伝説の地を訪ねて

―タール寺、日月山、青海湖―

1995年8月14日〜15日


   第一回ジャンシャル村旅行記の後日談です。もう四、五年も前のことでたいした写真もないのですが、せっかく周辺地図に青海湖が載っているので、伝説なども織り交ぜて“タール寺・青海湖篇”を作ってみました。


周辺地図


アムドの名刹タール寺


   青海省の省都、西寧から車で約四十分ほどのところに忽然と現れるのがこの大寺院とその門前町。さして広くない道の両側に民族服やチベット族の装飾品、日用品を売る店や、お寺の飾り物を並べている店があったりして突然チベット世界に迷い込んだ感があります。 けっこう大きなストゥーパが八つも並んで
   お寺の入り口近くには八基の石の宝塔が並んでいて、あたりは修復工事中のため石畳が掘り起こされていたりで雑然とした感じでした。

   チベット仏教ゲルク派の六大寺院の一つであり、その創始者ツォンカパ(1357〜1419)を記念するタール寺が内外に公開されたのは1983年のこと。中国の近代史上最大の汚点となったプロレタリア文化大革命は、多くの世界的文化遺産を灰と瓦礫の山にしてしまいましたが、ここもその被害を免れることなく徹底的に破壊し尽くされたのでした。大々的な修復工事は1991年から4千300万元の総工費を投じて開始され、わたしたちが訪れた時はまだ随所で工事に関わる人々が石材などを三輪車で運んでいました。 さすが観光寺!きれいなチケット

   トゥプテンがどこからか都合してきてくれたチケットで、美しく彩色された立派な建物の脇を通りぬけて行きます。この建物の玄関口には、金文字で“塔尓寺管理委員会”と書かれた黒漆の衝立がありました。“管理委員会”なんていかにも共産中国らしいネーミングですが、観光スポットの大きなお寺ならどこでも見かけます。

   タール寺で一番目立つのは、屋上に金の唐屋根を載せた小金瓦殿大金瓦殿でしょう。だいたいチベット仏教の大寺院にはこの種のお堂がつきもののようで、伽藍の中でも最も重要な地位を占めているようです。 大金瓦殿の中心、乾隆帝直筆の扁額とツォンカパの宝塔が収められた厨子
   大金瓦殿はまさしくタール寺の本堂とでも言うべきお堂で、その中にはツォンカパの宝塔が収められています。清の乾隆帝(1711〜1799)もすすんでこのお寺の拡張工事を行いました。宝塔が収められた厨子の上に掛かる扁額は彼の親筆だとか…。
   わたしたちが中を拝観している間にも、五体投地しながら大きな幅広のカタを捧げるチベット族巡礼者があとを絶ちませんでした。 大金瓦殿内のツォンカパ像

   ところで、ツォンカパその人については、“母親が彼を身ごもった時に不思議な夢を見た”というお話があります。“夢のお告げ”は“聖なる人”の誕生には不可欠なもののようです。“中観哲学”という凡人にはなかなかわかり難い“ものの見方”を説いて、当時倦怠気味のチベット仏教界に新風を吹き込んだのですから、やはり智慧のシンボル文殊菩薩の化身とされるに相応しい方だったのでしょう。

   さてタール寺の“三絶”と言われる物は何だかご存知ですか? “三絶”なんてよく中国の人が観光地を紹介するのに使う言い方みたいですが、要するに最も際立っている“ベスト3”ということです。まずすぐ思い浮かぶのは“酥油花(スーヨウホァ)”でしょう。これはきれいに彩色したヤクバターで作った細工物で、仏像や花はもとより人物や建物など細部まで細かくとてもバター細工とは思えないほどの出来映えですが、これを収めたお堂の中に入るとやはり、ぷーんと甘いバターの香りが鼻をつきます。これは年に一度のお祭りの時(旧暦の1月15日)に毎年作りかえるお供え物なのですが、いまでは見世物になってしまったというわけです。 参道から大金瓦殿の屋根(中央)を望む
   あとの二つは、それぞれ“壁画”と“堆繍”だそうです。“堆繍”とは、“立体的アップリケで描いた絵”とでも言うのでしょうか、残念ながらわたしはこの二つを意識して目にすることはありませんでした。それにもともとの“壁画”は破壊されてしまったわけですし…。

   ところで、チベットの人たちにとって何より大切なのは、ここがツォンカパの生誕地であるということでしょう。大伽藍の前身はツォンカパのお母さんが建てたというストゥーパだったのです。なんと慎ましいお話ではありませんか!



