タンゴ1.リズム、旋律、和声と音色
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プグリエーセと


 《リズム》

 ジャズの本質が即興だとすると、タンゴの本質は二拍子のリズムにあるとわたしは考えている。タンゴはもともと南米にあったものとアフリカの要素があるとは言え、ヨーロッパの影響の強い音楽だ。だからリズムをとってしまうと非常に美しいメロディーが多く、イタリアあたりの民謡に近いものがある。それを差別化しているのがリズムだろう。常に表にでようが音楽の根底に潜んでいようが、その誇張された二拍子のリズムがタンゴにアイデンティティを与えている最大の要素だと思う。そしてわたしの場合、そのリズムとはプグリエーセの『ラ・ジュンバ』と同義語となる。ダリエンソやディサルリなど本当にすばらしいリズム感を持った楽団、演奏家は多いが、それでもわたしは『ラ・ジュンバ』にこだわる。私見では、ピアソラも散々色々なリズムをめぐり歩いて結局最後は『ラ・ジュンバ』のリズムに帰ったように見える。

 ここで思い出されるのはプグリエーセ楽団の最後の来日公演の時、横浜で開かれたパーティーでの演奏だ。わたしたちはパーティー会場の最前列でわずか2〜3メートル程の距離を前にしてプグリエーセ楽団の演奏を聴いた。最初の曲目「アラバル」が始まった時、誇張ではなく本当に蛇腹から吐き出されるバンドネオンの音が激しい風圧と共にわたしたちにぶつかってきたのだった。その瞬間わたしたちは呆然とし、すぐにお互いの顔を見合わせて「何だ、これは!」と余りのすごさになぜか笑ってしまった。そして最後に共演させてもらった『ラ・ジュンバ』。リズムの激しさ鋭さと、大きくゆったりした乗りにはプグリエーセの心骨頂を肌身で感じさせられ、終わったあともしばらくは放心状態だった。

 古典タンゴの譜面は2/4や4/8で書かれることが多いが、現在では大体4/4で書くようだ。その4拍のうちの1、3拍目にアクセントをつけて2拍子のニュアンスを出すわけだが、楽団や演奏家によっても、また同じ演奏家でも時期や演奏箇所によってはニュアンスが異なるから、タンゴの2拍子といっても実に多種な表現があるわけだ。しかもその4拍が均等ではない場合もあるから厄介だ。たとえば1、3拍は多少突っ込み気味で、いわば裏となる2、4拍は逆に遅れ気味に弾いたりと、生き物のような柔軟性を持つ。決してメトロノームのように弾いてはいけない。メトロノームはテンポは出すが、リズムは出さない。リズムは人間の領域なのだ。ブエノスで聴いたライブでも、一つの楽曲中メロディーが終わりリズムを刻む部分になると、とたんに気の抜けたリズムを出すバンドネオン奏者もいたが、逆にリズムを必死になって刻むのがプグリエーセ楽団だ(足の楽団と言われたこともあるらしい)。1、3拍のアクセントを出す時は全員でいわば一つの点に向かってリズムを刻む訳だが、重要なのはその1、3拍の点へ向かうときのスピード感だ。裏拍から溜めに溜めて怒涛のように1、3拍になだれ込む。そのニュアンスが非常に重要だと思う。そして裏拍の2、4拍でリズムを支え突っ走ろうとする楽団をひきとどめているのが、プグリエーセの左手による重い低音だ。これらが一体になった時に出てくるドライブ感は他では経験のできない凄さがある。


 《旋律と歌い方》

 プグリエーセ楽団のリハーサルに参加して驚いたのは、かれらが使っている譜面の譜割が意外にシンプルだったことだ。しかし、たとえば4/4で♪が8つ並んでいるような部分でも決して均等には弾かれない。もっと自由にのびのびと歌ったり逆に細かく詰めたりとまるでゴムが伸び縮みしているような表現である(もちろん普通に弾かれる場合もある)。小節自体も均等ではない。弾いていることを正確に譜面にしようとしたらかなり複雑なことになるだろう。しかしそれも1人で演奏するなら個人の自由ですむが、バンドネオン・セクションの4人でそうした不均等なフレージングをするとなると、これは合うまで時間をかけて練習するしかない。わたしが参加しているときにも練習は毎週あった。こうしてかれらの高度なアンサンブルは編み出されているのだ。こうした作業のいわば対極に位置するのがピアソラの音楽かもしれない。彼の音楽はあくまで個人プレイの集積としてのグループ・サウンドで、セクションとしての不均等なフレージングはそれほど見られないと思う。

 多くの演奏家はタンゴを弾く場合、オリジナルの旋律は尊重しつつ、細かい装飾を自在にほどこしながら弾いて行く。さらに対旋律やオブリガードを付け加え、オリジナルな表現を築き上げる。だがこれらは決して勝手気ままに行われているのではなく、タンゴという大きな伝統の中で表現されている。こうした表現はわたしたちには難しい。様々な演奏を聴いて自分でも演奏して、それが自分の血肉になった後に、自然とにじみ出てくるものだろう。

 出版されているタンゴのピアノ譜などはこうした演奏の原譜で、いわば原石のようなものだろう。だから古典期のタンゴはオリジナルの旋律だけを弾いてみると結構素朴なものだ。それらを演奏家がどう料理(旋律の分解・再構成、対旋律・オブリガードの追加、新たな和声付け、曲全体の再構成など)しているかを注意深く聴けば、個々の演奏家の機知や目指しているものが明確に聞き取れるだろう。

 
 《和声と音色》

 基本的な三和音は力強く、テンションを伴った和声は豊かな響きは得られるが、力強さには若干欠けるようだ。和声は色の様なものだと思う。リズムと旋律のどちらだけでも音楽は成立するだろう。和声はそれに豊かな彩りを付け加えて行く。カラフルで豊かな響きもあれば、モノトーンでシックな音色もあるが、複雑なものが常に高度ですぐれているとは限らない。たとえばプグリエーセのタンゴのある部分には力強さと共に、なにか世界の深遠をかいま見せるようなドキっとする瞬間がある。ノイズやクラスターの要素。和声を拡大したようなそれはおそらく理論だけではない、音楽の発生の正統な手続きを踏んでいることから来る自信に満ちた力強さがある。プグリエーセの音楽は中期以降からこうした要素が顕著になってゆく。

