開校四年目を迎えて

―子どもたちの成長を追って―

1999年6月8日〜11日訪問報告



はじめに


   青海省の東の外れ、甘粛省に接する山間の小さな村を訪れたのは1995年の夏のことでした。北京に住むチベット族の友人の里帰りに同行させてもらったのです。たった一泊の滞在でしたが、子どもたちのつぶらな瞳にすっかり魅了され、以来この村の子どもたちとなんらかの絆を保っていきたいものだと思うようになりました。

   当時はまだこの村には学校がありませんでした。余裕のある家の子は隣村の学校まで歩いて通っていたのです。学校に通うより家の手伝いでもしてくれたほうがいい。正直なところそれが生活にゆとりのない親たちの考えであったようです。
   しかもこの村はチベット族の村です。中国の教育を受けることが果して彼らにプラスになるのでしょうか? 中国とチベット、そこには単なる民族問題以上のデリケートな部分があるということをなまじ知っていたので、どう関わるべきかいま一つ躊躇するものがありました。
   一生この村でヤクや羊を追って生きるのもその子の人生かもしれません。それはそれで尊いことでしょう。でも教育を受けることでひょっとして違う人生を自分で切り開いていくことができるかもしれません。つまりこれは一つのチャンスなのです。逆にそれが裏目に出る可能性もあるでしょうが、しかしチャンスはないよりあったほうがよいのではないでしょうか?

   この考えを友人に話したところ彼はとても喜んでくれました。こうして村の教育への小さな支援を始めることになりました。

   村を初めて訪問した翌年の1996年、ついに村にも小学校ができました。村の人たちが青海省政府にお願いして建った学校は張沙希望小学校と名づけられました。この年の九月、24名の新一年生がこの小さな村の小学校の門をくぐったのでした。



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これまでの歩み


第二回訪問(1996年8月11日〜14日)

『金城を超えて』参照

   村を訪れたわたしの耳に「小学校ができた!」という朗報が真っ先に跳び込んで来ました。さっそく友人のお兄さんたちに連れられて見に行きました。
   鉄の扉を明けるとちょっとした空地にレンガ造りの粗末な建物がぽつんと建っていました。やがて教室になる部屋には凸凹の黒板以外、机も椅子も何もなくがらんとしていました。ここが子どもたちの学舎になるのです。
   開校まであと一ヶ月という頃のことでした。(中国の学校は欧米と同じく九月から新学期が始まります。)

   北京へ戻ってから友人と相談し、ひとまず必要な机とベンチを揃えることにしました。なにしろあるのは建物だけという状態でしたから。学費の援助は一世帯子ども一人ということにしました。この時、学費援助を申し込んできた家庭が18軒、あとから6軒増えました。


第三回訪問(1997年6月9日〜12日)

『雪域の里を訪ねて』参照

   昨年九月に開校した小学校はチベット族のナムラギャ先生を迎えて、子どもたちはまずチベット語と算数を勉強することになりました。
   ナムラギャ先生は師範専門学校を卒業して教職に就かれました。先生の出身地はジャンシャル村が属する同じ郷内の村です。

   わたしが訪問した時、先生も子どもたちもチベット族の伝統的衣装を身につけて迎えてくれました。カタを手にした子どもたち、七歳が就学年齢ですが、なかにはすでに九歳になっている女の子二人も含まれています。

   新学期から新たに三人入学するので、全校で27名(男子13名、女子14名)になりました。

ナムラギャ先生と子どもたち


第四回訪問(1998年6月9日〜12日)

『タシデレ!子どもたち』参照

   この年にはいろいろな変化がありました。村の幹部によってチベット語ではなく漢語(中国語)を学ばせるという決定がなされたのです。そして五月には、なんとナムラギャ先生が崖から落ちて頭にケガを負い入院されたのです。先生にとっても子どもたちにとっても気の毒なことでしたが、代わりに隣村から漢族の少年先生が代講に来てくれました。

