―第四回ジャンシャル(張沙)村訪問旅遊記―

更新('99年8月)
張沙希望小学校の子どもたち

1998年 6月 8日〜12日

旅程は6月5日から十日間で、北京、蘭州を経由しました。
ここにご紹介するのは、蘭州から張沙(ジャンシャル)村へ至り、
子どもたちとともに過ごした五日間の記録です。


インデックス

*プロローグ*

6月 8日(月) 蘭州から臨夏へ―変貌していく地方都市

6月 9日(火) 子どもたちの歓迎を受けて

6月10日(水) 張沙希望小学校の子どもたち

6月11日(木) 同郷の古刹―旦麻尼寺を訪ねて

6月12日(金) ディムゥ! ジャンシャルの子どもたち

*エピローグ*

周辺地図

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(サウンドソースは《The Wind from TIBET》の提供です)

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*プロローグ*


   中国青海省にあるこの小さな村を訪ねるようになってもう四回目になります。今年も春まだ浅い三月の初め、恒例の行事のようにジャンシャル村を訪れるための準備を開始しました。

   準備を始めてから出発までの約三ヶ月間、わたしの心はいつものように一つの葛藤に揺れ動きました。子どもたちに会いたいという気持ちがある反面、どういうわけか気が重くおっくうに感じてしまうマイナスの感情が同時に働いてしまうのです。北京の友人からは、地方の治安が悪化していて危険だという内容の手紙が来るし、わたし自身、中国国内の情況がけっして安全とはいえなくなってきているということをよくわかっているからなのかもしれません。しかもルートは二年前から同じで、今回とくに好奇心を刺激するような新たな場所を観光するというわけでもありません。

   そんな状態で出発を二週間後に控えたある日、村のツェリンギャ兄さんからようやく一通の手紙が届きました。そこに書かれていたひとつの知らせにわたしは愕然としました。「今年度から村の小学校でチベット語を教えないことになった」というのです。「チベット語を学んでも“役にたたない”」という理由で、先生と村の幹部が協議して決定したとのこと。
   しかし一方で、このまったくの青天の霹靂とでもいうべき知らせが、これまでのあいまいで定まらなかったわたしの気持ちに一つの明確な目的意識を与えてくれるものとなりました。

   その陰には、日本において個人的にチベットのために活動している数人の方々の励ましと、子どもたちのために支援の手を差し伸べてくださった方々の熱い思いという強い支えがあったことも忘れるわけにはいきません。なかには、遠く海を隔てた地球の裏側から暖かいお気持ちをお送りくださった方もいらっしゃいます。

   いまこの場を借りて、この方々に改めて感謝申し上げるとともに、この拙文が、ジャンシャルの子どもたちの心のメッセージを伝えることができればと心から願う次第です。

1998年 7月23日


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6月 8日(月) 蘭州から臨夏へ―変貌していく地方都市  


   北京に二日滞在してから、昨日午後の飛行機で蘭州へやってきました。宿は中国西北航空のオフィスに近い蘭州飯店です。北京の定宿、侶松園賓館が20パーセント近くも値上がりしていたのでちょっと心配でしたが,、ここは昨年と変わらずツイン150元で安心しました。街の人たちの人情は薄れたようですが、ホテルの服務員はみなとても親切で感じのよい人たちです。

   今年は昨年の教訓を踏まえて、事前に外国人用旅行保険に加入することにしました。加入料は30元、けっして安くはありませんが、気持ちよく旅をしたいなら、この“甘粛省のルール”を守るにこしたことはありません。
   この手続きを代行している中国国際旅行社のオフィスは、その他いくつかの旅行社とともに蘭州飯店の裏側を走る道筋に店を構えています。この道の反対側には清真(イスラム)料理の大衆食堂がずらりと軒をならべており、朝から羊が丸ごとぶら下がっていたりします。みんなもう朝食を終えて出勤してしまったのでしょう。食堂はどこも暇そうでした。

   蘭州飯店のある市の東部、天水路から西部にある七里河橋バスターミナルまではタクシーで15分くらい,、料金は車種にもよりますが11〜13元くらいかかります。

   バスターミナルからは臨夏(リンシア)行きのバスが次々と出て行きます。中には敦煌へ向かう長距離バスもあります。いつものように呼び込みのお兄さんに引っ張られて臨夏行きの一台に乗り込んだものの、例によって満車になるまで一時間近く待たされ、発車したのはようやく11時になってからでした。料金は昨年と同じ11元。値上げしたばかりなので今年は据え置かれたようです。臨夏までは所要三時間強です。

   こうしておなじみのルートで蘭州から臨夏へやってきましたが、この回族自治州の変貌ぶりにはびっくりしました。
   まず、去年20元で泊まれた市人民政府の招待所が46元と、なんと二倍以上に値上がりしていたのです。同クラスの賓館が50元ということでしたから、それでもまだ安いほうなのかもしれません。でも一泊50元近く要するというのは庶民にとってはたいへんなことです。そういえば服務員となにやら相談していた一人のおじいさんが、玄関ホールのソファの上で毛布に包まって眠っていました。きっとお金がないので部屋に泊まれなかったのでしょう。値上がりして良くなった点は、お風呂のお湯の供給時間が一時間から三時間に延長されたことと、夜間の断水がなくなったことです。 カラフルな衣類でいっぱい

