人と動物の違いをあげろと言われたとき、その一つとして言語というものがある。
よくイルカは言葉を使ってやりとりをしていると言われているがやはり言語とはちょっと違うような気もしないでもない。
人間は言葉があるから物を考えることができ、記憶(記録)することができ、よって進化(発展)できたというのは結構有名な説だ。そう、人は何かを考えるときは言葉を使う。そして言葉で表せないことは考えることができない。
言葉というのは抽象的だ。”りんご”という言葉があるけどこれでは赤いのか緑なのか、大きいのか小さいのかわからない。それ全て含めていわゆる”りんご”なのだ。これに対して具体的とはそのまま物をもってくればいい。色も大きさも何もかもそれ唯一のものを認識できる。
この抽象的さも言葉の優れていることの一つかもしれない。また具体的でないものも表すことがひどく簡単だ。例えば”大きくない”という言葉。具体的なモノで表すのはひどく困難だけど、言葉でいえばイメージというかすぐに認識はできる。
しかし何故人だけが言葉を使えるのだろう?こういったことは全て脳によって電気信号によって神経パルスによって実現されているはずである。なら脳を持つ動物でも言語体系を取得していてもそんなに疑問はない。それとも人が動物の言語に気づいてないだけなんだろうか?
言葉の生得説と環境説ってものがある。人はもともとその脳(もしくは遺伝子)に言語を使える下地ができていて、言語を習得するのは必然であるという生得説。それとは逆に、子は周りが言葉を使っているのを聞いてそれを模倣しているんじゃないかという環境説。
これだけ聞くと、そりゃあ環境説が正しいだろうと思えるけれど、しかしそれにしては赤ん坊が言葉を操るのを覚えるのがすごく早いことになる。他の脳活動に比べ言葉を使えるようになるということはその複雑さにも関わらず、早い段階で取得できているのだ。しかも言葉というのは完全な模倣ではなく、赤ん坊は文法を使って話している。ちゃんと理解して話しができているのだ。
しかしやはり生得説だけでは説明できないこともある。例えばオオカミに育てられた少女らは、言葉を使えていないし、日本人を例にあげれば英語の取得が非常に不得意だ。
まぁ完全にどっちの説をとるということではなく、ミックスさせればいいのかもしれない。
人はそもそも言語を使える脳構成があり、それに周りからの言語の入力をともなってどんどん言語が形作られているのかもしれない。
ここからは蛇足的余談。
言語態勢というのは刻一刻と変化している。老人たちは今の言葉を乱れている、汚い言葉だとよく言う。いわゆる「超」だの語尾をあげるだのといった典型的なことから、ら抜き言葉や敬語の使い方などなど・・・。しかし何をもって汚いなどと言うのか。まぁこれは例の「最近の若者は・・・」という古代文明から続けられている人の概念の一つかもしれない。誰も基本的には自分を中心として考えているから、それとは違った極度の例外は認めたくないのかもしれない。
なんにせよ、言葉とは人のアイデンティティーの一つであり、シンプルながらも重要なものだ。
(しかし今回もまた文構成、主旨が相変わらず支離滅裂なところも言葉の難しいところ、ということにしておこう・・・・(q))