   十五歳の少年先生 弱冠十五歳の少年先生は別に師範学校に通っているわけでもないのですが、とても熱心に子どもたちに接していました。わたしはその姿を見ていて、チベット族と漢族の間にはほんとうは民族の垣根など存在しないのではないか?と感じたものです。

   この年の新学期から新たに入学する子は九人、最初に入った子の弟や妹たちもいます。全校で36名(男子19名、女子17名)です。
   教室はもういっぱいといった感じです。学校の要請で新たに机とベンチを5セット、ストーブを一台買いました。これで寒さ厳しい冬もお休みすることなく、暖かい教室で学ぶことができるようになりました。



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新たな出発

ー第五回訪問(1999年6月8日〜11日)―


   ジャンシャル村に入ったのは6月8日のこと、中国に入国してから四日目にあたります。
   今年は例年と違ってお天気に恵まれず、蘭州に到着するや雨に降られ、臨夏では上がったものの、村へ向う途中の峠を下ったところで霧に包まれ下車する場所さえ確認しかねるほどでした。幸い無事目的の場所で下りることができましたが、外は歯の根が合わないほどの寒さ。そんな悪天候にもかかわらず子どもたちは今年もわたしを迎えに来てくれました。

   相変らず小さい子どもたちに混ざって、中年の男の人が丁寧にわたしに挨拶されました。昨年の新学期から少年先生に代わって正式に着任された韋樹堅(ウェイ・シュジエン)先生です。漢族の方で少年先生と同じ隣村から毎日通ってこられるそうです。
   韋(ウェイ)先生は今年四十一歳、教師歴二十一年のベテラン先生です。話の最中にときどき舌を丸めてにっこりされるのは照れ隠しなのでしょうか? いかにも人の良さそうな感じの方です。ツェリンギャ兄さんの話では、村の人たちの評判もとてもよく、韋(ウェイ)先生が来られてから子どもたちがよく勉強するようになったとみな喜んでいるとのことでした。実際、今年初めに行われた郷の統一試験で村の小学校は第二位という輝かしい成績を収めました。


   翌日、さっそく学校を訪問することになりました。授業はだいたい午前10時頃から始まります。“だいたい”というのは時間に縛られて生活しているわたしたちにとってはへんな感じがするかもしれませんが、村の学校には時計があるわけでもチャイムが鳴るわけでもありません。それこそ先生の腕時計をたよりに“だいたい”の時間で授業が行われるのです。

   ところで10時始業なんてちょっと遅いとは思いませんか? 村の人たちはみなとても早起き、子どもたちといえども7時にはみなちゃんと起きています。それなら8時くらいに初めてもよさそうなものですが、実は子どもたちはひと仕事終えてから学校へ来るのです。
   このあたりの人々の生活は半農半牧。ですから牛や羊を放牧することは大切な日課です。子どもたちは朝早くに自分の家の家畜たちを山へ放牧しに行きます。そうして戻ってから朝食をとり、ようやく学校へと出かけるのです。

先生の教えに耳を傾ける 書き方の練習

Real Playerで子どもたちの声が聞けます!
授業のようす

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真剣そのもの!

   先生のお話では一時限は40分くらいで、まず最初の15分くらいで先生が黒板に書きながら指導し、あとの10〜15分間をみんなで練習し、残った時間で各自ノートに自習するという方法をとっているそうです。子どもが集中できる時間は長くてもせいぜい20分くらいだからとのことですが、このあたり、さすがベテラン先生ですね。

   ノートに書き終わったらそれを級長が集めて先生のところへ持っていきます。わからないことや質問のある子はみな先生のところへ直接聞きに来ます。というわけで、教室のドアから先生の部屋まで、質問しに来る子どもたちで行列ができてしまうほどです。先生の指導を受ける子どもたちの表情を見てください。みなとてもうれしそうでしょう? 先生、教えて!

