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張沙村滞在二日目は、毎年子どもたちの各家庭を回って学費を届けることにしています。昨年からは、子どもたちが学ぶ村の小学校で授業参観するという楽しみも増えました。
各家庭への学費援助は、特に貧しい家庭の場合300元、その他の家庭へは今年から200元にさせてもらうことにしました。なるべく公平さを保つために、個人に対する援助よりもみんなが共同で利用する教材や学校設備の充実に力を入れたいと思ったからです。
今回はありがたいことに数名の有志の方々から、子どもたちのためにとお金や学用品をお預かりしました。そのお金で校内に小さな図書館を作ることにしました。「図書館」というより「図書架」と言ったほうがほんとうはふさわしいのですが。
絵本ならまだ文字が読めない子どもたちでも楽しめますし、言葉を学ぶことにより興味をもってくれることでしょう。この“小小図書館”には、チベット語と中国語の絵本を中心に揃えてもらうようにお願いしました。
村の小学校、張沙希望小学校は今年の九月で開校三年目を迎えます。開校当初は机も椅子もほとんど足りず、狭い教室でさえ広く感じられたものですが、今年度新たに入学する子を含めると、全部で34名の大所帯です。
昨年置いていったお金で新たに机と椅子を四セットとストーブを買ってもらいました。冬の寒さがとりわけ厳しいこの地域では石炭ストーブは欠かせません。運賃を節約するために、この異常に重い鉄の塊を村の人が町から担いできたのです。村の小学校はみんなの協力でなりたっているんですね。今年の冬はもう休校することもありません。みんな暖かい教室で勉強できます。
山裾の斜面に貼りつくようにかたまっている集落を離れてえんどう畑の中をずっと下って行くと、道はお寺(ジャンシャル・ゴンパ)へと続いています。小学校はちょうど集落とお寺の中間くらいのところにあります。下り坂の右手に赤茶色の屋根をのせた小さな校舎が見えてくると、子どもたちの元気に遊びまわる声が風にのって響いてきます。
教室に入るとやや緊張した面持ちの先生が迎えてくれました。子どもたちはめずらしいお客さんを前に、むしろはしゃいでいる様子です。「リラックスして、いつものようにやってくださいね。」とお願いしましたが、十五歳の新米先生にはちょっと酷なことだったかもしれません。
ナムラギャ先生の入院で、子どもたちは新学期に入る前に中国語に触れることになりました。先生が黒板に書いた文字を一つずつ何回も大きな声で復誦します。中国語(ここでは共通語である普通話のこと)には文字によって(高く平らに)・(上昇)・(低く押さえて)・(下降)という四つの声調があるのですが、そんなことはおかまいなし。どの文字もみんな高く平らに発声する“第一声”になってしまいます。
こんどは三人の子どもたちが出てきて、先生の発音する文字を黒板に書いていきます。これがまたほとんどお絵描きの世界です。でもチョークを握り締めて黒板に向かう顔はしんけんそのもの、総身の力を込めていっしょうけんめい書いています。
ところで漢族である先生とチベット族の子どもたちの間には、言語によるコミュニケーションはなりたっていません。土地の漢語(中国語の方言)を話す先生には子どもたちの話すアムド語(青海地方のチベット語方言)はわかりませんし、子どもたちにとっても同様です。でも子どもたちは先生にすっかりなついていて、先生も子どもたちのめんどうをとてもよくみてあげています。それは子どもに頼まれて鉛筆を削る先生の姿からも感じ取れました。ここでは民族や言語、文化の隔たりといったものは、関係を築くためのいかなる障害にもなっていないのです。チベットと中国との間のすでに半世紀近くに及ぶ不幸な関係に思いを至す時、この村の先生と子どもたちとの暖かい信頼関係はひとすじの光明を与えてくれる気がします。
