<ブルーハーツ論のページ>
「ザ・ブルーハーツ」というバンドが解散してからもう3年が経ち、もう彼らの存在は過去のものとな
りつつある。実際僕は「まだブルーハーツなんて聞いてるの?」などという事を友人に言われた事もあ
る。主要メンバーの甲本ヒロトと真島昌利はブルーハーツ解散後すぐに、「ザ・ハイロウズ」というバン
ドを結成して現在も活動を続けているが、はっきり言って人気はブルーハーツ全盛期に比べれば全然無
い。一般の評価では、「ブルーハーツなんてバンドは所詮流行の産物で、彼らはもう終わってしまった人
達」という事らしい。冗談じゃない、と思う。彼らの歌をそこら辺に転がっている軽い歌と一緒にしない
で欲しいと思う。しかし一方で彼らの歌が理解されないのもしようがないのかもしれないという気もす
る。彼らの歌は本当に他の歌とは一線を画す空前絶後のすごいものではあるのだけれど、そんなものが一
般の人間に簡単に理解されるわけが無いからだ。それどころかファンの人間達にだってほとんど理解され
ていないのかもしれない。僕だって本当に分かったのはつい最近になってからだ。だから僕はブルーハー
ツ論(ハイロウズ論)というものを書いてみようと思う。みんなに分かってもらう為に。(僕は今まであ
まり長文というものを書いた事がありませんので、途中読みにくい箇所が多々あるでしょうがご勘弁下さ
い。もう一つ、以下の本文で僕はしばしば彼ら、という言い方を使いますが、これはあくまで甲本ヒロト
と真島昌利の2人を指します。川口純之助と梶原徹也なんていうダサイ奴らは含みません。
結局のところ、ブルーハーツは「僕らは泣く為に生まれて来たわけじゃないよ」という事が言いたかっ
ただけなのだ。ではなぜそんな事を言わなければならなかったのかと言うと、それは「僕らは今泣いてい
るから」「負けそうになっているから」である。ではなぜ負けそうになって泣いていなければならなかっ
たのかと言うと、それはもちろん「幸せじゃないから」だ。ではなぜ幸せじゃないのかと言うと・・・・
ここからが問題だ。なぜ彼らは幸せじゃなかったのだろうか。一言で言ってしまうと、答えは「彼らは敏
感で誠実だったから」である。「敏感」で「誠実」だとか言っても、おそらく抽象的すぎてよく分からな
いだろう。一体何に「敏感」でどういう風に「誠実」だったのか。又々答えを一言で言ってしまうと「不
条理なこの世界(世の中)」に敏感で、誠実というのはこの言葉が一般に使われるのと同じ意味で(多分
)、「自分に正直」「嘘はつけない」という意味で誠実だったのだ。
話はふり出しに戻るが、一体なんだって「(不条理なこの世界に)敏感で誠実」だったら幸せじゃなく
なっちゃうのだろうか。それはもちろん、「不条理なこの世界に対して敏感」という事は、「常に全てが
うまく行くとは限らない」「うまくいかない事、どうしようも無い事がこの世の中にはたくさんある」と
いう事が分かってしまうという事だからである。ここで彼らが不誠実だったなら、まだ逃げ道はあっただ
ろう。「そんなの知らない」と見て見ぬフリをすれば良かったのだから。しかし「嘘がつけない」誠実な
彼らにそんな事が出来るわけが無かった。「知っている」のに「知らない」と言い、「分かっている」の
に「分からない」と言うなんて絶対に出来なかった。こうして彼らは袋小路に追いつめられていったので
ある。
敏感な彼らが一番最初に気付いた現実とは、「世の中が僕たちを受け入れてくれない」というものだっ
た。実際に彼らがいじめられっ子だったとか、不良で世間からさげすまれていたとか、そんな事は僕は知
らないし興味もない。問題はそんな事ではなく、彼らが「受け入れてくれない」と感じ、世の中というも
のが決定的に自分達を受け入れてくれるものではないのだという事を知ったという事である。(「自分
達」という言い方をしたが、)何も受け入れてもらえないのは彼らだけではない。敏感な人間なら自分が
世の中に(完全には)受け入れてもらえてなどいない事に気付いているだろう。世の中というものは、そ
こに住む人間を受け入れてくれるものなどではないのだ。だから彼らはそのような全ての人間に対して呼