   宿泊料金の値上げはどうやら物価の高騰に原因があるようです。このあたりの人々の生活水準もあがってきているのでしょう。街並みにも近代建築が目立ち、去年までなかった高級ホテルが新たに出現し、洋服の仕立て屋さんがずいぶん増えていました。完成したばかりの立派な中国銀行の門前を守るのは石獅子ならぬ一対のブロンズ製ライオンだったのがちょっと意外でしたが。
   もちろんすべての市民がこうしたものの恩恵にあずかっているわけではありません。南バスターミナル近くには生活用品を売る小さなお店が集まって巨大なアーケードをもつ市場をつくっていました。臨夏のほんとうの顔はむしろこちらにあるのかもしれません。



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6月 9日(火) 子どもたちの歓迎を受けて  


   中国入りして五日目、今日はいよいよ目的地、青海省の張沙(ジャンシャル)村へ入ります。
   昨日、臨夏(リンシア)の新華書店で孫悟空の絵本数冊と小さな地球儀を子供たちのために買いました。またまた荷物が増えてしまいましたが、でもあんまり負担には感じません。ほんとうはチベット語の絵本がほしかったのですが、残念ながら臨夏では手に入りませんでした。

   張沙村へ行くには青海省循化(シュンホァ)行きのバスに乗ります。この路線は毎日早朝6時に一本しか出ないので、5時半すぎには招待所の服務員に起きてもらわなければなりません。みんな熟睡しているのでわざわざ起きてもらうのはちょっと気の毒なのですが…。

   ターミナルでは案の定保険証書の提示を求められましたが、今回はちゃんと加入しています。胸をはって「パシッ!」と係員の目の前に置きました。終点の循化まで9元、その途中、村の入口にあたる道路補修小屋までは5.3元です。
   去年はぎゅうぎゅうづめの車内で六時間耐え続けてすっかり体力を消耗してしまいました。座席も慎重に選ばなければなりません。そこでドアのすぐ脇の席に陣取りました。ここなら自分の荷物に押しつぶされることもないでしょう。
   こうして相当の覚悟で乗り込んだわけですが、幸いバスはスムースに走りつづけ、8時を回るころには甘粛省と青海省を隔てる山の中へと分け入っていました。

   甘粛省側の最後の町、韓集(ハンジー)を過ぎると、眼前に高く聳える山々が視界を遮ります。去年はうっすらと雪化粧をしてとても神秘的に見えたのですが、今年は暖かいからでしょうか、山頂はただ黒っぽいごつごつした山肌をさらしているのみです。それでもひとたび山の中に分け入ると、ひんやりとした霊気に満たされて、窓から入ってくる風も心地よいものに変わります。車窓から遠くへ目をやれば、急な斜面に散らばった羊の群れはまるで緑のビロードの上に撒かれた真珠粒のようです。車道のすぐ脇では黒く長い毛に覆われた高原の牛ヤクも悠々と草を食んでいます。
   バスはゆっくりゆっくり山坂を上っていきます。やがて二本の柱が立つ峠にさしかかると、今まで遮られていた視界が一気に開けて、低くなだらかな山なみがはるかに茶褐色の山肌を連ねているのが望めます。眼下に見渡す山裾には、貼りつくようにひろがる段々畑の緑が濃淡市松模様を描いてとても鮮やかです。
   幾重にもカーブを切りながら山坂を下っていくにつれて、段々畑の集落も見え隠れしながら近づいてきます。道路補修の小さな小屋がはっきえりと見えてくる頃、いくつもの小さな人影が歓声をあげながら車道のほうに向かって駆けてきました。

   危うく走りすぎそうになったバスを止めて荷物を抱えて降りると、子どもたちが手に手に白や黄色のカタをもって迎えてくれました。みんな相変わらず小さくて、日焼けした顔にまっかなほっぺたが上気して火照っています。子どもたち一人一人からカタをかけてもらいながら、「ありがとう!」と笑顔で応えると、去年まで緊張して泣きそうな顔をしていた子も、まっしろい歯をちらりと見せてニコッとしてくれます。
   みんな今朝の6時からずっとここで待っていてくれたのだそうです。きっとおなかを空かせているにちがいありません。それでも子どもたちはみな元気いっぱいです。村の入り口まで歩いて行く間、途中でみちくさくっていなくなってしまう子もいたくらいです。

   ところでナムラギャ先生はどうされたのでしょうか?子どもたちがみんないるのに先生だけいらっしゃらないのはちょっと気になります。ツェリンギャ兄さんに聞いたところ、「入院しておられるんだ。もう戻ってこれないかもしれない」という返事。いったいなにが起こったというのでしょうか?その理由はあとで知りました。

   入院されたナムラギャ先生の代わりに代行の先生がいっしょに迎えにきてくれていたのでしたが、わたしはぜんぜん気づきませんでした。それというのも代行の先生というのがまだ十五歳の少年だったからです。こちらの子どもたちは年齢よりはるかに小さく見えるのですが、まだあどけなさの残る少年先生も、どうみても中学一年生くらいにしか見えません。
   この新任先生は漢族で、隣村から毎日通ってきているのだそうです。漢族だから中国語が通じると思ったのですが、まだ初等中学(日本の中学にあたる)を卒業したばかりの彼はその土地の漢語しか話せないようでした。どうやら、このあたりの初等中学レベルでは共通語である中国語普通話の教育が徹底されていないようです。

