《わたしの音楽歴》

1.ジャズ、ピアソラ
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恩師・高柳昌行さんと 左は井野信義さん

   《ジャズ》

 高校生のころ、友人に連れて行かれた渋谷にあった音楽館というジャズ喫茶。と言っても知らない人もいるだろうが、コーヒーなどを飲ませながら大音量でジャズのレコードを聴かせる店が、昔は東京のあちこちにあったものだ。そこで耳にした音楽に訳も分からず心が揺り動かされた。やがて同じ渋谷にあったジニアスなどにも出入りすようになり、しばらくして聴いたのがジョン・コルトレーンの「トランジション」。テナー・サックスの重く硬質な音色と叫びとも悲鳴ともつかない激しい表現、空気を切り裂くようなバリバリといったフレージングにひどく感動し、ジャズと言う音楽への憧憬が決定的なものになった。ブラザース・フォアから始まってビートルズ、そして岡林信康やハッピー・エンド、C.S.N.&Y.といったフォークやポップ音楽に魅かれていた若者が、ジャズに心酔するまでそう時間はかからなかった。その後、大学へと進むが将来に対する展望もなく、悶々とする日々を音楽鑑賞や読書などで過ごしていた。

 自分にジャズが演奏できるとは思っていなかったが、演奏したいと思った時、最も身近にあった楽器はギターだった。ギターは中学生の頃、当時流行していたフォーク・ソングが好きだったので、親戚にプレゼントされて持っていた。本格的にジャズ・ギターを学ぼうと考え、購読していたジャズ雑誌スイング・ジャーナルでヤマハの広告を見つけ、当時恵比寿駅の正面のビルにあったヤマハ・ネム音楽院ジャズ・ギター・コースに通うことにした。そこで出会ったのが当時講師を勤めていた高柳昌行氏だった。氏についてはいずれ場所をあらためて述べようと思っているが、現在わたしが音楽に関わる基本的な姿勢・志向のほとんどは氏の影響のもとに築き上げられたといっていい。
 ちなみに生まれて初めて購入したジャズのLPはジョン・コルトレーンの「至上の愛A Love Supreme」だったが、これを選んだのはスイング・ジャーナル誌をめくっていて目にした、「至上の愛」のジャケットのコルトレーンの厳しい表情に魅かれたからであった。

 *高柳氏について関心のある方はここをクリックジンヤ・ディスク
                       勝田均ホームページ
                       友寄隆哉ホームページ/高柳昌行は日本のジャズ界に何を残したか?
                       生徒だった宮崎カポネ信義さんが高柳氏との思い出を語っています。


   《ピアソラの音楽との出会い》

 やがて氏の個人レッスンを受けるようになるが、そうした時になにげない会話の中で、「アストル・ピアソラの音楽は絶対に聴かなければならない」という趣旨の発言があった。わたしたちはジャズ・ギターを学んでいたので、当時ピアソラへの興味はどちらかというと共演しているメンバーのギタリストに向いていたように思う。常々広い視野の重要性を説いていた氏だが、タンゴも聴かねばならないという発言をしたことに最初は驚いた。というのは当時わたしが知っているタンゴというと、「ラ・クンパルシータ」と「黒猫のタンゴ」ぐらいで、その印象はアナクロで古くさく、終わり方が必ずT-D-Tと一様なのがなんとも可笑しかったからだ。しかし氏の話しからピアソラのレコード(まだCDのない時代)を聞こうと探したが、当時一般のレコード店でピアソラのレコードを見つけるのは困難だった。そこでそのことを氏に言うと、知人のT氏を紹介してくれ、彼が持っていた10数枚のLPレコードを借りて初めてピアソラの音楽を聴くことができた。
 中でも感動したのは九重奏団による演奏と何曲かのバンドネオン・ソロだった。「AA印の悲しみ」の冒頭、分厚い弦の響きの中から立ち登ってくるバンドネオンの音色には鳥肌が立った。「ロカ・ボヘミア」や「ラ・カシータ・デ・ミス・ビエホス」といったバンドネオン・ソロは、私小説家の独白を聞く思いがした。こうしてアストル・ピアソラとバンドネオンという、それまで全く未知だった2つの名前が、わたしの心にしっかりと刻まれたのである。そのころ、氏の勧めもあってピアソラの出ているドキュメンタリー映画の上映会へ行ったり、初めての来日の際は渋谷公会堂へ聴きにいったりして、ますますピアソラにのめり込んで行った。
 また高柳氏からはジャズ・ギターを続けるならば音楽理論もちゃんと勉強した方が良いと言われ、山路さんというギタリストを紹介していただいた。2年間ほど中野坂上の山路さんのお宅に毎週通って、和声学の実習や音楽通論の勉強をした。これがその後、作曲や編曲をする基礎となった。作編曲について言えば、その後横浜でのアマチュアバンド時代に、譜面を書いた直後に実際に音になるという恵まれた環境の中で、バンドの編曲をしたり、オリジナルの作品集を自主CDで制作したりと、実地の経験から多くのものを学んだ。タンゴを演奏するようになってから、ピアソラなどの楽曲を耳コピーすることによっても、和声進行や主旋律と対旋律の関係など様々な知識とアイデアを学んだ。こうしたことが、後の作編曲に生きてくるのである。  