びかける。「人にやさしく してもらえないんだね」と。「世の中に受けいれてもらえない」というの
は、とどのつまり、「人にやさしくしてもらえない」という事である。そして彼らはその後に次のように
続ける。「僕がいってやる でっかい声でいってやる ガンバレっていってやる 聞こえているかいガン
バレ!」世の中がガンバレって言ってくれないのならせめて僕がガンバレって言ってやる、と彼らは歌っ
ているのである。ここには彼らの、彼らと同じく全ての世の中に打ちのめされている人々への強い共感
と、そのような世の中に対する強い憎しみ・敵意といったものが感じられる。
「自分達を受け入れてくれない世の中」に対する彼らの敵意は、別な歌の中にしばしば更に明確な形を
とって表れる。ファースト・アルバム「THE BLUE HEARTS」所収の「パンク・ロック」では、最初にい
きなり、「吐き気がするだろ みんな嫌いだろ」という文句が飛び出してくる。自分達をとりかこむ世界
に対する嫌悪感というものを我々に訴えかけてきているのである。「お前達も(みんな)嫌いなんだろ」
と。この歌は、「僕 パンクロックが好きだ」という歌なのだが、なぜ彼らがパンクロックを好きなのか
というと、「ああ やさしいから好きなんだ」なのである。彼らにとって、やさしくしてくれない世の中
で、本当にやさしいものがパンクロックだったから、彼らはパンクロックが好きなのだ。(ここで勘違い
して欲しくないのは、あくまで「彼らにとって」だという事である。全ての人にとってパンクロックが本
当にやさしいものであるとは限らないからだ。たまたま彼らにとってパンクロックがそういうものであっ
たというに過ぎない。以上、蛇足。)又、セカンド・アルバム「ヤング・アンド・プリティー」所収の
「ロクデナシ」では、もっと明確な形を持ってくる。「ロクデナシ」の中で彼らは次のように歌うのであ
る。「おまえなんかどっちにしろ いてもいなくても おんなじ そんな事言う世界なら 僕はけりを入
れてやるよ」ここで特筆すべき点は、彼らは「僕がケリを入れてやるよ」と歌う事によって、世界を変え
ようとしていた、又は変えられると信じていた、という点である。さて、そんなところで話は次の段階に
進む---------。
3
セカンド・アルバム「ヤング・アンド・プリティー」の最後に「チェインギャング」という曲が収めら
れている。この曲は今までの曲とは傾向がはっきりと異なる。今までの曲は、基本的に「自分達を受け入
れてくれない世の中」「そのような世の中に打ちのめされている全ての人々」という、いわば外部に向か
って歌いかけているものであった。だからもちろん視点は外に向けられていた。それがこの「チェインギ
ャング」では初めて視点が内、即ち自分自身に向けられるのである。
「チェインギャング」という歌ははっきりと懺悔の歌である。敏感であったが為に世の中の持つ不条理
な面に気付いた彼らが、自らの持つ偽善的な面・不誠実な面に気付かないわけが無かった。そして誰より
も誠実な彼らがそれを見て見ぬフリをする事が出来るわけもなかった。従って、彼らが自分自身に視点を
向けるという事は、もう懺悔という事にしかならないのである。だからこの歌は「僕の話をきいてくれ
笑いとばしてもいいから」という言葉で始まるのである。
ここで問題となるのは、「なぜそんな彼らの個人的な懺悔が歌として成立するのか?」ということにつ
いてである。普通、歌というものは人に聴かせるものである以上、個人的なものでは無く普遍的なもので
なければならない(最近の歌はこれが分かってなくて個人的な体験をだらだら連ねているだけの歌が多い
が)。そして懺悔というのは完全に個人的なものである。では「チェインギャング」という歌は人に聴か
せられるような代物ではないのではないか、という事になる。もちろんそんな事は無いのだが、ではそれ
がなんでなのかというと、答えはもちろん「普遍的だから」だ。矛盾している事を言っているように聞こ
えるかもしれないが、つまり「『チェインギャング』という歌は個人的な懺悔という形をとりながら、中