 タンゴに見られる和声進行自体は理にかなったものが多い。かえってフォルクローレやブラジル音楽などのほうに西洋古典音楽から見ると突飛な進行が見られるかもしれない。ただ聴き慣れた曲でもサルガンなどの洒落た和声付けには新鮮な驚きがある。ロマン期の作品をソロで弾いたピアソラの演奏では、短い中で多くのリハーモナイズや転調、新しい旋律の追加などが行われそのどれもが素晴しい次元で実を結んでいる。ピアソラのアレンジ能力の高さを示すものだが、意外に短時間に仕上げた仕事なのかもしれない。

 タンゴの楽器編成は普通、オルケスタ・ティピカ(標準編成)というように、バンドネオン、バイオリン(など弦楽器)、ピアノ、コントラバスと相場が決まっている。これらを絵の具として編曲家は様々な絵を描くわけだ。だが実はバンドネオンやピアノといっても単純に一つの音色だけに限定されるものではない。奏法やニュアンスで様々な音色を伴った演奏が可能だ。バイオリンでも華麗な高音部のソロからビオラの様な低音部、重音やグリッサンド、ピチカート、弦をはじいたり胴をたたくパーカッシブな奏法、タンゴ独特なスタッカートによるリズムの刻み等々実に幅が広い。タンゴの伝統というのはやはりあるから、一応歴史的なスタンダードは尊重するとしても、楽器編成や個々の楽器の使い方をあまり限定することは、聴く方も演奏する方もしないほうがいい。ピアソラがオクテート・ブエノス・アイレスでエレキ・ギターを導入した時も随分抵抗があったようだ(もっとも今聴くと使い方にも抵抗があったのかもしれないとも思われる)。自由で間口の広い感性を持っていたほうが世界はより広がると思うがどうだろう。  










タンゴ2.楽曲、演奏とスタイル
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チャカリータ墓地のトロイロの墓にて


 《楽曲》

 やはりファン・カルロス・コビアン(ピアニスト、作曲家、楽団リーダー)の作品には強い魅力を感じる。基本的には長調と短調の2つの部分で構成され(「ロス・マレアドス」は3つの部分)、似ているといえば似ているがどのメロディーも大変素晴しい。きっと次から次へと素敵なメロディが頭に浮かぶ人だったのだろう。「エル・モティーボ」、「ノスタルヒアス(郷愁)」、「ミ・レフヒオ(私の隠れ家)」、「リアチュエロの霧」、「ラ・カシータ・デ・ミス・ビエホス(両親の小さな家)」、そして「ロス・マレアドス(酔いどれたち)」と名作が目じろ押し。コビアン自身の演奏だけを集めたCDがあるらしいので探している。フリオ・デ・カロたちをおいて北アメリカへ行ってしまったが、そのまま楽団を維持していたらどんな演奏がされたか興味はつきない。

 同じ頃、活躍したエンリケ・デルフィーノも「ミロンギータ」、「グリセータ」、「レ・ファ・シ」などピアニストらしい佳曲が多い。また、バンドネオン奏者のアンセルモ・アイエタも「シガ・エル・クルソ」、「パロミータ・ブランカ」などタンゴらしい曲やワルツに才気を見せる。時代は少し後になるが、同じバンドネオン奏者のドミンゴ・フェデリコも「ジュージョ・ベルデ(オメロ・エスポシト作詞)」、「ペルカル(オメロ・エスポシト作詞)」、「サルードス」など良い曲を書く。

 古典期では「エル・チョクロ」、「エル・ポルテニート」、「エル・エスキナーソ(街角)」などのアンヘル・ビジョルド、「カミニート(小径)」、「バンドネオンの嘆き」、「ミロンガの泣く時」、「エル・パニュエリート」などのファン・デ・ディオス・フィリベルト、「ロレンソ」、「恋人もなく」、「ガジョ・シエゴ」、「ラ・ウルティマ・シータ」、「ケ・ノーチェ」、「ティンタ・ベルデ」などのアグスティン・バルディ、「ラ・カチーラ」、 「デレーチョ・ビエホ」、「エル・マルネ」、「コム・イル・フォー」、「ラ・ギタリータ」などのエドゥアルド・アローラス、「夜明け」、「アルマ・デ・ボエミオ」などのロベルト・フィルポなどにも佳作が多いが、大歌手カルロス・ガルデルも「マノ・ア・マノ」、「想いの届く日」、「ミ・ブエノス・アイレス・ケリード」、「ボルベール(帰郷)」、「首の差で」など素晴しいメロディを書く。

 忘れてはならないのが、フリオ・デ・カロ一派。「トド・コラソン」、「ラ・ラジュエラ」、「コパカバーナ」、「ティエラ・ケリーダ」、「マーラ・フンタ(ペドロ・ラウレンスとの共作)」、「ボエド」、「オルグージョ・クリオージョ(ラウレンスと共作)」などで知られるフリオ・デ・カロ当人はもちろん、「フローレス・ネグラス」、「ロカ・ボエミア」などで知られる兄のフランシスコや、「ラ・マリポーサ」、「アムラード(ペドロ・ラウレンスとの共作)」、「タコネアンド」のペドロ・マフィア、「アムラード(マフィアとの共作)」、「ベレティン」、「マーラ・フンタ(デ・カロとの共作)」、「ミロンガ・デ・ミス・アモーレス」、「コモ・ドス・エクストラーニョス(ホセ・マリア・コントゥルシ作詞)」、「マル・デ・アモーレス」などのペドロ・ラウレンスなども機知に富んだ佳曲をものにしている。

 「レクエルド(想い出)」、「ラ・ジュンバ」、「ネグラーチャ」、「マラン・ドゥラカ」など以外はあまり注目されないが、プグリエーセの作品も鋭い閃きを秘めていて捨てがたい。作曲家のオルケスタと呼ばれただけあって、プグリエーセ楽団のメンバーには、「ラ・ボルドーナ」のエミリオ・バルカルセや、「ケフンブローソ」、「ノチェーロ・ソイ」のオスカル・エレーロ、「ボルドネオ・イ・ノベシエントス」、「N.N.」、「パラ・ドス」のオスバルド・ルジェーロなど名作を世に送り出したメンバーも多い。