先生には申し訳なかったのですが、つい授業の邪魔をして子どもたちに先ほどの声調の練習をしてもらいました。もちろんわたしが話す中国語も通じてはいないのですが、子どもたちの反応があまりに早いので、ついこちらの言っていることがわかっているのではないかと錯覚してしまいます。それもそのはず、子どもたちのこちらに向ける眼差しには、「ひとことも聞き漏らさないよ!」という気迫がこもっているのです。それは耳で聞くというよりも、からだ全体で受け止めているといった感じです。ですから、カメラを向けても気を散らす子はほとんどいません。みんな先生の一挙手一投足、口の開き方、すべてに集中しています。彼らにとって学ぶということは、黒板に書かれたもの、語られた知識を憶えることではなく、それらを教えてくれる人の存在そのものを学び取っていくことのような気がします。それはあたかも、ロサン・タルギェがお師匠さんとともに生活しながら仏の教えを学びとっていくことと共通しているかのようです。
そんな子どもたちが二年近くをともに過ごしたナムラギャ先生の不慮の事故と入院を知ったとき、みんなあのまっかな頬を涙でぐしゃぐしゃにして言ったそうです。
「先生はすぐに退院するよ! すぐに戻って来てくれるよ!」
この話をソナムから聞いたとき、わたしも胸のつぶれる思いがしました。五月の初めのある日の明け方、村の人が放牧に出かけるので学校の側を通りかかったところ、道端に男の人が倒れているではありませんか。頭から血を流しているその人をよくよく見れば、なんとナムラギャ先生でした。先生は酔っ払って足をすべらせ、転倒して頭を石にぶつけたのでした。そのまま意識不明の状態で村人たちによって循化の病院に担ぎ込まれたということです。村長の話では、いまはもう大丈夫ということでしたが、わたしが村を後にした日の翌日、子どもたちの代表二人が村長とともにお見舞いに行きました。
ソナムはトゥプテンの弟です。昨年一年間、北京で保衛隊に入隊して働いていましたが、40度を超す炎天下で二時間立ち尽くめの仕事にはさすがに耐えられず(去年の夏、北京は記録的猛暑だったのです)、また故郷に戻ってきたのでした。歌と踊りが大好きな、明るくてそれでいてシャイな好青年です。三日間の滞在中、ずっとわたしの通訳兼話し相手を務めてくれました。
お昼は、ジャンシャル・ゴンパの住持ラマ・ゾパのところによばれました。ラマ・ゾパは「住持」といってもまだ三十歳を超えたばかりですが、すでに数年前からお寺のことを一切任されています。ラマ僧たちは全部で十一名。みんなゾパ住持より年下で、年配の方はいらっしゃらないようです。
ゾパ住持の僧坊のテーブルには、羊肉の包子(パオズ)、肉と野菜の炒め物、蒸しパン、バターを使ったチベット風炊き込みご飯レイシィ、羊肉のスープ、そしてツァンパと、この土地のあらゆるご馳走がいっぱいに並べられています。料理自慢の嫂さんに勝るとも劣らぬその腕前!これらすべてのご馳走はここに集う若きラマ僧たちの手になるものでした。一見そんなふうには見えないけれど、みんなとても器用なんですね。
去年ラプラン寺を案内してくれたイェシェも来てくれました。さわやかな笑顔がステキな人です、が、なぜかファインダーを通すとまじめな顔に写ってしまいます。今回もシャッターチャンスを逃してしまいました。残念!
