理由なく攻撃してくる鳥の恐怖と社長令嬢

                                                                  (2010年7月)


14.私の好きな映画・その4 

 眠れない夜、DVDや撮り溜めたビデオを引っぱり出して、朝まで見てしまうことがある。初見と似た感慨に耽ったり、新たな発見をしたり・・・。

  グレンミラー物語(アンソニー・マン監督)       1954年アメリカ           オリジナリティを追求するジャズマンの悲しい別離
  ベニーグッドマン物語(バレンタイン・ディビス監督)  1955年アメリカ           貧しい家庭の子供のジャズ的成長と名声獲得の記録
  用心棒(黒沢明監督)                 1961年               対立する博徒が抗争を繰り返す町に出現した風来坊
  椿三十朗(黒沢明監督)                1962年                   御家騒動に揺れる地方藩に出現した風来坊
  柔らかい肌(フランソワ・トリュフォー監督)      1964年フランス                        不惑世代の不倫の結末
  シャイニング(スタンリー・キューブリック監督)    1980年イギリス=アメリカ        ホテルに宿る悪霊と閉ざされた冬を過ごす家族
  真夜中のカーボーイ(ジョン・シュレシンジャー監督)  1969年アメリカ                  都会への憧れと挫折、はかない友情
  アマデウス(ミロシュ・フォアマン監督)        1984年アメリカ            モーツァルトの天才を実体験した老音楽家の告白
  猿の惑星 (フランクリン・ジェームス・シャフナー監督)1968年アメリカ                  ねじれた時空を超えた男たちの悲劇
  8 1/2(フェデリコ・フェリーニ監督)       1963年イタリア=フランス 映画というもの、女たち、カトリック、音楽、そしてイタリア
  俺たちに明日はない(アーサー・ペン監督)       1967年アメリカ   ふとしたことからギャング稼業に転落し、破滅に向う若者たちの悲劇
  雨月物語(溝口健二監督)               1953年                      家族愛を引き裂く時間の流れと怪異

                                                              (2010年11月)


15.東日本大震災 

  基本的にこの「雑感」では時事ネタは扱いませんでした。
 しかし今回は、書かずにはいられませんでした。

  2011年3月11日午後2時46分、東日本を襲った巨大地震。
 我が家でも結構、揺れました。しかも長かった。
 ゆったりした横揺れ。細かい振動。
 わたしの経験でもこんな揺れは生まれて初めてのことでした。
 ギターが倒れ、愛猫はパニくって放尿し逃げ惑いました。
 幸い、書籍やCD、食器などの崩れることは免れました。

  地震のとき、いつも思うのは震源地近くのこと。
 東京でこれだけ揺れたのだから、震源地近くの場所は大変だろうなと。
 そして時間の経過とともに被害の情報が入ってきます。
 しかし今回は、予想を遥かに超えるものでした。

  テレビ中継を通して目に入る恐ろしい映像。悲惨な映像。未曾有の大震災。
 その場所にいる人たちの気持ちになると、胸が締め付けられる思いです。

  その日の夜は、中野サンプラザに来日中のコロール・タンゴのコンサートを聴きに行く予定でした。もちろん公演は中止に。
 JR、私鉄が全て止まっているのですから当然でしょう。
 それよりも、それを問い合わせるために何度も電話したのですが、電話が繋がらないことに困惑しました。
 地震後、数日間は携帯電話、メールはほとんど繋がりませんでした。
 警察、消防などへ緊急の連絡を要する人には大変な問題です。こうしたインフラの整備充実は切実な問題です。
 日本が築き上げた、最先端に見えた文明、技術の意外な脆弱さを思い知らされました。

  夕方、用事があってうっかり車で外出したのですが、環八、第一京浜など幹線道路が大渋滞で全く流れず、
 普段15分程度で移動できるところが3時間かかりました。
 区役所勤務の弟は3時間かけて、徒歩で帰宅したようでした。

  最初に「仙台の海岸に200〜300名の遺体を発見」というニュースを聞いた時には震撼しました。
 しかし実際の被害、犠牲者の数はそれを遥かに上回る甚大なものだったです。
 現在ではなんと30000人に迫る、死者不明者が報じられ、それはまださらに増えて行く気配です。
 その中には決して語られることのない、何万という悲劇のエピソードが埋没していることでしょう。