   兄さんの家に落ち着いてから子どもたちの学費を一人分づつ用意しました。今回はちゃんと封筒に名前を書いてあげることにしました。でもその名前は漢語表記されたものです。いつかチベット文字で彼らの本来の名前を書いてあげたいと思っていますが、残念ながら一般の村人たちはチベット文字の読み書きができません。それができるのはお経を勉強しなければならないラマ僧たちだけなのです。
   というわけで、子どもたちにはぜひ自分たちの文字を勉強してほしいと願っているのですが、今年度からチベット語は教えないという決定が理不尽にも村の幹部によって下されたのです。ただ役に立たないという理由で…。なんて悲しいことでしょう。自分たちの民族が培ってきた文化をないがしろにしてまでも時流に迎合して、いったいどんな未来が開けるというのでしょうか。

   兄さんの長女ンガツァン・ドルマが遊びにきていた従兄弟のロサン・タルギェにチベット語を教えてもらっていました。 ロサンと子どもたち
   ロサンは嫂さんのお姉さんの息子で、明るく素直なとてもよい子です。まだ小さいうちから村のお寺に入りラマ僧になる修行をしています。お父さんが亡くなってから一家は住む家も失って生活もたいへんそうですが、十七歳になるロサンの兄さんが町で働いて家計を支えています。ロサン自身は、いまお師匠さんの僧坊に住み込んで仏道修行に励む毎日です。むかしむかしからチベットのラマ僧たちはこうして「教え」を身につけ、代々受け継いできたのです。
   一人前のラマ僧になるにはたくさんの経典を暗誦しなければなりません。ロサンはわたしたちの前でお経を披露してくれました。

ロサン・タルギェによるお経


五体投地?!
   写真は兄さんの家の子どもたちと従姉妹たちです。ひょうきんなドゥケチェとお転婆なタシ・ワンモ(友人トゥプテンの妹ラモチェの次女)は五体倒地のまねっこをしています。こうして子どもたちは遊びの中でも“三宝への帰依”を学んでいくのです。

   ンガツァン・ドルマとツェリン・ラモが歌を歌ってくれました。学校でならった中国語の歌です。

子どもたちのうた

青々とした草原の石の上に 一本の小さな小さな草
母さんはどこへ行ってしまったのか 誰も知らない
この世においては 母子の情愛は天よりも高い
寂しい山河を ただ一人ぼっちで行ったり来たり
母さんの行方を 誰も知らない


   寂しい歌ですが、幸い二人ともお母さんがいます。でも村の小学校に通っている子どもたちの中には、両親の離婚でお母さんを失った子もいます。



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6月 10日(水) 張沙希望小学校の子どもたち


   張沙村滞在二日目は、毎年子どもたちの各家庭を回って学費を届けることにしています。昨年からは、子どもたちが学ぶ村の小学校で授業参観するという楽しみも増えました。

   各家庭への学費援助は、特に貧しい家庭の場合300元、その他の家庭へは今年から200元にさせてもらうことにしました。なるべく公平さを保つために、個人に対する援助よりもみんなが共同で利用する教材や学校設備の充実に力を入れたいと思ったからです。
   今回はありがたいことに数名の有志の方々から、子どもたちのためにとお金や学用品をお預かりしました。そのお金で校内に小さな図書館を作ることにしました。「図書館」というより「図書架」と言ったほうがほんとうはふさわしいのですが。
   絵本ならまだ文字が読めない子どもたちでも楽しめますし、言葉を学ぶことにより興味をもってくれることでしょう。この“小小図書館”には、チベット語と中国語の絵本を中心に揃えてもらうようにお願いしました。

   村の小学校、張沙希望小学校は今年の九月で開校三年目を迎えます。開校当初は机も椅子もほとんど足りず、狭い教室でさえ広く感じられたものですが、今年度新たに入学する子を含めると、全部で34名の大所帯です。
   昨年置いていったお金で新たに机と椅子を四セットとストーブを買ってもらいました。冬の寒さがとりわけ厳しいこの地域では石炭ストーブは欠かせません。運賃を節約するために、この異常に重い鉄の塊を村の人が町から担いできたのです。村の小学校はみんなの協力でなりたっているんですね。今年の冬はもう休校することもありません。みんな暖かい教室で勉強できます。

   山裾の斜面に貼りつくようにかたまっている集落を離れてえんどう畑の中をずっと下って行くと、道はお寺(ジャンシャル・ゴンパ)へと続いています。小学校はちょうど集落とお寺の中間くらいのところにあります。下り坂の右手に赤茶色の屋根をのせた小さな校舎が見えてくると、子どもたちの元気に遊びまわる声が風にのって響いてきます。
   教室に入るとやや緊張した面持ちの先生が迎えてくれました。子どもたちはめずらしいお客さんを前に、むしろはしゃいでいる様子です。「リラックスして、いつものようにやってくださいね。」とお願いしましたが、十五歳の新米先生にはちょっと酷なことだったかもしれません。