   こうして午前中三時限の授業を終えると、各自家に戻って昼食をとり、午後二時から再び二時限の授業があります。学校が終わるのは三時半ごろ。子どもたちはそのまま朝放牧した家畜たちを連れ戻しに出かけ、ようやく家路に就くのです。


   小さな村の小学校も、新学期から七人の新入生を迎えて全校42名(男子23名、女子19名)の大所帯となります。(今年に入って男の子が一人退学しました。このことについてはあとでお話ししましょう。)

全校42名の生徒たち

   こうなるともう一つの教室には入りきれません。それに四年生になる子と新一年生をいっしょに学ばせるというのはどう考えても無理があります。そこで新学期からクラス分けをすることになりました。教室は一つしかないと思っていたのですが、幸い同じ広さのお部屋が隣りにもう一つありました。

   まず必要なのは机やベンチといった備品です。そうそう、冬になればストーブも必要になってきます。でもそれ以上に心配なのは、韋(ウェイ)先生お一人で二クラスの面倒をみきれるでしょうか? さすがの先生もこれには自信がないようでした。それに上級生は新学期からさらに科目が増えるのです。文具や備品ならなんとか援助できますが、人材は青海省の教育局に頼んで派遣してもらう他ないでしょう。

   上級生は新学期から、"漢語"と"算数"に加えて"自然"、"思想品徳"という科目が加わります。それぞれ日本の"理科"、"道徳"のようなものです。"思想品徳"の最初のページには毛沢東をはじめとする共産党の初代指導者が登場したりしてちょっと気になりますが、全体的には、社会生活を送るうえで人として守るべき“道”を教える内容のものです。カラーの挿絵入りで昔話を引用したりして、大人が読んでもけっこう楽しめます。

一年間に使う教科書


   今年度の学費支援世帯は一世帯。家は借家でお父さんは出稼ぎに出ているというとても貧しい家庭の子です。ロベン・タシという名前の男の子で、わたしがカメラを向けると泣きそうになってしまいました。ところが彼の弟グンガはまだ小さいのにものすごいきかん坊で暴れん坊なんですよ。同じ兄弟でこんなに性格が違うなんておもしろいですね。 ロベン・タシ、お母さんと弟と共に

   学費支援世帯はこれで合計27世帯となり、その他に教科書、ノート、鉛筆などの学用品代として子ども一人あたり35元、ストーブの石炭代として一冬分500元、さらにクラス分けのための備品代として2千元を手渡してきました。(1元は日本円で約15円くらいです。)


   長旅を経て村の入り口に到着した時、いっせいに走ってきてカタをわたしに掛けてくれる子どもたち。その姿はあいかわらず小さいのですが、帰国して写真を見ると確実に成長しているのがわかります。もちろん身体だけではなく精神も。

  
三年前のツェリン・ラモ(中央) あれから三年 チュパがよく似合う



三年前のダンジ・ツェダン(男の子) こんなに
大きくなりました
すっかり凛々しくなって

ジュケも来年はピカピカの一年生?

学校をバックに

ツェリンギャ兄さんの一番下の娘(こ)もこんなに大きくなりました。


   最後に退学した男の子のことを付け加えましょう。“退学”なんていうと聞こえが良くないですが、これは一つの“選択”という意味です。

   その子の名前はラモ・ドルジェといって四年前に学費援助を申し込んだ最初の18名の中の一人でした。両親の離婚で彼は父親のほうに引き取られ、出稼ぎに出ている父親に代わっておじいさんがずっと面倒をみていました。チベット文字を書かせると驚くほど上手で、毎日お経を手本に書き方の練習をしているというのがおじいさんの自慢の種でもありました。でも、子どもらしい明るさや快活さがまったくといっていいほどなく、わたしも彼の笑顔を見たことがありませんでした。村の人たちもこのことには皆心を痛めていたのです。
   そんな様子でしたから、今年の初め頃、ツェリンギャ兄さんから手紙でラモ・ドルジェが出家したと聞いたときには、「なんと不憫な……」と思ったものです。でもそんな懸念は村に着いた翌日にはふきとんでしまいました。