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日月山と文成公主


   翌日、タール寺まで行ってもらったタクシーの運転手さんに頼んで、日帰りで青海湖を半周することにしました。 文成公主を記念する日月亭
   早朝6時半に西寧を出発して、渓流沿いに走りつづけることしばらく、ゆるやかな草原地帯に入るとそのうち彼方にお椀を仲良くならべて伏せたような双子の丘が見えてきます。これが日月山と呼ばれる峠です。近づくにつれてそれぞれの丘の上にある亭もはっきり見えてきます。

   中国の歴代王朝の中で最も国際的で開放的な文化を謳歌した唐の時代、この峠は吐蕃(トゥボ)と呼ばれたチベット王国との国境でした。この国のソンツェンガンポという王さまは13歳ですでに文武に通じ、15歳で亡き父王のあとをついで王位にのぼり、当時小国に分かれて争っていたチベットを統一し強大な王国を築いたのでした。 ポタラ宮にのこるソンツェンガンポ王の塑像
   いかに隆盛を誇っていた大唐といえどもチベット王国の武力を前にしては平和外交の路線を取らざるをえませんでしたが、一方、ソンツェンガンポ王のほうでも当時最も進んでいた唐の文化を学びたいという気持ちがありました。こうして両者は縁戚関係を結ぶことになったのです。
   唐の皇帝のもとへガル・ドンツェンという宰相が派遣され、数年後にこの縁談はめでたくまとまりました。

   宰相ガル・ドンツェンは公主(皇帝の娘のこと)を王の妃として迎えるためにいくつかの難問を課されましたが、その英知によってことごとくそれらを解きあかし唐の皇帝を喜ばせたと言われています。このお話は彼の英明さを伝えているとともに、唐王朝がいかに人選に苦慮したかを物語っているようでもあります。
   チベットといえば今でさえ“神秘のベールに包まれた雪の国”、“別世界”というイメージがあるほどです。中華以外はすべて蛮族の地と考えていた人々にとって、そんな地の果てで生涯生活するということは想像を絶することであったに違いありません。しかも唐とチベット王国の間に平和を取り持つという大役を担うのです。身分はもとよりのこと、才知、人品、容貌のいずれも欠けることは許されなかったでしょう。 文成公主の輿入れ(ポタラ宮壁画)
   白羽の矢を立てられたのは皇室に連なる16歳の姫君でした。彼女は皇帝から“公主”に封じられ“文成公主”という名を与えられて、遠い遠いチベットの地へと嫁いで行くことになりました。641年のことです。

   唐の都長安からチベットの都ラサまで、気の遠くなるような旅路です。豪華な輿入れの品々を連ねた花嫁の行列が彼女の生まれ育った唐の国とチベット王国を分かつ峠にさしかかると、公主は「輿をとめさせ最後の別れを告げた」と伝説は伝えています。
   その時、公主はさすがに自身の身の上を思うあまり涙がとめどなく溢れてきました。「これを覗けば故郷が映る」と言われて皇帝から賜った宝鏡を取り出しましたが、彼女は敢えて「その鏡を落として割った」と伝えられています。その宝鏡の名を日月鏡といったので、後にこの地が日月山と呼ばれるようになったというのです。またある言い伝えでは、取り出した鏡がすりかえられた偽物であると知った公主が、「怒りのあまりそれを叩き割った」と言います。いずれにしても彼女は鏡を割ったのです。そこには毅然とした決別の態度が感じられるようで実に興味深いものがあります。