一所懸命授業する少年先生 真剣に聞き入る子どもたち

   ナムラギャ先生の入院で、子どもたちは新学期に入る前に中国語に触れることになりました。先生が黒板に書いた文字を一つずつ何回も大きな声で復誦します。中国語(ここでは共通語である普通話のこと)には文字によって(高く平らに)・(上昇)・(低く押さえて)・(下降)という四つの声調があるのですが、そんなことはおかまいなし。どの文字もみんな高く平らに発声する“第一声”になってしまいます。 書くのも一所懸命
   こんどは三人の子どもたちが出てきて、先生の発音する文字を黒板に書いていきます。これがまたほとんどお絵描きの世界です。でもチョークを握り締めて黒板に向かう顔はしんけんそのもの、総身の力を込めていっしょうけんめい書いています。

   ところで漢族である先生とチベット族の子どもたちの間には、言語によるコミュニケーションはなりたっていません。土地の漢語(中国語の方言)を話す先生には子どもたちの話すアムド語(青海地方のチベット語方言)はわかりませんし、子どもたちにとっても同様です。でも子どもたちは先生にすっかりなついていて、先生も子どもたちのめんどうをとてもよくみてあげています。それは子どもに頼まれて鉛筆を削る先生の姿からも感じ取れました。ここでは民族や言語、文化の隔たりといったものは、関係を築くためのいかなる障害にもなっていないのです。チベットと中国との間のすでに半世紀近くに及ぶ不幸な関係に思いを至す時、この村の先生と子どもたちとの暖かい信頼関係はひとすじの光明を与えてくれる気がします。

   先生には申し訳なかったのですが、つい授業の邪魔をして子どもたちに先ほどの声調の練習をしてもらいました。もちろんわたしが話す中国語も通じてはいないのですが、子どもたちの反応があまりに早いので、ついこちらの言っていることがわかっているのではないかと錯覚してしまいます。それもそのはず、子どもたちのこちらに向ける眼差しには、「ひとことも聞き漏らさないよ!」という気迫がこもっているのです。それは耳で聞くというよりも、からだ全体で受け止めているといった感じです。ですから、カメラを向けても気を散らす子はほとんどいません。みんな先生の一挙手一投足、口の開き方、すべてに集中しています。彼らにとって学ぶということは、黒板に書かれたもの、語られた知識を憶えることではなく、それらを教えてくれる人の存在そのものを学び取っていくことのような気がします。それはあたかも、ロサン・タルギェがお師匠さんとともに生活しながら仏の教えを学びとっていくことと共通しているかのようです。

   そんな子どもたちが二年近くをともに過ごしたナムラギャ先生の不慮の事故と入院を知ったとき、みんなあのまっかな頬を涙でぐしゃぐしゃにして言ったそうです。
   「先生はすぐに退院するよ! すぐに戻って来てくれるよ!」

   この話をソナムから聞いたとき、わたしも胸のつぶれる思いがしました。五月の初めのある日の明け方、村の人が放牧に出かけるので学校の側を通りかかったところ、道端に男の人が倒れているではありませんか。頭から血を流しているその人をよくよく見れば、なんとナムラギャ先生でした。先生は酔っ払って足をすべらせ、転倒して頭を石にぶつけたのでした。そのまま意識不明の状態で村人たちによって循化の病院に担ぎ込まれたということです。村長の話では、いまはもう大丈夫ということでしたが、わたしが村を後にした日の翌日、子どもたちの代表二人が村長とともにお見舞いに行きました。

   ソナムはトゥプテンの弟です。昨年一年間、北京で保衛隊に入隊して働いていましたが、40度を超す炎天下で二時間立ち尽くめの仕事にはさすがに耐えられず(去年の夏、北京は記録的猛暑だったのです)、また故郷に戻ってきたのでした。歌と踊りが大好きな、明るくてそれでいてシャイな好青年です。三日間の滞在中、ずっとわたしの通訳兼話し相手を務めてくれました。

   お昼は、ジャンシャル・ゴンパの住持ラマ・ゾパのところによばれました。ラマ・ゾパは「住持」といってもまだ三十歳を超えたばかりですが、すでに数年前からお寺のことを一切任されています。ラマ僧たちは全部で十一名。みんなゾパ住持より年下で、年配の方はいらっしゃらないようです。 ジャンシャル・ゴンパの腕利きコックたち?
   ゾパ住持の僧坊のテーブルには、羊肉の包子(パオズ)、肉と野菜の炒め物、蒸しパン、バターを使ったチベット風炊き込みご飯レイシィ、羊肉のスープ、そしてツァンパと、この土地のあらゆるご馳走がいっぱいに並べられています。料理自慢の嫂さんに勝るとも劣らぬその腕前!これらすべてのご馳走はここに集う若きラマ僧たちの手になるものでした。一見そんなふうには見えないけれど、みんなとても器用なんですね。

   去年ラプラン寺を案内してくれたイェシェも来てくれました。さわやかな笑顔がステキな人です、が、なぜかファインダーを通すとまじめな顔に写ってしまいます。今回もシャッターチャンスを逃してしまいました。残念!