2.タンゴ、バンドネオン
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プグリエーセ楽団の元メンバーと共演(1997年アルベアール劇場にて)

   《タンゴとの出会い》

 そうこうしているうちに高柳氏は共演していたベーシストS氏の紹介で、あるタンゴ楽団に参加することになる。その楽団のライブがあるというので横浜まで聴きに行った。そこでその楽団によって熱く語られるオスバルド・プグリエーセの音楽を初めて聴くことになる。若干の歪みがある模倣の演奏だったが、プグリエーセの独特な音楽の一端は感じることが出来た。後日、レコードで聴いたプグリエーセの音楽の持つ、リズムの鮮烈さと大胆なルバートを伴ったうねり回るような縦横無尽なフレージングには、ピアソラの音楽とはまた異なる魅力を強く感じ、それがより広く深いタンゴの海へわたしを誘うことになる。こうしてわたしは、ピアソラに出会ってからプグリエーセを知り、さら古典へと歴史をさかのぼるようにタンゴを聴くことになる。

   《バンドネオンとの出会い》

 ピアソラは随分聴いていたが、バンドネオンという楽器の音を生で聞くのは横浜でのライブが初めてだった。そのライブの時、リーダーらしき人物が曲の説明の際、次のような一言を発した。
  「バンドネオンを演りたい人は、教えますから」
 この言葉を聞いて、長年心に眠っていた「バンドネオンを弾きたい」という気持ちが急に頭を持ち上げてきた。しかし年齢的にも若くなかったこととギターへの影響を考えて、新たな楽器の習得にはためらいがあった。結局数日熟考し、高柳氏にも相談して、その楽団のリーダーにバンドネオンを勉強したい旨を伝えた。楽器は貸してもらったが、誰に教わるでもなく当初は独学だった。








3.アマチュア楽団に参加

   《アンサンブルを体験》

 1987年ころ、たまたま来日中だったオスバルド・レケーナ(ピアノ)、ダニエル・ビネリ(バンドネオン)、フリオ・ペレシーニ(バイオリン)の3人が楽団の指導をすることになり、このとき初めて本場の演奏家の生演奏を間近で聴き、表現の奥深さやダイナミズムを目のあたりにした。一方わたしはといえば、簡単なスケールやコードがなんとか弾けるくらいで、ビネリとのあまりの落差に(当り前!)愕然としたままだった。楽器を譲ってもらった関係で、メンバー改編時にその楽団に参加することになった。自営業、公務員などほとんどが他に仕事を持つアマチュアで構成された楽団だが、時折タンゴに興味を持ったプロも参加していた。ほとんどバンドネオンなど弾けないうちにメンバーとされて、弾ける部分だけ弾けというところからスタートした。

 前年のレケーナたちによるレッスンが有意義だったことから再度教えを請おうと、今度はプグリエーセ楽団の元第一バンドネオン奏者アルトゥーロ・ペノンを招くこととした。そしてその成果として彼の帰国前に横浜西区公会堂でオルランド・トリポディ(ピアノ)のグループを招いてコンサートが開かれた。順序は逆になるが、後に師事することになるペノンとビネリにはこうした出会いがあった。








4.ブエノス・アイレス
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喫茶店の壁にもガルデルとプグリエーセが

   《初めてのブエノス・アイレス》

 そのうち、やはり正式に勉強したほうが良いということになり、当時日本ではバンドネオンを教えてくれる先生など知らなかったから、それならブエノス・アイレスに勉強に行こうということになった。結局、それほど弾けず言葉もほとんど知らずに、バンドネオンとトランクを持って日本を飛び出した。当時知っていたスペイン語は「ケ・エス・エスト(これはなんですか)?」と「クアント(いくら)?」の2つだけだった!