   行列がラサに到着するまでに二年の歳月を要しました。ソンツェンガンボ王は途中まで迎えに出向き、そこで盛大な婚礼を挙げたということです。時に643年、このとき王はすでに29歳でした。しかし蜜月も長くは続かず、その六年後に王は他界します。 ポタラ宮内の文成公主塑像
   若くして寡婦になってしまった文成公主は、先に嫁いでいたネパールのティツィン王女とよく協力してチベットに仏の教えを広めることに尽力したということです。ラサの中心に建つ大昭寺(ジョカン)は二人の王妃によって建てられたもので、本尊の釈迦牟尼仏は公主が唐から伝えたものと言われています。文成公主は終生故郷に帰ることなく、680年、異郷ラサの地でその生涯を閉じました。
   チベットに平和と仏の教えをもたらした二人の王妃は、今でもチベットの人々から観音菩薩の分身であるターラー菩薩の化身として崇められています。


   余談ですが、チベット側の資料から察して、文成公主が嫁したのはソンツェン・ガンポ王ではなく、その子クンソン・クンツェンであるという説もあります。山口瑞鳳先生によれば、“ソンツェン・ガンポ王の生年は581年で、593年に暗殺された父王のあとを継いで即位し、638年には息子クンツェンに譲位したが七年後の643年にクンツェンが早逝すると再度王位に着き、当地の習慣に従って寡婦となった文成公主を妻とし、649年に没した”というのです。
   いずれにしても、国と国との平和のために捧げられた彼女の生涯はけっして平穏幸福なものであったとは言い難く、ひたすら仏教に帰依したという彼女の姿からもその片鱗が窺えるような気がします。



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青い海の湖


   霧にけぶる日月山を下るときれいな舗装道路がどこまでも延々と続きます。これが、ゴルムドを経てタングラ山の麓を通りチベット自治区のラサへと到る青藏公路です。文成公主の輿入れ行列も同じ道を辿ったのでしょうか?
   彼女の嘆きがその流れを変えたと伝えられる倒淌河(ダオタンホー)を渡ると、左右は一面緑の草原、羊や馬たちが思い思いに遊んでいる牧歌的な風景が広がります。彼方に白く輝いているのが“青い海”と呼ばれる青海湖です。

   ソンツェンガンボ王が統一したチベット王国もその200年の後には衰退し、やがて再び小国に分裂していきました。その後、北にあった草原の民モンゴルが勢力を拡大し、このあたりはその支配下に入ります。“緑の海原”を馬でどこまでも自由に駆け巡った彼らにとってこの巨大な湖はまさしく“ココノール”(モンゴル語で“青い海”の意)と呼ぶにふさわしかったのでしょう。
   時は移り時代は下って草原の覇者モンゴルの世界帝国も夢と消え失せましたが、“青い海”は相変らず満々と湛えた水を静かに波立たせながら見守ってきました。
   遥かなる雪の国から尊い“囚人”が護送されてきたときも、その青く静かな湖面を風にうち震わせていたのでしょうか? 黄と紅の衣に身を包み、観音菩薩の生まれ変わりとして人々から崇敬を受けたその人は、この“青い海”の辺で「姿を消した」と伝説は伝えています。もしかすると、白い翼をもった渡り鳥になってその心に望む地へと飛んで行ったのかもしれません。

興味のある方は《The Wind frm TIBET》に掲載した拙文
《ダラオ・ラマ六世によせて》をご覧ください。

   青海湖の南岸を辿りながらわたしたちは鳥島に行ってみました。すでに八月だったのでほとんどの渡り鳥は飛び去った後でしたが、黒い鵜のような鳥がまだ十数羽、旅立ちの時を見計らっているように島の周囲を飛び回っていました。近くでは穴ウサギ(?)があっちの穴からこっちの穴へと飛び移りながら遊んでおり、まさに自然の宝庫といった感じです。

鳥島をバックに

   湖面を揺らす風の音を遠くに聞く頃、頭上を覆っていた雲も切れて鈍い陽光が射してきました。
   万年雪を戴く祁連山脈の峰々に見送られながら、わたしたちは一路西寧へと帰路を急いだのでした。


―おわり―


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