身は全ての人間に通用する普遍的なものである」ということである。だからこの歌は最初に「それでも僕
は・・・」と歌っているのが最後には「生きているっていうことは・・・」という風に、「僕」という個
人の話から、「生きているということ」という普遍的な話につながっていくのである。さて、ここまで書
いて来て分かることは、「この歌には救いが無い」という事である。普通、懺悔というものはなぜするの
かというと、救われる為にするのである。更に言えば悔い改める事によってゆるしを得、そうする事によ
って救われる(又は罪の意識から自由になる)ためにするのである。「私は○○○という罪を犯してしま
いました。大変反省しています。もう2度とこんな事はいたしません。これからは悔い改めてまじめに生
きていきますのでどうかお許し下さい。」というのが普通の個人的な懺悔というものだ。しかし「チェイ
ンギャング」は先程述べたように個人的な懺悔ではなく普遍的な懺悔である。「全ての人間に通用する普
遍的な懺悔」というのがどういうものなのかというと、それは「全ての人間が犯している罪に対する懺
悔」ということになる。「全ての人間が犯している罪」とはなんなのかというと、それは「人間が生きて
いる以上絶対に犯してしまう罪、犯してしまっている罪」という事になるだろう。〔この「罪」はだから
非常に抽象的な言い方であって、普通には「罪」とは言わないようなものまでをも含む。(例えば、「一
人ぼっちが恐いから ハンパに成長してきた」という事である。)〕先程、「彼らが自らの持つ偽善的な
面、不誠実な面に気付かないわけはなかった」と言ったがこの「偽善的な面・不誠実な面」というのは、
全ての人間が生きていく以上抱えこまなければならない偽善的な面・不誠実な面という事である。だから
この「罪」は、悔い改めて以後はいたしません、というわけにはいかない。生きている以上犯し続けなけ
ればならないのは分かっているのだから。ここから救われる道は、「生きている事をやめる、即ち自殺す
る」か、「人間である事をやめる→人間を超えた聖者になる」のどちらかしかない。だから、この歌には
事実上救いが無い、と言ってしまっても良いであろう。「自殺すること」も「聖者になる事」も普通の生
きている人間にとっての救いとはなりえない。こうして彼らは自分自身に視点を向けた結果、救われる道
も無い袋小路に追いつめられていったのである。そして彼らは「チェルノブイリ」においてもう一つの袋
小路にも追いつめられていくのである。
4
「ロクデナシ」のところで僕が言った事をもう一度思い出して欲しい。「彼らは『僕がケリを入れてや
るよ』と歌う事によって、世界を変えようとしていた、又は変えられると信じていた」というところであ
る。「チェルノブイリ」という歌は、外に対してこのような姿勢を持っていた彼らが「チェルノブイリ原
発事故」という「どうしようもない現実、変えられない現実」に直面し、「変えられない世界もある」と
いう事を悟ってしまう歌なのである。そしてそこから逃げられずに袋小路に追いつめられてしまう歌なの
である。それでは一番の歌詞を引用してみよう。
「誰かが線を引きやがる 騒ぎのドサクサにまぎれ 誰かがオレを見張ってる 遠い空の彼方から チェ
ルノブイリには行きたくねえ あの娘を抱きしめていたい どこへ行っても同じことなのか」
「遠い空の彼方」から「オレ」を見張っている「誰か」とは、「チェルノブイリの人々」に他ならな
い。チェルノブイリの事故を知っていながら目をそらし、日本で平和に暮らしている人々に対する、チェ
ルノブイリの人々による、「オレ達はチェルノブイリでこんなに苦しんでいるのにおまえ達は無視して平
和に暮らしていられるのか、オレ達を助けに来てはくれないのか」という「声」である。「私はチェルノ
ブイリの人々から目をそらしてなんかいない。」と言われる方もおられるに違いないが、「目をそらさな
い」という事は、即ち、チェルノブイリに救援活動に出向くという事だ。日本で平和に暮らしながら、
「私はチェルノブイリの人々から目をそらしていない、彼らの事も考えてあげている」と言うのは偽善以