   ジャンシャル・ゴンパは四百年近い歴史をもつこの地方の古刹です。代々、転生活仏によって今日まで伝えられてきました。創建当時の姿をいまに留める大経堂の祭壇には、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマの肖像とともに一枚の白黒写真がたいせつに祭られています。そこには一人のラマ僧が写っており、その頭の周囲はぼんやりと円く白くなっています。わたしはてっきり、これは描かれたものだと思いました。
   ラマ・ゾパの話では、この方は数代前の活仏で、たいへん強い法力をお持ちであられたのだそうです。さまざまな言い伝えが残っているようですが、その一つ、文化大革命のときゴンパが破壊の難を免れたのもこの高徳のラマの祈りのおかげであったといいます。あるいは村人たちの切なる願いが一種の法力と化したのかもしれません。 現在のジャンシャル・リンポチェ

   写真は現在の活仏ジャンシャル・リンポチェです。今年十七、八歳になるでしょうか。いま甘粛省夏河(シアホー)のラプロン寺で勉強中です。

   ゴンパの入り口近く、真新しい塀で囲われた中からなにやら人の掛け声が聞こえてきます。いま新たに「護法堂」を建てているのです。大工さんや左官さんはみんな村の人がやりますが、建築資材はただでは手に入りません。とくに海抜3千メートルを超す高地では木材は貴重品で値もはります。ふつう一軒の家を建てるのに木材だけで6、7千元かかるといいますから、お堂ひとつ建てるのにかかる費用は相当のものです。それでも住持自ら1万元をかけての取り組みです。ゾパ住持は今年の一月、突然お父様を亡くされました。護法堂建立への意気込みには、亡きお父様への尽きない思いが込められているのかもしれません。 「護法堂」も村人の手で

   最初にお話ししたように、今回の訪問には大きな課題がありました。子どもたちが学校で教科としてチベット語を学べなくなる可能性が出てきたのです。なんとかして自分たちの母語を読み書きできるようにチベット語の学習を続けさせたい、でも当事者のナムラギャ先生が入院されていては相談のしようもありません。ゾパ住持はそれを知って、最悪の場合は自分が子どもたちにチベット語を教えよう、と約束してくれました。
   チベットの伝統文化を維持していくためにラマ僧たちの果たす役割は今後ますます大きなものになっていくことでしょう。村の人たちの手で造られた新しいお堂に彼らの伝統の仏画が描かれ、金色に輝く仏像が安置されるとき、子どもたちもまたそこに大きな誇りを感じとってくれることをわたしも心から願っています。

   午後3時を回る頃になると、厚い雲が空を覆い始め、肌寒い風がしだいに強くなってきました。山里の天候はほんとうに変わりやすいものです。
   乾いた土が黄色く舞い上がる中、村長の案内で、兄さんとソナムに伴われて子どもたちの家庭、28軒を回ります。集落は密集しているので遠くまで歩かなければならないということはあまりないのですが、上り下りの多い凸凹道なので、歩きなれない身にはやや難儀です。

村の学校の子どもたち

   村長の話では、張沙村の全戸数は70戸、人口は400人ほどということです。その中にはお店(商店のようなものとはちがいますが)も3軒ほどあり、子どもたちが学校で使うノートや消しゴム付きの鉛筆など必要最低限の学用品も売っているそうです。ちなみにノートは5角、消しゴム付き鉛筆は3角で買えます。(1角=1/10元) けっして高いものではないのですが、でもほとんどの子どもたちは、消しながら何度も使うのでボロボロになってしまったのや、お兄さんやお姉さんのお古のノートをだいじに使っています。教科書も三、四人で一冊を使うというありさまです。
   そこで今年から、一人年間30元を文具費として共用費から出すことにしました。でも、こういう配慮がかえって、ものを大切にする精神や乏しいものをすすんで分かち合うという気持を子どもたちから奪ってしまうかもしれません。ただ単に“与える”ということは時としてこういうマイナスの結果を生みだすこともあるのです。年にたった一度の訪問ですが、同じ目の高さでの“関わり”を続けていくためにも、子どもたち一人一人とのつながりを大切にしていきたいと思います。

   すべての家を回り終えて兄さんの家に戻ったときはもう夕方6時近くになっていました。日照時間の長いこのあたりではまだまだ明るく、時間の感覚がくるってしまいます。
   さすがにくたびれたのか、兄さんがお椀になみなみと注いでくれたチンコー酒が渇ききった喉においしく、水を注ぎ込むように飲んでしまいました。家庭でつくるチンコー酒はそれほど強くありませんが、これは西寧(シーニン)の酒厰製でアルコール度数50度もある烈酒です。 子どもたちもソナムといっしょに踊りだす

   ソナムが音楽テープにあわせて踊り始めたのをきっかけに、酔いと興にまかせてわたしもその踊りの輪に加わりました。チベットの人たちはもともと歌や踊りが大好きな陽気な民族です。兄さんの家の狭い土間はたちまち“西藏式歌舞庁”(ダンスホール)になってしまいました。普段は踊ったことのないという兄さんまで勝手に身体が動き出すという感じで、「こんなに愉快なのははじめてだよ」と、楽しさを抑えきれない様子。そのうちみんな一曲ずつ歌を披露してくれました。いつもは控えめな嫂さんも、この時ばかりは自慢の喉を聞かせてくれました。

みんなのうた

   ようやく暗くなり始める頃、ぽつりぽつりと雨が降りだしてきました。明日はみんなで同郷にある旦麻(ダンマ)尼寺へ行く予定なので天気が気がかりです。雨は結局一晩中降り続き、お酒の飲みすぎか踊りすぎか、わたしもその夜はなかなか寝つけませんでした。 



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6月 11日(木) 同郷の古刹―旦麻(ダンマ)尼寺を訪ねて


   時計を見ればもう8時。起きなくてはと思うのですが、昨晩の不眠の影響でからだが重くてなかなか言うことを聞いてくれません。なんとか半身を起こして小さな窓に取り付けられたカーテンを引っ張ると、外は霧がかかっているのか白っぽくどんよりしています。