  地震の被害にさらに深刻な影を落としているのが、福島原発の事故。
 そしてその後のガソリン、トイレット・ペーパー、懐中電灯、乾電池、水、牛乳、卵などの物不足、品切れによる混乱。
 東京の人間は若干、パニックになっているようでした。
 こういう時に人間の品性、本性が出てしまうのでしょう。
 さらに計画停電による混乱。
 そして地震で被災してから3週間経過しても解決しない福島原発事故の収束と放射能汚染の問題はより重大事になってきています。

 2011年3月11日を境に、なにかが大きく変わったように思えます。

  夜の街が暗くなりました。
 でもこれでよいとも思います。
 経済力にあぐらをかいて、今までが不必要な電気を使い過ぎていたのではないでしょうか。
 ブエノス・アイレスの夜もちょっとカジェに入ると暗かったし、真夏の日中、停電することもよくありました。
 フロリダ通りの店の電気が全て消えていたり、信号機も止まっていて、警察官が交通整理をしていることもありました。

  節電、節約の意識は完全に定着したかのように見えます。
 そして被災地の人々を含め、全ての人間がつながり、他者の想いを共有することの大切さ。

  コンサートなどもいくつか中止になったものがあります。
 わたしたちは音楽家である前に、人間です。
 音楽家だから音楽をすることしかできません、とばかりは言えないでしょう。
 人間としてなすべきこと、できることはなにか。
 そうしたことを考え、問い続けることがわたしたちに課せられた責務のように感じられます。
 ただ必要以上の自粛は考えものです。
 通常の経済活動を続けることが復興につながることもあります。
 個人的には、現在東京で手に入る水道水、野菜、肉、魚介類、乳製品などは放射能で汚染されたのではと感じています。
 しかし風評に惑わされずに、被災地を産地とするそういったものを消費することが、復興につながることもあるでしょう。

  福島原発の今後のことや、海水を浴びた農地の問題、そしてなによりも被災地域の人々の生活や産業の復興の問題、今後の防災計画など、
 以後、経済的にまた物心両面に渡って、地域とこの国全体で何十年もの長いスパンで考えなければならない問題が山積です。
 
  精神的には、常に明るく前向きで行きたいものです。
 音楽もそうした時にはほんの少しでも慰めや、パワーになるかもしれません。
 そうなることを・・・。
                                     (2011年4月) 


16.モーリス・ラベル/弦楽四重奏曲ヘ長調とヴィクトル・エリセ監督の映画「エル・スール」 


イメージ23
モーリス・ラベル Maurice Ravel(1875〜1937)

  20歳代のいつのことかは忘れたが、何かのジャズ雑誌で敬愛するマイルス・ディビスが「ラベルの音楽が好きだ」というようなインタビュー記事を目にした。
 当時のわたしは高柳昌行氏の影響もあって、他者が良いというものは自分で実際に見聞してみようという、開かれた心と好奇心で満たされていた。
 まして敬愛するマイルスの好きだというラベルの音楽はとにかく聴いてみようと、手元にあったFMの番組雑誌で探すと、最も直近に放送される曲がこの弦楽四重奏曲だった。
 
  音楽には初めて聴いた時ににすぐ魅了されるものと、何度も聴いているうちに味わい深さを感じて来るものがあるが、この場合は前者であった。
 当時のわたしにとって、クラシック音楽はまだそれほど身近なものではなく(フリージャズからの流れで現代音楽は比較的聴いていた)、
 特に交響曲などの長いものは続けて聴くには辛いものがあった。
 しかしある時、思い立ってショスタコーヴィッチの15番だったか、我慢して最後まで聴いたことを契機に、なぜか集中して聴けるようになってしまった。

  それ以来、バッハ、モーツァルトの数々の作品群、ベートーベンの交響曲、シューマン、ショパンのピアノ曲、ワグナーの管弦楽曲、ブルックナーの交響曲、
 バルトークのピアノを含む作品、室内楽、管弦楽曲、ストラビンスキーの「春の祭典」、ドビュッシーのピアノ曲、室内楽、オーケストラ作品、
 シェーンベルクなど新ウィーン学派、アイヴスなどを聴いて来たが、それらの音楽は、ジャズやタンゴなどと共に、わたしの音楽的人生を少しは豊かにしてくれたのではと思う。