 1989年1月末、寒い日本を出発し地球の裏側、南米アルゼンチンの首都ブエノス・アイレスに降り立つとそこは真夏だった。エセイサ空港について飛行機から空港の建物へ向かう通路に出たとたん、ムッとした熱い空気を感じた。手違いで迎えが誰も来ず、鍛冶さん宅に電話して、その指示でレミースというハイヤーを頼んで1時間ほど高速道路を走って市内のホテルに着いた。ホテルに着くとちょうど鍛冶敬三さんが来ていた。鍛冶さんはバンドネオンの勉強がしたくて1950年代に一人でアルゼンチンに渡り、サッソーネ楽団に参加したのち、現在はコーディネーターの仕事をされている方だ。日本に来たタンゴ楽団のほとんどは鍛冶さんのセッティングで来日したといっていいいほどで、ブエノス・アイレスのプロのタンゴ演奏家で、鍛冶さんを知らない人は皆無だろう。日本にもわたしを含め鍛冶さんのお世話になっている人は多いはずだ。このブエノス行きに関しては、鍛冶さんを紹介してくれたり経済的な援助をしてもらったりと横浜の斎藤氏には恩恵を受けた。また中南米音楽の中西夫人にも旅券の手配などお世話になった。

 わたしがブエノスについてからしばらくすると、鍛冶さんはペノンをわたしの先生とするなどレッスンのセッテイングをしてから、入れ替わるようにアントニオ・アグリ日本公演に同行するため、日本へ行ってしまう。これから数ヵ月間ほとんど知り合いのいない中で、一人で生活することになる。結局、ペノンがベルナールという市内からは遠いところに住んでいたので、彼の紹介でベルナールのとなりのフロレンシオ・バレーラに住む、アルフレード・ペレイラという歌手の家にホームステイすることになった。ブエノス市内からは遠いので(ブエノス市内南端のコンスティトゥシオン駅からバスで1時間くらい)不便に思ったが、アルゼンチンの家庭の普通の生活を経験できたので、今では非常に良かったと思っている。同じ敷地に建つ二軒(アルフレード一家と彼の母親)のうちの一つに部屋をあてがわれ、食事はアルフレードの老母がしてくれた。機会があると一緒に出かけ知人のパーティーなどにも必ず誘ってくれるなど、本当にお世話になった。アルゼンチンの食事、ミラネーサ、ギソ、エンパナーダなどはわたしには良く合ったので、現在でもそうしたアルゼンチン風のものは時々無性に恋しくなる。

 当時アルフレードはサンテルモ地区にあった「サンテルモ・タンゴ」という、バンドネオン奏者オスバルド・ピーロが経営している店で歌っていたので、よく無料で入店させてもらった。出演していたのはピーロの九重奏団とカルロス・コラーレスのトリオ、それにピーロの奥さんマリア・ホセとアルフレードの歌だった。ピーロの九重奏団はバンドネオン(オスバルド・ピーロ)、バイオリン(カルロス・ピチオーネ)、バイオリン、ビオラ、チェロ、フルート、ギター(リカルド・ドミンゲス)、ピアノ(マリオ・アラオラサ?)、コントラバス(オマール・ムルタ)という編成で豊潤なサウンドが聴かせていた。