 楽団リーダーでは「バイア・ブランカ」、「ガウチョの巣」、「ミロンゲーロ・ビエホ」のカルロス・ディサルリ、「バリオ・デ・タンゴ(オメロ・マンシ作詞)」、「ガルーア(エンリケ・カディカモ作詞)」、「マリア(カトゥロ・カスティージョ作詞)」、 「スール(オメロ・マンシ作詞)」、「ラ・トランペーラ」、「最後の酔い(カトゥロ・カスティージョ作詞)」、「パ・ケ・バイレン・ロス・ムチャーチョス」、「レスポンソ」、「チェ、バンドネオン」などのアニバル・トロイロ、「クアルテート・アスール(マリオ・バティステラ作詞)」、「アディオス・パンパ・ミア(フランシス・カナロとの共作)」、「ウノ(エンリケ・サントス・ディセポロ作詞)」、「軍靴の響き」、「ブエノス・アイレスの喫茶店(エンリケ・サントス・ディセポロ作詞)」、「グリセル(ホセ・マリア・コントゥルシ作詞)」、「クリスタル(ホセ・マリア・コントゥルシ作詞)」、「タンゲーラ」などのマリアーノ・モーレス、「ダンサリン」、「メランコリコ」、「ノスタルヒコ」、「ノクトゥルナ」、「パジャドーラ」などのフリアン・プラサ(この人もプグリエーセ楽団のメンバーだった)らの作品もアルゼンチンらしい感性のあふれた素晴しいものが多い。

 近年は歴史に残るような作品が少ないのが残念だが、別格はやはりアストル・ピアソラだろう。今ではポピュラーになったブエノスの四季や天使のシリーズ以外にも「プレパレンセ」、「デカリシモ」、「現実との3分間」、『アディオス・ノニーノ」、「タンゴ・バレー」、「ミケランヘロ」、「タンガータ」、「五重奏の為の協奏曲」、「AAの悲しみ」など名曲は多い。またそれまでのタンゴの世界にはあまり見られなかったバンドネオン協奏曲などクラシック的なオーケストラとの共演作品も作曲している。もちろんピアソラは作曲家だけではなく、演奏家、編曲家、グループ・リーダーとしてそのどれもが素晴しく、また高度な位置で結実している点がすごいと思う。ビネリやメデーロスたちも曲を書いているがスタンダードとして残って行くかどうか。

 ブエノス・アイレス滞在中、古本屋の奥や隅に無造作に積まれた古い見開きのピアノ譜を大量に見つけたことがある。好きな曲があれば買おうと考えて、何時間かかけて全て確認したがそれらのほとんどが聞いたこともないタイトル、作曲家のものだった。当時の自分の知識は今よりも更に劣ったものであったろうが、それにしてもよく知られたタンゴの作曲家や曲の周囲に、いかに時代に埋もれてしまったそれらが多かったかという証なのかもしれない。いくらであったろうか...。おそらく1部で1〜2ドルくらいのものだったであろう。それがドレーゴの蚤の市では表紙の絵画的な価値もあるのだろう、その10倍以上。曲集にいたっては100ドル位の値段がついているのを目撃したことがある。観光客向けの値段なのかもしれない。 
 
 《演奏とスタイル》

 どんな音楽にもいえると思うが、タンゴでも言わばタンゴ魂みたいなものが溢れていれば、ソロからオルケスタまでどんな編成でも、またどんな楽器の組み合わせでも素晴しい音楽は作りうる。実際、ブエノスに行くまでは、たとえばバンドネオンがなければとか管楽器ではとか、妙な固定観念がタンゴに対してあった。だがブエノスで、ライブやテレビ、ラジオなど様々な媒体を通して見たり聴いたりしたタンゴには実に豊かな広がりがあった。ブエノスにいたころ、部屋にいる時は大抵タンゴの番組をラジオで探してかけていた。そこでは日本では聞けないような様々スタイル、編成のタンゴが流されていた。また町で買ったカセット・テープを聴いてダリエンソの演奏を再認識したこともある。それまでは古典ではプグリエーセ、モダンではピアソラ一辺倒だったのだが、ダリエンソのような演奏も素晴しいと初めて思った。こうしたいろいろなスタイルがあるからこそ全体としてタンゴは豊かな広がりを持つ。タンゴがダリエンソだけ、またはプグリエーセだけしかなかったら、それは非常にさみしいことだろう。

 アベジャネーダ(リアチュエロ川を越えたブエノスの隣町)のタンゴ学校にメデーロスを訪ねて行ったとき、廊下に流れてきた木管と金管のアンサンブルによる「ロス・マレアドス」のサビのメロディーはまるでギル・エバンスの響きのようで鳥肌がたった。オーボエが入ったアンサンブルもあった。逆にガルデルの「ボルベール」が素晴しいジャズ・バラードになってテレビから流れてきたこともある。演奏していたのはトランペットとアルト・サックスがフロントの五重奏団だった。アニバル・アリアスの自宅を訪れた時に聴かせてくれた彼のギターには、CDでは捕えられないような激しい低音弦のリズムに乗った素晴しいタンゴが溢れていた。

 一方、バンドネオンに関してもタンゴに限らず様々な音楽で弾かれる場を目撃した。バンドネオン自体は別にタンゴを演奏するためだけの楽器ではない。考えてみれば当り前で最初からそんな限定をしては楽器に対して失礼だろう。ビネリもロック・バンドやフォルクローレなど様々なグループで演奏しているが、タンゴに限定してもレッスンの時、これはダリエンソ風、ディサルリ風、プグリエーセ風と同じ曲で様々なスタイルを見事に弾き分けていた。「でも、自分のグループではこうは弾かない」と言っていた。つまり伝統を踏まえて自分のスタイルを確立しているわけだ。わが身を振りかえると、今だにタンゴやバンドネオンと格闘中で自分のスタイルを確立するに至っていない。技術的にも勉強するべきことは尽きない。とにかく続けて行くこと。そこから何かが生まれると信じている。ソロでタンゴ魂の溢れた素晴しい演奏が出来れば言うことはない。そういう風に自己を確立した音楽家が複数集まってアンサンブルをすればこれはすごい音楽が生まれるに違いない。