  さて、このラベルの弦楽四重奏曲は1903年、ラベル28歳の時の作品。生涯唯一の弦楽四重奏曲。師であるガブリエル・フォーレに献呈されている。

 第1楽章
 第1バイオリンと第2バイオリンが目まぐるしく交換して奏でられる甘美なテーマ。ビオラやチェロにもテーマは引き継がれて行く。効果的なピチカート。
 
 第2楽章
 リズムに乗ったきらびやかなピチカートから始まり驚かされるが、すぐにゆったりした哀愁を感じさせるテーマに移って行き、再び冒頭のテーマに。
 
 第3楽章
 深夜を想わせる叙情的で深淵な音楽。
 
 第4楽章
 毅然として劇的なスタートだが、第1楽章の追想、エコーのようにも聴こえる。入り組んだ変拍子の森を疾風のように通り過ぎて行く。

 
  後年、ヴィクトル・エリセ監督のスペイン映画「エル・スール」を見ると、このラベルの弦楽四重奏曲の第3楽章が都合5回ほど効果的に使われていた。
 映画の冒頭、深夜、夫(アグスティン・アレナス)の不在に気づいた妻(フリア)の声に、目を覚ました娘エストレージャがベッドから起きてから、部屋に夜明けの光が射し始める美しいシーンで流れた時、
 「あっ、ラベルだ」と近しい友人に不意に出会ったような驚きを感じた。
 エストレージャは父が使っていた振り子を枕の下から見つけ手にする。父が二度と帰って来ないことを直感した少女エストレージャの頬には一筋の涙が流れる。
 
  おそらく、エストレージャと両親の住むスペイン北部の象徴として、バスク出身のラベルのこの曲が、
 そして祖父母の住む「エル・スール(南)」の象徴としてグラナドスのピアノ曲スペイン舞曲から「アンダルシア」が対比的に使われたのだろう。

  それにしてもビクトル・エリセは音楽にデリケートな感覚を持った映画監督のように思われる。

  スペイン内戦後、教師の職を追われた母との思い出を追想するシーンで流れるシューベルトの弦楽五重奏曲。
 エストレージャの初聖体拝受の日、スール(南)から来た祖母と父アグスティンの乳母、そして重い気持ちでやって来たであろうアグスティンも見守る中、教会に響く賛美歌やパイプ・オルガン。
 その後のパーティで踊るエストレージャと父。ひなびたアコーデオンの調べが部屋に響く。
 
  劇中劇としての映画「日陰の花(Flor en la Sombra)」の中で、恋心を持った男に殺される女優イレーネ・リオスIrene Riosによって悲しげに歌われるブルームーンBlue Moon。
 映画を見たアグスティンは暗い夜の喫茶店カフェ・オリエンタルで、おそらく昔の恋人であろうラウラ(イレーネ・リオス)に手紙を書く。
 父のバイクを見つけ、映画館から出てくるのを待っていたエストレージャがカフェの父へ歩み寄る。そこに流れるグラナドスのピアノ曲「オリエンタル」。
 
  後日、アグスティンが喫茶店で、ラウラ(イレーネ・リオス)からの「もう手紙はよこさないで」という内容の返信を読むシーンでの、調律するピアノから醸し出される不思議な不協和音。
 学校に迎えに来た父アグスティンと、グラン・ホテルのレストランでエストレージャが食事をするシーン。
 隣の部屋の結婚式で演奏される吹奏楽とアコーデオンによる「ラ・クンパルシータ」、「エン・エル・ムンド」など(結局、これが父との最後の会話の機会になる)。
 
  印象深い場面もいくつか思い出される。
 冒頭のシーンから回想シーンになり、同じ部屋でエストレージャが生まれる直前、アグスティンが枕元に座って妻フリアに女児であることを予言する、スペイン絵画のようなカット。
  エストレージャと両親が転居した、川の近くの城壁のある町の遠景。
 転居した「かもめの家」と呼ばれる家と、その前の、町へ続く両側に並木の連なる道。そしてそこを走るアグスティンの古いバイク(いい味を出しています)とそのエンジン音。
 アグスティンがエストレージャを伴って、ダウジングによって水源を発見するシーン。
 「かもめの家」で父から振り子の使い方を習うエストレージャなどなど。CGを駆使したハリウッド映画とは発想も視点も異なる映画がここにある。
 
 
  ラベルに戻ると、その後は機会あるごとにラベルの音楽を探しては聴いた。
 有名すぎて挙げるのも気恥ずかしいが、やはり「亡き王女のためのパバーヌ」の甘美な響きには、抗することはできない。
 そして、「鏡」、「夜のガスパール」、「高雅にして感傷的なワルツ」、「クープランの墓」などのピアノ曲。
 