ジャンシャル・ゴンパは四百年近い歴史をもつこの地方の古刹です。代々、転生活仏によって今日まで伝えられてきました。創建当時の姿をいまに留める大経堂の祭壇には、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマの肖像とともに一枚の白黒写真がたいせつに祭られています。そこには一人のラマ僧が写っており、その頭の周囲はぼんやりと円く白くなっています。わたしはてっきり、これは描かれたものだと思いました。
ラマ・ゾパの話では、この方は数代前の活仏で、たいへん強い法力をお持ちであられたのだそうです。さまざまな言い伝えが残っているようですが、その一つ、文化大革命のときゴンパが破壊の難を免れたのもこの高徳のラマの祈りのおかげであったといいます。あるいは村人たちの切なる願いが一種の法力と化したのかもしれません。
写真は現在の活仏ジャンシャル・リンポチェです。今年十七、八歳になるでしょうか。いま甘粛省夏河(シアホー)のラプロン寺で勉強中です。
ゴンパの入り口近く、真新しい塀で囲われた中からなにやら人の掛け声が聞こえてきます。いま新たに「護法堂」を建てているのです。大工さんや左官さんはみんな村の人がやりますが、建築資材はただでは手に入りません。とくに海抜3千メートルを超す高地では木材は貴重品で値もはります。ふつう一軒の家を建てるのに木材だけで6、7千元かかるといいますから、お堂ひとつ建てるのにかかる費用は相当のものです。それでも住持自ら1万元をかけての取り組みです。ゾパ住持は今年の一月、突然お父様を亡くされました。護法堂建立への意気込みには、亡きお父様への尽きない思いが込められているのかもしれません。
最初にお話ししたように、今回の訪問には大きな課題がありました。子どもたちが学校で教科としてチベット語を学べなくなる可能性が出てきたのです。なんとかして自分たちの母語を読み書きできるようにチベット語の学習を続けさせたい、でも当事者のナムラギャ先生が入院されていては相談のしようもありません。ゾパ住持はそれを知って、最悪の場合は自分が子どもたちにチベット語を教えよう、と約束してくれました。
チベットの伝統文化を維持していくためにラマ僧たちの果たす役割は今後ますます大きなものになっていくことでしょう。村の人たちの手で造られた新しいお堂に彼らの伝統の仏画が描かれ、金色に輝く仏像が安置されるとき、子どもたちもまたそこに大きな誇りを感じとってくれることをわたしも心から願っています。
午後3時を回る頃になると、厚い雲が空を覆い始め、肌寒い風がしだいに強くなってきました。山里の天候はほんとうに変わりやすいものです。
乾いた土が黄色く舞い上がる中、村長の案内で、兄さんとソナムに伴われて子どもたちの家庭、28軒を回ります。集落は密集しているので遠くまで歩かなければならないということはあまりないのですが、上り下りの多い凸凹道なので、歩きなれない身にはやや難儀です。
村長の話では、張沙村の全戸数は70戸、人口は400人ほどということです。その中にはお店(商店のようなものとはちがいますが)も3軒ほどあり、子どもたちが学校で使うノートや消しゴム付きの鉛筆など必要最低限の学用品も売っているそうです。ちなみにノートは5角、消しゴム付き鉛筆は3角で買えます。(1角=1/10元) けっして高いものではないのですが、でもほとんどの子どもたちは、消しながら何度も使うのでボロボロになってしまったのや、お兄さんやお姉さんのお古のノートをだいじに使っています。教科書も三、四人で一冊を使うというありさまです。
そこで今年から、一人年間30元を文具費として共用費から出すことにしました。でも、こういう配慮がかえって、ものを大切にする精神や乏しいものをすすんで分かち合うという気持を子どもたちから奪ってしまうかもしれません。ただ単に“与える”ということは時としてこういうマイナスの結果を生みだすこともあるのです。年にたった一度の訪問ですが、同じ目の高さでの“関わり”を続けていくためにも、子どもたち一人一人とのつながりを大切にしていきたいと思います。
すべての家を回り終えて兄さんの家に戻ったときはもう夕方6時近くになっていました。日照時間の長いこのあたりではまだまだ明るく、時間の感覚がくるってしまいます。
さすがにくたびれたのか、兄さんがお椀になみなみと注いでくれたチンコー酒が渇ききった喉においしく、水を注ぎ込むように飲んでしまいました。家庭でつくるチンコー酒はそれほど強くありませんが、これは西寧(シーニン)の酒厰製でアルコール度数50度もある烈酒です。
ソナムが音楽テープにあわせて踊り始めたのをきっかけに、酔いと興にまかせてわたしもその踊りの輪に加わりました。チベットの人たちはもともと歌や踊りが大好きな陽気な民族です。兄さんの家の狭い土間はたちまち“西藏式歌舞庁”(ダンスホール)になってしまいました。普段は踊ったことのないという兄さんまで勝手に身体が動き出すという感じで、「こんなに愉快なのははじめてだよ」と、楽しさを抑えきれない様子。そのうちみんな一曲ずつ歌を披露してくれました。いつもは控えめな嫂さんも、この時ばかりは自慢の喉を聞かせてくれました。
ようやく暗くなり始める頃、ぽつりぽつりと雨が降りだしてきました。明日はみんなで同郷にある旦麻(ダンマ)尼寺へ行く予定なので天気が気がかりです。雨は結局一晩中降り続き、お酒の飲みすぎか踊りすぎか、わたしもその夜はなかなか寝つけませんでした。
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