   その日の朝早く、まだ床をたたんでいないうちに、突然僧衣をまとった男の子が入ってきて満面の笑顔でこちらをじっと見つめています。はて、誰かしら?
   その小ラマがあのラモ・ドルジェだとわかったのはしばらくしてからのこと。彼のおじいさんが入ってこられてはじめて知ったのでした。

昨年までのラモ・ドルジェ 同じ子? 生まれ変わったラモ・ドルジェ

   ラモ・ドルジェはまるで生まれ変わったかのようでした。いいえ、本来のラモ・ドルジェに戻ったのです。彼は自分の道を見つけたのですから。



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これからの課題と問題

中国における義務教育の現状

   ここまでお読みいただいた方々の中にはきっと、中国は社会主義の国なのにどうして教育制度が整っていないのか?と不思議に思われる方もいらっしゃることでしょう。まして日本の義務教育制度の中で育ってきたわたしたちにとって、教材や備品を国が支給しないなどということは考えも及ばないことですが、中国における“義務教育”の歴史は意外にも浅いものなのです。

   1949年に新中国が成立してから、経済的な立ち遅れは政治的混乱によって一層深刻なものになったのは周知の如くです。とくに1966年から約十年間にわたって続いた文化大革命は中国の教育にも徹底的なダメージを与えました。
   80年代に入り改革開放による経済の活性化が進んでくると、ようやく人々の福利にも目が向けられるようになってきました。こうしてようやく1986年に義務教育法が制定され義務教育が制度化されたのです。

   “94年に制定された《九年制義務教育普及のための“五・四・三方針”》によれば、まず都市部と経済発展地域から始めて西暦2000年までには、貧困地域の中でも条件の整った地域まで85%義務教育を普及させるとし、残る15%のうち10%の地域は当面五・六年制初等教育、5%の地域は三・四年制初等教育の普及に努める”(《岩波現代中国語事典》1999年版より)としています。
   張沙希望小学校は、この五・六年制初等教育に含まれています。

(参考資料)中国の学校制度

授業の合間に

   中国にはまた、学校に行けない貧困家庭の子どもや貧困地域の子どもたちを支援する希望工程という国家プロジェクトがあります。国内の企業、団体、個人による寄付の他、海外からも多くの義捐金が寄せられ、貧困地域の児童に奨学金を出したり僻地に小学校を建設したりしています。このプロジェクトによって建てられた小学校は、希望小学校と呼ばれます。
   張沙希望小学校もそうした学校の一つです。ただこのプロジェクトもハードは提供してもソフト、即ち学校設備までは手が回らないというのが現状のようです。

   義務教育でも学費や教科書、教材費は無料ではありません。また当然のことながら経費は地域によってかなりの差があります。例えば張沙希望小学校では現在、年間の授業料が100元前後かかりますが、これが都市部へ行くと月に300〜400元(教材費を含んだ数字かもしれませんが、それでも十倍以上の差)といった具合です。
   また先生の待遇にも学歴によって大きな開きがあります。韋(ウェイ)先生の月給は450元ですが、彼より若いナムラギャ先生(現在、ご自分の村の小学校で教える)は師範専門学校卒業なので600元もらっています。しかし生徒を指導するのに必要な教材は自分たちで揃えなければなりません。
   たまたま北京で中央民族大学(少数民族の最高学府)チベット語学科の学生に会って話をする機会がありました。教師になる気などさらさらないとの彼の答えにはがっかりしたものですが、優秀な若者たちが郷里で教職に就きたがらない理由もよくわかります。しかしもう少し民族としての気概があってもいいのではないか……、いささかさびしい思いをしたのも確かです。