 時折、古典タンゴとかモダン・タンゴといった分け方をする場合がある。何をもって古典、モダンというのかは難しいが、大まかに言うと作品の作曲(または初演)年代と演奏スタイルによるだろう。年代でいうといわゆるグアルディア・ビエハの時代(議論のあるところだが1910〜20年代くらいまで)の作品が古典の範疇に入るだろう。演奏スタイルでいうとテンポの変化が少なく比較的原曲通りに演奏されるのが古典といっていい。具体的にいうとピアソラが演奏するエル・チョクロは、作品自体は1903年に初演された古典タンゴだが、ピアソラの演奏は和声、楽曲構成の変更、リズム・パターン、フレージング、楽器法など多くの面でモダン・タンゴの範疇に入るだろう。ファッションの世界と同じで、現代は特定のスタイルが他に優越して中心となる時代ではない。だからこそ逆にどのようなスタイルを選択するかが、その音楽家の意思表明となる。現在のブエノス・アイレスで、タンゴ演奏家が普通に演奏すると、上に述べたモダン・タンゴの特徴を備えた演奏となる場合が多い。つまりタンゴはそのまま現代のわたしたちの気持ちに沿った表現となりうるのだ。逆に古典的なスタイルはよほど何かの意図がない限り、それほど演奏されることは少ないと思う。
 若い演奏家はベテランの指導を受ける。それは個人教授という場合もあるし、仕事の現場という場合もあるだろう。そうして伝統は次の世代に受け継がれて行く。そうした場はかつてはオルケスタであった。具体的にはプグリエーセ楽団のバンドネオン・セクションの基本スタイルを構築したオスバルド・ルジェーロが、セステート・タンゴ結成のためプグリエーセ楽団を抜けたあとに第1バンドネオン奏者となったアルトゥーロ・ペノンは、長年ルジェーロたちと演奏をともにしている。そしてそのペノンが抜けた後に第1バンドネオン奏者となったロベルト・アルバレスはペノンのもとでバンドネオン・セクションの一員として演奏していた。こうして一つの楽団のアイデンティティは保たれて行く(もちろん全く同じサウンドが保たれるのは難しいだろう)。ブエノスではファンも演奏会の後など、興味のある人はロビーや裏口の前に集まって演奏家が出てくるのを待つ。そして語り合う。音楽家同士も語り合う。こうしてなにかが共有されタンゴが人々の心に広がりを持って残る。こうした良好な関係は羨ましいが、だんだん失われつつあるのが残念だ。人生の一回性を考えると、同じ時代に同じ地域に生を受けたことは奇蹟的なことだ。人との出会いにはもっと積極的になっていい。充分努力して分からなかったら、ものの分かった人物に直接ぶつけてみてはどうだろう。








タンゴ3.変奏、作曲、編曲
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ルジェーロと


 《バリアシオン(変奏)》

 といえば、タンゴ楽曲の最後で華麗なテクニックを披露する華やかな部分。有名なところでは「ラ・クンパルシータ」「ケハス・デ・バンドネオン」「カナロ・エン・パリス」「レクエルド」「マラ・フンタ」などがある。昔はこうしたバリアシオンだけを集めた楽譜が売られていたようだが、わたしも探してみたが、見つからなかった。持っている人に借りるか古本屋さんでも探すとあるかもしれない。

 同じ楽曲でも人によって異なる変奏が弾かれる場合があるが、幾多の変奏のうち時代が移っても良く弾かれるものが有名なものとして固定され残ってきたようだ。ピアソラは自分がリーダーの時はそういう変奏はめったに弾かない。弾く場合はオリジナルを弾いている。

 すごいと思ったのはトロイロの「ケハス・デ・バンドネオン」の変奏。テンポは決して遅くないのだがゆったり聞こえる。変奏を弾くときはそんなに余裕がないので単なる音の羅列に終わってしまうことも多いのだが、非常に豊かな表情が見て取れるのである。あとはプグリエーセの変奏も音の切れ、ニュアンス等今だに誰も到達できない素晴しいものがある。

 バリアシオンを弾くときは、まずゆっくりと確実に底までボタンを押しながら練習し、メトロノームを使って徐々にテンポを上げて行くしかないだろう。親指はしっかりと固定するが、他の指に力が入っては早くは動かないだろう。ポジションが移動して行くときは親指を軸にして回転させるように。テンポが速いと気持ちがあせって、往々にして音が流れてしまいやすい。速いテンポの時こそ一音一音を丁寧に確実に弾くべきだろうが、なかなか難しい。


 《作曲》

 当り前だが、ブエノスには数多くのバンドネオン奏者がいる。そうした中で、本当に素晴しい演奏をするのに全く無名な人と、ピアソラのように世界的に評価の高い人との差はなんなのか時々考えることがある。もっともピアソラにしても世界的に知られるようになったのは彼の人生の後半になってからだ。わたしがピアソラから学び励まされることの一つは、自分の音楽を信じて突き進む姿勢だ。そこで自分の音楽といった時、やはりオリジナル性が重要になるだろう。そのオリジナル性は作曲、編曲、演奏、楽器法と全ての領域に渡るが、これらのどの分野でも若いときから自分の音楽を追及することを止めなかったピアソラの姿勢はすごいと思う。

 自分が曲を書くとなると、どうしてもピアソラやプグリエーセの影響が出てしまうが、今はそれをあえて隠そうとはしないで放っておこうと思っている。それでいいものは残るしダメなものは自然と消えて行くと思っている。頭ではなく自然に「歌」が流れ出したときそれを定着させて曲にしようと、そういう姿勢でやっている。いずれオリジナル・タンゴを中心としたCDとしてまとめるつもり。


 《編曲》

 ピアソラの音楽のコピーを通じて、和声進行やベースラインをどう動かすか、バンドネオンの旋律に対してどのような対旋律をバイオリンやギターに与えるかなど対位的な学習が出来たと思う。ピアソラはちゃんと音楽教育を受けた人なので、非常に構造のしっかりした音楽を書くから、一部を除くとある意味では理解のしやすい音楽になっていると思う(簡単という意味ではない)。またキンテートの譜面が購入できたりと、再現しやすさもある。もっともピアソラ自身はそういった譜面通り演奏している訳ではないので、実際の音を確かめフレーズの歌い方など学ばなければならない。それ以前に印刷ミス?も結構見受けられるのでチェックが必要。ビネリもバンドネオン協奏曲の譜面をだしてここはこんなに違うといっていた。ピアソラがタンゴの有名曲を演奏した「タンゴの歴史」(フルートとギターのデュオ曲とは別)を聴くとオリジナルとの差異が際立ち、しかもどれもがピアソラの音楽になっている。編曲とはここまでやってもいいのだと、目が開かれた思いがした。