外の何者でもない。語弊が生じそうなので補足しよう。では日本でチェルノブイリの人々の為に活動(例
えば募金活動など)している人はどうなるのだ、彼らも偽善者なのか、という話も出て来る。そうでは無
い。彼らの活動自体は非常に良い事だ。どんどんやればいいと思う。問題は彼らの考え方だ。もし彼らが
「私はチェルノブイリの人々の為に働いているのだから私は善人だ。運動していない他の日本人よりも偉
いのだ」などと思っていたらその人は偽善者だ。運動をしていない一般人も彼らも自分の日常にしがみつ
いているという点では同じだからだ。もしも本当にチェルノブイリの人々を助けるというのであれば、自
分の日常・財産全てを投げ打たなくてはならない。ここまでして初めて「自分の出来る限りを尽くして彼
らを救おうとした」と言う事が出来るだろう。自分の身が可愛くて中途半端にしか彼らを救えないのにそ
れで「良い事をした」と言って満足しているのは偽善以外の何者でもない。(普通の)偽善者ではない誠
実な大人というものは、「彼らはかわいそうだけど自分の身の方が可愛いのだから救えないのは仕方が無
い」という、いわば自らの偽善性を自覚して、それを抱え込んだまま生きているのである。だから全ての
誠実な大人というものは、それを納得して自らの中に消化して生きているとはいうものの、絶対に解消さ
れ得ない悩みを抱え続けているのである。即ち、「オレ達だけ幸せになってもいいの?」という悩みを。
そして「チェルノブイリ」とはそういう悩みを歌った歌でもある(それだけではない)。「チェインギャ
ング」の所で言った、「全ての人間が生きていく以上抱えこまなければならない偽善的な面・不誠実な
面」というのはこれである。だから「チェルノブイリ」の一面は、「チェインギャング」という抽象的な
歌の一つの具体例であるという事も出来る。だから「チェルノブイリ」も「チェインギャング」と同じく
「救いの無い懺悔」だ。「チェルノブイリに行かなくてもいいのか」という問いかけに対して、彼らは答
えにならない答えを歌うしかなかったのである。「チェルノブイリには行きたくねえ あの娘を抱きしめ
ていたい」と。(本当にチェルノブイリに行く事が出来る人間を「聖者」というのである。)
さて、ここまでは「チェルノブイリ」の一面でしかない。先程も言ったがあくまでここまでは「チェイ
ンギャング」で歌っていたのと同じ事だ。重要なのはこの後である。「世界を変えられると信じていた彼
らは「チェルノブイリ」という「どうしようもない現実、変えられない現実」に直面し、そこから目をそ
らそうとした(そして目をそらせなかった)、という事は以上に述べたが、ここまでだと「どうしようも
無い現実、変えられない現実」というのはしょせん彼らにとって「外の現実」である「チェルノブイリ」
だけだという事になる。しかし、本当にそうなのだろうか。彼ら(我々)の住むこの現実は本当に変えら
れる世界なのだろうか。「チェルノブイリには行きたくねえ あの娘を抱きしめていたい」と歌った後、
彼らはこのように歌うのである。「どこへ行ってもおんなじ事なのか」と。「どこへ行っても、チェルノ
ブイリから目をそらして逃げたところで、この不条理な世界から逃れることは出来ないのか。どこまで行
ってもこの不条理な世界は我々を待ち受けているのか。」と彼らは歌っているのである。「もしかしたら
自分達の住むこの現実も変えられないのかもしれない。もしかしたら我々の行く手にもチェルノブイリと
同じような不条理な世界が待ち受けているのかもしれない」という事に彼らは気付いてしまったのであ
る。これは誰もが薄々気付いている事なのでは無かろうか。しかし普通の人は鈍感であったが為にここま
で明確に気付く事も無く、また不誠実であったが為に気付かないフリ、知らないフリをする事も出来た。
しかしあまりにも敏感で誠実であった彼らはそれに明確に気付いてしまい、そこから目をそらす事が出来
なかった。「そこから逃れられずに袋小路に追いつめられてしまう」というのはこういう事である。「も
う一つの袋小路」とはこれの事である。そして、完全に袋小路に追いつめられながらも彼らはとりあえず