  この世のものと思えない優雅で天国的な響きの「序奏とアレグロ」。そしてツィガーヌなどバイオリンを含む室内楽。フランス語の豊かな響きを伝える様々な声楽曲。
 ラベルの神髄とも言える華麗な管弦楽曲群。「スペイン狂詩曲」、「ダフニスとクロエ」、「ラ・ヴァルス」、そしてラベルにしか書けなかったであろう「ボレロ」。
 美しすぎる第2楽章を持つピアノ協奏曲ト長調。「展覧会の絵」はじめ、音色のパレットを縦横無尽に使った自身のピアノ曲を含む編曲の数々。
 
  よくラベルとドビュッシーは並べ称されるが、ドビュッシーのクールさ、一歩踏み出した前衛的な作風に比べ、ラベルはカラフルな響き、官能的とも言える作風に個性を見せる。
 難しいのは両者ともそうした傾向を逸脱した、あるいは共通した部分を持つ点だ。ほぼ同時代に同じフランスで活動した作曲家であったのだから、重なるような部分もあるだろう。
  この二人の音楽が地球上に存在することを心から喜びたい。


エル・スール El Sur(DVD)
 
                                                                   (2011年4月)
 
 17.ぼくの青春時代 
 
  先頃体調を崩し入院することがあり、その際夜になると頭に浮かんでくることの一つに若い頃の自分の生活のことがあった。こんなことを書いて何になるか分からないが自分の記録として記しておく。
 
 ジャズギターの師高柳昌行さんのボーヤをしていたころ、良くいろいろミュージシャンやマネージャーたちに「偉いね、そうやって頑張っていれば必ず成功するよ(成功って何のことだ??)」
 みたいなことを時折言われたが、今断言できる。そういうことは絶対にない。楽器である程度うまく行くにはとにかく練習して音楽の現場で馴れて行くしかないのだ。
 今の音楽家を目指す人はこんな無駄や回り道は決してしないだろう。それをした男の苦い青春の話である。
 
  父親が国家公務員だったので、南麻布の公務員住宅で大学卒業まで暮らした。中学生のころ当時流行っていたフォークソングが弾きたくてギターを親にせがんだが買ってくれない。
 製薬会社勤務の京都の叔父さんが、たまたま転勤で東京に来ていて、母親に聞いたのであろうか、ある日ギターを買って持ってきてくれた。
 当時楽譜を主体とした新譜ジャーナルなどの音楽雑誌が毎月出ていて、そこに掲載されている好きな曲のコードをポロリと弾いていた。フォークソングなどはほとんど所謂スリーコードなのに、
 バートバカラックの譜面などにはb5+11とかあって当時は何のことかさっぱり分からなかった。後にジャズ理論など勉強するまで。
 
  大学へ入学する。高校生の時にクラスメートに渋谷のジャズ喫茶に連れて行かれ、ジャズを初めてちゃんと聞いた。それでジャズを演奏したくなった。
 ぼくはジョン・コルトレーンが好きだったのでサックスをやりたかったが高価で手に入らない。
 そこで家にあったギターでジャズを弾くことになるが、家にあっのはナイロン弦のクラシカルギター。鉄弦のギターが欲しくてバイトで貯めて買ったギブソンES175。
 手に入れた時は本当に嬉しかったが、貯金した30〜40万円を支払う時には一抹の寂しさもあった。
 
  ジャズが演奏したくてヤマハに通ってはみたものの演奏の場が無く、音楽雑誌で集まったメンバーでアマチュアバンドを組んだりしていた。大学後半から高柳さんのボーヤを始める。
 ボーヤというのは師匠について、車の運転をしたり楽器を運んでセッティングしたり、そういう手伝いをする人のことだ。
 
  この頃、渋谷のジャンジャンで演奏する高柳さんをバックアップするんだと、数人の仲間とニューディレクションのサポートと称して、コンサートの度になにがしかのお金を出しあい、
 残ったら次回コンサートやレコード製作などの活動費にするという理念で熱くなっていた。
 
 クルマで移動するときには高柳さんぼくのいろいろなカセットを聞いた。
   「マイルスのコルトレーンとやっていたころのアドリブを採譜してギターでやったら面白いサウンドができる」
   「チェットベーカーのように歌を口ずさむようにアドリブをできたら最高」
 などなど、スイングジャーナルでの評論とは異なる柔軟な話が聞けた。
 
  1975 大学卒業 23歳。留年し5年も通った大学の5年目は授業時間も少なかったからバイトして貯金し多少のお金はあったのだろう。大学卒業と同時に就職はせず、
 自分で亀戸にI文洋堂という文具の販売配達のバイトを見つけ引っ越した。
 