 プグリエーセの音楽は編成が大きなこともあるが、レコードを1度聴いただけでは良く分からない部分が多い。かれらの練習に参加している時に同じ箇所でメンバーによって異なるコードが弾かれていることがあった。たとえばCのキイでG7とDm7の重ねでは、似たような響きではあるがドミナントとサブドミナントで機能が異なるし、G7の導音のBとDm7のCは明らかにぶつかる。音楽的に間違いではない場合もあるし、かえって豊かな響きとなることもある。そういったマニュアル通りな音作りではない部分、しかも何度もリハーサルを続けるうちに数多くの譜面上の修正を経て、緻密なアンサンブルを築き上げて行く。その音楽は小節線などはなくフレーズのやりとりで進んで行く。ノイズの要素など、どこか未知の部分を含む不思議さのある音楽。力強いリズムと優雅な弦の響き、それらに絡んでゆくバンドネオン。結局これらの総体を良しとして最終的なダメ押しをしているのが他でもないプグリエーセなのだ。そして演奏の精度が最高に達したところで録音し残す。そうやって作り上げたのがプグリエーセの音楽ではなかったか。現在それらプグリエーセの遺産ともいうべき数百曲がCDで聴くことができる。これはわたしたちにとって本当に僥幸といっていい(これらの約半数は歌なのだ、このことの意味はもっと考えるべきだろう)。ここにはピアソラとは異なる音作りの方向性が感じられる。だから晩年、時折見られるプグリエーセのタッチのミスもその音楽に傷をつけるものではなかった。なぜならその時鳴っているサウンドこそプグリエーセが長年かかって築き上げてきたものだからだ。

 プグリエーセ楽団の編曲もユニークだ。原曲を独特なフレージングで歌い上げ、原曲にまったくない部分を挿入したり、プグリエーセらしい対旋律を加えたりして、どんな曲を演奏してもプグリエーセのスタイルにしてしまう。ペノンはラフマニノフ?など近代ロシアの二人の作曲家の管弦楽法の本で勉強したと言っていた。








タンゴ4.演奏家(1)
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アリアス、ペノン、アルフレード・ペレイラ(左から)


アルトゥーロ・ペノン

 最初に師事したのがペノンだった。かつてプグリエーセ楽団からオスバルド・ルジェーロたちがセステート・タンゴ結成のためごっそり抜けた時、残ったメンバーはプグリエーセとペノンと歌手のアベル・コルドバだけだったそうだ。そこで楽団を再スタートさせようとペノンが集めた若いバンドネオン奏者がロドルフォ・メデーロス、ダニエル・ビネリ、ファン・ホセ・モサリーニだった。今思うとすごい顔触れだが、若いながらも音楽家としての主体性を持った彼らをまとめるのは大変だったようだ。3人集まるとピアソラやジャズ、ロックといった音楽の話ばかりでペノンは浮いていたらしい。実際メデーロスたちはドラムスやエレキ・ベースを入れたバンドを作ったりしていた。そんなことで、ペノンがプグリエーセに泣きつくとプグリエーセは「若い人にはやりたいようにやらせてやれ」とかえって面白がっていたそうだ。
 確かペノンはファン・カナロ楽団のメンバーとして、ごく早い時期に日本を訪れている。そんな彼がプグリエーセ楽団に入る直前、仲間から「今度、足で弾く楽団から誘いが来るよ」と言われていたらしい。それまでタンゴ楽団での経験もあるから結構自信を持ってプグリエーセ楽団に入ったが、ライヴの時などよくフリアン・プラサあたりから「ペノン、お前の音が聞こえないよ」といわれショックを受けたそうだ。当時のプグリエーセ楽団のバンドネオン・セクションはルジェーロ、プラサ、ビクトル・ラバジェンといった最強の時期だから、いかにすごかったか想像に難くない。日本にもこのメンバーで来日している。生でぜひ聴いてみたかった楽団の一つだ。

 シエテ楽団がペノンを日本に招いた時、何度かレッスンは受けていたが、その縁でブエノスに行き本格的にレッスンを受けることになった。ブエノスではホテルまで来て部屋で見てくれたり、部屋探しを手伝ってくれたりした。最初のレッスンの時ペノンは、「スケールなどは日本にいてもできるから、自分はブエノスでしか学べないタンゴの表現を教える」と言った。つまりそれはペノンが長く在籍したプグリエーセのスタイルということになるが、わたしもそれには全く異存はなかった。ベルナールのペノンの家は道路一本隔てて線路の脇にあり、タイルの敷かれた中庭にはアサード(アルゼンチン風ステーキ)の設備もある。庭の隅に3畳程の小屋があり音楽資料などが置かれていたが、そこでレッスンをすることもあった。レッスンの後は毎回のようにペノン夫人の手作りの菓子や茶が出されとても楽しみだった。その小屋にプグリエーセ楽団在籍時代に書いた編曲の下書きなどもあったが、わたしが特に好きだった「ロス・マレアドス」の譜面を見たときは感動した。ペノンはこの一曲の編曲と演奏だけでも偉大な人物だと思う。
 ルジェーロに比べると若干女性的で線は細いかもしれないが右手の最高音部などを軽やかに弾くテクニック、ジュンバに代表される激しいリズムやクラスターの表現、そして独特なフレージング等教わったことは多い。メキシコでの演奏を収めたビデオ「El Tango es una Historia」ではピアソラのキンテートと共にこうしたペノンの姿がかいま見られる。わたしが師事していた当時のペノンはアニバル・アリアスとのデュオやキルメス(同名のビールの工場がある)のオルケスタの監督、カナダでのクアルテート、ロマス・デ・サモラでのバンドネオン講師などが活動の場で、モサリーニがパリから帰って来たときはビネリたちと一緒に演奏することもあったようだ。