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フロレンシオ・バレーラの街外れ
 ホーム・ステイしたフロレンシオ・バレーラというところは、距離からすると東京と横浜くらいだと思うが、高い建物などはなく原っぱに馬がつながれていたりするのどかなところだ。近くに線路はあったが廃線らしく、主な交通手段はバスだけだった。こうした土の匂いのする風景にはタンゴよりフォルクローレが似つかわしい。実際、フロレンシオ・バレーラ近くのレストランで行われたアルフレードたちのコンサートでは、プログラムはフォルクローレばかりでユパンキの「トゥクマンの月」などは自然と聴衆も口づさむなど、やはりタンゴは大都会ブエノス・アイレスという狭い地域の音楽だと思わされた。
 60歳は越えていると思われるアルフレードの母親などは、それほど遠くもないのに大都会ブエノス・アイレスには1度も行ったことがなく、行きたいとも思わないと言っていた。そういうつつましやかな生活があるのかと驚かされた。当時の日本はバブル景気の真っただ中。ところが着いたブエノスでは物乞いをする子連れの母子が町中にいたり、バスや地下鉄の中などあちこちに物売りが、それも子供ばかりではなく中年男性まで来ては、日本円だとほんの何十円かの物を売って生活していた。そういった厳しさに、バブルで浮かれた日本から来たわたしは冷水を浴びせられた気がした。
 








5.ブエノスでライブに行く

   《ライブ》

 この1度目のブエノス・アイレスの滞在中、なるべくライブには行こうと思っていたので常に新聞、テレビ、ラジオ、町中に張り出されるポスターなどをチェックしていた。血眼になっていたといっていい。そうした中で強く印象に残っているのはフリオ・パネ(バンドネオン)の美しい音色、アニバル・アリアス(ギター)の骨太のリズム、プグリエーセ楽団、ピアソラ、ラウル・ガレーロ(バンドネオン)の豊潤な響き、オラシオ・サルガン(ピアノ)の粋、そしてカフェ・オメロで聴いたネストル・マルコーニ(バンドネオン)、オスバルド・タランティーノ(ピアノ)、アンヘル・リドルフィ(コントラバス)のトリオだった。
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マルコーニのトリオ(カフェ・オメロにて)

 このトリオの演奏は個々の豊かな音楽性に裏打ちされた柔軟で豊かなものだった。「ロス・マレアドス」では途中をボサ・ノバや4ビートにしてアドリブをまわすなど、普通のタンゴの枠を踏み外すような場面もあった。わたしには素晴しい演奏だったし、その夜の観客も多いに楽しんだようだったが、日本ではこういう演奏家の自発性にまかせた演奏はめったに聞けないかもしれない。タンゴのコンサートというと「ラ・クンパルシータ」や果てはコンチネンタル・タンゴまで要望する一部の主催者やファンの意識は、そろそろ変えたほうがよいかもしれないと思うがどうだろう。途中、マルコーニと話す機会があり、バンドネオンの学習について尋ねてみると、彼のレッスンではツェルニー、バッハ、ショパン、バルトークといったクラシックのピアノ曲の譜面を使うとのこと。もちろんタンゴの作品も重要だと言っていた。彼の演奏は蛇腹の開閉が全く同等で、どんな速度でも音域でも均一に弾けるすごい技術を持っているが、この地点に到達するまでどれだけの努力があったかを思わずにはいられない。このトリオのメンバーも現在残っているのはマルコーニ一人だけなのは寂しい限り。

 初めて訪れたブエノスで、ピアソラが生涯の最後に結成したグループ「セステート・ヌエボ・タンゴ」を聴くことができた。場所はコリエンテス通りにあるテアトロ・オペラ。面白かったのは、毎週木曜日にテアトロ・アルベアールで開かれる無料タンゴ・コンサートなどとは客層が若干異なっていたことだ。高齢者は少なく、中年までのインテリっぽい人が多いようだった。普通のタンゴだったら気楽に楽しもうという感じだが、ここではピアソラは今度は何をやるんだという興味が満ちていて、開幕前のロビーはざわめいていた。
 
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ピアソラ六重奏団公演のプログラムから(さらば、ブエノス・アイレスと書いてあるのが意味深長)