   今朝はトゥプテンの妹ラモチェの家に朝食に招かれました。彼女は今年新一年生になるタシ・ドルマのお母さんです。
   昨夜来の雨はようやくあがったものの、水はけのわるい地面はぬかるみでひどく歩きにくくなっています。兄さんの家から三分くらいでしょうか。ラモチェに導かれて門をくぐると、長女のタシ・ドルマと妹のタシ・ワンモが迎えてくれました。 お母さんに抱かれて
   玄関を入ると兄さんの家よりはやや広い土間になっていて、一角にかまどとオンドルがあります。一番奥まったところにはストーブがあって、その上に棚がしつらえられて祭壇になっていました。上の方にはギャワリンポチェ(ダライ・ラマ)の微笑んでいる写真と、やや離れたところに毛沢東の肖像が白いカタで飾られています。なんとも不思議な“取り合わせ”?!と思うのですが、村の人たちにとっては別になんのこだわりもないようです。

   タシ・ドルマとタシ・ワンモのあまりの愛らしさに、しばし食事を忘れて写真を撮ることに夢中になってしまいました。未来のミス・ジャンシャルです。貫禄十分でしょう?

   10時近くになってようやく空が明るくなってきました。旦麻尼寺へ行くならそろそろ出かけないと循化(シュンホァ)方面へ向かうバスがなくなってしまいます。
   兄さんの家で待っていると、お母さんとソナムが正装して入ってきました。嫂さんとラモチェ、お母さんの三人はいちばんきれいな民族衣装に身を包み、兄さんとソナムは同じ保衛隊の制服。これは去年、ソナムが保衛隊員だったときに支給されたものです。兄さんの長女ンガツァン・ドルマも一張羅のよそ行き“ドレス”でおめかし。もちろんわたしも、兄さんが今回新調してくれた袖口にきれいな青色の緞子地をつけた民族衣装を着せてもらいました。

   村を出る頃になってようやく日が射し始めてきました。四年前にはじめて村を訪れたとき上ってきたゴンパ(寺院)沿いの道を逆にたどり、崖につけられた狭くて急な坂道を車道へと下ります。村への入り口を示しているのでしょうか、色褪せた五色のタルチョが頭上高く渡してある切り通しを抜ければ、車道はすぐ目の前です。

   道の向こう側には高い山々が聳え立ち、その裾野に沿って広がる草原には点々と高山の花が彩を添えています。海抜4、5千メートルにも達する山々から流れてくる雪解け水は、草原に遊ぶ羊や牛、馬やロバの喉を潤す清流となって涼やかな水音を響かせています。耳を澄ませば、遠くカッコウやウグイスの澄んだ歌声も風にのって聞こえてきます。
   バスは例によって一向に来る気配がありませんが、こうして大自然の中に浸っていると待つことも苦にはなりません。

高原の囁き


   二時間近く待ったでしょうか、まもなくお昼という頃にようやく一台のバスがやってきました。循化の西、尖扎(ジェンザ)行きです。
   道はゆるやかに下っていきます。周囲の景色も山の様子も張沙村付近とは全く異なって、樹木や畑が多くなり、山は赤茶色のごつごつした肌をさらした特異な姿をしています。二十分ほどで、左手前方にきれいにもりあがった土饅頭が見えてきました。金色に輝く小さな仏塔を戴いています。同郷の古刹、旦麻尼寺です。 旦麻尼寺をめざして

   バスを降りて歩くことしばらく、この天然のストゥーパをすぐ眼前に望めるところまで来て、ようやく車道から尼寺へ続いているらしい細いあぜ道を下っていきます。はやる心を抑えきれないのでしょう。お母さんは一人ではるか前方を歩いています。

   ようやくストゥーパを間近にするところまで来たとき、なんと、わたしたちの前に一本の川が行く手を遮るかのように横たわっているではありませんか!ごうごうと音を立てて流れるさまは、まるで“此岸”と“彼岸”を隔てているかのようです。しかも尼寺は向こう岸に聳える崖の上にあるのです。ここからはとっても行けそうにありません。付近を探してみましたが、一本の橋も見当たりません。この川はあの清流が流れ下ってきたものでしょうが、昨夜の雨で水量も増し黄色く濁っています。幸い川幅は10メートル足らず、水深も浅いようです。そこで、歩いて“彼岸”へと渡ることにしました。わたしは兄さんに負ぶさって渡してもらったので楽でしたが、みんなは素足になって、まさに自力で渡ったのでした。
   この時の様子をご覧いただきたかったのですが、落とすといけないというのでカメラをソナムに預けてしまい、残念ながら一枚の写真も撮れませんでした。

   上れないのではと思っていた崖にもちゃんと道がついていました。もちろん狭くて急な上り坂です。先頭きって歩いていたお母さんも、さすがにここではいちばん最後になってしまいました。
   ひと呼吸、またひと呼吸つきながら登りきると、目の前には一面、濃い緑の若穂をきらきらと輝かせた小麦畑が広がっていました。ところどころ鮮やかに黄色く彩られた部分は菜の花畑です。半時ほど前にバスを下りた車道は遠くに白い線のようになって、その向こうにはこの土地特有の赤茶色の特異な肌をさらした山が続いています。 マニ車を回して