  家にいてメトロノーム相手に練習したり何か曲を弾いていると
   「うるさい!」
 と父親とぶつかることが良くあった。これでは家にはいられないと思ったのだが、父親からすると仕事で疲れて帰って来てこちらはメトロノーム相手にずっと練習しているのだから堪らなかっただろう。
 
  自宅にあった車で麻布と亀戸の間を一人で何度も通って荷物を運んだ。生まれて初めての一人暮らし。不安もあったがあの自由な爽快感は今でも記憶に残っている。
 ただ、この時から何の援助も無く一人暮らしを始めたので、家賃、生活費、音楽関係経費を全て自分で賄って行かねばならず、ある意味本末転倒の生活が始まる。
  この頃、ギターを学んでいてすでに仕事をしている知人からの紹介でバンドでギターを弾くことになったが、これが恐らく初めてのバンドだったと思う。
 バンドを始めることを口実に高柳さんのボーヤは辞めるのだが、完全に止めた訳ではなく都合のつくときには手伝ったりしていた。
 
  当時キャバレーにはビッグバンドとコーラスバンドの2つが入り交互に演奏していた。そのコーラスバンドに入ったのだが、レッスンでは難しいことを練習しているのに、
 簡単なバンドの譜面を弾けなかったり間違えたり、またリズムに旨く乗れなかったりする。今思うと生まれて初めてのことで技術や経験も浅く馴れていなかったのだろう。
 決して学識のあるとは思えないリーゼント頭の歌手兼任のバンマスにビルの裏階段に呼び出され
   「ちゃんと弾けよ」
 と説教され、夜の歌舞伎町の街並みを見ながら情けなくて泣いたこともあった。
 
  一度不思議なことがあった。リーゼント頭のバンマスがいつもペコペコしている恰幅が良く身なりの良い紳士がいた。今思うと我々に仕事を回している音楽事務所のオーナーだったのかもしれない。
 その紳士が       「この業界のドンに会わせる」
 というので神田に連れて行かれた。その紳士は確か渋谷橋か並木橋あたりの立派な一軒家に住んでいたのに、その業界のドンという人の家は崩れそうな一軒家で、薄暗く汚い部屋に案内されると、
 寝たきりの髭だらけの老人が枕元の電球をつけて 
    「みんな頑張ってな」 
 みたいなことをいうのをぼくたちは神妙にして聞いていた。あの人は一体誰だったのだろう?
 その紳士の友人のエレキベーシストには可愛がられて、彼も加わっていたジミー時田さんのライブなど見せてもらったり、後には音楽以外のバイトも頼まれた。
 彼は副業をやっていた訳で、だんだんバンドのような仕事の無くなって行く時代だったのだろう。
  その後、ビッグバンドに入ったり自分がバンマスにされたりまたメンバーになったりして八王子池袋などで演奏した。
 ビッグバンドの譜面は譜面台に15〜20cmくらい積まれ1から番号を振られ300とか400あっただろうか? 普通は番号順に演奏して行くのだが、時折バンマスが店の様子を見て急に
    「163!」
 とかいう場合がある。パッとめくってそこに赤ペンでギターソロなんて書いてあると大変だ。バンドは演奏中音を切らしてはいけないから、前の曲の音が消えきらないうちに
    「3-4」
 とカウントが始まる。そこでそのギターソロのイントロをちゃんと弾けないといけない。余りミスを繰り返していると楽屋などで
    「今日で上がって」
 などと言われる。もう来なくていいという意味だ。だから夜の本番前午後2、3時くらいには店に入って自分のパートを必死で練習した。
 
  当時のキャバレーやバンドマンの音楽的バックグラウンドはジャズにあったから、よく客の少ないワンステージ目などには他のバンドマンが来てジャムセッションのようになることもあった。
    「遊ばせてください。よろしく。」
 などといって、トランペットやサックスを持った彼らがメンバーの中に入って来る。バンマスも了承しているので、night in tunigiaとかI remember abrilとかスタンダードを演奏するのだが、
 飛び入りの彼らにアドリブが回ると、これが物凄く巧いので当時アドリブもちゃんとできなかったぼくは本当にビックリしたものだった。あれは誰だっのだろう?
 