 コンサートは「タンゲディア」で始まった。ピアソラとビネリの二人が立ち上がって身体を上下に揺すりながらバンドネオンを弾く姿は壮観だった。バイオリンに代わりチェロのブラガートが舞台の右はしに位置し、左端からギター、ピアノ、コントラバスと並ぶ。チェロが加わったせいかサウンドがより重厚になったようだ。非常に重い装甲車でも動き出したような迫力が感じられた。曲目が進み「天使のミロンガ」になったとき何故か目頭が熱くなり涙が頬を伝わった。それはこの地点まで何十年も闘ってきたピアソラの歴史のこともあるし、ブエノスでたった一人でピアソラを聴いているという感動もあるかもしれなかったが、なによりその音楽が素晴しかったからだろう。ピアソラの演奏は初来日以来毎回も聴いていたが、日本での演奏より気合いが入っているような気がした。当日はメーネム大統領も来ていたし、ピアソラ自身も「ブエノスで演奏するのは試験を受けているようなものだ」と言っていた。
 メンバーは皆、素晴しかったが特にピアノのヘラルド・ガンディーニのよく通る美しい音色とダイナミズム、現代音楽を思わせる挿入フレーズに驚かされた(後日分かるのだが実際彼は近現代を得意にするクラシックのピアニスト・作曲家だったのだ)。ビネリをメンバーに加えたことから、実はここに来るまでは「ピアソラも一人ではきつくなったのか」と思っていたが、演奏が始まるとそんな憂慮はすっ飛び、全くピアソラの独壇場だった。PAを通しているとはいえ、ブエノスで聴いた数多くのバンドネオン奏者の中でピアソラの音が最もはじけていて、顔にパンパン当たるような感じがした。ビネリとの長いデュオの部分などは新しい可能性を感じさせるものだった。結局休憩を挟まず全ての曲目が一気に演奏されると、盛大なアンコールの拍手が続いたにもかかわらず、もう責任は果たしたといった感じでピアソラは出てこなかった(後で分かるのだが、このコンサートがブエノス・アイレスでのピアソラの生涯最後のコンサートとなるのである)。








6.二度目のブエノス・アイレス
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アサード(あぶり肉) 美味しい!

   《再びブエノス・アイレスへ》

 一旦帰国して、再度ブエノス・アイレスに向かったのは1990年2月末のことだった。今回は知人の紹介で部屋を借り、自炊生活をすることになった。場所は中心街(セントロ)からは少し離れたサアベドラというところ。16階の部屋なので眺めがいい。ラ・プラタ川やホルヘ・ニューベリー空港へ離着陸する飛行機が見える。夜明けの景色の一刻づつ変って行く色合いなども、とても美しかった。大変なのは食事。お腹がすくと買い物に行ってから支度、食後の片付けと結構時間がかかる。よく行く肉屋や八百屋、ハム、チーズやお菓子など売っている店の主人たちとは、毎日のことなので顔見知りになってしまった。たまには近くの安いレストランへ。中でもサアベドラ駅前の小さなレストランのステーキは美味しかった。昼間は気が向くと楽譜やレコード、CD探しにセントロへ。夜は新聞などで調べてライブを聴きに(とにかく毎日どこかでタンゴが演奏されている)。それ以外は部屋で練習や譜面の整理、ラジオのチェック(テレビはない)等、ほとんど毎日音楽のことを考えていた。日本語を話す機会がほとんどないので、日本語が懐かしく就寝前はほとんど読書に費やす。スペイン語は時間があれば辞書を読み、買い物などで必要があると言い方や単語を事前に調べてから出かけた。それで通じると自然と覚える、その繰り返しだった。当時は現在と違って通信や郵便事情も悪く、日本との頻繁なやりとりは難しかったから、強い孤独感に襲われることもあった。会話をしたい時に相手がいなかったり、会いたい人に会えないのはかなり辛いことだった。それらを乗り越えてこれたのはタンゴやバンドネオンを学びに来ているという強い目的意識があったからだろうが、現地で知り合った人たちの暖かい心に癒されたという面もあったと思う。








7.オスバルド・プグリエーセ
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当時のオスバルド・プグリエーセ楽団

   《オスバルド・プグリエーセ楽団》

 シエテ楽団の主宰者・斎藤一臣氏がタンゴの巨匠オスバルド・プグリエーセと知遇があったことから、「ラ・カサ・デル・タンゴ(タンゴの家)」という練習場へ見学に行った。ここはブエノス市から提供されている古い建物の中にある。ちなみにこの建物のある通りは「グアルディア・ビエハ(古きを守れ)」という名前なのも面白い。数年前多くの人の協力で(これには日本からの寄付もあったようだ)大規模な改築がなされ1997年に訪問した時には見違えるようにモダンで奇麗になっていた。実は初めて「ラ・カサ・デル・タンゴ」を訪れるに先だってブエノス・アイレスに着いてからすぐに、コリエンテス通りにあるプグリエーセのマンションを訪れている。この時はプグリエーセは在宅していたが、リディア夫人によると「練習して疲れたので休んでいる」とのことで直接は会えなかった。しかしその際、明日練習があるから見学に来なさいと「ラ・カサ・デル・タンゴ」の住所を書いたメモを渡された。