   尼寺の小さな門をくぐると、そこは金色のマニ車をいくつも取り付けた回廊になっています。そうです、この廊下は天然のストゥーパの周囲をぐるりと廻っているのです。
   一つ一つマニ車を回して真言を唱えながら時計回りにお堂やストゥーパの回りを廻ることを“コルラ”と言います。わたしたちは普通に歩いてコルラしましたが、巡礼者の中には五体倒地しながらコルラする人もいます。みんなどこから来ているのでしょうか、なかにはきれいな飾り帯をつけて着飾ったお嬢さんもいました。

   ストゥーパのあるところからさらに一段あがると、そこはこの尼寺の中心、尼さんたちが毎日集って読経する“経堂”と、それを取り囲むように質素な僧坊があります。
   わたしたちが外で待っていると、まだ二十代そこそこのきれいな尼さんがやってきて、経堂の中へと案内してくれました。ジャンシャル・ゴンパの大経堂に比べるとずいぶん小さなかわいらしいお堂ですが、チベット特有の極彩色に彩られた入口の装飾だけでも見ごたえ十分です。 ニンマ派の祖パドマ・サンバヴァ
   薄暗い堂内の正面には、インドから密教を伝えたというパドマ・サンバヴァが鎮座し、向かって右隣には、迫力満点の忿怒尊とすばらしい詩人でもあった偉大な行者ミラレパが祭ってありました。この尼寺はチベット仏教の中でももっとも古い伝統をもつニンマ派のお寺なのです。
   ところが、向かって左側には、なぜかゲルク派の開祖ツォンカパの三尊像が安置されているのです。このあたりにもチベットの人たちの“こだわりのなさ”が感じられて興味深いものがあります。

   旦麻尼寺には現在八人の尼さんたちが生活しています。見習いの子を除いて、ほとんどが二十代から三十代くらい。みんな明るく朗らかでとってもチャーミングな人たちです。住持尼さまは今年六十九歳、さすがに貫禄があって、ちょっと近づきにくい印象を受けます。一種の修行なのでしょうか、履き物も履かず、裸足ですたすた歩いています。

   住持尼さまがわたしたちをご自分の僧坊に案内してくださいました。畳二枚分にも満たないオンドルと、同じくらい狭い土間からなる僧坊はとても粗末なものでした。 質素な僧坊で
   昼食時間はとっくに過ぎていましたが、氷砂糖を入れたお茶と、自分たちで焼いたらしい“パンらしきもの”と“クラッカーのオバケ”のようなものをいただきました。大きな塊をこれまた大きく割ってこちらに分けてださる住持尼さまに、こんどはかえって親近感を覚えました。それにしても清貧そのもののような尼さんたちの生活を目の当たりにして、あの屈託のない明るさはいったいどこからくるのだろうか、とふと考えずにはいられませんでした。  

   ほんのお礼にと思って、ダライ・ラマの小さな写真と少しばかりのお布施をしました。みんなとても喜んでくれたらしく、わたしたちのために特別に読経してくれました。尼さんたちのお経はラマ僧たちのような低音部がないかわりに、女性らしい繊細さが感じられてとてもきれいでした。

尼僧たちによる読経

尼さんたちに見送られて


   帰りもまたあの川を歩いて渡るのかと、ちょっと不安になりましたが、どうやら道はもう一本あるようです。こんどは反対側にある門から出ます。“現世に戻る橋”へと導く道は、一面の麦畑の中に延々と続いていました。 静かな木陰を歩いて

   最初に経堂を案内してくれた尼さんに最後まで見送られて、彼女から贈られた白いカタを肩になびかせながら、麦畑の中の一本道を進みます。しばらく行くとまたしても崖を下り、また登り、こうして菜の花が咲き乱れる美しい集落の中に入っていきました。
   丈の高い樹木が涼やかな木陰をつくっている道に面して、立派な門がありました。子どもたちの声がその中から聞こえてきます。この村の小学校なのでしょう。小さいながらも立派な校舎が三棟コの字型にならんでいます。張沙村に比べてこのあたりの村人たちは裕福なのかもしれません。

   “現世へ戻る橋”は小さな石の橋でした。その下ではちびっ子たちが裸で泥んこ遊びをしていました。旦麻尼寺のストゥーパは、麦畑と菜の花畑がつくりだす市松模様の絨毯の彼方にすでに小さくなっていました。

   その晩は、といってもまだ日も落ちていないのですが、村長のお宅に夕食に招かれました。少年先生もやってきて、一人で木の椅子を机代わりにいっしょうけんめい何かを書いています。あとでわかったことですが、それはわたし宛ての手紙でした。
   「将来は何になりたいの?」と聞くと、ちょっと困った顔をして、「まだわからない…」と一言。結局、名前も聞かないままそれきりになってしまいました。秋の新学期からは、彼は自分自身の道を歩み始めることでしょう。



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6月 12日(金) ディムゥ! ジャンシャルの子どもたち


   三日間の滞在期間は瞬く間に過ぎてしまいました。きょうはもう蘭州に戻らなければなりません。

   バスに間に合わないといけないというので、嫂さんが六時過ぎから朝食を準備してくれました。暖めた絞りたてのミルクにツァンパをごく少量混ぜたものは、疲れであまり食欲のわかないわたしにはありがたい食べ物です。子どもたちはまだ起きてきません。