 レッスンの後などペノンは興が乗ると20分でも30分でも即興的にバンドネオンを弾いていることがあった。転調を伴ったいろいろな和声を弾き、それに合わせてメロディーを即興で作ってゆく。当時のわたしにとってはまだ到達できない世界だった。時折、地元のアマチュア音楽家が来ては自作のタンゴを披露して、ペノンに採譜してもらったり寸評してもらったりしていた。ドイツ人のバンドネオン演奏家・製作者のグッドイヤー?氏がアルゼンチン人の婚約者を連れて訪れたこともあった。彼はヨーロッパの民謡やタンゴを器用に弾いていた。ある時、「今日はフットボール(サッカー)を見に行くからレッスンは休み」だと言われ、連れて行ってもらったこともある。スタジアムでは偶然エルネスト・バッファ(バンドネオン奏者)に会い挨拶していた。レッスンのあとペノンに用事がある時、ついでだと行ってフロレンシオ・バレーラの家まで車で送ってくれることもあった。ただブエノス市内は怖いので車では行かないと言っていた。とりとめもなく多くのことを書いてきたが、亡くなったとの報を聞き、いろいろなことが思い出された。

アニバル・アリアス

 もう何度も述べてきたように、アリアスは本当に素晴しいギタリストだ。ソリストであると同時に最高の共演者で皆がアリアスとの演奏を望む。晩年のトロイロとの共演は印象深かったようで「変奏はもう、うまく弾けなかったが表現力はすごかった」と言っていた。
 サンテルモ地区(ブエノスの旧市外)のタンゲリア(タンゴを聞かせる店)に行った時、深夜そこでの1回目の演奏が終わると、ギターをケースにも入れずそのまま持って「もう1軒、近くで仕事があるから」と言って薄暗い通りに消えて行った。こんな大ベテランでもこうして仕事をしているのかとちょっぴりショックだった。ブエノスのベテラン演奏家はどんな曲でも覚えていて弾くが、アリアスがすごいところは共演者がどう弾いても呼吸でピタピタと合わせてくるところだ。これはなかなかまねできない。もちろんソロでも素晴しい演奏を聞かせるが、その場合ほとんどのアレンジは自分でしているとのこと。ブエノスにも若いギタリストは多いが、アリアスのような伝統からくる、深い「こく」を表現できる人は本当に貴重。奥様のオルガさんは素晴しい歌手だったが亡くなったと聞いた。こうしてベテラン音楽家が次々と亡くなるのはいかにも残念なことだ。

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サルガン(左)とウバルド・デ・リオ
オラシオ・サルガン

 現役の演奏家の中では最長老の部類に入る。もう80歳は越えているだろうが、その演奏は常に粋で軽やかだ。時折入る左手低音のフレーズがそのタンゴにどっしりとした感じを与えている。コリエンテス通りにある市立サン・マルティン劇場の1階ロビーで開かれた無料コンサートでのギター(ウバルド・デ・リオ)とのやりとりは絶妙だった。若者から年配まで床に直接座って聴いた約1時間はあっという間で拍手が鳴り止まなかった。クルブ・デル・ビーノで聴いたキンテート・レアルではマルコーニやアグリを従え名演奏。ラ・プラサで聴いたオルケスタ(バス・クラリネットが入っていた)もデュオの拡大版で基本はサルガンの音楽。これも躍動感に溢れ素晴しいものだった。

 考えてみると、プグリエーセにしてもピアソラにしても亡くなるまで演奏家としてのキャリアを捨ててはいない。彼等にとっては演奏することは何か特別なことではなく、おそらく呼吸みたいなもので生活の一部になっていたのだろう。それほど生きる上で不可欠なものだったのだ。消費の音楽がこれほど世界を席巻している現在、この姿勢は見習いたい。だがただ続けていれば良いというのではないだろう。人に聞かせるためには勿論内容が伴わなければならないからだ。







タンゴ5.演奏家(2)
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ビネリ(左)とウーゴ・ロメロ


ダニエル・ビネリ

 生演奏での最初の強烈な体験はダニエル・ビネリだった。ビネリはいつ、なにを弾いても神経の行き届いていない音が1音もないほど、演奏するときは常に集中している。私生活では出かけるとき鍵がないとよく探していたり、家族のことを話すときは本当に相好を崩して話すなど、そういう面もある人だが、音楽に関しては常に真摯な姿勢を持っている。ピアソラが最後に組織したセステートにフリオ・パネに代わって参加したが、やはりピアソラに対する思い入れは相当に強いものがあるようだ。その際も事前のリハーサルはほとんどなかったそうだが、ピアソラのレパートリーは普段から練習していて大体知っていたそうだ。ピアソラもトロイロ楽団に参加する時、ほとんどのレパートリーは弾けていたそうだから、このへんが凡庸なわたしとの差! セステートのツアーの時、バンドネオン用のアルミのハードケースをピアソラから貰ったと嬉しそうに話していた。直接、演奏について習ったことはないが、ピアソラと話しをしたり彼の演奏を聴いたりして学んだので、ピアソラは先生のようなものだと言っていた。

 ブエノスでは生徒を集めてバンドネオンだけのアンサンブルを組織したり、ウーゴ・ロメロ(ギター)とのデュオで小学校の生徒やその地域の人たちの集まりで演奏したり、またサンタ・フェ通りにできた新しいショッピング・センターの催しでは、オスバルド・レケーナ(ピアノ)、フェルナンド・スアレス・パス(バイオリン)のトリオで演奏するなど地道な活動もしていたが、近年はピアソラ作品の演奏にも意欲を燃やしているようだ。たしか昨年、ピアソラのバンドネオン協奏曲の演奏のために来日したが、テレビで見たその風貌は髪が白くなり大分変化していた。