 「ラ・カサ・デル・タンゴ」に着くと建物の入り口脇の小さな部屋にはピアノが1台あって、一人の若者のレッスンが行われていた。それを横目にしながら真夏なのに薄暗く冷んやりした長い通路を抜けると、奥に小学校の体育館ほどのかなり広い部屋があった。そこにプグリエーセがいた。部屋に入ると奥にいたプグリエーセ自身がこちらにとぼとぼと歩いて近づいてきた(この時80歳は越えていただろう)。長年レコードや雑誌で見てきた風貌と全く同じで、その人物が目の前にいるのだから何か不思議な感動があった。わたしと同じくらいの背丈だがほっそりとしていて手と耳が大きく、まるで音楽をやるために生まれてきたように思えた。独特な、高いしわがれた声で挨拶された。この日のバンドネオン・セクションはアレハンドロ・プレビニャーノと若いエクトル・デル・クルトの二人だけだったが、いざ練習が始まるとまぎれもない聴き慣れたプグリエーセの音楽が残響の多い建物全体に響き渡った。
 
 練習後、リディア夫人に「先生はダニエル・ビネリが良いのではないか」と言われた。わたしにはかつて横浜で間近に聴いた彼の演奏が強烈な印象を残していたので非常にうれしかった。別れ際、プグリエーセに「次回はバンドネオンを持ってきなさい」と言われた。つまりわたしにも次の練習に参加しろとの意味だが、若干のためらいがあった。それは非常に光栄だがプグリエーセのような歴史ある楽団の練習に気楽に参加してよいものかということと、それよりも現在の彼等のレパートリーを聴いて知ってはいたが、弾いたことはなかったからだ。それで躊躇していると、プグリエーセが「お前が持って来ないのなら、わたしが持って来る」というので、これは本当に参加を許されたのだなと思った。

 とはいっても譜面もないし途方に暮れたが、プレビニャーノに頼んでお宅に何回かおじゃまして、譜面をコピーし演奏のニュアンスなどを教わった。プレビニャーノの家は市外(プロビンシアという)のモンテ・グランデで、ブエノス市内南端のコンスティトゥシオン駅から電車に乗って行く結構遠いところだが、ご家族と一緒に食事をご馳走になったりと大変お世話になった。彼の楽器の持ち方は変っていて、普通バンドネオンを構え両手をベルトに通す時は、親指だけは外に出すのだが、彼は全部の指をベルトの中に通す。たしか現在ブエノスでピアニスト・編曲家・指揮者として名高いオスバルド・レケーナのお父さん?にバンドネオンを習ったと言っていた。

 そのころのプグリエーセ楽団はロベルト・アルバレス(バンドネオン)たちがコロール・タンゴを結成するため抜けた後で、第一バンドネオン、第一バイオリン、コントラバスが交代するという、実は大変な時期だったのだ。そのせいか練習は毎週1回はあり、それ以外にもバンドネオンだけバイオリンだけ集まる日があり、そのどちらにもプグリエーセが来て指導していた。結局、帰国するまで約9ヵ月近く練習に参加させてもらった。オランダから来たセステート・カンジェンゲのメンバーと知り合ったのもこのころだった。プグリエーセ楽団のメンバーとも個人的に親しくつきあうようになり、バスで12時間はかかるコルドバ市への演奏旅行に同行しコンサートの最後では「ラ・ジュンバ」1曲とはいえ同じステージに上げてもらったこともあった。コルドバでのコンサートの日はちょうど、サッカー(フット・ボール)・ワールド・カップ・イタリア大会の決勝戦でアルゼンチンがドイツに負けてしまった日だった。昼間中継を見て、試合に勝っていれば盛り上がったのだろうが、負けてしまったのでみんなふてくされて部屋に戻ってしまった。帰国直前にはテアトロ・アルベアールで再び「ラ・ジュンバ」を弾くことになった。この時のコンサートはゲストがセステート・タンゴ、ダニエル・ビネリ、そして往年の大歌手アルベルト・モラン(一番拍手が多かったように思う)だった。当時のプグリエーセ楽団のメンバーは次のとおり。