目の前の不条理な世界から逃げ出そうとして、「チェルノブイリには行きたくねえ」と繰り返し歌うので
ある。「チェルノブイリ」とは、このように2つの袋小路に完全に追いつめられた彼らの悲痛な叫びなの
である。最後にこの歌で一番重要な歌詞を引用したいと思う。
「東の街に雨が降る 西の街にも雨が降る 北の海にも雨が降る 南の島にも雨が降る」
ここまで来ると、もう彼らは絶対に幸せになれない、と考えるのが普通であろう。後はつぶれるだけ、
というかもうつぶれてるんじゃないのか、という気さえする。しかしそうでは無いのだ。彼らが真に偉大
なのはここからなのだ。ここで先回りして結論を言ってしまえば、彼らが偉大なのは、この救われる道の
ないはずの袋小路から、救いの道を作り出してしまった、というところにあるのである。そしてこの袋小
路から脱出しようとする試み、救いの道を作りだそうとする闘いの第一歩が、ブルーハーツの代表作とも
言われる「TRAIN-TRAIN」なのである。
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[TRAIN-TRAIN」は、「チェインギャング」が収められている2ndアルバム「ヤング・アンド・プリティ
ー」に続く3ndアルバムのタイトルでもあり、タイトルは忘れたがドラマ(映画?)の主題歌にもなっ
て、シングルカットされて大ヒットした曲である。一世を風靡した曲なので、「栄光に向かって走る あ
の列車に乗ってゆこう」というフレーズを誰でも一度は耳にした事があるだろう。ブルーハーツの中では
「情熱の薔薇」に継ぐヒット曲なのではないだろうか。(ちなみに、このブルーハーツ論には「情熱の薔
薇」は出て来ません。「情熱の薔薇」はそれはそれで傑作だとは思いますが、この曲が彼らの本流だとは
僕は考えません。支流だと考えます。このブルーハーツ論はあくまで彼らの本流についての記述であり、
支流には触れません。それをやり出すときりが無いので。)大体ファンでは無い人間と話をすると、知っ
ているのは「情熱の薔薇」と「TRAIN-TRAIN」、そしてせいぜい「リンダリンダ」ぐらいのものだ。「ブ
ルーハーツは『TRAIN-TRAIN』までだよねー。」なんていう「元ファン」の声も聞いた事がある。どうや
ら一般の評価ではブルーハーツというのは「TRAIN-TRAIN」と「情熱の薔薇」で終わってしまったバンド
らしい。いかに彼らが理解されていないかが分かる。そして悲しい事にハイロウズなんて名前も知らない
人も多い。話がそれてしまったので本題に戻ろう。
「TRAIN-TRAIN」は彼らが「チェルノブイリ」において追いつめられた袋小路から救いの道を作り出そ
うとした最初の闘いである、という事は既に言った。では実際に彼らは「TRAIN-TRAIN」で何をやろうと
したのかと言うと、彼らは「世界を改めて捉えなおそうとした」のである。これではあまりに漠然として
いるのでもっと具体的に言ってみよう。彼らは、不条理な世界をそのままに認め、受けとめようとした、
のである。彼らは「チェルノブイリ」で直面した不条理な世界というものに対して、目をそむけて逃げよ
うとするのでもなく、不誠実に戦おうという姿勢を示すのでもなく(ここで戦おうという姿勢を示すのが
何故不誠実なのかというと、もはや不条理な世界というのは頑として存在しており、戦ってもかなわない
事、どうしようも無い事が分かってしまっているからだ。この状況で戦う姿勢を見せるというのは、嘘の
ポーズでしか無い。)、ただただ誠実にそれを受け止めようとしたのだ。ここで強調しておきたいのは、
これは大人の諦念とは無縁のものであるという事だ。悟り顔の大人が口にする「所詮世の中なんてこんな
ものさ」なんていうのとは全く違う(というか正反対だ)。これはあくまで肯定的に世界を捉えなおそう
とする闘いなのである。歌詞を引用するとこういう事である------
「ここは天国じゃないんだ かといって地獄でもない いい奴ばかりじゃないけど 悪い奴ばかりでも
ない」
「TRAIN-TRAIN」で彼らが肯定的に捉えなおそうとした「不条理な世界」というのは、彼らの外の現実