オスバルド・ルジェーロ

 ルジェーロはプグリエーセ楽団のバンドネオン・セクションのスタイルを決定付けた人だ。ごく若い時期にプグリエーセによって第一バンドネオン奏者に抜擢された。他のメンバーは大反対だったらしいが、プグリエーセがいろいろ教えたらしい。タンゴの本を読むとアルフレード・ゴビ(バイオリン)のように自分が演奏しない楽器でもうまくタンゴのつぼを伝えられる人がいたようで、プグリエーセも若いころからマフィア(バンドネオン)などの演奏を直接知っていたから、バンドネオンの奏法も詳しかったのかもしれない(というよりデ・カロ以来のタンゴの表現?)。ペノンでもビネリでもルジェーロの名前を言うと息を吐き出しながら首を左右に振り、「ルジェーロは別格だ」と言うような顔をする。独特なスタッカートを非常に早いテンポで弾ききるテクニックは、指というより手首で弾いているようだ。その音ははじけ飛ぶようですさまじい。かと思うと大胆にルバートして旋律を歌ったり、ピアニシモで高音部を口笛のように華麗に弾いたりと表現の幅は広い。

 1度だけ知人の紹介でルジェーロ宅を訪問したことがある。「音楽だけで食べてこれたのは幸せだった」と言っていた。プグリエーセ楽団の給与はポイント制で作曲、編曲、ソロの有無などで各自の給与が決められていたそうだ。ルジェーロは第一バンドネオン奏者だし、作編曲もするから、リーダーのプグリエーセより給与が多いこともあったらしい。それを良しとしていたプグリエーセもすごいが、彼はそういうことには拘泥しない人なのだ。ルジェーロ以降、第一バンドネオンを受け持ったペノン、アルバレスたちは結局はルジェーロのスタイルを踏襲することになる。余談だがルジェーロは風貌のままの太くてドスのきいた良い声をしていた。もしあの声でタンゴを歌ったらとすごい歌手が誕生していたかもしれないが、彼ももう亡くなってしまった。
 
ロドルフォ・メデーロス
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メデーロス(アベジャネーダのタンゴ学校にて)

 ピアソラに影響されて音楽家としてのキャリアをスタートさせたメデーロスは、プグリエーセ楽団に在籍したとはいえ(ビネリたちの中ではビネリが最も長く約10年、メデーロスは比較的短期間)、当初から彼の目は未来を志向していたようだ。実際ドラムスなどを入れたオリジナル・バンドを結成していた。そんな彼が、2度目のブエノス滞在中に行ったコンサート(銀行の主催)では、生ギターを持った二人の若者を伴ってタンゴの有名曲を、目をつむりながら黙々と弾いていたので驚いたが、不思議な感動があった。メデーロスらしい多少モダンでちょっと洒落たアレンジだが、ラ・カチーラではジュンバのリズムで延々と即興するなど激しい部分もあった。ビネリに師事していた時、課題として与えられたバンドネオン・ソロの譜面はメデーロスのアレンジによるものが多かったが、バンドネオン奏者がアレンジしたものだから良く考えられた弾きやすいものだった。近年はアルゼンチン出身のピアニスト・指揮者のダニエル・バレンボイムのCDでも共演している。
 
メルセデス・ソーサ

 ソーサは演奏家ではなく歌い手だ。ユパンキのように曲をつくることはない。初めて彼女の歌を聴いた時、歌詞は全く分からなかったのに、その声質と表現力に圧倒され、それ以来未知の音源を見かけると必ず買うようにしている。南米の大地から湧いてきたような歌はいつ聴いても心に響く。本来はフォルクローレの歌い手だが、近年は若い音楽家の作品やタンゴにも領域を広げているようだ。

 コリエンテス通りの一番下(住所番号の少ない方)、ラ・プラタ川のドック寄りにあるルナ・パルク(体育館)で行われたコンサートでは、生ギターとパーカッション(ボンボを伴ったセット)のみの伴奏から始まり、バンドネオン(ワルテル・リオス)やキーボードが加わって、最後にはバレリア・リンチやフリア・センコなどアルゼンチンのポピュラー音楽界のスターを招く豪華な内容だった。この一部はCDに収録されている。それ以前1982年に録音されたテアトロ・オペラでのライブではメデーロスのバンドネオンのみの伴奏で「ロス・マレアドス」を歌っている。


無名な演奏家たち

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ガルデル(左)とレギサモも名人?
   ブエノスでは日本でも名前を聞くような有名な演奏家と共に、名も知らない演奏家も数多く聴いた。ブエノス市外のラヌースの深夜のダンス・ホールでは老バンドネオン奏者が自分の子供なのか中学生くらいの女の子(シンセサイザー)と男の子(エレキ・ギター)を引き連れ、シリアコ・オルティスのような渋いタンゴを聞かせていた。それが終わると老バンドネオン奏者はパーカッションに持ち変えて陽気なラテン・リズムの曲を演奏(すごい落差!)。その後に出てきたフォルクローレを演奏するギター二人の若者はものすごい早弾き。サンテルモの小さなカフェの隅で一人でバンドネオンを弾いていた老人。ビエホ・アルマセン近くのバー・スールでは調子外れのバンドネオンと鍵盤の戻らないピアノで何でも弾いてくれた、これも年配の演奏家たち。街角でも何人もの演奏家を見かけた。フロリダ通りで見かけた両足のないマルビーナス戦争の帰還兵がギターを弾きながら歌う叫びのような歌。カフェ・トルトーニでは若い歌手が何十人も出てきては自分のタンゴを歌った。こうした人たちもタンゴの歴史のどこかに位置するのだろう。彼等は今はいったいどうしているのだろうか?







タンゴ6.書籍、ビデオ
 《書籍》

「タンゴ100年史」/高場将美著

  タンゴを聴き始めたころ、タンゴの歴史やスタイルの変遷、音楽家、さらにアルゼンチンの歴史など基本的なことはこの本で学んだ。高場さんはタンゴに限らずフラメンコやブラジル音楽などに膨大な知識とそれ以上の愛情を持った人。語学力を生かして演奏家との親交も多い。   


「アルゼンチン・タンゴ アーティストとそのレコード」/大岩祥浩著
  タンゴの歴史的レコーディング、アーティストについてはこの本が詳しい。日本のコレクターの水準の高さと愛情の深さを示すものだろう。   


「タンゴ名曲辞典」/石川浩司編 
  タンゴの楽曲についてはこの本。自分で演奏する曲は必ずこの本で調べる。所どころ挿入されるブエノスについての記載も楽しい。石川さんには近著として「タンゴの歴史」もあり、こちらはタンゴの通史として現代まで視野に入れたバランスの良い構成で購読を勧めたい。