バンドネオン bandoneon アレハンドロ・プレビニャーノ Alejandro S.Prevignano
ファビオ・ラ・ピンタ Fabio Lapinta
エクトル・デル・クルト Hector H.Del Curto
ワルテル・カストロ Warter E.Castro
バイオリン violin ディエゴ・レレンデギ Diego S.Lerendegui
ガブリエル・リーバス Gabriel F.Rivas
マルセロ・プリエト Marcelo Prieto
ビオラ violaメレイ・ブライン Merei Brain
チェロ violoncelloパトリシオ・ビジャレホ Patricio Villarejo
コントラバス contrabajoギジェルモ・フェレール Nestor G.Ferrer
ピアノ piano y direccionオスバルド・プグリエーセ Osvaldo Pugliese
歌 cantantes アベル・コルドバ Abel Cordova
アドリアン・ギーダ Adrian Guida
 
 今ごろになって、何故プグリエーセはわたしを自分の楽団の練習に加えてくれたのかと思うことがある。その長寿によってタンゴの歴史を身を持って体験し、創ってきた偉大な人物が、タンゴとは程遠い東洋から来た人間を、自分の楽団の練習に参加させてまで伝えたかったものは何なのだろうと考える。それを思うとあらためて深い感謝の気持ちと責任に身が引き締まる思いがする。
 約半年間参加したプグリエーセ楽団との練習の写真が1枚もない。今思うと何で1枚くらい撮らなかったのか不思議だが、当時は彼等と一緒に弾くのに必死でそんな余裕などなかったのかもしれない(録音はあるが)。写真といえば、たった一人でブエノスにいたものだから、自分を写した写真が案外少なくて、例えば町中で撮ったような写真は1枚もない。それも残念なことだが仕方ない。

 2度目のブエノスではセントロからは離れているとはいえ、市内に住んでいたからよくレコードや譜面を探しにあちこちを歩き回った。そんな時フロリダ通りを歩いていると、道端で売られている新聞の見出しに「ピアソラ、ムイ グラーベ(ピアソラ重体)」とあるのが目に入った。「エーッ!」とビックリしてすぐに新聞を買い、部屋に戻ってから辞書を引きながら読んだ。脳血栓という単語があってことの重大さに非常にショックを受けた。ピアソラの音楽がわたしたちに与えてくれた豊かなものを思った。もしピアソラの音楽がこの世になかったとしたらその空虚さを想像してみればよい。その荒涼な景色は恐ろしいほどだ。その後、ピアソラはパリからブエノスに運ばれ、わたしが帰国した後、1992年に亡くなる。

 こうして2度にわたるブエノス・アイレス滞在で様々な演奏家に接して強く感じたのは、タンゴのスタイルが幅広く奥深いこと、そしてタンゴが決して古い時代の音楽の再現ではなく、今現在のわたしたちのこころを表現しうる音楽だということだった。少なくとも多くのタンゴ演奏家はタンゴを演奏する時、今の自分のこころの有り様を正直に表現している。力強いリズム、うっとりするようなメロディー、洒落た和声進行、豊かな響き。スペイン語の語り口やブエノス・アイレスという大都会の息吹が染み込んだタンゴに込められているのは、人生の喜び、悲しみ、皮肉、ユーモアなど・・・。これら全てが詰まっている音楽。それがタンゴだ。ピアソラはそれらに新しいものを付け加えたかもしれない。これからタンゴはどこへ行くのか? そしてわたしのタンゴは?








8.帰国後

   《帰国後》

 ブエノス・アイレスではバンドネオンの何を学んだのかというと、アルゼンチンの演奏家が学ぶように教本やタンゴ、クラシックの楽曲を使用した系統だった学習の仕方を学んだと言っていい。それまでは闇雲にスケールやタンゴの有名曲を弾くばかりだった。帰国後はそうしたアルゼンチンのやり方を少しづつ実践した。
 1993年にはシエテ楽団の自主制作CD録音(心/アルマ)のため三度目となるブエノス行き。
1997年にはプグリエーセの追悼コンサートのため4度目となるブエノス行き。テアトロ・アルベアールでセステート・タンゴ、ロドルフォ・メデーロス、ダニエル・ビネリらを招いてのコンサート。シエテ楽団脱退後は様々なシーンで出会ったミュージシャンと共演。
 2005年には40日間の短期滞在ではあるがフリオ・パネに師事。また同行したメンバーの、コントラバスのダニエル・ファラスカ氏、ピアノのホルヘ・ドラゴーネ氏のレッスンにも通訳を兼ねて付き添い様々なことを学ぶ。帰国後は気心の知れた仲間とデュオ、トリオ、クアルテート、キンテート、セステートを組み活動中。