   早朝にもかかわらず、去年まで副村長の職にあったグリ・ドルジェのお父さんがわざわざ訪ねてきてくれました。グリ・ドルジェは教室では弟といっしょにいちばん後ろに座っていましたが、発音練習のときは人一倍大きな声で復誦していた子です。
   歯を磨きに外に出ると、またかわいいお客さんがやってきました。クラスでもとくにおチビさんのシドチェが、お姉さんに連れられて来てくれたのでした。このお姉さんは、三年前はじめて一人で村に来たとき、たまたま村の入り口で出会ってわたしを案内してくれた子です。あの頃はまだほんとに小さかったのですが…。三年の歳月って、わたしくらいになるともうあっという間ですが、子どもたちには大きな成長をもたらすものなのですね。

   身支度もととのってあとは出立するばかり…、と外に出てみれば、開いた門のところに小さな顔がいっぱい覗いています。幾人かの子どもたちが見送りに来てくれたのでした。 みんな眠そうです
   「さあ、みんな、いっしょに写真を撮るよ!」子どもたちに整列してもらいました。まだ起きる時間ではないのでみんな眠そうな顔をしています。
   「わざわざ早起きして来てくれたんだね。ありがとう、ランジョン!」と、あのとき言いそびれたことばを、いまこの写真を眺めながら思わずつぶやいてしまいます。

   こうしてわたしは、子どもたちと村の人たちに送られて張沙(ジャンシャル)村をあとにしました。
   帰りの荷物は来たときよりもさらに重くなっていましたが、兄さんとラモチェのお義父さんが持ってくださったので、ゆっくりと変化にあふれる草原の景色を楽しむことができました。起伏のはげしい草原は、ときに断層があったりせせらぎを飛び越えなければならなかったりで、けっこうスリル満点です。兄さんたちは10キロあまりの荷物をかかえているのに、ひらりひらりと重力の影響をまったく受けていないかのように軽々と飛び越えていきます。さすがにあの鋼鉄製ストーブを抱えてきただけはあります。

   やや遅れて、小さなタシ・ドルマもお母さんに連れられて車道まで送りに来てくれました。引込み思案の彼女も従姉妹のガツァン・ドルマと花摘みができて嬉しそうです。

高原に咲く花 たのしい花摘み よい香りを放つ「仙花」

   待つこと半時あまり、臨夏行きのバスがきました。今回はトラックの特別席からの眺めは諦めなければなりません。兄さんとソナムの他にンガツァン・ドルマも臨夏までわたしを送ってくれることになりました。

   「ディムゥ、ディムゥ!」、わたしはお母さんに抱っこされたタシ・ドルマのまん丸く見開かれた瞳をじっとみつめて言いました。彼女はわたしがあげた手のひらに自分の手を合わせるようにして、小さいけれどもはっきりとした声で、「つ・ぁい・ち・ぇん!」と挨拶してくれたのでした。



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*エピローグ*


   先日、ツェリンギャ兄さんから帰国以来はじめての手紙を受けとりました。七月初旬、一年半ぶりに帰郷したトゥプテンが村の幹部や子どもの親たちと話し合って、チベット語の授業を続けられるようになったというものでした。自分たちの母語を読み書きできるようになること、このことの重要性をどれほど理解してくれているかはわかりませんが、子どもたちのためにわたしもひと安心しました。

   今回の訪問でわたしも少しばかりアムド語を使えるようになりました。といっても、全チベット共通の挨拶「タシデレ」を除けば、「ありがとう」の意味の「ランジョン」と、「さようなら」と言うときの「ディムゥ」という二句のみで、なんとも心もとないものですが、それでも、少なくともこれだけは子どもたちに直接通じる“ことば”です。
   その“ことば”は、アムドという土地に育まれ、長い長い民族の歴史と文化に培われてきたのです。表現の随所には、きっとその変遷がモザイクのように散りばめられていることでしょう。

   わたしは青海へ行くと必ず土地の歌を吹き込んだ音楽テープを買います。チベット語の歌ももちろん中国語に翻訳されて歌われています。でも翻訳された歌詞は、どうしても本来の意味を表しきれずに他の意味に置き換えられていることが多いようです。これはチベット語ができる方からご指摘を受けてはじめて知りました。
   「ことばがわからなくても心で通じ合うことはできる」、それは確かです。でも共通の“ことば”を探るためには、つまり相手をより深く理解しようと思うなら、相手の背景をも理解する努力が必要です。言語としての“ことば”はそのひとつの入り口ではないでしょうか?

   これはその言語を話す人たちにとっても同様の意味を持っています。自分たちのルーツ(精神的なものも含めて)を再確認することによって、さらに自分たちの独自の文化、精神性というものに目覚めていくことができるのです。自ら独自性を持たないものに、どうしてさらなる発展や未来が望めるでしょうか? ただ吸収されていくしか道はないでしょう。
   逆に、自分たちの独自性を強調するあまり、排他的な民族主義に陥るという危険性もあります。 これもまたその独自性を深く理解していないところからくる一種の焦燥がそうさせるのではないでしょうか? 自らの独自性を大切にしてはじめて、相手のそれをも尊重できるからです。

   ここまで書いてきて、わたしもアムド語を勉強したくなってしまいました。もっと子どもたちと交流するためにも。

では皆さま、来年まで“ディムゥ”!

遥かなる青藏高原より

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