をのみさすわけではない。彼ら自身をも含む。「TRAIN-TRAIN」で彼らは、自らの抱える不条理性、偽善
的で不誠実な自分自身をも肯定しようとするのである------
「土砂降りの痛みの中を傘もささずず走っていく 嫌らしさも汚らしさも剥き出しにして走ってく 聖
者になんかなれないよ だけど生きてる方がいい だから僕は歌うんだよ 精一杯でかい声で」
そしてこの「TRAIN-TRAIN」で始まった闘いは、4thアルバム「BUST WASTE HIP」・5thアルバム
「HIGH KICKS」を経て、6thアルバム「STICK OUT」に収められた(後にシングルカットされる)「旅
人」によって結実するのである。「TRAIN-TRAIN」の歌詞で言えば、栄光に向かって走る列車は遂に栄光
にたどり着いたのである。だから「STICK OUT」からはもう既にハイロウズなのだ、と言ってもいいと思
う。
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「旅人」について述べる前に少し寄り道をしたい。「TOO MUCH PAIN」についてである。「TOO
MUCH PAIN」はブルーハーツ結成以前にもう既に出来ていたという位古い歌で、初期からライブでは歌わ
れていたらしいのだが、何故かずっとシングルにもならずアルバムにもずっと収録されずにいた。それが
何故か5thアルバム「HIGH KICKS」になって収録されたのである。なぜずっと収録せずにいたものを5枚
目のアルバムにいきなり収録したのだろうか。大した意味は無いのかもしれないが、僕にはかなり意味あ
りげに見える。「TOO MUCH PAIN」がずっとアルバムにもシングルにも収められなかったのは、この曲が
大した出来では無かったからというわけではあるまい。この曲はファンの間でも評判の高い名曲である。
CD化を望む声も高かったろうと思われる。逆にこの曲は彼らにとってかなり思い入れの強い曲なのだろ
う。だからいつCD化するか機会を伺っていたのだろうと思う。問題はなぜ5枚目の「HIGH KICKS」に入
れたのかという事である。僕の考えを言わせてもらうと、彼らは「TOO MUCH PAIN」を「HIGH KICKS」
に収録する事によって、6th「STICK OUT」に行く前に区切りを付けようとしたのではないだろうか。後
にもう一度述べるが、6thアルバム「STICK OUT」からは、それまでブルーハーツが持っていた湿っぽさ
というものが無くなり、全体的にカラッと晴れたイメージを与える。そして「TOO MUCH PAIN」はタイト
ル通りに湿っぽい歌だ。湿っぽさという言い方がおかしければ、痛み、と言ってもよい。彼らは、
「STICK OUT」という痛みの無い世界に進む前に、今まで自分達が抱えていた痛みに直面し、それと縁を
切る為にこの歌を改めて歌ったのではないだろうか。「TOO MUCH PAIN」という曲は、彼らがデビューか
ら「HIGH KICKS」に至るまでずっと抱えていた痛みの象徴、もっと言ってしまえば痛みをずっと抱えて
いた彼ら自身の象徴なのではないだろうか。そしてこの歌はそこから前に進もうとする歌である。痛みに
うちひしがれてうずくまっている自分達を慰める歌ではない。むしろ逆に、そういう自分達に別れを告げ
ようとする歌である。だから、彼らは、「TOO MUCH PAIN」という歌を本当に歌えるようになりたくて歌
を歌い続けてきたのかもしれない、そしてやっと本当に歌えるようになったからCDに入れたのではないの
だろうか、と僕には思えるのである。それでは本筋に戻る。
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「プルトニウムの風に 吹かれてゆこう------」これが「旅人」という歌の全てである。彼らが遂にたど
り着いた「栄光」とはこれの事である。さてではこれはどういう「栄光」で、どういう「境地」なのだろ
うか。
「旅人」は「TRAIN-TRAIN」で始まった闘いのゴールである。この事は既に言った。そして