民族教育の問題

   中国はまた56の民族から成る多民族国家でもあります。92%を占める漢族の他に55の少数民族がそれぞれの言語、文化、風習をもって生活しています。毎年訪問しているジャンシャル村への道中でも、漢族とチベット族以外に回族、モンゴル系のトンシャン族とボウナン族、トルコ系のサラール族という少なくとも六つの民族に出会っているわけです。(周辺地図参照)
   というわけで学校も当然、その影響を受けます。学校には単一民族だけの民族学校と複数民族が混合して学んでいるものがあります。だいたい小学校くらいまでは村単位ですから単一民族で成り立ちますが、初等中学以上になると町の学校に通うようになるので民族混合になるケースが多いようです。

   ここで一番の問題となるのは、民族の言語教育ということです。ジャンシャル村はアムド・チベット族の村なので村人たちはみなアムド語(チベット語の方言)で日常生活をおくっています。中国語は聞いてなんとなくわかる程度で読み書きはほとんどできないという人が大部分です。では日常使っている自分たち民族の言葉についてはどうかといえば、ラマ僧以外ほとんどの人が読み書きできません。これでは民族の文化を次世代へ受け継ぐことができないでしょう。
   村の小学校でも初年度はチベット語を正規の科目として取り入れていたのですが、将来役に立たないという理由で漢語一本になってしまいました。韋(ウェイ)先生がおっしゃるには、自分としては民族の言葉を子どもたちに学ばせることは意義あることだと思うが、子どもたちの能力からみて同時に二言語を学ばせるには無理があるだろう、とのご意見でした。自分たち民族の言葉といっても読み書きについては外国語を学ぶようなものです。たしかに子どもたちにとっては相当の負担になることはまちがいありません。幸いジャンシャル村が属している郷にチベット族の初等中学があり、そこで正規科目として学べるということでした。

   最後に、中国人権研究会によって最近発表されたチベットの人権保障に関する報告書の中にチベット語教育についての一文がありますので、ご参考までに引用したいと思います。

  チベット民族は民族の言語を用い発展させる自由において適切な保護を受けている。チベット語とその文字はチベット全域で通用する言語であり文字である。
   1987年自治区人民代表大会は《チベット自治区におけるチベット語及び文字の使用と発展に関する規定(試行)》を可決し、チベット自治区においてはチベット語と漢語いずれも主要言語とするが、チベット語を主とするという原則を明確に定めている。人民大会で可決された決議、法規、人民政府が通達する正式な公文書、布告はいずれもチベット語、漢語の二言語を用いている。各クラスの人民裁判所と検察院は法に基づいて、公民がその民族の言語、文字を用いて訴訟を行う権利、及びチベット族に対しては訴訟に関わる者がチベット語を用いて案件を検察、審理し、チベット語を用いて法律文書を通達することを保障している。
   ニュース、放送、テレビはいずれもチベット語と漢語を併用している。自治区で編集出版した図書の大多数はチベット文字を用いたものである。自治区での労働者、幹部、学生募集は異なる言語を使用する者に対し平等で、チベット語を使用するものを優先的に扱っている。ラサ及びその他の地域では、県の一級クラスの学校においてチベット語と漢語の二言語を用いて授業が行われ、県以下の学校はみなチベット語を用いて授業を行っている。各級各種の学校のチベット語クラスはどこでも主要学科となっている。


《人民日報》1999年7月17日付
“チベットにおける人権保障の歴史的進展”より

   この文章はあくまでもチベット自治区について書かれたものですが、他のチベット族居住区もこれにほぼ準じるものと考えてよいと思います。ここで最も重要なことは“チベット民族は民族の言語を用い発展させる自由において適切な保護を受けている”ということであって、それはこのことについて中国政府が積極的に支援するということではなく、あくまでもチベット民族自身に委ねられているということなのです。


   民族の将来はまさに子どもたち一人一人の双肩にかかっているということでしょう。張沙希望小学校で学んだ子が一人でも先生になって母校に帰ってきてくれたら……、そんな期待を抱きながら今年も村を後にしたのでした。



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