「アストル・ピアソラ闘うタンゴ」/斎藤充正著
  内容の緻密さは著者の思い入れの深さと地道なフィールドワークのたまもの。様々な売り方がされているピアソラの音源なので、この本がなければ途方に暮れるところ。


「エル・リブロ・デル・タンゴ(タンゴの本)」/オラシオ・フェレール
  著者はウルグアイ人でピアソラ作品の作詞者としても知られる。全3巻を積み重ねると週刊誌サイズで15〜16cmにもなる分厚い本。1巻目が歴史で2〜3巻目が人名辞典になっている。貴重な写真、イラストが多く見ているだけでも楽しい。ブエノスで購入したが帰りの荷物が多くなり持って帰れないので船便で送った。


「アサヒ・グラフ1987.6.1増刊 タンゴみる・きく・おどる」
  本格的にタンゴを聴くようになったころ、この入門的なこのグラビアもタンゴの広がりを教えてくれた。ブエノスにタンゴ博物館があると知ったのはこの雑誌で。行ってみたらサダイク(アルゼンチン著作権協会?)の建物の中のこじんまりとした一室だった。グラビア誌だけに写真が充実。


「中南米音楽」
  今はラティーナというラテン音楽専門誌が月刊誌として出版されているが、それ以前には中南米音楽という名の雑誌が出版されていた。タンゴ関係の記事も多く、名執筆者による記事やインタビューは非常に参考になった。ディスコグラフィーや楽譜が巻末に載ることもあり有用だった。わたしがブエノスに行って様々な情報を得られた理由の一つはこの雑誌によって多くの演奏家の名前を知っていたことが大きい。現在でも恵比寿にあるオフィスでは、アルゼンチンはじめ南米各国からの直輸入CD、ビデオ、楽譜、楽器などを扱っていて、同じく恵比寿にあるラティ−ナと共に中南米各国の文化の窓口となっている。


「住んでみたアルゼンチン」/棚田梓著
  これはタンゴとは直接関係はないが、ブエノス・アイレスに住んだ著者の経験談。読んでいると思わず膝を打つことばかり。ブエノスを知っている人も、これから行かれる人もブエノスっ子の精神がわかりそれが日本への新たな視点となって行くかも。
  


《ビデオ》

 わたしにピアソラの存在を教えたのはギターの師である高柳氏だったが、氏の勧めでタンゴの映画の上映会へ行ったことがある。もう随分前のことだ。その時上映されたのは確か1本の長編映画と2本の短編だったように思う。すべてモノクロだった。その短編のうち1本は先ごろビデオ化された「フエジェ・ケリード(愛しの蛇腹)」でもう1本はピアソラのドキュメンタリーだった。ブエノスでペノンに師事している時、これは素晴しい演奏だよと聞かせてくれたのが「フエジェ・ケリード」の音を入れたカセット・テープだった。今思うとペドロ・マフィア、ペドロ・ラウレンス、シリアコ・オルティスら往年の大名人のソロが聞ける大変貴重なものだが、知らないとは恐ろしいもので、当時ピアソラ以外はほとんどタンゴの知識がなかったわたしには、ただバンドネオン奏者がでてきて弾いているだけの退屈なものだった。もう1本はピアソラの活動のドキュメンタリーで、どこかの店のようなところでキンテートがリハーサルしている場面(たしかピアソラが指をならしてカウントを出していた)や、ピアノに向かって作曲している場面が映されていた。このシーンでピアソラはピアノの譜面台に置いた五線紙になにかを左手で書き込んでいたので、ピアソラは左利きなのだと思った。

 こうした貴重な映像はブエノスになら放送局などにたくさんあるはずだと思っていたら、最近になって「ザ・ベスト・オブ・タンゴ」というビデオがあいついで発売されている。この中では、変奏は弾いていないようだがトロイロの映像や、ダリエンソの指揮ぶりが見られるもの、エドムンド・リベーロがサルガンの伴奏で歌っているものなどが素晴しかったと思う。最初のブエノス滞在中、FMタンゴという24時間放送が始まり(テーマはパブロ・シーグレのグループが演奏していた)、1997年に行った時にはソロ・タンゴ(タンゴだけ)というテレビをやっていたが、そこからの画像らしい。

 ビデオといえばブエノスでプグリエーセ楽団の元第一バンドネオン奏者だったロベルト・アルバレス宅へいった時、オランダでピアソラと一緒に弾いたよという話しがでたので、「ヘェー、すごいねー」と感心していたら、実はビデオもあるんだというので見せてもらった。なんでも現地でテレビ放送されたものをダビングしてもらったとのこと。ピアソラのセステートとプグリエーセ楽団がそれぞれ登場し、最後に共演しているのだが、これを見たときには信じられず腰を抜かさんばかりだった。共演している「ラ・ジュンバ」と「アディオス・ノニーノ」の間でセステートのピアニスト、ヘラルド・ガンディーニが「ラ・ジュンバ」のテーマをモチーフに現代的な素晴しい演奏をしているのだが、その間プグリエーセは何が行われているのかときょろききょろしているのが面白い。この時の奇蹟的な共演の記録は現在CDとして発売されてるからお聞きになった方も多いだろうが、プグリエーセもピアソラも亡くなった今、とても感無量だ。

 不思議なのは数々の名演奏家の録音は多いが、夜な夜なあちこちで演奏されたであろうライブの録音は近年になるまでほとんどないことだ。それともブエノスのどこかには個人なり放送局なりに残っているのだろうか。チャーリ−・パーカ−を追っかけて彼のアドリブだけをライブ録音し続けたファンがいたが、そのような人物はアルゼンチンにはいなかったのだろうか。もしかしたら、ブエノスの人たちにとってはタンゴが毎晩演奏されることがあたりまえで、それを記録しようという意志もなく、意義も感じられなかったのかもしれない。

 近年、その人気からかピアソラ関係のビデオも続々と発売されている。ファンなら楽しんで見れば良いし、バンドネオンを弾く人は楽器を弾くという観点から見ればいろいろ発見が あるのではないだろうか。ただしピアソラは立ち上がって弾くし、小指もあまり使っていないように見える(残りの指でよくあの難しい運指をこなせるものだ)等、若干特殊かもしれない。ただ常に自分の音楽に自信を持って堂々としているピアソラの気骨は見習いたいものだ。




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