「TRAIN-TRAIN」で始まった闘いとはどのような闘いだったのかというと、それは「肯定的に世界を捉え
なおそうとする闘い」なのだという事も既に言った。という事はどういう事なのかというと、「『旅人』
は肯定的に世界を捉えなおす事に、完全に成功した曲である」という事である。そしてそれを一言で言い
表すのが「プルトニウムの風に 吹かれてゆこう」なのである。
「肯定的に世界を捉えなおす」とは、どういう事だったろうか。それは「不条理な世界をそのままに認
め、受け止める」事である。「プルトニウム」とはもちろんあの原発のプルトニウムの事であり、これは
「チェルノブイリ」を連想させる。「プルトニウムの風」というのは「チェルノブイリ」において歌われ
た「不条理な世界」の象徴である。だから「プルトニウムの風に吹かれてゆこう」とは、「不条理な世界
を受け止めて行こう」という事なのである。
しかしまだ漠然としていて良く分からない。「不条理な世界を受け止める」とは一体どういう事なのだ
ろうか。それはこういう事である。以下に「旅人」3番の歌詞を引用する------。
「世界のてっぺんに辿り着けるぜ アイデアたっぷりやり方バッチリ 強烈なインパクト第一印象で
みんな幸せになっちゃうような 旅人よ 計画通りにいかないことがたくさんある プルトニウムの風に
吹かれていこう」
つまり「不条理な世界を受け止める」という事は、「計画通りにいかないことがたくさんある」にも関
わらず、「世界のてっぺんに辿り着けるぜ」という事なのだ。繰り返しになるが、「不条理な世界を受け
止める」とは、「不条理な世界に打ちひしがれる」事では絶対に無い。打ちひしがれて負ける事では無
く、受け止めて勝つ事である。そして「勝つ」という事は「世界のてっぺんに辿り着ける」という事であ
る。
「不条理」という言葉は「条理」の反対語で、「条理ではない」という意味である。そして人は不条理
な世界というものに直面した時、それが条理では無いから苦しむ。「なんでそうなるの!?」と言って。
彼らが「チェルノブイリ」で言っていた事とは、「どこで何をやっても、『なんでそうなるの!?』って
言わなきゃなんない破目に陥るのは避けられないの?」という事だ。さてそれでは「不条理な世界」をそ
のまま「不条理な世界」として認め受け入れた時、それはどうなるのか?「不条理な世界」は「『不条理
な世界』という条理な世界」に変わるのである!これが、彼らが「旅人」でやった事である。
もう「不条理な世界」は「条理な世界」でしか無い。だからそこには、「不条理な世界に直面した時に
生じる苦しみや痛み、悩み」などと言ったものは存在しない。「計画通りにいかないこと」はたくさんあ
るけれども、そこで苦しんだり悩んだりする事は一切無い。だから後は「世界のてっぺんに 辿り着く」
だけだ。
この「旅人」が収められている6thアルバム「STICK OUT」から、それまで彼らが持っていた湿っぽさ
が無くなった理由はもうお分かり頂けたであろう。「旅人」では「不条理な世界」を「プルトニウムの
風」という言葉によって表現したが(これは先程も言ったが、「チェルノブイリ」に対応してこういう表
現になったのである)、同じく「STICK OUT」所収の「1000のバイオリン」では「不条理な世界」は
次のように表現される。
「揺篭から墓場まで馬鹿野郎がついて回る 1000のバイオリンが響く 道なき道をブッ飛ばす」
「1000のバイオリン」においては、「不条理な世界」などというものはもう既にただの「馬鹿野
郎」でしか無くなっているのである。そしてザ・ハイロウズの2ndシングル「スーパーソニックジェット
ボーイ」では、だからスーパーソニックジェットボーイは「俺には悩みなんかない」と歌うのである。
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さて、ここで一つ疑問が投げかけられる事と思われる。「ではこのような境地に達した彼らは本当に不
条理な世界を受け止める事が出来るのか、もう彼らはどのような目にあっても悩みなんかなく笑っていら