  キャバレーにはほぼ毎日なにがしかのショーが入っていたから、本番1時間くらい前にショーに出演する歌手やストリッパーなどとテンポなど簡単な打ち合わせをする。これは随分初見の練習になった。
 
  高柳さんのボーヤをしていた関係でプロの演奏家から
    「今度楽器持っておいでよ」
 と誘われたことも何度かあった。しかし当時自分のアドリブの実力は充分に分かっていたから行くことはなかった。だからジャズのライブハウスで活動するということは無かった。
 実際、当時の稚拙なアドリブではもし顔を出したとしても二度と呼ばれることは無かっただろう。
 
  バンド活動にも疲れて辞めてしまい、一時的に麻布公務員住宅に帰り両親と同居しはじめた。このころ神楽坂の弁当調理配達のS給食でバイトしていたが、バンドを止めホッとした感じがあった。
 その後、再度三の橋Wアパートに転居。この頃頼まれて亀有のキャバレーでまた演奏した。田町からギターを担いで深夜に歩いて帰った。
 
  この亀有のキャバレーは急に閉店することになり、事務所からの保証やいろんなごたごたで嫌気がさして辞めてしまうが、これが最後のバンドとなる。
 だが自分としては酒とタバコとホステスさんの香水の香りの充満した現場から抜けることができて清々しい気持ちはあった。
 
  高柳さんからは
    「バンドはせいぜいやって1年。余りやってると創造的なアドリブができなくなるぞ」
 と良く言われていたが、結局ダラダラと5〜6年やっていたことになる。
 
  1980.12 27歳。この頃、三の橋慶応大学の隣にあった三田花卉市場でバイトを始めた。
 日付を覚えているのはある日アパートを出る時にニューヨークでジョン・レノンが射殺されたというニュースを聞いたからだ。
 このころ日中は花卉市場、夜は青山のニッカ直営のレストランUで皿洗いのバイトと掛け持ちだった。Uでは最初は料理を乗せる皿のセッティングなど簡単な調理補助をさせられた。
 そのうちナイフを持たされて玉ねぎの皮剥きや簡単な揚げ物などさせられるようになった。なんでこんなにバイトばかりしていたのだろう。
 おそらく楽器やCD、譜面など音楽関連のものを買っていたのだろうと思う。250ccのバイクもこの頃購入した。
 
   その後、花卉市場で知り合った青山の花屋兼喫茶店T屋でバイト。そこを辞めて広尾のパン屋でバイト。パンの作り方を覚えた。
 1987〜8年ころ、また時折高柳さんの手伝いをするようになったので、四ッ谷に住んでいた高柳さんの家の近くがいいだろうと、四ッ谷4丁目に転居。
 このころ高柳さんは横浜のアマチュアのタンゴで演奏するようになり、その楽団の横浜エアジンでのライブの時に
  「バンドネオンをやりたい人には教えます」
 とリーダーらしき男性が言った。バンドネオンの音色や表現力はピアソラを聴いて感銘を受けていたので、後日お願いしてバンドネオンを譲ってもらう。
 メンバー改編の際、そのアマチュアタンゴバンドに入る。
 
  この後、新宿にあったD青果で業務用青果の配達のバイトを始める。
 
  アマチュア楽団でただバンドネオンを弾いていても大した成果は上がらず、エアジンのライブの時、
    「バンドネオンを教えます」
 と楽団のリーダーが言ったにも関わらず、アマチュア集団でバンドネオンの奏法をちゃんと教えられる人はいなかった。
 それならばタンゴの本場ブエノス・アイレスに行って、ちゃんと先生について勉強したほうがいいということになり、
 タンゴバンドのリーダーの援助でバンドネオンを持ってブエノス・アイレスへ行く。36歳、1989年の冬のことだった。
 
  帰国後、そのリーダーの誘いで彼の経営する横浜の学習塾で社会科講師として働く。
  
  バイトしたところの名称を事細かに記載したのは、それぞれの場所に今でも顔の浮かぶ多くの人がいてお世話になったりいろいろなことがあったからだ。
 
 …と、こんな風にぼくの20〜30歳半ばはバイトとバンドとボーヤに明け暮れた人生だった。とは言え、月4回の高柳さんのレッスンはずっと継続していた。
 生活に追われ、音楽に集中できる環境では無かったが、それが良かったか悪かったか、今の音楽に何か生きているのか分からない。
 決して良くはなかったようにも思うが否定しても始まらない。今、月に1度有楽町の東宝ダンスホールで演奏しているが、その選曲などには多少生きているかもしれない。
 
                                                                 (2017年3月22日)
  BANDONEON表紙に戻る