ライブハウスにて
   《ライブ活動、そして現在》

 ブエノス・アイレスから帰っても、もともと演奏活動はしていなかったので、日本のタンゴ界に知り合いはほとんどいなかった。それで演奏する場所も機会もほとんどなかった。結局、悪循環で孤独な日々を悶々と過ごしていた。とは言え、ほんの短期間一緒に演奏させていただいたバイオリンの志賀清氏、ピアノの加藤真由美さん、同じくピアノの岩崎浤之氏、大塚典氏、バンドネオンの岡本昭氏など尊敬すべき先輩諸氏からは多くのものを学ばせていただいた。またカンデラリアに出演していたバンドネオンのポーチョ・パルメール氏、ルーベン・イダルゴ氏やギターのアンヘル・ミランダ氏からはアルゼンチン演奏家のしなやかな演奏スタイルを学んだ。そうした中、プグリエーセの演奏をコピーしたり、ピアソラ作品やオリジナル曲を演奏するグループを組織したが、音楽観や人間性など、真に気持ちの通い合う共演者は少なく、また自分のやりたいことをやるにはリーダーとしてグループを組織するしかないことを痛感し、現在模索中。ここ数年は、古典タンゴの重要性を再認識し、昨年あたりからそうしたレパートリーを中心に活動を始めている。
 古典タンゴに回帰したのには以下のような気持ちがあったからである。自立した音楽家として自己を確立して行くための重要な要素は、高度な技術や理解に裏付けられた表現力とオリジナリティだろう。ジャズやクラシックなどタンゴ以外にもともとのバック・グラウンドを持つ演奏家は、自己のオリジナリティを追及しようとすると、もともとのバック・グラウンドに帰って行かざるを得ず、もしくはそれが自然と顔を出し、タンゴにオリジナリティを持ち込もうとすればするほどタンゴから離れて行くというパラドックスに陥らざるを得ない。それを回避するためには、タンゴの息づかいが自分の呼吸になるほどの深い理解と愛情が必要だろう。木に竹をつないだような安易な折衷音楽を垂れ流していることに全く気付かず、また聴取者の中にも出てきた音にむやみに感動したと錯覚する輩も多いがそこにはタンゴは、ない。感動があれば別にタンゴでなくても良いという人もいるだろうが、わたしは今しばらくタンゴにこだわって行きたい。これは他者を批判するために述べているのではなく、自分への自戒の意味を込めて言っている。
 タンゴは100年少し前に南米のラ・プラタ川河口付近で生まれた、実は結構、毒や癖のある民族音楽に近い音楽なのではないかとわたしは考えている。だから真の表現は楽譜には表わしようがない部分にあり、そう簡単には演奏できないし、万人にも簡単に受け入れられるようなものではないと思う。その意味でピアソラの音楽はよりアカデミックだし、譜面も整備されているから、多くの人に受け入れられ、現在でもそうしたレパートリーで演奏会を構成する演奏家は多い。だがそうした他者の意匠に自己を委ねた地平には、素晴しい表現はありえても真のオリジナリティはないだろう。だから現在わたしは膨大なタンゴの歴史の広がりと重みの前で途方に暮れながらも、少しでも自分の地肉にしようと古典タンゴに取り組んでいる。まだ作業は取りかかったばかりといっていい。道は長い。
 ジャズ、クラシック、即興音楽と様々な角度からアプローチが試みられるタンゴだが、わたしなりに感じた、ブエノス・アイレスの息吹を感じさせるタンゴを演奏をして行きたいと思っている。将来的には譜面のような即興、即興のような譜面というような、完成度が高く、自然で躍動感に満ちた内容を持ち、なおかつブエノス・アイエスの芳醇な香りの溢れた演奏ができたら言うことはない。さらにタンゴであるなしを越えた地平で音楽と自己とが渾然一体になれれば最高だろう。まだまだ学ぶべきことは多い。



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