れるのか、そして彼らの歌を聞いて理解した人間もそうなるのか」という疑問が。そうではない。僕は辛
い目にあえば辛いと思うし、悩みもたくさんある。僕は彼らの単なる一ファンであって実際に会った事も
話した事も無いが、それは彼らも変わらないだろう。人間はあくまでも不条理な世界の中で生きているの
であって、不条理な世界を本当の意味で条理な世界として捉えなおす事は人間には不可能なのだ。「旅
人」から言って来た事を全て引っ繰り返してしまったように聞こえるかもしれない。じゃあ彼らが「旅
人」で歌った事は何の意味もないではないか、と言われそうである。しかしそうでは無いのだ。「旅人」
で彼らがやった事を正確に言うと、「『不条理な世界は受け止める事も出来る』という概念を発明した」
である。(ひょっとしたら「概念」という言い方はおかしいのかもしれないのだが、僕にはこの表現しか
思いつかないのでこれを使わせてもらう。)だから「旅人」の「旅人よ------」という呼びかけは、彼らか
ら他の人間に対する呼びかけなのではなくて、彼らを含む全ての不条理な世界に苦しむ人間に対する「概
念」からの呼びかけである。そしてこれがもっと明確な形をとったのが「スーパーソニックジェットボー
イ」である。「スーパーソニックジェットボーイ」は、いわば「概念」の擬人化である。だから彼は「俺
には悩みなんかない」と歌い、そして「どうでもいいじゃないか そんな事はどうでも」と全ての人間に
対して呼びかけるのである。そして「スーパーソニックジェットボーイ」は「日曜日よりの使者」であ
る、という事も出来る。
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「日曜日よりの使者」はハイロウズの1stアルバム「ザ・ハイロウズ」の最後に収録されている曲で、お
そらくハイロウズの頂点ともいうべき作品である。「日曜日よりの使者」も「スーパーソニックジェット
ボーイ」と同じく「概念」の擬人化であるがしかし「日曜日よりの使者」はより本質的な存在である。そ
れはどのような存在なのかと言うと、「たとえば世界中がどしゃ降りの雨だろうと ゲラゲラ笑える日曜
日よりの使者」なのである。日曜日よりの使者はもうスーパーソニックジェットボーイのように呼びかけ
る事さえもしない。ただそこに存在しているだけだ。「概念」というものは本質的にはただそこに存在し
ているだけのものなのである。
人間は生きている限り不条理な世界から逃れる事は出来ない。不条理な現実に直面し、苦しみながら生
きていくのが人間の宿命である。しかしそのような全ての人間達に対し、スーパーソニックジェットボー
イが「どうでもいいじゃないか」と呼びかけてくれる事、もっと本質的にはただ日曜日よりの使者がそこ
に存在してゲラゲラ笑っていてくれるだけで、人は救われるのだ。人はそのような「概念」の存在に気付
く時、自分の抱える重荷がふっと軽くなり、癒される思いがする事だろう。
これでこのブルーハーツ論は終わります。細かいところでは言い残した事はたくさんあるけれども、そ
れをやっていたらきりがないので。とりあえず本質は全部言い切ったつもりです。これで分からなければ
後は実際に聞いて考えてみて下さい。そして最後に付け加えると、彼らが現在直面している最大の問題
は、僕がここまで書いて来た事をほとんどの人間が理解していないという事なのかもしれません。だから
彼らは2ndアルバム「タイガーモービル」からシングル・カットされた「Happy Go Lucky」では「君の目
には銀河が輝きあふれてる 君が救われないんなら 世界中救われないよ」という呼びかけをし、そして
そのB面の「俺のジャマをするな」では「俺のスゴさは理解できない」と歌っているのではないのでしょう
か。
<歌詞引用曲名リスト>
1.未来は僕らの手の中 7.TRAIN-TRAIN
2.人にやさしく 8.TOO MUCH PAIN
3.パンク・ロック 9.旅人
4.ロクデナシ 10.スーパーソニックジェットボーイ
5.チェインギャング 11.日曜日よりの使者
6.チェルノブイリ
脱稿日 1998年9月20日